ある奇人の生涯

104. 宮城道雄との出逢い

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

昭和天皇の名代としてエリザベス女王の戴冠式に列席し、無事にその大役を務め終えた皇太子は、1953年6月10日にイギリスを離れた。45日ほどの短い英国滞在ではあったが、若い皇太子にとって、その間に起こったさまざまな出来事が先々かけがえのない想い出となるであろうことを、心底、石田は祈らずにはおられなかった。

それからほどなく、徳川夢声夫妻も日本への帰途についた。NHKから派遣された藤倉修一もエリザベス女王の戴冠式が終わり皇太子が帰国したことにより、その大役に一応の区切りはついたが、彼の場合はBBC日本語部に一定期間勤務するという条件付きの渡英だったので、翌年6月はじめまではなおロンドンに滞在し続けることになった。

戴冠式が過ぎると、ロンドンの街も再び以前のような落ち着きを取り戻した。戴冠式のためにほどこされた特別な装飾物などが一部には残されたりしてはいたが、7月に入ると、それらもほとんど影を潜め、もともとのロンドンらしいロンドンの姿が見られるようになった。そして、ちょうどそんな折にイギリスにやってきたのが和琴の大家宮城道雄その人であった。宮城道雄はその夏ウエールズ地方のランゴスレンというところで開催されることになっていた世界民族音楽民族舞踊大会出席のため渡英してきたのだった。

ロンドン市内ばかりでなくイギリス国内各地の事情にも詳しく、また母親が筑前琵琶の師匠だったこともあってそれなりに和楽にも通じていたから、石田は他の誰よりも宮城道雄の案内役兼通訳として適任であった。それに、もともと石田はその国際フェスティバルの取材に出向くことになってもいた。そんなわけで石田は他の関係者共々ヒースロー空港まで宮城道雄を迎えに行くことになったのだが、そのことが契機となって、宮城道雄と彼とは周囲の者が羨むほどに親しい間柄になったのだった。

宮城は弟子と子息の2人に付き添われフランス経由で空路ロンドンにやってきた。むろん、石田はそんな宮城を鄭重に迎えたのだが、空港での初対面の際に、二人の間でちょっとした興味深いやりとりがおこなわれた。石田はそのことをのちのちまで懐かしい想い出として忘れることができなかった。

空港に降り立ち、出迎えの石田ら一行と対面の挨拶を交わした宮城は、飛行機での旅はどうでしたかという問いかけに想わぬ答えを返してきた。

「空に虹が出ていましてねえ……。飛行機の窓から見ると、それがとても綺麗だったんですよ、まるで七色のヴェールに巻き包まれたみたいでしてねえ!」

そんな宮城の言葉を耳にして、石田は一瞬呆気にとられてしまったのだった。名曲「春の海」などで知られる宮城道雄が盲目の音楽家であることは衆知の事実であった。だから、飛行機の窓から美しい虹が見えたというその言葉には、正直なところ疑問と戸惑いとを覚えざるをえなかった。とても失礼なことだとは思ったけれども、石田は敢えて宮城に問い返した。

「あのう……お言葉なんですが、宮城さんはほんとうに虹がお見えになられたのでしょうか?……かねてから、お目がご不自由であられると伺っておりますので……」

いささか不躾な質問ではあったけれども、いざという時にそういう問いかけをすることできるのが、放送記者としての石田の面目躍如たるところでもあった。すると、宮城は、すこしも悪びれる様子などなく、石田に向かって静かな口調で答えてきた。

「いいえ、私が直接に見たわけではありません。同行の弟子が私に『飛行機の窓越しに綺麗な虹が見えますよ』と教えてくれたんです。そこで私は、その虹を心の眼で眺め、全身でその美しさを感じ取ろうとしたんです。ほんとうに素晴らしかったんですよ……」

その言葉を聞いた石田は、宮城道雄という人物の凄さをつくづく痛感するばかりであった。自分をふくめた目の見える人間などにはけっして伺い知ることのできない世界をこの人は知覚し体感している、そしてこの人の音楽はそんな世界の中から生み出されてきている――驚きとも感銘ともつかぬそんな想いが石田の胸中を稲妻のように貫き走った。

