エッセー

29. 元旦の御来光を仰ぐ

昨年師走の慌しい日々の中で、印刷屋に渡す年賀状用の文章と絵の原案を考えていた。毎年私は昔ながらのペンと黒インクを用いて自筆の年賀状用原稿を作成し、それを葉書に印刷してもらうことにしている。パターンはほぼ決まっていて、その年の干支をあらわす動物をマンガタッチで中央に大きく描き、吹き出しをつけてその中に時事風刺や自己風刺の短い文章を書き込む。そして、そのマンガ風の絵を囲む空白部に新年の挨拶や自分の近況報告など書き足すことにしている。もう30年余もそんな年賀状を作り続けてきているわけなのだが、なかにはこれまでに出したそんな年賀状のすべてをためこんでいる物好きな人もあるらしい。

そんなわけで、いつものようにペンを手にし、たっぷりとペン先にインクをつけてイノシシの絵を描き始めた。そして、そこまではよかったのだが、途中ではたとペンを持つ手を止める事態にたちいたった。これまで考えてもみなかったような思いが突然脳裏をよぎったからである。それは、「年賀状用にイノシシの絵を描くチャンスがもう一度めぐってくることはあるんだろうか?」という率直な思いだった。今度イノシシの絵を描くとすれば12年後のことになる。いったいその頃まで自分は元気にしておられるのだろうか?――そんな疑問が脳裏をかすめたわけである。

まだまだ元気なつもりではいるし、とくに気力が衰えたとか身体に悪いところがあるとかいうわけでもないのだが、今までになかったそんな思いに駆られるようになったのは、自分もそれなりに年を取ってしまったからに違いない。晩年の水上勉先生は、お会いする機会があるごとに「明日のことはわからない。これが今生のお別れだね!」とおっしゃっておられたものが、あらためてその言葉やその折の先生のご様子などを思い起こしたりもする有り様だった。

そんなことが頭から離れなかったせいもあったのだろう。大晦日の紅白歌合戦が終わり、各地の除夜の鐘の響きが流れ始める頃になって、突然にこれからどこかの海辺に初日の出を眺めに出かけることにしようと思い立ったのだった。朝日や夕日ならごく最近にいたるまで幾度となく眺めてきているのだが、元旦の御来光ということになるとここ20年ほど仰ぎ見る機会に恵まれていなかった。その気にならなければ、これから先も初日の出を見ることなく人生の終焉を迎えてしまうことにもなりかねない。ならばここは実行あるのみというわけで、2007年1月1日午前零時をすこし回ったところで急遽出発の準備を整え、いざ行かんとばかりに車のエンジンを始動した。

カラフルにライトアップされたレインボウブリッジを渡り、新年を迎えたお台場一帯の夜景を眺めながら湾岸高速道路に出ると、ひらすら東方に向かって走り出した。目指すは鹿島灘に面する茨城県の大洗海岸だった。ほどなく湾岸高速道から東関東自動車道に入ったが、思いのほか道路はすいており、水郷としてしられる潮来のインターチェンジまでいっきに走り抜けることができた。

潮来から大洗海岸へと向かう途中たまたま鹿島神宮付近を通りかかったので、どう見ても信心深さには縁遠い身であるにもかかわらず、好奇心の赴くまま、まずは神宮初詣と洒落込んだ。鹿島神宮に詣でるのは初めてのことだったが、想像以上に大きくて立派な神社であった。参道の両側にはずらりと夜店が立ち並び、それなりには初詣客の姿が見られもしたが、東京周辺の神社に見るような異常な人込みなどにはおよそ無縁な感じだった。本殿から奥の院方面へと続く300メートルほどの参道は、巨木の立ち並ぶ樹林帯によって深々と覆われ見るからに静寂そのもので、木立の隙間越しに仰ぎ見る夜空には煌々と輝きわたる北斗七星の姿があった。思いがけないことではあったが、それはなんとも心安らぐ光景だった。

本殿と奥の院との前に立ち一応型通りの新年の参拝を済ませたが、ただ無心に手を合わせただけで、余計な願掛けなどはいっさいしなかった。この年になって欲の皮の突っ張ったお願い事などをし、よしんばそれが実現したとしても、そのことにどれだけの喜びを感じることができるだろうという思いもあったからだった。ましてや、一部の政治家の方々のように、「美しい日本になりますように!」などという大仰なお願いなどをする気持ちなどさらさらなかった。そもそも「美しい日本に!」と声高に叫ぶ人々のほとんどは、こんな深夜に暗く深い鎮守の森を訪ね、木立の間に間に見え隠れする美しい星空を見上げたりしながら、不思議なまでに森閑としたその霊気にひたり、穢れた己の心を清める気持ちなどはなからなさそうに思われてならなかった。

