幻夢庵随想録

《幻夢庵随想録》(第7回)(2019,02,24)

 本日、ドナルド・キーン先生が逝去なさったとのニュースに接し、かつて何かとそのご薫陶(くんとう)にあずかった身とし、深い哀悼の意をささげるとともに、衷心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。この場を借りてキーン先生についての話などをあらためて書き述べようかとも考えたが、いまから20以上も前に当時の朝日新聞のAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)というウエッブ上で連載執筆していたコラム「マセマティック放浪記」において先生のことを紹介させて戴いたことを思い出した。そこで、当時AICに掲載してもらったその記事の原稿をそのまま以下に紹介させてもらうことにした。ご一読願えれば幸いである。

ドナルド・キーン先生(1998年11月25日)

 先月、埼玉県草加市で催された、国文学者ドナルド・キーン先生の「奥の細道」についての講演会を拝聴した。私事になって恐縮だが、二年前、「佐分利谷の奇遇」という紀行作品で第二回奥の細道文学賞を頂戴したとき、尾形仂、大岡信の両先生らとともに同賞の選考委員を務めておられたのが、ほかならぬキーン先生である。
 もうずいぶんと昔のことになるが、「MEETING WITH JAPAN(日本との出会い)」という先生の著書を拝読し、日本文学にたいする先生の思い入れと造詣の深さに感銘したことがあるだけに、どのようなお話をなさるのか楽しみであった。
 旧日本海軍による真珠湾攻撃の直後、コロンビア大学の学生だった先生は、志願してカリフォルニアの米海軍日本語学校に入校、そこで猛烈な日本語の特訓をお受けになった。四・五カ月で全員が日本語の新聞を自由に読めるようになるほどに、きわめて厳しい実践的な日本語教育だったという。大戦が勃発するとすぐに、先々の戦局の展開や終戦後における日米間の諸問題の処理をにらんだ米国政府は、海軍にこの日本語学校を特設し、日本語と日本文化に通じた優秀な人材の育成にのりだしたのである。鬼畜米英を合言葉に、いっさいの英語の使用を禁止した日本とは大違いであった。
 この米海軍日本語学校からは、のちに日本文化の優れた研究者、紹介者として世界的に名を馳せる知日派の若者が数多く巣立っていった。キーン先生のほか、川端康成や三島由起夫の翻訳者として名高いエドワード・サイデンステッカー、ハーバード大教授で駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー、戦後まもなく様々な事情から歌舞伎をはじめとする各種伝統芸能の存続が危ぶまれたとき、文字通り力の限りを尽くしてそれらを死守したフォビオン・バウワーズなどは、皆この日本語学校の出身である。
 キスカ島、アッツ島などの激戦地で、米軍日本語通訳・翻訳官という特務につかれた先生の日本文化への関心は、その仕事を通して日々深まっていったらしい。終戦後、コロンビア、ハーバード、ケンブリッジの各大学で日本文学を専攻、一九五三年には京都大学に留学された。来日の時点ですでに、和歌の二条派と京極派の違いや、近松門左衛門がその浄瑠璃作品に導入
した能の要素、松尾芭蕉の弟子十人の俳風の特徴や相違などについて論じることができたというからおそれいる。
 谷崎潤一郎、太宰治、三島由起夫らをはじめとする多くの日本近代作家たちとも深い交流のあったキーン先生は、毎年六ヶ月はコロンビア大学で教鞭をとり、残り六ヶ月は日本にあって、日本文学の研究に没頭するという生活を今日まで続けておられる。古典から現代文学に至るまで、そのお仕事は幅広く、しかも奥深い。大蔵流の家元に弟子入りして狂言を学び、「青い目の太郎冠者」の異名をものにされたことからも、日本の伝統文化にたいする先生の思い入れの深さが伺い知れる。昭和三十年には大好きな芭蕉を偲んで、実際に奥の細道の旅を試みもなさったというから、先生は、日本人以上に日本人的な方であると言うほかない。
 日本文化の素晴らしさは外国人にはわからないなどというのは、とんでもない誤解で、外国人だからこそその真価がわかることも多い。浮世絵の価値に気づいたのも、明治初期に排仏毀釈運動が起こったとき仏像の貴重さを見抜き、その保護を訴えたのもほかならぬ外国人たちだった。
 松尾芭蕉の「奥の細道」は、現在の四百字詰めの原稿用紙に換算するとわずか三十五枚ほどの作品である。意外なほどに短いその作品の完成に、なぜ芭蕉は五年もの歳月をかけたのだろう。そのあたりの問題について、自他の新説や新解釈を交えながらキーン先生がなさった講演は実に興味深いものだった。講演内容をすべて記載することはできないが、以下にその一端を紹介させてもらおうと思う。

カテゴリー 幻夢庵随想録. Bookmark the permalink.