エッセー

9. 簡易裁判所での椿事

「想い出に残る交通違反」の最後に紹介するのは、いまからもう30年近く昔の話である。その頃私は東京競馬場のすぐ近くに住んでいた。日本ダービーの時などは高らかなファンファーレの響きが風に乗って聞こえてくるようなところで、友人などからは「おまえ、ずいぶんといいところに住んでるよなあ!」などとからかわれたりもしたものだ。もちろん、そんなところに住み着いたのはまったくの偶然で、競馬目当てでそういうことになったわけではなかった。

それゆえ、絶好の地理的条件を有効活用することもついぞなかったが、当時まだ幼なかった私の息子などは路上に散乱する外れ馬券を玩具のバケツ一杯に集めて持ち帰り、日々それで楽しそうに遊んでいたものだった。貧乏な親としては、そんな息子の姿を眺めながら、将来大賭博師にでもなって家の一軒でも建ててくれればありがたいと思ったりもしていたのだが、残念ながらその思惑は見事に外れ、競馬通や競馬狂には無縁の人生を歩いているようだから、教育とはなかなかに難しいものである。

いまはすっかり舗装整備され当時の面影などなくなってしまっているが、当時、東京競馬場の近くにあるお寺の外壁周辺には草の生い茂る細長い空き地があって、そこには常時地元住民の車が何台も駐められていたものだった。付近にはとくに駐車禁止の標識などもなく、また、競馬のない時などはたまに散歩する人影が見られる程度で、およそ他車の通行の邪魔になるようなところでもなかったから、近隣住宅への来訪者なども、一晩や二晩そこに車を駐めることはすくなくなかった。なかには長期間駐車している車さえあった。そのあたりは私の日々のランニングコースや散歩コースにもなっていたから、かねがねそんな状況を熟知もしていた。

ある日のこと、近くに住む知人宅の引越しを手伝おうという話が持ち上がり、その前日に神奈川県相模原市の友人から4ナンバーの大型ワゴン車を借りてきてその場所に一晩駐車しておいた。ところが、翌朝車のところに行ってみると、駐車違反のステッカーが貼られ、期限日までに警察署に出頭するようにとの指示がなされていた。その頃はまだ交通違反の処理は現在のようなチケット制にはなっておらず、まず警察が出頭してきた違反者を取り調べて調書を作成し、その調書が警察から地区の簡易裁判所に送付されるのに合わせて違反者は当該裁判所に出向き、罰金その他の刑量についての裁決を受ける仕組みになっていた。

管轄警察署に出向くと、四人の警察官が横一列に坐り、その前に出頭者らが四列に並んでいるところだった。私もその列の最後尾に並んで順番がくるのを待った。私の列を担当していたのはまだ二十代後半かと思われる男性警察官だったが、うしろで聞いていてもその取調べぶりやその言葉遣いなどにはどこか横柄なところが感じられてならなかった。ラーメン屋の店主とおぼしき私の前の老人などに対する態度ときたら、いささか失礼なものでもあった。

私の順番がくると、その警察官は書類を一瞥して駐車違反場所が競馬場の周辺であることを確認した。そして、顔を上げるなり私に向かっていきなり言い放った。

「あんたねえ、競馬やりに来て車をあそこに駐めておき、そのあとしばらくそのまんまにしておいたんだろう?」

まだ免許証を提示する前だったことや、その時私がくたびれたジーンズに洗い晒しのシャツというラフな格好をしていたこともあって、自分よりも年齢が若いとでも勝手に判断したからでもあったのだろう。また、借りてきたワゴン車が「相模・4ナンバー」の商用車であったことなども、相手がそんな言葉を吐く遠因にはなっていたのかもしれない。その車がベンツやフェラーリ、あるいはその筋の方々の愛好する黒塗りの高級セダンだったりしたら、状況は多少とも異なってはいたかもしれない。

ただ、相手にどんな理由があったにしろ、その言葉はそのまま聞き過ごし難いものだった。そのため、私は、あくまでも冷静かつ鄭重な口調ではあったが即刻反論を試みた。そのことによって事務処理が遅れ、うしろに並んでいる人々に余計な迷惑をかけるのは気掛かりであったが、だからと言ってそのまま引き下がるわけにもいかなかった。

「なんですか、その人を見下したような言い方は!……、私はあなたに『あんた』呼ばわりなどされる筋合いはありませんよ。駐車違反で告発されたとしても、まだこの段階では簡易裁判所より明確な裁定が下されたわけでもないですし、また、もし違反と科料が確定したとしても、重大な刑事犯罪を引き起こしたわけでもないですから、こんな対応をされる道理などありませんよ」