鹿島神宮の宝物館も開いていたのでついでに覗いてみたのだが、茨城県で唯一の国宝だとかいう全長3メートルほどの直刀がなんとも印象的だった。儀式用の巨大な刀剣だったが、日本刀特有の反りのまったくない文字通りの直刀で、持ち上げるだけでも容易なことではなさそうに思われた。鹿島神宮の縁起などについて記された文書類やその解説なども展示されていたが、それによると、この神社は国内でも有数の歴史と伝統を持つ古社のようであった。

鹿島神宮をあとにしてほどなく、車は、鹿島灘に面する鹿島浦に沿って大洗町方面へと続く国道51号に差し掛かった。道路地図で見るかぎりではこの51号線は長大な鹿島浦の海岸線にぴったりと沿っているように思われるのだが、実際にはこの国道は浜辺からかなり離れたところを走っている。そして、道路と浜辺との間にはいくつもの小集落や田圃さらには防風林などがあるために、車窓から直接に鹿島灘の海面や鹿島浦の浜辺を望むことはできない。そんなわけで、当初は那珂川河口に近い大洗町まで行き、海岸線に直接面する有名な朝日見物のスポットに立ち寄って御来光を仰ぐつもりでいた。だが、急に思い立つところがあって予定を変更し、現在は鹿島市に属する旧大野村の荒野という小さな集落付近のコンビニの前で車を駐めた。

6時50分前後の日の出まではまだしばらく時間があったので、一休みしながらコンビニで買ったパンと牛乳で腹ごしらえをしたあと、荒野の集落やその付近の田畑を縫う細い道を徒歩で辿り、最寄りの浜辺へと抜け出てみることにした。国道51号に沿うこの一帯だったら、どの地点からであっても真東に面する鹿島浦の浜辺に降りられるはずで、浜辺に降り立ちさえすればどこからでも御来光を眺められるだろうという算段あってのことだったが、結果的にその読みはものの見事に的中した。初めて足を踏み入れたところとあって、どんな場所に出るのかまるで見当がつかなかったが、浜辺へと出た途端眼前に現れたのは、薄明のもとにあってどこまでもうねり広がる鹿島灘の雄大このうえない光景だった。

絶え間なく荒波が打ち寄せる広い浜辺には人影はまったく見当たらなかった。水平線上にある東の空はかなり明るんできていたが、日の出までにはまだ30分ほどあったので、南北両方向に果てしなくのびる砂地の海岸に足跡を刻みながら渚の周辺を歩き回った。次々に寄せ来る波と戯れ、さらには一帯の渚一面に散らばっている大小無数の綺麗な貝殻を眺めたり拾ったりしているうちに、荒海の向こうにある東の水平線が一段と明るさを増してきた。日の出の時刻の10分ほど前になると、広大な浜辺のあちこちに点在する人影が見かけられるようになった。それらは付近の集落から初日の出を見にやって来た地元の人々の姿であった。しかし、その数はごくわずかなもので、お互い同士が50メートルくらいずつは離れている感じであった。

6時48分、水平線の彼方に赤く輝く太陽の上端部が現れた。そして、みるみるうちに真っ赤に燃え立つその全貌が水平線上に浮かび上がった。思わず手を合わせたくなるような神々しい初日の出であった。その初日の光に照らされて荒波を孕んだ鹿島灘の海面が一瞬朱色に染まり、渚一帯に散らばる貝殻やそれらの破片がきらきらと輝いた。久々にめぐりあうことのできた素晴らしい御来光に心底感動を覚えながら、私は時の経つのを忘れてしばしその場に立ち尽くしたままだった。

いまさら声高に「美しい日本を!」などと叫ばなくても、この国はなお美しい。すくなくとも美しい日本の姿はまだこの国のいたるところに残っている。ただ、その美しさを感じ取るべき豊かな感性が人々の心から徐々に失われつつあるのは事実だろう。そして、そのような感性をいまもっとも失いかけている人々は、日本の自然美や自然信仰のなんたるかを知ることもなく安直そのものの教育論を掲げ、「美しい日本」を口々に唱える一部の政治家たちなのではなかろうか。もちろん、自然美というものがその国の文化のすべてであるわけではないけれど、すくなくともその重要な要素のひとつであるのは間違いない。だから、そのような方々には、国旗や国歌への尊崇の念を声高に唱える前に、せめて美しい初日の出でも仰ぎ眺め、謙虚な気持ちになって自らの穢れた心を浄めてもらいたい。朝日の美しさも知らずして日の丸礼賛もあったものではないだろう。我々庶民のほとんどは、いまさらあなた方に言われなくてもこの国を愛してはいるのである。

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