ある奇人の生涯

123. ジグソーパズルの完成を目指して

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

すでに述べたように、石田翁と出遭い、その破天荒な人生と人間模様とに大きな関心を抱いた私は、仕事の合間をみては折々石田邸を訪ねるようになった。初対面の折、老人は、自分の人生を系統だてて語る好みなどないと嘯いた。そして、どうしても自分の過去に興味があるというのなら、ジグソーパズルでも解くみたいに様々な話の断片を繋ぎ合わせ、勝手に全貌をつかめばよいと笑いながら私を煙に巻いてしまおうとした。翁に劣らずひねくれ者の私は、それならばとばかりに相手の挑戦を受けて立ち、その「人生模様ジグソーパズル」を解いてみようと思い立ったのだった。

石田翁にすれば、たぶん、こちらがそう出てくるだろうとあらかじめ計算したうえでの挑発だったのかもしれないが、こちらにもそれなりの狙いと覚悟とがあってのことだったから、その挑発に乗ってとことん相手に喰いつき、隠された人生模様を解明してやろうと意を固めていた。そんなこの身の執念深さや遠慮のなさにいささか辟易したのであろう、いつからともなく石田翁は私のことを「府中のドラキュラ」と呼ぶようになった。もちろん、私が東京府中市に住んでいたからのことだった。「ではその名に恥じぬように、これからも美女を次々と襲い、穂高を訪ねる時には必ず美女を同伴してきて献上するようにしますよ」とからかうと、翁は、「お下がりは結構!……こちらこそ有り余る美女を進呈したいくらいですからね」と応じながら悪戯っぽくニヤリと笑った。

穂高の石田邸を訪ねる時は一人のことも多かったが、男女を問わず、知人や友人、仕事仲間、教え子などを同行することもすくなくなかった。こちらのただならぬ決意を知って翁が覚悟を決め、差しで向い合う状況下にあっても、何から何まで洗いざらい話してくれるようになったのはかなりのちになってからのことで、付き合い始めた頃はなかなか一筋縄ではいかなかった。そのため、二人でさりげない会話をしているときにふと漏らす回顧譚を手掛かりにその背景に迫ったり、同伴した者たち相手に痛快な石田節が披露される際などに飛び出す体験談などをヒントにしたりしながら、私はすこしずつジグソーパズルの完成を目指したのだった。

「問うに落ちず、語るに落ちる」という昔からの諺にのっとって、慌てず焦らず攻めていこうというのがこちらの戦略だった。当然のことではあったが、チャーミングな若い女性や威勢のいい若者がいる時のほうが石田翁の話は弾んだ。石田翁がお気に入りだった十三日の金曜日をはじめとし、私が穂高の石田邸に出向く時には、いつも小型テープレコーダーとノートを持参し、これはと思う翁の経験談が聞き出せたりしそうになると、すぐさまメモをとったり録音テープを回したりしていたが、幸い翁がその行為を嫌がるようなことはまったくなかった。

石田翁の話を聞き出すために私がとったいまひとつの作戦は、穂高を訪ねるごとに翁を車に乗せて周辺の探訪に出かけ、車を降りてあちこちを歩いたり、名物料理の出る食堂やレストランに立寄ったり、のんびりと温泉につかったりしながら、老人の辿った人生航路の未知の部分にさりげなく光を当てることだった。初めて出遭った頃は石田翁は自分でも車を運転していたが、すこし遠目のところに出かけたり、道が狭くて険しい山岳地などを走ったりするとなると、私の車に便乗するほうが楽であるらしく、喜んで助手席に坐ったものだった。さらに、八十歳近くになった時のこと、翁は自らの車で衝突事故を起こして九死に一生を得、それ以降は車の運転を断念し、以降は私をはじめとする来訪者の車に乗って穂高周辺のあちこちに出向くようになった。もともと野次馬精神の塊のような人物だったから、車に乗って走り回ることにはまったく抵抗感はないようだった。