宮城道雄がイギリスに到着したその夜のこと、たまたまロンドンは2、30年に一度という大雨に見舞われた。西海岸海洋性気候という特殊な気候帯に属するロンドンでは、雨というものはショボショボと降ったり止んだりするのが普通で、どしゃ降りになるようなことはめったになかった。ところが、宮城道雄のイギリス訪問が天の神様の癇にでも触れたのであろうか、その晩はロンドンっ子も驚くような大雨になってしまったのだった。

その夜、宿舎で激しく降り注ぐ雨音を聞いていた宮城は、その場で「ロンドンの夜の雨」という筝曲を作ることを思い立ち、それからほどなくその曲は完成をみたのだった。だが、周囲の者たちはその大雨を題材にして宮城がそんな新曲を作ったことなど知らずにいた。

世界民族音楽民族舞踊大会の開催されたウエールズのランゴスレンは、美しい緑の牧場が四方に向かって果てしなく広がっているところで、牧歌的という言葉がこれほどぴったりする場所はほかにないといった感じだった。そんな酪農地帯のランゴスレンの地に特設された会場では、ヨーロッパ諸国をはじめとするさまざまな国からやってきた音楽家、歌手、舞踊家たちが思いおもいに歌や踊りや演奏を繰り広げていた。

そんな中にあって宮城道雄はあらゆる事柄に関心を示した。好奇心の塊そのものみたいな宮城は、耳に入るもの、手に触れるもののすべてにその精神を傾け、なにか疑問が生じるとすぐに石田に的確な説明を求めてきた。むろん、石田のほうも、その問いかけに十分応えることができるように、最大限の努力をすることを忘れなかった。

宮城道雄はその大会において羽織袴に白足袋を履いた正装の和服姿で舞台上にのぼり、自作の名曲「春の海」をはじめとする筝曲を数曲弾いてみせた。それらの曲の中には、宮城がロンドンに到着してまもなく作った新曲「ロンドンの夜の雨」も含まれていたのだった。初めて聴くその曲は想像以上に素晴らしいもので、異国で耳にした激しい雨音やそれに伴う自らの胸中を13本の弦に托した激しくも美しいその響きは盲目の天才宮城道雄ならではのものであった。

ただ、新作の「ロンドンの夜の雨」という曲を聴いた石田は、その曲のテーマに関して内心ちょっとした違和感を懐いたのだった。そして、そのことをそれとなく宮城に伝えておいたほうがよいのではないかと思ったのだが、その時は敢えてそうしなかった。

琴という日本独特の楽器は会場にいる多くの聴衆になんとも物珍しい印象を与えたようで、その意味では異国の人々の関心を強く惹きもしたみたいであった。しかし、音程や音域、音色や調べといったものが伝統的なヨーロッパの音楽のそれとはずいぶんと異なっていため、筝曲に馴染みのない会場の人々には当初その演奏がいまひとつピンとこず、一種戸惑いのようなものがある感じだった。

しかしながら、宮城の演奏が進むにつれて、13弦の和琴の生み出す玄妙な響きや独特な和楽曲の調べの美しさが聴衆にも伝わるようになったとみえ、最後は会場全体が大喝采で包まれたのだった。盲目であるにもかかわらず宮城道雄が素晴らしい演奏を披露してみせたことも、人々の胸に深い感動を呼び起こす要因となったようだった。

この大会取材のため宮城道雄一行とランゴスレンに滞在するうちに、たまたま石田はドイツからこの大会参加のためにやってきていた2人の姉妹と仲良くなった。まだあどけなさの残る十代はじめのその少女たちは不思議なほどに石田になついてきたので、石田のほうもまたよく彼女たちの面倒を見てやり、あれこれと世話をやいてやりもした。石田が彼女たちを面白可笑しくからかうと、彼女たちもすぐさまそれに反応して石田に茶目っ気たっぷりの悪戯をしかけてくるといった具合だった。

