ある奇人の生涯

107. 近づいてきた離英の日

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

なにかと想い出深い出来事の多かったエリザベス女王の戴冠式の年も終わり、いよいよ1954年を迎えることになった。BBCのアナウンサー兼放送記者としての石田の任期はこの年の4月いっぱいで終わることになっていた。BBCの規則によりBBC海外部局員として勤務する外国人は一定期間が経過すると雇用を解かれ、いったん母国へと帰国するように義務づけられていたからである。通常その期間は2年から3年であったが、特別な場合にかぎっては、その理由を申請することによって最長5年までの雇用延長が認められることになっていた。雇用期間が終わりBBCを離れたあと再雇用をしてもらうには、いったん母国に戻って最低1年以上の生活を送り、そのあとあらためて雇用の申請をしなければならなかった。また、たとえそのようなプロセスを踏んだとしても、必ず再雇用してもらえるという保証はなかった。

あまり長期の滞在になると母国の情況に疎くなり、そのことが結果的に放送内容に好ましくない影響を与える可能性があることを考慮し、BBC本部はそのような対応策をとるようにしていたのだった。長年母国を離れて勤務したスタッフを最新の母国の事情に通じた新スタッフと入替えることによって、常に時代に即した放送内容の維持を図ろうというのがBBC当局の狙いでもあった。

1949年4月半ばに着任した石田は、その能力を買われ5年までの雇用延長が認められていたが、その任期もいよいよその年の4月いっぱいで切れるというわけだった。BBC日本語放送はずっとのちの1991年3月になって廃止されるのであるが、戦時中の1943年7月の開局以来ほぼ48年にわたるその歴史において、日本から派遣されたスタッフのうちで5年間またはそれ以上にわたって長期雇用されたのは、事実上、石田達夫と、彼のあとに続いて雇用された岩間達雄の2人だけであった。石田は5年余でBBC勤務を終えたが、岩間のほうはなか1年の帰国をはさんで日本人スタッフとして最長の通算10年に及ぶBBC勤務を果した。

1月3日には駐英日本大使公邸において英国在留邦人の新年会が催された。もちろん、松本俊一駐英大使夫妻の主催で、石田や岩間、藤倉らも皆その新年会に参加した。当時は、大使館関係者や大手銀行の支店関係者、報道特派員、長期旅行者らを含めても在留邦人はごく少数にすぎなかったから、いまの時代にはとても考えられないようなそんな催しなどをおこなうことも可能であった。そして、その新年会の様子は「英国在留邦人新年会風景」という番組となって放送されたりもした。

いよいよBBC日本語部での仕事にも区切りをつけなくてはならない時期が近づいてきたとあって、石田は、自らが担当する番組「ロンドン今日この頃」の取材と放送にも一段と力を入れるようになった。経済問題や金融問題などにはもともとあまり関心のなかった石田だったが、ニューヨークのウオール街と並ぶ世界金融の中心地シティ地区などにもあえて足をのばすように心がけたのもそのためだった。人間の心理とは不思議なもので、いざその地をあとにしなければならないとなると、それまでなんとなく敬遠しがちだったところをも、もう一度しっかり見ておこうという気持ちになってくるのだった。

シティの地区に最初に町を造ったのはケルト人たちで、紀元前5世紀頃のことだったという。そして紀元1世紀に入ってから、イギリスに進出してきた古代ローマ人たちがその地に本格的な城砦都市を築いた。そして時代とともにシティ地区を中心にして市街がどんどん発達し、やがて現在のようなロンドンの街々が形成されるようになっていった。だから、シティ、すなわち、「The City of London」はロンドン発祥の地なのであった。紀元11世紀のウィリアム征服王の時代以来、シティは王権から独立した自治区としてその存在を認められてきた。そのため近代にいたってからも特別行政区として名誉市長などがおかれており、国王がシティを訪問するときには伝統的な儀式がおこなわれるきまりになっていた。

