ある奇人の生涯

41. シーメンスから伊大使秘書に

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

憲兵らによって日本語学校を有無を言わさず閉鎖させられ、軍部から危険分子視されるようになった石田は、まだその身柄こそ拘束されていなかったが、そのままだと本国に強制退去させられるか、さもなければ懲罰の意味を込めて現地徴兵されるおそれが生じていた。そのため彼は大急ぎで対応策を講じる必要に迫られた。幸い彼の日本語学校の生徒にはドイツ人も多く、また、短い期間であったとはいえ上海社交界に名を馳せていたこともあって、ドイツ大使館やその周辺筋には知人がすくなくなかった。そこで彼は当面の身の処し方として、どこかドイツに深く関係する職場に斡旋してもらい、そこで働くことを思い立った。日本の同盟国であるドイツ公館筋の仕事をしていればそれなりの大義名分も立つし、憲兵隊といえどもドイツ公館サイドの了解なしに自分を連行したり強制退去させたりすることはできないだろうと考えたからだった。

当時上海に置かれていたドイツ大使館のツテで新たに石田が就いたのは、ドイツ・アルバイト・フロント(Deutsche Arbeit Front)顧問という一風変った仕事であった。建前としては、上海に進出しているドイツ企業に必要な人材の斡旋をしたり、ドイツ企業と現地在住のドイツ人や日本人、中国人、ユダヤ人、ロシア人などとの間をとりもったり、両者間に生じたトラブルの対応にあたったりする部署の相談役ということだったが、その実態はあってなきがごときポストではあった。だがそれでも、生活をするのに困らないほどの給料はちゃんと支払われもしたし、身分保証も十分になされていた。

日本語学校強制閉鎖のほとぼりがさめるまでドイツ・アルバイト・フロント顧問の仕事に従事したあと、石田はやはりドイツ大使館の知人の紹介でドイツ企業シーメンス上海支社に日本人顧問として就職、さらにはおなじくドイツ系の染料会社インダス・グレーンなどの顧問をも兼任した。大連のシティ・バンクにおいてそうであったように、それらドイツ系会社においても彼は短期間でめきめきと頭角をあらわし、ドイツ人支社長をはじめとする会社の幹部からも大きな信頼をうけるようになっていった。もちろん、憲兵隊や地元傀儡政権下の警察などからは陰で密かにマークされ続けていたに違いなかったが、直接にそれら官憲の手が彼の身辺に及ぶようなことはなかった。

厳しい報道管制がなされていたため公表されていはいなかったが、この頃になると同盟国側の戦況はいたるところで悪化の一途をたどりはじめ、一部の事情通の間では悲観論が囁かれるようにもなっていた。あまり多くは語られることがなかったけれども、ヨーロッパのドイツ・イタリア戦線が連合国側の反撃にあい徐々に不利に転じつつあるらしいということは、会社の幹部たちの会話の断片や業務の様子などからそれとなく感じとることはできた。ただ、それでも大戦の最後まで直接戦火にさらされることのなかった上海は、その時期まだ表面上は平穏で、南京路周辺の繁華街や大世界一帯の享楽街はなおそれなりの繁栄を保っていた。

シーメンスの支社長は日本人顧客や中国人要人を接待するときなどは、いつも必ず石田をその料亭やクラブに同行し、その応対にあたらせた。支社長はなかなかにこまやかな配慮の持ち主で、ドイツ流のマナーやエチケットを押し通したり押しつけたりするようなことはなく、たとえば日本人を接待するときなどには、自らはもちろん、部下たちにも日本風に振舞うようにあらかじめ命じたりしてもいた。そして、そのような場合にそなえて日本風のマナーやエチケットをドイツ人幹部に指導するのも石田の仕事のひとつであった。マナーやエチケットは国々によって大きく異なるから、母国の慣習にとらわれず常に臨機応変に対応すべきだというのが支社長の持論だったが、自己主張が強く自国の伝統に固執しがちなドイツ人気質を思うと、その支社長の柔軟な思考は意外なものにさえ思われた。

ただ、現実には真似しようにも真似することのできない生活習慣なども存在していた。その典型的な事例が食後に爪楊枝を使用する日本人の風習だった。事実上上海が日本の支配下に置かれるようになってからは、日本風料亭は言うに及ばず、それが中華料理店であれ西洋レストランであれ、日本人を接待したときには食後に必ず爪楊枝が出されるようになっていた。そんな情況の下において、ドイツ人と日本人が向かい合って会食したあとに見られる光景はなんとも奇妙かつ滑稽なものであった。

食後に爪楊枝が配られると日本人らは皆一斉にそれを受取るが、当然いっぽうのドイツ人たちのほうは皆それを不用だと辞退したものだった。そして次ぎの瞬間、日本人たちのほうは一斉に大きく口を開け、手にした爪楊枝の先で歯をほじくりはじめるのだが、それに対してドイツ人たちはちょっと困惑したような表情を浮かべながら、半ば不思議そうにそんな日本人たちの様子をじっと見守るというのがお決まりの光景だったからである。長い伝統と生活習慣の違いのゆえに生じるそのなんとも対照的な有様を目にしながら、石田は内心苦笑するばかりであった。

