エッセー

8. 手際よいレッカー移動の裏に

これももう十数年昔のことになるが、東京郊外のある市から講演会講師の依頼をうけ、その打ち合わせのために市役所の建物の一隅にある教育委員会に出向いた時のことである。約束時間ぎりぎりに市役所に着いた私は、正面玄関脇の駐車場に入ろうとしたが、かなり年輩のそこの管理人からいまは満車だと告げられた。そこでやむなく、人通りも通行車輛もほとんどない市役所脇の路上に、なるべくぴったりと左手塀面に寄せるようにして駐車した。そして、大急ぎで教育員会のオフィスに駆け込んだ。そこで関係者と30分足らずの間挨拶を交したり弱打ち合わせを行なったりし、そのあとすぐに車のところへ戻ったのだが、驚いたことにもう車の姿は影も形もなくなってしまっていた。

当時はまず交通警察官が駐車禁止地域の路上に駐車中の車をチェックし、そのあと一定時間たってもなおその車がその場所におかれていると、その時点で駐車違反車として処理するのが普通だった。だから、たった30分ほどの間にレッカー車を呼び、私のワゴン車を運び去った手際のよさにはただもう驚き呆れるばかりだった。状況から推察するに、私が車を駐めた直後に誰かが警察に通報し、それに応じてすぐさまパトカーとレッカー車が出動してきたに相違なかった。そうでなければ、それほどに短時間で車の移動処理が完了するはずがなかった。

いずれにしろ車を受取りに行かなければならないので、警察署に電話をかけて担当部署に出頭した。対応してくれたのはその警察署の婦警だったが、ともかくも駐車違反ということで、反則金とレッカー車による移動費の合わせて25000円ほどを徴収される羽目になり、やむなくその手続きを一通り済ませた。短時間であるにしろ駐車禁止区域に車を駐めたのは事実なので、その点に関してはこちらも紳士的に振舞い、率直におのれの非を認めたのだが、レッカー車による車の移動の手際のよさについてはいささか心にひっかかるものがあった。

そこで、担当者にその点を尋ねてみると、通報があったものでという答えだった。状況的にみて車を駐めてあった周辺の住民が通報したとも考えにくいので、いったいどこから通報を受けたのかを尋ね返したが相手は意図的に言葉を濁しはっきりとは答えなかった。こちらの職業などを問われたので、そのついでに、市役所の教育委員会に講演の打ち合わせのために出向き、大急ぎで用件をすませ30分足らずで戻るともう車は運び去られていた旨を伝えると、相手は妙に押し黙った。対応した婦警の後方の机に坐る上司らしい男がさりげなくこちらの様子を窺っているようなのもなんとなく気になった。ただ、すでに自分の駐車違反に関する事務処理はすべて完了したあとだったので、あえてそれ以上追及することはしなかった。

ところが事態が急転したのはその直後のことだった。これでようやく車を返してもらえると思いかけた私に向かって、くだんの婦警は、「実は、あらためてお話し致したいことがあるのですが……」という意外な一言を吐いたのだった。そして、いったい何事かとその顔を見つめなおす私に向かって、相手は、「レッカー移動の際に車を破損してしまいました」と言い出したのである。呆気にとられる私を駐車場へと案内した婦警は、そこに置かれた私のワゴン車の左前部を指差しながら、「車の移動作業中にこの部分を委託レッカー移動業者が誤って破損してしまいました」と告げたのだった。

車を見ると、左のライト部を中心としたあたりがグシャグシャに潰れ、見るも無惨な状態になっていた。ライト部分ばかりでなく他の箇所にも支障が生じている可能性もあった。急いでレッカー移動をしようとした際に車の前部を左側にひねり、市役所のコンクリート壁にひどくぶつけてしまったに違いなかった。この事態に警察はどう対応してくれるのかと問うと、相手はこともなげに、「このような場合に備えて管理者保険に入っていますから、その保険業者を通じて修理をさせてもらいます」と答えたのだった。そして、再び署内に戻ると、「そのための初期手配はこちらで致しますが、あとの細かなことはこちらに電話をして相談なさってください」と言いながら、電話番号だけを手書きしたメモ用紙を一枚差し出した。驚いたことに、そのメモ用紙には当該事業者の社名も所在地も記されていなかった。ただ電話番号の数字だけが書き並べてあるだけだった。

