エッセー

34. 昨今の「いじめ問題」に思うこと

このところの「いじめ問題」の深刻さには想像を絶するものがあるようだ。もろもろのマスメディアでもことあるごとにその種の問題についての報道やコメントがなされてきている。だが、現実には「いじめ行為」なるものの根は深く、容易にはその解決策など見つかりそうにない。政府の教育再生会議などで行われている通りいっぺんの議論などおよそ無意味だというのが、現場にあって真剣にその問題と取り組む教育関係者らの偽らぬ本音ではないだろうか。

以下に掲載させてもらうことにした「いじめ問題」に関する文章は、最近ある月刊誌において執筆した「いじめ問題」に関する原稿を大幅に加筆修正したものである。「いじめ問題」の専門家などではない私が、「マセマティック放浪記」の趣旨などとはおよそ無関係なこのコーナーおいてこのような内容の記事を書くことに対し、違和感をお持ちになる方も多いとは思う。ただ、個人的、しかもごくささやかなものではあったけれども、かつて長年にわたり、様々な理由から学校に通えなくなった小中学生や高校生の指導に直接携わった経験をもつ身に免じて、大目に見ていただければありがたい。

◇人間の本性を直視すると◇
 ノーベル賞を受賞した著名な動物生態学者コンラート・ローレンツは、その著書「ソロモンの指輪」の中で興味深いことを述べている。我々人間は、狼を獰猛かつ残忍動物だとみなすいっぽうで、鳩やノロ鹿を平和の象徴だとあがめ祀ったりしているが、それは大きな誤解なのだという。

ローレンツによれば、自らの牙の危険性を熟知している狼は、仲間同士で争う場合、劣勢の狼が首を差し出して降伏の意思を表すと、優勢な狼はそれ以上攻撃を続け相手を死に追いやったりすることはないのだそうだ。同一群の狼に相対的な序列はできるが、いったん序列がきまるとそれ以上無益な争いをして互いに傷つけ合うことはなく、それぞれの役割を果たしながら仲間同士助け合って行動するというのである。

そのいっぽう、鳩やノロ鹿のように弱くておとなしそうな動物が仲間争いを始めると凄惨な事態が起こるらしい。たとえば鳩の群を大きな檻の中で飼ってみると、ストレスなどが原因で争いが生じた場合、強い鳩は弱い鳩を攻撃して殺してしまうばかりか、死んだ鳩の内臓が剥き出しになりズタズタに裂けた状態になっても攻撃の手を緩めない。小鹿のバンビのモデルになったノロ鹿の場合も同様で、いったん争いが生じると強い鹿は弱い鹿をとことん追い詰め、相手の内臓が破裂し絶命してもなお執拗に攻撃し続ける。人間社会と同様に弱者に対する集団攻撃も起こる。その種の残忍さは弱い動物が具えもつ特性であるとローレンツは述べている。

争いに負けた鳩やノロ鹿が通常絶命するに到らずにすむのは、広大な自然界の場合には、敗者が一時的に逃走することにより悲劇を回避し、自己防衛をおこなうことが可能だからなのだという。だから、ストレスがもとで集団内に争いが生じ、しかも弱者に逃げ場がないような時には見るも無残な結果になってしまう。

鳩やノロ鹿などの動物にとって「逃走すること」は自らの命を守るために重要な意味と役割を持っているわけである。そして、ローレンツの考察によると、生来、人間という動物は鳩やノロ鹿と同様の生態学的特質を有しており、その本性は狼などとのそれとは違い、きわめて残忍なものなのだという。

食物を摂取すれば、必ず排泄作用が伴う。身体が成熟し性的なエネルギーやそれによって喚起される性的欲望が蓄積されるようになると、性行為を通してそれを放出せざるをえなくなる。さらにまた、社会動物の人間は集団の中で生き抜くために、もろもろの精神的活動をしなければならいが、そのために消費される精神エネルギーはストレスという負のエネルギーに変換されて体内に蓄積する。この負のエネルギーが一定以上蓄積されると、それを一挙に排出しなければ我々人間は生きてゆけない。

心理学者フロイトが「カタルシス」という言葉を用いて指摘したように、複雑に関係し合うそれら一連の排出行為はいずれの場合も特別な快感を伴う。なかでも精神的ストレスは、大なり小なり、暴力、虐待、破壊、強制、支配といった嗜虐的行為、あるいはなんらかの開放感をともなうその代替行為を通じて排出されざるをえない。それは人間という生命体の生存にとって不可避な行為なのであり、人間の人間たる所以なのでもある。

