ある奇人の生涯

78. 引越し先はイースト・エンド

ロンドンでの初めての夏が過ぎ、季節はやがて秋に入った。夏から秋への気候の移り変りが日本よりはずいぶん早いという印象をうけはしたが、日々新たな体験や発見をしながら仕事に勤しんでいる石田は日本への郷愁みたいなものを感じることなどまったくなかった。この頃になると、市内のいたるところにある大小の劇場や音楽ホールにも通い慣れた。劇場は文字通り星の数ほどもあって、大劇場ではミュージカルやオペラなどが、また小劇場ではいわゆる芝居物が上演されることが多かったが、一つの作品の公演だけを五年間も続けているような劇場もずいぶんとあった。もっぱらお芝居の類は小劇場で観ることにしていたが、同じところに何度も通ううちに役者らともすっかり親しくなり、よりいっそうその公演を楽しむことができるようになった。

さらにまた、熱狂と怒号の坩堝と化すサッカー場にも、こんなにも凄いところがあるのかと圧倒されるばかりの規模と収蔵品をそなえもつあちこちの美術館や博物館にも通い詰めた。そして正装していなければ入場させてもらえない競馬場の雰囲気にもすっかり慣れた。ヒギンズ教授をてこずらせたマイ・フェア・レディの中のイライザのように、競馬場で「ヤッター!」などと大声で叫ぶ若い女性など一人もいないことを身をもって確認することもできた。ともかくも、彼は、それぞれの場所におけるそれぞれの催し物を心から楽しむことができるようになったのだった。

コックニーと呼ばれるロンドンっ子特有の英語の訛や風変わりな言い回しにも耳がついていけるようになった。フランス語を話すということはかつてはイギリス上流階級のステータス・シンボルみたいなものであった。そのため、上流社会の人々は自国語の英語を話す場合でもフランス語などの音を取り入れた特殊な発音や言い回しを随所に交え、さりげなく庶民との違いをアピールすることもすくなくなかった。たとえば、彼らは hair をair と発音するといったように「h」の音を意図的に抜いたフランス語流の発音を用いたりしていた。そして、その影響を受けたメイドらをはじめとする使用人たちはそんな発音や言い回しを真似をするようになり、やがてそれらは下層階級にまで広まり伝わっていった。

ところが、そういった特殊な発音や言い回しが下層階級に浸透し定着する頃には、上流階級はオックスフォード・イングリッシュに象徴されるような英語を使うようになり、結果的に一種の逆転現象が生じてしまうことになったのだった。ロンドンの庶民の間でコックニーが使われるようになった背景にはそういった特別な社会事情もあったことを石田は興味深く学んだりした。真の上流階級に属する人々が顕にそんな言い方をすることはまずなかったが、中流層のなかでとくに差別意識の強い一部の人々の間では時折「あの人はhの発音ができない人なんですよね」という言い回しが用いられることがあった。どうやらその表現には「あの人は下層階級出身の無教養な人物なんですよね」という暗黙の意味が隠されているらしかった。もちろんなかには、上流、中流階級に属していてもごく自然にコックニーを使いこなすような人もあったりした。

ある時、石田が、たまたま出逢った一人の御婦人にむかって「You are airy.(あなたは爽やかで快活なかなですね)」と話しかけたところが、その途端に相手はカンカンになって怒ってしまった。石田にはどうして彼女が腹を立てたのかすぐにはわからず、しばし困惑してしまった。相手の女性が彼の言葉を「You are hairy.(あなたは毛深い方ですね)」と受けとってしまったが立腹の原因だったらしいと判明したのはかなりあとになってからのことだった。もちろん、彼は「h」音抜きの英語を使う人間の一人だと勘違いされてしまったのであった。

このコックニーの一件からもわかるようにイギリスにも差別は存在していたが、イギリスの場合は「人種差別」ではなく「教育差別」あるいは「教養差別」とでもいうべきものであることを石田は痛感するようになった。日本やアメリカなどの場合と異なり人種的なことに起因する偏見や差別はきわめてすくなかったが、教養の有無に因する心理的な差別はそれなりに大きいと感じざるをえなかった。

幸いなことにロンドンでの日常生活ばかりでなくBBC日本語部での仕事のほうも順調そのもので、ニュース原稿翻訳や文化番組原稿つくりの仕事、アナウンス業務なども的確かつ迅速にこなしていけるようになった。だから石田に対するレゲット部長の信頼はますます深まるいっぽうだった。大局を見ながら全体的な内容や方向性をおさえはするが、仕事の具体的なことについては細々と口をはさまず一切を任せてくれるイギリス人気質も石田の性格にはぴったりだった。日本での進駐軍関係の仕事を通じ、些細なところにまで口を出すアメリカ人の気性にはいささかうんざりもしていたので、その意味でも彼はすくなからぬ開放感を味わうことができた。

