マセマティック放浪記

エッセー

「マセマティック放浪記」
1998年10月12日

八手の葉の意外な実像は? 

 この夏、仕事で上野に出向く機会があった。予定よりすこし早目に着いたので上野公園をぶらついていると、園内の片隅に八つ手の樹が生えているのに気がついた。なにげなく近づいて子葉の数をかぞえてみると、なんと九枚もあるではないか。
 まさかそんな?……と思いながらべつの葉を調べてみるとやはり九枚の子葉がある。なお我が目を疑いながら手当たり次第に子葉の数をチェックしてみると、意外なことが判明してきた。ほとんどの葉は子葉が七枚か九枚で、それらの葉のなかに、成長途中のものらしい三枚あるいは五枚の子葉をもつものが一定割合で混じっている。驚いたことに八枚の子葉をもつ八つ手の葉など一枚も見当たらないのだ。
 どうやら、八つ手の葉は、はじめ先端が三つに分かれたあと、外側の両子葉がそれぞれ二枚ずつに分かれて計五枚の子葉をもつ葉となり、さらにまた左右両端の子葉が二枚ずつに分かれて七枚の子葉をもつものへと成長するらしい。そして最後に七枚の子葉の両端がそれぞれ二分化し、九枚の子葉をもつ完全な「八つ手の葉」となるようなのだ。これでは「看板に偽りあり」もいいところで、八つ手の団扇がトレードマークの天狗様も真っ青の事態である。いや、案外、天狗様のほうはとっくにその事実をご存じで、よけいなことを騒ぎ立ててくれるなと、苦虫を噛み潰したような顔をしておられるのかもしれない。
 七と九の平均値は八だから、この植物を「七手」でも「九手」でもなく「八つ手」と呼ぶようになったのは、便宜上やむをえないことかもしれない。我が国では古来「八」という数字が全方位を表す縁起のよい数だとされてきたことなども、そんな呼称が定着した理由の一つではあるのだろう。だが、「八つ手」という呼称がその植物の実像に正しく迫るための観察眼を曇らせ、観念上の虚像を本物の像だと錯覚させてしまうとなると、話は笑いごとではすまなくなってくる。
 実を言うと、もともと理論とはこの「八つ手」という呼称のようなものである。ある一群の事柄の全体像を平均的にはよく表しているが、個々の事柄には必ずしもよく当てはまらない。換言すれば、理論というものは、個々の事柄のもつ極端に偏った特性を捨て、事柄全体にほどほどに当てはまる一般的な特徴や性質を「法則」としてまとめあげたものにほかならない。このようにして導かれた大小様々な理論は、相互に結びつき多重に積み重ねられてさらに大きな理論を構成していくことになる。したがって、理論が肥大化していくにつれて、見かけ上はどんなに立派でも現実とはどんどんかけ離れたものになっていくことが多い。そして、このような理論が盲信的あるは意図的に社会政策や生産活動に適用されるとき、目に見えない形で大きな不利益を被るのは我々一般市民なのである。
 肥大化した理論に疑問を抱いたとき、その欺瞞を見抜く唯一の手段は、自らの目を信じて理論の原点へと立ち戻ることである。七枚か九の子葉をもつものしかない「八つ手」の実像を見すえて、その呼称の表と裏それぞれのもつ意味を深く考えてみることである。この一連のコラムでは、いろいろな角度から折々そんなことなども取り上げてみたい。

「マセマティック放浪記」
1998年10月21日

蝉の音出すスピーカー 

 八つ手の話を書いていて、寺垣武さんのことを想い出した。「日本のエジソン」という異名をもつ寺垣さんは、工業界では半ば伝説の人物と化した天才技術者だ。
 理論というものは両刃の剣で、その限界や短所を見すえて用いれば未来を切り開く強力な武器にもなるが、見かけだけの正しさを鵜呑みにして振り回すと、発展を阻害し、一瞬にしてその命脈を断つ凶器となる。肥大化し現実から乖離した理論に疑問を抱いた技術者がとるべき道は、理論の原点に立ち戻って考えることである。
 だが、それはけっして容易なことではない。数式でものものしく武装され、一見完璧に見える理論の根底に迫り、問題点を的確に究明するには、卓越した能力や一貫した理念にくわえて、人一倍の勇気と良心を必要とするからだ。それだけの能力と資質をもつ技術者はきわめてすくない。寺垣さんは、我が国ではまれなそんな技術者の一人である。オーディオシステムΣ5000の開発だけをみてもそのことがよくわかる。
 寺垣さんは、ふとしたことから、専門外のオーディオの研究を始めて間もなく、アナログレコードに音響情報を刻み込むとき消費されるエネルギーに比べ、レコードから音を再生するときに要するエネルギーが小さすぎることに気がついた。そこで、最新のレーザー技術を用いて従来のアナログレコードに刻まれた複雑な溝の形状を精細に調べてみると、驚くほどに膨大な情報が隠されていることが判明した。それまでのプレイヤーは、再生に際して、アナログレコードがもつ音響情報のほんの一部しか読み取っていなかったことになる。
 プレイヤー自体の微妙な震動や内部の定常波の反射が原音情報に変調をもたらしていることも問題だった。極力変調を抑えるためラバー類や油脂類を一切排除し、軸芯やアームに特殊な工夫を凝らして寺垣さんが完成させたΣ5000システムは、何十年も前のモノラル盤レコードでさえも現代のCDを凌ぐほどに良質で立体感のある音響情報を秘めそなえていることを実証してみせた。
 そのいっぽうで、寺垣さんは驚異的な性能をもつスピーカーの開発にも成功した。わずかなエネルギーしか消費していない蝉の鳴き声が遠くまで響き渡る理由を追究したことが、新スピーカー開発のきっかけになったという。きれいに波長のそろった物質波は、低エネルギーのものであっても、いったん音波に変わると、やわらかく澄んだ響きとなって遠くまでよく通る。独創的な波動理論に基づいてバルサ材を素材に設計された薄型スピーカーは、たった3Wたらずの出力にもかかわらず、信じられないような音響と音色で大ホールを包み込み、何百人もの聴衆を感動させるという奇跡をも演じてみせた。
 近くで聴いても遠くで聴いても、前後左右どの位置で聴いても音質に変わりがないこの全方位型スピーカーは、過去の常識を超越した逸品中の逸品だと言ってよいだろう。その音を聴いたオーディオ研究者や音楽家たちは、皆、異口同音に驚きの声をあげる。
 寺垣さんは、CDをはじめとする最近のオーディオ技術は、芸術家に対する冒涜だとさえ語っている。収録された原音を忠実に再生するのではなく、技術者の感覚と判断で原音を変調したり加工したりして再生するからだという。
 Σ5000はCDの再生においても他のシステムを寄せつけない。だが、CDの情報は、原音の連続情報を人為的に強制分割し、不連続なデジタル情報に変換入力される時点でかなりの変調が生じている。さらに情報再生の過程で人の耳に馴染みやすい音質への加工がおこなわれるため、原音とはかなり異質な音になってしまうのだという。
 一八七七年にエジソンが蓄音機を発明してからCDが普及するまでの間にアナログレコードに蓄積された膨大な情報は、歴史的にみてもかけがえのない文化遺産であり、それらを時流の中に沈め捨て去ることは人類にとって大変な損失だと、寺垣さんは熱く語る。その美しく澄んだ瞳の輝きに、私は寺垣哲学の神髄をみる思いである。

