ある奇人の生涯

63. ロンドンの真中に立つ

翌朝目覚めてみると、部屋の窓からは燦々と日の光が射し込み、石田の横たわるベッドの周辺を明るく照らし出していた。意識が覚醒しきっていない状態だった彼には、いったい自分がいまどこにいるのか判らなかった。BBCのホステルの一室にいるのだということを再認識するまでにはしばし時間が必要だった。

あっ、そうだ!、ここはロンドンなんだ!、日本とは遠く離れたイギリスの首都ロンドンなんだ!――しばらくして我に返った石田は心の中でそう叫ぶと、急いでベッドから身を起こし明るい窓辺に近寄った。そして、食い入るようにして窓の外を眺めやった。しかし、その次の瞬間彼が目にしたのはなんとも意外な光景だった。

何だ、これは?、これがロンドンか?、いくらなんでもまさかそんなことはないだろう!、ビッグ・ベンなんか影も形も見えやしないじゃないか!――前夜眠りにつく前、ボーッと霞む夜霧の奥に想像していたそれとは違う光景に、彼はただ絶句するばかりだった。何度も目をこすって見直してはみたが、眼前に広がるその光景に変わりはなかった。窓から見えるのは屋根、屋根、屋根、そしてまた屋根、しかも灰色に煤け薄汚く古ぼけた屋根、さらにはその屋根にへばりつくように立っているこれまた灰色のずんぐりむっくりの煙突の数々、いわゆるチムニー・ポッドの群ばかりだった。

それでも石田はそのモノトーンの風景のなかに何かひとつでも違うものを探し出そうと目を凝らした。すると、あちこちにある瓦礫の山が目にとまった。それは戦時中のドイツ軍による空爆の爪痕だった。普通ならなんの感動も湧いてくるはずのない光景だったが、奇妙なことにそれを見た彼はある種の安堵感を覚えもした。焼け野原の東京で嫌というほどに目にしてきた瓦礫の山々に通じるその光景が、これから長年暮らすことになるであろう異国の地ロンドンのなんとも無粋で無機質な第一印象をなんとなく身近なものにしてくれたからだった。

気を取り直してあたりをもう一度よく眺めやると、あちこちの家々の煙突から煙が立ち昇っているのが見えた。煙突から煙が出ているということはその下に赤々と火の燃える暖炉があるということだし、またその暖炉を囲んで生活を送る人々がいるということでもあった。灰色の屋根と煙突ばかりの一見無機質な風景の下にもそれぞれに温かい心を持った人々が暮らしているのだと思うと石田の心は明るくなった。いったんは消えてしまいそうなほどに小さくなってしまった心の灯が再び大きく輝き燃えたってくる感じだった。さきほど目にした近くの瓦礫の間からはプリムローズの花とおぼしきものが咲いているのが見えもした。そしてその花のなんとも言い難いたたずまいは、意外なほどに彼の心を和ませてくれた。

――戦勝国の首都ロンドンとはいってもまだ戦後そうたってはいないのだから庶民の生活はつつましやかなものであるに違いない。たぶん、パンもバターも卵も衣類などもまだ配給制であるに相違ない。でもアメリカを除く世界中のほとんどの国がまだどこもそうなんだから、そんなことなんかすこしも気にならないし、実際それはたいしたことでもないだろう――なんとも不思議なことではあるが、彼の胸中にしばしそんな思いが駈けめぐった。

そのとき突然、階下のホステルの食堂とおもわれるあたりから若い人々のものらしい明るい笑い声が響いてきた。どうやらそこではBBC放送のスタッフたちが朝食を取りながら談笑しているらしかった。考えてみると、このホステルには、40ヶ国語以上にもわたるBBCの海外放送スタッフとして、世界各地からやってきた若者たちが宿泊滞在しているはずであった。彼らはみんな自分の仲間なんだと思うと、心強くも感じられてきた。石田は洗面をすませ、身なりを整えると、おもむろに食堂へと通じる階段を下っていった。

