エッセー

13. 山中湖畔の別荘(2)

早稲田実業対駒沢苫小牧の高校野球決勝戦は延長十五回まで戦っても決着を見ず、翌日の再試合によりあらためて勝敗が決せられることになった。その野球の試合の観戦中にトイレに立ち所用を済ませて水を流したあと、洗面所で手を洗おうとすると蛇口から水が出てこないではないか。どこか故障でもしてしまったのかなと思って、洗面所の周辺のいくつかのバルブをあれこれといじってみたのだが、水が出てくる気配はまったくなかった。水洗トイレの水だけが流れたのは、どうやら以前からタンクに溜まっていた水が流れ出たかららしかった。念のためにトイレのタンクの蓋を開けて見ると、やはり水は補給されておらず、タンクの中は空のままだった。

野球の観戦を終えたあと、先刻とは異なる場所の洗面所や二つの風呂場、キッチンなどの水栓を片っ端からひねってみたのだが、どの蛇口からもまったく水は出てこなかった。どうやら、どこか大元の部分が故障しているらしいと思い、全体的な状況を把握するため、今度は新館のほうに入ってあちこちの水場を調べてみることにした。そこで一緒に連れてきた学生のKに向かって、 「おい、これから新館の水道の様子をチェックしに行くぞ……。もしかしたら、なにか怖いものでも出るかもしれないから、覚悟してついてこいよ」
とからかい半分の言葉を投げかけると、Kは、
「えーと……、じゃ、僕はここで待っていることにしますから……」
と少々困惑したような口調で応えてきた。そこで、
「君が一人でここに残っていると、あっちのお化けが図々しい僕を嫌ってこっちにやってくるかもしれないんだぞ。君はそれでもいいのかい?」
と、少々意地悪く煽り立てた。すると、彼はこちらの読み通りに、
「じゃあ、やっぱり一緒に行きます」
と言いながら、おろおろした様子で立ち上がった。

私は彼を伴って新館の玄関前に行くと、合鍵を取り出してその重い扉をおもむろに開いた。すでに夕刻に入っていたとはいえ、まだ八月下旬のことだったから屋外はかなり明るかった。だが、大きな造りの建物であることにくわえ、すべての窓のシャッターが降ろされたままになっていたので、屋内のほうは暗闇に近い状態であった。しかも、この新館の各部屋や廊下の照明を点灯するには、二階のキッチンの奥にある配電盤のところまで行き、そこにある二十個ほどの各種スイッチをすべてONにしてやらなければならなかった。

玄関を入ってすぐの廊下と、その奥から上部フロアに通じる階段の明かりだけは、配電盤のスイッチの開閉に関係なく玄関脇や階段の上り口のスイッチを入れると灯るようになっていたはずなのだが、実際にはもうかなり以前から電球や蛍光管が切れてしまって点灯しない状態になっていた。前に新館に泊まった時も、切れている電球や蛍光管を自分で交換しようと思い立ってはみたのだが、よくよく調べてみると、照明器具の構造が特殊なうえにそれらの位置する天井がとても高いので、大きな脚立や特別な工具がなければその交換作業は不可能なのだった。

先に立って暗い屋内に入ると、あとについてきたKがいきなり声をあげた。
「ええっ、とっても暗いんですね。懐中電燈はないんですか?」
「車に行けば懐中電燈はあるんだけど、わざわざ取りにいくの面倒だろう?……、それに、このくらいの暗闇なら手探りで歩いたってどうっていうことないさ。目だってすぐになれてくるよ。どうだい、君が先に立って歩いてみないかい?」
「いやですよ、そんな……、なんか出たりしたら怖いですから!」
「出るわけないだろう、そんなんもん!……たとえ出たってネズミか虫くらいのものだよ」
「ネズミも虫も嫌いですよ」
「男の子がネズミや虫を怖がってどうするんだい。とにかく、旧館の水道水は出ないようなので、もしこの新館のほうの水が出るようなら、今晩はこっちに泊まることにするからな。部屋がたくさんあってもったいないから、もちろん、別々の部屋に泊まるんだよ……」
「ええっ?……、お願いですからそれだけは勘弁してください。僕は先生と一緒の部屋でいいですから……、そのほうがいろいろとお話も聞けますから」
「僕はそんな立派な人間なんかじゃないから、君に聞かせるような話なんかないさ。それでなくても、僕と君のうちのどちらかが旧館に、残ったほうが新館にと、それぞれの館に一人づつ泊まるようにしたいと思っていたんだけどね。だってこんな贅沢ないだろう?……、そもそも君のお父さんからもいろいろと君を鍛えてほしいと頼まれてもいることだしねえ。それに僕は近頃ひどいイビキをかくことがあるんで、同じ部屋に寝るとうるさくて君は眠られないかもしれないぞ」

そんな他愛もないことを言って相手をからかいながら、先に立って、どこからともなくカビの匂いの漂ってくる真っ暗な階段をのぼり二階に上がった。Kも必死になって私のあとについてきた。二階の広間やキッチンのあたりまで来ると、山中湖側の大きなシャッターの隙間越しに外の光がいくらか差し込んできていたので薄暗がりの感じに変った。そのため、キッチンの奥にある配電盤のそばに行き、その蓋を開けて各種スイッチをONにするのに手間取ることはなかった。