「マセマティック放浪記」
1998年10月28日

ジョーと晩酌を交わした日々 

 東京多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーがこの十月二十日に死んだ。推定年齢四十一歳、チンパンジーとしてはたいへんな長寿だったらしい。
 今年の八月にたまたま東京都立多摩動物公園の吉原耕一郎さんにお会いする機会があったが、その時に名ボス、ジョーのことも話題にのぼった。吉原さんといえば、ゴリラやチンパンジーの飼育を手掛けて三十余年、霊長類の研究者としても広く知られ、テレビなどでもおなじみの方である。
 動物園の飼育係というと、餌をやったり檻の中を掃除したりするオジサンのことだと思われがちだが、実際には、吉原さんをはじめとして、有名な大学の大学院などで動物生態学や生物学などを修めた人が少なくない。飼育係とは俗な呼称で、実はれっきとした動物の専門研究者なのである。
 吉原さんからチンパンジーの生態についてお話を伺ううちに、我々人間は文字通り「猿にも劣る存在」なのではないかという気分になってきた。自分が、霊長類ヒト科ヒト目ヒトではなく、霊長類サル科サル目ヒトに分類されてもおかしくないのではないかと思われてきたからたった。
 チンパンジーと長年つきあっていると、チンパンジーも人間に似てきますが、人間もチンパンジーに似てくるんですよ。人間は異常なチンパンジーだし、チンパンジーは異常な人間なんですよ――そう言って笑う吉原さんのことばには妙に説得力があった。吉原さんの風貌や身振りがどことなくチンパンジーのそれに似て見えたことも、その一因だったかもしれない。
 マスコミなどで、チンパンジーの知能は幼児並みだなどと報道されたりしているが、それは何の根拠もないことなのだという。確立されたチンパンジーの知能測定法があるわけではなく、どれもがいい加減な推測に過ぎないのだそうだ。長年にわたる自らの経験を通してみるかぎり、彼らの知能は想像以上に高いようだと、吉原さんは語る。
 ニホンザルの社会は、ボスザルや上位のサルが弱者を支配し弱者の物を収奪する専制主義ないしは封建主義型社会だが、チンパンジー社会は管理型社会なのだという。チンパンジーのボスは会社の管理職みたいなもので、人望ならぬ「猿望」、なかでも、雌のチンパンジーたちからの信頼がなければ務まらないものらしい。主なボスの仕事が、外敵から群を守ることや、仲間内の争いごとの仲裁であることは言うまでもない。
 チンパンジーが一対一で喧嘩をすることはすくないらしい。普通は、それぞれが仲間をつくり複数で争うからだ。ボスのチンパンジーは、そんな争いを遠くからさりげなく眺めているが、収拾がつかなくなるようだと、仲裁にはいる。
 その判断と処理は的確で、強者と弱者の間にはいるときには、強者に顔と体を向け、背中で弱者をかばうという。ルール違反の加害者から被害者を守る場合も、加害者に顔と体を向け、被害者を背後におく。争いの当事者のどちらが悪いかを実によく見きわめており、裁定を誤ることは滅多にない。
 だが、「猿も木から落ちる」の諺通り、さしものボスもたまには判断ミスをおかす。そんなときには想わぬ事態が起こるらしい。多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーが、あるとき、被害者と加害者の識別を誤った。裁きに納得のいかない真の被害者のチンパンジーのほうは、手足を激しくバタつかせながら鳴きわめいて抗議し、周囲の仲間たちに裁きの不当性を訴えかけた。すると、多くのチンパンジーがそれに同調し、有力な雌たちが結束してジョーに批判的な態度をとったり、ジョーのことを無視したりしはじめた。
 すっかり自信を喪失したジョーは、ノイローゼ状態に陥って、毎日飼育場の片隅に座り込む事態となった。ピーンと天を突くべき象徴物もうなだれっぱなしの有り様とあって、雌たちからはますます馬鹿にされ、事実上ボス不在となった群は大混乱をきたしはじめた。
 獣医と相談し、人間の場合と同様に精神安定剤を投与しようかという話にもなったが、それなりの問題もあるのでもうすこし検討しようということになった。その時、吉原さんにあることがひらめいた。人間なら、ストレスがたまると一杯やって憂さ晴らしをする。チンパンジーが人間に似ているというなら、ちょっと晩酌をやらせてみたらどうだろうというわけだった。
 吉原さんはジョーを特別室に隔離すると、彼のために蜂蜜で割った特性のウィスキーを用意し、自らもグラスを手にしてどっかりと座り込んだ。かくして、多摩動物園の一隅で、人間とチンパンジー2人、いや1人と1猿の間で奇妙な酒宴が繰り広げられることになった。ベテランの飼育係と長年生活をともにしたチンパンジーは、普通に話す人間のことばを9割以上理解するという。むろん、飼育係のほうもチンパンジーの心が手にとるようによくわかる。吉原さんは、人間を相手にしたときとまったく同じ調子で話しかけた。もし事情を知らない者がその様子を見ていたら、思わず吹き出し呆れはてたに違いない。

 吉 原:ジョー、おまえも大変だよな、まあ、一杯やって元気だせよ!
 ジョー:オレナァ、モウ、ヤンナチャウヨ!、メスドモガ、ヨッテタカッテ、オレノコト、バカニスンダモンナァ……。
 吉 原:おまえの気持ちもわかるけどよぉ、元気になってまた番張ってもらわんと俺も困るんよ。おまえらの群がいまのまんま混乱し続けたらよぉ、俺だって首になってオマンマの食い上げになるかもしれんのよ……頼むよ、なぁ!
 ジョー:タツモンガタタント、モウドナイモナランヨ……ンデ、ホントニ、コレノムト、ビンビンニナルンカイ?
 吉 原:いまばやりのバイアグラじゃねえからよぉ、飲んだからってすぐナニができるわけじゃないけどさぁ、気分がよくなってぐっすり眠れはするぜ……。
 ジョー:フーン、オメーニモ、クローカケルヨナァ。ジャ、マァ、チョイトノンデミルカ、ドレドレ……。
 吉 原:そうそう、もっといっきにグーッといきな!
 ジョー:ウーン、コレ、ナカナカイケルワ……キブン、ヨウナッテキオッタシナァ!

 ジョーが実際にそうしゃべったわけではないけれど、彼らはこれに似た心の会話を交わしたらしい。何時間かこうしてジョーに話しかけながら晩酌を続けていると、ジョーは気持ちよさそうに寝込んでしまった。そこで、吉原さんは、それから2カ月ばかり続けて、ジョーの晩酌の相手を務めてみた。その効果はなんとも絶大で、すっかりストレスのなくなったジョーの心身、いや心チンはたちまち元通りの力強さを取り戻し、その御威光のおかげで、チンパンジーの群は再び統率を得たのであった。
 チンパンジーが精神的に落ち込んだとき対処療法として晩酌が効果的だという吉村さんのレポートは、ずいぶんと評判になり、テレビなどでも報道された。すると、それを聞いて共感した世のお父さんがたから、ジョーにウイスキーを贈りたいという申し出が折々舞い込んでくるようになった。
 そんなとき、吉原さんは、最近うちのジョーは口が肥えましてジョニクロやレミーマルタンしか飲みませんのでどうかよろしく、と応答してきたらしい。冗談ともしらず、一瞬ことばに詰まるお父さんも少なくなかったという。
 吉原さんのほうがストレスをためこんだとき、ジョーにSOSを求めたのかどうかは聞き漏らしたが、案外、ジョーのほうは、あいつを陰で励ましてやっているのは俺だと自負していたのかもしれない。実際、ジョーを失って、いまもっとも悲しんでいるのは、ほかならぬ吉原さんなのかもしれない。

「マセマティック放浪記」
1998年11月4日

母ジャーニーとの対話 

 あるとき、ジャーニーという母親チンパンジーの胸に抱えられた赤ちゃんの様子がおかしくなった。そのままでは命が危ないとうので、特別室に親子を移し治療をということになったのだが、ジャーニーは、ぐったりした赤ちゃんを強く抱きしめ離そうとしない。気長に説得するしかないと判断した飼育係の吉原さんは、近づくと毛を逆立て、恐ろしい形相で睨むジャーニーをやさしくなだめにかかった。
 そのままじゃ赤ちゃん死んじゃうよ、可哀そうだろう、治してあげるから渡してごらん……と懸命に語りかけるうちに、ようやくジャーニーは赤ちゃんを両手で差し出した。しかし、それを受け取ろうとすると、すぐに歯をむきだして攻撃的な表情をみせる。なんとかしてもらいたいのだが、どうしても手渡せないのだ。直接の手渡しは危険だと判断した吉原さんは、強い口調で、「ジャーニー、それなら赤ちゃんを床に置きなさい。そして、部屋の奥に行きなさい」と命令した。
 ジャーニーがようやく赤ちゃんを床におろし、奥のほうへとさがったので、吉原さんが赤ちゃんを抱き上げ扉のほうに近づこうとした。その瞬間、ジャーニーの黒い体が突進してきた。チンパンジーが本気になったら、人間の体を引き裂くことなどなんでもない。さすがの吉原さんも、もうだめだと観念したという。だが、ジャーニーがつかんだのは、檻の扉の格子だった。それは、部屋の外に出ず、自分の見ている前でなんとかしろという、ジャーニーの意志表示だったのだ。
 再び吉原さんの説得がはじまり、ようやく諦めのついたジャーニーは、肩を落として部屋の奥に戻った。そして、そこにあった麻袋を頭からすっぽりかぶって床にうずくまった。それは、とても見てはおれないという母親としての辛い気持ちのアピールだった。
 重い肺炎にかかった赤ちゃんは、獣医の手に渡ったときにはすでに死んでいた。吉原さんは言いようのない思いにかられながらジャーニーのところへと戻った。すぐに飛んできたジャーニーは、胸に赤ちゃんが抱かれていないのに気づくとギクリとしたように足をとめ、吉原さんの顔をじっと見つめた。
 吉原さんがゆっくりと首を振りながら、「ジャーニー、赤ちゃん死んでたよ。赤ちゃんはもう返せないんだ……」と語りかけると、ジャーニーはいきなり土下座し、床に額をこすりつけるようにして何度も頭をさげはじめた。それでも駄目だとわかると、今度は両手を重ねて前に差し出し、お辞儀をしながら赤ちゃんを返してほしいと哀願した。
 吉原さんは、ジャーニーの前にしゃがんで、何度も何度もジャーニーに事情をを説明した。吉原さんの目の奥を覗き込むよにしながら聞いていたジャーニーは、ようやく諦めたように部屋の奥へと歩きかけるものの、すぐに引き返してきてまた正座し、頭をさげるありさまだったらしい。最後はジャーニーもすべての事情を納得してくれ、死んだ子どもにナンシーという名前までつけてやったのだそうだが、それはもう、心と心の会話そのものであったという。
 