動物生態学的な視点からみると、「いじめ」すなわち「所属集団で実効的に遂行される嗜虐的行為」は、一生物としての人間のもつそんな悲しい宿命ゆえに起こる必然的現象なのである。学校での「いじめ」が大問題になっている昨今の社会においては、生徒も教師も保護者の父母も、教育行政担当者も、さらにはそれを報じるメディア関係者も、人間のもつそんな性(さが)をまずしっかりと直視し、自らにもなおその残虐な資質が内在していることを認め学ぶことからはじめなければならない。

◇いじめ問題の根は深い◇
 学校でのいじめの主な原因は、多人数が集団を構成し半強制的に同一行動をとらされることから生じるストレスや、集団構成員である生徒らが情緒の発達段階にあるため、良好な人間関係を維持する能力が未熟なことなどにあるといってよい。アメリカの心理学者ソロモン・アッシュらは、集団への同調圧力(peer-pressure)から、たとえ残虐な行為であっても罪の意識を忘れその場の趨勢に加担してしまうという厄介な集団心理の存在を実験的に証明している。

さらにまた、見方によっては、集団内に下位層を形成し間接的に集団の秩序維持を図ろうとする行動様式が不完全な形で現れるのがいじめ現象だと考えることもできるようである。弱い固体や一時的に弱体化した固体を群から排除し、現集団の環境適応能力を高めようとする動物的本能の名残がその根底には存在するからだ。本来、社会集団というものは弱者が犠牲になるのを極力避けるためにこそ存在しているはずなのだが、未成熟な社会集団の場合には本末顛倒した事態が生じてしまうことになる。

近年は脳科学もいじめ問題に光をあてはじめている。大脳辺縁系と呼ばれるところからは、無意識のうちに、生理的欲求、性的欲求、安全ならびに安心確保の欲求、愛情の欲求、所属の欲求、認知と評価獲得の欲求、自己実現の欲求などが発せられる。そして、そのような欲求がうまく満たされない場合に起こるストレスをコントロールし、理性的判断を下すのは大脳新皮質の前頭連合野である。だが、その機能が不十分だったり未発達だったりすると、それらの欲求を短絡的に満たそうとする衝動が起こってしまうようだ。

この前頭連合野の機能は後天的な学習作用による脳神経細胞のネットワーク形成を通して発達することがわかってきている。幼少期に無償の愛を十分に受けて育ち、豊かな自然体験や社会体験を積んだ子ほどイジメ行為に走りにくいのは、そのような後天的生育環境が脳の発達様態と深く関係しているからのようである。近年、幼少期の子どもらの自然体験や社会体験が極端に少なくなっているのはその意味でも大きな問題であるといってよい。

攻撃される弱者にとって「逃走」は重要な意味をもつと述べたが、現代の子どもたちには逃走すること自体が難しい。自然環境や社会環境の変化に伴い逃走に適した場所がなくなってきたという現代的な事情もあるが、それ以上にもっと根本的な理由がある。逃げるという行為を実践するには集団から分離するエネルギーと、それなりに自立した行動能力が必要なのだ。集団から逃げ出した者は、一時的ではあろうとも、孤独な状況に耐えながら自分の時間を過ごすことができなければならない。すくなくとも一人遊びができなくてはならない。

ところが現代の子どもたちの多くは、もろもろの生育環境の変化もあって、幼少期にそのような体験やトレーニングを積むことのないままに育ってしまう。だから、集団から離れて一人になるとたちまち不安に襲われ、どう行動してよいのかわからなくなってしまうのだ。逃げようにもすでに逃げる能力すら喪失してしまっているのが現代の子どもたちの姿なのである。

かつて心理学者のエーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」という著書の中で、「自由を求めるくせに、いったん自由を与えられると極度の不安に陥りその自由から逃げ出し拘束のある世界に戻りたくなる人間の不条理」を論じたが、現代の子どもたちは一人でいる自由さえも求めなくなってきている。そのような状況下では、いじめから逃れて身を守ることも、また、いじめに加担しないでいることも難しい。

