ある奇人の生涯

51. 戦後改革の嵐の中で

石田が上海から引き揚げ上京した前の年の昭和20年8月30日、連合国軍最高司令官として厚木飛行場に降り立った米軍元帥ダグラス・マッカーサーは、戦禍をまぬがれた東京丸の内の第一生命ビルにGHQ(連合国軍総司令部)本部を置くと、その6階の執務室に陣取り占領下の日本の行政に辣腕を揮うこととなった。「私は戦争でほとんど完全に破壊された一つの国家を再建するという仕事を課せられたのである」(マッカーサー回想録)と述べているように、厳しい諸情勢の中、それなりの決意と意気込みをもってGHQの頂点に立ったマッカーサーは、直ちにその稀代の難事に着手したのだった。

同年9月27日、昭和天皇は米国大使館を訪問した。その際、天皇は自ら進んで戦争責任をとることをマッカーサーに申し出たといわれるが、すくなからずその態度に感銘をうけたマッカーサーはその言葉をさりげなく引き取って鄭重に天皇に応対し、会談のあと二人並んで写真撮影をおこなった。この歴史的にも有名な写真が29日付けの新聞に掲載されると、その是非や背後の意図をめぐって国民の間に議論が巻き起こり、人間天皇の姿に賛同する者と神格化されていた天皇の権威失墜を嘆き悲しむ者とに国論は二分された。だが、いずれにしろ、その写真の公表はあらためて日本国民に敗戦の現実を突きつけ、その重みを実感させるところとなった。そして、翌年早々には天皇自らが人間宣言をおこなうに至った。

「まさに革命なり」という当時の高見順の言葉に象徴されるように、GHQによる占領行政は、明治以来の天皇制絶対の政治体制の下に置かれ、それを当然のものとして受け入れてきた大多数の日本国民にとっては革命以外のなにものでもなかった。マッカーサー自らがその回想録で述べているように、その革命は「間接統治」という名目のもと、連合国軍最高司令官が事実上日本国民に対して「無制限かつ絶対的な権力」を持つことによって、文字通りドラスティックに推進されていったのだった。

改革の2つの柱は徹底した「非軍事化」と「民主化」であった。昭和20年11月のA級戦犯29人の逮捕命令を手始めに、特高警察組織の解体、治安維持法の廃止、大財閥の非合法化、戦争協力者の公職追放といったように、旧来の軍国日本を支えてきた体制の排除とその体制を国民に強要してきた責任者らに対する容赦ない追及が断行された。またそのいっぽうで民主化への動きも迅速をきわめていた。同年10月に就任した幣原喜重郎首相に対してGHQから「民主化5大政策」が提示され、その大原則にのっとって、婦人解放、労働組合結成の奨励、憲法改正、教育の自由化、農地改革といったような政策が次々に遂行された。

それから数年を待たずして東西間の冷戦が激化し朝鮮動乱が勃発、そんな国際情勢のなかで「東洋のスイス」の実現を理想に掲げたはずの日本占領政策は大幅な変更を迫られ、米国との単独講和条約や安保条約の締結、さらにはマッカーサーの解任と、事態は大きく動いていくことになるのだが、終戦直後のこの時期の改革と国家復興への動きはまだある意味で純粋さを保ってもいた。

GHQによる間接統治は着実に進んではいたものの、敗戦に伴う虚脱状態からなお覚めやらぬ日本列島各所には、荒涼たる焦土が手の施しようもないままに広がっていた。昭和21年には戦災復興院によって国内の115都市が戦災都市の指定をうけたが、これは当時の日本の全都市の半数以上を占めるものだった。物量にものをいわせた米軍の本土空爆による被害は想像以上のもので、被災者920万、全焼家屋だけでも221万戸という凄まじいものであった。20年3月10日の東京大空襲だけにかぎっても、一夜のうちに10万人余の人命が失われ、100万人もの人々が路頭に迷う事態となった。

