時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(17)(2019,06,01)

(日常言語と記号言語の意義と両者の対照性の問題 )
日本語をはじめとする各種の日常言語のもつ意義とその重要性、さらには数理科学の世界などで用いられる特殊な記号言語類のそなえもつ機能などについて述べてきましたが、それら二つの対照的な言語による表現の特性についてもう少し具体的に考えてみることにしましょう。哲学の脇道遊行とはおよそ無縁なことのように思われるかもしれませんが、この問題には具象と抽象の概念が深く関係しているようです。もしそうだとすれば、それは人間の思考の根底に深く関わる哲学の問題でもあるはずです。そこで、話をわかりやすくするために、例えば誰もがよく知る「波」という自然現象についての日常言語による表現と記号言語による表現との違いに着目しながら、考察を進めてみることにしましょう。
日常言語で用いられる「波」という言葉は、静かな水面(みなも)に煌めき揺れる漣(さざなみ)や轟々と磯辺に打ち寄せる荒波など、人それぞれの心の中にさまざまなイメージを掻き立て湧き上がらせてくれることでしょう。明るい陽光に照らされて眩く輝く浜辺の波の様子を想い浮かべる人もあれば、静かに降り注ぐ月光のもと夜の湖面いっぱいに揺れ漂う神秘的な波の有様などを想像する人もあるかもしれません。絵画の愛好家なら葛飾北斎筆の「神奈沖浪裏」図の光景を連想したりもすることでしょう。なかにはその言葉を介して自らが歩み辿った山あり谷ありの人生の軌跡を想い起す人などもあるに相違ありません。
そのように誰しもがその人なりに個別の具体像を思い描くことができるのは、「波」という言葉がごく馴染み深いものであるとともに、それほどに自由な解釈上の幅をもちそなえてもいるからなのです。日常生活のなかにあって、さらには文学や芸術の世界などにおいて用いられるかぎりでは、「波」というその言葉のもつ柔軟性や包括性は極めて便利で好都合なものですから、人々にとってその存在意義はこのうえなく重要なものだと言えるでしょう。もちろん、現実世界に見られる諸々の「波」というものは、偶然かつ複雑な自然条件に左右されながら極めて多様なそして厳密な意味では再現不可能な様態をとるものですから、それらを的確に表現するには各種の形容詞や修飾語を補足付加してやりながらその言葉を用いなければなりません。むろん、そうしてみたところでその表現にはおのずから限界が伴うもので完璧を期すのは所詮無理な話ですが、それなりには個々人が体験する実事象と直接結び付いていますから具体性の度合いは十分高いと見做されるべきです。
その一方で、水面に生じる波のほか、音波、電磁波、地震波、光波などのもつ波長や振幅、波形、伝播速度、伝播様態、エネルギー量などを厳密かつ的確に述べ伝えようとすると、通常の言葉ではひたすら説明が長くなり、敢えて説明を続けるほどに曖昧さが増すばかりで、遂には収拾がつかなくなってしまいます。さらに、そんな日常言語による説明を受ける側の人々の思い描くイメージも各人それぞれに異なったものになってしまいます。それらの事象を日常的な言葉によって表現しようとしても限界が生じてくることは避けられません。そこで、そんな状況を何とか解消すべく登場するようになったのが「y = sin x」という関数に象徴されるような特殊な記号言語を用いた表現だったのです。高校の教科書で誰もが一度は目にしたことのあるこのごくありふれた正弦関数によって表現される正弦波の波形や波長、振幅などでさえも、日常的な言葉によっては正確に述べ表わすことはできそうにありません。また逆に正弦関数によって描かれる「波」には、色も輝きも刻々と変わる複雑かつ不規則な動きも、またその動きに伴う飛沫(しぶき)や響きも一切ありません。
記号言語というものは現実かつ具体的な事象の要素の多くのものを捨て去り、狙いとするごく一部の重要な要素だけを取り出し、しかもそれらの要素の平均像を記述するために存在するものですから、そこに具体像を求めても意味が無いのです。換言すれは、記号言語が描き出す事象像は抽象像、すなわち、類を構成する一群の事象に共通する特性だけを抽出しそれらを押しならして得られる平均像なのです。したがって、そのような抽象像は対象事象全体に共通する特性の概要を把握しそれを論理的に表現するには相応しいのですが、具体的な個々の対象事象の特性を感覚的に表現するには適していません。
当然のことですが、捨てた特性、すなわち捨象した要素が多いがゆえに、正弦関数にみるような記号言語による「波」の表現によっては、文学的あるいは芸術的な意味での動的な「波」の姿を描出することはできないのです。もっとも、未来の世界において人間の認識様態が極度に変化し、正弦関数などによって描かれる抽象的な「波」の像の美しさこそが重要であり、現実世界の「波」に伴う色や輝き、音、気象条件の変化による複雑な動きなどはどうでもよいことだと考えるようになるとすれば話はまた別ですけれども……。
 要するに、純粋数学や理論物理学のような分野における多くの先端的概念は、具体的な事物や事象を直接的研究の対象とする人文科学や実験科学分野などのそれとは異なり、もともと抽象度の高い定義(理論を展開していくのに欠かせない根本的な約束ごと)や基礎概念を順々に積み重ねていってはじめて理解できるようになるものなのです。それゆえ、初等整数論ひとつをとっても、日常的な言葉を用いてその意味するところをやさしく説明するのは容易なことではありません。記号言語の世界を日常言語を用いて易しく説明できるならばそれに越したことはないのですが、本質的にみて対照を成すそれら両者の言語機能を誰にでもわかるようなかたちで完全に融合することは現段階では至難の業なのです。
(書籍翻訳作業に似てはいるが)
 ただ、幸いなことに、記号言語も根本的には日常言語と同じ構造をもつ言語なのであり、互いに相補的な存在でもあるのですから、一般の人々には理解困難な記号言語の世界の表現を一定レベルまでは日常言語の世界の表現に置き換えることは可能でしょう。そして、それこそはサイエンスライターと呼ばれる人々の仕事なのです。その仕事は外国語の書籍を日本語に翻訳して出版したり、その逆を行ったりする翻訳家のそれにも似ています。しかしながら、書籍翻訳の場合と決定的に違うのは、日常言語と記号言語の間には対応する表現がほとんど存在していないため、両者間における概念の直接的な、そして完璧な翻訳は元々不可能だということです。そう考えてみると、敢えてその難業に挑むサイエンスライターという仕事はもっと高く評価されてしかるべきかもしれません。また、初等中等教育の段階から、数式や化学式というものは特別な機能と目的をもった一種の言語なのだということをしっかり学ばせていく必要もあるでしょう。そうすれば、将来的には、具象性の高い日常言語の世界と抽象の高い記号言語の世界との間をもっと柔軟かつ自在に行き来できるような人材の増加が期待できるだろうと思われます。

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