老舗の蕎麦屋に入ったり、名代のうどん屋に入ったり、安曇野一帯にいろいろと立ち並ぶ洒落た洋食店に立寄ったりして、それぞれのお店自慢の味覚に舌鼓を打ちながら昔話に水を向けると、石田翁は饒舌になっていろいろなエピソードなどを語ってくれたものだった。翁自身もほとんど忘れかけていたような面白い出来事を突然に想い出し、懐かしそうにその話をしてくれることもしばしばだった。また、石田翁は地元のさまざまなお店や事業所、美術館などの経営者とも広く親交があったから、翁の仲介で私自身もそういった人々と顔見知りになった。そして、のちにそんな人々のもとを一人で訪ねたりする折などには、翁がらみの興味深い話題などを耳にすることもできた。

石田翁はまたのんびりと温泉につかるのが大好きだった。健康維持のためもあってできるかぎり温泉に入るようにこころがけていた翁は、訪問者がやってくると一緒に温泉に行こうと誘いかけることがすくなくなかった。穂高町の近くにはさまざまな温泉があったから行先には少しも困らなかったが、石田翁が好んで出向いたのは中房温泉の露天風呂や穂高町に隣接する松川村の公営施設すずむし荘の露天風呂だった。ぬるめの露天風呂にゆっくりと時間をかけてはいり、身体の芯までをしっかりと温めるのが長年の習性になっていたから、必然的にその入浴は人一倍の長風呂になった。

かねがね私自身もぬる湯にのんびりとつかるのが好きだったが、翁の長々とした入浴ぶりはその比ではなかった。たまには途中で先に湯からあがりたいと思ったりすることもあったが、そんな時でも極力我慢して最後まで付き合ったものだった。ひとつには、晩年になると石田翁は次第に足元が定かではなくなってきていたので、万一足を滑らしたりして重大事故に至ったりすることがないように気を遣ってあげる必要などもあったからだった。

ただ、一緒に温泉に入っている時は昔話を聞く絶好のチャンスでもあった。のんびりと露天風呂につかったり湯船の縁に腰掛けながらだと、石田翁はいつも上機嫌になり、突然あれこれと昔のことを断片的に想い出し、面白可笑しくその話をしてくれたものだった。そんな時など、私はここぞとばかりに突っ込みを入れ、翁の脳細胞の奥を刺激して、忘却の淵に沈み込もうとしている記憶の古層を揺り動かし、その古い層に刻まれた破天荒な人生の記録の数々をもう一度甦らそうとやっきになった。実際、この戦略はずいぶんと功を奏し、期待していた以上に「人生模様ジグソーパズル」の解決に役立ったばかりでなく、石田翁自身も、こんな機会でもなければそんな出来事など二度と想い出すことはなかっただろうと喜んでくれたりしたものだった。

もちろん、石田は独りでも近くの温泉施設に入浴に出かけていた。自分で車を運転していた頃は、自宅から十五分くらいしか要しないすずむし荘の露天風呂に出向くのは半ば日課のようにさえなっていた。知らない者同士出遭い、よい気分になりながらしばしの間談笑することの多い露天風呂はドラキュラ石田の格好の餌場となった。松川村に住む新進陶芸家の平林昇もまた、そんな石田の餌食となった犠牲者の一人であった。平林はすずむし荘からすこしだけ北に行ったところにある広大な北アルプス東山麓の一角に住み、そこに窯を構えて作品の制作に励んでいた。だから家からすずむし荘までは車でほんの一走りだった。

ある美しい満月の夜のこと、平林はいつものようにすずむし荘に出向き露天風呂にはいろうとした。、露天風呂の片隅には黒いサングラスをかけた先客の老人がいて、折からの満月の放つ明るい月光を浴びながら一人悠然と湯船につかっているところだった。不思議なことに、湯気の立ち昇る水面の上に出ているその老人の上半身からは、ある種のオーラのようなものが漂い立ち昇っている感じであった。芸術家特有の勘のようなものを鋭く働かせた平林は、相手がただの老人ではなさそうだと直感した。そうこうするうちに、目と目が、いや、目とサングラスとが合ってしまったので、どちらからともなく近づいて声をかけ、あれこれと話し込むことになった。老人は自分が何者であるかをすぐには明かにはしなかったが、相手の吐く言葉の一語一語には常人離れしたユーモアや鋭い諷刺が込められていて、それを耳にする平林の心をいやがうえにも惹きつけた。

