エッセー

26. 上海駈足紀行(10)

次に案内されたのは銭塘江の支流五浦河沿いにある観光遊園「宋城」だった。昔の中国を舞台にした映画などの撮影にも使われるというこの広い園内には、趣向のかぎりを尽くした木造や石造の建造物があれこれと建ち並んでいるらしかった。どうせなら牛車に乗って園内をまわったらどうだろうというMさんの提案などもあって、白い牛の引く一台の車を借り切ると、我々は好奇心の赴くままに思い思いの座席に腰をおろした。しばらくすると、若い御者の命令に従って白牛は「モーッ仕方がない!……モーッ」とばかりにゆっくりと立ち上がり、車を引いてとことこと歩き出した。独特の轍の軋みや前後左右への車の揺れなどがなんとも心地よく感じられ、風情豊かなことこのうえなかった。馬車なら過去に何度も乗ったことがあったけれど、牛車に乗るのは初めてのことだったので、気分はまるで平安貴族なみといったところだった。

園内のいたるところには観光客相手のお土産店や食べ物屋があって、どのお店もお客の呼び込みに懸命の様子だった。徒歩で園内をめぐっていたら絶え間なく誘いの声を掛けられたのかもしれないが、牛車に乗っての移動だったので、店の者から必要以上に呼びとめられたりすることなどなくてすんだ。

どことなく優雅な雰囲気を漂わせながら牛車の進む先々には、古城や古寺院風の建物、古風な廟や祠、岩山を連想させる巨大な石造構造物、さらには劇場らしい建物や現代風の各種アトラクション施設などが、来訪者の目を幻惑し魅了せんばかりに建ち並んでいた。この宋城の劇場では新旧さまざまな演劇や舞台芸術の類が大々的に催されてもいるらしかった。また、七色の光でライトアップされる夜の景観などはずいぶんと幻想的なもののようであった。この観光遊園内を隅から隅までめぐっていたらずいぶんと時間もかかりそうだったが、駈足旅行の我々はほとんど牛車に乗ったままで園内の主要部をめぐり終え、それからほどなく宋城をあとにした。

名所旧跡には事欠かない杭州だが、杭州随一の名所といえばなんといっても西湖である。古来多くの文人にゆかりのあったその西湖をこの杭州までやってきて訪ねないわけにはいかなかった。それゆえに、我々がそのあと西湖へと向かったのは必然の成り行きだった。

周囲15キロメートルほどの西湖は、北、南、西の三方を小高い山や丘陵に囲まれ、東側だけが平地となって杭州市街に面している。その周辺には数々の名勝があるのだが、駈足旅行の手前もあってそれら全部をめぐってなどおられないので、探訪スポットを絞り込まざるをえなかった。

そんなわけで我々は西湖の南端付近に位置する蘇東坡記念館のそばで車を降りた。蘇東坡(蘇軾)といえば中国の誇る偉大な文人の一人である。「赤壁之賦」をはじめとするその名文にいくらかは接したこともある私は、その業績を称える記念館を覗かずに通過するのはちょっと心残りでもあったが、駈足旅行の途上にある身にすればそれはやむをえないことだった。そこで、とりあえず我々は蘇東坡の顕彰碑の前に佇み、そのあとで西湖の西側をほぼ北へと延びる蘇堤に足を踏み入れた。日曜日のことともあってか、周辺は内外の観光客で溢れていた。

北宋時代の1089年、地方長官としてこの杭州の地に赴任した蘇東坡は数々の名詩や名文を残したことで知られている。だが、そのいっぽうで、行政上の仕事としてこの西湖の一大浚渫事業を敢行し、長大な蘇堤を構築もしたのだった。湖心亭のある小島をはじめとし、いまに残るいくつかの風趣に富んだ人工島が設けられたのもその時代のことであったらしい。西湖を外湖と西裏湖とに大きく分けるこの蘇堤は、西湖の水量の調節や南北湖畔間の往来に寄与するようになったほか、西湖の景観を楽しむうえでも大きな役割を果たすことにもなった。蘇堤から望む湖上には大小の観光船が浮かび、湖中にあるいくつかの小島との間を往来しているところだった。

蘇堤をすこし北へと進んだところで我々も地元の若者の操る小さな手漕ぎの舟に乗り、西湖の湖心へと進み出た。舟は小瀛州(しょうえいしゅう)と呼ばれる小島へと近づいたが、その島のすぐそばの水中には、正三角形を構成するように配された大きな三基の石灯籠が立っていた。それら風変わりな石灯籠は、西湖の絶景のひとつとして名高い「三潭印月」と呼ばれる景観の要をなしており、美しい月の夜には月光と微妙に絡み合い見事な風趣を生み出すのだそうであった。残念ながら真っ昼間のことでもあったので、中国の切手の図柄にもなっているというその奇勝の真髄のほどを知ることはできなかった。また、不透明で緑がかった西湖の水の色は、青く澄んだ日本各地の湖水を見なれた者の目にはいまひとつのようにも感じられた。多分異におのれの風流心の欠如のゆえではあったのかもはしれないけれども……。

そのかわり、舟の上から眺め見た西湖とその周辺の全体的な景観は昔の中国の水墨画を彷彿とさせるほどの美しさで、周辺の丘陵に建つ中国古来の様式の寺院や湖畔一帯の様々な楼閣と湖水とのみせる調和の妙は実に見事なものだった。もともと、この湖の水は銭塘江の水を引いてきているものだそうだから、湖水の色そのものの美しさなどよりも、入り組んだ湖面や湖中の妙なる島々、湖を取り巻く丘陵地、さらにはそこに建つ諸楼閣の織り成す全体的な景観こそがこの西湖の真髄なのであろう。また、だからこそ、昔から、秋月下や春暁の美景こそが西湖の西湖たる所以ともされてきたのだろう。マルコ・ポーロはこの西湖の風景の素晴らしさを「地上の天堂」と比喩したというが、もしかしたらその頃は湖水の色もいまよりは綺麗だったのかもしれない。

