ある奇人の生涯

53. 日本を愛したジョン・モリス

相手の日本人青年が流暢な英語を話すということをモリスが知った瞬間から、二人の会話は日本語中心から英語中心へと移行した。君はいったいどこでそんな英語力をつけたのかと驚き問いかけるジョン・モリスに、石田はシティ・バンク大連支店に勤務し米国人支局長のもと欧米人と一緒に働いていたこと、上海で外国人相手の石田・ランゲージ・アカデミーを開校し校長と経営者を兼務していたこと、同じく上海で一時期海軍武官府やイタリア大使館等に勤め英語の文献に常時接する機会があったこと、さらには終戦直後の短期間上海の米国情報部に呼ばれ情報処理の仕事を手伝っていたことなどを簡単に説明した。

すっかり石田のことが気に入ったらしいモリスは、もうすこし話を続けたいのだが時間はあるかと尋ねてきた。石田が正直に、今日博多から上京してきたばかりなのだが、あまりにも変わり果てた東京を目にしてどうしたものか途方に暮れていたところだと打ち明けると、モリスはそれでは話は早いと笑って、その折宿泊していた六本木近くの外人専用ホテルへと彼を連れていった。そして、そこのレストランに陣取ると、軽い食事をとりながら二人は再びあれこれとこころゆくまで話し込んだ。

ところが、NHKの組織そのものがマッカーサー指揮下のGHQからの命令でBBCをモデルにした運営の民主化に取り組んでいる真っ最中であったため、日本人スタッフ派遣の話は実現せず、モリスはいったんイギリスに帰国した。ジョン・モリスのほうも日本という国と関わるようになった経緯などについておおまかなところを聞かせてくれるとともに、伝統的な日本文化を称賛しながら、それについての自らの造詣の深さなどを披露もしてくれた。

弾みにはずんだ話が一段落すると、ジョン・モリスは真顔になって石田が予想もしていなかったような提案を持ち出してきた。今晩はこのホテルに一緒に泊まり、明日から自分が本国に帰国するまでのすくなくとも1ヶ月ほどの間、自分の秘書兼通訳として働いてもらえないかというのであった。彼自身ある程度の日本語ならできるが、日本での諸業務に必要な本格的な日本語の会話や読み書きが自由にできるほどの能力はない、だから石田のようにきわめて高い英語の能力をもつ日本人青年を探し求めていたところなのだと、モリスはその申し出の背景を説明した。

だが、実際にはモリスの日本語の実力は相当なものであったから、秘書兼通訳として働いてほしいというのはあくまでも表向きの説明であった。ほんとうのところは、偶然出逢った石田に対し、モリスはさりげなく一種の面接試験をおこなっていたのであった。実はこの時、モリスはある使命を帯びて来日していたのだが、本国のBBC当局から最終的な指令を受けるすこし前のことだったので、それについてはまだ具体的に触れたりはしなかった。

渡りに舟としか言いようのないジョン・モリスのこの申し出を断る理由など石田にはまるでなかった。おりからの満月と名曲「荒城の月」とに導かれたまたとない幸運に心底感謝しながら、石田はジョン・モリスに自分でかまわなければぜひともその仕事を手伝わせてもらいたいと願い出た。モリスはモリスで、石田が自分の申し出を快諾してくれたことを心から喜んでいる様子だった。

敗戦直後の物資不足と戦災による甚大な被害のために一般市民は皆困窮した日々を送っていた時代であったが、GHQの指示で接収され外国人専用に供されていたそのホテルの中はさすがにそれなりの水準に整えられていた。石田が知る和平飯店のようなかつての上海租界の一流ホテルに較べればその設備に格段の差がありはしたものの、当時の日本の状況からすればそれ以上の贅を望むのはないものねだりというものだった。

その夜、石田はモリスが用意してくれたホテルの一室に宿泊し、しつらえられたベッドの上に横たわると、しばし深い想いに沈んだ。ほんのちょっとでも状況が異なっていたら、その夜彼は焼け野原の広がる東京のどこかでじっと空腹に耐えながら野宿することを余儀なくされていたはずだった。しかし、不思議な運命の廻り合せから、現実には十分に食事をとりこうして清楚なベッドの上で眠りに就こうとしている――あらためて彼は自分の並外れた強運を想うとともに、ジョン・モリスという人物の寛容さに心底感嘆せざるをえなかった。

ほどよいベッドの温もりに包まれながら、石田はこの夜久々に、自らの意志で上海に残ったミサのことを想い浮べた。上海からの引き揚げにともなう慌しさと日本帰還後の厳しい生活状況のもとでしばしミサのことが念頭から離れてしまっていたが、そんな中にあったにもかかわらずたまたまホテルに泊まることになったという予想外の展開が、彼の脳裏に一種の連想作用をもたらしたからにほかならなかった。もちろん、ミサのその後の成り行きについてはまったく想像もつかなかったが、彼は上海でのミサとの一連の想い出にひたりつつ、ひたすら彼女の無事と幸運を祈りもした。そして、そうこうするうちにいつしか深い眠りの底へと沈んでいった。