一面無残な焼け野原の中にぽつんぽつんと焼け残ったビルの立つ東京や横浜などに進駐してきたのは米第8軍を中心とする兵士たちだった。GIと呼ばれた米兵士たちはGHQの指令にしたがって戦後の占領行政遂行の手足となって活動していたが、そんな中で、彼らは彼らなりに、敗戦の屈辱を内に秘め強い警戒心を懐く日本人たちとなんとか心の交流をもてるようにしようと努めていた。

そんな努力を物語るかのように、GIたちのポケットの中には、「JAPANESE PHRASE BOOK」と題される一種の「日米会話帖」が収められていた。この小冊子はまだ大戦の最中の一九四四年二月に米陸軍省が作成し日本進駐の将兵らに支給したもので、「英語・日本式発音表記・日本語」の順に配列されており、収録されている表現も日常会話用語から軍隊用語、数の数え方まで至れり尽せりの内容になっていた。たとえば、それは、

Do you understand? waKA-ree Ma-ska? 解リマスカ

Please say it again. mo-ee-cheed-o eet-tay koo-da-SAee. モウ一度言ッテ下サイ

Please bring a doctor. ee-sha o yoan-day koo-da-SA-ee. 医者ヲ呼ンデクダサイ

Throw down your arms. BOO-kee o stay-RO! 武器ヲ捨テロ!

といったようなものだった。日本人の言語感覚からすればその発音表記にはあちこち不自然なところもあるものの、強調部分が大文字になっていたりして、それなりに工夫を凝らした会話集だったのである。

GIたちもなんとか日本の民衆の中に溶け込もうと必死になっていたが、日本人のほうもまた複雑な思いながらも、懸命に彼らへの応対に努めていた。戦時中、敵性語使用禁止の命令を遵守し、未来永劫英語なんかとは縁を切るのだと決意を固めていた人々は、皮肉にも英語と縁を切るどころか、堂々と英語文化をふりかざし進駐してきた米英人らを、すくなくとも表面的には喜んで迎え入れなければならなくなったからである。当時の週刊誌などをめくってみると、そんな状況下にあった日本人の苦労や戸惑いのほどが偲ばれる。

ある八百屋の親爺が知人の識者のところにやってきて、「そりゃね、敗戦国なんだから何をされたって諦めるよ。諦めるには諦めるがしかし、日本人をつかめーていきなり野郎呼ばわりはねだろうさ!」と怒りの気持ちをぶちまけた。その言葉を聞いたあと、「野郎」という意味の英語の表現がすぐには思い浮かばなかったその識者は、いったい相手の米兵が何と言ったのかを冷静に訊きなおした。すると、その親爺は、「いえ、なに、ただいきなり、ヤロウって呼びかけてきやがったんでさあ」と真顔で答えたのだった。

それを聞いてすぐに「ハロウ!」のことかと気づいた識者は、親爺に向かって、英語の会話では原則として相手の身分に応じて敬語のようなものを使い分けたりはしないこと、したがって、巡査が「オイコラ」という場合も、街角に立つ女が「ねえ、ちょと……」と男に声をかける場合も、初対面の相手に「初めまして!」と話しかける場合もみな「ハロウ」でよいことなどを説明した。識者の説明を聞き終えた親爺は、「するてーと、アメ公の奴らにゃ野郎も旦那もねえわけですね。それが民主主義っていうもんなんですかねえ」と妙に納得したような言葉を返してきたのだった。

「昨日の敵は今日の友」の諺通り、時間がたつにつれて進駐軍兵士や来日外国人と日本住民との間にはなごやかな雰囲気が漂いはじめたが、なお、お互いの風俗習慣、言葉の違いなどが原因で生じる摩擦はあとを絶たなかった。そこで、そんな摩擦をすこしでも軽減しようということになり、「志操を高く保持せよ」とか「米軍は無邪気」とか「米兵からの物買をやめよう」とかいったような注意事項のあとに詳細な説明をつけた「占領軍との接触心得」が各新聞紙上などに掲載されたりもするようになった。

