エッセー

25. 上海駈足紀行(9)

翌朝は浦東の宿泊ホテルまで迎えに来てくれた車に乗って8時前に杭州へと向かった。

道路がすいていれば杭州までは2時間余で行けるとのことだった。車は黄浦江下のトンネルをくぐり、ほどなく高速道路上に出ると超高層ビルの林立する上海の中心部をいっきに走り抜けた。だが驚いたことに、時速100kmを超える速度で1時間ほど走り続けても高速道路の両側にそびえる高層ビル群の影が途絶えることはなかった。土地が国有で労働力や建築資材の安いの中国のこととはいえ、この建築ラッシュのすさまじさは尋常のさたではないように思われた。上海の中心部からかなり離れた地区にまで立ち並ぶそれらのビルをいったい誰がどうのように利用しているのだろうかと、私は首をかしげたくなった。

片道二車線から三車線の立派な高速道路のあちこちに見られる標識類は、色彩やデザインともに日本のそれによく似ていた。「車輌慢行(徐行運転)」とか「小心速度(速度注意)」とかいったような標識の意味を日本語に直すとどうなるのかと考えてみるのも面白いことだった。中国ではこの種の高速道路が年間に3500kmも建設されていると聞いてまたもや仰天せざるをえなかった。日本では総延長7000kmに及ぶ高速道路網の整備促進が声高に叫ばれたりもしているが、中国ではその半分の相当する距離の高速道路をわずか1年間で建設してしまうというのである。日本のように環境問題や用地買収に伴う反対運動など起こしようのないお国柄ゆえそのようなことも可能なのだろうが、そのぶん高速道路建設によるひずみなども相当なものだろうと想像された。

車が杭州方面に近づくに連れて、高速道を挟んで遠くまで広がる平野には、高層ビル群に替わって不可思議な建物群が現れはじめた。三階建てくらいの瀟洒な造りの民家風建物が、その一帯の平地に見渡す限り立ち並んでいるのである。かなりの広さのある二階か三階の居住階があり、さらにその上に申し合わせでもしたかのように、透明な総アクリル張りか強化ガラス張りと思われる小ぶりの部屋が設置されているのだった。一種の展望室なのか、洗濯物や布団などを干したりする特別な部屋なのか、それとも他に何か別の目的があってのことなのかはわからなかったが、とにかくどの建物にも最上階にそんな部屋が設けられていた。また、それらの建物の瓦ぶき屋根は、寺院か竜宮城もどきの建物の屋根を連想させるような形をしていた。しかも、その屋根の中央最頂部には金色や銀色に輝く金属球体2、3個を同色の金属心棒で串刺しにしたような形の奇妙なオブジェが、九輪の塔をほうふつとさせる感じで天を指すように立っていた。

「この風変わりな建物はみな個人所有の民家なんですか。同じような造りの建物がいたるところに立ち並んでいますけれど?」と、案内役のFさんや車の運転手に尋ねてみると意外な返事が戻ってきた。

「杭州は上海なんかよりもずっとお金持ちの数が多いんですよ。そんな人たちが別荘を、それも投資を兼ねた別荘を次々に建てているんです。それらのほんの一部があの建物群というわけなんですよ。もちろん、このあたりにもともと住んでいる人の家もありはしますけれどね」

「別荘ねえ、しかも将来の値上がりを見込んだ投資目的の別荘ねえ……。じゃ、人が住んでないものもずいぶんとあるということなんですね」

「もちろんです。別荘ですから、持ち主はたまにしか来ませんし、所有しているだけでまったく来ない人もずいぶんといるようです」

「驚きましたねえ……。それはそうと、あの屋根の天辺に立っている奇妙な形のしろものはいったい何なのですか。何かのお守りみたいにも見えますが……、それとも風水がらみの飾りとか?」

「あれはテレビのアンテナですよ。中国では60ほどある州がそれぞれにテレビ放送をやっていますから、ああいうアンテナを立ててどこの州のテレビ放送でも見られるようにしてあるんですよ」

「上海はもともとすごい電力量を消費しているようですし、それに加えてこのあたりにあるとてつもない数の別荘が一斉に電気を使い始めたらたいへんなことになりそうですね……。ところで、上海の人口は表向きには1600百万人、実際には2000万人に近いとのことですが、杭州市の人口はどのくらいなんでしょう?」

「160万人くらいだそうです。でもみんな大金持ちばかりだそうでして……。ただ、杭州は周辺の景観との関係もあってビルの高度が規制されていますから、上海みたいに超高層ビルが林立したりはしていません」

そんな会話を交わしながら車窓から周辺の景色を眺めやっているうちにも車はどんどんと杭州市に近づいた。そして車はいったん高速道路を降りたのだが、その一帯の道路脇には物売りらしい人影がずいぶんと見かけられた。渋滞する車の中の観光客や、一時的に車を降りて周辺を散策する来訪者にまとわりついて物を売るのだそうだが、彼らの振る舞いについてのFさんの言葉はなかなかに痛烈なものだった。

