自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 29 (津軽半島竜飛崎)

竜飛崎空と海との狭間より
暗く湧き立つ生み出す力の

(津軽半島竜飛崎)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

青森県津軽半島の最北端、竜飛崎を訪ねたのは昭和62年のことだからもう18年ほど前のことである。鰺ヶ沢から津軽半島を西海岸沿いに北上、十三湖を経て小泊村に入り、そこから細く狭いダートの山路伝いに標高500メートルほどの山岳地を越えて三厩村(みんまやむら)の一隅をなす竜飛崎の小集落に着いた。晩秋から初冬に向かおうとする時期だったことにくわえ、たまたま悪天候だったせいでもあったのだろう、想像以上に暗く寒々としたところだという印象を抱いた記憶がある。もっとも、ひねくれ者の私には、その灰色にくすんで冷えびえとした一帯の景観をそれはそれで楽しんでしまおうという思いがあった。

竜飛集落の北はずれにある漁港のすぐ近くには帯島という小島があって、大きな堤防がその島のほうへとのびでていた。だが、折からの強風に煽られて海が荒れに荒れており、次々に泡立ち寄せる高波に堤防が洗われていてとても帯島へと歩き渡れるような状況ではなかった。現在ではこの帯島のすぐ東側の海底を青函海底トンネルが走っているが、当時はまだ海底トンネルの工事中で、地上からその様子を窺い知ることはできなかった。

とりあえずその夜の宿りの場所を確保しようと思い、民宿らしいものを探し当て玄関先に立って来意を告げようとしてみたが誰も出てきてくれなかった。そんな時節のそんな天候の日に遠くから物好きなお客がふらりとやってこようなどとは考えてもいなかったのだろう。幸い3軒目に訪ね当てた宿でようやく泊めてもらえることになった。薄暗い感じの玄関口に奥のほうから顔を出したその宿屋の主らしい男は、突然の宿泊依頼に一瞬怪訝そうな表情を見せたが、是非とも泊めてほしいというこちらの願いをともかくも聞き入れてくれた。しばしの沈黙があったところをみると、気まぐれにやってきたお客のために、そのあと料理をつくったり風呂を沸かしたり部屋の掃除をしたりする手間をかける必要があるかどうか勘案していたのかもしれない。

いったん宿に荷物を置くとあらためて竜飛崎周辺の探索にとりかかった。ほんのすこし前まで降っていた雨はやんだので傘はいらなかったが、吹き荒れる風は相も変わらず強烈そのものだった。わざわざ竜飛崎を訪れた理由はいくつかあったが、若い頃に読んだ太宰治の作品「津軽」が念頭にあったこともそれらの一つではあった。私はまず昭和50年の秋にその地に建てられたという太宰治の文学碑を探し当てその前に立った。その碑にはほかならぬ小説「津軽」の一説が彫り刻み込まれていた。

ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に至り、路がいよいよ狭くなりさらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全くつきるのである

太宰治はまだ戦時中だった昭和19年の5月から6月にかけて、「津軽」執筆に先立つ取材をおこなうために竜飛崎周辺を訪れたのだという。

太宰の文学碑を見学したあと、私は竜飛崎灯台に近い高台に位置する展望所へと足を運び、その突端に立ってみた。展望所といっても当時のそれはまだごく簡素なつくりで、北方と西方の海上を遠く見渡せる草地のオープンスペースがあるというだけのものだった。上空は暗くそして猛烈な風が北西側の海から吹上げてきていた。まるでスキーのジャンプ選手みたいに斜め前方に全身を傾け、吹上げる風に向かって宙に乗り出すような姿勢をとってもほどよくバランスがとれるほどだった。竜飛崎は一年中強風の吹き荒れるところだとは聞いていたが、なるほどと納得のいく思いがした。

北方に広がる津軽海峡は、重々しく垂れこめる黒雲のもと、海水のもつ青の成分すべてを抜き去ってしまったかような灰色の大きなうねりに覆い尽くされ、遠くのほうは海面から湧き上がる霧に霞んでほとんど見通しがきかなかった。津軽海峡対岸の松前半島南端、白神岬あたりかと思われる陸地の影が霧の切れ間から時折かすかに見えるくらいのものだった。

