エッセー

21. 上海駈足紀行(5)

あとで振返ってみると、この一日の駈足上海見物は、拙稿「ある奇人の生涯」(本欄の全バックナンバーをご参照ください)の主人公で、いまは亡き石田達夫翁の霊かなにかに導かれでもしているかのような成り行きになった。もちろん、Mさんを通じてそのノンフィクション作品に登場する場所のいくつかが残っているようならばそこへ案内してもらいたいとFさんに申し入れていはたが、旧時代へのノスタルジアなど無意味だとばかりに猛烈な勢いで開発の進む上海に、当時の風物が残っていようなどとは期待もしていなかった。また、現代っ子のFさんがそんなところに詳しかろうとは思ってもいなかった。

魯迅公園を出たあとまっさきに目についたのは、大通りの交差点の角地にいまも残っている旧日本海軍陸戦隊本部の大きなビルであった。石田翁からその話は何度も聞いていたし写真でも見たことがあったから、すぐにそれとわかったのだが、まさかそのまま残っているとは考えてもみなかった。さすがにかなりくすんだ色になり老朽化も進んでいる感じだったが、まだ、そのまま住居や各種事務所ろして市民生活に利用されているらしかった。

旧日本租界の中心街だったところは、現在では「上海旧里」などと呼ばれていたが、入口のところには「多倫路」という表示のついた大きなアーケードが立っていた。生前の石田翁の話にあった通りの名のついた街路がいまもなお残されているのは、私にとってはちょっとした感激だった。しかもまた、その一帯は意外なほどに昔ながらの面影をとどめていた。観光客相手の各種土産物店や骨董品店、さらには印章店、漢方薬品店、工芸細工店などが往時の風情をとどめながら軒を連ねて並んでいるのを目にしながら、古い街並みなどがどんどんと失われていきつつある上海で、しかも、歴史的事情からして真っ先に取り壊されていたとしてもおかしくない旧日本租界地の一部がなお保存されているのは驚きだと思うのだった。

戦前、この多倫路界隈にはさまざまな文人や各界の名士らの仮寓や隠遁所などがあり、通りの一角に位置していたABC喫茶店やクンフェイ珈琲店は中国人作家たちの溜まり場になっていた。もちろん、晩年をこの地で過ごした魯迅もまたその一人にほかならなかった。周辺の街路の配置は私が当時の地図その他の資料で詳しく調べたり石田翁から直接聞いたりしていたものとほとんど変わりがなかった。アーケードを通り過ぎてほどない中心街路の左手の一帯には、縦横に入り組む昔ながらの狭く古い路地を挟んで、灰色の土壁や煉瓦壁をもつやはり古風な中国民家がびっしりと建ち並んでいた。路地の幅は両手を広げると双方の壁面に手先が届くくらいに狭く、人同士のすれ違いにも苦労しそうな感じだった。屋根はよく見えなかったが、どうやら赤瓦のようなものが用いられているようだった。ちょっとだけその路地に入ってみたが、どこからともなく「ニーハオ」という親しみのこもった声が響いてきそうな感じであった。おそらく外国人向け観光地のひとつとして、いまではこの一帯は旧民家や旧路地ごと風致保存地区になっているのだろう。

多倫路をすこし奥に進むと、道に面した左手に三、四階建ての古い集合住宅が建っていた。いまでこそひどく老朽化が進んでいるが、昔は結構モダンなアパートメントハウスだったのではないかと思われた。当時「大陸新邨」と呼ばれていた三、四階建て煉瓦造りの住宅がありそこに魯迅は隠棲していたというから、もしかしたらその建物がと想像をめぐらしたりもしたが、その事実関係を確認することはできなかった。さらにその奥の左手にはかなり大きな病院があった。この地には1924年に日本人医師頓宮寛が六階建ての近代的総合病院「福民病院」を建てた。魯迅の妻の許広平はその病院で出産をしたし、魯迅やその親族知人たちの多くも同院で診療や治療を受けたというから、おそらくは現在のその病院の前身が福民病院だったのではないかとも考えたが、それも十分に確証を得るところまではいかなかった。

