エッセー

39. 上野界隈を歩く

三月のとある一日、旧友と上野周辺を散策した。学生時代からのその友人は、昔は長者町とか称されていたというJR御徒町駅の近くの一角で生まれ育った。いまでは彼は新宿御苑近くの高層マンション住まいなのだが、かつては上野界隈を駆け巡って育ったというだけのことはあって、さすがにその周辺の事情には詳しかった。彼のような上野育ちの人間は、上野のことをわざわざ「野上」と呼ぶのだそうである。長者町の出身だからとはいっても「長者」には縁遠かったのだそうだが、その類稀な才覚をもって浮沈の激しいビジネス界を逞しく生き抜いた彼は、その日暮らしの私などの目からするといまや間違いなく「長者様」である。すくなくとも私みたいな「短者様(そんな言葉があるとすればだが……)」ではない。そんなわけで、この日ばかりはなにもかもを彼に任せ、案内されるままに上野界隈をめぐり歩くことにした。「短者様」はすなおに「長者様」に従うのがまずはこの世を平穏を保つすべではあるだろうと勝手に悟ってのことである。

地下鉄銀座線を上野広小路で降り、JRのガードをくぐって上野五丁目方面に出ると、そこは宝石類の一大卸問屋街だった。「一般客はお断り」という趣旨の、おそらくは建前上の注意書きを店頭に表示した宝石店が何百軒も立ち並ぶ光景はなかなか壮観なものだった。こんなところにこれほどの数の宝石問屋が軒を連ねているなんて、これまで私は想像だにしたことがなかった。大手デパートなどにも商品を卸しているのだそうだが、いったい国内の宝飾品流通においてこの一帯の問屋がどのくらいのシェアを占めているのか興味深くもあったが、友人に訊いてもそこまではわからなかった。

我々はとくに宝石に関心があるわけもなかったので、その一大卸問屋街をさりげなく眺めながらその雰囲気を体感して回っただけだったが、それぞれの問屋の店頭に並べ置かれている壮麗な宝飾類の数々は、路上から目にするだけでもなかなかのものだった。どの店も外から見たかぎりではバイヤーらしい人影もすくなく、静かな感じだったが、ピンからキリまでの商品をめぐってさまざまな欲得の渦巻くこの業界のことだから、我々素人の目に見えないところでは、きわどい世界を背景にして日夜熾烈な駆け引きがおこなわれているのだろう。

スリランカ産の宝石類を扱っているというお店などは、スーツをきりりと着こなした店員らも皆スリランカ人のようだった。国際色豊かと言えばそれまでだが、それもまた他店とは異なるカラーを打ち出そうとするお店側のひとつの戦略的演出であるようにも思われてならなかった。いくつかのお店の入口には特価品と表示のある宝飾品類が並べられていたが、それなどは値段からしても明らかに通りすがりの一般素人客を狙ったもので、「一般客はお断り」という各店の表示とはいささか矛盾しているように感じられた。

それにしても、これだけ多くの宝石店が並んでいると夜間の警備なども大変なことだろうと余計な想像までめぐらしたりもしたが、実際にはいったいどんな警備システムをとっているのであろうか。

その次に足を運んだのはアメ屋横丁だった。アメ横は過去なんども足を運んだことがあり、とくに学生時代、深川木場近くの鋼板シェアリング工場の夜警をやっていた頃などは、年始年末期の長期連続勤務に備えてよく食料買出しにやってきたものだった。ただ、近年の社会の動向を反映するかのように、アメ横一帯のお店の雰囲気も置かれている商品も以前とはすっかり変わったものになっていた。食料品店が昔に比べてかなり減ってしまっているのも印象的だった。全体的なお店の数や各種商品の豊富さはむろんいまのほうがずっと勝っているようだったが、人通りはむしろすくなくなってしまったようにも思われた。年末年始の最盛期でないことや、ウイークデイであることを差し引いても、お客の数の減少は目に見えていて、これで商売が成り立つのだろうかとこちらが心配になるほどだった。

