ある奇人の生涯

4. 人生模様ジクソーパズル

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

狐と狸の化かし合いのような会話をいつ果てるともなく続けるうちに、夜はしんしんと更けていった。我々を包む大気とお互いの体の動きこそ靜かだったが、二つの精神と精神とは激しい火花を散らしてぶつかり合っていた。自らの肉体こそ現実に相手に食われることはなかったが、精神のほうはかなり相手の牙によって傷つき食い荒されてしまった感じだった。そんな中でタイミングをみはからっていた私は、単刀直入に老人のほんとうの職業を問いかけてみた。すると老人は、「そんな質問に一口で答えるのは難しいですね。あえて言えば『人間と人間のコーディネーター』ですかね」とまたいわく有りげに笑ってもみせた。

それでも容易には納得せずあの手この手で追及の矢を放ち攻めたてる私に、さすがの老人もいくぶん防御の手段に窮したらしく、その正体の一部をあらわしかけはした。しかし、それらはあくまでも相手の全体像のごく断片的なものにすぎなかった。驚くべきことに、生涯に四十六もの職業を体験したとも語る老人は、己の人生を系統だてて語る好みなどないと嘯き、どうしても自分の過去に興味があるというのなら、ジグソーパズルを解くように様々な話を繋ぎ合わせ、勝手に全貌をつかめばよいと笑って私を煙に巻いた。

老人は、十三日の金曜日には、自分の人生に大きく関わるような「変な人物」に出逢うことがよくあるのだとも語った。実を言うと我々が出逢ったのもたまたま十三日の金曜日だったのだ。光栄なことと思うべきかどうかはいささか疑問ではあったのだが、もしその言葉が事実だとすると、どうやら私もまた「変な人物」のリストの一端に名を留めることにはなるらしかった。ジグソーパズルを解くためにはこれからもまた何度かここにお邪魔しなけらばならないだろうと告げると、老人はニヤニヤしながらこう言い足した。

「またここを訪ねてくれるなら、なるべく十三日の金曜日にいらっしゃい。もし誰か他の人を一緒に連れてくるなら、まともじゃなく、なるべく変な人間のほうがいいですねえ。ただ、その時までこの屋敷が存在しているかどうかわかりませんけどね……」

相手の言葉を待つまでもなく、私のほうもまた、この不思議な空間は次に訪ねるときには霧のように跡形もなく消え去っているのではないかという思いをもちかけていた。

翌朝私は老人の案内で屋敷の周辺を見てまわった。屋敷を背後から囲い込むような深い赤松林と、赤松の間に密生する雑木やトゲのある蔓草類からなる薮は、山歩きになれたこの身でさえも踏み込むのを躊躇するほどだった。屋敷の東側には細い水路が一本あって、かなりの勢いで澄んだ水が流れていた。

もっとも、住居を直接に取り巻く庭そのものはよく手入れが行き届き、天気のよい日などはその一隅でティーパーティなどができるように、テーブルと椅子とがほどよく配置されていた。庭に生えている植物には食用や薬用から鑑賞用まで珍しいものが色々あったが、それらの植物の特性を十分に配慮した工夫がなされているところを見ると、老人の植物に対する知識は相当なものらしかった。

建物の外側に付属するかたちで老人自身の手造りだという小さな露天風呂なども設けられていた。夏などはこの風呂にお湯を引き込み、林や庭の草木を眺めながらのんびりと汗を流すのだという。その露天風呂の近くには枝ぶりのいい一本のエゴの木が生えていた。花の季節にはまだちょっと早すぎたが、エゴの木は時が来ると白い清楚な花を枝いっぱいにつける。

東京から折々命の洗濯にやってくる若手のコピーライターは、この風呂に入ってエゴの木を眺めるうちに、「エゴの木の下では何をしてもよい」というキャッチコピーを思いついたとのだそうである。エゴの木のエゴをエゴイズムのエゴに重ねたらしいこの洒落たコピーは、とことん我が道を行く感のあるこの不思議な人物の本質をも物語っているようで大変に面白かった。老人は愉快そうにそんな話を続けながら、大きな赤松が二、三本、ほどよい距離と空間をなして生えている庭の一角に私を導いた。