このBBCホステルはリージェントパークの南側、ハイドパークの北々東に位置するニュー・キャヴェンディッシュ・ストリートに面していた。ビッグベンのある国会議事堂やバッキンガム宮殿のあるあたりからはかなり離れてもいたから、それらの建物の影がまったく見えないのも道理ではあった。もともとは地方からやってきている未成年の女子職員の寮になっていたのだが、外国人のBBCスタッフについては例外的な処置がとられ、成年男子であっても一定期間は滞在することが許されていた。そのかわり食事時間や門限には厳しい規制があって、当時イギリス国内では既に放送が始まっていたテレビジョンの受像機を自室に置くことも禁止されていた。万事において自分のペースを守ることが好きな石田は、このホステルに1・2週間滞在しながらいずれどこかに下宿屋を探し、そこに身を落ち着けるつもりだった。

とりあえず階下の食堂におりて軽い朝食をとった石田は、あらかじめ伝えられていた指示にしたがって、BBC海外放送本部や海外放送スタジオなどのあるブッシュハウスへと向かうことにした。ホステルからブッシュハウスまでは3キロ前後の距離があるのでバスに乗ることも考えたが、すこしでも早くロンドン市内の地理に通じたいという思いもあり、また時間的な余裕もあったから、ホステルでもらった地図を頼りに目的地までのんびりと歩いてゆくことにした。幸い英語による日常会話にはすこしも不安がなかったから、たとえ途中で道に迷ったとしても目的地への行きかたを尋ねるのは容易なことだった。

ホステルをあとにしてニュー・キャヴェンディッシュ・ストリートを東に進むとすぐにリージェント・ストリートとの交差点に出た。そこを右折してリージェント・ストリートぞいにくだると、ほどなく左手に昨夜ちょっとだけ訪ねたBBCの放送会館が見えてきた。自分にはまだどこか遠い存在であるかのように感じられもしたけれども、いっぽうでは、ともかくもこのBBCの一員になったのだという自負の念を覚えながらその放送会館の前を通り過ぎた。さらにすこし進むとキャヴェンディッシュ・スクエアを右手に望む地点に出た。

オックスフォード・ストリートを横切りさらにリージェント・ストリート伝いに歩いていくと、前方に新旧様々なビルや各種娯楽施設、デパート、レストラン、大小の店舗などの立ち並ぶ一角が見えてきた。その中心部とおもわれるところは円形の大きな広場になっていて、そこから八方に向かって道路がのびていた。石田は、かつて暮らした中国の大連にある中央大広場の光景を想い起こした。もちろん、そこが世界的に有名なロンドンの繁華街の中心地ピカデリーサーカスだった。

当時の日本人としては例外的なほどに英語が堪能だった石田も、ピカデリーサーカスの「サーカス」という言葉が曲芸のサーカスではなく、四方八方から道路が集まる地点を意味しているのだということまでは知らないでいた。その言葉のほんとうの意味を聞き知ったのは渡英後しばらくしてからであったが、ともかくも、彼はそのピカデリーサーカスの円形広場へと足を踏み入れたのだった。広場の中央には天空に向かって一本の矢を放とうとしている天使の像が配置されていて、すくなからず石田の好奇心を煽り立てた。恋の仲立ちをするキューピットの矢の話を即座に想い浮かべながらその像に近づいてみると、付属する碑文には、それがアルフレッド・ギルバートという人物によって制作されたものである旨が記されていた。

まだ午前中ではあったがさすがにイギリス随一のダウンタウンだけのことはあって人通りは多かった。東京の銀座や有楽町あたりと同様に街角に佇み通りがかりのGIらに向かって声をかける街の女の姿なども見かけられたが、紳士淑女の国と謳われるイギリスゆえなのだろうか、それとも時刻柄なのだろうか、東京の繁華街の場合とは違って米兵らもその行動をある程度自粛しているように感じられてならなかった。

