ある奇人の生涯

98. 皇太子の訪英

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

日本の皇太子の訪英を間近にしてイギリス国内では反日ムードがすくなからず高まり、いくつかのタブロイド紙上などでも半ば煽動的にその動きが報じられたりするようになった。そのため、日本人関係者はいよいよもって気が気ではなくなってきたし、お出迎えメンバーの一人に予定されていた石田にしても、さすがに事の進展を楽観視してばかりはおれなくなってきた。だが、幸いなことには、石田が内心で期待していたような展開そのままのことが起こったのだった。

日本の皇太子のサウサンプトン港到着を翌日に控えた4月26日、バッキンガム宮殿から、エリザベス女王直々の特別メッセージなるものが英国民に向けて発表された。そのメッセージは、「この度の戴冠式参列のために訪英してくださる外国代表の方々は、どなたも私の大切なお客様です。イギリス国民の皆様がその遠来のお客様方を温かく迎えてくださるだろうことを心から希望いたします」という内容のものであった。直接に日本の皇太子のことに言及したメッセージではなかったが、その翌日にイギリスに到着する予定の国賓は皇太子だけであったことからすると、そのメッセージがいきすぎた反日運動に警告を発し、その沈静化を促すものであることは明らかだった。

さらに、外国人賓客に対し温かくそして節度ある行動をとるようにと国民に促すそのメッセージに続いて、皇太子到着当日の朝になると、エリザベス女王と皇太子殿下との特別会見の日時がバッキンガム当局によって公表された。そして、驚くべきことに、バッキンガム当局からの一連の発表を境にして反日をうたう前日までの不穏な動きはうそのように鎮まったのだった。もちろん、それは英王室と英国民の間に長い時間をかけて築き上げられた深い信頼関係のなせるわざにほかならなかった。

クイーン・エリザベス号入港の前日になると、松本俊一駐英大使ほかの大使館員、NHK派遣の藤倉修一アナウンサー、そして石田達夫ら数人はサウサンプトンへと出向き、皇太子をお迎えするための準備を整えた。もっとも、準備とはいっても今日のそれからは想像もつかないほどに地味でささやかなものであった。もちろん、英当局がものものしい警戒態勢を敷くようなこともまったくなかった。

8万トンを超える世界一の巨大豪華客船クイーン・エリザベス号は、大西洋横断の航行を終え、おもむろに母港のサウサンプトン港に接岸した。クイーン・エリザベス号のすばらしさについてはかねがね噂には聞いていのだが、実際にその華麗な船姿を目にするのは初めてのことだった。見上げるようなその巨体の圧倒的な迫力に、藤倉も石田もひたすら息を呑むばかりだった。

松本俊一大使の特別なはからいで皇太子をお迎えするためクイーン・エリザベス号の内部に立ち入ることが許可されたので、取材機器を携えた藤倉と石田は松本大使のあとに続いておもむろにタラップをのぼった。クイーン・エリザベス号の船内はなにからなにまで聞きしにまさる壮麗さであった。かつて小樽・基隆・天津間を貨物船員として何度となく往復し、また大連と上海を結ぶ客船の一等船客になったこともある石田だったが、それらの乗船体験が塵屑みたいに思われるほどに、クイーン・エリザベス号の威風のほどは堂々たるものであった。衝撃的でさえあるその有様は、まさに7つの海に君臨する女王の姿そのものだといえた。

松本大使以下のお出迎え関係者はクイーン・エリザベス号船内の皇太子専用の特別室を訪ね、挨拶かたがた皇太子の長旅の疲れを鄭重にねぎらった。日本からの随行員は宮内庁から派遣された担当官2人のみであった。藤倉修一と石田達夫とが旅のご感想などについて皇太子に簡単なインタビューをお願いすると、即座にその申し出は快諾された。まだ18歳になったばかりの若々しい皇太子は、にこやかな笑みを湛えながら、イギリスに至るまでの旅のエピソードなどを楽しそうに話された。

