エッセー

16. 山中湖畔の別荘(5)

翌日の夕刻近く、私とKとは山中湖の別荘を出て青木ヶ原に向かった。青木ヶ原樹海は相当に広いのではあるが、いまでは国道や地方道、さらには各種農道などが樹海を分断するかたちで縦横に走っているので、実際には「一度迷い込んだら出られない」とか、「磁石がきかない」とかいった具合に面白おかしく喧伝されているほど危険なところではない。密生する樹木に溶岩台地特有の凹凸が加わり見通しの悪い複雑な地形になっているところがあるのは事実だし、山歩きなどに不慣れな者が不用意に樹海の奥まで入り込むと、同じところを何度も周回するリングワンデリングに陥ってしまうおそれもある。だが、必要なら布切れなどでマークなどをつけながら冷静に行動しさえすれば、樹林から抜け出ることができないほどに迷うことはそうそうない。そもそも東海自然遊歩道の一部などは青木ヶ原樹海の中を縫うようにしてのびているのだ。

ただ、青木ヶ原一帯で過去に多くの自殺者が出てきたのはほんとうのことで、そのような背景などもあって青木ヶ原一帯にはなにかと不気味な噂が立つようになってきた。人間というものはなんとも不思議なもので、その場所で自殺する者が多いという話が広がったりすると、自ら命を絶とうと思う人間は死に場所を求めてそのようなところへと足を運ぶきらいがある。無意識のうちにも自らの死を物語化しようとする思いがはたらくからなのだろうか。

夕暮れ時を前にして私がわざわざKを青木ヶ原に連れて行ったのは、かねがね青木ヶ原は恐いところで、お化けの類が出たり超常現象が起こったりすると頭から決めつけ信じ込んでいるらしい彼に、もうすこし理性的に物事を考えたり行動したりするように促したかったからだった。鳴り物入りで青木ヶ原を怪奇現象の起こる心霊スポットだなどと紹介しているテレビ番組などの影響で、その名を聞いただけで臆してしまう者もすくなくない。死者の怨念がそんな現象を惹き起こしているというのなら、多くの死者の屍の上に再建された東京、広島、長崎などの都市や、度重なる合戦や疫病、飢饉などのために死体が累々と折り重なりもしていたという京都や奈良、鎌倉などの歴史文化都市は、それこそ幽霊の巣窟や心霊現象の多発地帯になってしまうはずだ。それなのに、そこでは何事もなかったかのように多くの人々が日々生活を送っている。お化けなどよりも数段手の悪い政治屋などが跋扈したりはしているが、その姿を目にして恐れ慄く者など誰もいない。

まず手始めに、精進湖方面への分岐点に近い国道筋の路肩に車を駐め、そこから本栖湖方面に向って左手にある樹海の中へと足を踏み入れた。「青木ヶ原樹海」と記したかなり目立つ表示板が掛かっているあたりである。先に立ってかなり薄暗くなった樹林帯の中へと分け入る私のあとを、Kはどこか怯えるような表情を浮かべながら仕方なさそうについてきた。

「ちょっとアップダウンがあって木の根っこがそこらじゅうにごつごつ出っ張ってるけど、どうってことはないだろう。要するにこういう樹林帯がずっと続いているだけのことなんだよ」
「でも、僕、なんだかゾクゾクしますよ。このへんでも死んだ人がいるんですかねえ?」
「そりゃまあ、遠い遠い昔からこれまでの間には、一人や二人死んだ人がいるかもしれない。でも、そんなこと言うんだったら、君が住んでいる荒川区あたりのほうが沢山の人が死んであるよ……戦争の時なんかにね」
「まだ奥までいくんですか?……なんだか恐いんですよ。ほんとうに帰れるんでしょうね」
「何を言ってるんだい。ここはまだ国道から百メートルも離れていないところだよ。一キロも二キロも奥に入ったところならともかくとしてね。それにね、ここからもうちょっと進んだら別の細い道に出ちゃうよ。遊歩道なんだけどね」

そんな他愛もない会話を交わしながら、私は折々木の枝を掻き分けながらさらに奥へと進んだ。Kは相変わらず不安そうな様子を見せつつも懸命に私の後を追いかけてきた。しばらくすると、深い樹林の中を緩やかにうねりのびる細道にぶつかった。幅2~3メートルほどの岩でごつごつしたダートの小道だった。