しばらくして私は北面の津軽海峡から西方の日本海の海面へと視線を転じた。そしてすぐに、ともに暗く鬱々とした色の海と空とが互いに近づくあたりに、どちらとも見分けがたい黒く長い帯状の領域がかたちづくられているのを目にとめた。それは常々目にするような水平線の光景とはまるで異なるものであった。場所や方角によって濃淡にこそ違いはあれ、一面黒灰色に覆われた殺風景このうえない世界、なんの感動も覚えることのできそうにないもっぱら薄ら寒いだけの風景――見方によってはそうとしか感じようのないモノトーンの光景を前にして、これが竜飛の竜飛たるゆえんかと私は思い佇むのであった。

だが、そのときである。突然、私の目は西方海上のその黒い横帯状の空域に釘付けになった。よくよく見てみると、それは海面から激しく絶間なく湧き立つ水蒸気が上昇するにつれて濃い霧となり、さらには上空に昇って雪をも孕む黒雲に変っていく光景だったのだ。いっそう目を凝らして見ると、遠くの海面のいたるところから幾筋もの水蒸気の柱が立ち昇っているのを確認できた。考えてみると、津軽半島の西方沖合い一帯には、東シナ海から対馬海峡を経、さらに列島沿いに日本海を北上してきた対馬海流が流れている。津軽海峡周辺に達するまでにも、高温の暖流であるその表面からは大量の水蒸気が湧き昇って雪雲となり、冬場の北西の季節風に乗って裏日本各地の上空に押し寄せ、一帯の山野に大量の雪を降らせているのだった。

その黒い蒸気エネルギー柱の織りなす自然のドラマをしばし私は憑かれたように眺めやっていた。黒灰色の寒々とした光景であるにもかかわらず、そこに広がる海と空とには何物かを新たに生み出す超自然的な力が無尽蔵に秘め蓄えられているように思われてきてならなかった。暗い海面からさらに暗い上空へと向かって激しく立ち昇る水蒸気は、その途方もない創造エネルギーの一端を象徴しているかのように感じられた。黒と灰色の織りなすそのモノトーンの世界こそが生命の躍動する色彩豊かな世界の隠れた演出者であることを私はあらためて実感せざるをえなかった。そして、太宰治の作品のもつ魅力の根源も、さらには津軽地方のさまざまな優れた芸能文化の奥義も、もしかしたらそんな創造エネルギーのなかにこそ求められるべきなのではないかと思うのだった。

また、そこまで想いをめぐらしたとき、「竜飛」という風変わりな地名は、天に昇る無数の竜の姿ともまがうばかりのこの光景に由来しているのではないかと感じはじめたのだった。

青函海底トンネルが完成し海峡線が開通して以来、竜飛崎周辺は開発が進んで道路も整備され、竜飛の集落周辺にはかつてのような暗さはなくなったようである。その後につくられた碑の丘という展望公園には、太宰治の文学碑のほか、大町桂月の歌碑、大久保橙青の「竜飛崎鷹を放って峙てり」の句碑、さらには吉田松陰の漢詩碑までが建てられているらしい。いまでは風力発電用の巨大風車がずらりと立ち並んでいるようだから、もう私が訪ねた当時とはすっかり様子が変わってしまっているのだろう。

ちなみに述べておくと、吉田松陰は嘉永5年(1853年)3月に小泊村を経て津軽海峡の見下ろせる算用峠に立ち、憂国の情を一篇の漢詩に詠みたくしたのだという。外国船の日本周辺横行を憂い、海防の重要性を説いていた松陰は、ロシア船やイギリス船、フランス船をはじめとする外国船の頻繁に通行する津軽海峡の状況をわざわざ視察にやってきたのであった。

あれから18年経ったいま竜飛岬がどのように変貌したのかを見にいってみたいとは思っている。願わくは天に昇る竜の姿を西方沖合いの海上に望むことができるようにと胸中密かに祈りながら……。

カテゴリー 自詠旅歌愚考. Bookmark the permalink.