ある奇人の生涯

17. それぞれのツテで満州へ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

「結局それでどうすることになったんですか……、そこでまた石田流の悪運の強さが一役買ったとかいういつもながらの展開にでも?」  

進退窮まったときの状況を語る石田には、「悪運の強さ」という文句を持ち出してその後の話の展開を促せばよいと悟っていた私は、わざとそう相槌を打った。

「幸い、わりと親しくしていた若い香具師仲間の男がいましてね、彼がツテを頼って大連に行くといいますのでね、僕も彼に同行することにしたんですよ。大連で彼の仕事の手伝いをするという条件でね」
「大連方面はまだ日中戦争の影響は及んでいなかったんですか?」
「山東半島の向かいの遼東半島先端に近い大連は、当時日本が実質支配していた満州の南部に属する都市で、満鉄本社などもそこに置かれていましたからまだ安全だったんです。青島から大連に渡る船も頻繁に出ていましたしね」
「そうだったんですか。それで、その香具師の男がフーテンの寅さんの前身だったなんてことはありませんよね!」
「ははははは……、もしもそうだったら、寅さんまでは無理としても、僕もいまごろフーテンのドラさんくらいにはなっていたかもしれませんがね。いや、名前が達夫だから、フーテンの達さんか……」
「それで、舞台はいよいよアカシアの大連に移るというわけですね。でも、憧れの上海からはどんどん離れていくいっぽうだったわけじゃないですか?」
「そうそう、それでね、やっぱり自分には上海というところは縁がないのじゃないかって思いかけてましたね」
「大連へはむろん船で?」
「ええ、もちろんそうです……やはり一九三八年のことですね。僕と同様に日本には戻らず、ツテを頼って中国北部方面へと移っていった者がずいぶんといましたね。皆いったん船で大連に渡り、そこから満鉄などを利用して満州各地へと散っていったんです」
「大連行きの船に乗ったとき、かつての船員生活が懐かしくなりませんでした?」
「敗軍の将は兵を語らず……じゃなくって、脱船の男は船を語らずですね」

そう言い終えると、石田は一瞬ニヤリと笑ってこちらの顔を見た。

「タリーマンの仕事をまたやりたくなったとかってことはなかった?……でもまあ、またもや大連港で脱走劇が繰り広げられたんじゃ船のほうだってたまったもんじゃありませんものね」

こちらがそんな意地悪な質問をすると、相手はすぐに切り返してきた。

「いや、その前に船のほうがね……何丸っていったか船名はもう忘れてしまいましたけどね……その船なんか私の顔を見るなり、仲間を裏切ったおまえなんかを乗せてやるのは嫌だって……」
「ははははは……船にまでそんな嫌な顔されたんですか」
「それで、大連に渡っていろいろやったあと、タリーマンではなく外資系の銀行マンになっちゃったんですよ」
「はあっ?……銀行マンですか!……まさか、銀行のガードマンをやってたっていうんじゃないでしょうね?」

眼前の石田翁が銀行マンとして働いていた姿などとても想像できそうになかったので、私は思わずそう訊き返した。

「いや、ちゃんとした銀行マンになったんですよ。それもアメリカのちゃんとした銀行のね……、まだ日米開戦前のことでしたからね」

大連に渡ったあとの石田の暮らしぶりについての質問をいったんそこで留めおくと、私はわざと話を脇道へとそらしてみた。たまたま青島に流れついた石田にとって文字通りの「青い鳥」となってくれたベティという女性のその後の身の振り方が気になっていたからだった。

「じゃ、ベティさんも一緒に大連方面にでも?」

そう水を向けると石田はこちらのそんな言葉を予想でもしていたかのようにすぐに応じた。

「お互い明日のことはわからない身でしたから、身の振り方は別々に考えていくしかありませんでした。我が身の面倒をみるだけで精一杯でしてね」
「じゃ、ベティさんはどちらに?……日本に戻ったとか……」
「いや、ベティは大連経由で満州のハルビンへと移ってそこで働くようになりました。やっぱり日本には戻りたくなかったんでしょうね。もちろん、ツテがあるとかで、ハルビンへと行ったわけです。青島から大連へと渡る船便も別々でした」
「じゃ、石田さんとは青島で別れたままに?」
「ええ、大連とハルビンじゃかなり離れてますからね。ただ、その後もしばらくはお互いに手紙や電話などを通しての連絡はあったんです。それに、満州には何人か双方に共通の知人などもいましたから、そんな人を介して互いの近況などが伝わったりもしましてね」
「まったくお互いの消息が知れなくなったというんじゃなくてまだよかったですね」
「ただ……」
「ただ……どうしたんですか?」