すぐにキッチンや風呂場、洗面所などの明かりを灯し、それぞれの水道の蛇口をひねってみたが、はじめチョロチョロと流れただけですぐにその水は止まった。試しに二つある水洗トイレの水も流してみたが、一度流れたきりでそのあとタンクに水が補給される気配はなかった。どうやら、旧館と新館の双方の配水管の大元が故障しているか、さもなければそこの元栓が閉っているかのどちらからしかった。

新館のほうもやはり水が出ないことを確認し終えた私たちは、少々困惑しながら再び旧館に戻った。そして、取りあえず、水道などが故障した際の緊急連絡先になっている地元の業者に電話してみた。だが、日曜日のしかも夕刻のゆえだったのか、それとももう別荘の管理業務をやっていないからだったのかはわからないが、どうしてもうまくコンタクトをとることができなかった。迷惑を承知で友人の会社の管理担当者の自宅にも電話を入れてみたのだが、翌日に出社してみないとオナーや現在の地元業者の詳しい連絡先などはわかならいということだった。自分でなんとかしてみようと、新旧の建物の周辺や庭の隅々などを調べて元栓らしきものを探してみたが、どこにもそれらしいものは見当らなかった。庭隅の物置風の建物の中に配水設備の大元があるような気はしたが、生憎、錠が下りていて中をのぞくことはできなかった。

そのようなわけで、結局、一夜を水道設備のまったく使えない状態のままで明かさなければならなくなった。顔も洗えないし、風呂にも入れないばかりか、トイレも正常に使用することはままならず、せっかく持ち込んだ食材を調理することもできなくなった。田舎育ちのうえに、若い頃から登山やフィールドワークをずいぶんとやってきていた私にすればこの程度のことはどうってこともないのだったが、高校時代まで野球少年だったとはいえ都会育ちのKにとってはかなり予想外のことであるらしかった。ちょっと悪戯心を起した私は、この異常事態を逆用して、こういう場合の対処法を彼に考えさせてみることにした。

「君、見た通り水が全然出ないから水洗トイレは使えないぞ。どうしようか?、まあ、小はなんとかなるとしても、大のほうとなるとねえ……。タンク内に残っていた水もさっき流してしまったことだしね。もちろん、顔だって洗えないし歯だも磨けない。風呂だってはいれない。それどころか、持ってきた食材を調理することだってできないぞ」
「トイレなら、さっき来る時に見かけたコンビニに行ってそこで済ませてきます。風呂はさっきその看板を見かけましたけど、日帰り入浴のできる温泉があるようですから、そこにでもいけばと……」
「あのコンビニまで歩いていったら片道二十分くらいはかかるよ。そのためにわざわざコンビニまで往復するつもりかい?……、しかも途中は結構暗いから、怖がりの君なんか、一人で夜道を往復するだけでも大変だぞ。それと、日帰り温泉はたしかにあるけど、あそこまで歩いたら往復二時間以上はかかるよ。もちろん、僕は車で送っていくつもりなんかないからね」
「でも、飲料水だって必要なんじゃないですか?、それならコンビニにいって二リットル入りの水のペットボトルでも二、三本買って、ついでにトイレも済ませてくればいいんじゃないかと思うんですが……」
「水六リットルを手に持ってここまで運んでくるの結構大変だぞ。それに、コンビニが近くにない場所だったりしたら、君はどうするつもりなんだい?」
「その時は一番近い公園かなにかを探して、そこのトイレを使ったり、そこの水場の水を汲んで使ったりします」

「たしかにこの付近にはあちこちに公衆トイレやキャンプ用の水場があるけど、もし大地震などがあって全面的に水道が断水したらどうするつもりなんだい?……、今日はお茶やミネラルウオーターのボトルを買ってきたから当座の飲料には困りはしないけど、それがなかったらどうする?」
「そんなこと言われても、ここだけでなんとかなるようなものじゃないし……」
「いいや、ここだけでなんとかなるさ。非常事態に備えた訓練だと思って、君の知恵でなんとかすることを考えてみたらどうなんだい。すぐそばに湖もあるし、ガスも電気もあることなんだから、一晩明かすくらいならなんでもないと思うよ」
「じゃ、先生ならどんな風に?」
「もちろん、僕なら、三日や四日はこのままで平気だよ。この別荘にいるまんまでなんとかするさ。まあ、昔のことを思えば、どうってこともないんでね!」 「でも、昔は昔、今は今ですから……」
「そりゃまあ、君の言うことも一理あるんだけど、せっかくの機会だから、ちょっとばかり君に昔ながらの野蛮な真似をやってもらったりもしたくてね……」

そんな会話を交すうちに、あたりはすっかり暗くなってきた。こうして、ともかくも我々二人は湖畔のこの広大な別荘での第一夜を送ることになったのだった。

お知らせ
この「マセマティック放浪記」の中で折々執筆させていただいてきた「自詠旅歌愚考」の中の短歌から抜粋した八首と、それぞれの歌のために若狭の渡辺淳画伯が描いてくださった挿絵とを組み合せた短歌絵葉書(八枚一組)ができあがりました。私の拙い短歌はともなく、渡辺淳画伯の絵は大変に素晴らしいものですので、関心のおありの方は是非ともhttp://nansei-shuppan.com/にアクセスし、その詳細をご覧いただければと存じます。

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