ある奇人の生涯

76. 演劇観賞とスポーツ観戦と

ハイドパークの一件があってからというもの、石田は人が変ったように自然な姿になってロンドン市内やその近隣をめぐり歩き、その地の風物やそこに住む人々とごく親しく交わり接することができるようになった。レゲット日本語部長の特別のはからいによって、日本語放送が終わる午前11時半以降はロンドン周辺を自由に歩きまわり取材をおこなうことが許されたのはこのうえない幸いだった。しかも、会社での仕事は5時ぴったりに終わりよほどの緊急時でないかぎり残業などといったようなものを課せられることはなかった。

泣きたければ劇場、叫びたければサッカー、静かな興奮を味わいたければ競馬場などといわれたりもするお国柄を知ろうと思い、まずは劇場、サッカー場、競馬場などに足を運んだ。さすがシェークスピアを生んだ国だけのことはあって、各地にある劇場の造りそのものも荘重で素晴らしかったし、そこで演じられる数々の悲喜劇やオペラなどもみな初めて目にするものばかりで、その感動もひとしおだった。泣きたければ劇場という言葉の「泣く」にも、深い感銘や悲嘆のゆえの涙とあまりの馬鹿馬鹿しさや滑稽さのゆえの涙との二通りの涙の流し方があることを身をもって体験した。

サッカー場は労働者をはじめとする一般庶民のストレスの開放の場であると噂には聞いていたが、実際そこに飛び交う怒号と絶叫の凄まじさは石田の想像をはるかに超えるものだった。また、あるサッカーの国際試合を観戦した際に目にしたフーリガンと呼ばれる連中の常軌を逸脱した狂乱ぶりにはただただ驚き呆れるばかりだった。BBC放送に勤めたこともある作家のジョージ・オーウェルの「サッカーをはじめとするスポーツは国際間の友好関係を促進し平和をもたらしてくれるなどと信じている人々の顔が見たい。そもそもサッカーのようなスポーツの国際試合は武器のない戦争、すなわち、一種の国家間の模擬戦争以外のなにものでもないのだ」という言葉を想い出すにつけても、なるほどとその的を射た指摘に納得を覚えざるをえなかった。

競馬場にも顔を出してみたが、なるほどイギリスの競馬は紳士のスポーツといわれているだけのことはあって、観客のほとんどはシルクハットに上下揃いのスーツで身を固めた貴族や中上流階級の紳士とおぼしき人々とそのパートナーの女性たちだった。まだイギリス経済が復興しきっていない時期のこととあって、その人物たちの身なりにはいまひとつ華やかさこそなかったが、彼らの交わす会話や身振舞いにはどこかしら洗練されたものが感じられてならなかった。競馬場内のそれら紳士淑女たちは、それなりにひいきの馬に声援を送り心底レースを楽しんではいたが、だからといって過度に興奮したり絶叫したりしながらレースの結果に一喜一憂するようなことはなかった。賭けに勝った者も負けた者もどこか淡々としているその雰囲気は、あのサッカー場の観衆の狂気ともまがうばかりの熱狂ぶりとはまるで違うものだった。

サッカーや競馬、ゴルフ、クリケット、ヨットレース、ボートレース、さらにはドッグレースといったような、もともとイギリスに縁の深いスポーツやレースの数々をその本場で目にするというのはごくあたりまえのことだったが、そのいっぽうで石田はなんとも意外なスポーツの試合を生まれてはじめてロンドンで観戦することになった。皮肉といえばなんとも皮肉な話であるが、そのスポーツとは相撲と並んで日本の伝統的な国技として知られる柔道にほかならなかった。

あらためて振り返ってみると、日本にいるとき石田は柔道の試合というものを一度も見たことがなかったし、そもそもいつどこへ出かけて行けば柔道の試合を観戦することができるのかさえもよくわからなかった。そんな石田の実情を知ってか知らずか、レゲット部長はたまたまロンドンで開催されることになっていたヨーロッパの柔道選手権大会を観戦しないかと誘ってくれたのだった。ロンドンの一隅にある会場で催されたその大会には、当時すでに講道館5段というヨーロッパ最高有段者だったレゲット部長自身も出場していた。同部長はまたイギリス柔道連盟の最高責任者としてその大会の運営そのものにも深くかかわっていたのである。

選手権大会の開かれた体育館のような会場の中央には、わざわざ日本から運んできたに違いない畳が2、30枚ほど敷き並べられていた。考えてみると石田はもうずいぶんと畳には無縁の生活を送ってきていた。青島、大連、上海と移り住んだ中国では畳のある部屋で暮らすことはついぞなかったし、終戦後日本に戻ってからの東京や河口湖などでの外国人相手の暮らしにおいては、実際に寝泊りしたのが大小のホテルや大使館の一室だったり進駐軍関係の施設だったりしたから、畳に触れるようなことはおよそなかった。終戦後に畳の部屋らしいところに寝泊りした記憶があるのは、中国から引き揚げたあと短期だけ滞在した博多の芸人町においてだったが、そこの畳は原型をとどめないほどにボロボロになっており、とても畳と呼べるようなしろものではなかった。だから、遠い異郷の地で久々に目にする畳に石田は奇妙な感動を覚えたりさえもした。それらの畳はおそらく戦前に船便で日本から運ばれてきたものに相違なかった。

