エッセー

15. 山中湖畔の別荘(4)

食事を済ませたあと、しばらく私は原稿を書き、いっぽうのKのほうは数学の勉強をしていたのだが、やがて夜も更け、次第に眠気もさしてきはじめたので、こちらからさりげなく彼に声をかけ、どの部屋に泊まりたいかと尋ねてみた。

「君、どの部屋で寝たいかい?……さっきも言ったように、別々の館に一人ずつ泊まってみるのもいいと思うんだけどね」
「いやです、そんなこと僕は絶対にいやです!」
「だって、君は男の子だろう?、しかも、高校時代までは野球だってやってたんだろう!……ちょっとばかり情けなくないかい?」
おろおろするKに向かってそう水を向けると、彼はたちまち真顔になって言った。
「先生、それとこれとは全然関係なんかないですよ!」
「まあ、君がそこまで嫌だって言うなら、仕方ないから、二人ともこの旧館のほうに泊まることにするか。じゃ、どの部屋にするか決めることにしようか」

そう言いながら、私は先に立って一番奥にある立派な絨毯敷きのベットルームに足を運んだ。アンティークな感じのダブルベッドの置かれたその部屋は、壁面も天井もふんだんに高級木材を用いたとても重厚な造りになっており、かつての当主小林旭がプライベート・ルームとして用いたところだった。おそらくは、当時の小林旭とゆかりのあった何人かの女性たちもこの部屋に泊まったことがあるに相違なかった。

「君がこの部屋に泊まることにするかい?、ここが一番よい部屋のようだから……」
「いやですよ、僕一人じゃ!」
「だってさあ、君と二人でこのダブルベットに寝るわけにもいかないだろう?……そりゃまあ、君が女の子だったら喜んで一緒に泊まるかもしれないけれど、そうじゃないんだから、仕方ないよね」
「じゃ、別の部屋で一緒に寝ることにしましょうよ」
「あと二つある寝室のうち、ひとつはセミダブルのベッドルームだから、一緒の部屋で寝るとすると、ツインのベッドルームだよな。君が奥のほうに寝て、僕が入り口側に寝ることにしようか。それで、君がぐっすり寝入った頃に、僕は別の部屋に移るということでどうだろう。さっきも言ったように、最近僕は大イビキをかく癖があるようだから、君が安眠できるためにはそうするのがベストだと思うんだけどね」

そんなふうにからかうと、彼は真顔で答えてきた。
「あっちに八畳のタタミの部屋がありますよね。あそこに布団を敷いて寝ましょうよ。さっき押し入れを開けてみたんですけど、布団もたくさんあるようですから……。あっちのほうが部屋全体も明るい感じだし、タタミの上で寝たほうがなんだか落ち着くような気もするんですよ」
「まあ、君がそこまで言うなら仕方がないか……。じゃ、あのタタミ部屋に二人分布団を敷いて寝ることにしようか」

そんなわけで、結局、我々は八畳のタタミ部屋に布団を並べ敷いて寝ることになった。かなり疲れていたとみえ、Kのほうが私よりも先に寝入った。その寝顔を横目で眺めやりながら、昨今の都会育ちの学生気質というものにあれこれと想いをめぐらせもした。

翌日目覚めたのは正午近くのことだった。Kも十分眠れたらしく、どことなくすっきりした様子で起き上がってきた。深い眠りについた彼が夢の中で辿ったのはどうやらお化けなどとはまるで無縁な天国にも似た別世界のようらしかった。私たちは昨夜沸しておいた湖の水をもう一度沸かし、そのお湯で紅茶やコーヒーを入れて飲んだりし、それと一緒に朝昼兼用の軽い食事をとった。昨夜は煮沸したそのお湯に対してかなり困惑した表情を見せたKも、一夜明けたこの日はまったく抵抗がない様子だった。

午後になってこの別荘を管理している地元の業者の方と連絡がとれたので、すぐに来てくれるように依頼し水道が出るようにしてもらったが、昨日想像したとおり断水の原因は単に給配水ポンプ室の中にある大元の水栓が閉じられていただけのことだった。ただ、ドアに鍵がかかっていたので、それと見当はついていても私にはどうすることもできなかったのだった。水が出るようになったので、午後から新旧両館の空気の入れ替え作業と部屋の掃除に取り掛かった。なにせ別荘の規模が規模だから、シャッターの数だけでも相当なもので、窓の数となるといったいいくつあるのかわからないほどだった。