 あるとき、檻の中に忘れてきたタオルを拾ってくるようにチンパンジーに命じた。そのチンパンジーが差し出しかけたタオルを檻の格子の間から受け取ろうとすると、その瞬間相手はわざとタオルを足元に落とし、からかうような目つきで吉原さんの顔を見た。なめられてはいけないので、強い口調でもう一度やりなおしを命じると、格子のすぐ近くまでタオルを持ってきて、あとは自分で拾えといわんばかりにまたもや床に落とした。やむなく、しゃがんでそれを拾いあげようとしたが、引っ張っても動かない。なんと、そのチンパンジーが、馬鹿力を秘めた足の指でタオルの端をしっかりと押さえていたのだという。
 ゴリラやチンパンジーは、成長の過程で折々飼育係に力較べや知恵較べを挑んでくる。それを「試し」などと呼ぶらしいが、「試し」をしかけられた者は、時をおかずに自分のほうが上手だということを相手に誇示しなければならない。そうでないと、次から言うことをきかなくなるからだ。
 実際には相手のほうが腕力がまさるから、本気になって格闘したらとてもかなわない。だから、人間のほうが弱いと悟られないように、耳の付近を押さえて瞬間的にこらしめるのがこつらしい。たまたまチンパンジーを厳しく叱っているのを目撃したお客が、あの飼育係は動物を虐待していると管理当局へ抗議してくることもしばしばだという。
 吉原さんがパンジーとデージーというチンパンジー二頭を相手に決闘した話は面白い。デッキブラシを二本持ち込んで床の掃除をしていると、パンジーがその一本をつかみ上手に床をこすりはじめたが、そのうちブラシの長い柄のほうを吉原さんのほうに向けてじりじりと詰め寄ってきた。デージーのほうもパンジーを煽り立てながら、吉原さんの背後に回り襲いかかる気配を見せた。檻に入るときは二重扉を内側から施錠するので、助けを求めたくても、誰も中にははいれなかった。
 七歳のチンパンジーといえば猛獣に近い。それが二頭で本気になって襲いかかってきたら、人間はひとたまりもない。ただ、成長の過程でいずれこんな日がやってくるだろうと思っていた吉原さんは、挑戦を受けてたつしかないと腹をすえた。そこでひるんだら取り返しがつかなくなることは目に見えていた。学生時代剣道部の猛者だった吉原さんは、デッキブラシを正眼に構え、デージーを背後に回らせないように牽制しながら壁際まで後退した。その様子を見て勢いづいたパンジーが前に出ようとした瞬間、吉原さんは強烈な面の一撃を見舞い、返すブラシを力一杯横に払って連続業の胴をきめた。
 悲鳴をあげて逃げ出すパンジーを横目に、正眼に構えなおしたブラシをデージーのほうに向けると、こちらのほうはすっかり戦意喪失してパンジーの背後に隠れてしまった。それからというもの、二頭のチンパンジーは吉原さんにはまったく頭があがらなくなったという。
 若い頃ゴリラの飼育にあたっていた吉原さんには苦い経験がある。あるとき檻から出ようとすると、一頭のゴリラが悪ふざけでもするかのように扉の前に立ちはだかった。その場で叱ればよかったのだが、他のことに気をとられていた吉原さんは、そのゴリラが扉の前から立ち退くのを待って外に出た。
 動物園の檻の扉は二重になっていて、一つ目の扉を開け、内側から施錠したあと二つ目の扉の前に立つ。その際、檻の中にはいるべきかどうか心に迷いがあるときは、絶対に中にはいるなというのが鉄則であるという。翌日ゴリラ舎の第二扉の前に立った吉原さんは、中に入ればやられると直感した。それ以降、そのゴリラが死ぬまで、吉原さんは問題の檻の中にはいることはなかったという。
 それほど細心に注意を払っていてさえも、危険な目に遭うことは避けられない。チンパンジーに指を噛まれ重傷を負ったことや、怒ったチンパンジーに体当たりを食らい馬乗りになられて命を落としそうになったこともあるという。
 吉原さんの一連の話を聞いていると、「猿の惑星」というSFもまんざら絵空ごとではないという気がしてくるし、霊長類の飼育係は仕事に自信を失ってノイローゼになりやすいという話も、十分に納得できる思いがする。

「マセマティック放浪記」
1998年11月11日

猿だといってなめんなよ! 

 多摩動物公園の吉原さんのところには、動物学専攻の学生たちが飼育実習にやってくる。その理由は明らかではないが、そんな学生を一目見ただけで、チンパンジーには、こいつらは1週間もすればいなくなってしまうとわかるらしい。どいつもこいつもアホづらしてるけど、ちょっとの辛抱だから、まあ言う通りになってやるか――なんてわけで、実によくその命令をきくという。
 ところが、おなじ初顔でも、これから五年も十年もつきあわねばならない新人飼育係がやってくると、頑として言うことをきかない。先が長いっていうのに、オメーみたいな新米になめられてたまるもんかい――ということであるらしい。
 指話をおぼえたチンパンジーなどは、見慣れた相手には一定速度でサインを送るが、相手が新米の人間とみると、小馬鹿にしたようにゆっくりと指を動かしながらサインを出すという。オメーが相手じゃ、手加減してやんねぇとわかんねぇだろうからな!――とでも考えているのだろう。
 吉原さんが長年育ててきたベティという雌のチンパンジーがいる。ある日のこと、いつものようにベティと呼ぶとプイと横を向かれてしまった。そんな風にチンパンジーにそっぽを向かれるのは初めてだったので、呆気にとられてもう一度ベティと声をかけると、くるっと背中を向け、両手で頭を抱え込むポーズをとった。むろん、呼びかけ無視の意志表示である。想わぬ事態にしばし戸惑いを覚えたものの、そこはベテランの吉原さん、すかさず、「ベティさん」と「さん」づけで呼びかけてみた。すると、一瞬振り向いて吉原さんの顔をチラッと見たあと、また知らんぷりをきめこんだ。
 そこで、敬意を込め、何度も「さん」づけで話しかけるうちに、ようやく機嫌がなおったのだという。仲間たちのと関係もあって、成長するにつれチンパンジーにもプライドが芽生えてくるらしいのだ。そんな行動が人間のことばを解してのうえであることは言うまでもない。
 チンパンジー社会には「先取り特権」のルールがある。餌などを見つけた場合、第一発見者に先取権があり、物欲し顔の仲間たちに取り巻かれたりはするが、他の者がそれを力づくで奪い取ることはないという。餌などを仲間うちで分配し合うのもチンパンジーの特徴の一つであるらしい。「猿にも劣る」ということばがあるが、こんな話を聞いていると、「人間にも劣る猿にだけはなるなよ」と、彼らが互いに戒め合っている光景すら浮かんでくる。
 人間とは声帯の構造が異なるため、人語をしゃべらせるのは無理らしいが、記号を用いると200〜300もの単語を学ばせることができる。すると、彼らはそれらの記号を組み合わせて意志表示をするようになる。尻尾の長い通常の猿をじっと見ていたチンパンジーが、突然、「オマエ、キタナイ、サル」という、それまで誰も教えたことのない表現をして人間を驚かせたのは有名な話だが、この程度の造語能力は彼らには普通にそなわっているのだという。
 想像以上の知能をもつチンパンジーだが、彼らの身体能力もまた凄い。吉原さんは、チンパンジーは猛獣だと断言する。その握力は三百キロに近く、相手が本気で力を込めたら人間の指の骨などたちまち折れてしまう。腕力もたいへんなもので、八十キロもある鉄板を空中に放り上げ、すばやくその下をくぐり抜けるという芸当など朝飯前なのだという。脚力も凄じく、足で物を押さえたり引っ張ったりする力は三百五十キロにも達し、垂直飛びにいたっては、三・五メートルから四メートルにも及ぶのだそうだ。また、成獣の場合、体重は軽く八十キロを超えるから、全力で体当たりされたり、横に力いっぱいはたかれたりしたら、並みの人間は一発で致命傷を負い、ダウンしてしまうという。
 よく、三輪車や自転車に乗る芸達者なチンパンジーがいるが、ふだん遊んでいるときにそれらを与えても絶対に乗ることはないらしい。彼らにとって、それは苦行にも近いことのようで、放っておくと、その馬鹿力をもって三輪車や自転車をグニャグニャ、バラバラに分解してしまうという。