満月の夜にサングラスをかけて望月の輝きそのものや月下の光景を眺めることの意図について、老人はなにかと面白い持論を述べたりもした。また老人は、長い外国での生活や外洋航路の乗船体験談を通して得た月光についての独自の印象を交えたりしながら、月影というものには人間に狂気をもたらすような不気味なものが内在しているという西欧的な見解を披露した。それはまさにドラキュラの世界に見るような月光観とでもいうべきものであった。だが、ひとかどの芸術家として美観の問題には一家言のある平林のほうは、古来の日本的な自然観や生活観に立った月の美しさを主張してやまなかった。結局のところ、その問題に関しては二人の見解は対立し、議論はうまく噛み合わなかった。

しかしながら、露天風呂から上がったあとも、二人はすずむし荘のレストランで食事を共にし、なにやかやと芸術論まがいの話を繰り広げた。老人の内に秘めもつ不可思議な感性や物の見方は、全面的には賛同できないところがあるにしても、若い平林の心を十分に魅了してやまないものであった。その出遭いが契機となり、ほどなく平林は石田達夫と名乗るその老人の家を自ら訪ねるようになった。そして、たまたまその頃、二番目の子供が生まれたばかりだった平林は、あまりに子供の泣き声がひどくていたたまれなくなったり、仕事上の思考がうまくまとまらなかったりするような折には、自ら進んで石田邸へと足を運ぶようになっていった。

そんな時など石田はいつもながらの慣れた手つきでコーヒーや紅茶を入れてくれ、さりげなくアドバイスをしてくれたりしながら、平林の心を落ち着かせてくれたものだった。木立の生い茂る石田邸の裏庭には古い浴槽を利用した石田手造りの露天風呂があった。もちろん、用いられる湯は給湯器から引いた普通の温水ではあったが、たまにはその露天風呂に入れてもらい春秋の風情を楽しむというようなこともあったりした。

やがて、石田のほうも松川村の平林の家を訪ね、窯を見学したり彼の焼き締め作品の数々を見せてもらったりするようになった。まだ若くはあったが平林の作品群には、見る者の目を心底魅了する独特の造形感覚や、言葉に尽し難い深みと温かさとが感じられた。そんな平林の陶芸作品にすくなからず感銘するようになった石田は、それらを自分の友人や知人に紹介したりするようにもなった。老後を伊那谷で送っていた石田の旧友の加島祥造も平林の作品に魅了された一人で、実際に彼の作品を何点も購入してくれた。私が平林と懇意になったのも石田翁の紹介によるもので、翁が平林宅へと連れていってくれたのがそのきっかっけだった。

石田は、東京銀座のデパートなどで催された平林の個展に先立ち、お客に購入してもらう個々の作品に添えればどうだどうといって、「昇窯」と題する短い一文を書き贈ってくれた。それはいかにも石田らしい気の利いた文章で、「昇窯」というその題は、「平林昇の窯」という意味と、「陶磁器を焼くために用いる昇り窯」という意味とに懸けたものなのだった。

《昇 窯(のぼるがま)》
北アルプスの東斜面
朝日と抱青がいっぱいの場所に
穴窯を造りました
そこで八日間焼き締めたのが
この焼き物です
御愛用のほどを……

ちなみに述べておくと、「朝日」と「抱青」とはともに平林の幼い息子二人の名前をそのまま文中に取り込んだものだった。平林が私に直接明かしてくれたところによると、「朝日」という長男の名には「雄大な安曇野を照らす朝日のように輝かしく成長するように」という思いが、また、「抱青」という次男の名には、「安曇野の大自然にも負けない大きく豊かな心を抱きもった人間に成長するように」という思いが込められているのだとのことであった。それを知っていた石田は、その一文を書き記すにあたって「抱青」という名前を「緑豊かな自然」と同義に用いたのだった。

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