エッセー

2. 雷電為右衛門の生家とその墓

佐久平の北方に位置する湯の丸高原方面に向かおうとして長野県東御市大石付近を走っいると、突然、「雷電の生家」と表示された案内板が目に飛び込んできた。なにっ、雷電?……、カミナリサマのご親戚のお生まれになったところ?……、いやそんな……、あそうか……、こんなところにあの江戸時代の有名な相撲取りの雷電為右衛門の生まれた家があったっていうわけね――加齢のせいもあってひどく反応の鈍くなった我が思考回路がその案内板の意味するところを理解し、それに呼応するかたちで右足がブレーキを踏み込むまでには数秒を要するありさまだった。

いくらなんでもこんなところで有難い特製ワッペンを頂戴したり、レッカー車のお招きに預かるようなことはないだろうとたかをくくり、路上駐車を決め込んだ。車道から細い路地に入り三百メートルほど歩くと、切妻風の瓦葺屋根をもち、上層部が白壁造りの木造二階建て一軒家が現れた。それが目指す雷電の生家だった。管理人などは常駐していないらしく、訪問者が勝手に玄関の引き戸を開け自由に中を見学できるようになってなっていた。

玄関の前には「雷電の鋤石」と大書された看板が立っていて、その下には軽めに見積もっても百キロほどはあろうかという岩塊が置かれていた。説明文によると、まだ相撲取りになる以前の雷電は、田畑での仕事の行き帰りにその岩塊を鋤の先にに吊るして歩いていたのだそうだ。足腰を鍛えるためだったということだが、ほんとうにそんなことをしていたら相撲取りになるずっと以前に雷電は足腰を痛めてしまい、土俵に上るどころの騒ぎではなくなってしまっていたことだろう。まあ英雄伝説とはいつの時代にあってもそのようなものなのだろうから、目くじら立ててあれこれいうほどのことではないのだけれど……。

功成り名を遂げた雷電は、三十三歳の時に故郷の大石村に錦を飾った。その際に五十両で自分の生家を建て直したのだそうだが、雷電は、少年時代にお世話になった近隣の長瀬村の庄屋の家よりもその家が小さめになるように気配りをして義理立てをしたのだという。謙虚といえばなんとも謙虚な話だが、たとえそんな雷電であったとしても、この現代であったなら、昔の恩義などお構いなしに、白亜の大豪邸を建て屋敷の周りをセコムかなにかでガチガチに固めまくっていたことだろう。

雷電は、竣工祝い際に、その家の建替えに要したとの同額の大枚五十両をはたいて村人らに大盤振舞いをしたともいう。そのような大振舞いは故郷に錦を飾る者に課せられたその時代のしきたりだったのかもしれないが、それはそれで大変なことだったには違いない。豪華マンション建設に携わる陰で、姉羽ったり、木村ったり、小嶋ったりする人物は続出しても、豪邸の建築主自らがその豪邸の建設費と同額の大枚をはたいて周辺の人々に大盤振舞いをしてくれるようなことなど現代では絶対に有り得ない。

せめてあのホリエモンがまだ威勢のよかったころ、六本木ヒルズの豪邸入手に合わせてドーンとそれ相応の大枚をはたいてなにかしらの社会貢献でもしていてくれたら、「堀江る」という良い意味の流行語が生まれていたかもしれない。だが、いまとなっては最早手遅れと言うしかない。あえて「堀江る」という言葉を作ってみても、まるで違った意味に受取られてしまわざるを得ないからだ。

そんな愚にもつかぬことを考えながら、雷電の生家なる建物の中に入ってみた。雷電が建て直したというもともとの家は老朽化してしまったため、現在の建物は昭和五十九年に周辺関係者の協力で復元されたものであるらしい。管理人も常駐しておらず、外部の者の出入りも自由だったから、屋内に特別重要な展示資料が置かれているわけでもなかったが、中の土間に土俵が設えられ、二階部分が桟敷席になっていて相撲ぶりが観覧できるようになっているのは意外だった。その土俵で相撲を取って地元民などに見せたものなのであろうか。

