ある奇人の生涯

112. 新たな出逢いと奇妙な再会

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

東京でそんな日々を送りはじめてしばらくたった頃、石田は友人を介してたまたま映画狂を自認する人物と顔見知りになった。そして、二人で六本木界隈のとあるレストランに出かけ、冷やし中華ソバを食べながら映画談義に興じることになった。石田も子供の頃から映画が大好きで有名な作品はほとんど観てきていたし、国際都市の上海やロンドンに長年滞在している間にも、ちょっとでも話題になった新作の外国映画は漏らさず目にしてきていたので、ひとかどの映画評論家なみの知識や鑑賞眼はあるつもりだった。

ところが、相手の人物はそんな石田にもまさる文字通りの映画狂であり映画通であった。その名は淀川長治、のちに、独特の語り口と、映画解説番組の終わりに「さよなら、さよなら」と言いながら耳脇に添えた手先を上下に振り動かすユニークなポーズで人々を魅了することになるあの有名な映画評論家その人であった。淀川と石田とはその後も何度か一緒に食事をした。そんな折、たまたま、ジェームズ・ディーンが他界したというニュースが飛び込んできたので、しばらくしてから二人は連れだってジェームズ・ディーン主演の映画を観にでかけたりもした。

互いに想像していた以上にウマが合い、さまざまな映画の話題などを通してすっかり意気投合した二人は、やがて一緒に仕事をするようになっていった。それは淀川長治が主幹を務める雑誌「映画の友」の仕事で、淀川からぜひともと頼まれ、石田はそのなかのフランス映画部門の執筆や編集を担当することになったのだった。もともとフランス映画をずいぶんと観ており、フランス語やフランス文化にも通じていている彼には適任の仕事であった。当初、二人の関係は良好そのもので、「映画の友」の仕事のほうもすこぶる順調であった。

しかしながら、強烈な個性をもつ二人は取り上げる映画の評価や記事の執筆内容、編集方針などで次第に主張が噛み合わなくなり、「映画の友」誌そのものはせっかく多くの読者を獲得していきつつあったにもかかわらず、その対立は時と共に深まっていくばかりだった。そして、英雄相並び立たずの諺ではないが、最終的には、二人は喧嘩別れに近いかたちで決別することになった。大きな仕事というものは、有能な誰かが全体的なリード役を担い、同様に高い能力をもつ別の誰かがそれを巧みにサポートするのでなければうまくはいかない。

状況からして、当然、同誌の主幹である淀川長治が全体の統括者になり、石田がその有能な補佐役にならざるをえなかったのであったが、そううまくは事が運んでくれなかった。そうならざるをえない背景はあったにしても、自己の価値観や人生観に強いこだわりをもつのは、石田の長所でもありまた短所でもあった。それが長所としてはたらく場では実に有能な仕事振りを発揮したが、逆に短所としてはたらく場にあっては不協和音となって仕事の進行を阻害し、結局、自らがその場を飛び出さざるをえなくなるきらいがあった。

東京暮らしをしていたこの時期に、石田には思いがけない再会があった。しかもその再会はなんとも奇妙としかいいようのないかたちをとって起こったのだった。ある日、彼は映画を観ようと有楽町の映画館に出かけていった。当時の映画館においは、本番の映画が始まる前に、予告編のほか国内外のニュースフィルムを上映するのが常となっていた。当日はたまたま休日とあって、映画館はずいぶんと混雑していたが、幸い、入れ替え時にうまく発ち回ることができたので、なかほどのよい場所にあるシートに坐ることができた。そして、ほどなくブザー音とともに館内の照明が消え、すぐに白黒の国際ニュースフィルムの上映がはじまった。

スクリーンに映し出されるその国際ニュースをなにげなく眺めやっていると、イギリスでの原水爆実験反対運動の模様を伝える画像に切り換わった。一九五四年のビキニ環礁周辺で起こった第五福竜丸の死の灰被曝事件や世界各地を騒がせた放射能雨問題を契機として、国際的な反核運動が盛り上がりを見せはじめ、その流れを受けてイギリス国内でも原水爆反対運動が高まっているところだった。そして、その象徴的な存在として運動の中心にあったのが、当時「イギリスの良心」とも呼ばれていた哲学者バートランド・ラッセルだった。