ロンドン周辺の地理的情況やイギリスの庶民の生活事情、諸々の交通の便などが一通り呑み込めたところで、石田は2回目目の引越しを敢行した。一回目は渡英直後一時的に滞在したBBCホステルからの転居だったから、この2回目の引越しがロンドンに来て初めての引越しらしい引越しであった。彼は知らない地域やそこに住む知らない人々のなかに飛び込み、その地方ならではの人情にふれ未知の体験をするのは大好きであったが、ごく短い一過性の旅のみを通して初めての土地を見てまわるのはかならずしも好きではなかった。だから新たな土地に関心を抱くようになった場合、状況的に可能なかぎりは自らその場所に引越し、実際そこに住んでみるように心がけていた。そのため、必然的に彼は一種の引越し魔的存在とならざるをえなかった。

しかも、「ロンドン今日この頃」という番組の取材と構成さらにはアナウンスまでを一手に任されたうえに、「旅行者の語るロンドン」ではなく「ロンドンっ子の語るロンドン」を的確に伝えるということになると、高級住宅街から貧民街にいたるまでの様々な地域に住んでみて我が目と我が耳で見聞を高め広げる必要があった。意識的にそのことを実践しようと決意した石田は、足掛け6年に及ぶロンドン生活の間に20回に近い転居を経験する結果になった。居心地のよい閑静な高級住宅街の一隅に間借りして住んだほうが快適には違いなかったが、そんな生活に甘んじていたのでは真の意味でロンドンの庶民の生活を知ることなどできるはずがなかった。それに、もともと独り身の気楽さにくわえ、中国に滞在していた頃の習癖もあって所持品などはごく必要なものだけに留めるようにしていたから、引越しそのものはたいして苦にはならなかった。BBCの放送記者という身分柄、引越し先の家主らから即刻その人となりを信用してもらえるのも幸いした。

この2回目の転居時に石田が引越し先に選んだのはイースト・エンドと呼ばれるロンドン市街東端の地域であった。英国史上有名な悲劇の舞台となったロンドン塔やテムズ川にかかるロンドンの象徴のひとつタワーブリッジなどがあるイースト・エンド一帯は、いまでこそ開発が進み近代的なビルやレジャーハウスが建ち並んでいるが、当時は移民系の住民の多い貧民街として知られていた。下層階級のイギリス人労働者家族に混じってアイルランド系、ユダヤ系、イタリア系、アフリカ系、アラブ系、インド系などの移民が数多く住むその地域は人種の坩堝そのものの様相を呈していた。ロンドンの素顔を知るためにはイースト・エンドでの生活体験は欠かせないと考え、石田は意図的にその地域への転居を試みたのだった。ブッシュ・ハウスやBBC日本語部オフィスまでの通勤距離もそれまでの住まいからの場合と大きな違いはなかったから、その点でもとくに問題はなかった。

いろいろな顔を秘めた者たちの住む博多の芸人町で育ち、中国の青島、大連、上海での暮らしのなかで多種多様な国籍や価値観、職業、階級、所属などをもつ人々と接してきた石田にすれば、イースト・エンドでの生活はむしろしっくりと肌に合い、かねがね噂に聞いていたような不快感を覚えることなどまったくなかった。彼がイースト・エンドに引っ越したと知ったミサは、いかにもタッツアンらしいと笑いながら、そんな選択をした理由をあらためて納得する有様だった。

夕方の散歩の時などはテムズ河畔まで足を運び、下流側からタワーブリッジやロンドン塔の向こうに沈む夕陽を眺めやったりしたものだった。長くそしてもの悲しい歴史に彩られたそれらの橋や塔の背後に落ちてゆく秋の真紅の太陽は胸がうち震え思わず両目が潤んでくるほどに美しかった。時間が許すときには200段ほどの石の階段をのぼってタワーブリッジの展望回廊に立ち、西方眼下に横たわるロンドンの街並みや、さらにその向こうに広がる郊外の景観をこころゆくまで楽しんだ。真西方向からちょっとだけ南に寄ったところに位置するビッグ・ベンとそれに連なるウエストミンスター寺院が夕陽を背景に黒く重々しい影となって浮かび上がる光景は、不思議なほどに感動的だった。

上流、中流、下層階級の如何や職業の貴賎を問わず、他人のことをあれこれ詮索したり必要以上に他人に迷惑をかけたりするようなところがないのはイギリス人の一般的な特質であった。実際にロンドンで生活するようになってから石田はつくづくそのことを痛感するようになった。他国人の目からすると一見冷たく人付き合いが悪いようにも感じられるのだったが、それは自分から進んで何かをやるのは恥ずかしいと考えるイギリス人のシャイな気質のなせる業で、お互い気心が知れてくると、ユーモアとウイットに富んだ優しく温かい人々であることがわかってもくるのだった。