「この周辺に住む人たちは、ああやって親しそうに声をかけながらいろいろな品物を売りつけにくるのですが、ほんとうの目的はその安い品物を売ることではありません。お客の注意を売り物のほうに引いておいて、その間に財布その他の貴重品をすりとったり、持ち物をすりかえたりします。割合高い物を売る場合は、渡す時に巧みに安物と入れ替えたりもします。そんな行為を集団的にやったりしていますから、十分に注意してください」

Fさんのそんな警告を耳にするいっぽうで、私は、中国でもっとも金持ちの多いという杭州にもそのような人々が多数存在することの意味をあらためて考えさせられた。よく言われている通り、現代中国社会ではとてつもなく貧富の差が広がっていきつつあるということなのだろう。

経済発展著しい沿海地域と昔ながらの厳しい生活を送る内陸の農村部との経済格差があまりにも大きいので、いずれ暴動が起こり中国社会は大混乱に陥るだろうといううがった見方が日本などでは以前から流布されているが、それについて中国の農村部の人々の生活ぶりにも通じているのある知人が違う見方を示してくれたことがある。

彼によれば、「中国内の経済格差は近年極端に大きくなってきているのは事実だが、辺境にある農村地域の生活水準も以前に比べれば格段の向上を見せているので、そこで暮らす人々もそれなりに満足はしている。また、情報システムの普及の遅れや情報コントロール、さらには国民の移住の自由に一定の制限があることなどが人々の目をそらすのに一役も二役も買っているため、発展から取り残された地域に住む人々の経済格差に対する不平等感は外国人が想像しているほどに大きくはない。
中国政府はそのあたりのことを十分にわきまえていて、被差別住民の不満がいっきに暴動へと発展したりしないように細心の注意を払いつつ、巧妙な行政コントロールをおこなっている。だから、暴動の発生によって中国社会が混乱に陥るようなことは容易には起こりえない」というものであった。どちらの見方が中国の将来像により近いものになるのかは、結局、時の審判に委ねるしかないようであった。

しばらくすると我々の乗る車は杭州市内の中心部に差し掛かった。超高層ビルの建設は規制されているとのことではあったが、一帯には日本の都市に勝るとも劣らぬ数の高層ビルが林立しており、高速道路上からもその有り様や市街各所の活況振りのほどを垣間見ることができた。杭州市の中心部を通り過ぎ、さらにしばらく走ったところで我々を乗せた車は高速道路を降り、杭州湾に注ぐ銭塘江の左岸、月輪山の中腹に建つ六和塔のそばの駐車場に入った。

北宋時代の970年に建立されたという瓦ぶきで縦長六角錐台状の六和塔は、もともと高潮を鎮めるために建てられたものだという。現実には塔を建てたからといって高潮が鎮まるわけもないから、おそらくは銭塘江に押し寄せる高潮を早めに発見するように見張ったり、高潮の大小やそれに伴う被害状況などを即刻把握するために設けられたのであろう。もしかしたら災害時の避難所を兼ねていたのかもしれない。

建立当時は塔そのものの高さが170mもあったのだそうで、銭塘江の河口近くを航行する船の灯台の役割をも果たしていたらしい。現在の塔の高さは60mほどだというが、それでも13階層を有する高楼風の堂々たる建物であった。六和塔の周辺には相当の数の楠の大木が生えているのを目にすることができた。私が育った鹿児島県の離島の神社の境内などにも楠の大樹がずいぶんと茂っていたので懐かしくなったが、よく考えてみるとこの杭州はその南の島とほぼ同緯度のところに位置しているのだった。したがって、全体的な植生がとても似通っているのは当然で、私が懐かしさを覚えるのもそれなりの理由のあることだった。

我々はらせん状状に続く狭い階段をのぼって最上階の13階を目指した。どの階にも回廊風の広い展望スペースがあって、6面のそれぞれに3個ずつ、計18個の大きな覗き窓がついていた。最上階までは230段近くの階段をのぼらなければならなかったので、いったん途中の7階で回廊に出て、古の人々の思いを偲びながら、悠然と流れる銭塘江を覗き窓から見下ろした。銭塘江の河口はラッパ状に大きく入り込む杭州湾の最奥に位置しているので、満ち潮の時などには押し狭められた波のエネルギーが河口付近に集中し、高潮となっていっきに川面を遡行したすい。そのため、いまでも時々高潮が発生するのだそうで、この六和塔からも銭塘江を遡上する大浪の様子を眺めることができるという。

再び階段のぼりにチャレンジした我々は、そのあといっきに残りの階段をのぼりつめ最上階の展望回廊に立った。そして、千年余の風雨に耐え抜いたこの塔の歴史を振り返りながら、六方に広がる風景の妙をこころゆくまで楽しんだ。覗き窓のすぐ下にある瓦屋根を観察してみると、日本の建物などに見られるかなり幅のある大きな瓦とは異なり、厚手の丈夫そうな小瓦がわずかなすき間もないほどにびっしりと並び敷き詰められ、漆喰のような固定剤でがちがちに固めてあった。猛烈な台風に襲われることの多い土地柄でもあるから、古来それに備えてこのような瓦の形と敷き詰め方が工夫されてきたのであろう。

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