自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 35 (京都南インターチェンジ近辺)

とりどりに怪(け)しく誘(いざな)ふ明かりさへ
なお暖かきこの鬼火より

(京都南インターチェンジ近辺)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

かつては新宿歌舞伎町裏手から新大久保方面にかけての一帯がそのメッカとして知られた特殊ホテル群は、いまや全国のいたるところへと広がりをみせ、その規模も設備も趣向も発展の一途を辿っているようだ。「連れ込み旅館」などという一時代前の暗い呼び名はとっくに死語となり、ラブホだのファッション・ホテルだのという軽くて明るい呼称が社会に定着するようになってからもう久しい。近隣の噂にのぼることなく逢瀬を楽しむことの難しい地方住まいの若者らにとっては、この種のホテルはもはや必要不可欠な存在でもあるらしい。若者たちはスポーツ・ジムに通うがごとき気軽さでその種のホテルをあちらこちらと訪ねまわり、体内に鬱積したエネルギーを瞬時の歓喜にひたりながらひたすら放出し発散する。

もちろん、中高年の男女とてその例外ではないだろう。すべては時代の流れだし、また人間が動物であるかぎり、どんなにかたちは変っても避けては通れない道でもある。もともと品行方正な道徳家にはおよそ無縁の私のような人間には、そんな社会の風潮を責めたりする資格など毛頭ないし、たとえそんなことが許されるとしてもそんな無粋な行為をする気などまったくない。そもそも、文学や芸術といったようなしろものは、いつの時代も、そういった世界に耽溺したり、そういった世界を冷徹に凝視したりすることによって生みもたらされてきたのである。

取材その他でいまだに国中を車で走り回ることの多い私は、色とりどりのネオンの輝くラブホテル群の近くを通りかかることもすくなくない。そんな機会があったりすると、どうせならと生来の野次馬精神を剥き出しにし、その景観を大いに楽しんでしまうことにしている。夜間に名神高速道路の尾張一ノ宮付近を走っていると、左右に煌びやかなラブホテル群のネオンの数々が見えてくる。どのホテルの建物もちょっとしたシティホテル並みに大きな造りで、童話の挿絵に出てくるようなお城風のデザインのものも少なくない。それらのホテルの名を表すネオン文字に、世界の有名な都市名や国名、リゾート地名などがあれこれ引用されているから、高速道路上にいながらにして、超スピードで世界旅行をしているかような奇妙な気分にもなってくる。いまパリにいるかと思うと、数秒後にはロンドンにいたりニューヨークにいたり南洋のバリやハワイいたりするというわけだ。東名高速道路の厚木インターや横浜インター、中央道の八王子インター、東北道の岩槻や久喜インター周辺なども華麗な夜の花々が百花繚乱というところだが、豪華絢爛という意味では尾張一ノ宮には及ばない。

高速道路ばかりでなく、各地方の一般道を走っていても、ラブホテルが密集しているところを通過するのはいつものことである。多くのお客を呼び寄せるうえでは一定数集まっているほうが相乗効果を期待することができるのであろう。面白いのは、主要国道沿いのラブホの規制度が各都道府県によって違っているらしいことである。たとえば、東北地方の国道を夜間に北上していると、福島や宮城を走っているときは道路沿いのあちこちに妖艶なネオンの数々が見かけられるが、岩手に入った途端、急にその種のネオンの輝きが見当らなくなってしまう。そして、青森県に入るとまた妖しい輝きの灯々が次々に目に飛び込んでくることになる。

東京から山梨を経て長野に向かったり、東京から埼玉と群馬を経て長野に向かったりする場合も同様で、長野県に入った途端にその種のネオンが突然姿を消してしまう。もちろん、岩手や長野だって、主要道をはずれ、ちょっと奥まったところを走ったりしているとラブホの影が見えたりはするが、その数はきわめて少ないようである。他県よりも厳しく行政上の規制や環境的な配慮がなされているからなのだろう。

深夜にひとり車を運転していて眠気を催した時などに、通りすがりのラブホの名を読み取たりしてその呼称の妙を楽しむのも悪くない。なかには思わず吹き出してしまいたくなるホテル名や、そのものズバリの名に出合ったりして、いっきに眠気が吹っ飛んでしまうこともすくなくない。正確な場所は忘れてしまったが、東北のどこかで、「あしたまで」というなんとも意味深で洒落たホテル名にでくわし、あさって以降はどうなるのだろうと思いながら通り過ぎたこともある。また「ロイヤル」というというネオン文字の頭二文字が故障かなにかでたまたま消えていて、一瞬我が目を疑ったりしたこともあった。

もうずいぶん以前のことだが、伏見方面に向かおうとして京都南インターで高速道路を降りた。夜間だったこともあって、その直後に道を間違え、とある一角に迷い込んだ。結構整備された車道が縦横に幾筋も通じているところだったが、なんと、そこは大規模なラブホテルが林立する一帯だったのだ。その数の多さといい、建物の大きさといい、ネオンの煌びやかさといい、さらにまたそれらのホテルの多様性といい、ただただ驚き呆れるばかりであった。日本の誇る京都という歴史文化都市の一隅に不可思議な現代文化のアダ花集落を発見した私は、人間という生き物の懲りないさが性にあらためて感銘を覚える有様だった。

