ある奇人の生涯

129. ミサさんと会う

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

実際にミサさんから電話をもらったのは、それから半年ほどが経った十一月のことであった。わざわざ私の住む府中まで出向いてくださるというので、京王線の駅で待ち合わせ、当時私の行きつけだったアンティークな喫茶店に入ってゆっくりと歓談することにした。ミサさんはこの時すでに八十四歳になっておられたのだが、グリーンのウールのコートの着こなしぶりなどは見事このうえないものであった。冷たい秋の風を颯爽と切り分けながら歩くその姿からみるかぎりは、その年齢はどう見ても六十歳代くらいにしか感じられなかった。背筋もしゃんとのびていて、その全身からは、さまざまな苦境を自らの強靭な意志力で乗り切り、ついには常人の及ばぬある種の達観の域に至り得た者のみに独特な気品とでも言うべきものが漂い出ていた。

落ちついた雰囲気のその喫茶店はミサさんにもすっかり気に入ってもらえたようで、コーヒーや紅茶を飲みながら私たちの話は弾みに弾んだ。ミサさんの私に対する話ぶりはユーモアとウイットには富んでいたものの実に鄭重そのもので、ミサさんが石田翁と話を交わしている時のあの遠慮のないやりとりとはまるで異なる趣があった。ミサさんの私に対する直接の用件は、一種の自分史執筆についての相談だった。石田翁に劣らず波瀾万丈の人生を送ってきたミサさんも、以前から自らの足跡をなんとか記録にして残しておきたいと考えてきていたのだそうで、その対処法についての具体的な意見を聞かせてほしいということだった。

以前にあるライターに話を持ちかけたところ、その相手がずいぶんと関心を抱いてくれたので、それ以降すこしづつ取材を受けたり情報を提供したりしてきているのだが、現実にはいっこうに埒があかないでいたらしい。そんな時、たまたま私が石田翁の伝記のようなものを書く予定になっているという話を耳にしたので、今後どのように対応したらよいものか率直な意見を求めにやってきたというのが、その相談の内容だった。

できるものなら私自身がその仕事を引き受けてあげたいところではあったが、まだ石田翁の伝記の執筆にさえも着手していない段階だったし、他にもさまざまな手のかかる仕事を背負い込んでもいたので、ミサさんの伝記執筆のお手伝いにまで関わることのできるような状況ではなかった。そこで、ともかくテープに過去の出来事にまつわる想い出などの要旨を録音したり、それらについての簡潔な補足メモか手記のようなものを年代順に残しておかれるようにとのアドバイスをした。また、第三者があとになって見てもわかるような写真その他の付属資料等の整理法や保存法についても、私なりの考えを述べさせてもらった。そして、以前に話を持ちかけたライターの方にあらためて相談なさる場合の対応の仕方になどついても、いささか僭越だとは思いながら、率直な私の意見をお伝えした。

ミサさんの話を一通り伺い終えたあとで、今度は私のほうがいろいろとミサさんに問いかける番になった。この際だからへんな遠慮などするのはやめようと心を固め、上海時代のこと、イギリス時代のこと、ご主人のジョン・ネダーマンさんとの日本における生活のこと、ミサさんの人生におけるさまざまな出逢いや別れなどについて率直なところを尋ねてみることにした。幸いなことに、ミサさんは私のそんな問いかけにすこしも嫌な顔など見せず、遠い日のさまざまな想い出を感慨深かそうに語ってくれた。そして、その貴重な体験談や回想譚に私のほうも時の経つのを忘れて興味津々聞き入ったのだった。

「上海で初めて出逢った頃のタッツアンはね、ダンディで、知的で、そしてハンサムで、とっても素敵だったんですよ……。まあ、ちょっとナルシシストの一面もありましたけれどもね。とにかく、当時あまりファッションセンスのよくなかった日本人の中にあって、そのセンスのよさは抜群でしたし、ユーモアやウイットの切れ味も日本人離れしていましたよね」
私に対するミサさんの言葉遣いは相変わらず丁寧そのもので、石田翁がそれを耳にでもしたら呆れかえるのではないかとさえ思われた。

「石田さんも、上海時代のミサさんはこんな美人がいるのかって誰もが羨むくらい綺麗で魅力的だったっておっしゃっておられましたよ」
「でも、それがいまではただの婆さんだ!……とかなんとか言ってるんでしょ?、あのタッツアンのことですからね……。でもまあ、いまはあちらも十分にただの爺さんになってしまいましたけれどね」

