ある奇人の生涯

73. 第二次世界大戦をこえて

第二次世界大戦が始まってからの一年間というもの、事実上、イギリスは日、独、伊の枢軸国に対抗する唯一の国といってもよい存在であった。その結果、枢軸国によって侵略支配された国々にあって地下に潜りレジスタンス運動を繰り広げる人々にとってイギリスは対枢軸勢力のシンボル的存在となった。そしてその中核をなしたのがほかならぬBBCの放送であった。「戦時中BBCはわれわれの不屈の信念をいっそう強固なものにするために貢献し、われわれの勇気と希望をかぎりなく高めてくれた」といった類の言葉をのちのヨーロッパ各国の指導者たちは口々に述べている。宣伝戦略の天才といわれたナチスのゲッベルス宣伝相などでさえも、「イギリスのBBC放送によるヨーロッパ本土への知的侵略はおそるべき脅威であるといわざるをえない」と嘆き悔しがったほどであった。

戦時中ずっと対独放送に従事し、のちにBBCの会長になったヒュ―・カールトン・グリーンは、「常に真実をありのままに伝えることこそが正しい道であるという思いにはいささかのゆらぎもありませんでしたから、自国の被害を過少に報道するようなことだけはするまいと固く決意していました。われわれが率直に敗北を認め、ありのままを語り伝えるのを聴いたドイツ人たちは、やがてわれわれが勝利する日が到来したとき、その事実を報道するわれわれの言葉をもきっと信じてくれるであろうと考えていました。絶望の淵に追い込まれてもなお抵抗を試みる敵の意志を挫くのにBBCが大きな力を発揮するときが必ずやってくると思っていたのです」と、当時のことを回想している。

戦時中「日の丸アワー」という対米宣伝放送において中心的な役割を演じ、言語による心理戦を展開した池田徳眞という人物があった。戦後、その池田は各国の宣伝放送を徹底的に比較分析し、「ほんとうに宣伝のなんたるかを心得ていたのはイギリスである」として、国家宣伝意識の有無にかかわらず結果的にはその役割を演じることになったBBCの特徴を的確かつ簡潔にまとめあげた。

  1. ニュース放送の態度が冷静沈着そのものであった。
  2. 敵味方という感情を極力抑え、中立的な態度で報道をつづけた。
  3. ニュースとその解説がたいへんバライエティに富んでいた。
  4. いろいろのニュースを合わせ組み立てた「ラジオ・ニューズリール」が面白かった。
  5. いつも敵味方の新聞の論調を取り上げ、解説し、反駁していた。
  6. 事件が生じるとすぐに関係地域の元大使などにインタビューをおこない、その背景の解明に努めていた。
  7. 何事に関してもすぐに専門家を登場させ、内容のある報道になるように努めていた。
  8. 対外英語放送の場合、キングズ・イングリッシュ特有のアクセントは避け、誰にでもわかるような外国人向けの英語で話しかけるように配慮されていた。
  9. 全体としてイギリス式スタイルとでもいうべき、品位と風格のある客観的な放送をおこなっていた。

池田はBBCのすぐれた点をそう指摘しているのであるが、実際、そのことを裏付けるような放送が第二次世界大戦開戦直後におこなわれもした。この時もBBCは、「本日午後おこなわれたマレーシア半島沖の海戦において、日本海軍爆撃機編隊による空爆をうけ英国海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスはともに撃沈されました。英国海軍省はその事実を発表せざるをえないことに対し遺憾の意を表明しています」と、まるで中立国の報道でもあるかのように冷静な放送をおこなったのだった。

ただ、そのいっぽうで、海外放送の担当者が国家の安全を脅かすような事態が起ったりしないように、BBCはそれなりの対策も講じていた。その対策の一環として各国語放送の主事は当該外国語に精通しているイギリス人に限られていたのである。主事の仕事は英語から翻訳されたニュース原稿が正確かつ適切なものであるか、原文ニュースのニュアンスと異なる意図的な表現などがまぎれ込んだりしていないかなどを厳格にチェックすることであった。また、放送中になにかしらの不手際が生じたような場合にマイクロフォンのスイッチを切るのも主事の役割のひとつだった。この特別な権限は些細な放送ミスなどを訂正するためにしばしば行使されることはあったが、国家安全保証上の理由でそれが行使されるようなことは現実には一度もなかったようである。