友人も言っていたが、以前とは違って外国人、なかでも欧米人の姿がほとんど見られなくなったのも近年の際立った特徴で、それもまた世界のさまざまな状況を反映してのことのようであった。昨年の秋に訪ねた上海の国際色豊かな商店街や市場の活況ぶりを想い出すにつけても、そんなアメ横の様子はいささか気になりもした。

アメ横をあとにすると、飲み屋街で知られる仲町通りを抜け、友人が通ったという小学校の前を経てから久々に湯島天神に詣でた。急な階段を一息に上るのはいい歳になった我々とっては結構な運動だったが、この日の目的のひとつは時間をかけてひたすら歩くことだったので、まずは休むことなく石段を上りきった。湯島天神の周りは相変わらず各種試験の合格を祈願する絵馬や、合格御礼の絵馬の数々で溢れかえっていた。これほどの数の祈願を一手に引き受けなければならない菅原道真の御霊も大変なことだろう。もはや、合格祈願には縁のなくなった我々ゆえ、「これじゃ、『ほかの絵馬の奉納者が皆不合格になりますように!』とでも祈願したほうがことは早いんじゃないのかな?」などと悪態をつきながら湯島天神をあとにした。

いったん池之端に出てから不忍通りを根津方面へと歩いた。左手に向かって坂を上れば古巣の学び舎のある方面に出ることはわかっていたが、いまさらそんなところに出向いて新たな苦行を積むつもりなどさらさらなかった。だから、そのまま進んで言問い通りに出ると、根津一丁目角で右に曲がって谷中方面に向かい、途中でさらに右折して芸大の裏手を通って再び不忍池付近まで戻った。そして、遅めの昼食をとるために上野精養軒に立ち寄った。精養軒では久々に同店特製のハヤシライスを食べてみたが、昔ながらの味がしたので妙に懐かしさが込み上げてきたりもした。

精養軒での食事をすませると、桜並木の通りを抜け、国立博物館を奥に望む上野公園の広場へと出た。もちろん桜はまだ蕾のままだったので、人影はまばらだった。ただ、広場の左手奥の一角ではここでよく見かける光景がこの日も繰り広げられていた。地面に腰を下ろす百人か二百人ほどの男女たちに向かって、キリスト教の一派と思われる人々が福音書の教えを説いたり、讃美歌の指導をしたりしているところだった。そこに坐る人々はマイクを握る説教師の言葉に黙々と聞き入っているかのように見えたが、その実は、心そこにあらずとでもいった感じだった。彼らは皆、耳にタコができるほどに聞き飽きたお説教に今日もしばしの間辛抱してお付き合いしてやるかとでも言いたげな様子だった。

そこで説教を聞いている男女のほとんどは上野公園周辺をねぐらにするホームレスの人々だった。以前、近くの大学の大学院に講義に通う道すがらしばしばその光景を見かけていたので、私にはその事情はよくわかっていた。説教に耳を傾けるそれらの人々の真の狙いは説教者の立つ脇に何段にも積み重ねられている大箱の中身だった。もちろん、それは、説教師の説く神の教えを聞き終え、讃美歌を唱和したあとで、そこに集まった人々に支給される食料品類だった。その場所からすこし離れたところに立つ二人の男たちが、「仕方がないから俺たちもしばらくあそこに坐るか。そうでないともらえないらしいからなあ」と、覚めた言葉を囁き合っているのがなんとも印象的だった。

近頃は当局の指導が厳しいらしく、そんな光景はあまり見られなくなってきたが、以前は夜などに焚き火を囲んで歓談するホームレスの人々の姿がよく見かけられたものだった。何度かそんな人々の輪の中に加わり彼らの話にそっと耳を傾けたこともあるのだが、一般世間の人々の予想とは裏腹に、そこで繰り広げられる会話の数々はユーモアとウイットに富み、なんとも夢とロマンに溢れるものだった。