その警察官の目をしっかりと見据えながらそう言うと、さすがに相手は顔を赤らめ、一瞬困惑したような表情を浮かべた。すかさず私はさらに畳みかけた。

「それに、あなたが勝手に推測したように、あのとき私は競馬をやりにきていたわけじゃないですよ。もともとあの近くに住んでいる人間なんですから……。知人の引越しのために借りてきた車をあの場所に駐めておいただけですよ。理由がどうであれ違反は違反なんでしょうからその事実までは否定しませんが、あそこにはいつも地元関係者の多摩ナンバーの車が何台も駐っていますよ。夜などにランニングしたり散歩したりするときいつも目にしていますからね。今回だって、駐車違反のステッカーがついていたのは相模ナンバーのあの車だけで、同じようにあそこに並べ置かれていた多摩ナンバーの車には違反ステッカーはついていませんでしたよね。それに、そもそもあなたは何歳なんですか……、もしかしたら私よりも年齢は若いじゃありませんか?」

私はそう言いながら、相手から提示を要求される前に自分のほうから免許証を机の上に差し出した。なんとも珍妙だったのは、その応酬をさりげなく耳にしながら取り調べ業務を続けていた他の三人の警察官の言葉遣いが、突然えらく鄭重な感じになったことだった。しかも、それら三人は「我関せず」とでも言いたげな様子でそれぞれが担当する列の出頭者の応対に専念し続けていた。どこかつれないその態度を横目で眺めやるうちに、顔を引き攣らせしばし返答に窮する目の前の警察官のことがかえって気の毒に思われてきたほどだった。

内心でどう思っていたかはともかく、その場では相手もそれなりに反省した様子を見せたことだし、順番を待つ他の人々にあまり迷惑をかけてばかりもおれないと思ったので、それ以上執拗に抗議することはやめ、駐車違反の事実のみは認めて調書に署名捺印した。ただ、調書には違反事情について弁明を記載できる欄が設けられていたので、そこには車を駐めた理由のほか、取締りが平等でないことなどをしっかりと書き込ませてもらった。

一連の処理が終ると、相手は、こんどはさすがに鄭重な口調になって後日立川にある簡易裁判所に出頭するようにとの説明をし、そのために必要な書類を手渡してくれた。面倒ではあるけれども仕事を調整して立川の簡易裁判所に出向きそれなりの裁定を受け科料を支払うしかないな、と自らに言い聞かせ通つつ警察署をあとにしたのだが、その簡易裁判所でまたもや納得のいかない出来事に遭遇することになろうとは想像だにしていなかった。

交通違反の裁定を専門に扱う立川の簡易裁判所に出頭したのはそれから一週間ほどのちのことであった。受付に来意を告げ、指示された部屋に入ると、20人以上の出頭者が並んで順番を待っているところだった。その部屋の奥には検事か検察事務官とおぼしき人物が4人ほど坐っていて、警察から送られた調書に基づき個々の出頭者から違反事実や違反事情などを確認聴取しながら、簡易裁判所の裁判官に提出する交通違反告発書を作成しているところだった。そこでの事務処理が終ると、すぐに一定人数ずつ集団となって簡易裁判所の裁判官室隣の待ち合い室のほうへと移動し、その場で即決裁定が下るのを待つという手順になっていた。そして、その待合室の窓口で名前を呼ばれたあと、即決された額の科料を通告徴収されるというわけであった。

結構事務処理が手間取るらしく、自分の番がやってくるまでには予想していた以上に時間がかかった。それでもようやく前に並ぶ人がすくなくなり、あと3人目で自分名が呼ばれる番が回ってこようという時だった。突然その部屋の入口に洒落たスーツに身を包んだ若い女が現れた。みるからに容姿端麗な女性であった。私の前後に並んでいた男たちの口から、「あっ、女優のSだ……」という驚きとも溜息ともつかない声が漏れた。彼女は当時売り出し中の美人女優だったのだが、私はその時まだその顔も名前も知らなかった。彼女のうしろには黒のスーツに身を固めたマネージャーらしい男が一人付き添っているようだった。

「Sさーん」と四人の担当官の一人がその女性の名を呼んだのはその直後のことだった。名を呼ばれた彼女はそのままつかつかと順番を待つ私たちの前を通り過ぎ、当該担当官の前に進み出ようとした。呆気にとられるあまり、一瞬はそのまま黙認しようかという気にもなったが、やはりここは一言声を上げてたほうがいいだろうと思い直した。

「あのう、どんなご事情がお有りかは存じませんが、私たちも皆並んで順番を待っているところなんです。忙しいのはお互いさまだと思うのですが……」

私のその一言を耳にした彼女は、ハッとしたようにその場に足を止め、なんとも困惑したような様子を見せながら呆然とそこに立ち尽した。売出し中の美人女優ということで、何事につけても周囲があれこれとお膳立てをし、彼女のほうはただそれに乗って行動しているだけのことだったのだろうから、その戸惑いのほどもわからぬではなかった。