地下鉄バンク駅のすぐそばでは7本の大通りが交差しており、そのうちの北東方向にのびる大通りの角には、英国経済の象徴、イングランド銀行が建っていた。荘重な造りのイングランド銀行は、コリント様式の建物で1694年に創立されたものだった。またそのすぐ隣には、1565年に創設されて以来、世界の商業取引の一大中心地として発展を遂げてきた王立証券取引所があって、7つの海を支配したかつての大英帝国の威光のほどを偲ばせた。そのほかにも、その一帯には、海運保険をはじめとする、ありとあらゆる賭けや保険業務で知られるロイズ社、さらにはその他諸々の国際金融機関の建物などがびしりと立ち並んでいた。経済や金融問題に疎い石田にはそんなシティ一帯のたたずまいを傍観しながら歩きまわるほかはなかったが、それでもなおシティというロンドン発祥の地の歴史的な重みをひしひしと肌に感じはするのだった。

金融街をめぐったあと、石田は久々にシティの西側にあるセントポール大聖堂へと足を運んだ。この寺院は西暦604年にサクソン人の司教によって建立され王国の中心寺院とされていたが、1087年に焼失した。そして、その後再建されて一時は中世ヨーロッパ最大の寺院と称されるまでに発展した。しかし、16世紀半ば過ぎに落雷が原因で再び主要部が焼失、その後も大改修や焼失部の再建がおこなわれたが、有名なロンドンの大火によってまたもや焼失の憂き目に遭った。高さ110メートルのドームをもつ現在の大聖堂は、1710にクリストファー・レンによって再建されたもので、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ規模を誇る壮麗な建物となったのだった。

石田は煉瓦造りの大きなドームを外から眺め上げたあと、寺院の中に入り、華麗このうえない装飾のほどこされた内陣の階段を一歩一歩踏みしめるようにしてのぼった。バルコニーへ出る途中の回廊は「ささやきの回廊」などとも呼ばれ、ごく小さな話し声やちょっとした物音でもそれがドーム全体に反響するので有名だった。石田はその回廊で「ロンドンよ、いよいよお別れの時がきた!」とでも叫んでみたい気分だったが、さすがにそれだけは憚らざるをえなかった。ドームの外側をぐるりと取り巻くバルコニーに出ると、ロンドンの市街を一望のもとにおさめることができた。彼は、バルコニーをひとめぐりしながら五年間にわたるロンドン暮らしの中で忘れ難い出来事に遭遇したあたりを次々に眺めやり、あらためて胸中深くにそれらの想い出を刻み込んでおこうとした。取材をも兼ねたこの日のシティ一帯の散策の印象は、「ロンドン今日この頃」の番組中で「シティ雑感」というかたちにまとめられ、日本に向けて放送されもした。

この年の4月にはロンドンで世界卓球選手権大会が開催された。当時日本は卓球をお家芸としていたこともあって、荻村伊智郎らを擁する日本チームは圧倒的な力をもって世界各国のチームを撃破、各種個人戦や団体戦で世界制覇を成し遂げた。日本の卓球チームが4月初めに渡英し、同月の22日に帰国するまでの間、一行の試合における活躍ぶりや英国での様子などが何度にもわたって放送された。なかでも、いくつかの試合の実況放送などは遠く離れた母国にあってBBC放送を聴く多くの卓球ファンを大いに熱狂させ、感動させもした。個人優勝を果した荻村伊智郎らの日本選手は、石田や岩間、藤倉らが担当する番組に何度も登場し、「世界卓球大会への抱負」とか「世界制覇のあとを顧みて」とかいったようなテーマで胸中のさまざまな思いを率直に述べ語ってくれた。敗戦後まだ8年半ほどしかたっていない頃の日本人にとって、それが胸のすくような快挙であったことはもちろんだった。そして、この世界卓球選手権がらみの取材と放送とが、石田達夫にとってBBC日本語部局における最後の仕事となったのだった。

日本への帰国を前にした5月のこと、石田はイングランド北西部のカンブリア山地にある湖水地方へと旅することにした。ロマン派の田園詩人として名高いウィリアム・ワーズワースゆかりの地グラスミアや、絵本「ピーター・ラビットのおはなし」の作家として知られるビアトリクス・ポターの世界の舞台となったウインダミアなどのあるその地方を訪ね、イギリス生活における最後の想い出づくりをしようと考えたからだった。6億年前から4億5千万年前の時代に相当する古生代最古のカンブリア期の「カンブリア」という名称のもとになったカンブリア山地にはきわめて古い地層があって、その地層からは三葉虫の化石などが大量に出土した。さらにまた、地質学上たいへん重要なこの山地に一帯は、大小の美しい湖がいたるところに存在していることでも知られていた。大きな湖だけでも10個ほど、大小合わせると500個にものぼるというそれらの湖沼群は氷河期に形成されたものだといわれ、いずれもが特徴的な細長い形をしていた。