湖面に浮かぶ小島の小瀛州には、なんとその中にさらに四つの池塘があるらしかったが、時間の関係もあったので島に上がることはせず、蘇堤の下を潜っていったん外湖から西裏湖側に入った。そして西裏湖の景観をしばし楽しんだあと、再び外湖側へと戻り、蘇堤脇に舟を着けてもらい蘇堤上へと降り立った。この蘇堤上を遊園地の電車みたいな乗り物が走っていたので、それに乗って蘇堤の北端に至り、そこから徒歩で橋を渡って西湖で唯一の自然島であるという狐山へと向かった。蘇堤を北へと向かう途中、「蘇堤春暁」と称される西湖の絶景スポットを通過はしたが、なにぶんにも「春の暁の頃」どころか「秋の昼下がり」のことではあったので、残念ながら蘇軾の功績にちなんだ名をもつその絶景を目の当たりにすることはできなかった。

西湖の北部最奥の地点と狐山との間には白堤という人工の堤が直線状に延びていて、その北側にある北裏湖を外湖から分離するかたちになっている。この白堤は唐の時代の822年にやはりこの地の地方長官として赴任してきた大詩人白居易(白楽天)が築いたもので、後世の蘇東坡の場合と同様に、その業績にちなんで「白堤」と命名されたものらしい。白楽天や蘇軾については大詩人や名文家としてのイメージしか持ち合わせていなかったから、そんな彼らが有能な官吏として地方行政に携わり、現代にまでその名を留める一大土木工事を指揮したというのは、私にすればいささかの驚きでもあった。

現在は中山公園となっている狐山には名庭園「平湖秋月亭」があって、そこから眺める秋の月夜と月光下の西湖一帯の景観は「平湖秋月」と称され、これまた西湖の絶景のひとつとされてきた。この平湖秋月亭は清の賢帝、康熙帝や乾隆帝などからもこよなく愛されていたという。折から季節は秋ではあったが、駈足旅行者のしがない身では夜になるまでこの地に留まるわけにもいかず、しかも月齢のほうもまだずいぶんと若くて新月に近いときていたから、西湖の湖面に輝き映える平湖秋月を想像の中で楽しむしかなかった。

気がつくともう2時近くになっていたので、遅い昼食をとろうということになり、Fさんの先導で狐山の湖畔沿いにある中華料理店、楼外楼菜館に入った。孫文もよくやってきたとかいう、150年の伝統を誇る老舗である。そこで西湖魚餡(西湖産の魚の甘酢餡かけ)、乞食鶏(鶏の蒸し焼き)、豚角煮などを注文して食したが、さすが西湖で一、二を争う老舗だけのことはあってその料理の味はなんの文句もつけようがないものであった。なかでも鶏一羽をホイルに包んで丸ごと蒸し焼きにした乞食鶏は、その味といい、香りといい、舌触りといい、ただもう絶品としか言い表しようがなかった。「乞食鶏」などと書くと、ついつい日本語の感覚でその意味を「乞食の鶏」などと解釈し、餌不足で痩せさらばえた鶏の料理などを想像してしまいそうだが、中国語では「是非とも当店自慢のこの鶏料理をご試食ください」といったような意味になるのであろう。

食後に楼外楼菜館のテラスに出てみたが、眼下いっぱいに西湖の静かな湖面が広がり、前方には小瀛州と思しき小島の影を、また右手には蘇堤と思しき堤の一部を目にすることができた。昼間見ても実に素晴らしい景色ではあったが、テラスの正面方向が真南に当たっていることから、南天に満月のかかる夜などにこのテラスに立ったら「平湖秋月」にほぼ近い絶景を目にすることができるのだろうと、あらためて想像をめぐらした。また、この老舗の壁面いっぱいに飾られた木の透かし彫りの作品は壮麗このうえないものであった。

古刹や各種の博物館などをはじめとし、西湖周辺には見るべきものがまだ数知れずあったのだが、駈足旅行につきものの時間の制約ばかりはどうしようもなかった。食事を終えた我々は、西湖をあとにし、Fさんお奨めの観光スポット烏鎮へと向かうことになった。上海からの日帰り旅行で杭州の六和塔や西湖をめぐり、そのうえにそこからかなり離れたところにある烏鎮を訪ねるというのは相当な強行軍であるらしかった。だが、幸いなことに、車の運転手さんがベテランで道路状況にも詳しく、なにかと臨機応変な対応をしてくれたため、その日のうちになんとか烏鎮をも訪ねることができるようになったのだった。

正直なところ、それまで私は烏鎮というところについて何の知識も情報も持ち合わせていなかった。だから、Fさんから「これから烏鎮に行きましょう」と言われた時、いったいそれがどんなところなのかもまったく見当がつかなかった。ところが、車の走行の様子や折々目にする道路標識の表示から、なんとなく、目的地が近づいてきたのかなと思い始めた頃になって、道路脇の大きな観光案内板に記された奇妙な一文が目に飛び込んできた。なんとそこには「現代中国最後的水没家屋」と記されていたのである。「最後的水没家屋ねえ?……いったいそりゃ何じゃ?」と思わず胸中で呟きながら、烏鎮がどういうところなのかをあれこれと想像し始めたのだった。

カテゴリー エッセー. Bookmark the permalink.