なんとも意外だったのは彼女の名を呼んだくだんの担当官の様子だった。見るからに複雑そうな表情を浮かべながら、私の視線を外すようにしてしばし黙りこくってしまったのだった。おそらくはその担当官に迅速に処理をしてくれるように事前連絡が入り、彼女だけを特別に扱おうとしたのだろうが、私の余計な一言のために対応に困ってしまったのであろう。いまひとりその思わぬ展開にひどく反応したのは、部屋の入口付近に立つ彼女のマネジャーとおぼしき人物だった。その男は半ば怒気を含んだような表情で遠くから私のほうを睨みつけていた。

結局、Sというその女優よりも先に私たちのほうが事務処理を済ませてもらうことになったのだが、即決裁定をうけるため別室に集団移動する時、彼女もまた私と同じグループになってしまったのだった。ぞろぞろと廊下伝いに移動する時など、彼女は目立たぬように振舞い、私を追い越さないように気を遣っていることは明かだった。廊下の曲り角で移動する人の流れが突然滞った時、私に追いつきかけた彼女は慌てて立ち止ろうとして転びそうにもなった。そんな様子をさりげなく窺いながら、心根はそれなりに優しく善良な女性なのだろうなと感じたりもした。問題の本質は彼女自身よりもむしろ、彼女を取り巻く多くの大人たちのほうにあるようにも思われた。

簡易裁判所裁判官室の隣の部屋に移動した私たちは、そこで裁定がおりるの待つことになった。女優Sもその部屋の片隅でひとり静かに待機し続けていた。その時のことである。先刻、彼女の名を呼んで特別に対応しようとした例の担当官が、突然部屋に入ってきた。彼はその女優のそばに近づくと、手にした一枚の色紙とサインペンを差し出しながら声をかけた。すこし離れたところに坐っていた私の耳にもその言葉ははっきりと伝わってきた。

「Sさーん、私の息子はあんたの熱烈なファンでねえ……、あんたがスピード違反で処罰されたと知ったりしたら、なんとかならなかったのかと言って、きっとあいつ怒るだろうなあ……。まあ、これも何かの縁だと思って、これにサインしてもらえない?……、きっと息子が泣いて喜ぶだろうなあ……、ははははは……」

そう話しかける男の年齢や身なりからして推測して、彼はれっきとした検察官か、それでなくてもベテランの検察事務官であると思われた。明かに公務中のことでもあるうえに、そのへらついた様子はなんとも見るに堪えないものだったので、ただもう呆れ果てバカバカしくなってしまった私は、腹を立てる気力さえもなくなり、遠目にその様子を眺めやるばかりだった。その女優がいささか躊躇いながらもその依頼に応じて色紙にサインを済ませると、男は嬉しそうにそれを受取り意気揚々と引き揚げていった。

科料の裁定がくだされたあと、私たちは相応額の罰金をそれぞれに支払い、簡易裁判所をあとにすることになったのだが、その帰り際、またもや呆れた光景を目の当たりにすることになった。なんと、問題の女優だけが特別に応接室に招き入れられ、出されたお茶を飲みながら例の担当官らと歓談していたからである。私以外にもその光景を目撃した者は何人もいて、「VIPはやっぱり扱いが違うんだよなあ」と半ば諦め顔に呟いていた。

かねがね「法のもとの平等」などという綺麗ごとが語られたりもするのだが、法のもとでの不平等は歴然として存在するし、むしろそのほうが多いくらいなのではなかというのがその折の実感でもあった。せめて交通違反の取締りを担当する警察官や司法関係者くらいは、地位権力のある人々や各種有名人、さらには自分たちの同僚に対してこそ厳正に振舞ってほしいものだ。より端的に言えば「上に厳しく下に優しく」あってもらいたいものだと思う。そうでなければ一般庶民から深く敬意を払われることなどないだろうし、ましてやその仕事に対し真の意味での理解や協力を得ることはできないであろう。

余談になるが、それからしばらく経ったある日のこと、担当する講義の最中にふと思い出してその時の体験談などを披露した。すると、その話を聞き終えた学生の一人が、すかさず言ったものだった。

「先生、先生は僕の大好きな女優のSさんを苛めたんですか!……、可哀想に!……、もう先生の講義なんか真面目に聴きません」

もちろんそれは冗談だったが、もしもその学生がまかり間違って将来交通違反事件担当の検察官にでもなったら(理系の学生だったのでその可能性はほとんどなかったが)、やっぱり公務中に色紙などを貰いにいくようになるのだろうかなどと、よからぬ想像をするのであった。

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