英国首相をも務めたジョージ・ラッセル伯爵を祖父にもつこの大学者はウインストン・チャーチルと並ぶその時代の英国きっての有名人で、その言動は英国内ばかりでなく海外諸国の政治思想や社会思想にも多大の影響を及ぼしていた。石田が帰国した年の十二月に、ラッセルはBBC放送を通じて核兵器の全面禁止を訴えかけ、さらに翌一九五五年には共産主義国をも含む世界の著名科学者の署名を集め、それらをもとに原水爆廃棄運動の展開をはかったのだった。

石田自身は英国滞在中にバートランド・ラッセルと直接に対面したことはなかったが、もちろん、大々的な写真入りでその主張や動向が様々な雑誌や週刊誌上に掲載されているのを頻繁に目にしてもいたから、その高名のほどについては熟知していた。また、ラッセルはBBC放送に過去何度となく登場していたから、理路整然としてしかも感性豊かなその話振りを耳にする機会はすくなくなかった。

もともとはケンブリッジ大学で数理哲学の研究者としてスタートし、大著「プリンキピア・マテマティカ(数学原論)」に代表されるその深遠な理論を構築したラッセルは、第一次世界大戦中の良心に基づく反戦行動が原因となってケンブリッジ大学を追われるようにして去った。それ以降というもの、彼はどこにも所属することなく、真の意味でのフリーランスの哲学者として各種の執筆や社会運動に専念するようになっていった。そして、それとともに、もともとの専門だった数理哲学の研究を完全に離れ、その後半生においては各種社会問題をテーマにした社会科学全般の研究執筆と実践的な社会運動に献身するようになっていった。

ラッセルがノーベル文学賞を受賞し、英国民から大いなる祝福を受けたのは石田が渡英した翌年のことであったが、そのバートランド・ラッセル卿が大写しになった場面では、当然その左右に並ぶ人物らの姿も大きく画面上に映し出されることになった。なにげなくラッセルの右隣に並ぶ女性の姿を目にした石田は、次の瞬間、思わず身を乗り出すようにして叫んでいた。

「あつ、ミサだ!、ミサがいる!、なんであいつがあんなところに?」
石田の周囲の観客たちは、いったい何事かと一斉に彼のほうに視線を向けた。だが、そんなことなどお構いなしに、彼は呆気にとられたようにスクリーンのミサとおぼしき女性の姿にまじまじと見入った。時間的にはほんの一瞬のことではあったが、それはまぎれもなく人一倍の行動力をもつあのミサの姿にほかならなかった。どのような経緯でミサがそんなところに顔を出すことになったのか、その時の石田には皆目見当がつかなかった。彼は、あまりの偶然にただただ驚き呆れながら、上海で出逢って以来のミサとの不思議な縁のひとつひとつをあらためて振り返るばかりだった。そして、やはりこれは世に言う「腐れ縁」に違いないと思うのであった。

石田はこの時まだミサの夫のジョン・ネダーマンがどのような仕事をやっているかについて、具体的には何も知らないでいた。英国滞在中にネダーマンとは何度か会ったことがあり、その気心もそれなりには承知していたが、技師をやっていると聞いていただけで、どこでどんな種類の仕事の技師を担当しているかについては詮索する気もなかったし、よほどの必要性でもなければそのようなことをしないのが英国流の社会生活の仕方でもあった。

ただ、ミサがラッセルらとともに水爆実験反対運動に参画するに至ったのにはそれなりの背景があったのだった。実は、ミサの夫、ネダーマンは世界的に知られる米国ウエスティングハウス社に所属する有能な技術者であった。しかも、彼は、原子炉や原子力発電システムの研究開発、並びに原子力発電所の建設指導を専門とする技師であった。当然、ネダーマンは核エネルギーのもつ利点もその怖さも知り尽していたから、様々な危険をともなう核兵器の開発や周辺環境の破壊や汚染を伴う水爆実験には反対であった。

まして、自分の妻であるミサの母国日本は、世界唯一の原爆被爆国であり、水爆実験による世界最初の犠牲者久保山愛吉を出した国でもあった。だから、ネダーマンは妻のミサに常々水爆というものの怖さを話し聞かせたりもしていたのだった。石田はそんなことなどまったく知らずにいたのだが、ミサが一時期熱心に原水爆実験反対運動に奔走するようになったのはそんな背景があってのことだった。もちろん、夫のネダーマンも、原子力発電の技術者としての自分の立場に関わりなく、ミサのそんな行動を当然のこととして認めていた。