コンラート・ローレンツは自らの動物生態学の研究に基づいて人間性悪説の立場をとり、社会心理学者のエーリッヒ・フロムのほうはキリスト教的倫理観に立脚する人間性善説の立場をとった。同時代に活躍した二人はなにかというとその主張を対比的に引き合いに出される存在であったが、現代社会の「いじめ問題」の根底を考えるにあたっても、彼らの対照的な観点はそれぞれに意味をもつものと思われる。

そのいっぽう、少年問題に詳しい小林道雄は、現代日本の子どもらの危機的心理状況を「つながってなくちゃなんない症候群」と名づけているが、その状況の進展に一役買っているのがほかならぬ携帯電話のメールである。

親や教師の知らないところで子どもたちはメールで繋がり、それを通じて部分的に重層するさまざまな集団を形成し、自らの所属欲求を満たしている。その必然の結果として携帯メールは「いじめの凶器」に転化する。誰が第一発信人か判らないような伝聞形のメールにより、特定の子どもに対する誹謗中傷の言葉が飛び交い、陰湿ないじめの相談がおこなわれる。当初いじめの対象者には直接メールは届かないが、なんとなく白眼視されていることに当人も気がつくし、間接的にしろ自分に対する中傷は耳に入る。しかも、一定段階を過ぎると、おおっぴらにいじめの対象者に対し多数の攻撃メールが送りつけられるようになる。

しかもこのメールによるいじめにおいては、従来のいじめとは違い、強者弱者に関係なく、ある日突然誰しもがその対象になりうるのだ。「友達が恐い」と怯える子どもが続出する昨今の学校の状況は尋常ではないのだが、親も教師も実態を把握するのはもはや不可能な有り様なのだ。

これほどに深刻ないじめ問題に決定的な解決策など簡単に見つかろうはずもないのだが、それでも教育現場にあってはいくつかの試みはなされているようだ。その存在はほとんど知られていないのが実情ではあるが、公私さまざまな「いじめ問題」の相談所やネットを利用した相談システムがいろいろと登場してきてはいる。そのような相談所や相談システムをネット上で検索することも可能なようだが、それらの存在そのものの広報を含めてもう一工夫しなければ、いじめの渦中にある子どもらが助けを求めることは容易でないだろう。

過日の新聞のいじめ問題の連載記事の中で、ある著名な人物らが、「長い人生から見るならば、いじめの起こる時期などほんの一瞬のことに過ぎないから頑張るように」とか、「自分もずいぶんといじめられたけど、その短い一時期を切り抜けいまはこうして立派にやっている」とかいった趣旨の激励の言葉を述べていた。

当人たちは大真面目でそんな言葉を吐いているのだろうが、そんなものは現実にいじめの渦中にある子どもらにとってはなんの足しにもなりはしない。絶望の果ての自殺に繋がる失恋などがそうであるように、「ほんの一瞬」あるは「その短い一時期」のやり場のない苦しみこそがいじめをこうむる子どもらにとっては問題だからなのである。

ひとつだけ確かなことは、いじめにストレスの発散を求める子らを諭し導くにしても、いじめられて苦しむ子も守ってやるにしても、不可欠なのは十分に人生経験を積んだ大人の発する心からのぬくもりだということだ。その場しのぎのもっともらしい一時的な言葉などではなく、心のこもった両の瞳と包容力のある身体から無言のうちに発せられる無償の温かさこそが必要なのだ。いじめ問題などについて執筆したりコメントしたりする機会のある各界の著名人らにひとつだけお願いしたいことがある。

たった一人だけに対してでもかまわないし、たった一度のことに終わったとしても、さらにまたそれが失敗に終わってもかまいはしないから、いじめその他の問題で苦しんでいる子どもらと直接に向き合い、あなたがたの心からの愛情とぬくもりをもって実際にその相手を包み込む努力をしてほしい。

想像以上の大変さに困惑するようなこともあるかもしれないが、あなた方も、そしてその子どもたちも、それによって得るところはそれなりにあるはずだからだ。また、そんなあなた方の姿を目にした一般の人々も、あなた方の姿に倣って自然にいじめなどの問題を自分の問題として真剣に考えていくようになるだろう。

古来、狼をずいぶんと悪者に仕立て上げてきた我々だが、いまやその狼の社会からいろいろと学ばなければならない状況にたちいたってきたことはなんとういう皮肉な話なのだろう。

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