ある奇人の生涯

115. 松本英会話塾開設へ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

「レジャー時代」とか「青田買いの時代」とかいった当時の流行語が象徴しているように、日本経済は飛躍的な発展期を迎え、世相はいっそう目まぐるしい動きをみせるようになっていった。マスメディアの世界では悲喜交々のニュースが日々飛び交い、世の人々はそれを見聞きするごとに一喜一憂していたが、石田にはもうそんなことなどどうでもよかった。松本に移住してからの石田の体内時計は、きわめてゆっくりとしたリズムで時を刻むようになり、彼の体内時計の一秒は外界の時計の一時間にも相当するような感じになっていた。自らの人生観や行動理念を「動」から「静」へと転換しようと決意した彼にすれば、それはごく自然な成り行きなのだったが、世の中全体ががこれから繁栄の夢を追いかけようとしていた頃のことだけに、周囲の者にしてみればそんな彼がいささか風変わりな存在に思われてならないようだった。

むろん、石田は周囲の人々のそんな目などまったく気にしなくなった。そして、鈴木慎一から委託された英語教育部門の講師を担当する日時以外は、「晴耕雨読」という言葉の「耕」の字を「遊」に、「読」の字を「訳」に変えた「晴遊雨訳」の日々を送るようになっていった。好天の日には松本市内や安曇野一帯を散策してまわり、天候が思わしくないときには書斎にこもって加島祥造や大久保康雄から依頼された翻訳の仕事に専心した。まだ存命中だった母親はずっと以前から九州熊本で大きな事業をやっている妹夫婦のところへ身を寄せ、そこで面倒をみてもらうようになっていたので、妻子のいない彼は、当面自分一人だけが生きていくに必要な収入があれば十分だった。それに、もともと必要以上にお金を稼ぎ貯め込むことの嫌いな性分だったから、すこし余裕ができるとそれを有意義に使うことをのみを考えた。

松本に移住してから二年半ほどが経った一九六二年のこと、四十六歳の石田にちょっとした出来事が起こった。このことについて石田はのちのちまで周囲の誰にも多くを語ることはなかったし、また敢えてその委細を問い質すような者もいなかったので、その出来事の一部始終を詳しく聞き知る者もいないままに時は流れ去った。そして、結局、そのまま彼は他界してしまったのだった。ただ、他界する五年ほど前に穂高の石田邸でなにげなく交した会話の流れの中で、石田翁はたまたまその話についてすこしだけ口を開いてくれたことがあった。常々、他の出来事に関しては、たとえそれが自分にとって都合が悪いようなことであっても正直に話してくれたものだったので、その時の石田翁の自嘲まじりで口篭りがちな口調は、そのぶんとても心に残るものであった。

石田翁と会うときは何時もその人生ドラマのここぞというページをめくり、それについてあれこれと愚問珍問を発するのが常だった私は、話が一段落したあと軽く合の手を入れるくらいのつもりで話しかけた。べつだんそんなことを深く詮索する意図があったわけではなかった。

「石田さん、結局、石田さんは生涯独身で通されたわけですね?」

むろん、すぐに「そうだ」という返事が戻ってくることを想定したうえでの問いかけだった。ところが石田翁の反応はいささか意外なものなった。翁はちょっと困惑したような表情を浮かべながら、口篭るような調子で言った。

「それがねえ……、一度だけ結婚みたいなものをしたことがあったような気がするんですよ。気の迷いというかなんというか……松本にやって来て二、三年した頃でしたかねえ」
「気がするって?……いったいそれってどういうことなんですか?」

予想もしなかった石田の返答に戸惑いを覚えながら私はそう問い返した。

「いろいろと事情がありましたしね。それにまた、相手の女性から懇願されましたし、その思いや立場もよくわかったものですからね……、もちろん悪い感じの人ではなかったし……。それにまあ、こちらも、あまり深く世間の目などについては考えていなかったんですよね」
「いくらなんでも『気の迷い』はないでしょ!、でもまあ、石田さんはその頃はまだまだモテたんでしょし、仕事の能力も抜群だったわけすから……。それで、その相手の方は石田さんの英会話教室に通ってきていた女性だったとか……」
「うーん、そうですねえ、松本市在住の女性ではありました。とても善い人ではあったんですがね。周りの人たちも、先々のこともあるから結婚したほうがいいと進めてくれました。もちろん相手には私しか知らないそれ相応の事情などもありましてね」
「それで結婚なさったわけですね。でも、石田さんは悪い人だったから、結局別れてしまったとか?」

私はちょっと意地悪い調子で畳みかけた。すると石田翁は意外な言葉を返してきた。

「そうですねえ、善い人だったか悪い人だったはともかく、すぐに別れましたよ。その間我々二人には何事もなかったんですよ。まあ、どちらがどうとかいうのではなく、お互い事前に了解のうえで同居して、しばらくしたら別れようということになっていましたからね」
「僕にはなんだかよくわかりませんが、結婚から離婚までどのくらいの期間だったんでしょう?……もしかしたら、入籍はなさらなかったとか?」
「うーん、どうでしたかねえ。でも、いずれにしろ、一緒にいたのはほんのちょっとだけでした。人助けの意味もあったりしましてね。でもまあ、いまさらそんな話なんかどうでもよいことですから、その件についてはこのへんで終わりにしましょう。若気のいたりですよ……、もっとも、四十代半ばを過ぎての若気のいたりなどあったもんじゃないですけれどね。ははははは……」