また、よい意味でのプライドがあって自立しているにもかかわらず自分勝手というようなことはなく、誰からともなく自主的に社会的なルールを定め、行政当局などから強制されることなくそれを遵守するのもイギリス人の一般的特徴だった。当時の日本においては東京などでさえも電車や地下鉄の駅の昇降用エスカレータはまだほとんど普及していなかったが、ロンドンではそれらはすでに珍しくない存在になっていた。急がない人はエスカレータの片側に寄り、急ぐ人のためにもう片方を空けておく習慣はいまでこそ日本でもごく普通に見られるものになってきたが、我が国でその習慣が定着するようになったのは比較的近年のことである。ロンドンなどではすでに当時からその習慣が一般市民の間に自然に定着していて、その様子を初めて目にした石田の心はすくなからず驚かされもした。

レスター・スクエアやピカデリー・サーカスなどのような繁華街の地下鉄の駅に設置されたエスカレータでは当然そのルールは遵守されていたが、ロンドンが初めての外国人やイギリスの田舎からやってきたおのぼりさんなどはそれと知らず意図的に空けられているスペースに立つことがすくなくなかった。そんな時もそのうしろについたイギリス人は、たとえそれが先を急ぐ威勢のいい若者であったとしても、けっして「邪魔だからそこをのけ!」などと迷惑顔でいうようなことはなかった。そんな場合でも彼らは上に着くまではじっと我慢し、そのあとで懸命に走り出すのが常だった。そしてその姿を目にした外国人やおのぼりさんは、一連の情況を通して暗黙のルールの存在を自然に学習し、次ぎからは自分もそのルールを守るようになるというわけだった。

このエスカレータの乗り方に象徴されるような、一種の慣習法にも似た自発的な社会ルールのごときものの存在はそのほかにもさまざまなところで見かけられた。ただ、いずれの場合においても、エスカレータのケースと同様に、事情を知らない外国人たちに対し、イギリス人たちがその暗黙のルールをとくに強制したりこれ見よがしに誇ったりするようなことは皆無だった。自分たちは社会ルールを遵守するイギリス人なのだというような特別な自意識などがみられることはまるでなく、あくまでも彼らは終始自然体のままで振舞っていた。もっとも、明かにそんなルールの存在を知っているにもかかわらず意図的にそのルールを破ろうとするような者が現れたような場合には、人々は一斉に団結してそのような不心得者に向かってきわめて厳しい対応をみせもした。

行政的に定められた各種法規や条例などのうち、それが社会的にみてごく当然と思われるようなものはむろんしっかりと守られていた。だがそのいっぽうで、強制はどうかと思われるような規制にはユーモアとウイットに富んだ独特のやりかたで対処しているのも、柔軟な一面をもつ彼らイギリス人らしいところであった。たとえば、法律でとくに定められた時刻以降に酒類を販売することは禁止されており、その定刻が過ぎると規制にしたがいどのお店もお酒を売るのをやめたものだった。ところがなかには、30分か1時間くらいだったら定刻を過ぎてから駆け込んでも、「これは水だよ。君は水を買いに来たんだろう?」とわざわざお客に大真面目な顔で問いかけ、「ええ、私は水を買いにきたんです。どうしても急に水が必要になってしまいましてね。どうもありがとう」などと客のほうも真顔で答えると、その「水」の入ったボトルを売ってくれる気の利いたお店もあった。その水がアルコール性の水であったことはいうまでもない。

イギリス人のほとんどが犬や猫をはじめとする諸々の動物たちに深い愛情を示し、どの家庭でもごく幼いうちから自分の子供たちに動物を心底可愛がるように教え込むようにしていることなども、日本育ちの石田にはとても印象深かった。彼が育った当時の日本には人間に日々追い立てながら生きる野良犬や野良猫が国中どこにでもいて、大人も子供も結構それらを虐待していたし、たとえ飼い犬や飼い猫であってもイギリスで目にするほどには厚遇されていなかったから、そのぶんよけいにイギリス人の動物への接し方が心に残ったのだった。時と場合によっては、人々の動物に対するそんな愛情が過剰にも感じられることさえあった。

もっとも、そんな大人としてのイギリス人の姿を見るにつけても、石田にはどうしても解せないものがひとつだけあった。それは、ほかならぬあのサッカー場での観衆らの無法ともいえる狂乱ぶりだった。「サッカー場では狂乱のかぎりを尽してもよい」というのが暗黙のルールでありイギリス社会のコンセンサスでもあると好意的に解釈してしまえないこともなかったが、そうだからといって安易に納得して済ませられるようなものでもないように感じられてならなかった。

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