自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 31 (故定塚信男氏に献ぐ・北海道南富良野町幾寅にて)

十勝岳凛と輝く大地へと
君は還りぬ絶唱のはて

(故定塚信男氏に献ぐ・北海道南富良野町幾寅にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

4月30日のこと、僕は旭川市の貴兄宅に電話をかけた。5月26日に北海道岩内町のいわない高原ホテルのコンサートホールで催された川畠成道さんのヴァイオリンコンサートに貴兄を誘うつもりだったのだ。長年親交のある川畠成道さんを岩内の方々に紹介し、コンサート開催の仲介をしたこともあって、音楽の専門家でもある貴兄に是非とも彼の素晴らしい演奏を聴いてもらいたいと思ったからだった。久々に貴兄に会い、川畠さんをも交えてあれこれと歓談を繰り広げられるであろうことを僕はおおいに心待ちにもしていた。

だが、電話に出てくださった貴兄の奥様は、「定塚さんいらっしゃいます?」という僕の問いかけに10秒か15秒ほど絶句なさったままだった。そして、旭川市の有名な合唱団の事務所で貴兄が突然自ら命を絶ってしまったという事実を知ったのはその直後のことだった。あまりのことに、僕もまた驚きのあまりに言葉を失い、しばし深い沈黙に身を委ねるばかりだった。「事情が事情だったので、ごく身近な人たちだけで葬儀をすませました。本田さんには、49日が過ぎてから夫の他界の事実とその詳しい情況についてお伝えするつもりでした」とおっしゃる奥様の声は深い悲しみにうち震え、いまにも消え入ってしまいそうな感じだった。

折々貴兄から送られてくる同合唱団の国内外での活動記録やその公演CDなどを手にするにつけても、僕は合唱にかける貴兄の心意気にひたすら感嘆するばかりだった。折々貴兄から送られてくる同合唱団の国内外での活動記録やその公演CDなどを手にするにつけても、僕は合唱にかける貴兄の心意気にひたすら感嘆するばかりだった。

ただ、先年中学校を退職した貴兄が、そのあとその合唱団の団長と事務局長を兼務するというきわめて多忙かつ異常な状況に身を置くことになっていたという事実を僕はまったく知らなかった。奥様の話では、どこをどう探してみても遺書らしいものは見つからなかったというし、日記類にもそのような状況に至るまでの貴兄の心の過程を暗示するようなものは何一つ記されてはいないという。

退職したら自由な時間ができるどころか、在職中以上に多忙をきわめる有様で、連日徹夜で事務所に詰めることもすくなくなかったと、奥様は涙まじりに語ってもくださった。「合唱団関係者がおっしゃるように命を賭けて合唱団を守ったのではなく、実際には命を賭けて合唱団を辞めたのです」という奥様の言葉がおそらくはすべてを物語っているのであろうとは思う。合唱団残内部に渦巻く複雑な人間関係などで貴兄がずいぶんと苦悩していたのは事実だったらしいけれど、貴兄のことだからいっさい弱音は吐かなかったのだろう。

だが、それにしても、何故に貴兄はそこまでして自らの命を絶たねばならなかったのだろうか。奥様の話では、どこをどう探してみても遺書らしいものは見つからなかったというし、日記類にもそのような状況に至るまでの貴兄の心の過程を暗示するようなものは何一つ記されてはいないという。また、貴兄の身近にあった人々の誰に訊いても、こういうケースにつきものの鬱病の気配らしいものもこれまでの貴兄にはまったく感じられなかったという。残された者たちにとって、貴兄の急死の真相はなお謎のままなのだ。

もちろん、僕ら人間の誰しもが他者には絶対にわからない心の闇を抱えて生きている。たとえどんなに近しい存在であったとしても、それが他者であるかぎりは、ある者の心の闇の奥底をとことん覗き見ることはできないし、ことさらにそうする必要があるわけでもない。よい意味での「心の闇」を抱き持つことによってその人には個性が生まれもするし、またその人なりの魅力もそなわってくるのだと思う。だから、存在感があり人間としても魅力的だった貴兄に大きな心の闇があったとしてもそれを責めるわけにはいかないだろう。ただ、その闇が、結果として、貴兄の命の輝きを支える力としてはたらくよりも貴兄の命を吸い取り奪う力としてはたらいたことをいまはただ残念に思うばかりなのだ。

