ある奇人の生涯

101. 戴冠式を前にして

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田は皇太子を案内しながら折々その足元に目をやり、心の中でさすがに素晴らしい靴を履いていらっしゃるなあと感嘆したりもした。特別誂えのものと思われる皇太子の靴と自分の靴との違いは一目瞭然であった。もちろん、靴ばかりでなく、皇太子のスーツもまた超一級品であった。皇太子はロンドンの高級紳士服専門店街のあるセヴィル・ロー(Seville Row)を訪ね、何着かのスーツを注文もされた。セヴィル・ローの高級紳士服店で作られるスーツは、王族や貴族、政治家、大実業家など、特別な地位や階層にある人々でなければとても手の出せないようなしろもので、石田などには文字通り高嶺の花としかいいようのない存在だった。

このセヴィル・ローという通りの名は、「背広」という日本語の語源にもなったのではないかという見方があったが、石田自身もその通りではないかと考えるようになった。セヴィル・ロー仕立てのスーツを着て日本へとやってきたイギリス人が、これはなんというものかと訊ねられ、セヴィル・ローで作ったスーツだと言うつもりで、自慢げに「セヴィル・ロー」と答えた。そして、その言葉を聞いた日本人のほうは、それは「セビロ」というものなのだと早合点し、以来「背広」と呼ぶようになったというようなことは十分にありうる話だった。他に、民服という意味を込めたシヴィル・スーツ(Civil Suits)のシヴィルが転じて「背広」になったとする説などもあるようだったが、石田には「セヴィル・ロー」説のほうがずっと説得力があるように思われてならなかった。

戴冠式が近づくにつれてロンドンの街並みにもいろいろと装飾の手が加えられるようになった。もともとロンドンの街並みというものは全体的にひどくくすんだ色をしており、どう贔屓目に見ても明るく爽やかな街だという感じはしなかった。そのためもあったのだろう、世界中が注目する世紀の一大ページェントを前にして、エリザベス女王のパレードのおこなわれる大通り沿いの街並みを明るい色に塗り替え、暗い印象を払拭してしまおうという計画が持ち上がった。そして、そのために選ばれたのがなんとピンクやそれに近い色彩なのだった。エリザベス女王をはじめとする英王室の女性たちの肌が美しいピンクをしているのはよく知られていることだったし、そうでなくてもピンクという色は大多数の英国民の肌の色を象徴するもの、ひいては英国民そのものをも意味する色でもあった。さらにまた、たとえ一時的なものではあっても、ピンク色を用いることによって、地中海沿いの南欧各地にみるような明るい雰囲気を醸し出すことができればという思惑などもはたらいたみたいであった。

そんな計画のもと、5月に入ると、実際に街並みをピンクに塗り替える作業が始まった。そして、いくつかの有名な公共の建物などもいったん明るいピンク系のパステルカラーに塗り替えられた。もちろん、その作業に関わったのは一流のデザイナーや舞台演出の専門家たちだった。しかしながら、結果的には当初の思惑がはずれてしまい、その企ては大失敗に終わったのだった。明るいパステルカラーというものは、スペインやイタリア南部、南仏などにみるような燦々と輝く陽光のもとにあってこそ美しい。イギリスのように緯度や気候の関係で強い太陽の光の差し込むことのほとんどない地域にあっては、ピンク系のパステルカラーはなんとも貧弱で軽薄な感じを生み出すばかりだった。その塗り替え作業のおこなわれた街並みは以前以上にみすぼらしい感じになってしまったのである。

