エッセー

12. 山中湖畔の別荘(1)

四、五日ほど山中湖畔にある古い別荘に篭ってのんびりしながら原稿でも書こうかと思い立った。その別荘は私の昔からの友人の知人にあたる人物が所有するものである。思い立ったら実行あるのみと、翌日の出発に備えて携行品などの用意をしていると、現在都内のある大学の大学院教授を務める教え子から電話がかかってきた。その彼と互いの近況をあれこれと話したりるすなかで、明日山中湖につもりだと伝えると、「先生、もしご迷惑でなければ、ついでに愚息をご同行くださり、なにかとご教示頂けませんでしょうか」と依頼される事態になった。

かつて彼にずいぶんと厳しく接していたことなどを想い出しながら、「学生だった頃の君を厳しくしごいたあの気力はいまの僕にはもう残っていないし、それに加えていまや無責任不良老年暴走族になり果ては身だから、僕と一緒に出かけたりしたらロクなことはならないぞ……。青木が原樹海の探索みたいなアホなことなんかをやらせるかもしれないしね」と返答した。だが、それでも是非ということになり、またこちらも一人くらいの同行ならそう邪魔にもなえうまい考え、結局その申し出を受け入れることにした。

翌日の出発時刻前に我が家にやってきたその学生の顔をみるなり、妻は、「K君、青木が原まで行かなくてもね、あの別荘は十分怖いわよ。この人はね、子供の頃から一人でどんなに淋しいところに出かけるのも平気だったらしいんだけど、都会育ちのあなたの場合はねえ……」と、半ば冗談まじりに語りかけた。いまひとつ事情が呑み込めぬその学生のほうはキョトンとした顔をしていたが、実を言うと家内のその言葉にはそれなりの含みがあったのだった。だが、私は、そんなことなど素知らぬ顔でその学生を車に乗せると、中央道に入り、そのままいっきに山中湖ICまで走り抜けた。そして目指す別荘の前庭の草むしたオープンスペースに車を乗り入れそこに駐車した。

その大きな別荘は山中湖南東部湖畔の一隅に位置していた。実はこの別荘、いまでこそずいぶんと老朽化が進み、木立に囲まれた広い庭もぼうぼうと草が生い茂っているが、もともとは往年の大スター小林旭が大金を投じてこの地に建てたというしろものだった。その後、東京のある人物が所有者の小林旭からそれを買い取りはしたのたが、規模が規模だけに使い勝手も悪く、維持管理にも手が掛かり過ぎるとあって、結局、その人物の知人だった私の友人が、自ら経営する会社の社員保養所として借り受けるようになったのだった。

広大な敷地は直接山中湖に面しており、小林旭が使用していた大きな木造平屋建ての旧館や、多くの客人が来訪した場合に宿泊できるようにと造られたという鉄筋コンクリート製三階建て新館の各部屋の窓々からは、すぐ間近に山中湖の湖面を見下ろすことができた。また、夏場などは湖面を吹き渡ってくる涼風に身を委ねながら、湖畔の渚にひたひたと寄せ来る波の音を窓辺にありながらにして耳にすることもできた。

旧館のほうは、暖炉や洒落た明かり窓付きの二十畳から三十畳ほどの広さの大広間、大きくゆったりしたダブルのベッドルーム二室、ツインのベッドルーム一室、八畳敷きの畳部屋一室、洗面所付きの広い浴室が二箇所、それに何から何までが完備したキッチンが一室という造りになっていた。年期もののオーク製の長テーブルや立派な皮張りのソファをはじめとする調度品類などは小林旭が用いていた頃のままのものだそうで、どうやらそういった調度品ごと現在のオーナーが買い取ったものらしかった。かなり傷んではきているが、湖畔側には大きな木造テラスもあって好天の日にはそこでバーベーキュー・パーティなどを催せるようにもなっていた、

いっぽう、三階建て新館の一階は会議室と二つの八畳間、バスルームからなり、二階はこれまた設備の整ったキッチン、居間を兼ねた二十畳ほどの大広間とツインのベッドルーム、総ガラス張りの立派な出窓つきの十畳ほどの洋室、大風呂のあるバスルーム、眺望のきく広いベランダなどからなっていた。最上階の三階には秀麗な富士の嶺を一望できるやはり総ガラス張りの出窓のついた八畳間と、これまたゆったりとしたツイン・ベッドルームなどがあった。

さらに、湖畔に面する側の広い芝生の庭の端にはボートが何隻も収納できるゲートつきのボートハウスがあって、正門から外に出て迂回しなくても、そこから直接に山中湖畔に抜けられるようになっていた。しかもボートハウスのゲートを出てすぐのところにはこの別荘専用の桟橋も設けられており、鉄製のゲートには桟橋の専用使用を認可する旨を明記した山梨県当局承認のプレートも掛かっていた。そもそも、いまでは国立公園法の規制に引っかかってしまうから、こんなところに新たな個人所有の別荘を建てるなどまずもって不可能なことであるらしかった。