ジョン・モリスという人物は戦前に来日し、現在の筑波大学の前身である東京文理科大学や慶応義塾大学において開戦時まで英語と英文学の教鞭をとっていた。1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦当日の早朝を期して、当時「敵性国人」と称された東京在住のすべての英米人に対しては、自宅軟禁か巣鴨拘置所収容という特別な措置がとられ、その日を境にして日本各地の大学の英米人教師は一斉に教壇から姿を消すことになった。ところがこのジョン・モリスだけは例外であった。もともと大変な親日家の紳士であり深く日本文化に傾倒していたモリスは、霞ヶ関の外務省の特別顧問のような役職をも担当していた。そのため、特高警察による尾行は常にあったものの、日常的な行動の自由はそれなりに保証されていた。

その頃の東京帝国大学ではピカリングらが英文学の講義にあたっていたが、彼ら講師もみな軟禁あるいは収容されてしまったので、英文学を担当する英米人教師は当然誰もいなくなってしまった。そこで、当時の市河三喜東京帝国大学教授は特別に政府当局やジョン・モリスとかけあい、1週間に1度だけ東京帝大で英文学の講義をおこなってもらうようにとりはからったりもした。その結果、モリスは週1回東京帝国大学に出向き、学生相手に文学論と芸術論の講義をおこなっていたが、日本と米英との戦争について直接触れ語るようなことはまったくなかった。

モリスは代々木の近くに住んでいたが、その自宅には夥しい数の東西の書物が並べられていて、それら蔵書のなかには、その扉に「森巣純蔵書」という洒落たデザインの角印を押した紙が貼られているものもすくなくなかった。もちろん、森巣純という三文字はモリス・ジョンのもじりであった。そのモリスも開戦翌年の1942年7月には戦時国際法に基づく交換船でイギリス本国へと強制送還された。

ドイツの英国侵攻が予想されるようになった1941年(昭和16年)4月末のこと、BBCの海外放送委員会は、「日本の世論に強い影響を与えるために日本語放送を開始する。これは日本の戦争参画を防ぐための強力な手段となるであろう」というような内容の決定をおこなった。日本の一般国民には短波放送の受信が禁止されているということをBBC当局者も承知していたが、日本政府の情報機関や陸海軍省の中枢部は海外からの放送を受信しているはずであり、民間受信者も皆無ではなかろうから、多少とも効果はあるだろうという希望的観測もいっぽうにあったからだった。

しかし、この計画を実践に移すためには日本語に堪能なスタッフの人選や放送内容の検閲者の確保が不可欠であった。そして諸々の事情でその人選や人材の確保は難航し、結局、BBCによる日本語放送計画はいったん中止のやむなきにいたった。日本滞在13年のF・J・ダニエルズ・ロンドン大学講師のような知日家たちが、日本にはほとんど短波受信機が存在していないこと、隣組制度によって日本の庶民は相互監視の状態におかれていることなどにより、期待されているような効果を生むのは困難であると進言したことなども計画中止の一因だったと言われている。

そのような状況にともない、強力な中波か長波を用い、シンガポールあたりの放送局から、やさしくゆっくりとした口調の英語で日本のインテリ階層向けに放送をおこなったほうがより効果的なのではないかというような意見も出されようになった。そして実際にその年の12月初めにシンガポールから日本語と英語で日本向けの放送が始まったのだが、その直後の12月8日、日本は米英に対し戦宣布告をするにいたった。

対日開戦からほどなくしてシンガポールが日本軍の支配下に入ったこともあって、イギリス国内は宣伝戦略の意味をもふくめて新規のルート通じた日本語放送の必要性が大きくとりざたされるようになった。英国情報省などは日本語放送をおこなうに十分なスタッフが集まらない場合には、不定期な放送になってもかまわないと主張したほどだった。それと並行して、「日本人は世界的に孤立した特殊な国民であるから、アナウンサーに実際の日本人を起用したりしたらかえって強い反発が生じるかもしれない。だから、イギリス人でそれなりの日本語を話すことのできるような人物をスタッフに選んだほうがよい」というような議論などもおこなわれた。

1943年に入ると戦況は連合国側に有利な展開を見せはじめていたが、まだまだ終戦の見通しが立つような状況ではなかった。そこでイギリスは、自国内の放送施設をアメリカに貸し与えヨーロッパ向けの宣伝放送を許可するかわりに、アメリカのサンフランシスコにあるKGEIやKRCAなどの放送局の電波を借用させてもらい、同年3月から対日放送を開始することになった。

そして、ちょうどその準備が進められている頃に日本から送還されてきたばかりのある人材がBBCに採用されることになった。BBCの海外サービス部門に日本語放送部局を組織するうえでまたとない適任者とされたその人物こそ、ほかならぬジョン・モリスその人であった。

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