ある奇人の生涯

61. アジアの空をひたすら西へ

アラビアンナイトの世界を地でいく、いや、空でいく旅はそれからが本番だった。香港を飛び立ったBOACの飛行艇が次に降り立ったのはタイのバンコクだった。戦時中には日本軍の支配下におかれていたタイの首都バンコクもこの頃までにはすっかり落ち着きを取り戻し、はるばるやってくる異国の旅人たちを独特の文化のかおりで包み込んでは、しばしその旅愁と長旅の疲れを癒し慰めてくれるようになっていた。バンコクには宿泊するためではなく、フライト中の休憩をかねたティータイムを楽しむために一時的に立寄っただけだった。だから市内観光をおこなう時間などなかったのだが、それでもなお初めて目にするバンコクの情緒豊かな景観は、好奇心旺盛な石田の心を惹きつけるには十分だった。そもそもイギリスへと向かう航空機がティータイムをとるために一時着水するなど、いまから考えると贅沢かつ優雅きわまりない話であって、おなじ空の旅ではあっても古き良き時代ならではのことであったというほかない。

ティータイムを終えた一行は再び飛行艇に乗り込むとメナム川(チャオプラヤ川)のデルタ地帯に位置するバンコクをあとにし、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)を目指す空路についた。戦時中、戦略物資と兵員輸送のために敷設されたタイ・ビルマ間の泰麺鉄道建設工事には、英国人捕虜を主とする35万人の外国人が強制労働に服役させられ、わずか1年2ヶ月の間に3万人もの犠牲者を出す事態となった。この不幸な出来事が原因でイギリス国内には強硬な対日批判が湧き起り、様々なかたちでのちのちまで尾を曳くことになった。

石田ら一行の乗る飛行艇は、泰麺鉄道建設中最大の難工事の現場となり、ずっとのちに映画「戦場にかける橋」の舞台にもなったクワイ河のあるタイ・ビルマの国境を軽々と飛び越え、バンコクから500キロ余離れたラングーンへと向かっていった。多数の犠牲者の出たその鉄道建設の悲惨な状況について具体的なことを熟知しているとは言い難い石田ではあったが、ジョン・モリスの仲介一時期英国大使館に身を寄せていたこともあったから、一通りの情報は把握していた。だから、日本人である自分がかつての敵国であるイギリス人とともに、しかも彼らの手厚い保護の下におかれながらかつての悲劇の地の上空を飛び越えることについては、いささか複雑な気分がしないでもなかった。

ラングーンにおいて乗客や乗務員一行は一流ホテルに案内され、それぞれに割り当てられた豪華な部屋に宿泊した。色鮮やかに染められたターバンを巻き、きらびやかな衣装をまとって現れる現地のお客や従業員の姿は実に優雅で魅惑的なことこのうえなかった。不思議な香りと味のする各種フルーツ類をはじめ、運ばれてくる熱帯系の食材はいずれもそれまで石田が目にしたことのないものばかりで、その場の幻想的な雰囲気はいやがうえにも高まるばかりだった。

翌日ラングーンを出発した飛行艇は北西に進路をとり、ベンガル湾北部をいっきに飛び越えてガンジス川の河口に近いインドのカルカッタへと向かおうとしていた。ところが1,000キロほどあるその飛行行程中に予想外の事態が発生し、乗客らは一瞬ひやりとさせられることになった。なんと、飛行中に一羽の水鳥が四基のプロペラエンジンの一基に飛び込み、そのエンジンがまったく動かなくなってしまったのだった。一時はどうなることかとハラハラもしたが、幸いにも残り三基のエンジンは無事だったので飛行艇はそのままカルカッタまで飛び続け、無事同地の水域に着水することができた。ただ、その後の飛行を続けるためにはどうしても壊れたエンジンを修理しなければならなかった。

当初は短時間ですむかと思われていたがエンジンの損傷は予想以上にひどく、部品調達などの関係もあって完全修復には3、4日かかるということになった。そんなわけで、結局、乗客一行はその間カルカッタのホテルで待機せざるをえなくなった。その間BOACは自社保有のバスに一行を乗せカルカッタ市内の観光ができるように便宜をはかってくれたので、石田ら一行は一羽の水鳥が身を呈してもたらしてくれた思わぬ余暇を存分に楽しむという望外の結果に恵まれた。当時の社会事情や経済事情などもあって観光旅行者の姿などまだほとんど見当りなどしなかったから、ゆったりとした気分でこころゆくまで異国の風情にひたることができた。

4日間のカルカッタ滞在中に、石田は英国人を中心とする同行の欧米人たちからいろいろな体験談を聞かされる羽目になった。はじめのうちはそれらの話を面白いと思い、彼らと一緒に笑い興じていたのだったが、そうこうするうちに石田はしだいに気が滅入ってくるようになった。冷静になって彼らの話を聞いてみると、それらのすべてが異民族、とくにインド人に対する偏見や独断さらには誤解などに満ちみちており、そうでなくても矛盾があったり意味のないオベンチャラだったりしたからであった。