「マセマティック放浪記」
1998年11月18日

青房は緑、力士の足首は細い 

 先の場所の話であるが、大相撲の取り組みを国技館の土俵下、いわゆる「砂かぶり」で見物する機会を得た。しかも向正面と呼ばれ、NHKテレビに大きく映し出される席である。正式には維持員席と言い、本来は相撲協会や相撲部屋関係者しか立ち入れない場所なので、当然その席の切符は売られていない。たまたまツテがあってそんな上席に潜り込むことができた。
 お茶屋さんの案内で通されたのは行司だまりのまうしろあたりで、話に聞いていた通り土俵上や控え席の力士の顔や審判員の姿も手にとるようによく見えた。小さめの座布団1枚分のスペースしかなく、飲み食いも一切できないが、特等席なのは間違いない。
 正面席のほうを見上げると、なるほどテレビカメラがこちらのほうを狙っている。両手にVマークを出してはしゃげる歳でもないし、うっかりハナクソなんかをほじっているところをアップで全国中継されたりしたらたまったもんじゃないから、まずはおとなしく姿勢を正しての観戦とはなった。
 中入り直後に行われる幕内力士や横綱の土俵入りは、近くでじかに見ると、迫力もあり美しくもあった。土俵上にずらっと並ぶ力士たちの化粧回しは、デザイン、色彩、織り柄とも多種多様で郷土色に富んでおり、想像以上に素晴らしかった。向正面席のため、横綱の土俵入りはうしろ側から眺めることになりはしたものの、鍛えぬかれた筋肉を太い純白のまわしでグイと引き締めた勇姿には、ほれぼれとするばかりであった。三横綱のうちでは曙の土俵入りが最も迫力があった。もともと金剛力士像そっくりの顔と巨体の持ち主だから当然ではあるが、パカーン、パカーンと鋭く乾いた響きで場内にこだますその柏手の音は圧巻だった。
 相撲の取り組みも面白かったが、めったに座れない席に陣取ったせいか、妙なところばかりに目がいった。まず気になったのは、土俵の四隅を飾る青、赤、黒、白の四本の房の色だった。黒房はその通りの色だったが、赤房はいわゆるエンジ色、白房は純白ではなくすこしくすんだ光沢のある白だった。
 意外なのは青房で、実際は「青」ではなく鮮やかな「緑」なのである。「あお」という日本語はもともとブルーからグリーンまでの幅広い色調を表す言葉だから間違いではないのだが、一瞬戸惑いを覚えてしまった。もっとも「みどりぶさ」や「りょくぶさ」では語呂が悪いことこのうえない。
 土俵は意外なほどに小さく見えた。大型力士が2人も土俵上に上がると、もうそれだけで満杯な感じで、そんな状況のもとでよくあれだけの激しい動きができるものだと感心もした。粘土を固めて造った土俵は高さが大人の太もも付近まではあり、帰り際に手を触れてみるとその上面も側面も文字通りカチカチだった。並みの人間なら土俵上から転げ落ちただけで大けがすることだろう。
 控え力士はそれぞれに自分のしこ名の入った大きな座布団を付き人に運んでもらってそれに座る。取り組みが終わるとその座布団を運び出し、次の力士の座布団と入れ替える。館内の隅々までよく通ると言われる呼び出しの声は、すぐそばで耳を傾けると深く澄んではいるものの、むしろ細々とした感じに聞こえた。長年鍛えた独特の呼吸法によって腹の底から絞り出すように発せられるその声は、以前述べた寺垣式スピーカーのだす音や蝉の鳴き声などと同質のものなのだろう。
 物言いのつく一番があって、5人の審判員が土俵上で協議をはじめた。皆が白足袋に白い草履を重ねばきしている。面白いのは草履のほうで、大人が子どもの草履を爪先につっかけた感じで、足裏の半分ほどしかカバーされていない。問題の一番は結局行司差し違えとなったのだが、土俵を降りていくその行司の顔は相当にこわばっていた。差し違えはないほうがいいが、いっぽうで行司の権威とは何だろうという思いがしてこなくもなかった。どうせなら、土俵下の5人の審判員に紅白の旗を持たせ、柔道の試合のように勝負を判定させたらどうだろう。いささか滑稽で威厳がなくなることは避けられないが……。
 それぞれの懸賞のぼりが相当に凝った織り模様になっているのは意外だった。あらかじめ協会に登録したスポンサー企業しか懸賞のぼりを出せないシステムらしく、たとえ大金であっても、部外者がいきなり懸賞金を出すというわけにはいかないようだ。スポンサー企業は年間に何本懸賞を出さねばならない、といったような決まりなどもあるのだろうか。
 勝ち力士が懸賞金の入った祝儀袋を手にする様は、まるで小さなトランプのカードを1枚つまみあげたみたいな感じである。100万円くらい入った厚く大きな祝儀袋でないと並外れた力士の手にはマッチしないのかもしれない。
 力士の足首がその巨体に較べて驚くほどに細いのも印象に残った。曙や武蔵丸、琴の若といった巨漢力士でもその点は同じだった。一流の投手の手首が意外なまでに細いのと同じような理由からなのだろう。
 大番狂わせはなかったので座布団が飛ぶことはなかったが、もし枡席(ますせき)から土俵上まで座布団を飛ばすとすれば、その距離から考えて相当な技術がいる。だから、実際には土俵の四方を囲む数列ほどの維持員席あたりからも座布団が飛ぶのであろろうが、それも維持員の仕事の一つというわけなのだろうか。まあ、この日の私みたいに怪しげな維持員もいることだから、そんなことが起こったとしても、べつに不思議ではない。帰り際、お茶屋さんで大きな紙袋いっぱいのお土産を頂戴したが、それはインスタント維持員の私への一日分の報酬でもあったようだ。

「マセマティック放浪記」
1998年11月25日

ドナルド・キーン先生 

 先月、埼玉県草加市で催された、国文学者ドナルド・キーン先生の「奥の細道」についての講演会を拝聴した。私事になって恐縮だが、二年前、「佐分利谷の奇遇」という紀行作品で第二回奥の細道文学賞を頂戴したとき、尾形仂、大岡信の両先生らとともに同賞の選考委員を務めておられたのが、ほかならぬキーン先生である。
 もうずいぶんと昔のことになるが、「MEETING WITH JAPAN(日本との出会い)」という先生の著書を拝読し、日本文学にたいする先生の思い入れと造詣の深さに感銘したことがあるだけに、どのようなお話をなさるのか楽しみであった。
 旧日本海軍による真珠湾攻撃の直後、コロンビア大学の学生だった先生は、志願してカリフォルニアの米海軍日本語学校に入校、そこで猛烈な日本語の特訓をお受けになった。四・五カ月で全員が日本語の新聞を自由に読めるようになるほどに、きわめて厳しい実践的な日本語教育だったという。大戦が勃発するとすぐに、先々の戦局の展開や終戦後における日米間の諸問題の処理をにらんだ米国政府は、海軍にこの日本語学校を特設し、日本語と日本文化に通じた優秀な人材の育成にのりだしたのである。鬼畜米英を合言葉に、いっさいの英語の使用を禁止した日本とは大違いであった。
 この米海軍日本語学校からは、のちに日本文化の優れた研究者、紹介者として世界的に名を馳せる知日派の若者が数多く巣立っていった。キーン先生のほか、川端康成や三島由起夫の翻訳者として名高いエドワード・サイデンステッカー、ハーバード大教授で駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー、戦後まもなく様々な事情から歌舞伎をはじめとする各種伝統芸能の存続が危ぶまれたとき、文字通り力の限りを尽くしてそれらを死守したフォビオン・バウワーズなどは、皆この日本語学校の出身である。
 キスカ島、アッツ島などの激戦地で、米軍日本語通訳・翻訳官という特務につかれた先生の日本文化への関心は、その仕事を通して日々深まっていったらしい。終戦後、コロンビア、ハーバード、ケンブリッジの各大学で日本文学を専攻、一九五三年には京都大学に留学された。来日の時点ですでに、和歌の二条派と京極派の違いや、近松門左衛門がその浄瑠璃作品に導入した能の要素、松尾芭蕉の弟子十人の俳風の特徴や相違などについて論じることができたというからおそれいる。
 谷崎潤一郎、太宰治、三島由起夫らをはじめとする多くの日本近代作家たちとも深い交流のあったキーン先生は、毎年六ヶ月はコロンビア大学で教鞭をとり、残り六ヶ月は日本にあって、日本文学の研究に没頭するという生活を今日まで続けておられる。古典から現代文学に至るまで、そのお仕事は幅広く、しかも奥深い。大蔵流の家元に弟子入りして狂言を学び、「青い目の太郎冠者」の異名をものにされたことからも、日本の伝統文化にたいする先生の思い入れの深さが伺い知れる。昭和三十年には大好きな芭蕉を偲んで、実際に奥の細道の旅を試みもなさったというから、先生は、日本人以上に日本人的な方であると言うほかない。
 日本文化の素晴らしさは外国人にはわからないなどというのは、とんでもない誤解で、外国人だからこそその真価がわかることも多い。浮世絵の価値に気づいたのも、明治初期に排仏毀釈運動が起こったとき仏像の貴重さを見抜き、その保護を訴えたのもほかならぬ外国人たちだった。
 松尾芭蕉の「奥の細道」は、現在の四百字詰めの原稿用紙に換算するとわずか三十五枚ほどの作品でる。意外なほどに短いその作品の完成に、なぜ芭蕉は五年もの歳月をかけたのだろう。そのあたりの問題について、自他の新説や新解釈を交えながらキーン先生がなさった講演は実に興味深いものだった。講演内容をすべて記載することはできないが、以下にその一端を紹介させてもらおうと思う。

「マセマティック放浪記」
1998年12月2日

「奥の細道」にもフィクションが? 

 一般には、「奥の細道」という作品は、芭蕉がその旅の実体験をほぼそのまま述べ記した紀行であると信じられている。だが、芭蕉の随行者だった曽良の随行記、いわゆる「曽良日記」の発見や、最近話題になった芭蕉真筆本の出現、さらにはそれらの資料をもとにした専門家たちの厳密な研究と考証によって、近年、意外な新事実が次々に明らかになってきているという。
 さきに草加市で行われた講演で、ドナルド・キーン先生は、そのあたりのことについて興味深い話をしてくださった。学識豊かな先生のことゆえ、当然講演の内容は多岐にわたったが、「奥の細道にも実はフィクションの部分があった」というお話などは、私のような素人にとっては大変興味深いものだった。
 「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的価値が落ちるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」とあらかじめお断わりになったうえで、先生は具体的にいくつかのフィクション部分を指摘された。
 自らの作品を納得ゆくまで推考し、何度も手直しするというのは、芭蕉の常であったらしい。したがって、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないという。芭蕉は自然体のままでさらさらとあのような秀句を詠んだ、とばかり信じていた私などは、その話を聞いたあと、自分の無能さを棚にあげ、いささかほっとした気分になりもした。
 山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、

  閑さや岩にしみ入る蝉の声

は、完成に至るまでに少なくとも三回は手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったのだという。また、旅立ちに際し、見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、

  行く春や鳥啼き魚の目は泪

にいたっては、奥の細道の旅を終えたのちに作り加えられたものであるというから驚きだ。
 明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、
 
  あらたふと青葉若葉の日の光

という句だそうで、曽良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉一行の日光来訪時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝いてなどはいなかったらしい。
 また、「石の巻」の段には、

 山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町についたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった。