そして、むらむらと湧き上がる好奇心にいざない誘われるままにその一帯の光景を一通り眺めやっているうちに、由緒ある古都京都に安易にラブホテルなど建てるわけにもいかないので、この京都南の一角にだけ集中的にラブホを建設することが許され、京都周辺に住む人々の需要に応えているのではないかといういささか意地悪な想いに駆られてきたのだった。古来男女が交歓にひたる場であった祇園が文化だというのなら、その風格や品格といったものには雲泥の差があるにしろ、このネオンの花の群落地だってれっきとした文化のひとつにほかならないだろうという気もしてきた。

だが、皮肉なことに、赤、黄、緑、青、紫、と、色とりどりの妖艶な輝きをみせながら人間の心を誘い惑わすネオン群の輝きをしばし見つめているうちに、そんな光の乱舞を冷然として直視する己の心中に明滅する青白い鬼火の存在に思い至ったのだった。そのあでやかな輝きとは裏腹に、どこか冷えびえとしていて、淋しくもの哀しい感じをも秘めているそれらネオンの灯々ではあったが、それでもなお、自分の胸中に揺れ灯る不気味な鬼火よりはずっとずっと暖かく優しい存在であるように思われてならなかった。愚かなこの身をいずこへと導き行こうとしているのかも知れぬ心の鬼火を凝視しながら、それに比べればなおはるかに人の温もりを秘めそなえもつ裏街のネオンの輝きと、その奥で繰り広げられているであろう数々の生命のドラマに、すくなからぬ敬意さえもはらいたくなるのだった。そして、そんな一風変った状況の中でいつしか心中に湧き上がってきたのが、冒頭の一首というわけだった。

たまたまこんな原稿を書いている時に、十六歳になる静岡の女子高校生が密かに入手した劇物のタリウムを用いてその母親を重体に追い込み、殺人未遂で逮捕されるという異常な事件が発生した。そこで、一連の報道を一通り見聞きするとともに、その少女が残したというメモ日記風のブログにも目を通した。そして、その少女の胸の奥深くで人知れず揺らめき動く鬼火の激しさを想った。サディズムの性癖をもつ犯罪マニアであるとか、性的倒錯の歪んだかたちの表出であるとか、二重人格者であるとか、人格障害者であるとか、さらには重度の精神異常者であるとか、さまざまなことが言われている。むろん、それぞれの見方はそれなりには当たってもいるのだろうし、その異常な行為が重大な犯罪として社会的に咎められるのはやむをえない。

だが、その人格のほどはどうであれ、この少女にある種の人並みはずれた才能が宿っていたことだけは間違いない。十六歳の女子高校生というその姿からは想像もつかないような化学の知識の深さなどには、マスコミなどで報道されている以上のものがあったようである。天才と狂人とは紙一重というが、この少女の場合にもそれが当てはまっているだろう。この少女にとっての不幸は、その紙一重の才能を「狂」の方へと暴走する前に受け入れ適切に伸ばし育てる教育環境や、その才能の凄さを見抜いて正当に評価し、その心の鬼火の激しさを受けとめることのできる大人との出合いがなかったことに尽きるだろう。時と場所と人とに恵まれさえすれば将来優れた研究者になったかもしれない少女は、心の鬼火をコントロールするすべを身につける前に、人格異常な少女犯罪者としてこの世から抹殺された。大袈裟な言い方かもしれないが、もしかしたら、それは将来の日本の科学界にとってひとつの損失だったのかもしれない。

学問や芸術の世界を問わず、後世、世界の天才とか鬼才とか呼ばれるようになった人物の幼年期や少年期というものを調べてみると、その多くが、異常であったり、孤独であったり、アンバランスであったり、滑稽であったり、さらにはまた反社会的あったりしことがわかる。静岡の少女同様に、人知れず残虐な行為に耽ったり、潜在的な殺意を抱いたり、異常な実験欲に取り憑かれたりした者も少なくないようだ。天才とか鬼才とか呼ばれる段階までは至らなかったとしても、学問や芸術の世界で一定レベルの成果をあげることのできた人々なら、自分の幼年期や少年期の成長過程を振り返えってみた時、その心の中に小さな鬼火が異常な輝きを発しながら燃え揺らいでいた時期があったことに気がつくことだろう。

過去においてたいした仕事などしてこなかったこの身ではあるが、そんな私だって、田舎育ったこともなどもあって、少年期にはいろいろな鳥類や小動物を捕らえては殺したりもしたし、人魂を自分の目で見てその正体を探ろうと、深夜独りで土葬の墓地を巡り歩いたりしたものだ。いまの社会が当然とする過剰かつ過保護なまでに安全を重視した教育規範からしてみると、かつてのそんな私などとんでもない子供だったことだけは疑いの余地がない。

心の奥に鬼火を抱えて育ち、不運にもその鬼火の輝きを大好きだった化学の世界での研究に活かすことなく終わったあの少女と、親の財力をバックにして幼児期から名門私学に通い続け、有名塾や有名予備校さらにはベテラン家庭教師になどから手取り足取り受験技術や受験知識を授かりつつ有名大学進学を目指す、過保護な盆栽そのままの高校生や、世の雨風のなんたるかも知らぬままに一流大学生となり、自分はエリートだと自負してやまない輩と、本質的にはいったいどちらがより優秀だといえるのであろうか……。いまなお胸中深くで鬼火の名残のかすかにくすぶるこの身などは、いまひとつすっきりしない思いである。むろん、その少女の犯した重罪を容認するつもりがあるわけではないのだけれども……。

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