エッセー

18. 上海駈足紀行(2)

旧フランス租界の一角に位置し、現在では新天地と呼ばれている一帯は、洋風の洒落たオープンカフェの建ち並ぶなかなか素敵な雰囲気の繁華街である。往年のフランス租界は流行の最先端をゆく上海一の国際的文化街だったと言われているが、この新天地にはその時代の面影がいまなお残されている感じだった。数々の周辺の建物も大小の通りや路地も当時のままの姿を留めていて、まるでヨーロッパのカフェ街を散策しているような気分になってくる。案内役のFさんがよく立ち寄るというカフェに入り、それぞれにしばらくお茶を楽しんだのだが、なんとも心が満ち足りる思いであった。上海市内の観光地のひとつということもあるからなのだろうが、欧米人の姿がずいぶんと多いことも印象的だった。

私が執筆したノンフィクション作品「ある奇人の生涯」の主人公だった石田達夫は、憧れの上海にやってくると、当時の日本租界などには目もくれず自ら好んで国際色溢れるフランス租界の一隅に住み着いた。だから、石田が日々この周辺のカフェ街に出入りし、さまざまな思いにひたりながら心安らぐひと時を過ごしていただろうことは疑うべくもない。さらにまた、当時はまだ斎藤姓だった若き日のネダ-マン・ミサさんと連れ立って幾度となくこの街を歩き、カフェに立ち寄って談笑したであろうことも想像に難くない。いつしか私は心の中で、「石田さん、いま僕は70年近く前のあなたの姿を胸中で遠く偲びながら紅茶をすすっているところですよ」と、松本の信州大学医学部供養塔に眠る石田翁の霊に向って囁きかけていた。

我々が入ったオープンカフェの裏手には黒っぽい色の古い煉瓦造りの倉庫風建物や同様の色の煉瓦塀で挟まれた細い路地が続いていたが、それらもまたフランス租界があった当時以来の建造物のようだった。どうやら、上海市当局が市内観光の目玉のひとつとしてそれらの建物や路地を含む周辺の環境保全に努めようとしているらしく、そのことを物語るように、よくよく観察してみると煉瓦の壁のあちこちに補修の跡らしいものが見かけられた。一見したところではわからないが、細かくチェックしてみるとその部分だけが新しい煉瓦になっているところがあちこちにあることがわかった。ひと昔前の文化大革命の頃は古い文物をずいぶんと破壊もしたという中国だが、同国にあって常に近代化の最先端を突っ走ってきたこの国際都市上海において、西欧列強の支配化にあった租界時代の風物をすこしでも残そうとする配慮がなされていることはなんとも印象深いかぎりであった。

カフェを出て一帯をしばし歩き回ったあと、Fさんに案内されてお目当てのお店、鼎泰豊(ディンタイフォン)に入った。評判のお店だけに、夜になるとたちまち満席になってしまうらしかったが、まだ早めの夕刻だったことに加えてFさんがお店の人と手際よく掛け合ってもくれたため、とくに待たされることもなく二階のテーブル席に着くことができた。何品かの料理の注文をしたが、もちろん、メインはなんと言ってもこの店一番の売り物である小籠包(ショウロンポウ)だった。

栗ボウロを何倍にも大きく膨らませたような形をした小籠包の薄めの外皮は白くそして艶やかだった。外皮の表面からはほのやかに湯気が立っており、なんとも言えないよい香りが我々の食欲をそそるかのように流れ漂ってきた。まるでそれら小籠包の一つひとつが「皆様、遠路はるばる当店へよくおいでになられました。今宵はこのお店の看板娘である私たちの素晴らしい味わいのほどを心ゆくまでお楽しみください!」と語りかけでもしてきているかのようだった。

「小籠包はいきなり丸ごと口に入れて食べるのではなく、レンゲにのせて歯先で外皮の側面を軽く噛んで穴を開け、そこからまず中の美味しい肉汁を吸い取るといいんですよ。そのあとで好みの薬味をつけて食べるようにするんです」

そんなFさんの言葉に従って小籠包の外皮の一部を齧り取りちょっとばかり吸ってみると、なんとも言い表わしようのないほどに美味な肉汁が口の中に流れ広がった。なるほど、これが本場の小籠包の味なのかと感激しながら舌鼓を打つ有様だった。もちろん、中の肉汁を吸い取ったあとで口にした小籠包本体の味も抜群だった。

小籠包をはじめとする料理に我を忘れてむしゃぶりついたあと、すっかり満ち足りた気分になった我々はそのまま席を立とうとした。するとその時、奥の総ガラス張りのきわめて衛生的な調理室の中で、マスクをはめ白衣を身に着けた十人ほどの男たちがなにやら忙しそうに作業をしているのが目にとまった。近づいて見ると彼らは小籠包を作っているところだった。しかも彼らは、粉を練る者、練った粉をまるく展ばして外皮を作る者、適量の挽肉を準備する者、出来あがった外皮に挽肉を包み込む者といった具合に仕事を小分けし、流れ作業的なやり方で小籠包を作っているのだった。