日本などにおいては、原子力開発に関わる者やその家族は、原爆や水爆の開発者や核実験の遂行者とみな同罪だと見なされがちだったから、そんな人間が反核運動に携わるなど自己矛盾だと批判などもされかねなかったことだろうが、その点イギリスは違っていた。しかも、ウエスティングハウス社の技師ネダーマンとミサとが結婚し夫婦生活を営むようになったことは、はからずも、それからずっとのちになって、ネダーマンが日本においてある重要な仕事を担う契機ともなったのだった。当然、石田とミサとは日本の地でまたもや再会することになるのだが、そんな運命の悪戯などなどその時の石田にはまったく想像もつかないことであった。どこか使命感に燃えたような活き活きとしたミサの姿をスクリーン上に見ながら、石田はいますぐにももう一度イギリスに戻りたい気分になったりもした。

帰国後一年余が経たあとで、石田はBBC日本語部に対し再度雇用してくれるようにという申請をおこなった。しかしながら、その願いが現実のものとなることはなかった。戦後日本から渡英したメンバーとしては、石田のあとに続いてBBC日本語部局員となった岩間達雄だけが例外的に一年間の帰国をはさんで十年の勤続が認められ、石田達夫がそれに続く五年余の長期勤務で、それ以降の渡英メンバーは長くても三年の勤務であった。

BBC海外部局の表向きの規則では、三年の勤務後に特別に延長勤務願いを申請し、それが受理されればさらには二年間の継続勤務が可能なことになっていた。そして五年の勤務が終わったあとは一時帰国し、一年以上が経てば再雇用の道が開かれることにはなっていたが、現実にはその規則の適用を受けたのは石田達夫と岩間達雄の二人だけだった。しかも結果的に石田は岩間の半分の期間しかBBC勤務がならなかったのではあったが、どんどんと人材を入れ替えながら常にBBC日本語部の刷新と充実をはかり、国際感覚をもつできるだけ多くの日本人アナウンサーや放送記者を育てるというのが当初のBBCの方針でもあったから、それはやむをえないことでもあった。

日本人としてのいまひとり例外的な長期勤務を果たしたのは、石田の先輩部局員で、幾度となく彼とも一緒に仕事をしたことのあるミセス・クラークこと伊藤愛子であった。戦前にイギリス人と結婚した彼女は、夫に従って渡英して英国籍を取得、第二次世界大戦末期に対日宣伝放送の役割をもかねて開局の運びとなったBBC日本語放送の初のアナウンサーに抜擢された。夫との離婚後もミセス・クラークを名乗り、十年ほどにわたってBBC日本語部に勤務するかたわら、ロンドン大学で日本文化関係の講師を務め、また、その美貌と才気のゆえにロンドン社交界の花形としても知られる存在ともなった。その彼女も、石田とほぼ前後する時期にBBCを辞めて日本へ帰国した。老いた両親の待つ母国へと戻り、再び日本国籍を取得した彼女は伊藤愛子という以前の名に戻り、かなりの好条件で「ジャパン・クォータリー」の仕事をするようになっていた。

伊藤は戦後になってロンドンに日本の新聞社の支局が開設されるまで、朝日新聞の通信員としての役割も果していた。そのため、ロンドン時代に知り合った朝日新聞の特派員らとの交流があり、彼らとの縁故やそれを通じての薦めなどによって「ジャパン・クォータリー」の仕事に就くことができたのだった。そんな彼女は、その仕事のかたわら、「我輩は猫である」、「夢十夜」、「琴のそら音」など、夏目漱石の文学作品の英訳を手がけ、いずれもが格調高い名訳として海外では高い評価を受けるようになっていた。才色兼備の伊藤愛子の面目躍如というところであったが、そんな伊藤と石田とは帰国後折をみては銀座界隈のカフェなどで会い、イギリス時代の想い出話に花を咲かせることもあった。ほどなく石田は、伊藤とは逆に、英米文学作品の邦訳に本格的に取り組むことになったのだが、彼女から受けた刺激などもその原動力のひとつとなったのは間違いなかった。

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