エッセー

17. 上海駈足紀行(1)

最近のことだが、懇意にしているM・Yさんの誘いを受け上海に出向いた。仕事の関係もあってこのところ国内旅行ばかりにこだわってきたので、私にとっては久々の海外渡航だった。長年にわたってある精密機器メーカーの要職にあったMさんは昨今の中国の事情にも詳しく、先導役としてもありがたい存在だった。そのM・Yさんと、私の教え子でもあるその長男のK君、それに私の三人は午前11時過ぎ成田発のJAL619便機に搭乗し上海へと飛び立った。成田を離陸した上海行きの旅客機は、静岡、名古屋、大阪、瀬戸内海、北九州、平戸島、五島列島、さらには東シナ海上空を経て目的地の浦東上海国際空港に到達する。

この日は離陸後しばらくは厚い雲のために視界が閉ざされたままだったが、名古屋上空を通過するあたりから急に雲が切れ、機上から下界の光景をこころゆくで楽しむことができるようになった。瀬戸内海に浮かぶ美しい島々の影を感慨深く眺めやっていたのも束の間、いつしか機は北九州上空に差し掛かった。進行方向右手眼下に大きく蛇行して見えるのは関門海峡の光景だった。過去何度となく往来したことのある関門海峡と関門橋ではあるが、上空からその全景を一望するのは初めてのことだった。子供の頃から地図好きだった私の頭には関門海峡一帯の複雑な地形図がそれなりには刻み込まれていたのだが、その地形図そのままの入り組んだ海峡の有様をはるか上空から手に取るように鳥瞰できるのは、なんとも感動的なことだった。

フライトナビゲーションの画面にアクセスして飛行データをチェックしてみると、飛行高度は7200m、外気温は-50℃に近かった。きわめてまれなくらい視界がきくという幸運に恵まれたこともあって、博多上空付近を通過したあたりになると、独特の形をした壱岐の島影が遠望できるようになった。そして、さらにしばらくすると、今度は眼下に平戸島の島影全体がくっきりと浮かび上がってきた。平戸の瀬戸に架かる平戸大橋もはっきりと識別できたし、また、平戸島の北西海上に浮かぶ細長い生月島の特徴的な姿をも一望のもとにおさめることができた。

もう五年ほど前のことになるが、隠れキリシタンや古式捕鯨についての取材のために平戸島と生月島に渡ったことがあった。その折にはそれら二島を隅々まで訪ね回ったりしたので、その地形は印象深いものとなって記憶の中に残っていた。だから、あらためてそれら二島の輪郭や山野の様子、周辺海域の入り組んだ水路の様態などを脳裏に浮かぶ地形図と重ね合わせながら、興味津々の思いで眺めやった。紀伊の太地とならんで古式捕鯨の貴重な資料が残る生月島で取材をおこなった際、日本海と東シナ海とを繋ぐ鯨の回遊ルートや、鯨を捕獲するのに適した生月島の地理的特性などについてあれこれと調べたが、7000m余の上空から眺めると、それらすべてのことが一目瞭然なのであった。みょうに納得した気分になりながら、母鯨とそれに寄り添う子鯨の姿をも連想させる平戸島と生月島の姿を私はじっと見送った。

しばらくすると、今度は眼下に五島列島とおぼしき島々の影が見えてきた。それからほどなく、搭乗機はかなり大きな島の上空に差し掛かった。その島の南部のなんとも複雑に入り組んだ海岸線の状況や北側に細長くのびる岬状の特徴的な地形から、私にはそれが上五島の中通島であるとすぐに判った。五島列島上空を通過すると、眼下には東シナ海の海原だけが果てしなく広がった。かつては遣唐使船が長い苦難の航海の末に横断していた東シナ海もいまではほんの一飛びにすぎない。窓から海面を見下ろしているうちに、面白いことに、なんだか空を見上げているような錯覚にとらわれた。青い大海原を下にして点々と流れ浮かぶ白雲をそれらのはるか上空から眺めおろしている関係で、白雲の背景にある青い海面がまるで青空そっくりに見えるため、一瞬そんな錯覚に陥ってしまったのだった。