石田翁は自嘲の笑みを湛えながらそう言葉を濁した。私もそれ以上その一件を詮索するのをやめたので、すぐに話は別の問題へと移っていった。

いま、手元に一通の除籍謄本のコピーがある。石田翁が他界してからほぼ二ヶ月後の平成十三年十月十二日に長野県松本市長によって発行された除籍謄本のコピーだが、それにより、ともかくも石田翁がその生涯において一度だけ結婚した事実のあることが確認できる。「長野県松本市大字浅間温泉八六一番地 石田達夫」と表示された謄本の本文冒頭には「婚姻の届出により昭和三十七年六月二十三日夫婦につき本戸籍編纂」の記載がある。そして、昭和五年上海四川路生まれで、昭和三十七年当時、松本市大字和田二四六二番地に本籍のあったある女性が石田と結婚し、婚姻届提出当日に彼の戸籍に入籍したことが記されている。そしてさらに、それからわずか二ヶ月後の同年八月九日に二人は協議離婚し、離婚届が受理されたことが明記されている。自分より十四歳ほど若い当時三十二歳の女性といったんは結婚し、たった二ヶ月後にはスピード離婚した根本的な原因、あるいはその裏事情についてはいまさら知るすべもない。ただ、「もしかしたら、入籍はなさらなかったとか?」という問いかけに、「うーん、どうでしたかねえ」とか、「人助けの意味もあったりしましてね」とかいって、半ばとぼけるように言葉を濁した石田翁の胸中には、なにかしらそれなりの複雑な思いがあったのであろう。

石田のそんな一時期の出来事はともかくとして、松本での生活はその後も全体としてきわめて平穏かつ順調なものであった。松本盆地をはじめとする安曇野一帯にも様々な友人知人ができ、そうでなくても彼の一風変った強烈な個性に共感したり、それを面白がったりする人々も増えた。担当している英会話教室での講師の仕事においても着実に成果を上げることができ、周囲の人々の寄せる信頼も日毎に大きくなっていった。信州大学の教官夫人らを主な対象とした成人向けの英会話の授業では、石田ならではのイギリスでの体験話などがふんだんに盛り込まれもするので、好評なことこのうえなかった。

そして、その評判が高まるとますます教えを請いに石田のもとを訪ねてくる人々が多くなった。しかも、子供のための英会話指導より、むしろ自分自身のための英会話指導を望む父母の声や、信州大学の学生をはじめとする地元の青年男女らからの指導要請の声が高まっていった。そのため、次第に鈴木慎一との間に考え方の違いが生じ、その溝はだんだんと広がり深まっていくことになった。もともと鈴木慎一の「鈴木メソッド」は幼児の英才育成ないしは幼児の能力開発を目指す教育システムで、大人や一定年齢以上の青少年を本来の対象としたものではなかった。しだがって、その基本方針を固守しようとするならば、あくまでも幼児や小学生が当該教育の対象となるべきであった。

ところが、いくら評判が高まってきたとはいえ、わざわざ英会話だけを学びに通ってくる幼児や小学生の数は多いとはいっても当時はそれなりの数に限られていたし、また、そのような幼い子供たちが通える時間帯にはおのずから制約があった。さらに、教える側の石田にすれば、幼少期の子供を教えるよりは学生や主婦、社会人らを教えるほうが面白味もありやり甲斐もあった。そのため、石田は指導要請の多い学生や成人男女を主な対象とする教室の拡大展開を望んだが、主宰者の鈴木のほうはあくまで自分の理念通りに幼児や小学生の英会話教育を優先すべきだ主張し、石田の考え方には賛同してくれなかった。鈴木慎一のように幼児教育や初等教育のみに情熱を抱いていたわけではなかった石田は、結局、鈴木のもとを去って、自ら英会話塾を開設運営することを決意するにいたった。

いったんそう決断すると、彼は直ちに行動に移った。鈴木慎一の教室のある場所からそう遠くない市内浅間温泉地区の一角に適当な広さの家を借り受けると、そこに新たな英会話塾「ESSM(English Speaking Society Matsumoto)」を開設した。そして、幼児から大人までの受講希望者を幅広く受け入れることにした。長年にわたる様々な仕事の経験を活かし、看板造りや教室の細々とした設え、さらには時間割の設定から各種テキストの作成までをすべて自分の手でおこなった。お蔭でしばらくは多忙をきわめ、「晴遊雨訳」の日々を送るどころの騒ぎではなくなってしまったが、信大教官夫人らをはじめとし、新たな英会話塾の開設を心待ちにし、何かと支援してくれている人々はすくなくなかったので、石田の心はそれなりに弾み高揚もしていた。

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