クイーン・エリザベス号を下船した皇太子一行は松本大使夫妻の案内でサウサンプトン発の列車の特別室に乗り込みロンドンへと向かった。もちろん藤倉と石田もそのあとを追うようにしてロンドンへと戻った。警備上の問題のほか、英国滞在中の皇太子の身辺のお世話や各種歓迎レセプションなどへの対応を滞りなくおこなう必要もあったので、とくに支障のないかぎり皇太子にはケンジントンの日本大使館の貴賓室に宿泊してもらうことになっていた。ロンドン市内の一流ホテルの特別室に極秘に宿泊したり、有力貴族のカントリーハウスに招待されたりすることもあったりはしたようだが、4月27日の渡英から6月10日の離英までの45日間のほとんどを、皇太子はまだ機能しはじめてほどない日本大使館の貴賓室ですごされることになった。

幸いなことに、皇太子が渡英して以降、再び反日ムードが高まるようなことはなくなったので、皇太子一行も日本大使館関係者も皆安心してエリザベス女王の戴冠式の日を待ち望むことができるようになった。5月に入ると文字通り続々と世界中の国々の国家元首や王族たちがイギリス入りするようになってきたため、日本の皇太子の存在にイギリスの人々の目が特別に注がれるようなこともなくなり、その意味でも皇太子はイギリス国内において安全かつ自由な行動をとれるようになったのだった。

皇太子が渡英してほどなく、ロンドンでは松本俊一駐英大使主催の皇太子殿下歓迎会が開催され、日本人関係者ばかりでなく、日本にゆかりの深い英国人をはじめとする欧米人らも招待された。もちろん、招待客のなかには知日派のBBCの役員なども含まれていたし、藤倉修一や石田達夫らBBC日本語部局員らは、大使館員ともどもこぞってその歓迎会の推進役を務めることになった。

歓迎会の司会進行の役目はベテランアナウンサーの藤倉修一が務めたが、マイクの前に直立不動の姿勢で立つ藤倉はいつにもない緊張ぶりで、その声は昂ぶりその顔は終始こわばり気味でさえあった。歓迎会が始まるとすぐに記念の写真撮影などもおこなわれた。用意された和屏風の前にタキシード姿の皇太子殿下が両手を前に重ねて立ち、その右に同じくタキシード姿の松本大使がわずかに首を傾げ殿下と肩を接するような姿で並び、さらにその右手に1人分ほどのスペースをおいて、黒のモーニングに身を固めた藤倉修一が背筋をピンと伸ばし硬直した表情で立ち並んだ。藤倉の左手には司会進行に必要なメモと資料がしっかりと握られ、そのすぐ右前にはマイクロフォンが置かれていた。そして、藤倉の左肩越し奥のほうには、やはり黒の式服姿の石田達夫の姿があった。その時に撮影された1枚の写真がのちのちまで石田にとってもたいへん想い出深いものとなったことはいうまでもない。

イギリス滞在中の皇太子の日々の動静は当然BBC日本語放送でも逐次報道され、ときには音声収録された殿下ご自身の声がそのまま電波にのって日本へと送られることもあった。もちろん、番組の構成にも通常とは違った特別な配慮や工夫がなされ、皇太子に関する話題をなるべく多く取り上げることができるようになった。その点に関してはBBCの責任者らが十分な理解を示してくれたこともたいへん幸いであった。「ロンドン今日この頃」を担当する石田は、とくに皇太子関連の取材に力を入れ、英国滞在中の若い皇太子のふりまく人間的な一面を温かく見守り、その様子を親しみ深くかつ好意的に報道するため、できるかぎりの努力をしようとも考えた。

人間味溢れる英王室の人々をずいぶんと取材してきた石田には、日本の皇太子に関してもその温かく活きいきとしたお人柄をなるべくそのまま伝えるようにしたいという思い入れもあった。日本から伝わってきた話によると、昭和天皇も毎晩八時になるとラジオのスイッチをお入れになり、皇太子殿下のイギリスでのご様子を報じるBBC日本語放送に熱心に耳を傾けておられるとのことだったので、石田や藤倉をはじめとする日本語部スタッフに力がはいるのも当然ではあった。

クイーン・エリザベス号入港の朝に発表された日時通りにバッキンガム宮殿においておこなわれたエリザベス女王と皇太子殿下との特別会見は、日本側関係者の心配をよそに、なにもかもが順調に進展し無事に終った。18歳というご年齢にもかかわらず殿下は終始堂々と振舞われ、昭和天皇からのお祝いの辞などを女王陛下にお伝えすると、女王陛下のほうからもお礼の言葉が殿下へと返された。幼少期の米国人家庭教師だったバイニング夫人仕込みの英語を話される皇太子は、もちろん通訳などをはさむことなく、にこやかな表情でしばしのあいだ女王陛下との対話に臨まれたのであった。