ホテルの自室にこもりあらためて考えなおしてみると、その場所がたまたまインドのカルカッタだったからそうなったというのではなく、この世界この地球上のどこにおいても常に同様のことが起こっているのだと再認識せざるをえなくなった。そもそも欧米列強国がアジア各地を支配し植民地化したのも、そんな欧米列強による支配からの解放を建前に日本が中国や東南アジア諸国を侵攻したのも、そして日本やドイツと米英を中心とした連合国との間に戦争が起こったのも、その根源はまったくおなじだったのだと石田はつくづく感じるのであった。

憧れのイギリスに、そしてヨーロッパ文化の中心地のひとつであるロンドンに行けるというので、喜びだけがついつい先に立ってしまい、日本をあとにしてからはもっぱら広大な空と海と飛行艇の立寄る各地の文化のきらびやかな表層だけを眺めてきたが、もう一度人間という存在の原点に立ち返って自分のあるべき姿を模索する必要があると、ここにいたって彼は決意を新たにするのであった。戦後はじめての民間日本人としてイギリスに渡る自分を待ちうけるのは「ジャップ」という言葉に象徴されるような侮蔑と敵意に満ちた偏見かもしれない――そう石田は覚悟せざるをえなかった。

壊れたエンジンの修復を終えカルカッタを飛び立った飛行艇はインド大陸を西へ向かって横断し、2,000キロほど離れたところにあるパキスタンの首都カラチへと到着した。だが、インダス河デルタ地帯に位置するカラチではその日猛烈な砂嵐が吹き荒れており、とても市中を見学してまわれるような状態ではなかった。やむなくして一行のほとんどの者は翌日の出発時刻までホテルにこもりきる有様だった。むろん、石田もホテルの自室のベッドに横になり、とくに何をするでもなくひたすら惰眠をむさぼり続けた。

一行は翌朝再び空路についてカラチをあとにし、1,500キロほど西方にあるバーレーンを目指した。飛行艇は順調にオーマン湾上を飛行し、ドバイの上空を経てペルシャ湾上へと差しかかった。アラビアンナイトの世界の空飛ぶ絨毯の現在版とでもいうべき空飛ぶ船が本場のアラビア地方上空へと到達した瞬間でもあった。ただ、カラチを飛び立ってからというもの、海面と交錯するようにして時々眼下に広がって見える陸地の光景はただもう茶色一色であった。それはまた、陸地は豊かな緑に覆われているものという日本人にありがちな固定観念が誤りであると身をもって認識させられた瞬間でもあった。

広大な砂漠地帯や乾燥地帯がこの地球上に存在しているという知識はむろん持ち合わせていたが、単に頭の片隅に眠る死んだ知識としてでなく動かし難い事実としてそれが立ち現れたのは、ある意味石田にとって衝撃的なことでもあった。ロマンに満ちみちたアラビアンナイトの世界のヴェールを一枚はがしたところには、悪魔のそれ以上に凄みのある顔をした自然が待ちうけていることを石田はあらためて痛感するばかりであった。

その日の夕刻、BOACの飛行艇はアラビア半島東岸に近いペルシャ湾バーレーン島沖に着水した。そしてそこで一泊するためにバーレーン島に上陸したが、揺らめき立つような赤い夕陽とモスクの影との織り成す幻想的な光景は石田の心の奥底に深くふかく焼きついた。中東の石油の重要性がまだいまほどには問題になっていない時代のことでもあったから、そのような政治的あるいは経済的な背景などには関係なく、ペルシャ湾に面した快適なホテルの中に身をおいてひたすら異国での旅の想いに耽ることもできた。

幸い飛行艇の旅はその後も順調に続いた。バーレーンを飛び立った一行は砂漠で覆われたアラビア半島を斜めに横切り、紅海北端のシナイ半島上空を通過した。そこまでにいたる途中で眼下に眺めたった砂と岩との黄色い大地は、カラカラに渇ききり、緑の影らしいものはまったくといっていいほど見当らなかった。すこしも信心深くはない石田ではなかったが、この世の創造主というものの不平等さを一瞬垣間見た思いでもあった。

ほどなく飛行艇はスエズ運河南端付近を通過してエジプト上空に入り、カイロの北西をかすめるように飛行して地中海に面する古都アレクサンドリアに着水した。ナイル河口に位置するアレクサンドリアに立寄ったのはティータイムをとるかたわら給油をおこなうためだった。バンコク、ラングーン、カルカッタ、カラチ、バーレーンと旅を続ける間には、それぞれの土地の景観や文化風俗に触れて感銘をうけるいっぽうでなにかと複雑な思いに沈むこともすくなくなかった石田だったが、歴史に名高いアレクサンドリアの地に足跡を刻むにいたって、彼の心は再び明るい期待と素直な感動とによって満たされるようになっていった。

アレクサンドリアを出たらいよいよ風光明媚で知られる地中海である。青い空、青い海、大小の美しい島々、白壁の家々、歴史と伝統を秘めた古い教会、豪華なヨット、瀟洒なホテル、甘い音楽、そして優雅なダンス――石田はお茶を飲みながら、かねがね文学作品や映画などを通して想い浮かべていた地中海の情景が現実のものとなって眼前に立ち現れる瞬間を夢想し、激しい胸のときめきを覚えるのだった。もしもこの世に天国というものがあるとするならば、それは、アレクサンドリアを飛び立ったあとで眺めることになるであろう地中海の風景とそこに散在する文化的な地方や国々のことに違いない――そう彼は想像しまた確信もするのだった。

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