自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 27 (鎌倉・天園遊歩道にて)

秋陽往く古都の祈りに抱かれて
遠き人など想ひをりたり

(鎌倉・天園遊歩道にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

鎌倉五山の筆頭寺として名高い臨済宗建長寺派大本山の建長寺は、時の執権北条時頼の命によって建長5年(1253年)に建立された古刹である。開基は大覚禅師の蘭渓道隆で、古来厳しい禅修業の場としても知られてきた。この建長寺の裏手からは、鎌倉市街東部にある瑞泉寺へと向かって天園遊歩道というハイキングコースがのびている。海抜150メートル前後の小峰の頂きをいくつか縫い連ねてつづくこの遊歩道はほどよいアップダウンのある低山道で、途中にはかつて「切り通し」と呼ばれていた峠越えの古道跡とクロスしているところもあったりしてなかなかに赴き深い。昨今ではこのコースの周辺にゴルフ場や新興住宅地などが造成され、かつてのような静寂そのものの雰囲気は失われてしまっているが、南西側に広がる鎌倉市街や南側に位置する逗子方面の景観、さらにはその向こうに広がる相模湾一帯の眺望を楽しみながらの散策には、いまもなお味わい深いものがあるといってよいだろう。

さて、冒頭の拙歌なのだが、実をいうとこの歌は近年に詠んだものではない。この歌を記したノートを見ると、それを詠んだ日付が昭和62年11月となっているから、もう18年ほど昔の晩秋の一日だったということになる。北鎌倉で電車を降りた私は、円覚寺、東慶寺、上智寺、明月院などをめぐったあと、建長寺の山門をくぐった。そして同寺の奥のほうをなにげなく歩きまわっているうちに、天園方面へと連なる小道の登り口を示す案内板をたまたま目にとめたのだった。おもしろそうな脇道を発見すると何はさておきそちらのほうに足を踏み入れたくなるのは、なんとも悲しき我が性分にほかならない。よせばよいのに、自分の人生においてもついつい本道をそれては袋小路に迷い込み、その挙げ句の果てがいまのその日暮らしの生活というわけである。この日は建長寺をひとめぐりしたあと国道ぞいに鶴岡八幡宮方面に抜けるつもりでいたのだが、想わぬ脇道の出現とあって急遽予定を変更、狭く急峻な石段のつづく坂道を登って天園遊歩道に足を踏み入れる事態となった。

半僧坊脇を過ぎ、秋の陽光のもとでススキの穂が美しく輝き揺れる小道を伝ってしばらく進むと、いっきに視界が開け展望のよくきく小山の頂きのようなところに出た。建長寺が隆盛を極めていた頃にはこの地にも伽藍のようなものが存在していたらしい。眼下には鎌倉市の中心部を貫く若宮大路一帯の街並みが広がり、その向こうには由比ヶ浜と相模湾が、さらに西方はるかなところには江ノ島の影や秀麗な富士の姿などが遠望された。

どこまでもアップダウンのつづく山路を黙々と急ぎ足で踏み進んで仏像の彫られた十王岩のそばを過ぎ、緩やかな坂道を登って大平山へと至り、大平山から東南方向にすこし下ると天園に着いた。鎌倉市側と横浜市側との間にある峠にあたる天園は、かつてはその周辺六国を一望できたこともあってかつては六国峠とも呼ばれていた。付近には深い木立に覆われた切り通し跡などもあって、鎌倉時代の古道の面影を偲ぶこともできた。

天園のお茶屋で一休みしてから瑞泉寺方面へと向かって南下しはじめた頃には、日脚のはやい秋の陽は西空を赤々と染めながら山の端に向かって大きく傾き、鎌倉の街々の上空一帯にはある種の荘厳な気配のようなものが立ち昇り漂いはじめた。そして、その霊気にも似た不可思議な気配は徐々に四方へと広がり、ついには私の歩む遊歩道をも包み込んでしまったのだった。

もちろん、それははっきりと目に見えるようなものではなく、おのれの全身とそれを包み込む外気との接触を通してなんとなく感じとることのできるような気配であった。まさかそんなことがと笑われるかもしれないが、長い歴史を重ね経るなかで古都鎌倉のいたるところに秘めたくわえられた人々の祈りがその不可思議な気配となって立ち現れ、漂い昇っているかのように、私には感じられてならなかった。

天台山を経て夢窓国師の作庭といわれる山水庭園で名高い瑞泉寺へと向かううちに、日は沈み黄昏は刻々とその色を濃くしていった。そして、まるでそれに呼応でもするかのように周辺一帯に漂う祈りの気配もまた深まった。自らを取り巻く祈りの気配に誘い促されでもしたからだろうか、そのとき突然、私はすでに遠い存在となった人々のことを次々に想い起こした。時間的な遠さと空間的な遠さとその遠さには異なる二つの要素がありはしたが、いずれにしろもう逢うことができなくなったか、そうでなくてももう容易には逢うことのできそうにない人々のことばかりだった。

幼い頃に死別した肉親のこと、出逢いそして別れた遠き日の恋人たちのこと、人生観の根本的な違いが表面化し決別したかつての親友、すでに他界した人生の恩師や恩人、それぞれの夢を追いかけ不帰の決意で遠い国へと旅立っていった同僚や教え子たち、さらにはまたさまざまなことで激しく戦い鋭く対立した人々のこと――回想の世界の中を次々と駆けめぐっていったのはそんな人々の懐かしくも切ない姿だった。それらのなかには、ほかならぬこの鎌倉の地で初めて出逢い、その後幾度となく共に鎌倉の寺社をめぐりあるいた人物の幻のような姿もあった。

天園遊歩道を踏破し終え、瑞泉寺のそばに着いたときにはとっぷりと日は暮れ、あたりはすっかり深い宵闇のなかに包み込まれてしまっていた。私は想い出の世界の中に浮かんでは消えていったそれら遠い人々に向かって心中密かにささやかな祈りをささげた。そして、そのことを通し、それらの人々の今後の幸せや活躍を願い、また彼岸の地に去った人々の冥福を切に祈願した。

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