第二次世界大戦中にBBCによっておこなわれた歴史的放送のひとつは、ド・ゴール将軍によるフランス国民への呼びかけであった。1940年にフランスがドイツに降伏したとき、ド・ゴール将軍はロンドンからフランスの軍人たちに地下に潜伏し戦闘を続けるようにとの懸命な呼びかけをおこなった。さらに、それを支援するかたちでウインストン・チャーチルまでがフランス国民に向かってフランス語で激励のメッセージを放送した。ヨーロッパ本土の反ナチス勢力にとってはこの当時BBC放送だけが頼りであった。彼らは夜になると密かに受信機を持ち出し、頭から毛布をかぶってやっと聞こえるような小さな音で流れでるBBCのラジオニースに耳を傾けた。そして、ドイツやイタリアによって占領されていた各地が連合軍によって解放されたというニュースが飛び込んでくるごとに小躍りして喜んだ。

戦時中にBBCの海外放送各国語部門は続々とその数を増し、終戦時までには実に四十五ヶ国語にものぼる海外放送がおこなわれるようになっていた。当初インド向けには英語放送がおこなわれていたが、インド軍やその家族向けにヒンドゥー語による放送も誕生するにいたった。インドならびにその周辺の国々向け英語番組のほうはもともと一定レベルのインテリ層を対象としたものだった。聴衆に想定されているそれらインテリたちは反ナチスではあったものの、英植民地からの即時独立を主張しているという点では反英的な存在でもあった。そのため、BBCはそれらの番組に当時のイギリス文化のなかでも特に上質なものとされているような内容をふんだんに盛り込んだ。T・S・エリオットやE・M・フォースターなどのようなその時代最高の文筆家が登場しラジオを通して講演をおこなうこともしばしばだった。シューティング・エレファントやアニマルファームで知られる作家のジョージ・オーウェルなどは、しばらくのあいだエリック・ブレアという本名でBBCに職員として勤務もしていた。

戦時中にかなり無計画にふくれあがった感じのあったBBC海外放送の放送時間数は戦争終了とともに正規の時間数に戻された。そして、1946年にBBCに対して与えられた放送免許の付帯規約には「BBCが実施する海外放送の言語の種類とその放送時間数は政府がこれを定める」という一文が盛り込まれた。そのかわり、海外放送に必要な財源の確保は政府が責任をもっておこなうという確認条項もつけくわえられた。

それをうけたBBC側は、「たとえいかなる理由があったとしても、短期的にみて英国社会や英国の国益にとって不都合なものとなるおそれのあるニュースを抑えてはならない。また、ニュース放送はそれを聴く人々を説得することを意図したものであってはならない。それがいかなる国であったとしても、その国の内政に干渉するようなことはBBCの意図するところではない。国際的に論争となっている問題については、公式のBBCの態度とそれに反対する諸外国の意見とをあわせ報道し、また、イギリス国内に強い支持のある対立意見にはその支持の強さに応じた正当なウエイトをおいて放送をおこなわなければならない」という海外放送の原則をあらためて経営委員会や議会筋に対して提示した。そして、過去の実績をもとにして有無をいわさずそれらを承認させたのだった。こうして、BBCは国際的にもいちだんとその権威を高めていくことになったのだが、それは初代会長リース以来の高邁な理念とその理念にすこしでも近づこうとする職員たちの毅然とした態度の賜物であった。

のちに英国の新聞「ザ・ガーディアン」が、「国際間におけるイギリスの政治的影響力が衰退していくにつれて、なんとも皮肉な話ではあるが、BBCの名声のほうはますます高まっていくようになった。極力偏見を抑えた公正な観察者の声としてBBCの報道は国際的にその意義と影響力を評価されるようになったからである」と論じもしたように、戦後BBCはいっそうの発展を遂げるようになったのだった。「コーランを聴くがごとくに私はBBCに耳を傾ける」とか、「イギリスに誇るべきものが四つある。大学と高級品と女王とそして世界のBBC」とかいったような称賛の言葉がアラブ人たちからさえも寄せられるほどに、BBCはその存在を世界中の人々から広く認知されるようになっていった。もちろん、BBCといえども時には誤報を流したり公正を欠くような報道をして、各方面からの批判にさらされるようなことも起ったりしはたが、そんな場合でも信用回復のためにBBCは誠意ある態度と冷静沈着な判断をもって対応した。

1949年4月、33歳の石田達夫が赴任したBBCは、そんな背景のもとに成立し、その最盛期に向かってこれから一大発展を遂げようとしている段階にあった。その意味からしても、はるばるイギリスにやってきて日本語放送部門に勤務するようになった新人の石田に期待されているものはすくなくなかった。ジョン・モリス・ジェネラルマネージャーやレゲット日本語部長は、ロンドンの生活に慣れるまでは仕事の面でもあまり無理はしないようにとアドバイスしてくれたが、自分に対する彼らの期待がひとかたならぬものであることは石田も十分に自覚していた。だから、その心中の緊張のほどは尋常なものではなかった。ただ、そんな状況下にあって唯一の救いともいえるのは、自分の英語が本場イギリスにおいてもほとんど問題なく通じるということであった。

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