時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(15)(2019,05,01)

(「日本に哲学なし」という明治期の一文を読んで)
 数理科学やコンピュータサイエンスの分野で用いられる各種記号言語と日常言語との関連性について述べるうちに、ついつい人工知能をはじめとする各種先端情報処理技術の世界に迷い込み、いささかその底知れぬ沼地に足をとられすぎた感じがしなくもありません。そこで、今一度哲学の脇道遊行本来の道筋へと立ち戻り、また哲学の世界の諸景観をゆっくり眺めたり楽しんだりしてみることにしてみましょう。
 最近のことですが、自由民権論者として知られる中江兆民の「一年有半」という著作を読み返すことがありました。そして、そのことを通じ、あらためてこの人物の学問の世界に対する先見性やその学術観の深さに感銘を覚えたような次第でした。ともすると政治的思想家や実務政治家としての一面だけが取り上げられがちな中江兆民ですが、哲学という学問に対するその見識の深さについては今更ながら敬意を表さざるを得ません。彼が生きた時代背景を考慮するとそんな思いはなおさらです。
中江兆民(1847~1901)の名は中学や高校の社会科や歴史の教科書などにもよく登場していますので、誰しもが一度や二度は目にしたことがあるでしょう。ただ現代にあっては、その経歴や業績、自由民権思想の背景などはほぼ忘れられてしまっているのではないかと思われます。かつての土佐藩出身の中江兆民は江戸時代末期から明治時代の中・後期にかけて活躍した人物で、フランスに留学し、そこで当時の学術界の中核を成していた諸々の近代思想を学びました。そして帰国後は仏学塾を開きそこで新たな学問や思想の普及に努めました。ジャンジャック・ルソーの「社会契約論」を日本で初めて翻訳し、「民約訳論」として刊行したことでも知られています。また、西園寺公望とともに創刊した「東洋自由新聞」の主筆を務めながら自由党の創設にも参画し、自由民権思想の啓蒙活動に邁進しました。時の専制政治を厳しく糾弾したことでも有名です。 
「一年有半」というその著作は、食道癌を患った兆民が医師より余命一年半との宣告を受けたあと、自らの理念を後世に伝え残すべく、遺書的な意味合いをも込めて執筆したものなのです。そして、その記述のなかには「日本に哲学なし」という小見出しのついたごく短い、しかし随分と辛辣な一文が含まれてもいます。ただ、その極めて古風な文体は現代の一般読者にとっては甚だ馴染み難く、また理解もしづらいものなので、筆者なりにその概要を現代的表現に書き改めたものを記載しおくことに致しました。非力なこの身の作業ゆえ、多少の不備はあるかとは思いますが、その点はご容赦ください。 
「日本に哲学なし」の現代語訳 
 我われの国には古(いにしえ)から今日に至るまで哲学などというものは存在していない。本居宣長や平田篤胤などは古代の陵墓を探索したり古文書を研究したりしている一種の考古学者に過ぎず、この世界本来の性質や諸々の原理などに関しては全く無知だと言ってよい。伊藤仁斎や荻生徂徠などは、四書五経やそれらの研究解説書執筆の分野において新たな業績をあげてはいるものの、要するに、彼らは四書五経の研究者であるに過ぎない。
なるほど仏教の僧侶のなかには自ら独創性を発揮して寺院や宗派を創設したり、新たな仏像を建立したりする業績をあげた者もなくはないが、結局のところそれらは宗教家としての仕事の範囲に留まることであって、西欧に見るような純然たる哲学であるとは考えられない。近年においては、加藤弘之、井上円了といった人物らが自らを哲学者であると公称し、世の人々もまた時にはそれを許してはいるものの、その実態は自身が学習した西欧の諸々の哲学者の論説をそっくりそのまま国内に持ち込み、それら先哲の論旨を真に理解することもなくただ丸呑みし伝えているだけのことなのであり、哲学者と呼ぶには程遠い。 
そもそも、この国にあって哲学という学問の意義をしっかり見極めその本質を認識している者は甚だ少ない。それゆえに、貿易の好調不調、金融界や景気の緩慢な動向、商工業の好況不況などはおよそ哲学とは無縁なものだと思われるかもしれない。だが、何よりもまず、ある国に哲学がないという状況は、言うなれば家の床の間に掛軸が存在しないのと同じことであり、その国の品位を貶めてしまう事態は避けられない。カントやデカルトなどのような哲学者の存在はまさに独仏両国の誇りであり、喩えるなら彼ら両者はそれぞれの国の床の間の掛軸にも相当している。独仏両国民の品格というものにそれらの存在が無関係であるはずはない。哲学というものは物事の是非善悪とは一切無縁だと思われるかもしれないけれども、けっしてそうではないのである。哲学を持たない人民は何事をするに際しても深慮に欠けており、浅薄であることを免れるわけにはいかない。
(辛辣なその叙述の背景を想う)
 この兆民の見解は伝統文化に傾倒する多くの日本人にとっては辛辣このうえないものであり、当時においても国学者などからは厳しい批判がなされたことでしょう。方々から西洋かぶれだという声なども上がったりしたはずです。ただ、避け難い己の死を覚悟した兆民にすれば、そんな罵声は承知のうえのことだったに相違ありません。他者からの非難や糾弾を恐れ自らの理念や主義主張を抑制することは、そもそも哲学なるものの重要性を説く人間のとるべき態度ではないという思いなどもあったのでしょう。
 この手稿「哲学の脇道遊行記」のはじめのほうで、「哲学とは深遠かつ高邁な知見や永遠不変の絶対的な真理を説くための学問というよりも、生来無知で迷い多き人間の生活に寄り添い、根元的な疑問に答えたり、疲れた心を癒したり、生きるための実践的な知恵を与えてくれたりする学問であるらしい。そうしてみると『お前には哲学がない』などという高飛車な言い回しそのものからして問題である。この場合の『哲学』という言葉は確固たる信念という意味で用いられており、深く迷い悩みながらも容易には答えの見つからない事象の根元に真摯に迫っていこうとする思考過程を意味する本来の『哲学』」とは異なるものだ」といった趣旨のことを述べました。そして、「哲学の探究とは全知全能の世界とはまったく無縁な仕事にほかならない」というホワイトヘッドの言葉をも紹介しました。
 そのような観点からすると「日本に哲学なし」という中江兆民の主張自体も問題であるかのように思われるかもしれません。しかし彼は本来の意味での哲学概念を理解したうえでその言葉を発しているのであり、そのなかに「確固たる信念」という意味を込めていたわけではありません。哲学の意義を床の間の掛軸の存在に喩えたのも、国家社会の根幹を成すのが哲学的思考だと伝えたかったからなのであり、掛軸の文言や図柄を絶対不変の存在として崇めるがごとくに哲学を崇めよと言いたかったわけではないのです。

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