こんなことを書くと、人も羨むそんな大別荘に何日も滞在できるなんて、なんと幸せな奴だと思われるに違いない。確かに往年の大スター小林旭が新築したばかりの頃のこの別荘は御殿ともまがうばかりの大豪邸に見えたことだろう。だが、それから何十年も経ったいまとなってはずいぶんと事情も異なってきているのだ。バブル経済の余波などもあって、初めの所有者だった小林旭自身が、しばらくするとこの別荘を持て余すようになったものらしい。

そこで、東京に住む現在の持ち主が当初の別荘建築費の何分の一かの価格で入手することになったらしいのだが、足繁く利用していたのは購入当初の頃だけで、ほどなくその人もまた持て余すようになったらしい。多岐にわたるガス管や水道管類の保守、電気設備や電気系統の安全管理、数々の冷暖房器具の維持、部屋や浴室さらにはトイレの掃除、大掛かりな空気の入れ替え、屋敷を囲む庭木や広大な庭の手入れと、どの一つをとってみてもひとかたならぬ労力と時間と費用とを要するものばかりだったからのようである。

そんなこともあって、会社を経営する私の友人がその別荘を借り受け、社員の保養施設として利用するようになったのだった。立地条件の良さや物珍しさなども手伝って、初めのうちはそれなりに活用されていたらしいのだが、しばらくすると、利用する社員はほとんどいなくなってしまったらしい。どうしても空気が淀んで部屋全体が湿っぽくなったり黴臭くなったりするうえに、大きな造りの建物だけに各部屋のシャッターを開閉して十分に空気の入れ換えをしたり、掃除をしたりするだけでも容易ではない。せっかく保養のために家族連れで訪れても、そんなことまでやっていたら、なんのためにやってきたのかわからなくなってしまうし、一人や二人で行こうものならそれに加えて淋しいことこのうえない、というのがその理由のようであった。

しかも、そうこうするうちに、新館にはお化けが出るなどという噂までが立つようになってしまったらしい。新館一階の廊下や階段の明かりが点灯しなくなってしまっているうえに、階段や広間などに敷いてある絨毯が古くなりひどく黴臭くなってしまったりしており、利用者が激減した関係で一階の各部屋や浴室には埃が積もり、カマドウマや蜘蛛の死骸などが散乱したりもしているから、そんな噂が立ってしまうのも無理はなかった。

また、たとえそんなことがなかったとしても、気の弱い人が一人や二人で泊まったりしようものなら、途中で逃げ出しだくなってしまったに相違ない。実際、その別荘のほかならぬ借主でもあった私の友人などは、ある日奥さんと二人だけで泊まろうとしたまではよかったが、なんとも言えない不気味な雰囲気に堪えかねて退散を余儀なくされ、急遽近くにあるホテルへと移動する有様だったらしい。

ところが、皮肉なめぐり合わせとでもいうべきか、ひねくれ者のこの私はそんなところが生れつき大好きだときているのだ。育ちが育ちということもあって、暗闇などはまったく平気だし、お化けが出ると噂のあるところに単独で出かけることなどなんでもない。虫が出ようが蜘蛛が出ようが、草ぼうぼうだろうがなんだろうか、はたまた、汚れていようが腐っていようが、そんなことなどおよそ気にかけたりしない。そんなわけだから、私は喜んでこの別荘を折あるごとに利用させてもらうようになったのだった。

いかに古くなったとはいっても、こんな由緒ある大別荘をたった一人か二人で使わせてもらえるなんてそうそうあることではない。その幸運を大いに活かし、なんならこの館をモデルにしてミステリーや怪談の一つか二つでも書いてみるのも悪くないだろう。他人様はいざ知らず、実際に何度も利用させてもらったうえでの私の感想は、仕事絡みの創造力も大いに湧いてくるとあって、「素晴らしい」の一語に尽きるのであった。

かなり怖がりだとかいう同行の学生がいったいどんな反応を示すのか私には興味深くもあったのだが、どうであるにしろそれもまた彼にとっての重要な社会勉強の一環だということにし、まずはその別荘の旧館のほうに入り、そこの大広間に落着くことにした。深々広間のソファーに腰をおろし、備え付けのテレビをつけてみると、早稲田実業と駒沢苫小牧高校とが甲子園で決勝戦の激闘を延じている様子が目に飛び込んできた。同行の彼は高校時代野球部に所属していたこともあって、思わぬところでの野球観戦にご満悦のようでもあった。そのあとに続く椿事など、もちろん、想定外のことであった。(つづく)

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