どんな事情があったにしろ駐車違反をしたのは事実だから、この時も私はおのれの非を素直に認め、レッカー移動費を含めた科料を支払う手続きを済ませた。かねがね交通違反の取締りのやりかたにはなにかと問題も多いことを感じていたが、軽い違反で捕まるごとに、これは一種の通行税なのだと自分に言い聞かせ科料をきちんと支払うようにしてきた。

世の中の諸議員先生方や官公庁の権力者の中には、自分や自分の親族、友人知人などが交通違反で捕まった時、あれこれ裏から手を回して警察当局に働きかけ違反を揉み消してしまうような者もすくなくないことを熟知もしていた。またそんな裏工作に警察が応じた身近な実例もずいぶんと知ってはいた。私自身、かねがねその気になればそんな手口を使えないこともなかったし、実はこの日だって教育委員会に出向いたついでに顔なじみの市長に会って挨拶もしてきたあとだったから、電話で事情を説明し警察との間を取りなしてもらうこともできないわけではなかった。だが、はじめからそんな恥ずべきことをする気など毛頭なかったし、曲がりなりにも法治国家のもとで社会生活を営んでいる身としては当然やるべきことでもなかった。

そもそも私は、常々相当に嫌なことがあっても極力冷静に振舞うようにしてきている。だから、この時も違反処理の事務手続きを穏便に済ませ、車を受けとって午後からの重要な仕事先に向かうつもりでいた。しかし、その思わぬ事態の展開と警察のいささか納得のいかない対応振りを目の当たりにしては、さすがに私もそのままおとなしく引下るわけにはいかなくなった。私は強い口調で担当婦警の上司を呼ぶと一連の事態についての詳細な説明を求め、抗議の意を表わすことにした。

「私が駐車違反をしたことは認めますが、通常は駐車違反の通告ステッカーを貼って警察に出頭するように指示しますよね。それを30分も経たないのに大急ぎでレッカー移動したのはなぜなんでしょう。あそこはそう車の通行も多くないので、私の車をあんな風に毀すほどに大慌てでレッカー移動する必要はなかったと思うのですが……」
「車が邪魔だという通報がありましたので、急遽レッカー車を向かわせました」
「それはまた変な話ですねえ。どなたの通報ですか?、あのあたりの住民の方ですか?、それとも……」
「警察としては、それについては申し上げられません」
「じゃ、ずばり、お尋ねします。あの市役所の駐車場の管理人からじゃありませんか?……、もしかしたら、あの年輩の管理人の方はみなさんがたのOBか、さもなければお知り合いの方とか……。私があの場所に駐車するのを見ていてすぐに通報した人物ということになりますと一番可能性があるのは……」
ピンとくるものがあった私はそう言いながら相手の目を凝視し、その反応をじっと窺った。

「……」
不意を突かれた相手は否定も肯定もせず、しばし無言のままだった。いや、はっきりと否定することなく一瞬複雑な表情を浮かべるのを目にしただけでこちらにすればもう十分だった。

「ああ、無理にお答えくださらなくて結構です。事情はよくわかりました。レッカー移動業者も警察OB関係の方なのかもしれませんが、連携プレイは見事なものですね」
「いえ、そんなことはありません。警察当局としては法規にのっとり厳正に対処させてもらっているだけです」
「確かに厳正に対処なさっていますよね。まず、違反した私の調書を取り、こちらが科料支払いの手続きを完了した段階で初めてレッカー移動作業中の車の破損についてお話し頂いた。順番としては私が違反したのが先ですから、まあ、そちらのマニュアルに従えばそういうことになるのでしょうが、社会的あるいは人間的なありかたとしては、車を破損したことをもうすこし早くおっしゃるべきですよね」
「交通違反の処理とその処理にともなう物損事故との取り扱いは分けて対応することになっています。今回の車の破損についての補償は直接に責任のあるレッカー委託業者と管理者保険業務を扱う会社とが処理すべき問題ですので、どうかそのところはご諒承ください」
「まるで、車を破損したことには警察は直接関係ないとでもおっしゃりたそうな口振りですが、警察の指示と依頼でレッカー業者は業務に当たり、その結果破損事故を起こしたわけですから、警察にも道義的な責任はあるのではないでしょうか。ですから、私は、はじめから、もっと人間的なお詫びの言葉をあなたがたからお聞きしたかったですね。交通警察官のご苦労は十分わかっているつもりですが、もうすこし一般市民の視線に立って事の処理に当ってもらいたいものですね。それが本来の警察行政のありかたなのではないでしょうか」
「ええ、まあ、そのように努めてはいるのですが……」

