夢想一途バックナンバー

第4回 わがドライブ考

(3)車との出逢い

鹿児島で三年間の高校生活を送ったあと、私は大学に進学するため上京した。学費、生活費のすべてを自力で捻出せねばならぬ状況だったため、通学のかたわら、いろいろな種類のアルバイトを体験し、様々な人々と出逢いもしたが、それらのことすべてをふくめて、私には、東京での生活そのものがひとつの旅であるように思われた。実際、田舎から出てきた身には、なにもかもが珍しかった。いまと違って、当時はお金があったとしても海外旅行をすることなど容易には許されなかった。まして、その日暮らしをしながら学ぶ身に費用のかかる大旅行など想いも及ばぬことであった。だから、身近なところに旅を見いだせるだけでも幸せと思わなければならなかった。

それでも、自分なりのささやかな旅だけは生涯続けていこうと、かたく心に誓っていた。だから、近隣の山に登ったり、磯辺を散策したり、裏通りをぶらついたり、方角をきめて歩けるところまで一日か二日歩き続けてみたりということなどはよくやった。ヒッチハイクも試みた。ずっとのちのことになるが、歩き癖が昂じ、ひとりで日本橋から東海道を名古屋までを踏破するという体験も積んだ。

――なにも冒険旅行やお金をかけた大旅行だけが旅行ではない。裏山や路地裏の探索みたいな小さな旅でも、自分の目と心とがそこに果てしなく広がる世界を見いだし、そのなかに命の鼓動を托し委ねていけるというなら、それはそれで素晴らしい旅である。もともと旅とは心の目と心の足でするものなのだ――痩我慢に近いところも幾分なくはなかったが、いつも私は自分にそう言い聞かせつづけてきた。そして、そんな気持ちはいまもほとんど変わっていない。

東京で学生生活を送りはじめてしばらくしたころ、ある先輩が、「運転免許を取ると配達のアルバイトができていいぞ。車の陸送のアルバイトなんかもあって、いいバイト料がもらえるうえに、遠くの知らないところまでただで行けていうことないぞ」と教えてくれた。そりゃなんともいい話だとは思ったが、そもそも免許を取るお金がない。

ところが、渡りに船とでもいうか、願ってもないチャンスが転がりこんできた。当時、私は、京浜急行大森町駅近くの材木屋の二階にある古い四畳半のアパートで暮らしていたが、すぐ隣の別棟にある2階の部屋には、この材木屋の奥さんの甥で、私とおなじ年ごろの学生が住んでいた。たまたま、私は、大家でもあるこの材木屋さんの依頼をうけ、そのお宅の男の子の勉強を見てやっていたこともあって、この学生とは懇意になっていた。その彼が、伯母さんの車を借りて運転の練習をし免許を取ろうと思うから一緒にやらないか、と誘ってくれたのである。

その頃は、いまと違って、自動車教習所に通わなくても、警視庁の運転免許試験場で直に筆記試験と実技試験を受けて免許を取ることが可能だった。実技試験はむろん相当に厳しかったものの、この免許取得法にはお金がほとんどかからないという最大の利点があった。ただ、問題なのは、どこでどうやって実技試験をパスできるだけの運転技術を身につけるかということだった。筆記試験のほうは、1・2冊問題集を買ってきてそれらを丹念にやりさえすれば、容易にパスできることはわかっていたが、実技のほうはそうはいかない。なにせ、まだ自家用の自動車そのものが珍しく、なにかの機会に車に乗せてもらっただけでも妙に感動を覚えた時代のことである。かなり豊かな家庭にとってさえも、車をもつことなどは、まだ「夢のまた夢」であった。

いまはすっかり開発が進み近代的なビルが立ち並んで、その面影はどこにも見あたらなくなってしまったが、私が大森町にいた頃は、品川から大森沖にかけての一帯で広大な埋め立て地を造成中だった。夜ともなると、都会の喧騒などうそのような不気味な闇と静寂がその埋め立て地を支配していたものだが、我々は、人情家の材木屋の奥さんの協力を得て、毎晩遅くそこに車を持ち込み、運転の猛練習に励んだのだった。悲鳴をあげ、呻き声を発しながら未熟な運転に耐えぬいてくれたあのときのトヨタコロナには、ひたすら感謝するばかりである。

すこし運転がうまくなると、次は車持ち込み可能な貸しコースにでかけて、S字カーブやクランク、車庫入れ、坂道発進などの練習を積んだ。そして、筆記試験を受け、それに合格してから仮免許を取り、おそるおそる車の少ない夜の路上に出て実地運転の体験を重ねた。自分でいうのもなんだが、運動神経にはそれなりの自信があったし、勘も悪くなかったので、みるみる運転の腕は上達した。だが、警視庁のコースでの最終実技試験は大変に厳しいものであった。自動車教習所を経ずに直接受験した人のほとんどがそうであったように、1回目はものの見事に落とされた。

考えてみると、どこかで無免許運転をして練習を積まないかぎり、免許の無いものが一定レベルの運転技術を身につけられるわけがない。お灸をすえる意味でも、それは当然のなりゆきだったのかもしれない。もう時効だから話していいだろうが、我々の未熟な運転技術の向上のため、再三再四、交通法規違反すれすれのことをやって便宜をはかってくださった材木屋の奥さんの弟君、すなわち、相棒の学生の伯父さんは、当時、東京府中の警視庁運転免許試験場長の要職にあられたというおまけまでついていた。

幸い、2回目の実技試験ではなんとか合格点を取ることができ、夢にまで見た運転免許証を手にすることができた。自分で車など持てるわけがないから、免許証を取ったからといって、そうそう車に乗れるわけではなかったが、ともかくも、こうして私は車とはじめて出逢ったのだった。

貧乏ではあったが、学生時代以降、ずいぶんとあちこちの山に登った。極力安上がりになるようにあれこれと工夫をして、ほうぼうに旅に出た。漂泊の思いいまだやまずといえば大袈裟かもしれないが、根無し草となりはてた私にとって、それは何ものにもまして心やすらぐ空間であり、もっとも充実した世界でもあった。幼い頃に身につけた、どんな環境や状況のもとでも眠れ、どんな淋しいところでも平気で、どんな粗食にも耐えられるという習慣は、そのごの旅にとって最大の武器となった。

だが、ほとんどは、鉄道と乗り合いバスそして徒歩による旅で、現実に自分で車を運転して旅をする機会はそうそうはなかった。車と出逢い、その機能性の素晴らしさには感嘆はしたものの、ハンドルを思いのままに操作してひとり遠くまで旅に出かけるなどということは、そのときの私にはまだまだ考えられないことであった。

それでも、たまには、大家の材木屋一家に誘われて箱根や伊豆、富士五湖方面などへドライブに出かけた。むろん、そんな折りには、腕が鈍らないように自ら進んでハンドルを握った。そんなふうにして想像以上に深い感動や大きな開放感を与えてくれるドライブ体験を積むうちに、いつしか私は、車というものが旅の世界にもたらすであろう影響について、ある種の予感を覚えるようになった。

もし自分の車で自由に遠出ができるような日がくれば、もっぱら鉄道とバスと徒歩のみに頼ってきた私の旅のスタイル、旅についての考え方、旅先でのものの見方などは一変してしまうに違いない――漠然とではあるが、すでにその時、私は、確信にも似たそんな思いにかられてはじめていたのである。

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