ある奇人の生涯

126. 石田翁は人生のアーティスト

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

美術や演劇が生来大好きな石田翁は、晩年になってからも、旧知の美術家や演劇家らの関わる美術展や演劇会などが開催されると、会場が都内であっても労を厭わず上京した。そして、その会場に集まってくるさまざまな人々との交流を心から楽しんだものだった。そんな折などにはとくに老翁と親しい者たちがあちこちから集まり、翁を囲んでちょっとしたパーティを催すこともすくなくなかった。またそうでなくても、会場近くの喫茶店やレストランに立寄って四方山話に花を咲かせるのはいつもながらのことだった。

あらかじめ歓迎パーティが催されるとわかっている場合など、翁はスーツを着用して上京することもすくなくなかったが、高齢の日本人でこれほどまでに見事にスーツを着こなす人がいるのかと思わず目を見張るほどにその姿は凛々しかった。ひとつには翁が一七六センチという長身だったということもあるが、それよりも、上海時代やイギリス時代を通して自然と身につけた抜群のファッションセンスによるところが大きいようでもあった。

石田翁が上京した折などには、ネダーマン・ミサさんもよく姿を見せた。翁とミサさんが二人だけで話す時は日本語だったが、東京近辺にも数多く住んでいた欧米人の知人や友人がその会話に加わると、たちまち二人の使う言葉は日本人離れした流暢な英語やフランス語に変った。英語やフランス語の会話に変わっても二人のジョークやウイットの切れ味は衰えを見せないばかりか、日本語で話していた時よりもむしろその鋭さが増す感じでさえあった。当然二人はスラングなどにも深く通じていて、若いアメリカ人などがイギリスのスラングの意味を真顔で彼らに質問したりする光景などもよく見かけられたものだった。

一九九五年に一月に谷内庸夫が「Germination(発芽)」と題する紙彫刻展を東京の谷島ギャラリーで開いた時も当然石田翁は上京し、人々の意表を突くような谷内の力作の数々をこころゆくまで眺め楽しんだ。この紙彫刻展取材のために会場を訪れたジャパンタイムズのロバート・カメロン記者は、展示作品を鑑賞しながら谷内や石田らと歓談し、同紙の芸術欄に谷内作品の魅力について紹介記事を書くためなにかと構想を練った。もちろん、同席していた石田は、谷内が内なる思いを述べる時、あれこれと言葉を補足したりもした。

そして、その翌々日のジャパンタイムズの日曜芸術欄には「In the playground of imagination 」と題する作品の写真入りの記事が登場し、谷内の紙彫刻展のことがロバート記者の率直な感想などをも交えて大々的に報じられた。我がことのように嬉しく思ったからなのであろう、老翁はその時のジャパンタイムズの英文記事を切り抜き、その文章をわざわざ和訳して残したりもした。その折の翁自筆の手書き翻訳文草稿を読むと、谷内が紙彫刻にかける深い思いやロバート・カメロン記者がその作品群から受けた強い印象ばかりでなく、石田翁自身の美術観までもが行間から立ち昇り伝わってくるような感じがする。

ジャパン・タイムズ 美術欄 1995,1,8 日曜日
「想像の遊び場で」 ロバート・カメロン(スタッフ記者)
東京在住の美術家谷内庸夫が紙を手にして何かを造り始めると、その作品を通して必ず一種独特な世界が生まれ出てくる。紙を切り、曲げ、折り、穴をあける。それだけで不思議な魅力をもった奇妙な造形物が出来上がるのだ。「ある種の想像の遊び場を供してきた紙の持つ意義は最近非常に狭くなってきました。紙はもともと私たちの想像を拡大するうえで大きな力を持ってはいるのですが……」と谷内は残念そうに語る。

今月谷内は東京の谷島ギャラリーで「Germination(発芽)」というテーマのもとに、新作とも試作ともいえる作品の展示会を開いている。「紙は生きています。だから私はこの作品展をGerminationと呼ぶことにしました。この言葉は、私が紙に手を触れて何かを造ろうとする時に感じる独特の胸の踊るような感覚を表す響きを持っているからです」とも谷内は話す。