という主旨の記述がある。ところが、実際には、当時の要港、石の巻周辺の道路はそれなりに整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだというし、泊まった家もほんとうは地元商家の立派な邸宅だったのだそうだ。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、やむをえなかったこととはいえ、彼自身は資産家と縁を結ぶことを誇りとは思わなかったうえに、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描く陸奥の情景とは違ったものであったからではないかと考えられるという。
 荘厳に輝く中尊寺光堂に感動してで詠んだといわれる、
 
 五月雨の降りのこしてや光堂

の句だが、曽良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは何もみることができなかったようである。だから、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂を、芭蕉は想像力を駆使し、心の眼で透視し、その心象風景を歴史的な名句として詠みあげたことになる。ただもう見事というほかはない。
 芭蕉は現在の四百字詰め原稿用紙で三十五枚ほどの奥の細道を完成するのに五年もの歳月をかけたという。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体を、きわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうと、キーン先生は語っておられる。壮大な旅路での数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心のなかで一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、「奥の細道」という普遍性の高い作品へと結実したのだと、先生はおっしゃりたかったに違いない。実際、そうだからこそ、奥の細道は外国の人々にも愛読されるのであろう。
 市民参加型の文化行政を進めている草加市の「奥の細道・芭蕉講演会」は先日のキーン先生の講演で第十一回目を数えるにいたった。草加市奥の細道まちづくり市民推進委員会によって「百代の夢(はくたいのゆめ)」という講演録も刊行されており、そのなかには、尾形仂、大岡信、有馬朗人、佐藤和夫などの諸先生をはじめとする十名ほどの方々の講演のほか、以前のドナルド・キーン先生の講演なども収録されている。装丁も芭蕉の精神をほうふつとさせるような、華美を排したシンプルなデザインになっており、約三百ページの書籍にしてはきわめて格安で好感がもてる。
 なお、この本の末席に他に比べて格段に見劣りする場違いの講演が一つだけ含まれているので、その部分だけは迷わず無視なさったほうがよいだろう。その理由はご想像にお任せする。
 余談になるが、なるべく労なくして奥の細道の追体験をしたいという、無精で欲張りな方々のために、とっておきの情報を提供しておこう。国道四七号線を鳴子から新庄方面に向かって走ると「尿前の関」跡に出る。芭蕉一行が役人にその身分を厳しく問われ、足止めを食らったところでる。関跡を右手に見ながら通過し、しばらくのぼると谷を横切る大きな橋にさしかかる。車を降りてその橋のたもとから谷筋沿いに細道を辿ると、ほどなく清流のほとばしる深い沢にいる。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、初夏の頃だと、どこからともなく澄んだ小鳥の声が聞こえてくる。
 よほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えていった小深沢の六曲がりの古道にほかならない。当時のままの様相を留めているのは旧道のごくわずかな部分にすぎないが、行く手をさえぎる木立ちの枝々の下を左右にくねり縫う急傾斜の細道は、元禄時代の中山越え(奥羽山脈越え)の苦労と、当時の旅の雰囲気のほどを十分に偲ばせてくれる。二・三年ほど前、私も実際に歩いてみたが、芭蕉や曽良の話し声や足音がいまにも聞こえてきそうで、なんとも感慨深かった。往復で三・四十分程度しかかからないから、芭蕉通を自称する方々は一度訪ねてみるとよいだろう。
 芭蕉一行はこの山道をのぼりつめたあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく出羽国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。そのときに詠まれのが、

  蚤虱馬の尿する枕もと

という有名な一句である。キーン先生は、先の講演のなかで、この句は芭蕉の旅の精神の真髄を象徴するものだと賞賛しておられた。
  天候の回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉たちは道なき道を分け進みながら山刀伐峠を越え、尾花沢の集落へと抜けていったのである。

「マセマティック放浪記」
1998年12月9日「二十数年ぶりの帰郷」〜1999年4月21日「さらば甑島、また逢う日まで」の紀行エッセーはこの南勢出版のホームページで「甑島再見紀行」として発売中です。

「マセマティック放浪記」
1999年4月28日、5月5日

黒鯛釣り紀行
続・黒鯛釣り紀行  

     黒鯛は信濃に棲む?

 友人の米沢慧さんから、三河湾を抱える渥美半島突端の伊良湖岬沖に黒鯛釣りに行かないかと誘われる。米沢さんは、私が中年暴走族に仕立ててしまった評論家。老年暴走族に近いんじゃないかという口さがない連中もあったりする。米沢さんの大学時代からの親友で、私とも付き合いの長いジャーナリストの玉木明さんも同行するとのこと。この三人が一緒に出かけたら、ろくなことにならないことは目に見えている。
 今回の鯛釣り旅行は、私のマニュアル・ワンボックスカーではなく米沢さんのオートマ乗用車で出かけることになった。四月二十一日水曜の午前七時にJR阿佐ヶ谷駅南口で待ち合わせ、直ちに出発。コース取りはいっさい私に任せるということになる。
 練馬インターから関越自動車道に入り、群馬方面に向かって北上開始。藤岡で上信越自動車道に分岐し長野県北部を目指す。「山国信濃に黒鯛が棲んでるわけないだろ、おまえらアホとちゃうか?」」と笑われたら、「はいアホでんわな!――まあ、なるようになりまっしゃろ」と素直に自分らのいい加減さを認めるのみ。一切の責任はこの私に。出発時どんよりと曇っていた空は北に向かうにつれて徐々に晴れ上がり、やがて快晴に。行き当たりばったりの我々に協力的なお天道様も、かなり気まぐれな方ではあらしゃりまする。
 野原や山肌を覆うやわらかな緑と、その中に点在する白い山桜のコントラストが実に素晴らしい。この季節ならではの美しさだ。緑と一口に言っても、何十種類もの緑がある。色調と彩度の異なる多様な緑の織りなす風景に三人ともひたすら感動。晩春から初夏にかけてのこの美しさに無感動な人が最近増えているとも聞くが、もったいない限り。どんな緑も同じ緑色にしか見えない色彩オンチのせいらしいのだが、なんともはや……。
 怪異な岩峰の連なる天下の奇勝、妙義山が車窓左手に大きく迫る。かつて画家の須田剋太が、画境を極めるために単身この山深くに籠ったことはよく知られている。何年か前、若狭の農民画家渡辺淳さんを案内して、私もこの妙義山の岩峰周辺をうろつきまわった。妙義山から目を転じ前方を仰ぎやると、残雪を戴いた浅間山が雄大な姿を見せてはじめた。
 長いトンネルの連続する山間部を抜け信州佐久平に入ると、風景は初春のそれに変貌した。「春まだ浅き信濃路の…」と歌の文句にもある風景だ。むろん、年配の方なら、島崎藤村の詩の一節「緑なすハコベは萌えず 若草も藉(し)くによしなし」を想い出すことだろう。車の進行につれて、左手に千曲川の流れが深々と刻んだ断崖と、その上部に広がる台地が見えてくる。小諸から北御牧村にかけての台地で、作家の水上勉先生在住の勘六庵のある下八重原もその一角に位置している。そういえば、最近、北御牧村でも新たなオウム騒動が起きてもいるようだ。

