エッセー

22. 上海駈足紀行(6)

大世界に立ち寄ったのと前後して、前日に訪ねた新世界地区にもう一度出向き、その奥の一角にある「第一回中国共産党全国大会の跡地」なるところを見学した。そこは黒灰色の小型煉瓦で造りの壁面をもつ大きな倉庫風の建物で、現在は中国共産党関係の歴史資料館になっていた。場所柄もあってか少々暗めでなんとなくいかめしい雰囲気のところではあったが、だからといって館内を気楽に歩き回ってもとくに問題があるわけではなかった。当時のさまざまな弾圧や数々の検問の目を逃れ中国各地から密かに集まった初期の党員たちが、記念すべき初会合を開いたのがこの場所なのだそうで、壁面には歴代の中国共産党幹部たちの写真が年代順に飾ってあった。また、毛沢東とおぼしき人物が立ちあがりテーブルに座す一同に向かってなにやら熱弁をふるっている様子を蝋人形で再現したものも展示されていた。

歴代共産党幹部の写真中にかつてナンバー・ツーの地位にあったにもかかわらず失脚した劉少奇のものがないのは理解できるとしても、そのほかにも私がよくその名を知る有名な人物らでその写真が展示されていない者があったのには少々意外な感を受けた。この国特有の政治的動向が背景にあってのことなのだろうが、たとえ時の権力者に不都合ではあっても、もうすこし寛容な対応ができないものだろうかというのが正直な印象だった。もちろん、一党支配というこの国の政治制度のありかたからしてそんなことが不可能であることは百も承知ではあったのだけれども……。

次の訪遊地豫園へと向かう途中、「花旗銀行」と表示された一枚の大きな看板が目に飛び込んできた。花旗銀行という風変わりな銀行名を初めて目にして、それがどこの国のどの銀行なのかすぐにわかる日本人はほとんどいないだろう。実は花旗とは中国におけるアメリカ国旗の異称である。星条旗の星を花に見たてた昔の中国人らがそれを花旗と呼んだことに由来しているらしい。租界時代以前からアメリカの象徴たるその「花旗」を立て中国の主要都市で銀行業務をおこなっていたのはほかならぬシティ・バンクであった。上海に移る前に大連でシティ・バンク大連支店に勤務していたことのある故石田達夫翁から、中国の人々は当時シティ・バンクを花旗銀行と呼んでいたと聞いていたので、私にはすぐにそれとわかった。

豫園を取り巻く豫園商城域は観光客や買い物客で大変な混雑ぶりを呈していた。昔ながらの楼閣風の大きな建物や大商店が四方に軒を連ね、街路上にもさまざまな出店が並んでいた。とにかく人、人、人といった感じで擦れ違ったり前に進んだりするのも容易でなく、ちょっと脇見などをしていたりすると案内のFさんがどこにいるのだかわからなくなってしまいそうだった。

ちょうど昼時に当たっていたので食事をしようということになり、Fさんお奨めの中華料理店に入ろうとしたが、たまたま改装工事中で休店になっていたので急遽いまひとつの有名店に飛び込み、なんとか空きテーブルを探し出し四人でそこに着席した。ガチョウの足料理や小籠包を注文したが、この店の小籠包は前日に新天地の鼎泰豊(ディンタイフォン)で食べたものに比べるとかなり大味な感じだった。ただ、ガチョウの足料理は普段あまり口にしたことがないので、なかなかの美味に思われた。

豫園商店街の中央部のちょっとした広場には八方に大きく枝を広げた一本の樹木があって、その枝という枝には赤い細紐で古銭の結びつけられた金色の短冊がぶらさがっていて、まるで黄金のなる木そのままの様相を呈していた。どうやら、願い事の書かれた短冊をそばの出店で買い、それを樹上に向かって投げ上げ、枝にうまく引っ掛けると願いが叶うという一種のおまじないのようであった。漢字で書かれた短冊の願いごとの中身には、金運願望、健康願望、出世願望、学業成就願望、事業成功願望などさまざまなものがあったが、我々は四人ともいちばん手っ取り早い「大願成就」と記された短冊を買い求めそれを樹上に向かって思いおもいに投げ上げた。もちろん、「大願」の中身を何にするかはあとでゆっくり考えようという魂胆だった。

古銭が付いているので高く投げ上げるのは容易そうに思われたのだが、実際にやってみると長い短冊に強い空気抵抗がはたらくので、なかなか高くは舞い上がってくれなかった。そのため、結局、ほどほどの高さに引っ掛けることで妥協するしかなかったが、うまくいくまで繰り返し短冊を投げ上げているうちに肝心の「大願」の中身のことなどすっかり忘れてしまったのだった。「樹上のなるべく高いところに短冊が引っ掛かるように!」と夢中になって投げ上げ作業を繰り返すごとに、その思い自体が大願の中身にすりかえられてしまったというわけだった。