石田よりも1歳年長で34歳のレゲット5段はすでに現役の柔道家としては最盛期を過ぎていたが、若い柔道家を相手に技と力のかぎりを尽くすその真摯な姿と、柔道着を纏う身体の奥から発せられる凛とした精神の輝きにはどこか崇高なものさえも感じられた。BBC日本語部の上司として見なれているレゲット部長のそれとはまた一味違う姿がそこにはあった。試合に臨むそんなレゲット部長の一挙一動に見惚れながら、石田は心の中で、この人はほんとうに日本という国を愛しているのだとつくづく思うのであった。

はじめて直に観戦した柔道の試合は想像以上にスリリングで迫力のあるものだった。日本人より一回り身体の大きな欧米人同士が戦う有様はかならずしも「柔よく剛を制す」という柔道の理念にマッチしているとはいえなかったが、大技が決まり、いっぽうの大男によってもういっぽうの大男が投げ飛ばされる瞬間の豪快さには目を見張らされるばかりだった。率直なところ「剛よく剛を制す」あるいは「剛よく柔を制す」といったような場面も随所に見られはしたものの、ヨーロッパ各地からそこに集まった選手や観客の柔道に対する想い入れのほどを推察すると、そんなことなどどうでもよいように感じられてならなかった。

石田がいまひとつ思いがけない経験をしたのはやはりこの頃のことだった。ピカデリーサーカス近くの劇場で残酷劇や怪奇劇で名高いグランド・ギニョールの作品がたまたま上演されていたので、彼は取材かたがたその演劇を観にいくことにした。その公演は大変評判になっていたので劇場は満席に近かったが、彼は新聞記者など報道関係者のために特別に設けられた席の一隅にBBC放送記者としてすわり、噂に聞くギニョールの残酷劇の舞台とはどんなものかと期待しながら興味津々俳優たちの演技のほどを見つめていた。

オムニバス形式をとるその舞台上ではこれでもかこれでもかといわんばかりに殺戮や拷問などの残酷かつ凄惨な場面が次々に演じられていったが、実際それは真に迫る表現と演技で、それまで西洋のその種の演劇を見たことのなかった石田にとっては、何度も何度も思わず顔をそむけたくなるほどに衝撃的なものであった。吐き気を催したくなるのを我慢しながらそれでもしばらくは演劇を眺めつづけていたが、若い美女を縛りあげた醜い容貌の老婆が泣き叫ぶその美女の顔を真っ赤に焼けただれた鉄格子の上に押し当て、もはや人間のものとは思われないくらいまで無残に焼き焦がし尽くす場面に至ったとき、ついにいたたまれなくなった石田は席を立って劇場の外に出た。

その翌日のこと、オフィスに出勤すると、仕事仲間の一人が、「石田さん、昨日はグランド・ギニョールの演劇を観にいらしたようですね。ちょっとだけ石田さんのことが今日のこの新聞に掲載されていますよ」と言いながら、意味ありげにその新聞を差し出した。いまひとつ解せない思いでその新聞を受取り、指摘された記事を目にした彼は呆気にとられて一瞬その場に立ち尽くした。そこには予想だにしないことが書かれていたからだった。

それはグランド・ギニョールの演劇を評した記事でその凄惨な内容などについてもおおまかに紹介されていたが、なんとそこには「あの残忍で名高い日本人のひとりであるBBCの現日本語部青年放送記者が途中で気分が悪くなり退出してしまうほどに、ギニョールの残酷劇は真に迫るものであった」という趣旨の結びの一文が添えられていたのである。それはなんとも偏見に満ちみちた記事であった。石田のことを知る新聞記者のひとりがあのときそばにいて、いたたまれなくなって席を立った彼の様子をたまたま目にしていたのであろうが、それにしても悪意の剥き出しもいいところではあった。

イギリスに来たての頃の石田ならもそのまま泣き寝入りしていたかもしれない。しかし、徐々にロンドンの生活にも慣れ、ハイドパークでの一件を通してすっかり開き直った石田には、もはやそのままおとなしくしている気などあるはずもなかった。急いで新聞社に抗議の意思を表明しなければならないとは思ったが、だからといってあまり感情的になって怒りを剥き出しにしたりしたら、かえって相手の思うつぼにはまるおそれがあった。どのような対処法がもっとも効果的であるのかを彼は冷静に考えた。そして彼が得た結論は、ここはユーモアとウィットの国だからこちらもユーモアとウィットをもって反論するのがベストであるというものだった。

石田はその日問題の新聞社に電話をかけて自らの名と所属を告げ、自分のことが書かれている今日の記事についてすこしばかり感想を述べさせてもらいたいと申し出た。そして相手の新聞社の編集担当者に向かって彼ならではのなんとも洒落たコメントを述べ伝えた。するとそれを聞いた担当者は電話の向こうで思わず笑い声を上げたのだった。その瞬間、石田は自分の戦略の成功を確信した。

翌日、その新聞は、グランド・ギニョールの演劇を評した昨日の記事の中に登場する日本人青年のBBC放送記者から同記事を読んだ感想が寄せられた旨の紹介をおこない、その内容を掲載した。それは、「あの残忍で名高い日本人のひとりであるBBCの現日本語部青年記者が途中で気分が悪くなり退出してしまうほどに真に迫った残酷劇を、イギリスの紳士淑女は最後まで席を立つことなく楽しんでいた」というものだった。それはまさに、紳士淑女の国の呪縛から解き放たれた石田の面目躍如とでもいうべき快挙でもあり、異国での彼の成長ぶりを示すなによりの証でもあった。また、このちょっとした出来事は、イギリス社会における新聞報道関係者のそれなりの公正さと柔軟さを物語るものであるともいえた。

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