そこには白い太糸で網んだ大きく丈夫そうなハンモックが張られていた。むろん、ハンモックの支え網は赤松の幹にしっかりとゆわえつけられている。天気のいい日などはこのハンモックに体を横たえ、読書をしたり昼寝をしたりすると、涼しく爽やかで快適このうえないとのことだった。大人ふたりが乗ってもゆったりしているそのハンモックに揺られながら樹々の間越しに青い空を仰ぎ、とりとめもない想いに耽るのはたしかに最高の気分だった。その時には予想もしないことだったが、カナダ製であるとかいうこのハンモックには意外な運命が待ちうけていた。

もう数年前のことになるが、集英社文庫の宣伝ポスターに、ヤング・アイドルの広末涼子が白いハンモックに腰かけた大きな写真が登場したことがある。実をいうと、広末涼子とともに広く全国に紹介されることになったそのハンモックこそは、この日私が老人に勧められるままに乗ったハンモックそのものだったのだ。ポスター用の写真撮影をおこなったカメラマンの市川勝弘がこのハンモックのことをたまたま想い出し、彼の強い要請でハンモックは直ちに東京に移送された。そして、若者のアイドル、広末涼子とともに集英社文庫の宣伝に一役買ったのであった。

屋敷の周辺をひとめぐりした私は、十三日の金曜日を選んでまた老人の「人生模様ジグソーパズル」を解きにやってくることを約束し、ひとまずその場を辞すことにした。のちのちのこともあるので、別れ際に私は老人の名前を尋ねた。まさか「穂高町ドラキュラ伯爵様」という宛書きでお礼状を書くわけにもいかないだろうと考えたからである。すると、老人は短く一言、「石田達夫です」と名乗った。老人に見送られながら玄関を出るとき、確認の意味もあって、メールボックスにさりげなく目をやると、間違いなく、そこにはローマ字で「TATSUO・ISHIDA」と記されていた。

いったいこの石田達夫という老人はこれまでに何人の旅人を食べてきたのだろう。いろいろな世界で創造的な仕事をしている若い友人がずいぶんいて、仕事に行き詰ったりアイディアが枯渇したりしたときはヒントを求めて皆ここにやってくる、と語った老人の言葉はまんざら嘘ではないだろう。ふとしたきっかけでこの老人の毒気にあてられた若い旅人などは、その不思議な魅力にとりつかれ、再度この屋敷を訪ねることになったに違いない。老人のほうは、そんな旅人や来訪者の発するエネルギーの一部を相手に悟られることなく吸収しながら日々を生きているというわけなのだ。自らのことを人生のコーディネータだといって笑った老人の顔をもう一度想い起こしながら、私は石田邸をあとにした。十三日の金曜日に、あらためてまたジグソーパズルを解きにやってこようと固くかたく心の中で誓いながら……。

東京に戻った私は、お礼状とともに次のような一篇の詩を老人に書き送った。その一文をしたためながら、相手の手元に手紙が届く頃にはあの屋敷は影も形もなくなっているかもしれないなどという想像に浸ったりしたが、幸いなことにその心配は無用だったようである。

風の対話

別々のところから旅してきた
透明な風と風との出逢いのように
光りを発して
瞬時にお互いの体を通り抜け
そしてすぐさま別れました

嘘のなかの嘘のような
真実のなかの真実のような
古くからある話のような
誰も知らない奇談のような
大詐欺師同士の対決のような
聖なる二人の高談のような
それは不思議な出来事でした

どこかで聞いた小噺のような
初めて耳にする物語のような
リアリティなど皆無のような
しかしなぜか信じられるような
モームの語る世界のような
モームその人のおとぼけのような
それは奇妙な対話でした

十三日の金曜日というのは一年のうちに一、二度しかない。遊び心を起こした私は、暦を調べて十三日の金曜日をチェックし、なるべくその日には他の用件を入れないように心がけ、穂高の石田老人のもとを訪ねるようにした。老人によって課せられた「人生模様ジグソーパズル」を解くには正直なところかなりの時間が必要だったからである。しかし、私は執拗にそのパズルに挑戦し続けた。そして、その結果浮かび上がった老人の人生は破天荒そのものであった。