だが、出来上がった作品を見るかぎり、その言葉は少々的外れであるようにも思われた。彼のいう「紙」にはもう紙の感触がなくなっていたからである。たしかに彼は紙を切ったり、折ったり、ねじったりしている。しかし、出来上がったものは私の想像を超えた形に変容してしまっていた。普通の紙とは全然結びつかない奇妙な予想外の形に……。

しかもその作品の材質はもういわゆる「紙」ではなかった。様々な取り扱い方、折り方、切り方が紙を全然別個の材質へと変えてしまっていた。壁に掛けてあるアルファベット・レリーフは仔山羊のなめし革そのものだったし、他の作品も紙でありながら紙には見えなかった。プラスティックのように見えるものもあった。床の上の大きなインスタレーションなどは、その重量感と言い、堅固さと言い、優美なカーブと言い、何かの金属板で出来ているとしか思われなかった。

「紙の性質はそれをどう見るか、どう取り扱うかによって違ってきます。一枚の紙はカシミヤのように平たく柔らかで、折ったり、曲げたり、丸めたりすることが出来ます。だが同時にまた、一枚の紙で手を切り裂き傷つけることだってできるのです」と谷内はいう。さらにまた、「普通の紙は軽くて破れやすく、簡単に引き裂くことも出来ますが、扱い方次第では、鋼鉄のように強靭にもなります。おなじ紙を何度も使うことも出来ますし、条件さえよければ永久に保存することも出来ます。ただ、それでいて、僅かな水で、あるいは火で、その存在を無に帰してしまうこともできるのです」とも述べている。

谷内は作品を制作している間、自分が何を造っているのかあまり考えないことにしているという。素材の持っている感覚的な性質が、制作の過程で彼の心を吸収してしまうからなのだそうだ。イメージする作品の構図を事前にスケッチするようなことは絶対にしない。むしろ紙自体に命じ導かれるままに作品制作に取り組むという感じであるらしい。

彼はまた、「紙は私にどうすべきかを教えてくれます。作品制作中にも紙はどんどん変化していきます。私はその変化についていくだけなのです。異なる紙は異なるメッセージを私の心に吹き込んでくれます。もちろん、私のほうもそんな紙にメッセージを送ることはあります。そうやって、紙と私とで様々な対話を交すわけなのです」とも語っている。

日本の美術家はよく伝統的な和紙を用いるが、谷内はそんな手漉きの和紙は使わないという。彼が使うのはごく普通の機械製造による洋紙である。伝統的な和紙などにはそれ自体の強い性格があるからなのだそうだ。その点について、彼は、「私は何の特徴もない普通の紙を使います。床に置く『重量感のある作品』にはブリストルボード・タイプの厚紙を用います。機械用の大きなボルト使って重量感と滑らかな曲面との対照を強調するようなこともありますとよ」とも話している。

谷内が紙工芸に興味を抱くようになったきっかけは幼少期に覚えた折り紙と、神社などでよく見かける白い和紙製の御幣だったそうである。彼が紙彫刻を始めたのは十五年前のことで、当時彼はボストンでオフィスを開き、ブックデザイナー、グラフィックデザイナーとしていくつかの賞をとり、すでにかなりの成功を収めていた。一九八五年からは専ら芸術の仕事で活躍するようになり、ボストン、ニューヨーク、東京、さらには日本国内の各地で数多くの個展を開催しながら今日に至っている。

今後、彼はこの紙彫刻の芸術としての一面をいっそう発展させることを目指そうとしており、近々、「クリスマスがやって来る」というタイトルの、物語と紙工芸とを組み合わせた子供向きの本を出版する予定になっている。またこの春には国際的に活躍する建築家や芸術家らが共催するグループ展にも参加することが決まっている。将来的には紙の持つ可能性を追及することにすべてを賭けるつもりであるという。

谷内は「現在、私たちは毎日いろいろなところで紙と密接な関係を保ちながら生活しています。しかし、紙の使用法は昔とはずいぶんと違ってきていますし、その使用量も莫大なものになってきています。ただ、それにもかかわらず、紙を自己表現の手段、あるいは自己表現の媒体として使うチャンスはとても少なくなってしまっているのです」とも語っている。谷内庸夫の個展は一月十五日まで目黒の谷島ギャラリーで開催されている。