Kに手伝ってもらいながら、両館の窓やガラス戸をかたっぱしから開き、山中湖の水面越しに吹き渡ってくる涼風を入れて館内の淀んだ空気を一掃した。なんとなく暗く黴臭かった館内の雰囲気がいっきに明るくなり、窓越しに湖畔で遊ぶ若者や子供たちの声が軽やかに響いてきた。山中湖の湖面も晩夏の太陽の光のもとで美しく静かな輝きを見せていた。かなり老朽化が進んだとはいえ、これほどに壮大な規模を持ち、立地条件も抜群な別荘が頻繁には用いられないままになっているのは、なんとももったいないことであった。物好きだと言われようが言われまいが、時折こんなところで独り静かに仕事に没頭することができるなんて、貧乏人のこの身にとってはこのうえなく有り難いことだった。

二人それぞれに掃除機を取り出してあちこちの部屋の掃除をはじめたのだが、そうこうするうちに、新館一階奥の八畳のタタミ部屋や風呂場を分担していたKが突然血相を変えて私を呼びにきた。
「先生、変なものがいるんですけど!……いったいあれはなんなんですか?」
「いったい何を見てそんなに驚いてるんだい?……ほんとうにお化けがいるとでもいうのかい!」

そう言いながら彼のあとに続き、その指差す先を見ると、部屋のタタミの上に十匹ほどの虫の死骸が散乱し、また、その部屋の隅のほうをまだ生きている同種の虫がゆっくりと這い回っているところだった。浴室やそのとなりの洗面所をのぞくと、やはりそこにも同じ種類の虫の死骸が数匹分散乱していた。

「君、なにも怖がることなんかないんだよ。この虫のほとんどはカマドウマだよ。その名のとおり昔風の古い竈の中やその周辺の土間、家の縁の下なんかに棲んでいるんだけど、バッタやコオロギと同じで、べつに手で触ったってどうっていうことないよ。それ以外のものは蜘蛛の死骸だよ」

そう言いながら、私はそれらカマドウマや蜘蛛の死骸を次々に指先で摘みあげると、古新聞紙の上に並べてみせた。全部で20匹近くにのぼったので、まるでちょっとした昆虫採集でもしているような感があった。配水口や古くなった床のわずかな隙間などから風呂場や部屋の中に入り込んできて、出られなくなり息絶えたものがほとんどのようだった。長い間その風呂場や部屋が使用されていなかったので、死骸がそれほどに増えたのであろう。呆れたようにそんな私の様子を見ていたかれは、半ば感心したように呟いた。

「先生って意外なほどにタフなんですねえ。怖いものないみたいだし……」
「体力的にタフなのは君のほうだけど、精神的なタフさだったらまだまだ君には負けないかもしれないね。こんな虫くらいで驚いていたら、将来なにかあったときなんか逞しく生き抜いてなんかいけないぞ!」
「それはそうですね。でも、なんていうか、やっぱりその虫はなんだか気味悪いですね」
「じゃ、ゴキブリが出たらどうするんだい?……せめて自分でゴキブリ退治くらいはできるようになっておかないと、将来彼女から頼りないってバカにされるぞ。君のその様子からすると、家でゴキブリが出たら逃げ回ってるんだろう?」
「はい、そうなんです。気持ち悪いですよ、やっぱり」
「じゃあさあ、ちょっとこの虫の死骸を一匹だけ摘み上げてみないかい。ちょっとしたトレーニングだと思ってね。それが出来ないっていうなら、今晩は一人で寝てもらうか、そうでなければ先に東京に帰ってもらうぞ!」

少々意地の悪いそんな言葉を吐きながら、彼のほうにカマドウマの死骸のひとつを差し出すと、彼はしかめ面をしながら、おそるおそる指先をのばし、その足先を摘まんで顔の前に持ち上げた。
「よく見てみなよ。すこしも気味悪くなんかないだろう。このくらいのことには慣れておなかいとね。何事も経験なんだから……。男の子はちょっとくらい勉強が出来たってしょうがないんだぞ!」
「はい……」

しぶしぶそう返事するそんな彼に向かって、ここぞとばかりに私は追い討ちをかけた。
「あのさ、今日の夕方、青木ヶ原に行こうか。樹海の中を歩きにね」
「ええっ?……それって一度迷い込んだら出られないとかいう、あの自殺の名所の青木ヶ原のことですか」
「そうだよ、その青木ヶ原のことさ。そこを二人でちょっと歩いてみることにしようか」
「そそそんなあ!……そこは磁石も役に立たないとかいうところなんでしょう?……」
Kはそう言ってしばし絶句した。もちろん、私のほうは本気だった。

お知らせ
この「マセマティック放浪記」の中で折々執筆させていただいてきた「自詠旅歌愚考」の中の短歌から抜粋した八首と、それぞれの歌のために若狭の渡辺淳画伯が描いてくださった挿絵とを組み合せた短歌絵葉書(八枚一組)ができあがりました。私の拙い短歌はともなく、渡辺淳画伯の絵は大変に素晴らしいものですので、関心のおありの方は是非ともhttp://nansei-shuppan.com/にアクセスし、その詳細をご覧いただければと存じます。

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