その少女姉妹はこの大会の舞台で愛嬌をふりまきながらドイツの民謡を歌ったり踊ったりしたのだが、最終的に最優秀賞を受賞したのはなんと彼女たちであった。もちろん、最優秀賞をその姉妹がもらったのは、真の意味での歌唱力や演技力、演奏力といったことよりも、その大会を盛り上げるための特別な配慮があってのことだったのだろうが、石田にはなんとも心に残る微笑ましい出来事ではあった。

この大会ではほかならぬ宮城道雄も入賞を果たし、会場に集まったイギリス内外の観客から絶大な拍手を送られた。そして、ともかくも、ウエールズでのその国際フェスティバルは大成功に終わったのだった。

ロンドンに戻った宮城道雄はBBC放送に登場し、琴の演奏を披露することになった。BBC日本語放送ばかりでなく、BBCの国内向け放送にも出演した宮城は、その異能ぶりを如何なく発揮してラジオを聴く人々の心を終始魅了し、神秘的な調べを奏で出す東洋の天才音楽家として絶賛を博するようになった。宮城は放送スタジオのマイクを前にするときも、羽織袴に白足袋の正装で威儀を正して演奏に臨み、並みいるBBCのスタッフ一同をすくなからず感心させもした。そして、そんな宮城があらためてスタジオで演奏してみせたのが、自ら「ロンドンの夜の雨」という曲名をつけたあの新曲であった。

その曲もその演奏も文句なしに素晴らしいものではあったけれども、ランゴスレンの世界民族音楽民族舞踊大会で初めてその新曲を聴いたあとに感じた違和感が、BBCでの演奏後、再び石田の胸中に湧き上がってきたのだった。正直なところ、黙ってそのままにしておいたほうがよいのかなと迷いもしたが、最後には、やはり一言確認しておいたほうがよいだろうと思い直した。そこで、放送終了後2人だけになったときにそっと訊ねかけてみた。

「宮城さん、あの『ロンドンの夜の雨』という新曲のことなんですが、題材になさったロンドンの夜の雨とは、いつの雨のことだったんでしょう。もしかしたら、宮城さんがロンドンに到着なさったあの夜の大雨のことじゃありません?」

「ええ、もちろん、そうなんです。あの晩の雨音を聞きながら、いろいろとロンドンの自然や天候に想いをめぐらし、作曲したんですよ。かねてからロンドンは雨が多いとは耳にしていましたが、よく降るんですねえ……」

宮城のその言葉を聞いた石田は、思い切ってほんとうのところを伝えることにした。

「宮城さん、実はあの夜に降ったような雨はロンドンではめったに降ることはないんです。あの晩の大雨はロンドンでは2、30年ぶりのことでして、私もこの地にやってきてまる4年以上になるのですが、あんな大雨に遭ったのは初めてだったんですよ」

「ええっ?……そうだったんですか……」

「こんなことを言うと宮城さんにはとても申し訳ないのですが、通常ロンドンの雨はショボショボとしか降らないんです。それも降ったり止んだりで、屋内にいると音もあまり聞こえないくらいなんで……」

石田の言葉を聞いた宮城はしばし思案に耽ったあと、穏やかな表情を浮かべながら再びその口を開いた。

「そうだったんですか。石田さん、いいことを教えてくださって感謝しますよ。群盲象を撫でるという、あの故事そのままの話なんですねえ、これは……。私はロンドンではあんな雨がよく降るものだとばかり思ってましたよ……」

「余計なことを申し上げたようで、ほんとうに申し訳ありません」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。よくぞ教えてくださいました。それじゃ、あの曲はもうなかったことにしましょう。こちらでレコード収録をという話もあるようなんですが、ちょっとまずいですね」

「でも、曲そのものは素晴らしいものだと思うのですが……。ですから、曲のタイトルだけを変えるとかなんとかなっさたらどうなのでしょう?」

「でもねえ、それはいけませんよ。音楽家として許されることではありませんよ……。石田さん、ほんとうに助かりました」

宮城道雄はそう言うと、「ロンドンの夜の雨」というその曲を、以降、自らの手で永遠に「幻の名曲」にしてしまうことを示唆したのだった。

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