僕が北海道南富良野村幾寅に住む貴兄の存在を知ったのは、小学館発行の「小学生の友」の読者欄を通じてのことだった。甑島という鹿児島県の離島の小学校に通っていた僕は、誰か遠いところに住む人と文通をしたいと思い立ち、適当な相手を探そうとしていた。東シナ海に浮かぶ孤島の磯辺で遠く遥かな本土の山影に憧れる少年だった僕にとって、文通こそは、未知のドラマをはらむ遠く広い世界をいながらにして垣間見る唯一の手段でもあったのだ。

そしてそんな折、自校の校歌について述べた貴兄の投稿記事がたまたま僕の目にとまったのだった。自分よりも1学年うえの貴兄のことが気になった僕は、たどたどしい筆跡と幼稚な文面の手紙をもって一方的に文通を申し込んでみた。あれが十勝岳なのか、貴兄が愛する十勝連峰なのかと、胸の奥底までが熱くなったことをいまもはっきりと憶えている。

あとになってわかったことだが、貴兄もまた、その頃はまだ知る人もほとんどなかった富良野盆地の一隅にあって広い世界を密かに夢見る少年だった。ともかくも、そんな奇妙な縁が発端となって、北の大地のなかほどに住む貴兄と南の離島に住む僕との文通が始まったのだった。それからほどなくして僕が最後の肉親を失い天涯孤独の身になったとき、貴兄は温かい手紙をもって度々僕を励ましもしてくれた。まだ5歳の時、貴兄は、悪性の赤痢に罹ってお父さんと一緒に同じ病室に隔離され、想像を絶する苦悶の末に貴兄のみが辛うじて一命を取り留め、お父さんのほうはその脇で亡くなるという壮絶な体験を積んでいた。そんなこともあったからだろう、貴兄は僕の心中を我がことのように深く察してもくれていた。

貴兄と僕との文通はその後も連綿と続くことになり、いつしか15年を超える歳月が流れ去った。その間に起こったお互いの驚くほどの身辺の変化については手紙のやりとりを通してそれなりに分かり合ってはいたが、直接に顔を合わせる機会はなお一度もないままであった。あれが十勝岳なのか、貴兄が愛する十勝連峰なのかと、胸の奥底までが熱くなったことをいまもはっきりと憶えている。折々貴兄から送られてくる同合唱団の国内外での活動記録やその公演CDなどを手にするにつけても、僕は合唱にかける貴兄の心意気にひたすら感嘆するばかりだった。

その時になってようやく長年の夢を実現するチャンスが訪れた。貴兄から結婚することになったという報告を受けた僕は、この機会を逃してはならないと思い、すぐさま諸々の出立の準備を整えた。そして、結婚式出席のため憧れの北海道の地へと旅立った。かねてから北海道に渡ったあと最初に踏む土は貴兄の故郷のそれにしようと決めていたから、函館や札幌などには目もくれず、ひたすら列車を乗り継いで南富良野村幾寅へと直行した。

列車が富良野盆地に入るとすぐに、車窓左手に残雪を戴く雄大な山並みが見えはじめた。あれが十勝岳なのか、貴兄が愛する十勝連峰なのかと、胸の奥底までが熱くなったことをいまもはきりと憶えている。富良野市から少し南に下ったところにある南富良野の幾寅駅に降り立った僕は、静かな笑みを湛えて駅頭に佇む貴兄とついに念願の対面を果たすことができたのだった。それは昭和44年5月10日、僕が初めて手紙を書いた日から数えると16年も間近な日のことであった。