緩やかなカーブを描く街路に沿ってさらに奥へと進むと、すぐ右手に大きな銅像が現れた。それは、やはりこのあたりに住んでいた近代中国屈指の文人、郭抹若の像であった。その前を通り過ぎ、いますこしばかり進むと、もうひとつ細身の人物のブロンズ像が立つある店の前に出た。その彫像こそは、かつてその地にあった内山書店の店主、内山官造の姿を刻したもにほかならなかった。陰で晩年の魯迅を支えた内山官造は大学目薬の元従業員であったが、1917年この地に主にキリスト教関係の書籍を扱う書店を開業、やがて魯迅夫妻と親交をもつようになった。内山は魯迅が自店の店員であるかのように装い、内山書店名義で「大陸新邨」に住宅を借り密かに魯迅に提供していた。そのため魯迅は生涯最後の三年間をそこで静かに暮らすことができたのだった。内山官造の銅像がこの異郷に地に建っているのは、むろん、魯迅に対するそのひとかたならぬ配慮や温情を知った後世の中国の人々が、内山という人物を心から評価したからのことだった。内山書店のあったところは、いまでは小さな薬屋かなにかと思われるまったく別のお店になっていた。多倫路周辺の景観が上海旧里として完全には損なわれることなく残っているのは、やはり魯迅ほかの著名な中国人文人らがこの地で暮らしていたことによるのだろう。

それはともかく、まさかと我が目を疑いたくなったのはそのあとのことだった。内山書店跡と街路を挟んだほぼ反対側に四、五階建ての四角張った古いビルがあって、その前にはなにやら案内板が立っていた。そこで、いったい何だろうと思って近づいてみると、驚いたことに、「旧日本海軍武官府」という表示がなされていたのである。なんと、それは、若き日の石田達夫翁が大連から上海に移住してしばらくの間、武官府当局からの依頼を受け働いていた場所だったのだ。当時フランス租界に住んでいた彼は、毎日この海軍武官府まで通い仕事をしていたのだった。そこでの彼の主な任務は、英字新聞各紙や各種英文雑誌類のモニターで、欧米諸国の軍事情勢や政治情勢に関わる記事、日本に対する海外世論の動向や対日批判記事、さらには各国の対日政策の方針などについての記事をピックアップし、それらを翻訳整理して担当武官に提出することであった。

すぐ近くには神社の跡らしいものもあった。もしかしたら当時の上海神社の名残かその分社ではないかとも思ったが、時間的な制約もあって結局詳しく確認することはできなかった。石田翁が上海にやってきたのは魯迅が他界してから三、四年ほど経った頃のことだったが、当時の日本租界には、知恩院、西本願寺、東本願寺、上海神社、上海歌舞伎座、さらには邦人上海留民団子弟を対象にした重厚な石造りの北部小学校などといったものまでが存在していたようだ。いま内山書店跡の近くにある特異な造りの教会などは、もしかしたら旧日本租界時代の上海別院のどれかが改築されたか、その跡地に建てられたものではないかとも思われた。

次の目的地に向かうべく、多倫路周辺をあとにしながら、もし石田翁がまだ生きていて私の土産話を耳でもすることができたら、若き日々を大いに懐かしんでくれたであろうなどと、あらぬ想像をめぐらせたりもした。同時にまた、往時の詳細な地図その他の諸資料を収集し、それらをもとに翁の記憶を細かく検証してのうえであったとはいえ、「ある奇人の生涯」の中の上海の自分の描写がほぼ事実と一致していたことを知って、ほっと胸を撫で下ろしもした次第だった。

上海の観光名所のひとつである豫園が次の目的地だったのだが、その途中で「大世界(ダスカ)」に立ち寄ることができた。Fさんは大世界の存在そのものについてはほとんど知らなかったらしいのだが、あらかじめ大世界の話などを伝えてあったせいで、わざわざ自らその場所を確認し、案内してくれたようなわけだった。実を言うと、大世界もまた石田達夫翁が足繁く出入りした場所だった。かつて旧フランス租界の一端に位置していた大世界の建物は、車で溢れ返る二本の大通りが交差する地点の角地にいまなおその姿を留めていた。周囲の開発が進み大きなビルや賑やかな商店街が建ち並んでいるため、奇異な形の尖塔をもつそのユニークな構造の白い建物はいまではほとんど目立たなくなり、栄華に満ちた往時の面影などまるでなくなってしまっていたが、かつては魔都上海を象徴する歓楽街の中心的存在だったのだ。全体的に老朽化が進んでいるばかりでなく、近年閉鎖され内部への立ち入りが不可能になったとあって、いまではすっかり荒廃しきった感じになっていたが、石田翁から聞いていた昔の姿をいくらかは偲ぶことができた。