そんなことを考えながら歩いているうちに、たまたま歩道脇に自生している八手の繁みのそばを通りかかった。そして、その瞬間、九年前の想い出が私の脳裏に甦ってきた。この「マセマティック放浪記」のコーナーで初めて書いた原稿は「八手の葉の意外な実像は?」というものだった。やはりこのあたりの八手の葉をなにげなく眺めているうちに気づいたことを書き述べたもので、その要旨は、「八手というけれど、その葉が八つに分かれているものは存在せず、実際には七手か九手で、九手のものがほとんどだ」ともいうものであった。あれからはや九年――八手の葉の実際の数と同じ年数が経ったこの月に「マセマティック放浪記」の筆を収めることになるのも、そして、初回と同じ上野についての駄文を綴りながら最終回を迎えることになったのも何かの縁なのかもしれない。

そのあと我々は鶯谷方面に抜け、友人が通った中学校に立ち寄ったあと東上野に出て、そこから上野駅の公園口まで歩き、線路上の空間に新たに設けられた歩道と広場とを兼ねるスペースに佇んだ。東北や北海道を故郷にもつ人々の上京時あるいは帰省時の昇降駅としてさまざまなドラマや伝説を生んだ上野駅も、いまではすっかり近代化されていた。どこかに独特の翳りを秘めた上野駅の姿はもう人々の遠い記憶の中にしか息づいていないのかもしれない。

気まぐれな我々はもう一度東上野に出て上野警察署の前を通り、高速道沿いの道をまたもや言問い通りにぶつかるまで歩いた。周辺にはバイク関係の店がずらりと軒を連ねて建ち並んでおり、それはそれでなかなに壮観であった。どうしてこの一帯にバイク専門店がこれほど集まったのかはわからないが、立地条件その他に関するなにかしらの理由があってのことなのではあろう。

言問い通りにぶつかると左折し、跨線橋を渡って上野桜木から谷中一帯に広がる墓地へと向かった。そして、徳川慶喜や渋沢栄一らの墓などを訪ねてまわった。ただ、周辺をすっかり住宅街に取り巻かれ、昔の暗い面影などすっかりなくなってしまったこの墓地には、もうお化けたちも出没のしようがないのだろうなと思ったりもした。

昔風の荒物屋や駄菓子屋のある通り伝いにまたもや谷中の街並みを根津方面に向かって抜け、千代田線の地下鉄の駅近くで見つけた喫茶店に入って、学生時代を彷彿とさせるようなとりとめもない会話を二人の間で繰り広げた。そこまではよかったが、お客の少ないせいもあったのだろうが、ずいぶんと店仕舞いの早い喫茶店とあって、話が弾んだにもかかわらず六時半頃には追い出される羽目になってしまった。そのため、昼間とは逆方向に池の端周辺を通り抜け、仲町の飲み屋街の裏手にあるフグ料理屋に飛び込んだ。そしてそこでフグサシやフグチリに舌鼓を打つことになったのだが、もちろん勘定は友人もちというお膳立てがあってのうえでのことだった。すくなくとも実質五時間ほどは歩き回ったあとだっただけに、フグの美味が身体中にしみわたったことはいうまでもない。

(付記)AICの読者の皆様とも今日をもってお別れすることになりました。長い間AICにおける拙文にお付き合いいただきましたこと、この場を借りて心から感謝申し上げます。またあらためてどこかでお目にかかる機会でもございました時にはよろしくお付き合いのほどをお願い致します。なお、私自身は南勢出版(https://www.nansei-shuppan.com/)のホームページの「夢想一途」などにおいても、折々手記を書き綴ったりするつもりでおりますので、ご関心のおありの方はそちらのほうにも是非お立ち寄りください。

桜待ち去り行く者も来る者も(成親)

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