さすがの彼も食後の爪楊枝の使い方までドイツ人たちに教え込むことはできなかった。ドイツ人たちだって歯に食べ物がはさまることはあるだろうから、そんなときにはそれなりの対応をしているのだろうとは思ったが、すくなくとも食事のあとごとに爪楊枝みたいなもので歯をほじくる習慣のない彼らに、そんな日本人風の奇習を真似してもらうわけにはいかなかった。

ドイツ大使館筋、さらにはシーメンス社やインダス・グレーン社などでその語学能力や事務処理能力、的確な対外交渉能力などを高く評価されていた石田の噂はイタリア大使館にも伝わるところとなった。そのため、しばらくすると、ドイツ大使館員を介してイタリア大使館から石田に同大使館に勤務してくれるようにとの要請があった。シーメンス支社長は彼の能力を惜しんだが、せっかくの話をむげに断るわけにもいかず、結局、石田はイタリア大使館の大使秘書に就任した。そのお蔭で、いっそう身の安全は保証されるようになったけれども、同盟三国の極秘戦時情報を入手しやすい立場だけに、憲兵らがその不用意な行動を逆手にとって彼をおとしめにかかるおそれはあった。だから、彼も言動には慎重を期すことをこころがけた。

もっとも、このイタリア大使館勤務はその後の石田の運命に善い意味でも悪い意味でも皮肉な結果をもたらした。彼が大使館勤務をはじめた一九四三年の後半頃まではヨーロッパ戦線の情況が直接上海の大使館にまで影響をもたらすことはなかったが、翌年の一九四四年になると、ヨーロッパでの戦況の余波が遠く上海にも及ぶようになり、その結果予期せぬ事態が起ってしまったからである。

石田が大使秘書になった当時はまだヨーロッパの本国ではムッソリーニ政権が存続中だったから、イタリア大使館もそれなりに活発に機能しており、大使の仕事もすくなくなかった。彼も大使秘書としての業務を手際よく処理し、ことあるごとに力を尽して大使をサポートしようと心がけたから、その仕事ぶりに対する大使館の評価は高く、当然のことながら報酬も十分なものであった。

ところが、翌年になると、イタリア大使館内の雲行きがみるからにおかしくなってきたたのだった。折々不安と困惑の入り混じった表情を浮かべ、落ち着かない様子で考え込む大使の様子からも、ムッソリーニ政権下のイタリア本国が相当に厳しい状況におかれているらしいことは察しがついた。実際、この時期、連合国側の反撃攻勢に遭ってイタリア軍はずるずると敗退を重ね続け、追い詰められたムッソリーニ政権はついに崩壊、三国同盟の一角を担っていたイタリアは降伏するのやむなきに至った。だが、ナチス・ドイツはすぐさまイタリア各地を制圧してムッソリーニを保護下におき、パトリオ政権がそのあとを継承することになったのだ、イタリアはもはや政治的にも経済的にも完全に破綻した状況となった。そして、その影響をもろに被って上海の大使館そのものがうまく機能しなくなり、大使館員のやるべき仕事もほとんどなくなってしまったのだった。

大使秘書の仕事を解職こそされなかったものの、本国からの活動資金供給が途絶えがちになった大使館は職員の給与を大幅にカットするようになった。当然、石田の給料も半分以下にカットされ、やがては解雇通告もないままにほとんど給与が支払われない情況になってしまった。そしてそうこうするうちに、午前中出勤するだけで、午後は帰宅しても構わないと言い渡される事態にたちいたったのだった。上海にやって来た当時のような余分な貯えなどなかったから、とりあず生きていくためには何かほかの仕事をもやざらるをえなくなった。やむなく、大使館側に、午前中出勤したあとは何かほかの仕事に携わってもよいいかと相談をもちかけると、もちろん自由に何をやってもらってもかまわないというそっけない返事が戻ってきた。

そこで石田は早速他の仕事を探しにかかった。だが、午前中だけイタリア大使館で働いて午後から別の職場に出向くとなると、どうしても午後からの仕事のほうが中途半端になってしまう。そのため、現実にはこれというところを探すのは思ったほどに容易ではなかった。

もう一度シーメンスのようなドイツ系の会社にとも考え、あれこれ奔走をしてみはした。だが、まだイタリアほどではなかったにしても、ドイツもまた連合国の猛反撃によって既に劣勢に立たされ、戦況好転の見込みなど立たない状況になっていた。しかも、太平洋、大西洋、たインド洋は言うに及ばず、東シナ海や日本海の制海制空権までがほとんど連合国側の手に握られようとしていた。そのため、海上封鎖が現実のものとなりはじめ、ドイツ系企業といえどももはや業務遂行そのものが困難な情況になっていた。もちろん、だからといって、いまさら上海の日本人社会やその傘下の職場に飛び込み、軍部の監視下のもと、戦時思想にあまんじながら息を潜めて不承不承生きていく気にもなれなかった。そして、結局、そんな石田が潜り込むことにしたのは、いかにも彼らしい、しかし普通の人々の感覚からするとなんとも意外としか言いようのない仕事場だった。

カテゴリー ある奇人の生涯. Bookmark the permalink.