色とりどりの鮮やかなネオンと照明に彩られた当時の大世界周辺の様相は、上海の夜の街に咲く巨大な一輪の妖花という形容がぴったりであったらしい。美しくも妖しくもある奇妙な形の大世界の建物は左右に大きくのびる複雑な数階建ての構造になっており、その中央にはまるで巨大な仏舎利塔を近代的にデフォルメしそれに螺旋階段や何層もの展望台を付設したような望楼が聳えていた。遠い東洋の地に移植された西欧の魔木は枝いっぱいに享楽の花を咲かせ、妖麗な夜の花の放つ甘い誘惑の香りに抗しきれずに群がる者どもは、皆なすすべもなく次々に痺れ呆けさせられていったのだった。

その時代の大世界一帯は、映画館、劇場、演芸場、賭博場、各種レストランやクラブ、酒場、鍼灸院、さらには売春窟、アヘン窟までと、善悪を超えたありとあらゆる遊楽施設のある一大総合娯楽センターで、近くには競馬場(現人民公園)などの施設もあった。映画、京劇、中国雑技、演奏会などの各種イベントにはじまり、諸々の賭博やアヘンなどの麻薬取り引き、秘密のものから公然なものにいたるまでの様々な売春と、人間の心身を慰め安らわせたり、その本能的な興味や欲望を満たしてくれたりする催し物や行為の数々が昼夜を問わずに繰り広げられていたのだった。

どこらともなく流れ響いてくるジャズの演奏に、上海にやってきたばかりの石田は思わす足を止め、心の底まで沁み透るようなその響きにどうにも抗することのできなくなって、大世界の一角にあるクラブに飛び込んだ。その夜たまたま彼が訪れた店は、それなりに風格もあり、そこに集う欧米人主体のお客も、その応対にあたる従業員も一見したかぎりでは洗練された感じの人々ばかりであった。十分に計算し尽くされた照明に浮かぶ店内の光景に石田は少なからず感嘆を覚えたほどだった。個々のテーブルや椅子をはじめとする調度品類のすべてが重厚そのもので、しかも、きらびやかなチャイナドレスに身を包んでテーブルをめぐり、にこやかにお客の接待をする女性たちはみな美しく気品に満ちていた。そんな店内の一隅にあるテーブルに通された彼は、腰を落ち着けると、とりあえず一杯のカクテルを注文したのだった。

だが、彼が我を忘れてジャズの演奏に聴き入っている間にも、その大世界周辺のどこかでは数々の賭博が開かれ、アヘンの大取り引きの相談が進められ、さらには売春が行なわれているはずだった。しかも、西欧資本主義の洗礼を受け善い意味でも悪い意味でも爛熟しきったそんな上海の租界文化にも、刻々と暗い争乱の影が忍び寄り、その繁栄を次第に脅かすようになってきていた。石田が憧れの上海にわたり、同地においてその後六年にもわたる生活を始めたのはそのような時代のことであった。そして、その上海での六年の間において、彼は名士として大世界に出入りし浮名を流すことになったばかりでなく、日本が悲惨な敗戦への道を辿り始めた戦争末期においては、大世界の賭博場の用心棒をも務めるという数奇な体験を積むことになったのだった。

ただ、用心棒とはいっても、ドスや銃器類を隠し持っていていざというときに身体を張って賭博場の親分衆を死守するあのヤクザそのままの用心棒ではなく、数々の賭博をめぐって客と店との間や客同士の間に起こる大小のトラブルに割って入り、話し合いをもって穏便に処理したり、官憲の調べをあらかじめ察知して賭博関係者の逮捕を防いだり、急な手入れに備えて周辺を見張ったりするのがその仕事内容だったらしい。石田の並外れた語学力はそんなところでも役立ったのだった。

晩年は安曇野の穂高町に住んでいた石田翁が往時を振返りながら語ってくれた大世界についてのそんな話を我がことのように想い起こしながら、私は白日夢を見ているような気分で眼前の奇妙な形の建物を何度も何度も眺めなおした。そして、帰国したら石田翁の眠る信州大学医学部供養塔を訪ね、「石田さん、まだあの大世界の建物が残っていましたよ」と報告したいものだと考えていた。

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