「君さあ、これ東海自然遊歩道なんだけどさ……、この道を左にむかってどんどん進んでいくと鳴沢氷穴の駐車場のそばに出るんだよ。ほら、案内標識もあるだろう。この道を鳴沢氷穴まで歩いてみないかい。僕は車で先に氷穴の駐車場に行って君が来るのを待ってるからさ……、あたりが暗くなる前には氷穴ぶ着くと思うから」

もちろん、からかい半分に発した言葉にすぎなかったが、それを耳にした彼の慌てぶりは相当なものだった。その様子を横目で見ながら、内心私は噴き出しかけた。

「先生、お願いですからそれだけは勘弁してください。こんなところ独りで歩くの死んでも厭ですよ!」
「でもさあ、死ぬよりはマシだと思うんだけどね。そもそも、何が怖いわけ?、べつに樹林の中を縫って細い道が続いているだけでお化けが出るわけじゃないだろう。もっと冷静になんなよ。これから学問やろうっていう人間がそんなことじゃ話にならないよ……、しっかりしないとね。君は知らず知らずのうちに自分の心がつくりだした妄想に怯えているだけなんだからさ!」
「そうかもしれませんけど、でも、やっぱり恐いですよ」
「ほんとうにしょうがないんだなあ、じゃ僕が独りで鳴沢氷穴まで歩いていくから、君は車で先に行って僕の到着を待ってるかい?……だけど、君はまだ車の運転もできないしなあ」

結局私とKとは再び車に戻り、Uターンしたあと鳴沢氷穴の駐車場へと向った。江戸時代には、夏場など将軍に献上するための氷がこの氷穴の奥から切り出されたことでも知られるところだが、到着したのは午後六時前だったから、氷穴見学の受付けは既に終了して入口は閉じられており、もうあたりに人影は見当たらなかった。駐車場で車から降りると、私は懐中電灯を手にし、先に立って裏手の樹林帯に続く小道に入った。もちろん、そのあたりも青木ヶ原樹海の一角を成すところだった。

樹林帯に入ってすぐのところには警告板が立てられていて、「大きな悩みごとがあってこの地に立ち入る人は、けっして命を粗末にするようなことなく、まずは下記のところへ相談の連絡をしてくれるように」という趣旨の一文が表示され、その下に連絡先の電話番号が記してあった。もちろん、それは、人生に絶望し自殺をしようとこの地にやってくる者に、なんとかその行為を思いとどまらせようとする当局の苦肉の策の一環ではあった。一時期などは年間に数十体もの遺体が発見される事態にまでいたったりもしたから、管理当局者が苦慮したのも無理ないことであった。

その警告板を指し示すと、Kはその警告文に一通り目を通したあと、何を思ったのか携帯電話を取り出してその写真を一枚撮った。
「君、そんな写真を撮っていったいどうするつもりなんだい?」
「東京に帰ってから、友達に見せてやるんです。ほんとうに青木ヶ原に行ってきたっていう証拠にもなりますから……、きっとみんな驚きますよ!」
「おいおい、青木ヶ原は恐いってびびってる君なのに、東京に戻ったら青木ヶ原探検をやってきたとかなんとか偉そうなことを言って自慢でもするつもなのかい?……なんとも呆れた話だよなあ!」

あまりの調子のよさに、私はそんな言葉を吐きかけながら、すっかり暗くなった岩だらけの細道をどんどん奥へと進んでいった。そして、懐中電灯をつけると、途中からわざとその道を外して樹林帯の藪の中へと分け入った。この一帯の地形を熟知している私にとってはなんでもないことだったのだが、Kにすれば信じられないことだったのだろう。彼はすっかり怯えきった様子で言った。

「お願いですから、先生、もも・・・もう帰りましょうよ・・・・・・、ほんとうに恐いんですよ、なにか出たりしたらどうするんですか!」
「なにかが出るわけなんかないだろうが!・・・・・・、君の心の持ちようの問題だってさっきも話したばかりだろう?」

そう言いながら懐中電灯で彼のほうを照らして見ると、その顔からはすっかり血の気がひいてしまっているようだった。
「このもうちょっと奥にある窪地まで行って、そこで引き返すことにするからとにかくついてこいよ。そうでないと、東京に戻ってから青木ヶ原に行ってきたなんて自慢なんかできないだろうが!」