豫園地区の中心部にあたる荷花湖や湖心亭周辺は大変な混雑ぶりだった。海外の観光客ばかりでなく国内各地からやってきた中国人観光客と思われる人々の姿もずいぶんと目についた。明代の一五五九年に造営された豫園は「都市のなかの山水」と称えられる名園だった。もともとは刑部尚書を務めた藩恩という人物の菜園であったが、その息子の藩允端が晩年を迎え静かに余生を送る父親のために庭園に造り変えたものだった。フランス租界に住んでいた頃は、そこから近いところにあるこの豫園によく足を運んだものだと、生前の石田翁は話していた。

「孝行息子の藩允端などとはまるで違って、孝行するいとまさえもなく父親をなくし、母親にも心労ばかりかけることの多かった私が、『豫悦老親(老親に悦びを与える)』の意を暗に含むとも言われるこの豫園にひとときの安らぎを求めて散策していたなんて、運命の皮肉としか思いようがありませんでしたね」などと言いながら、石田翁は苦笑していたものだった。

次から次に人波が押し寄せてくるのでとても落ち着いてその景観を楽しめる雰囲気ではなかったが、方形に近い荷花湖上に架る九曲橋と、湖面に浮かぶかのように建つ壮麗な湖心亭楼閣との絶妙な取り合わせを眺めていると、そこには、人工のものとは言いながらも、長いながいこの国の歴史の重みと文化の彩りが隠し秘められているように感じられてならなかった。九曲橋の「九」という数字は我が国などでは「苦」を連想させるとして敬遠されることがすくなくないが、この国では「九」は「陽」につながる縁起のよい数だとされている。日本でも古来九月九日が重陽の節句とされてきたのはもちろんその影響によるものである。「あんまり何度も渡りすぎたので、すっかり運が磨り減ってしまったんですよ」と石田翁が笑って話していたその九曲橋を、すくなからぬ感慨にひたりながら私もそっと渡ってみた。

豫園は往時の規模からするとずいぶんと縮小されてしまっているというが、大仮山という築山や会景楼と呼ばれる望楼などのある要所部だけは現在でも外壁で囲んでしっかりと保存されており、三十元の入園料を払えばその内部を見学できるようになっていた。園内にもそれなりの数の観光客の姿が見られたが、商楼街や湖心亭周辺の異常な雑踏ぶりに比べればなんとも静かなものだった。

造園技術の粋を尽して造られものだけのことはあって、人工の庭園とは言えその風趣に富んだ景観の絶妙さは感嘆に値するものだった。現在の豫園内部は昔の豫園の一部分にすぎないとのことであったが、実際に自分の足で歩きまわってみると想像していたよりもずっと広いものだった。そのことから推測すると、往時の豫園の規模はとてつもなく大きなものだったと思われる。築山の大仮山の頂などは豫園が造られた当時の上海周辺では最も高いところだったから、そこに立つと一帯の平野やそこにある河川、沼沢などを一望のもとにおさめることができたのだという。

ひとつひとつ趣の異なる大小の池の形や配置も、訪なう者の想像力を掻き立てる絶妙な造りの回遊路も、要所に架かる数々の凝った石橋も、迷路のように入り組んだ高い土壁や石壁の構造も、そしてその壁の上にかぶせられた緻密な構造の瓦屋根も、見れば見るほどに感心させられるものばかりだった。あちこちに配されている荘重な構えの廟、意趣のかぎりを尽して造られた回廊造りの建物、そして各種数奇屋や楼閣なども素晴らしいことこのうえなかった。気の遠くなるほどの枚数の小瓦を縦に隙間なく敷き詰め固めた中庭や通路、白い高壁の瓦屋根の上をうねり這う凝りに凝った巨大な龍の彫刻などにいたっては、いったいどのくらいの労力と時間と費用とを注ぎ込んで造られたものなのか想像もつかないくらいだった。

豫園めぐりも終わりに近づいた頃、奥にあるなにかしらの廟を守って鎮座する一対の唐獅子像の前に出た。日本の狛犬とはいささか風情が違い、虎かライオンのような感じがしないでもなかったが、口にくわえている玉に触ると十年若返るとのことだったので、欲張って両方の狛犬の口の中に手先を突っ込み、かなり重たい石の玉を指先で摘んでちょっとだけ持ち上げた。そして、これで二十年分若返ることができたぞと思いかけたのだが、もしかしたら大真面目でこんなことをやっている自分の知性は二十年分ほど幼稚化してしまったのではないかという気もしてくるのだった。

豫園からの帰り道にも西側に位置する商城域を通ったが、明朝や清朝から続く老舗や伝統的な造りの楼閣風大店舗が互いに軒を競い合うかのように階を重ね偉を誇って立ち並び、異様なまでの活況を呈しているのだった。雑多な日用品や玩具類は言うに及ばず、珍奇な漢方薬から見たこともないような食材、真贋入り混じった得体の知れない骨董品、みるからに仰々しい古書類までと、売られている商品も多種多様で、まさに中国数千年の歴史の縮図を垣間見る思いだった。豫園入口の表通りに面したところにはスターバックスのお店があったが、周辺の景観に合わせこれまた楼閣風の造りになっていたので、すぐにはそれと気づかない有様だった。