小籠包のようなもの作る時は、年季の入った職人が一人で一連の作業のすべてをおこなうものとだと思っていた私には、それはいささか意外な光景でもあった。もちろん分業を担当しているそれぞれの男たちはそれなりに年季が入っていて、その気になれば一人でそれらの作業全部をこなせるのではあろう。また、流れ作業に基づき小分けした仕事をやってはいても、折々順繰りに互いの持ち場を変えたりし、すべての作業に携わることができるようにそれなりの工夫もなされてはいるのだろう。

鼎泰豊を出た時にはもうすっかり日が暮れて、あたり一帯のオープンカフェの各テーブルには大小さまざまなかたちの洒落たキャンドルが灯されて、なんとも言いがたい風情を醸し出していた。そのせいもあってのことだったのだろうが、そんな街中を思いおもいに散策する人々の姿までがこのうえなく優雅なものであるようにも感じられてならなかった。

この日の夜は上海雑技団のショーを見物する予定になっていたが、ショーの開催時刻までまだしばらく間があったので、上海の庶民の日常生活と密接に関わるスーパーやデパートなどを案内してもらうことにした。そのためもあっって、地下鉄に乗るために大通りを何度か徒歩で横断したが、これがなかなか容易でないのだった。

一口に言うと、現代の中国は車優先社会である。上海市内には片道三車線ほどの大通りが縦横に走っているが、日本にあるような歩道橋の類みたいなものは上海にはほとんど見当たらなかった。だから大通りを横断する歩行者は車の大洪水の中をタイミングを見計らって巧みに渡っていかなければならないのだった。もちろん歩行者用の信号機はあるのだが、青信号だからといって安心してのんびりと横断歩道を渡ったりしていようものなら、右折車や左折車が容赦なくクラクションを鳴らしながら次々に押し寄せ、こちらの身体すれすれに走り抜けていくのだ。中国では車は右側通行だから、とくに視界に入りにくい右折車が恐い。日本みたいに横断中の歩行者があるからといって曲がる車は止まってなどくれないし、スピードも緩めてくれない。歩行者のほうが我が物顔で走り過ぎる車を避け、それらの間を縫い渡っていかなければならないのだ。あるところの横断歩道上では、青信号だというのに、歩行者を尻目に車が堂々とUターンをやったりしていた。

こんなことでよくも事故が起こらないものだと思うのだが、中国の人々は結構慣れたものらしく、こちらが心配するほどに事故は起こっていないらしい。何故か子供の歩行者の姿はほとんど目にしなかったが、横断歩道を渡るお年寄りの姿は幾度となく見かけもした。なんと、結構なお年寄りたちが、自らの身体の前後を絶え間なく走り抜ける車を横目で眺めながら、巧みに大通りを横断していくのである。車を運転する側と横断者との間にはある種の阿吽の呼吸とでも言うべきものがはたらいているようなのだ。Fさんの話によると、歩行者をはねたりしたら車側に厳罰がくだされることになっているというから、運転手もそれなりに注意をしてはいるのだろうが、中国の交通ルールに不慣れな日本人からすると、その光景は信じ難いものに思われてならなかった。

もっとも、二千万に近い人々が日夜激しく活動しているというこの上海で、日本のように歩行者優先の交通規制を敷いたりしたら、たちまち各所で車の大渋滞や交通麻痺が発生し、都市の機能が停止してしまうのだろう。だから、それはそれで中国なりの生活の知恵ではあるのかもしれなかった。大通りを縦横無尽に走りまわる大小さまざまな無数の車の姿を目にしていると、ともかくもこの国の底知れぬ活力のほどが感じられてならなかった。

いまや庶民の足ともなっているらしい上海の地下鉄は、宵の刻ということもあってか結構混雑していた。ただ、駅の構内や地下鉄の車両そのものの構造はずいぶんと近代的なもので、改札のほうももちろん自動化されていた。切符売場で料金を支払うとチケット代わりに一種の小型の磁気カードのようなものを渡された。乗車時にはそれを磁気リーダーにかざすと改札口を通過でき、降車時にはそのカードごと自動回収されるシステムになっていたが、どうやら回収されたカードは再処理され何度も使われているらしかった。いまひとつ地下鉄の客車内で気がついたのは、乗客が走行中も携帯電話を使用していることだった。日本の地下鉄の場合だと駅構内から離れると電波が途絶え通話不能になってしまうことがほとんどだが、上海の地下鉄ではどこを走行している時でも通話ができるようも対応策がとられているもののようだった。

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