雷電の生家に置かれていた周辺案内図を眺めているうちに、「雷電の墓」が車道を挟んで反対側のほうにあることを知った。そうと知ったからにはその墓詣でをせずに立ち去るわけにもいかない。いったん大通りに戻った私は、警察特製のワッペンもアクセサリーも愛車に付けられていないことを確認すると、あらためて雷電の墓なるものを探し当てることにした。

苔むしくすんだ色その墓は雷電の出た家である地元の関家の墓所の中にあって、浅間連山を背にするかたちで南に向いてひっそりと立っていた。その石碑の表には「雷聲院釋関高為輪信士」と雷電の戒名が彫られてあった。また、その側面には「文政八乙酉年二月十一日、雲州雷電為右衛門行年五十九歳」という文字が刻まれていた。この信州大石の地の出身であったのに「雲州」とあるのは、雷電が出雲の国、すなわち松江藩のお抱え力士だったからのようである。実際、雷電は終生「雲州関為右衛門」名乗り続け、松江藩の藩務にも労を惜しまず貢献し、現役引退あ後は松江藩相撲頭取を任じられもしたようだ。

文政八年(一八二五年)に他界した雷電の亡骸は荼毘に付されたあといくつにも分骨され、その一つがこの生まれ故郷の大石村(現東御市大石)の地に埋葬されたものらしい。雷電の墓の右隣にはその父親の関半右衛門の墓が並んで立っているが、面白いことにその墓石は酒枡に大盃を裏返しにして積み重ねた格好になっていた。無類の酒好きであった父親の霊を弔うために雷電がわざわざ墓石をそのような風変わりな形にしてもらったものらしい。

雷電の墓はこのほかにも三箇所ほどあるようだ。その一つは松江市にある元松江藩主松平家累代の霊廟の一隅に現存しているという。また、一つは東京都港区赤坂の三分坂脇の報土寺境内にあり、そこの墓前には雷電の手玉石と称される砲丸形の見るからに大きく重そうな玉石が並べ置かれているようだ。雷電がお手玉に用いた石だとの言い伝えがあるらしいが、墓中にある彼の霊はいくらなんでも大袈裟だとニヤニヤしているのかもしれない。

最後の一つは、雷電が相撲界から身を引いたあとの実質的な生活の場となった千葉県佐倉市臼井にある。そこには雷電夫妻のほか彼らの間にできた女児の墓などもあり、ほかに江戸時代の錦絵に描かれた雷電の雄姿を彫り刻んだ石碑なども立っているようだ。臼井は雷電の妻となった人物に縁のあるところで、その女性はかつて成田山へ向かう街道の宿場町だったその地の茶家の看板娘であったという。無双力士と謳われた鬼の雷電も、美人娘の魅惑的な瞳の輝きに、仕切る間もなくスッテンコロリンと参ってしまったものらしい。

それにしても、命日やお彼岸、お盆がくるごとに遠く離れた四つもの場所に顔を出さなければならない雷電の霊たるやざぞかし大変なことだろう。こっちは頭だけ、あっちは手だけ、そっちは胴だけ、そして残りのところは足だけという具合にもいかないだろうからである。万一そんなことにでもなってしまったら、文字通り雷電のお化けになってしまう。

雷電のお墓をあとにした私は、すでに名誉あるワッペンを授与される資格があったにもかかわらず、それを受取ることなく路上でじっと待っていてくれた車へと戻った。そして、周辺案内図を今一度じっくりと見直すうちに、すぐ近くの道の駅の一角に「力士雷電展示館」という施設があることを発見した。雷電のことなどまったく念頭にないままに、たまたまこの地を通りかかったのではあったが、これもまたなにかの縁だろうと思い直し、好奇心の赴くままにその展示館を訪ねてみることにした。もちろん、心の片隅に、よい機会だから雷電為右衛門という伝説的人物の実像に触れてみたいという思いがあったことは否めない(次週につづく)

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