街並みのピンク・カラー塗装計画が失敗だと判明すると、戴冠式の1週間ほど前に大急ぎでいったん塗ったピンクの塗料を剥ぎ落とし、落ち着いた色に戻す作業がおこなわれた。すでに相当な費用が投じられていたはずだし、復元にさらに多額の費用を要することは明白だったが、そんなことなどいっさい気にかける様子もなく、総動員でその再塗装作業は遂行された。ロンドンのように太陽の光が弱く、年間を通じて抜けるような青空の広がる晴天の日のすくない土地柄には、暗くて重たい色のほうがよく似合うと再認識されたため、ピンクを落としたあとには黒い塗料が塗られ、そのうえに金銀や深い赤の装飾がほどこされた。そして、なんとか元のロンドンの街らしいくすんだ色のなかにも落ち着きのある雰囲気を取り戻したのだった。石田はそんな騒ぎを取材しながら、あらためて、金、銀、黒、赤といった色はロンドンという都市にこのうえなく似合いもするし、また、それらの色はその地の長い歴史のなかで洗練もされてきたのだということを実感した。「ロンドン今日この頃」の番組の中で石田がそのことを話題として取り上げたのはもちろんだった。

次々に渡英しBBCを訪ねてくる著名な日本人客への対応や案内、さらには諸々の取材などで、年明け以来なかなかミサにも会う機会がもてなかったが、5月下旬、彼はミサを誘い2人連れだって劇場へと出向いた。そのロンドンの劇場ではたまたまギリシャ神話をもとにした「オルフェイ」の舞台公演がおこなわれており、ぜひともそれを観てみたいと思ったからだった。

ジャン・コクトーの制作した映画「オルフェイ」のほうならミサは2度、石田にいたってはもう5、6度ほども観たことがあった。その映画において、ジャン・コクトーはさまざまなトリックを駆使して観客の心をひきつける工夫をしており、それがまたその作品の大きな魅力ともなっていた。あるとき一人の婦人が、ジャン・コクトーに向かって、「どうしてあなたは映画の中でさまざまなトリックを用いるのですか?」と尋ねると、ジャン・コクトーはしばし間をおいたあと、「ライオンを敷物にするのはやさしいことですが、敷物をライオンにすることはたいへんに難しいことなんですよ」と答えたという。そんな話を新聞で読んだ石田は、ジャン・コクトーのなんとも味のあるその答えに心から深い感銘を覚えたりもしたものだった。

そして、そんなコクトーの言葉を想い出すにつけても、初めて観る「オルフェイ」の舞台公演では、どうやって敷物をライオンにしてみせているのだろうと思い、実際に舞台を目にする前から大きな期待と関心を寄せるありさまだった。その公演に石田とミサがそれほどに大きな関心を寄せたいまひとつの理由は、すでに世界中にその名を知られはじめていた日本人の芸術家イサム・ノグチが舞台装置の制作や舞台演出を担当していると知ったからでもあった。

当然のことながら、その「オルフェイ」の舞台には映画とはまた一味違う迫力や臨場感があって、全体的には大いに楽しめる仕上がりになっていた。イサム・ノグチが舞台装置に傾けた精魂と創意工夫のかぎりは噂に違わぬものではあったが、正直なところ、あまりにも凝り過ぎていて観客の視線や集中力が本来の舞台の流れとは無関係なところにそらされてしまいかねない印象をうけた。ただ、オルフェイが冥界へと旅だっていくラストシーンの舞台装置や舞台演出はなんとも見事なものであった。舞台上の主人公ばかりでなく、観客席ごと地の底へとひきずりこまれていくようなリアリティに富む演出に観衆はひたすら息を呑むばかりだった。観客たちのある者は驚きの声をあげ、またある者は感動の吐息を漏らしたりもしたのだが、それも当然といってよいほどの出来栄えであった。

ラストシーンの舞台演出でとくに効果的だったのは、なにげなく舞台に置かれた3個の大石のはたらきだった。それらの置き石が徐々に持ち上がると、そこに視線を集中している観客らは、相対運動による効果のため、石が上にあがるのではなく、自分たちのほうが下方へと落ち込んでいくような錯覚をうけるという心憎いばかりの仕掛けなのだった。