BBCはこの時期すでにテレビ放送を開始してはいたが、テレビや通常の音声放送のそれを含めて報道関係者の取材はきわめて抑制のきいたものであった。そのため、現在のように報道各社の取材カメラマンや記者らが無節操に押し寄せ、至近距離でお二人の姿に迫るといったようなこともなかったから、大きな混乱はまったくなかった。翌日にはエリザベス女王と日本の皇太子との特別会見を報じるニュースがいくつかの新聞などにも掲載された。けっして大々的な扱いではなかったけれども全体的に好意的なトーンの記事がほとんどで、一部タブロイド紙に皮肉たっぷりの小記事が載ったりはしたものの、危惧されていたような反日感情を煽り立てる内容のものはまったく見当らなかった。

ひとつには、英国の報道各社は続々とイギリス入りしている各国の元首や王族たちの動向を競って取材し、それらをもとに親しみをこめたなかにも面白さや可笑しさの感じられる記事を書こうと努めていたから、その視線が分散され、とくべつ日本の皇太子の動向だけに関心が集まるようなことがなかったことも幸いしたのかもしれない。たとえば、ごく庶民的な感じの長靴をはき、連日たった一人でロンドン中を自由に歩きまわっていたオランダの王女の姿などは、何度も大きな記事となって華々しく各社の紙面を飾ったりもした。

バッキンガム宮殿でのエリザベス女王と皇太子の会見のあと、エリザベス女王の記者会見もおこなわれた。かねがね英王室の取材になれていて十分に勝手のわかっていた石田は、なるべくエリザベス女王のそばに近づけるよう、あらかじめ記者席の最前列に陣取った。そして、記者らの質問に答えるかたちで女王が遠来の日本の皇太子の労をねぎらい称え、日本国民への感謝の意を伝えるコメントを話し終えるのを待って、自ら進み出て女王に握手を求めた。

「BBC日本語部に勤務している日本人放送記者です。本日は我が国の皇太子殿下を温かくお迎えいただきありがとうございました」

そう言いながら石田が手を差し出すと、常々庶民と握手を交わすことになれている女王は微笑を湛えながらなんの躊躇いもなく5本の指を軽く曲げた感じの右手を前方に差し延べた。石田は女王のその手を心をこめて固く握り締めた。なんとも言えない温かさが石田の手にじわっとばかりに伝わってきた。それは女王という名を取り去ってもなおけっしてその貴重さの減じることのない、1人の人間としての真の温かさなのでもあった。

握手を交わす際にエリザベス女王の右手の指が軽く曲げられたままなのにはそれなりの理由があった。国内の視察や様々な慶事の折などには一般国民が先を争うようにして我も我もと女王に握手を求める。そんな場合、しっかり指を伸ばして自分のほうも相手の手を1回1回しっかりと握り返していたら、女王の手のほうはほどなくパンパンに腫れあがってしまうのであった。とくに、数多くの男性などが感極まって女王の手を力いっぱい握り締めるようなことが続くと、仕舞いには女王の手に痛みが走り何日も腫れがひかない事態にもなってしまうらしかった。そのため、女王は握手を求める人々に軽く指先を曲げた感じで手を差し出し、その手を相手のほうに握ってもらうようにしているのだとのことだった。そうすることによって、多くの国民と握手を交わしても手を腫らさないですむという、長年の経験を通して得られたロイヤルファミリーならではの知恵のひとつであったのだ。

いつもの習慣で、そっと差し延べられた女王の手先はそのときも軽く握られた感じになっていたというわけだったが、記者仲間から常々そのことを耳にしていた石田は、むろん、その場で戸惑いを覚えるようなことはなかった。取材を終えての帰途にあっても、石田は自分の手のひらにまだ女王陛下の心の温もりが残っているような気がしてならなかった。ともかくも、こうしてまた石田は、ひとつの新たな輝かしい勲章を手にすることになったのだった。

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