「私の車の修理の一件でも、その管理保険担当の会社名も所在地も知らせず、ただ手書きの電話番号だけというのは失礼ではありませんか。おそらく、元警察関係の方の経営する保険会社の代理店かなにかで、警察のみなさんの間では十分に意思の疎通のある関係なのでしょうが、私のほうにすれば、このような一辺の紙切れを渡してもらうだけではとても納得がいきませんね」
「車の修理は間違いなくちゃんとするとおもいますので…。それと、管理保険担当の会社名と所在地はお伝えします」
「それは当然のことでしょう。先方の社名や所在地を記した名刺なり、印刷文書なりを渡してくださるのが本来だと思いますよ。交通違反の処理とレッカー移動作業中における車の破損についての処理とが別だとおしゃるなら、車破損の問題については心のこもった謝罪があってしかるべきではありませんか。あなたがたに責任はまったくないとおっしゃるなら、レッカー委託業者がかわりに謝罪なさるとでもいうことになるんでしょうか?……」
「いやまあ、それは……。ともかく、車の修理のほうはしっかりおこなうようにこちらからもあらためて指示致しますので……」

「私は今日このあと重要な仕事があったのですが、ここで予定外の時間を取られたうえに車が使えないとあって、このあとのスケジュールがめちゃくちゃになってしまいました。もちろん仕事の相手先にも迷惑をかけてしまうことになります。それに、車がしばらく使えませんから、私の今後の仕事の取材などにもそれなりの支障が生じてしまいます。必要なら弁護士に依頼してでもそのあたりの補償問題についてはこちらも対応処置を取らせていただきます。場合によったら、あなたがたの組織の責任者に対し正式な抗議もするつもりでいます、よろしいですよね」
「……」

けっして好むところではなかったが、成り行き上そこまでやるしかないと考えた私は、そう告げて警察署をあとにした。その日のスケジュールや翌日以降の取材旅行スケジュールが大幅に狂ってしまったことはいうまでもない。その日の夕方、ちょっとした忘れ物をしたこともあったので、私はもう一度市役所内の教育員会へと出向いた。そして、その折、例の駐車場の管理人を見かけたので、さりげなく語りかけた。

「今日の午前中に教育委員会での打ち合わせがあって時間ぎりぎりにやってきたんですが、ここが満車だったため、急遽あの塀の向こうに駐車しました。ところが、誰かが通報したらしく、30分足らずで戻った時にはもう車は警察の指示によって運び去られてしまっていたんですよ。しかも、レッカー移動作業中に車まで破損されてしまいましてねえ」

そこまで言うと、一瞬戸惑ったような表情を見せる相手の顔をじっと見つめなおし、さらに一言続けた。
「まあ、違反は違反なので私が悪いのですが、それにしても短時間でレッカー移動とはあまりにも手際がよすぎますよね。誰かが通報でもしたんでしょうが、そんなことがよくあるんですかねえ、あの場所では?」
「さあ……」

相手は短く呟くようにそう言っただけで、あとは無言のまま目をそらして私の前から立ち去ろうとした。私もそれ以上追及することはしなかったが、相手のその素振りだけで一連の事態の裏事情を確認するには十分であった。

それからしばらく時間を要したが、車の破損箇所の修理や破損事故にともなう諸々の補償請求は、知人の弁護士を通じてこちらもきっちりとおこなった。そして、もちろん、ほぼこちらの請求どおりの補償もしてもらった。通常そんなことをするのは気が向かないのだが、後日たまたま警察庁幹部の知人と話す機会があったので、いったいどういう教育をしているのだと手短かに苦言だけは呈してもおいた。

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