     美しい山村風景

 更埴で長野自動車道に入り麻績村(おみむら)方面へ向かう。伝説の姨捨山が前方に大きく姿を現す。姨捨山は冠着山とも呼ばれている。「なんで爺捨山がないのか、これは男女差別の証ではないか!」と世の賢女方から詰問されても私には返答のしようがない。日本のどこかには爺捨山もあるのだろうか。もしそんな山があるようなら、二・三十年後には我々三人もそのお山の厄介になるやもしれない。
 姨捨山トンネルを抜けてすぐの麻績インターで高速道から一般道におりる。この麻績インターからすぐの坂井村保養所冠着荘は、美人の湯と呼ばれるよい泉質の温泉の湧く宿泊施設だ。この一帯に実際美人が多いかどうかは未確認。近くの田圃にはヒメボタルが多数生息しており、六月末から七月中旬にかけてのホタルの乱舞は見ごたえがある。聖高原駅前を過ぎて聖湖まで急な山道をのぼり、そこから聖高原へ。聖高原一帯の樹林はまだ冬の眠りから目覚めていない。
 聖高原を越え、大岡村へ向かってしばらく下るといっきに展望が開けてくる。この地点からの北アルプス連峰の大パノラマは絶佳の一語に尽きる。地元以外の人にはほとんど知られていないが、お薦めの北アルプスビューポイント。大岡村は私が大好きな山村の一つで、早春から初夏にかけての自然の景観は抜群。折しも桜の花が満開だった。左手に北アルプス連峰を望みながら、大岡村のなかほどを横切るかたちで信州新町へと下る。
 犀川を渡り、信州新町から小川村方面への山路に入る。このあたりも典型的な山村で、絵に描いたような昔ながらの山村風景が続く。峠道からの北アルプスの眺望はやはり素晴らしい。このドライブコースにすっかり感動した同行の二人からは、同時に、よくもまあ、こんなルートを知っているものだと呆れられる。鯛釣りのことなど、遠の昔に忘れてしまったような様子。伊良湖岬沖では黒鯛がケラケラ笑っていることだろう。
 小川村から鬼無里村に抜ける山路の両側に広がる風景はさらに感動的。「美しい日本の山村」のお手本として、NHKテレビの朝の番組かなんかで紹介されてもおかしくない。日本昔話の世界にタイムスリップしたみたいだなどと話しながらどんどん道を登っていくと、小川村の売り物である北アルプス展望台に出た。槍、穂高方面から常念、鹿島槍、五竜、唐松、さらには白馬鑓、白馬にいたる北アルプス主峰が、眩いばかりの白く輝きを見せて我々の視界いっぱいに迫ってきた。
 観光ガイドブックなどにはほとんど紹介されていないが、ここは北アルプスの撮影スポットとして写真家の間では昔から知られてきた場所だ。ドライブの好きな人はぜひ一度訪ねてみるとよい。私が初めて訪れた頃は一帯はまだ自然のままになっていて、いまのように立派な展望所は設けられていなかった。道路も細いダートだった。
 かなりの標高のある小川村の北アルプス展望所から鬼無里村に下る。眼前に聳える岩だらけの険しい山は戸隠山、その右後方に見えるのは黒姫山。鬼無里からは左にルートをとり白馬村へと向かう。水芭蕉で有名な奥裾花峡入り口を過ぎ、峠のトンネルを抜けると、まだ一面雪に覆われた五竜、唐松、白馬鑓、白馬岳がすぐ目の前に大きく浮かび上がった。   昔は何度も登った山々だが、残雪の多いこの時期にもう一度登れといわれたらちょっと考えてしまう。
 白馬から青木湖畔、大町、松川村と走り、穂高町の手前から安曇野の西端を縫う山麓線に入る。この道沿いには様々な美術館や工芸館などがあり、景観も風情も抜群。碌山美術館で知られる穂高町には、私の知人で風景カメラマンの上條光水さんが経営する蕎麦屋などもある。このお店の蕎麦は絶品中の絶品だが、遅めの昼食をすませたばかりだったので今回は通過。
 現在私がその一代記を執筆中の石田達夫という八十余歳の怪老人宅の近くに差しかかるも、立ち寄らず先を急ぐ。以前、穴吹史士キャスターをこの謎の怪人物に引き合わせたことがある。波乱万丈かつ奇想天外なその人生模様については、乞う御期待とでもいったところ。脱稿前にもしかしたら天国へ……なんて軽口を叩いても、十三日の金曜日をこよなく愛するこのドラキュラ老人は平然としたものである。
 これも最高の蕎麦を食べさせてくれる大梅蕎麦の前を通過。この店は午前十一時に開店し午後三時には閉店という殿様商法を貫いている。「大梅」という店名は「おお、ウメー」をもじったものとか……確かに蕎麦の味は「ウメー」と思わず呟きたくなるくらいに美味しいのだ。この蕎麦屋の調理場は窓が大きくとってあり見晴らしがいいのだが、反対側の客室のほうはまったく外の景色が見えない。この店の主人いわく、「お客は一時間もすれば帰ってしまうが、店で働く我々のほうは、何時間も何日もそして何年も同じ場所で仕事をしなくちゃならない。調理場のほうの見晴らしをよくするのはあたりまえだ 」とのこと。どこまで本音かはわからないが、なかなかの蕎麦哲学なのだ。

     信濃から飛騨へ

 やわらかな緑に包まれはじめた山麓線伝いに堀金村、梓川村、安曇村と走り抜け、奈川渡ダム、沢渡、上高地入口、そして、昨年開通した安房トンネルをくぐって岐阜県側の上宝村平湯に出る。急峻でカーブの多い安房峠を越えていた頃は、道が混雑していなくても上高地入口から平湯まで一時間ほどはかかったが、新トンネル経由だとたった五分。雨期や積雪期に通行止めになることもなくなったが、風景のほうは峠越えの道に較べてなんとも味気ない。
 新平湯、栃尾温泉を経て蒲田川沿いの道を新穂高温泉に向かって走る。右手に焼岳、左手に笠ケ岳、そして前方に穂高連峰と、いずれの山々も全身に白銀の衣をまとって高く鋭く聳え立つ。槍ケ岳だけはちょうど雲に隠れていて見えないが、いつ見てもここからの眺めは絶景というほかない。雄大な景観を楽しみながら中尾温泉経由のルートで新穂高ロープーウエイの駅のところまで行ったあと、槍見橋付近まで引き返し、近くの駐車場に車を置いて橋の下の露天風呂に飛び込む。飛騨地方にやってくるたびに、私はこの露天風呂のお世話になっている。
 きれいな単純線で湯加減も長湯にぴったり、しかも、自然の大岩に囲まれた広い湯舟の底は小さな玉砂利で出来ているから気持ちのよいことこの上ない。お湯は有り余るほど湧き出ていて、溢れた分はすぐ脇の蒲田川の清流に小滝をなしてどんどん流れ落ちている。周辺の眺めもいうことない。温泉宿に付属したエセ露天風呂ならわんさとあるが、自然美に恵まれ、湯量も豊富で、しかも誰でも無料ではいれる本物の露天風呂は、当世めっきり少なくなった。
 さらに素晴らしいことに、この露天風呂は混浴だ。この時は、我々三人のほかには相当年齢の離れた一組の男女だけ。そのカップルはなんとも仲がよく、我々はアテられっぱなし。「どうだ、オメーら羨ましいだろうが」という中年男の得意げな心の呟きが聞こえてきそう。「よーしゃっ、そんじゃ、こっちも頑張るか……」と闘志だけは湧いてきても、この場でいますぐに対抗できるものでもない。
 癪(しゃく)だからいう訳ではないけれど、そのカップルの女性のほうが四、五十代で男が十代か二十代の若者だったらもっと絵になったろう。逆のケースはこの時代ありふれている。ただ、何事も男女平等が叫ばれる時代だから、そう遠くないうちに事態は逆転するかもしれない。つい最近、浮気は仕事の活力源だとのたもうた検察畑のお偉いさんなんども、たまにはお忍びでこんなところに来てたのだろうかと、よけいなことまで考えた。
 「不倫」という言葉は「人の道にはずれる」という意味らしいが、老いも若きも、お偉いさんも一般庶民も、男も女も自ら進んで婚外交際を楽しむことが普通になったこの時代、その行為を表すのに「不倫」などという旧態然とした表現を用いること自体問題なのかもしれない。攻めるも守るもフリンフリンになったいま、そろそろ「不倫」という言葉を「従倫」、すなわち、「人の道に従う」とかいったような意味合いの表現に改めたらどうだろう。
 むろん、その場合、「不倫」の二文字は、きわめて厳格で品行方正なごく一部の人々のみに冠せられることになる。そうすれば、詰まらぬ騒動なども少しはなくなるのではないか……いや、やっぱりなくならないだろな、私を含めた愚かなこの国の民衆の精神レベルでは……。
 そんな取り留めもないことを考えながら一時間近くも露天風呂につかっていると、さすがに全身がぐったりしてきた。すっかり日も暮れてきたことだし、そろそろ宿に入るかということになる。体を拭いて車に戻った我々は、露天風呂のある場所からそう遠くない栃尾荘という民宿に飛び込んだ。中年男どもの一日の行程としてば、放浪というより暴走に近い、いや、暴走そのものだ。軟弱化が叫ばれる当世のひ弱な若者連中には、こんな真似をする輩などそうそうはいないだろう。
 出された山菜料理を平らげたあと、せめて宿泊料金の元だけはとらねばと貧乏人根性を丸出しにした我々は、先刻の長風呂でぐったりした体に鞭打って、また性懲りもなく宿の露天風呂に長々と浸り、疲れを癒した……んじゃなくて、疲れを溜め込んだ。
 さすがに皆とろーんとしてきたので、ニュースステーションをちょっと見ただけですぐに寝入ったが、朝までぐっすり眠ったかというとそうでもない。ちゃんと、深夜三時には目を覚まし、日本のアンダー・ツゥエンティ・サッカーチームがウルグァイを二対一で撃破するのを見届けた。試合が終わったのが午前五時近く……翌日は七時起床、本番の黒鯛釣りはまだまだこれから……いったいこれからどうなるんだろうと呆れ果てながら、あらためて眠りに就く。