一部に補足や修正を加えはしたが、石田翁によるその記事の翻訳草稿はそのようなものであった。そして、その草稿の最後には「字が小さくて汚くて読みづらいと思う。僕の病気のせいにしておいてください」という短いメッセージが付け加えられていた。おそらく、谷内庸夫か、さもなくば記事の和訳を依頼した誰かに宛てたものだったのだろう。「僕の病気のせい」という言い回しの裏に老翁がどのような真意を込めていたのかは最早知る由もないが、老翁が無意識のうちにも自らの衰えを感じとっていたことだけは間違いない。

やはりこの前後の時期のものだろうと思われる「An Artist’s Monologue」というタイトルの独白文の英文草稿とその和文訳草稿も残っている。もちろん、どちらも石田翁の自筆になる草稿だ。またそれらの草稿の最後には、谷内の妻ミーシャが翁に送信した一枚の英文ファックスが添えられたままになっている。そのファックの内容は、ミーシャがその英文草稿の表現の数ヶ所について、彼女なりの短いコメントを述べたものである。そのコメントの終わりのところで、ミーシャは、「石田さんがフルネーム表記を望まないならば、その本のクレディット欄のところには『Tatsuo I.』とだけ表記したらどうでしょうか」と提案している。そのことから推測すると、この独白文の草稿はアメリカの何かの雑誌にでも掲載してもらうつもりで執筆したものなのだろう。その文章の出来栄え云々についての評価のほどは別として、その文章の端々からはこの時期の老翁の内的な思いが偲ばれてならなかった。

あるアーティストのモノローグ

彼の呟きは、そこらをブンブンと飛び回っている熊ん蜂のうるさい羽音と同じです。
でも用心してください。うっかりすると、ブスッと刺されますよ!

私は庭に出た。もうじき夜明けだ。空気がひんやりとして冷たかった。露が水仙の花から水滴となって落ちていた。刺激のない一晩だった。ボサノバの気だるさ。カサノバともお別れ。

もう愛も恋も要らない。生きることにも飽きた。ただ、だからといって暗闇だけを覗きこんでいるのでもない。もちろん幸せを望んでいるのでもない。私は生気も若さもなくなった自分の身体をじっと抱きしめた。

ホップ、ステップ、ジャンプではなく、ジャンプ、ステップ、ホップ――私の一生はずっとこうだった。恋をする前にキスし、いつの間にかそれが恋になっていた。朝は優しく穏やかに、夜は静寂(しじま)の中で激しく狂おしく。

楽観主義者たちは私のことを「あいつは良い奴だ」と言った。悲観主義者たちは「なんてあいつは嫌な奴だ」と言った。実際の私は理想を探し求めながらも現実を楽しんだ。

この世界で成功するには、昔から、「笑顔をつくって相手を無視する」か、「相手をうまく引っ掛けて自分の利益に結びつける」かの二つしかない。私は二つとも拒絶した。馬鹿正直だったのだ。

青い傘の下では青く(憂鬱に)なり、黄色い傘の下では黄色に(意気地なしに)なった。道徳よりも不道徳のほうが好きだった。貯めるよりも浪費するほうを楽しんだ。

そうして胸を躍らせ、得意満面になり、やがて疲れ切ってボロボロになった。若かったからだ。いや、若いと思い込んでいたからなのだ。ともかくも、勢いにまかせてやりたいことは全部やった。だが、それでいったい何を得たのいうのだ。

ゼロ!、そう、なんにも!

ガーデニングに精を出していた晩年の石田翁は、折々、育てている草花に向かって、「僕は何も生み出さないアーティストなのさ。アートに無縁なアーティストなのさ。でも、そんな変ったアーティストがこの世にいたっていいだろう?」などとさりげなく語りかけたりもしたものだった。もちろん、それは、そばにいる者の耳に入ることを承知したうえでの呟きだったのだろう。

その内省的な言葉には自嘲の響きも込められてはいたものの、傍らで聞く者の耳にはそれが単なる自嘲の独り言だとばかりは思われなかった。どこかに自負の響きが秘められているようにも感じられた。世に名を残すような芸術作品を残すという意味でのアーティストではなかったかもしれないが、老翁はその人生の軌跡そのものを作品とする類稀な「人生のアーティスト」であったのだといってよかったろう。

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