過日の石田翁のミサさんに対する口の悪い言葉を想い起したりながら、内心ではミサさんの推理を図星とも感じはしたが、そんなことはおくびにも出さずに私は続けた。
「いや、そんなことなんかありませんよ。それに、私がお見受けするかぎりでもミサさんはまだ六十前後の方のようにしか思われませんし、なんとも言い難い気品のようなものをおそなえですから、お世辞抜きで圧倒されてしまう感じですよ。ですから、ミサさんのお若い頃の素敵なお姿も十分に想像がつきますよ」
「私なんかたいした美人じゃなかったんですよ。私には二人の妹がいたんですが、あの二人は私なんかくらべものにならないほどの美人でした。第一私は子供の頃からずいぶんと男勝りで、両親などからは口癖のように、おまえは器量が悪いって言われてましたよ」
「そんな……、とても信じられませんねえ。以前に石田さんのお宅で上海時代のミサさんの写真を拝見したことがあるんですが、美人女優のブロマイド写真顔負けでしたよ」

「それはまあ、あなたの買かぶりに過ぎないんですけどね、でもまあ、あの上海時代はタッツアンも私も日々命懸けで生きてはいましたからね。その意味ではほどよい緊張が全身に漂い出てはいたことでしょうから、お互い写真うつりもよかったのかもしれませんね」
「あの時代、若い女性の身で単身国外に飛び出して、しかも国際都市上海で欧米人と一緒に、また時によっては彼らと激しく渡り合いながら仕事をなさっていたなんて凄いことですよね!」
「まあ、若さゆえの無謀さと言いますか、とにかく無我夢中だったんでしょうね。お蔭で、最後には、日本の重要情報を欧米人に流しているスパイだなどというとんでもない容疑をかけられましてね。そのために、勤務していたホテルに押しかけてきた憲兵隊員によって強制的に拘束されかけ、文字通り命懸けで抵抗したりしたこともありましたわ。ほんとうにあの頃は日々死ぬ覚悟をしながら生きていましたわよ……」

「そう言えば、石田さんも、上海で経営していたランゲージスクールを憲兵隊によって閉鎖するように命じられたとかおっしゃってましたね」
「タッツアンが上海で経営していたランゲージスクールはね、なかなか洒落たところで、ずいぶんと繁盛していたんですよ。最盛期には生徒は五百人くらいがいたでしょうか……、それも大人から子供までいろいろな年代層がいましたね。でも、生徒の多くが欧米人や中国人だったので、やはりスパイの容疑をかけられてしまったんですよね。戦争が激化するにつれて、外国語を使って異国人、とくに米英人とコミュニケートする日本人はみんなスパイだということにされてしまっていましたからね」

「でも、当時の上海って、摩天楼が聳え立つアジア随一の国際都市だったんですよね。その上海で、石田さんとミサさんとは運命に導かれて出逢うことになった。そしてなんともドラマティックな展開に……」
「そしてまあ、いろいろありまして、気がつくといつのまにかずいぶんと歳をとって、いまここにこうして坐っているっていうわけですね」
「はははは……、それも、ちっともドラマティックなんかではない私なんかを相手になさって!」

そんな調子で始まった私たちの会話はその後も延々と続き、話題のほうも上海時代の出来事から終戦直後の東京の想い出、さらにはイギリスでのさまざまな出来事へと移り飛んだ。そして、それら一連の対話を通して私は石田翁の語ってくれた上海時代以降の人生遍歴のさまざまな裏をとることができただけでなく、内に秘められた老翁の新たな側面や意外な人物像などを発見したりすることもできた。またミサさんはご主人のジョン・ネダーマンさんのことについてもすこしばかり触れ、とても穏やかな人物で、ちょっとふざけた言い方をすれば、いわゆる「人畜無害」な存在だと笑いながら語ってくれた。そして、夫のジョンさんもきっと歓迎してくれることだろうから、世田谷の自宅のほうも是非一度遊びにきてほしい、とも勧めらた。

さらにまた、フランスの地中海沿いの保養地にも別荘を保有しており、そこだととても快適に日々を過ごすことができるから、気が向いたら遠慮なくそちらのほうにも足を運んでもらいたいとも誘われた。現実にフランスの保養地まで出かけるとなると、貧乏フリーランスの身にとっては旅費を捻出するだけでも大変なことなので、生返事をしながらミサさんのそんな話を伺ってはいたのだが、真心のこもったそのご好意のほどだけはほんとうに有り難いことだと思うのだった。

話が終りかけたところで、世田谷のお宅のほうにはあらためてお伺いしたいとの意向をお伝えすると、ミサさんは大変に喜んでくださった。店を出ると京王線の駅の改札口までお見送りしたが、ミサさんは別れ際に、以前に自分が執筆したものだと言いながら、雑誌かなにかに掲載されたものらしい短いコラムかエッセイのコピーを二、三枚手渡してくださった。それはイギリスのクリスマス事情などについて簡単に述べたもので、なかなか興味深い文章であった。

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