 東洋のキリマンジャロ、木曽の御嶽山

 翌朝は七時に起床、宿の露天風呂に飛び込んで眠気を覚ます。頭上に広がる青い空、今日も晴天。朝食をすませると直ちに出発。中部地方を半ば縦断するかたちで南下し、夕刻までには豊橋市の加藤幸正宅に着かねばならない。加藤さんは米沢さんの長男のお嫁さんの父君で、我々三人を黒鯛釣りに招待してくださった御当人。栃尾温泉近くの酒屋で、民宿の主人推奨の地酒「神代」をお土産に購入。
 栃尾から新平湯を抜けいったん平湯に戻り、丹生川沿いに高山方面へ下る。白銀を戴き陽光にきらめく乗鞍連峰の大きな山容は圧巻。あちこちに咲く白いコブシの花も見事。乗鞍スカイライン入口を過ぎしばらく行くと、円空仏の収められた祠のある日面地区にさしかかる。ここの明郷とかいう蕎麦屋の蕎麦は美味かったなあと思いながら通過。文学談議の好きなあの女将は健在だろうか。
 そこからしばらく下ると、高山方面に向かって右手に大きな飛騨の古民家を改装したお店が現れた。小八賀園である。このお店には、昨年秋、ある雑誌から依頼された飛騨紀行の取材の途中でふらっと立ち寄ったが、落ち着いたお店の雰囲気、出された焼き肉定食の飛騨牛のうまさと通常の二倍はあるその量、その他の新鮮な素材の素晴らしさとこまやかな心尽くし、そして何よりもその値段の安さに感激した。店主の林崎藤治郎さん御夫妻もとても素敵な方々だった。今回は先を急ぐのでここも通過。
 高山に入る少し手前で左に折れて市街を迂回、国道四七号に出たあと久々野町まで南下、そこから飛騨川沿いに朝日村方面へ向かう。万石の集落を過ぎたあたりから、前方に雪冠を戴き高々と聳える御岳山の姿が見えはじめる。朝日村、高根村、開田村一帯から眺める御嶽山は実に美しく、「東洋のキリマンジャロ」と呼ぶにふさわしい。
 ただ、一言断っておくと、私はキリマンジャロの勇姿を写真や映画の画像でしか見たことがないので、ほんとうにその名がふさわしいかどうかには責任がもてない。どなたかぜひ確認のほどを……。普通、御嶽山というと木曽路を連想するのだが、地形の関係で木曽路方面からは御嶽山の全貌を眺めることはできない。御嶽山ファンはぜひ朝日村、高根村、開田村へ。
 秋神ダム、権現トンネルを抜けて高根ダム、そして野麦峠へ続く道との分岐点へ。野麦峠越えの道は積雪のためまだ閉鎖中。女工哀史にもあるように、高山方面から諏訪、岡谷一帯の紡績工場へ向かう十代の若い娘たちは、かつてこの道をたどり、標高一六七二メートルの野麦峠を越えて木曽路の藪原や奈良井に入った。そしてそこからさらに、千五百メートルの権兵衛峠を越えて伊那谷に入り、伊那から谷伝いに岡谷方面へと向かったと伝えられている。
 長峰峠を越え高根村から開田村へ。開田村一帯は、馬高は低いが足が太く馬体のがっしりした木曽馬の産地として知られたところだが、いまでは純粋種はもうほとんど残っていないという。当時テレビ出演したとかいう純粋種の木曽馬を十数年前にこの近くで見たことはあるが、その後の情況はわからない。国道三六一号の木曽街道から分かれて御岳山麓の開田高原を縫う県道開田三岳福島線に入る。朝日村の万石あたりからは前方に大きく聳え立って見えた御岳山が、右手車窓のすぐそばに迫る。高度が上がったせいもあって、周辺の木立はまだ冬の眠りの中。その分、見通しはきく。車窓左手には木曽駒ケ岳を中心とする中央アルプスの美しい峰々が見えてくる。むろん、中腹から上はまだ雪に覆われている。
 米沢さんに運転を代わってもらうため道路脇に車を寄せ、何気なく時間を見ようとしたがどこにも腕時計が見当たらない。トランクの中のバックやナップサックを隅々まで探してみたがやはり見つからない。宿を出るとき忘れ物はないかとあれほど確認したのに、肝心の時計を忘れてくるなんて、どうやら我が身にもボケがまわってきたらしい。知人のシチズン中央技術研究所長からプレゼントされた特製試作品のエコ・ドライブ型腕時計だが、いまさら栃尾温泉まで引き返すわけにもいかないので、どこかで宿に電話し、見つかったら自宅に送ってもらおうと思う。
 ところがその時、何かに思い当たったような感じの米沢さんが、「これもしかしたら本田さんの……?」と言いながら腕時計をはずして差し出すではないか。そういえば、テーブルの上にあった米沢さんの時計と私の時計とは形や色がかなり似ていたなあと思いながら、その時計に見入ると何となく自分の物であるような、そうでないような……。その次の瞬間、時計の裏蓋をじっと見つめた米沢さんが、「あっ、これ、オレのじゃないや!」とストンキョウな声を上げる。米沢さんが自分の左腕を確認すると、なんとそこにはもう一個の腕時計が……。米沢さんは宿を出る前にうっかりして二個の腕時計を左手にはめたものらしい。米沢さんのスーパーボケ技に感謝、そしてまた感謝!

     南木曽から馬籠宿へ

 木曽福島と上松の中間にある元橋で国道十九号に合流し同国道を南下。高度が下がったせいで再び若緑の輝きが美しくなる。上松町、大桑村を経て南木曽町に入り、妻籠方面に分岐して妻籠宿脇を通過、緑の眩い馬籠峠を越えて島崎藤村の生誕地馬籠宿に向かう。青春時代馬籠から妻籠まで歩いたときには急峻な隘路しかなかったが、いまではバスも通れそうな立派な車道が通じている。さびれた感じの峠の茶屋前を通過しながら、車で通過する人がほとんどのいまはお客も激減したことだろうと想像する。
 馬籠宿が近づくにつれ、前方に恵那山が大きな姿を現した。馬籠宿は石畳と階段の続く急坂の古道を両側からはさむ形で発達した集落からなっている。米沢さんも玉木さんも馬籠は初めてだというので、坂上側の集落入口で二人をおろし、私だけが車を運転して坂下側の駐車場にまわる。両側にこの地方特有の造りの老舗の立ち並ぶ急傾斜の路をのぼり、集落中央付近の島崎藤村記念館前で米沢、玉木両氏と合流。
 藤村記念館は、藤村が生まれ育った馬籠の本陣跡に建てられている。本陣とは旅の途中の大名や貴人たちが逗留した宿場町の主家の屋敷で、各種文化情報や文物の集まる場所でもあった。藤村が文豪として大成していった背景には、幼児期木曽の豊かな自然の中で育ったということのほかに、当時としてはきわめて恵まれた文化的経済的基盤があったものと思われる。海外留学時の資料や諸々の作品の原稿や草稿など、その途方もない足跡には圧倒されるばかり。漱石や鴎外もそうだが、真のエリートとして国を背負い、強い義務感を抱きながら欧州に学び、帰朝して後輩の育成と文学界の発展に心身のすべてを捧げた明治の大文豪の気迫が時を超えて伝わってくる感じ。
 藤村が愛したという東北学院時代の教え子佐藤輔子の写真と日記も展示されていたが、その知性美、達筆このうえない毛筆文字、簡潔ながらも的確かつ切れ味鋭い文体などは、さすが藤村が見初めた才女だけのことはある。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」と詠んだ相手のおゆうさんは、すでに妻籠の脇本陣の大黒屋にすでに嫁いでいたはずで、この頃にはもう藤村にとって遠い去の人となっていたのだろうか……まあ、そんなことは、よけいなことか。
 面白かったのが、藤村の父、島崎正樹が若い頃の息子春樹、すなわち藤村に与えた戒めの一文。全体的には「盛り場や遊興の地への逗留を避け、山師や糸師、賭博師といった、一獲千金を夢見る詐欺師まがいの連中との交際を慎むように」といった内容の文書だが、その中に、「嫡子が生まれない場合をのぞき妾女は持たないように」との訓戒が記されている。ところが、そのすぐあとに、「ただし、このことはなかなか難しい問題なので、大体のところを記しておいた」という主旨の意味ありげな補足文がついているのだ。書いたあとで己のことを振り返り、ついつい付け足したのであろうが、人間島崎正樹の心の内が偲ばれ、にやりとさせられる。
 展示館の一角には藤村が原稿執筆に使った机や座布団、火鉢などをはじめとする調度類を当時のままに配した部屋があったが、実に簡素なものだった。昔風の木机に背筋を伸ばして正座し原稿の筆を執った、在りし日の藤村の様子が偲ばれる。「そうだよなぁー、こうやって姿勢を正して真摯な気持ちで筆を執るんでなきゃ、良いものなんか絶対に書けないよなぁー」という米沢さんの感嘆とも溜め息ともつかない言葉が印象的。少なくとも我々三人はその時点でもの書きとして既に失格。
 それにしても、ワープロやパソコンで原稿を書くのが当然のことになってしまった現代の作家たちは、先々、原稿を書くのに使ったワープロやパソコン、プリンター、フロッピーなどを自らの文学資料として残すのであろうか。これは作家の誰々先生のお使いになったパソコンとプリンター、それにフロッピーディスクです……なんてことになったら、誰も文学記念館などには行く気がしなくなるに違いない。現代作家の文学記念館のようなものが後世成り立つかどうかは疑問である。将来自分の記念館が建てられることを願う現代の大先生方は、ワープロなどには頼らず、せいぜい手書きの原稿でも残すように心がけておくがよかろう。中身はたいしたことなくても、手稿が残っているというだけで高く評価されることは……まあ、たぶんないだろうな。