正直なところ、ウィンドウ・ショッピングをしたり、周辺の劇場その他の文化施設を覗いたり、裏通りを歩いたりと、ピカデリーサーカス一帯をすぐにも散策したい気分ではあった。だが、これから先いくらでもそのようなチャンスはあるのだからと自らを戒め、石田は目指すブッシュハウスに向かって歩を速めた。もっとも、現実にピカデリーサーカスにその足を踏み入れたことによって胸に湧き上がってくる熱い思い、すなわち、自分がいま間違いなくロンドンの真中に立っているのだという感動を抑えることはできなかった。「やっぱりここはロンドンなんだ、まごうかたなきロンドンなんだ!」と彼は心の中で叫んでいた。

ピカデリー・サーカスからチャーリング・クロスに向かう途中で有名なトラファルガー広場を通り抜けた。石造りの大きなビル群の間に位置するこの広場は、1805年のトラファルガーの海戦においてナポレオン率いるフランス・スペイン連合艦隊を撃破して大英帝国に勝利をもたらし、しかも自らは戦死した救国の英雄ネルソン提督を記念して造られたものだった。石田はしばし足をとめてこの広場の一角に高々と聳え立つネルソン提督の記念碑を仰ぎ見た。高さ40メートルほどはあろうかという石柱状の台座の上にはネルソン提督のものとおぼしき人物の大石像が設置されていた。石像の頂きまでだと高さ50メートルくらいはあるだろうか。日本にいる頃、写真か何かでこの像を目にしたことはあったが、実物を目にしての感慨はまたひとしおであった。日常的にそれを見なれたロンドン市民にとってはなんでもない石像ではあっても、かつて7つの海を支配し一大繁栄を極めた大英帝国のシンボルとの初対面は、石田にとって自分が英国の中心地に立っていることの確固たる証ともなるものだった。

トラファルガー広場を抜けるとすぐにチャーリング・クロスに出た。チャーリング・クロスで左に折れてストランド・ストリートに入り、そのまま進めば目的地のブッシュハウスへと行けることはすぐにわかった。だが、指定の時刻までにはまだかなり時間があったので、石田はそのままテームズ川河畔へと向かった。ロンドンとくれば誰しもが連想するのはむろんテームズ川である。まずはテームズ川を一目見てみたいと彼が思ったのは無理もないことであった。

チャーリング・クロス駅を左手にしながら2、300メートルほど進むとほどなくテームズ河畔に出た。悠然と時を喰んで流れるテームズ川の眺望に見惚れながら、これが常々噂に聞いてきた川なのだ、写真や絵画などで幾度も目にしてきたあの有名な川なのだと自らの心にしっかりと言い含ませた。下流域であることもあって格別に美しい川だという思いはしなかったけれども、壮大な歴史をその無言の流れのなかに秘めたテームズの姿にはなんともおかしがたい風格のようなものが感じられてならなかった。

テームズ河畔に沿って上流方向へとすこし歩くと、5、600メートルほど前方にひときわ高く聳え立つ四角柱状の高い塔の影が見えてきた。日本の国会議事堂の上部デザインをも連想させる四角錐状の塔先端部は高く鋭く天を突き、そのすこし下のほうには一目見てそれとわかる大時計が配されていた。言わずと知れたビッグ・ベンの偉容であった。茶色にくすんだいかにも重々しいその時計塔の高さは100メートル前後もありそうだった。石田は河畔伝いの道をゆっくりと歩いてビッグ・ベンの真下まで近づき、その大きな文字盤と長短2本の針をしげしげと仰ぎやった。そして、この一帯は時間をかけてあらためて訪ねなおすことにしようと思いながら、チャーリング・クロス駅の方へと向かって再び来た道を引き返した。そんな石田の後姿に向かって何事かを語りかけでもするかのように、時を告げるビッグ・ベンの深く澄んだ鐘の音が高らかに響き渡った。

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