博多に生まれ、地元の旧制高校を卒業した老人は、東京でのバーテンダーを振り出しに、天津、台湾航路の船員、中国青島での香具師の秘書、外国銀行の大連支店職員、上海の日本海軍武官府国外情報担当官、日本語学校経営、ドイツ染料会社社員、ジーメンス社員、イタリー大使館大使秘書、上海賭博場用心棒、日本陸軍兵卒といったような職業を次々と体験する。

ここまででも驚きなのだが、その人生が真に劇的な展開を見せるのはなんとそのあとなのだった。上海で終戦を迎えた石田は、一時期アメリカ情報部の翻訳作業に協力させられたりしたあと帰国、焼け野原と化した東京に戻って呆然とするが、そこで、当時のBBC極東部長ジョン・モリスと奇跡的にめぐり逢う。それが縁となり、天運と才覚の赴くままに戦後初の民間日本人として渡英、BBC放送日本語部局のアナウンサー兼放送記者となり、六年近くにわたって放送史にも残る活躍をすることになった。

その間、エリザベス女王の戴冠式に昭和天皇の名代として渡英した皇太子(現天皇)を当時の松本駐英大使らとともに迎え、BBC放送日本向け定時番組のアナウンサーとして、戴冠式関係のニュースや皇太子の英国での御様子などを放送した。皇太子を案内してロンドン市内のあちこちをめぐり歩いたりもしたという。石田が英国滞在中に、民間の有名日本人が相当数訪英したが、その人たちの案内にはBBC放送日本語部局の局員が当たるのが当時のならいであった。そのため、石田は、「春の海」で知られる箏曲の宮城道雄、社会運動家の市川房枝、英文学の小川芳男などをはじめとする多くの著名人とも親交があったようである。

英国での仕事を終え帰国した石田は、予備校講師を務めたり、英会話学校を経営したりするいっぽうで、著名な英文学者などの依頼を受け、英米文学作品の翻訳に積極的に協力することになった。いわゆるゴースト・ライターの走りみたいなものである。コナン・ドイルやアガサ・クリスティの作品などをはじめとして、下訳を手がけた本は八十冊以上にのぼり、「風と共に去りぬ」の訳者として知られる大久保康雄などのような高名な翻訳家の仕事もずいぶんと手伝った。ただ、石田は自分の名が表に出ることを好まなかった。それだけの実力と実績をもちながらも、彼は終始一貫して蔭の存在であり続け、けっしてその名を表に出すことはなかったのだ。それはこの人物特有の美学によるものだったと言ってよい。

「僕は二流の一流にはなれるが本物の一流になれる人間ではない。また、たとえそれが可能だとしても一流になろうとは思わない」と、石田老人はあるときふとそう漏らしたが、私にはその言葉がこの人物のすべてを物語っているように感じられてならなかった。

石田は帰国後、ずっと東京で生活していたが、あるとき、当時信州大学の助教授をしていた英文学者の友人、加島祥造を訪ねたことがあった。そして、その折に案内された安曇野一帯の気候と風土が気に入った石田は、生涯独身の身軽さもあって松本に移住、その後さらに穂高町有明の地の一隅に居を構えるにいたったのである。穂高町に住みついてからも、時折この地を訪ねてくる人々を彼一流の「魔力」で魅了し親交をもつとともに、地元の文化人たちとも深い交流を結び、現在に至ったものらしい。

碌山美術館の取り持つ奇妙な縁でこの不思議な過去をもつ老翁と廻り逢った私は、冗談混じりに課せられた翁自作の「人生模様ジグソーパズル」を完成させるのに十年近くの歳月を要することになった。問題のジグソーパズルを解き終えたあと、私はその想像を絶するその人生模様の全容を伝記小説のかたちで記録に留めようと思い立った。石田達夫個人の生涯にまつわる物語ではあっても、見方を変えれば、それはひとつのすぐれた近代側面史にほかならないと考えられるからであった。

当初、石田翁はその人生について書かれるのを嫌がっていたのだが、私の再三再四にわたる説得が効を奏し、最後には「まあ、府中のドラキュラのあなたにならどう料理されても仕方がないだろう」という軽口を叩いて伝記執筆を諒承してくれた。類稀な人食い老人を解剖し料理するなどというチャンスにはそうそう恵まれるものではない。鋭さも切れ味もいまひとつの筆しか持たぬ身ではあるけれど精一杯の努力はしてみようと、私のほうも決意を新たにしたような次第だった。

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