エッセー

7. 速度違反と速度遵守のはざまで

先々週に続き交通違反ネタを取り上げるのはいささかおとなげない気もするが、この際だから「想い出に残る交通違反」体験についてもうしばらく連載させてもらうことにしたい。ある大学で日々講義の真似事などをやっていた20年以上昔のことだが、指導している学生らとともに八ヶ岳山麓の松原湖付近でゼミ合宿をやったことがあった。その折のこと、ちょっとした用事で野辺山方面まで出かける必要が生じたので、ひとりで車を運転し小海町付近を走っていた。緑の美しい季節のことだったので、あたりの景観を楽しみながらのんびりとハンドルを握っていると、後方から一台の大型トラックがかなりのスピードを出しながらどんどんと迫ってきた。そして、私の車のすぐうしろにつくと、けたたましくクラクションを鳴らしては、もっと速度を上げろ、さもなければさっさと道をあけろとせかし、激しくこちらを威嚇しはじめた。

道を譲ってもよいと思いはしたのだが、生憎、そこは大きなカーブの上り坂になっており、さらに右手には深い渓谷が続いているとあって退避できるようなスペースはなかった。やむなくしてアクセルを踏み込み時速60km前後まで速度をあげはしたのだが、それからほどなく、車は左手の渓谷側から光の差し込む構造になっているスノウシェッド型トンネルに差しかかった。かなり長いそのトンネルの内部も大きな右カーブの上り坂になっていたので、すぐ背後に迫るトラックの影をバックミラーで確認しながら、速度を一定に保ってそのままそこを走り抜けようとしたのだった。

だがそれが運の尽きだった。こともあろうに、そのトンネルを出てすぐのところにあるオープンスペースで待ち構えていた交通取締り中の警察官に制止され、結局、スピード違反で捕まる羽目になってしまったのである。しかも、なんとも腹立たしいことには、警察官の指示に従い道路の側帯に自分の車を寄せている間に、うしろから私を煽り立てていた大型トラックのほうは、ざまあ見ろとでも言いたげな様相で悠然と走り去っていったのだった。

内部が大きくカーブしている上り坂のトンネル周辺にネズミトリを仕掛け、トンネル出口で獲物を待ち構えている警察官の少々意地悪い手口もさることながら、うしろのトラックを当然のように見過してしまったその対応のありかたも私にはいささか納得がいかなかった。もちろん、ネズミトリのメカニカルな構造上、先頭を走る車だけを捕らえざるをえないという事情などもあってのことだとはわかっていたし、どんな理由があったにしろ違反は違反だから運が悪かったと諦めるしかないとおのれの心に言い聞かせもしたが、それでもなおモヤモヤした胸の思いは晴れなかった。

制限速度40kmのところを20kmスピードオーバーしたということで調書をとられ、やむなく署名と母指による押印をしたが、それら一連の処理に応じる過程で、大型トラックに追い上げられせかされた事情や、そのトラックを見逃した警察サイドの対応について一応の抗議だけは試みた。すると、相手の警察官は、「たとえ後続車がどんなに速度を上げるように煽り立ててきたとしても、ここの制限速度は時速40kmなんですから、時速40kmという法定速度を遵守して走行していさえすればなんの問題もないのです。やはり速度違反したあなたが悪いのです」とのたもうた。後続のトラックを速度違反で咎めることなくそのまま通過させてしまったことには一切触れぬままに、相手は、「では今後は気をつけてください」という心にもない紋切り型の口調で私を体よくその場から送り出すと、次の違反者に対する取り調べと向かっていた。私にはその警察官の最後の言葉が、「毎度ありがとうございます」というふうに聞こえてならなかった。

合宿先への帰途時もまだ取締りは続いていたが、今度は先を行く数台の車の流れに合わせてさっきとは反対側の車線走っていたので、やはり時速60kmを超える速度が出ていたが捕まるようなことはなかった。そして、はからずもその直後に、スピード違反取締り中の警察官らに対して、ちょっとばかり皮肉のこもった逆説的な感謝の意を表明するべき絶好のチャンスが訪れた。ゼミ合宿先に戻るとすぐに、何人かの学生を乗せてもう一度野辺山方面に出かけることになったからだった。

先刻速度違反で捕まったトンネルのかなり手前で私は車の速度を時速40kmに落とした。そしてそのままの速度を遵守しながら走り続けた。すると、ほどなく私の車のうしろには大小10台以上の車がずらりと連なることになった。ずっとうしろのほうでクラクションを鳴らす車もあったが真うしろの車のものではなかったので、私はそれを無視して相変わらず時速40kmの制限速度を厳守して走行した。一帯の道路は追い越し禁止区域になってもいたので、さすがに無理に追い越しをかける車はなかったが、後続のドライバーたちが皆心中イライラしながら私の車の遅速ぶりを罵っているだろうことは明かだった。

またもや有り難い仕掛けの施されている問題のトンネルに入り、ほどなくするとその出口が近づいてきた。思うところあった私は助手席の学生に窓を開けさせ、なおも時速40kmの一定速度を保つようにアクセルを踏み整えながらトンネルを走り抜けた。そして、交通取締り中の警察官らのそばを通りかかったとき、意図的に車の速度を一段と落とし、「先ほどはどうも!、今度は法定速度を遵守していますよ」と大きな声で叫びかけた。意表を突かれ、呆れ顔でノロノロと走る我々の車の行列を眺める取締り官らの姿がなんとも印象的だった。

法定制限速度を遵守して取締り現場を通り過ぎた車の行列が、それからしばらくしてからどのような状態になったかについては、あらためて述べるまでもないだろう。時速40kmの法定制限速度を守って走っている車が一台もいなくなったことだけは確かだった。スピード速度の一件があってからも何度となく問題の地点を通ったが、トラウマとは厄介なもので、そのトンネルの前に差しかかるとついつい速度を時速40kmに落としてしまう。うーん、そうしてみると、やっぱり警察当局の交通取締りは不届き者の私のような者に対しては功を奏しているということなのだろうか……。ただまあ、交通法規がなければ、走るのに軽業なみの運転技術を要するインドのような凄まじい状態になってしまうだろうから、ある程度はそれもやむをえないことなのかもしれない。

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