自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 30 (倉敷市倉敷川辺)

倉並みと柳の影を彫り浮かし
春月渡る時の水面を

(倉敷市倉敷川辺)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

昭和61年4月のこと、四国の琴平町にある古い芝居小屋「金丸座」での歌舞伎公演を見に行く途中で倉敷に立寄った。もちろん、倉敷川周辺に立ち並ぶ倉々その他の伝統的な建物群の織りなす景観と、そこに漂う独特の風情を楽しみたかったからだった。倉敷に着いたときにはすでに夕刻になっていたので、印象派の絵画コレクションなどで名高い大原美術館を訪ねるのは当初から想定外のことだった。そもそもこの日は、あの頭がくらくらするような印象派巨匠たちの作品群との対面するような気分ではなかった。

たまたま日暮れ時だったこともあったのだろうが、大原美術館のすぐ脇を流れる倉敷川沿いの場所に出た途端、私はまるで一昔前の時代にタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥ってしまった。その一角だけには、江戸期か明治初期の時代のものとおぼしき空間がそのままそっくり切り取り残されたかのように存在していて、明かに他所とは異なるゆっくりとしたリズムの時間が流れていたからだった。ウィークデイのことでもあり、また次第に夕闇が迫ってくる時刻でもあったので、人影はまばらであたりは静寂そのものだった。倉敷川をはさんで立ち並ぶ古い造りの資料館や諸々のお店などはすでに戸締りをはじめ、老舗旅館鶴形の玄関先の明かりだけがだんだんとそのほのやかな輝きを増そうとしているところだった。

美観地区として特別に維持保存されている本町や船倉町一帯をしばし歩きまわった私は、再び倉敷川の川辺に出た。そして、大原美術館入口と国の重要文化財に指定されている大原邸との間に架かる石造りの今橋の上に立ち、下流にあたる中橋のある方向をなにげなく眺めやった。次の瞬間、そんな我が目に飛び込んできたのはなんとも望外な光景であった。

中橋のある方角寄りの空におりしも春の満月が昇り、そのやわらかな光が、古い城下町の柳堀を想わせる倉敷川の水面を照らし始めたところだったからである。両岸の柳並木と倉造りの家並みとが春月を背にして見事なシルエットとなって浮かび上がり、それらのシルエット群はまた、静止した川面に寸分違わぬ自らの逆さの影を落としていた。刻々と光を強める春の宵月そのものもまるくっきりとしたその影を水面に映し、上下どちらの月影が本物なのか区別するのがむつかしいほどであった。明るさをほどよく抑えた周辺の民家の灯火もその不思議な世界の演出に一役買っているように感じられた。

鋭い刃物で彫り浮かした影絵のような光景にひたすら見惚れているうちに、私はあの藤城清冶の幻想的な切り絵や影絵の世界の中にいるかような気分になった。倉敷の春の宵空を渡る満月の分身のほうは、過去から現在、さらには未来までの時間のびっしりと押し詰められた倉敷川の水面を、あるときは過去に遡り、あるときは未来に飛び、そしてまたあるときは現在へと立ち戻りながら、ゆっくりと渡っていく感じだった。

ちょっと意地悪な気持ちを起こし、時間をごちゃごちゃに掻き乱してみたくなった私は、近くから小石を探してくると今橋の上から静かな水面に向かってそれを投げ入れた。急速に広がる波紋のために月影も柳並木や倉並みの影も大きく崩れ歪んだが、すぐにそれはまた元に戻った。再びまろやかな姿を取り戻した水面の月影は、そんなことをして秩序を乱そうとしても無駄だよとやさしく私を諭しでもしてくれているかのようだった。

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