そう煽り立てると、私はさらに樹林の奥へと歩を速めた。Kはまるで私に縋りつきでもするかのような勢いで必死にあとを追ってきた。そんなこんなで、ともかくも目指す窪地までKを連れてきた私はそこで足を止め、一呼吸おいたあといきなり懐中電灯の明かりを消した。
「ええーっ、真っ暗でなんにも見えないですよ!・・・・・・いったいどうするつもりなんですか?」

絶叫にも近い彼のそんな声が暗黒の樹海に響き渡ったが、時間も時間だし場所も場所だったから、その声が誰かに届こうはずもなかった。
「君さあ、ほんとうの闇というものがどんなものか体験したことはないだろう。僕の顔も見えないし、自分の手だって見えないだろう。君の恐がっているお化けが出たってこれじゃ見えないよ。でもねえ、せめて生涯に一度くらいはこの程度の経験はしておいたほうがいいよ」
「何かが襲ってきたらどうするんですか。だって、このへんで死んだ人だって沢山いるんでしょう!・・・・・・それに、先生、お願いですから突然に消えたりしないでくださいよね」
「しばらくしたら闇に目が慣れてくるさ。若い男がこのくらいのことでそんなに恐がってどうするんだい。もっと冷静になって考えてみろよな・・・・・・確かにここはお化けが出るとか幽霊が出るとかいろいろと噂されているところだけど、しっかり心を落ち着けてみれば、ただ深い樹林があって、それが闇に包まれているだけのことじゃないか。ほら、木立の間からいくつか星だって見えるだろう?・・・・・・まあ、周辺に野生の小動物くらいは何匹かいるかもしれないけどね」

「そう言われてみると、確かに星が見えますね。すこし目が暗さに慣れてきました」
「君ねえ、くどいようだけど、将来本格的に学問でも志そうというのなら、もっと理性的に行動できるようにならないと駄目だよ。自分の心の生み出す幻影に怯えていたら人間なんにもできゃしないよ!、ちょっとくらい勉強ができたってそんなものなんの足しにもならないさ」
「はい・・・・・でもやっぱり・・・・」

いまひとつ答えにならないKのそんな呟き声を耳にし終えた私は、そろそろ引き上げどころかなと思い、あらためて彼に言った。

「じゃあ、このへんで引き返すことにするけど、今度は君に懐中電灯を渡すから先に立って駐車場まで歩きなよ」
「はい・・・・・・、でも道がわかるでしょうか?」
「だって、いまやって来たばかりなんだから、帰りのルートもすこしくらいは憶えてるだろう。それとも夜が明けるまでここでじっとしているつもりかい?」
「それは厭です。早く車のところに戻りたいです」

なおもどこか不安げな様子で懐中電灯を受け取ったKは、前方の木立や足元を照らし出しながら、ともかくも先程の小道の方を目指して歩きはじめた。樹海の中は凹凸がかなりあるので来た時のコースを幾分それはしたものの、まずは無事に小道へと出た。あとはその道を右手に辿っていくだけでよかったので、Kは心底安堵した様子をみせたのだったが、ちょうどその時ちょっとした珍事が起こった。

Kの手にする懐中電灯の明かりに誘われてカナブンの類と思われる一匹の虫がどこからともなく現れた。そして彼の身体にまとわりつきでもするかのようにしてブンブンと飛び回り始めたのだった。彼は必死の様相でその虫から逃れようと足掻き続けたが、虫のほうはなかなか飛び去ってはくれなかった。おそらく、彼はその虫が死者の霊魂の化身であるとでも勝手に思い込み、半ば恐怖に取り憑かれながら懸命に逃げ回ろうとしたもののようだった。

それからほどなく車へと戻った私たちは、山中湖方面に向かい、途中のレストランで食事を取ったあと、無事に別荘に帰り着いた。旧館の大広間のソファーに腰をおろしたあと、私はKに向かって意地悪い質問をしてみた。
「どうだい、君はまだこの別荘が恐いかい?」

すると彼はしばし間をおいたあとでおもむろに言った。
「うーん、なんだか不思議なものですねえ・・・・・・さっきの青木ヶ原での恐い経験に比べれば、この別荘はそんなに恐くなんかないですね」
そんなKの返答ぶりから推測するかぎり、青木ヶ原の夜間探訪は彼にとってもそれなりの教育効果をもたらしめてくれたもののようだった。

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