成田を離陸して二時間半ほど経った頃、眼下に真っ茶色の海面が広がった。実を言うと、それは東シナ海に面する長江(揚子江)の河口付近の光景だったのだが、あまりに幅が広いのでどうみても海にしか見えないというわけだった。それからほどなく、我々の乗るJAL機は、長江右岸河口に位置する浦東上海国際空港に着陸した。イミグレーション・オフィスで無事入国手続きを済ませた我々を、上海在住の若い中国人女性Fさんがにこやかな笑顔で出迎えてくれた。同行のMさんが仕事を通じて以前から懇意にしている二十四歳の女性で、わざわざ休暇をとって我々の案内役を買って出てくれたのだった。

我々が宿泊を予定している上海斉魯万怡大酒店(マリオット・ホテル)は黄浦江の東側にあたる新興地区に位置していた。そこまでタクシーに乗って直接に行くのも悪くないが、どうせなら空港駅から「磁浮列車」に乗って終点まで行き、そこでタクシーを拾いホテルに向かおうということになった。「磁浮列車」とは「磁力で浮いて走る列車」、すなわち、リニアモーターカーのことにほかならなかった。ドイツの技術を導入して建造されたこのリニアモーターカー・システムは、国力のアピールをも兼ねた上海観光の売り物の一端をなしており、その乗車賃は一人四十元(五二〇円)だった。終点までわずか7~8分の乗車時間だが、途中で時速430km余の最高速度を乗客に体感させたうえで終点駅に滑り込むようにうまくコントロールされていた。

そんなわけで、我々もまた「当今最現代的陸上交通工具」と謳われるその「磁浮列車」の高速ぶりと乗り心地のほどをあらためて体感することになった。さすがに不快な振動などもまったくなく、走行もスムーズで、高速道路上を同方向に走るどの車もが止まっているかのように映る有様だった。車窓越しに見える上海郊外の広々とした農地やそのあちこちに散在する集落の住居群はどこも綺麗に整備が行き届いていて、その実態のほどはともかく、一見したかぎりでは、日本の農村などよりもずっと生活水準が高そうにさえ思われた。もちろん、世界に先駆け現代最先端の交通技術を実用化したことが売り物の磁浮列車だから、その窓から古く薄汚れた農村の風景が見えたりしたら折角の好印象も半減してしまうに違いない。だから、中国政府当局も周辺の景観の整備にはずいぶんと気を遣っているのだろう。

無事ホテルに着き、チェックインを済ませて18階の部屋に入ると、とりあえず携行品のチェックと整理を済ませ、そのあと腕時計の針を時差分の一時間だけ遅らせた。割り当てられた部屋は最新設備の整った立派なツインルームで、私はその部屋を一人で使用することになった。貴重品を保管するセキュリティボックスも備わっていたが、日本のホテルなどではまだあまり見かけない最新の電子システムを駆使したロックがついていて、四桁の暗証番号を自分で自由に設定できるようになっていた。

窓辺からは、周辺に立ち並ぶ高層ビル群の偉容を望むこともできた。ホテルの部屋自体が高層ビルの18階にあるにもかかわらず、見上げるような高さのビルが視界を遮るように聳え立っていることからしても、かつて魔都とも呼ばれたこの大都市に並び広がる高層ビル群のスケールの大きさが偲ばれようというものだった。しかも、我々の滞在するホテルがあるのは、上海の中心部から黄浦江をはさんで東側にある新興地の浦東地区でも、かなり奥まったところに位置しているはずだった。

我々はそれぞれに外出の準備を済ませると、Fさんが待つロビーへと降りた。そして、彼女の先導で旧フランス租界の中心部に位置する新天地へと向うことにした。夕食を兼ねてそこにある鼎泰豊(ディンタイフォン)というお店で絶品と言われる小籠包(ショウロンポウ)を食べようということになったからである。1993年、ニューヨークタイムズによって世界十大レストランにも選ばれたというこの老舗の本店は台北にあるのだが、上海にその支店が設けられたことにより上海市民の間でもその味は絶品として評判を呼ぶことになった。2005年には上海のトップレストランにも位置づけらえたのだということだった。

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