その日の公演には石田の知人のイギリス人報道関係者などもずいぶんと顔を見せていたのだが、終演後、彼らは石田に日本の能や歌舞伎の舞台構成やその演出についてのさまざまな質問を浴びせかけてきた。もちろん、それは、彼らイギリス人報道関係者が、イサム・ノグチの手になる舞台装置や舞台演出のありかたに能や歌舞伎といった日本の伝統芸能の影響がさまざまなかたちで影響しているのを感じとったからであった。幸いなことに、博多の芸人町で育った石田は幼い頃から能や歌舞伎の世界に親しみ、その舞台の構成に通じていたから、彼らの質問に対し的確に答えることは可能であった。舞台の終演後には取材を兼ねてイサム・ノグチと個人的に対面する機会にも恵まれたが、その際、ノグチのほうから、舞台装置や舞台演出についての日本人としての率直な感想や、能・歌舞伎の舞台の状況についての石田なりの見解を求められもしたほどだった。

いったんピンクに塗り替えられたロンドンの一部の街並みも、突貫作業によって元通りの落ち着いた色へと戻され、あと3、4日でいよいよ戴冠式を迎えようという5月末のこと、戴冠式の事前祝砲といでもいうべきビッグニュースが世界中を駆け巡った。それは、戴冠式を目前したエリザベス女王にとっても、また国をあげてそれを祝おうとするイギリス国民にとっても、またとないような一大ニュースであった。1953年5月29日午前11時30分、ニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーとネパールのシェルパ、テンジンとは、イギリス登山遠征隊の隊員として、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)、8,848mの初登頂に成功した。そして、そのニュースが電波に乗って世界中を席捲したのだった。

1920年から1952年までの30年余の間に大規模な遠征だけでも都合7回に及ぶ挑戦を退けてきたこの山は、1856年のインドの観測隊によって「ピーク・15」として記録され、この観測隊の前任隊長エベレスト卿の名を冠しエベレスト山と命名された。もっとも、地元ではその当時からチョモランマという現在の山名で呼ばれてもいた。そして、1953年のその日、ついにこの難攻不落の世界最高峰の頂きに立つことに成功した2人は、テンジンの腕につけられたローレックスの時計エクスプローラーで登頂時刻を確認し、頭上高く英国旗ユニオンジャックを掲げたあと、それを山頂の氷雪中に突き立てたのだった。

英国登山隊エベレスト征服の報せに英国民はこぞって酔い痴れ、新聞各紙もBBCの全部局もこぞってその詳細の取材と報道に追われることになった。この時、BBC日本語放送においてこのニュースを読み上げたのはほかならぬ石田達夫であった。登頂成功の第一報に接した石田は我が事のように興奮しながらBBC本部から届けられた英語の原文ニュースを直ちに日本語に翻訳、日本語オフィスからアナウンス室のあるブッシュハウスに駆けつけると、いささか声をうわずらせながら、ヒラリーとテンジンの偉業を日本の聴衆に向けて報じたのであった。

偉業の達成というものには、それに水をかけるような噂や見方はつきもので、「1924年に英国人登山家マロリーが頂上近くで遭難死したのは実はエベレスト登頂直後ではなかったのか?」とか、「世界最高峰とはいうが、実際にはあの山の高さは8,848mもないのではないか?」とか、「世界最高峰はべつに存在しているのではないか?」いったような、悪意や嫉妬に満ちみちた中傷もなされたりした。そして、それらのきわもの的な見解が一部のタブロイド誌などの片隅に載ったりするようなことはあったものの、ヒラリーとテンジンによるエベレスト初登頂を祝い報じる報道各社の趨勢には変りがなかった。

その後の測量調査であらためてエベレスト(チョモランマ)は世界最高峰であることが確認され、その高さについても正確な測量値が報告された。また、マロリーの遭難がエヴェレスト登頂成功直後のことだったかどうかについてはその後も議論が続いたが、近年になってその遺体や遺品が発見され、それらの状況からして頂上に立つことなくマロリーが遭難死したことが確実視されるようにもなった。

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