その「ただ……」という短い言葉に容易には測り難い含みを感じた私は、とりあえずそう訊ね返した。

「なかなかの美人だったけど、おっそろしく気丈な女でしてね。ダンスホールなどで自分にしつこく言い寄る男あったりして、しかもその相手が金や権力はあるけどなんとも嫌な奴だったりすると、呆れるような仕打ちをやってのけてました」
「そりゃまた、いったいどんな仕打ちを?」
「踊っている最中などにキスをしながら、あらかじめ自分の口に含んでおいた葡萄の種などを舌先を使って相手の男の口の中に押し込んでしまうんです。自分に気があると思って男のほうがついついいい気になり、葡萄の種をそのまま呑み込んでしまうのを見はからって……」
「へえ……葡萄の種を口移しで呑み込ませるわけですか……。で、その行為にいったいどんな策略が込められていたっていうんですか?」

一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてながら、私はそう話の先を促した。

「そのあとすぐに、キスしたとき自分の金の入歯がはずれて相手の口に入ったのをそのまま呑み込んでしまっから弁償しろとふっかけ、それなりの額のお金を巻き上げたりしていましたね。大勢他人がいる前で堂々とそんな要求をするんですから、たとえ男のほうがハメられたと気づいても、結局、お金を払わざるを得ない……しかも、その後は、したたかな女だというわけで相手は二度と近づかなくなるっていう寸法です」
「それはまたなんとも驚いた手口ですねえ!」
「確かにしたたかではあったんですがね、自己防衛のため意図的にしたたか女を演じているところも十分にありましたよ」
「それが、当時の国際社会の社交場を独りで渡り歩きならが逞しく生き抜く女の知恵でもあったんでしょうね」
「そうなんですね。大陸の都市部の繁華街でいろいろなお客相手に働く日本女性は程度の違いこそあれ皆芯は強かったです。でもねえ、ベティの気性の激しさは別格でしたよ」
「それでも石田さんには優しかったんでしょう?」
「優しかったっていうより、ごく自然に接してくれていたっていうところでしょうかね」

そう言ってしばらく言葉を切ったあと、石田はベティという女性の気丈さを物語る凄まじいエピソードをいまひとつ紹介してくれた。

「ベティがハルビンに移ってからの話なんですがね、どう断っても彼女にしつこく迫ってくるロシア人がいたらしいんです。そして、とうとうあるとき不意に自宅に押し入られ、有無を言わさず強姦されそうになってしまったそうなんです。いま風に言うならきわめて悪質なストーカーだったってわけですね」
「それはまた……、それで勇敢に一大活劇を演じたとか?」
「いや、相手はロシア人の大男ですからとても力づくではかなわないと思ったんでしょう。ベティはいかにも彼女らしい非常手段をとったんです。意表を突くというありふれた言葉じゃ言い表わせないような手段をね……」
「うーん、ちょっと想像がつきませんが……」
「なんとそのとき彼女はとっさに台所に飛び込み包丁で自分の指先を切ると、大声で喚き叫びならが、激しく吹き出す自分の血液を相手の身体中になすりつけたというんです。さしもの相手もその凄まじい形相をまのあたりにし、強姦を断念して退散したのだそうですがね……」
「いやはや、そりゃまた凄まじいかぎりですね……」

驚きのあまり私がそう言ってしばし口をつぐむと、石田翁は最後に遠くを見つめ直しでもするかのような表情を浮かべ、一言ぽつりと呟き添えた。

「話が時間的に前後してしまうんですが、ベティはね、終戦になるまえにハルビンで死んでしまったんですよ。たぶん最後は一人ぼっちだったんでしょう、胸をやられていましたからね……。いくら気丈とはいえ、いろいろな思いが彼女の胸中を駆け巡りはしたんでしょうね。実際に僕がその死を知ったのはずっとあとになってからのことなんですがね。その事実を知ったときはさすがに悲しかったですね。お世話になりながら、結局、僕は何もしてはやれなかった……」

なんの衒いもなくそんな感情を素直に述べ語る石田の姿は、毒舌と皮肉の塊そのもののようないつものそれとはおよそかけ離れたものであった。幻術や妖術の厚いヴェールで何重にも覆い隠されたこの不可思議な老人の心の奥をほんの一瞬だが覗き見たような思いだった。

老翁の「ただ……」というはじめの呟きの背後に隠されていたそんな重たい現実の存在を知って、しばし私は黙り込んだ。いや、そうやって黙り込みながらも次の展開を語る相手の言葉を待っていたというのがほんとうのところではあったのかもしれない。石田達夫というこの奇人の波瀾に満ちた人生劇場の舞台は、実際、まだ第一幕が終わったばかりに過ぎなかったからである。

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