石田が訪ねる3年ほど前の1951年に国立公園に指定されたばかりの湖水地方は、南北、東西ともに50キロメートルほどの地域で、日本でいうとちょうど房総半島くらいの広さをもつところだった。その地方の南部には、ほぼ南北17キロほどにわたって細長くのびるウインダミア湖があり、湖水地方の観光の基点をなすウインダミアやボウネスの町はその東岸に位置していた。イギリスでもっとも風光明媚なところだといわれる湖水地方が時代とともに脚光を浴びるようになったのは自然のなりゆきで、19世紀半ば以降ともなると、海の観光リゾート地ブライトンの向こうを張って、一帯は山間の一大リゾート地として大きな発展を遂げてきたのだった。

ウインダミアに着いた石田は、グラスミア方面に向かう前にまずウインダミア湖東周辺を訪ね歩いてみることにした。ウインダミアから湖畔の町ボウネスへと向かって続く三キロほどの道を石田はのんびりと歩いた。途中の道の両側にはスレートの石を積み上げて造られた風情豊かな家並みが連なり、そのどこか落ち着いた雰囲気はひとり湖畔のほうへと向かう石田の心を優しくそして深く慰めやすらわせてくれた。ほどなくボウネスの町に着いた石田は、静寂そのものの美しい水面の広がるウインダミア湖畔に出た。緑豊かな森に囲まれた湖面には白鳥をはじめとする多数の水鳥たちの姿があって、五月の陽光のもと、ただ見事としか言いようのない絵巻そのものの世界の演出に一役買っているところだった。

ボウネスから渡し舟に乗って幅1キロ半ほどの湖面を渡り、対岸にある丘を登った。丘を登る途中で眼下に見下ろすウインダミア湖の景観は想像以上に素晴らしいものだった。そして、1時間ほどかけてその丘を登りきったところが、美しい牧場や緑の森が波うち広がるニア・ソーリー村だった。

ピーター・ラビットの生みの親であるビアトリクス・ポターは、裕福だった両親に連れられリゾートのために度々湖水地方を訪れるうちに、この地の豊かな自然に心からの感動を覚えるようになった。そして、成長すると自らウインダミア湖周辺に長期滞在するようになり、一帯の牧場や野山を舞台に活躍するピーター・ラビットが主人公の絵本を創作したのだった。ウサギのほか、リス、ネコ、ネズミ、アヒルなど、さまざまな動物の登場するその童話絵本の世界はたちまち国際的にも評判を呼ぶところとなり、やがて手にすることになった莫大な印税によって、彼女はお気に入りだったニア・ソーリー村のヒル・トップ農場を購入することができた。

その農場の一角にあるツタに覆われたスレート造りの家に住みついたポターは、そこを舞台にしてさまざまな作品を生み出すとともに、その周辺の土地や農場をさらに買い求め、周辺の自然環境の維持と保護に努めたのだった。1943年、77歳で他界したポターは、長年住んだ家屋や、彼女の作品の世界そのままの4,000エーカーにもおよぶ美しい農場をすべてナショナル・トラストに寄付すると遺言した。そのおかげで、ポターの愛してやまなかったヒル・トップの地は今日まで往時の姿を遺し伝えるようになったのだった。

ポターの遺したさまざまな動植物のデッサン類などの展示されている部屋をのぞいたり、生活のあとの偲ばれる屋内の調度品を眺めまわったりしたあと、石田は柔らかな緑と鮮やかな色の花々で彩られた一帯の丘をこころゆくまで散策した。そして、広大な牧場で牛や羊がのんびりと草を喰む姿を目にしたり、村のさまざまな風物を楽しんだりしながらあちこち歩きまわっているうちに、石田は自らがあの腕白なピーター・ラビットになったような気分になってきたのだった。

ヒル・トップからいったんボウネスへと戻った石田はそこから出ている遊覧船に乗ってウインダミア湖の夕景を満喫したあと、湖畔の宿に一泊し、翌日のグラスミアへの旅にそなえてゆっくりと休養をとった。

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