ある奇人の生涯

105. 宮城道雄とロンドン

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

帰国の途につくまでの間、宮城道雄は石田や藤倉に案内されてロンドン市内のいろいろなところを訪ね歩いた。目の見えない宮城は、そうしながらロンドンの街をその耳で鋭く聴き分け、その指先や掌でしっかりと感じ取った。あるとき、石田と一緒にハイドパーク一帯を散歩していた宮城は、何度も何度も興味深そうにスズメの鳴き声に耳を傾けていたが、しばらくすると、意外なことを言いはじめた。

「石田さん、ロンドンのスズメの鳴き声は、日本のスズメの鳴き声に比べると一オクターブほど音程が高いですねえ」

「えっ?……ほんとにそうなんですか?……」

不意を突かれた石田は戸惑いながらそう訊き返した。すると、宮城は確信ありげに答えたのだった。

「こちらに来てからスズメの鳴き声をあちこちで耳にしてきたんですけれどね、間違いなく、こちらのスズメの鳴き声は日本のスズメのそれよりも音が高いんですよ」

「そうなんですか!……僕はこれまでそんなことなど気にしたこともありませんでしたから……。じゃあ、トラファルガー広場の鳩なんかの鳴き声も音の高さが違うんでしょうか?」

「鳩の鳴き声のほうにはそんなに違いはないようですね」

「じゃあカラスはどうですか?」

「さあ……カラスの鳴き声についてはまだ確認していませんよ。イギリスに来てから、カラスの鳴き声を近くで耳にする機会はまだありませんのでねえ」

「しかし、驚きましたよ。日本とイギリスのスズメやハトの鳴き声を比較しておられたなんて!……私なんかロンドンに来て足掛け五年になるというのに、そんなことまるで気がつきませんでしたから……」

石田は半ば呆れ顔でそう答えた。そして、この天才和楽家の耳が捉えている独特の世界が、主に視覚に依存している自分のそれとは大きく異なっているということをつくづく痛感するのだった。

テムズ川にかかる橋の上を二人で渡っているとき、たまたま遊覧船が近づいてくるところだった。その音を聴きつけた宮城があれはなんの音かと訊ねるので、遊覧船の走っている音だと告げた。すると、それからというものは、テムズ河畔を歩く機会があったりすると、「いま遊覧船がやってきていますよね。それも二隻別々の方向からだんだんと近づいてきています。まだ、どちらの船もかなり遠くにいるようですけれど……」などといきなり言い出したりして、そんなことなどまるで気づかずにいる石田を驚かせたりもした。

新聞売りをはじめとするさまざまな物売りの声、バスの走る音、ボートを漕ぐ音、スピーカーズ・コーナーで演説する者の声、ビッグ・ベンの時鐘の響き、盛り場の雑踏の物音、そしてその他諸々の生活音の数々――宮城は、そういったものを一度耳にすると、その次からはそれらの音を正確に識別し、けっして忘れたりするようなことはなかった。その記憶力はなんとも驚くべきものであった。

宮城はまた、機会あるごとに多くのものを指先や掌で触り、その対象物の様相や存在感をできるかぎり把握しようと努めもした。まるでその有様は、異国の情緒風情を文字通りに体感し、それらを体内深くにしっかりと彫り刻んでおこうとでもしているかのように思われた。ロンドン塔に案内されたときなどは、それにまつわる歴史上の悲劇について詳しい説明を受けながら、あれこれと何度も何度も疑問点など質問し、そのあとで壁面に両の掌をあてて感慨深くその表面を撫でまわしたり、しっかりと壁に耳をあてて何事かを聴き取ろうとしているかのようなしぐさを見せた。

「宮城さん、何かお感じになったものでもおありなんですか?……」 宮城の動きが一段落をみせたところで、石田がそう訊ねてみると、宮城はとても神妙な表情になって答えてくれたものだった。

「大きいですね、ロンドン塔は……私なんかにはそのほんの一部しか感じ取ることができません。でも、私には、この塔に幽閉された人々の悲しみの声や苦悶の声、怨念の声などが時を超えていまもなおこの塔中に漂っていて、それらが壁を通してじわじわと伝わってくるような気がするんです」

「そうなんですか……。はっきりとそんな声が聞こえてくるんですか?」

「ええ、そんな気がするんですよ。ですから、私は、それらの声をすこしでもやすらげてあげたいんです。容易にそんなことなどできるはずもないのですが、それでも誰かが耳を澄ましてその悲痛な叫び声を聞き分け受けとめることができれば、すこしでも供養になるかと……。べつに悪霊がどうのこうのとかいうつもりはないですし、また、そんな興味本位のいい加減なことを喧伝するつもりなど毛頭ないのですがね……まあ、私の気持ちの問題とでも言ったほうがよいのでしょうか」

