エッセー

23. 上海駈足紀行(7)

上海花鳥魚虫交易市場の大通りを挟んだ反対側一帯には東台路古玩市場が広がっていた。いわゆる骨董品市場で、これまた呆れるほどの数の店が縦横に軒を連ねて並んでいた。我々にはもともと骨董趣味などなかったし、たとえそんな趣味があったとしてもこんなところで骨董品に手を出したら大やけどをするのが落ちだとわかっていたから買う気などさらさらなかったが、見物して歩くぶんにはなかなか面白いところだった。この一大骨董市場で品物を買うのはほとんどが外国人観光客なのであろうが、常識的に考えてみてもそうそう掘り出し物があろうとは考えられなかった。

ただ、一見したところとても古くて価値のありそうな骨董品の数々がどの店にもずらりと並び置かれているのは壮観このうえないものであった。じっと店の前に立ち止まっているとすぐに声を掛けられるので、ゆっくりとした歩調で進みながらさりげなく店頭の品々を見てまわったが、中国土産として以前に知人や友人から貰った古い小物などと同じ品物があちこちのお店で売られているのに気がついた。そんな時などは、「あっそうか、あれはこれくらいの値段だったのか……、あらら、まったく同じ物が売ってあるわ……」などと内心で思わす呟いたりする有様だった。

そんな小物ならまだしも、銀器をはじめとする古風な金属器や各種古陶など、もっと大きくて見るからに高価そうな骨董品が素人目にも意外なほどの安値で売られていたりするのだった。しかも、ほぼ同様の品物が複数の店で売られているのも面白かった。もちろん、中には実際に価値ある物や真の意味での掘り出し物などもあるのだろうが、この骨董市場で内外の観光客向けに売られている品物のほとんどは贋物とは言わないまでも、古く見せかけた新造品である可能性は大きかった。この上海の古玩市場だけでもいったいどれだけの数があるのかわからないお店に新造骨董品を供給するとなると、それなりの数量の品物を製造する場所や人材も必要となるはずだ。おそらく背後になんらかの供給ルートがあって、そこではそこなりのビジネスが成り立っているのであろう。

そんなことを考えながら古玩市場を歩き回っているうちに、ちょっとしたことを想い起こした。もうかなり以前のことだが、たまに東京芸術大学の大学院美術研究科に講義に出向いていたことがあった。そしてその折に芸大には文化財の保護や修復の技術を専攻する学科があることを知った。国宝級や重文級の古美術品などの一部が破損あるいは老朽化した時など、その状態を的確に分析し補修復元をおこなうことのできる研究者や技術者を養成する重要な学科なのだが、この学科修了レベルの技術と能力を有する者なら、その気になれば古美術品の精巧な贋物を造り出すことだってできるのである。

家伝の古い金銅器の底部や側面を誤ってピカピカに磨き上げてしまったある知人から、その器をなんとかもとの古びた状態に戻せないものかという相談を受けたことがあった。そこで当時親しかったある芸大の教授にその旨を伝え善後策を打診してみると、すぐになおしてくれるとの返事をもらった。しばらくしてから戻ってきたその金銅器を目にして、持ち主の知人も私も驚きの声を上げたものだ。磨かれないままになっていた部分とまったく見分けがつかないほどに問題の個所も修復されていたからだった。

古来の伝統文化を有するこの広い中国のことだから、その種の技術に関して天才的な能力をもつ人物が多数存在しているのは間違いない。そういった人物らが新造骨董品の制作に手を染めたりするならば、素人はおろか、ある程度の鑑定力をもつ専門家でさえも真贋の見分けのつかないような骨董品を生み出すことなど造作もないことだろう。一瞬そんな思いに駆られながら、私は黄昏に包まれはじめた古玩市場をあとにしたのだった。

そのあとは黄浦江のナイト・クルージングに参加することになっていたが、その前に夕食をとっておこうということになり、Fさんの行きつけであるというごく庶民的な桂林ビーフン店に連れていってもらうことにした。ひとつには、高名なお店ではなく、一般の上海市民が日常通っているような店で食事をしてみたいという我々の要望にFさんが快く応じてくれたからだった。案内されたお店はかなり場末の地域にあるごく小さなお店だった。庶民の間では人気のあるお店なのだそうだったが、十人もお客が入れば満席になりそうな規模で、テーブルも椅子もひと昔前の日本の田舎の食堂を彷彿とさせるようなものであった。

だが、一杯五元(六十余円)の桂林ビーフンは期待していた以上に美味であった。小型ボール風の金属容器に入れて出されたそのビーフンは日本の春雨などよりすこし柔らかで白っぽい感じだったが、香りもよくしっかりと味が染みていて、その量のほうも十分すぎるくらいであった。しかも、トッピングがまたなかなかのものだった。薄切りの焼きビーフが七、八切れものっかっているばかりでなく、鶉の卵が数個、さらには銀杏に似た歯ざわりの何かの植物の実が二十個ほども入っており、さらに新鮮な緑采もしっかりと添えのせられていた。塩分を押さえ食材の風味を生かしたスープの味も実に素晴らしく、私などはすっかり飲み干してしまったほどだった。これで五元なら言うことないというところだったが、そのいっぽうで、もしも上海の水がもっと良質だったらさらに良い味になるのだろうなと感じたのも事実ではあった。

桂林ビーフンのお店を出ると、すぐ近くで待機していてくれた車に乗り、外灘(バンド)地区南端にある黄浦江遊覧船乗り場へと移動した。もちろん、上海観光の目玉ナイト・クルージングを楽しむためだった。黄浦江は西側から流れ込む支流の呉松江(蘇州江)河口付近で北から東へと大きく流れの向きを変える。その呉松江河口から黄浦江左岸(西岸)沿いに南に向かって二キロほどにわたる一帯が外灘と呼ばれる上海のシンボル地区である。そこを南北に走る中山東路西側には、いまもなお旧上海租界時代の風情と面影をとどめるネオ・バロック風やネオ・ルネッサンス風、アール・ヌーヴォー風、さらにはアール・デコ風のビル群が建ち並び、海外からやってくる観光客の郷愁をそこはかとなく掻き立てる。午後七時になると、それらのビル群は一斉にライトアップされ、観光客の目を楽しませてくれるとのことだった。

午後七時過ぎに遊覧船乗り場付近に到着したが、周辺では次々に到来する大型観光バスやタクシーなど、おびただしい数の車が駐停車を繰り返しており、やっとのことで一時停車できるスペースを見つけ、大急ぎで下車する有様だった。明日またホテルまで迎えに来てくれるという約束のうえで、一日中付き合ってくれた運転手とはそこで別れ、我々四人は遊覧船の切符売場へと向かった。黄浦江に面するあちこちに遊覧船の発着所があるらしく、船体を華麗に電飾した何艘もの大型遊覧船がすでに江上をゆっくりと航行しているところだった。切符売場や改札口前は大変な混雑ぶりで、乗船待ちのお客で溢れかえらんばかりだった。順番を待って列をなす人々の様子を一瞥したかぎりでも実に国際色豊かな感じで、国際都市上海の面目躍如というところだった。

乗船までしばらく時間がかかったが、幸い、とくに大きなトラブルもなく、先客のクルージングを終えて接岸してきた遊覧船に乗ることができた。我々はその船の二階甲板に上がり、なるべく展望の利きそうな場所に陣取ることにしたが、次々と乗船してくるお客によって船上はたちまちいっぱいになった。

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