初対面の日からさらに36年もの時を経た去る5月28日のこと、僕は貴兄の眠る南富良野幾寅の恵光寺へと墓参に出向いた。その途中で仰ぎ見た十勝連峰はなおも眩いばかりの冠雪を戴き、あの想い出深い日に初めて目にした雄大な姿とすこしも変らぬたたずまいであった。ただ、あの時みたいに列車に乗ってではなく自ら車を運転して幾寅入りした僕は、恵光寺に向かう前にまずJRの幾寅駅に立寄り、その後の幾寅駅の変貌ぶりを目にしてみようと考えた。もちろん、僕らの初対面の舞台となったその場所にあらためて立ち、あの日の記憶を鮮明に甦らせながら、在りし日の貴兄の姿を偲ぼうと思ったからにほかならない。

だが、久々に幾寅駅の前に立った僕は一瞬我が目を疑わざるをえなかった。なんと駅名が「幾寅」ではなく「幌舞」に変っていたからである。木造の古い駅舎や単線のホームはほぼ昔のままの面影をとどめていたが、「幌舞」というその駅名を目にして、正直なところ僕はしばし戸惑いを覚えた。少々うろたえながらも、あらためて昔ながらの古い駅舎をよくよく眺めてみると、表側の右上のところに「JR幾寅駅」と実際の駅名をごく小さく記した表示板があるではないか――愚かにも、その時になってようやく僕はすべての事の次第を納得したのだった。

浅田次郎原作、降旗康男監督、高倉県健主演の映画「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影舞台に選ばれた幾寅駅は、その名も「幌舞」と改められ、大竹しのぶや広末涼子らも登場するあの名作の制作に一役買うことになったという訳だった。現在では幾寅は無人駅になっていることもあって、もっぱら駅舎の中には「鉄道員」のストーリーや登場人物、各俳優らの役柄などを解説した展示物が並び、ちょっとした映画資料館みたいな様相を呈していた。駅舎前には「だるま食堂」や「ひらた理容店」などの撮影用建物セットもそのままに残されており、「幌舞駅」と合わせていまや南富良野の重要な観光スポットの一つとなっているらしいことも、僕にとってはすくなからぬ驚きだった。幾寅生まれで幾寅育ちの貴兄は幾寅駅のこの変貌ぶりを当然知ってはいたのだろうが、僕には生前一言もそのことを伝えてはくれなかった。もしかしたら、それは貴兄の僕に対するおもいやりのゆえだったのかもしれないけれども……。

人知れぬ思いを胸中深くに抱き秘めながらひとりプラットフォームに立った僕には、まるで「鉄道員」の映画のラストシーンそのままに、貴兄の幻影が見えるような気がしてならなかった。プラットフォームの東端に立つと、貴兄の愛してやまなかった十勝岳の頂きが雲間を縫って一瞬だけ白々と輝いて見えた。幾寅駅での僕と貴兄との対面のドラマは、「鉄道員」のそれに較べるとささやかなものにすぎなかったし、男同士のことゆえにそれほどにロマンティックなものでもなかったかもしれない。だが、フィクションではなくノンフィクションであったという意味からしても、「鉄道員」の映画にもけっして劣ることのない数奇な運命のいたずらとでも言うべきものをはらんではいた。他の人々にとってはどうであろうと、すくなくとも貴兄と僕にとっては、あの駅はあくまで「幾寅」駅であり、「幌舞」駅であってはならないのだった。

幾寅駅をあとにした僕は、そこからほどないところにある浄土真宗の恵光寺に詣でた。そして貴兄の墓前でひたすら合掌しつづけた。母が死んだ時も、最後の肉親だった祖父母が死んだ時も、表だってはけっして涙を流さすことのなかった僕が、不覚にもこの時ばかりは涙を堪えることができなかった。僕もそれほどに歳をとってしまったということでもあるのだろうが、いまひとつには、合掌をつづけるうちに、この世に別れを告げる直前に貴兄の発した絶唱がどこからともなく響き聞こえてくるような気がしてならなかったからでもあったのだ。僕はそんな自分の想いをささやかな歌に詠み、それを色紙にしたためて貴兄の墓前に献げおいた。いまとなって僕にできることといえば、せいぜいそれくらいのことしかなかったからだった。

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