「なるほど……、私なんかには感知できない世界がお見えになる宮城さんならではのことなんですねえ」

石田はそう言って宮城道雄ならではの心象風景の存在をそれとなく肯定した。このときの宮城のロンドン塔訪問の様子は、「宮城道雄ロンドン塔をなでる」という番組となって、BBC日本語放送の電波に乗り日本へと届けられた。

イギリス滞在中の宮城道雄に関しては、いまひとつ忘れられない出来事があった。あるとき石田は宮城を案内してロンドンのフェスティバル・ホールにバレーを観に出かけたことがあった。もちろんのこと、宮城にとってそれは初めての経験だった。目の不自由な宮城は、楽団の奏でる美しいバレー曲にひたすら耳を傾け、フェスティバル・ホール全体を包み込む独特の雰囲気を身体で感じ取り、さらには舞台上で演じられているバレー・ダンサーたちの華麗かつ絶妙な動きを心の眼で捉えようと努めていた。もちろん、そんな宮城に、そばの石田は折々小声で必要に応じた説明をしたりしてあげていた。

ところが、宮城道雄の異国風の姿を目ざとく見つけ、その鑑賞ぶりをさりげなく窺っていた周囲の観客らの間に、「あの異国人の男はどうやら目が見えないようだけど、バレーなんか観にきていったいどうするつもりなんだろう?」という囁き声が流れはじめた。英語のわからない宮城は周囲の者たちの囁きの意味するところを理解できずにいたが、もちろん石田には彼らが何を囁き合っているのかわかっていた。そしてまた、その囁き声が徐々に周辺に広がっていくのを察知もしていた。しかしながら、それを敢えてとめることもできなかったので、そのまま放置しておくしかなかった。

すると、ある幕間の際に、宮城の様子を見かねたらしいすぐ隣りの男が、石田に向かって小声で話しかけてきた。

「あなたにこんなことをお訊ねて申し訳ないんですが、あなたのご友人は先程からずっと目をつむり眠っておられるように見えるんです。折角バレーをご覧にいらしているというのに、あのご様子ではねえ……。余計なことも思いましたが、ちょっと気になって仕方がないものですからね」

石田は一瞬どう答えたらよいものかと躊躇った。だが、そのあとすぐに、この際きちんとその相手に宮城のことを説明しておいたほうがよいと思い直し、あらたまった口調で切り出したのだった。その男以外の周辺の者たちにも聞こえるようにと、わざと声を高めもした。

「実は、この方は宮城道雄というたいへん高名な日本人音楽家なんですよ。確かに、目が不自由ではあられるのですが、今日はわざわざこのフェスティバル・ホールにバレー音楽をお聴ききになりにいらしたんです。もちろん、そのほか、バレーの舞台の雰囲気やこのフェスティバル・ホールの様子を身体で感じとろうともなさっておられるんです。目が不自由であられても、このバレー公演を通して宮城さんが得られるだろうところは、たいへん大きいのではないかと思うんですよ。そんなわけですから、どうかよろしくお願い致します」

「そういうご事情だったんですか……。たいへん失礼致しました。それならぜひこのホールでのバレーをこころゆくまでお楽しみください」

「ありがとうございます。先日、この宮城道雄さんはBBCにも出演し、琴という日本の楽器を弾いて自作の曲を何曲も披露なさったんですよ。私はBBC日本語部局の放送記者で、遠来の宮城さんを今日こうしてこのホールへと案内してきたようなわけなのです」

石田の説明を通して宮城がどんな人物かを納得した男は、すぐに小声で自分の隣りの同伴者に事の次第をあらためて説明しはじめた。そればかりではなかった。石田と男との会話を小耳にはさんだ周辺の観客たちは、宮城が日本の著名な音楽家であるということを次々に隣りの者へと伝えはじめた。そして、まるで、池の水面の小さな波紋が周辺に向かって静かに広がっていくのとおなじように、宮城道雄が何者であるかを伝える囁き声がフェスティバル・ホール全体へと広がっていったのだった。石田はその様子をさりげなく窺いながら、内心、不思議な感動におそわれていた。

しばらくすると、宮城道雄に対する周辺の人々の視線と表情が明らかに変ってきた。それまでの半ば不審そうな目つきや顔つきはすっかり消え、そのかわりに尊敬と思いやりに満ちた温かい視線と表情が宮城を包みはじめたのだった。石田はその状況をとくに宮城に説明するようなことはしなかったが、人一倍勘の鋭い宮城のほうはあらためて説明されるまでもなく、すべてを察知したようであった。

すっかり安堵し落ち着いた宮城と石田は、そのあとそのバレー公演をこころゆくまで楽しむことができたのだった。バレーが終わり、宮城道雄が立ち上がろうとすると、周辺の観客の誰からともなく拍手が湧きあがり、たちまちそれが会場全体に一斉に広がって、帰途に着く宮城を温かく励まし見送ってくれたのである。実際、それはなんとも感動的な光景であった。

カテゴリー ある奇人の生涯. Bookmark the permalink.