豫園の次に案内されたのは「上海花鳥魚虫交易市場」というなんとも不思議な雰囲気のところだった。一口で言えばそこはペットショップ街だったのだが、その有様はこれまで一度も目にしたことのないようなものだった。すれ違いも困難なほどに狭く細い通路が幾筋にも縦横にものびていて、各通路の両側には全部で数百軒はあるかと思われるペット店がびっしりと軒を連ねて並んでいた。上野のアメヤ横丁をもっともっと大きくし、そこのお店を全部ペット屋にしてしまったような感じだった。そしてそれらの店には各種の犬猫類、鳥類、魚類、爬虫類、両生類は言うに及ばず、猿、豚、兎、リス、イタチ、マングース、二十日鼠、モルモット、さらにはこれまで目にしたことのないような動物までが大小のゲージに入れて置いてあった。

それだけでもかなり異様な光景だったのだが、驚いたことに、いくつかの店の前には日本で目にする蓑虫を何倍にもしたような巨大蓑虫が生きたまま山のように積まれていた。よく見るとそれらの巨大蓑虫はそれぞれがモゾモゾとひっきりなしに動いていた。いくらなんでもそれをペットにするとは思われなかったので、Fさんを介して店員にこの巨大蓑虫は何に使うのかと訊いてもらうと、鳥の餌にするのだという答えが返ってきた。それにしてもこれだけの数の巨大蓑虫を生きたままどこから集めてくるのだろうと半ば呆れた気分になった。

だがそれ以上に不思議かつ不可解に思われたのは、それらの店のほとんどがコオロギ、キリギリス、スズムシ、さらにはより小さな虫などを大量に並べて売っている光景だった。コオロギなどは素焼きの小型円筒形容器や小さな竹籠に一匹づつ入れ、どの店もそれらを山積みしにして売っていたし、空の容器だけを何列にも高く並べ積み上げて売っている店もあった。またその市場の奥のほうにある横長の広場兼通路みたいなところには、行商風のおばさん方が多数いてそれぞれに荷を解いて陣取り、お互いに何事かを語らったりしながら店開きをしていた。そのおばさん方が売っているのもコオロギなどの虫類とそれを飼う容器らしいものばかりだった。

こんな商売が成り立つほどにこの国には虫の鳴き声を愛好する人々が多いのだろうかと驚き呆れかけたが、しばらくすると必ずしもそうではないらしとわかってきた。ある店の前に小さな人だかりができていたのでなんだろうと思って覗いてみると、ひとつの容器の中に二匹のコオロギを入れ戦わせているところだった。また、その店の隣では主人らしい男が容器に入れたコオロギの前部を柔らかそうな細筆の毛先で軽くつついているところだった。するとつつかれたそのコオロギは男の操るその筆の毛先に向かって何度も何度も挑みかかろうとするのだった。

そのような状況から推測すると、どうやらコオロギ同士を戦わせて楽しむのが本来の狙いであるようだった。闘牛や闘鶏などの世界と同様に、おそらくこの国には強いコオロギを求め愛でる長年の伝統的な風習みたいなものがあり、横綱格のコオロギなどにはそれなりの高値がついたりしているのだろう。だが、それらのコオロギの価値や戦いのルールのほどなどがさっぱりわからぬ通りすがりの旅人の身には、いまひとつピンとこない不思議な光景ではあった。昔観た映画「ラスト・エンペラー」の結末部に、清朝最後の皇帝だった主人公の溥儀が玉座の下に隠してあったコオロギ入りの篭を取り出すシーンがあったのを想い想い出したが、そのことからしても、中国には他国人には計り知ることのできない「伝統的コオロギ文化」のようなものが存在しているのだろう。

コオロギのほうはまだよかったが、キリギリスなどのような虫類は上部をビニールで覆ったポリウレタン製のマッチ箱ほどの浅い小箱に入れられ店頭にずらりと並べ置かれていた。その数がまた尋常なものではないので、いったいこの虫たちはこのあとどういう運命を辿るのだろうと首を傾げたくなった。そもそも、それらの虫は鳴き声を楽しむためのものなのか、コオロギみたいに戦わせるためのものなのか、それとも他になんらかの用途があるものなのか私にはよくわからなかった。また、餌を与えている様子もなかったし、たとえ餌を与えたとしても窮屈な小箱の中に閉じ込められた虫たちがそうそう長生きできるとは思われなかったから、それらの虫たちの末路についての私の疑問はいっそう深まっていくばかりだった。

そして、それよりもなによりも、この不思議なペット市場には売り手の数のほうがはるかに多く、それに比べるとお客らしい人影はずっと少なかった。だから、これほど大量の生きた昆虫類を置いていてみても、いったい誰がそれを買うものなのか、さらにまた、たまに売れたとしてもそれだけで生計が立ちゆくものなのだろうかという思いがしてならなかった。おそらく、旅人の私には見えないそれなりの市場メカニズムがはたらいているのだろうが、いずれにしても、なんとも不可思議な光景ではあることに変わりはなかった。

カテゴリー エッセー. Bookmark the permalink.