たとえば、「志操を高く保持せよ」という接触心得には次ぎのような6項目の具体的な指示が記載されていた。

条約が成立した上は最早や敵ではない。われらは大国民としての襟度を示し殊に帝都都民の態度如何が世界の注視の的となってゐることを弁へ沈着冷静秩序ある行動をとって大和民族の真価を発揮しなければならぬ、特に婦女子は態度容儀を整正にし、大日本婦人の志操を高く保持することが肝要だ。

一時の興奮と個人的感情から連合国の軍隊又は外国人に暴行を加へるような軽挙盲動をすればこれら個人の行動が今後の日本の国運に対し大きな悪影響を惹起することになるから絶対にこれらの行為を慎まねばならぬ。

こんどの進駐は平和進駐である点で交戦中の占領地域への侵入とは趣きを異にしてゐる、従って連合軍が進駐した後の治安維持は従来通りわが警察と憲兵を信頼して無用の心配を慎むことだ、都民の一人一人が当局の指示に従って行動し、治安ががっちりと確立してゐれば連合軍も殊更に事を荒だてる行為はしない、流言に迷はされたりつまらぬ憶測をして勝手な行為に出ることはげんに慎まねばならぬ。

食料等生必物資の配合については当局において従来通りの配給を確保し、万全の措置を講じてあるからごうも心配の要はない。

分らぬことがあった場合または連合国軍隊或は外国人との間に問題が起きた時は直ちに警察、憲兵に届出、無用の摩擦は避けねばならぬ。

今後の成行については政府から新聞、ラジオを通じて発表され、また警視庁からも必要なことをその都度指示するからこれに注意し、よく守って落着いて各自の職域に精励することだ。

(以上原文のまま)

またなかには「日没後通行禁止」のような物騒な内容を記した接触心得なども登場したようである。その内容は米進駐軍の一方的な通告を記したもので、米軍にもそれなりの事情がありはしたのだろうが、友好的というには甚だ程遠いしろものだった。

立川地区連合軍司令官コペック騎兵大佐は立川警察署長を訪問して次の通り命令を発し即時実施を要求した。

日没より日出まで一切の通行を禁ず、違反者は射殺することあるべし。

一切の酒類の販売を禁ず、米国製の衣類の使用を禁ず。

アメリカ軍隊より物品を買受け、または交換したるものは死刑または20年の刑に処する。

日本人はアメリカ人を尊敬すべし。

日本人の乗車せる一切の車は米国軍の乗車せる一切の車輛を追越すべからず、違反したものは射殺することあるべし。

(以上原文のまま)

相互の無理解が原因となって、時には日本人の神経を逆撫でするこのような事態も起こりはしたが、全体としては進駐軍側も極力日本人との意思の疎通をはかろうと様々な努力を重ねていた。相互理解にとって最大の壁となっていたのは言うまでもなく言葉の問題だったから、進駐軍当局は主要新聞各紙に「求む、英語の出来る者!」という募集広告を掲載し、英会話や英文の読み書きのできる日本人スタッフを一人でも多く雇い入れようと必死になった。この「進駐軍要員緊急募集広告」は昭和20年秋から翌21年にかけて連日のように各新聞2面の下段右端にきまって掲載されるようになった。

昭和21年の秋口、石田達夫はそんな状況のもとにあった連合国占領下の東京にひとりおもむろに降り立った。日本人離れした抜群の英語力をもつ石田のことだったから進駐軍にしてみれば願ってもない人材だったはずなのだが、まだ新聞など落ち着いて読む余裕などまるでなかった当の石田は、進駐軍当局によってそんな人材募集がなされていることなど知る由もなかった。辛うじて爆撃を免れた赤煉瓦造りの東京駅を出て丸の内側にふらふらと歩き出した彼は、ほどなく一面廃墟と化した周辺の無残な有様に愕然とし、しばしその場に呆然と佇むばかりだった。

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