     木曽から三河地方へ

 藤村記念館を出たあと、近くの蕎麦屋で昼食。なかなか美味しい蕎麦だった。信州名物の野沢菜入りお焼きを頬張りながら坂を下って駐車場へ。馬籠からいったん中津川市に出たあと、岩村方面へと続く道に入る。奥三河の山中を縫って豊川、豊橋方面へと南下しようという魂胆。またまた深い山岳地帯に分け入るも、樹々の緑の輝きは一段と艶やかさをます。一帯はすでに初夏の気配。岩村、上矢作、稲武、設楽、新城と、それぞれに趣のある村々や町々をつなぐ深い谷筋伝いの道をひたすら南へ。関東方面からの旅人で奥三河の山中を訪ねる人は少ないが、四月中旬から下旬にかけてのこの一帯の自然の美しさは推奨に値する。今回は立ち寄らなかったが、東方に南アルプス連峰を、さらに南方から西方にかけて奥三河の山並みを望む茶臼山周辺の景観はとくに素晴らしい。
 新城から豊川を経て豊橋市の加藤幸正宅へ午後六時前に到着。加藤御夫妻に温かく迎えられる。明朝は三時起きなので、加藤宅に着いてすぐに釣りに出かける準備をすませる。心配なのは天候。我々の破天荒な事前行動に呆れ果てたお天道様がとうとうヘソを曲げたのか、見上げる空はなんとも怪しい雲行きに。天気予報でも、低気圧が近づいており、明日は海は荒れ模様とのこと。今朝だったら最高の条件だったのになあ、と加藤さん。その時刻、我々は岐阜の山奥、新穂高温泉峡の民宿の布団の中で黒鯛の釣れる夢を見ていたのだから仕方がない。
 伊良湖沖の海中に黒鯛の祈祷者がいて、念力でお天道様と掛け合い低気圧を呼び寄せたのだろうか。釣るというよりは、相手が釣れてくれるのを待つといった程度の腕前の御一行様ともいえないことはないのに、なんとも御苦労様なことだ。
 風呂にいれてもらい一段落したあと、奥様の手になる豪華な料理に舌鼓を打つ。地元で獲れた生きのよい魚の刺し身も美味かった。刺し身皿に次々と箸を伸ばしながら、黒鯛を釣る前にこれでは順序が逆じゃないかとも思ったが、美味しいものの誘惑には勝てるわけもない。食後は、加藤さんと米沢さんの初孫、滴(しずく)ちゃんの近況などを交えた話に花が咲く。リビングルームの飾り棚には滴ちゃんが誕生してほどなく、加藤さんが釣り上げ、東京練馬の米沢宅にお祝いとしてそのまま送られたという一メートルに近いお化け真鯛の写真もあった。
 ヤマハで音楽インストラクターをやっていた加藤さんの上のお嬢さんが米沢さんの長男のお嫁さん。加藤さの次女、加藤訓子(かとうくにこ)さんは、桐朋音大を卒業後、パーカッション(打楽器)の有名な若手演奏者として世界を股にかけ活躍中。現在はロンドンに在住、ヨーロッパを中心に音楽研究と公演とに多忙とのこと。過日、東京お茶の水のカザルスホールでのコンサートを拝聴したが、音のでるものなら何でも、たとえば自らの身体さえも見事な楽器に変えてしまうその迫力と独創性に驚嘆したことがある。
 天候は荒れ模様になり、明日は百パーセント雨天とのことだが、案内してくれる漁師はともかく出船してみよう言っているとのこと。午前三時起床なので、ともかく寝ようということになり、午後十時過ぎに就寝。

   黒鯛はセイゴとコチに化けた!

 翌朝は午前三時ぴったりに起床。直ちに加藤さんの車に乗り込み、小雨の中を四十キロほど離れた伊良湖岬へ向かって出発。伊良湖岬に着く頃には風も強まる。黒鯛釣りのポイントは伊良湖岬をまわって外海に出た遠州灘の沖。秋には真鯛の釣れる場所だが、この季節はそこが黒鯛の釣り場になる。
 米沢さんと私とは過去何度か伊良湖沖の真鯛釣りや黒鯛釣りに招待されたことがある。伊良湖の鯛釣りは独特で、ウタセエビ、アカセエビといった三河湾、伊勢湾周辺で獲れる生きた小海老を餌にする。針先に掛けて海中に投じても海老が生きたままでいるようにするのがコツだが、これが結構難しい。釣り方は胴釣りで、錘をいったん海底に着床させたあと、二〜三メートル引き上げた状態で当たりを待つ。文字通り「海老で鯛を釣る」わけだ。ときには鯛のかわりに大きなハマチが釣れたりもする。以前の真鯛釣りの際には、私の竿にも六十センチほどのハマチが掛かった。
 伊良湖岬に着くとすぐ長靴をはきカッパを着て迎えの船の到着を待つ。見おぼえのある船頭さんの操る小型漁船が着岸すると直ちに乗船。今日は外海の遠州灘は風浪が激しく黒鯛釣りは無理との船頭の言葉に従い、急遽釣り場と釣りの対象魚を変更。三河湾と伊勢湾を隔てる知多半島突端の沖合にある日間賀島周辺に向かう。「テメーがその気なら誰が釣ってやるもんか」と黒鯛に悔しまぎれの捨てぜりふを吐いて、狙いを出世魚のスズキのこどもセイゴに変更。新鮮なセイゴの刺し身は美味い、黒鯛よりも美味い!……と自らに言い聞かせる。
 乗船して三十分ほどで日間賀島沖に到着。内海のため風浪はそう激しくないが、それでも結構船は揺れる。島育ちの私は船酔いには無縁だが、雨風はないほうがよいにきまっている。三時間ほど釣り続けたが釣果はまるでかんばしくない。船頭共々五人がかりでセイゴとコチ合わせてわずか四、五尾。私の隣で釣っている腕のいい船頭さんも小ぶりのセイゴ一尾を釣っただけ。
 この日一番の大物を釣り上げたのは初めて参加の玉木明さん。五十センチほどはある大型のセイゴを一尾釣り上げた。「よかったね!」と声を掛けると、ご当人は、釣ったというより相手が勝手に掛かってくれた感じだと、なんとも憮然とした表情。
 しかし、玉木さん以上に途方もない大物を引っ掛け糸を切ってしまったのはこの私。なにしろ地球を二尾も釣りそこねたのだから大変なものである。私が座った位置の海底はたまたま根掛かりしやすいところだったらしく、何度も根に引っ掛かり、二度も糸先が切れてしまった。
 そうこうするうちに風雨がいちだんと激しさを増し、海面も大きく波立ちはじめた。もうこれ以上は無理だということになり、伊良湖岬へと引き返すことになる。シャワーのような雨に加えて、何度も潮水を頭からかぶりながら伊良湖岬着。黒鯛釣り騒動は「泰山鳴動して鼠一匹」の諺そのままの結果に終わる。気の毒がった船頭さんは、自分が前日釣って船倉に生かしてあったセイゴやコチを我々が釣ったものに合わせてプレゼントしてくれた。総数で十五尾ほど。
 加藤宅に戻ったあとは、睡眠不足を補うべくもっぱら昼寝。それにしても豊橋まで昼寝に来るなんて考えてもみなかった。結局この日は加藤宅にもう一泊。翌日午前中に豊橋を発って東名高速道経由で東京に戻る。豊橋から東京まで大雨に降られっぱなし。家に戻ったあと、お土産にともらって持ち帰ったセイゴとコチをさばき、刺し身にして食す。美味かった……黒鯛の何倍も何十倍も!……だけど、喉元のどこかに釣り針の形に似た「?」マークが引っ掛かったような感じがしてならなかった。

「マセマティック放浪記」
1999年5月12日

ある沖縄の想い出(1)
那覇到着直後の椿事

 沖縄でサミット会議が開催されることになった。プラス要因とマイナス要因の複雑に交錯する問題だから、万事が万事喜ばしいとはいえないかもしれないが、大局的にみれば沖縄にとって有意義なことには違いない。「万歳」という言葉の裏に秘められた歴史的な背景を遠い過去のものとして消し去るがごとく、サミット開催決定の知らせに「バンザイ」を三唱する地元誘致関係者の姿が、私にはとても印象的だった。
 すでにマスコミ報道などでも指摘されていることだが、警備は大変なことだろう。本土から多数の警察官が応援のために派遣されることは間違いない。沖縄が開催地に選ばれたというニュースを聞いて私が真っ先に警備のことを思い浮かべたのは、沖縄にまつわる警備がらみの想い出があるからだ。
 一九八七年の九月二十三日、沖縄で金環食が見られたことがあった。その金環食を取材するため、私はその前日に日航機で沖縄に飛んだのだが、羽田で搭乗手続きをするときからチェックは厳しく、手荷物の中身まで細かく調べられた。それほどに警備が厳重だった理由は、金環食観測に多くの人々が殺到したからではなく、たまたまその時に開かれていた沖縄国体に昭和天皇の名代として現皇太子の浩宮が出席していたからである。私が沖縄に渡ろうとした当日、浩宮は沖縄から東京に戻る予定になっていたのだ。
 眼下に青く揺れ輝く珊瑚の海に吸い寄せられるようにジェット機は機首をさげ、午後二時過ぎ、那覇空港へと滑り込んだ。沖縄を舞台にした金環食のドラマを明日にひかえ、私の胸は弾んでいた。予約してあるレンタカーを借りようと、その会社の空港内事務所に足を運ぶと、数人の先客が、困惑気味の表情で係員の説明に聴き入っているところだった。
 「大変申し訳ないのですが、国体にご出席の浩宮様がお帰りなるために交通規制が敷かれ、車を空港に持ち込むことができません。ただ、ここから十五分ほど歩いた地点までは車が入れますので、そこまでご案内致します。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 秋とはいっても九月の午後の沖縄の日差しは本土の真夏なみに強烈である。我々は手荷物をさげ汗だくになりながら、トランシーバー片手の女性係員の誘導にしたがった。ところが、ほどなく指定の地点に着くという時になって、係員のトランシーバーが急に鳴りだした。そして、みるみる彼女の顔が泣きだしそうな表情に変わっていった。
 「なんとも申し訳ありません。こちらのほうもたったいま交通規制が敷かれたとのことです。ただもうお詫びするしかございませんが、もう一度空港事務所までお戻りいただけませんでしょうか。幸い構内に当社のワゴンが一台おりますので、その車で皆様を市内の私どもの営業所までご案内しようと存じます。空港を出るほうの道路は無規制ですので……」
 自分の責任ではないにもかかわらず、必死になってそう詫びる彼女の姿は、見ていて可哀相なほどだった。
 我々は再び空港の建物目指してぞろぞろと引き返しはじめた。炎天下、両手に重い荷物をさげながら往復三十分近くも歩くのは、たしかに疲れることではあった。こんなときはお互い様だから、私は老婦人が手荷物を運ぶのを手伝ってあげた。
 我々が乗車し終えるとワゴン車はすぐに走りだした。那覇空港と那覇市街の間には立派な車道が通じている。全島にわたってというわけではないが、本格的な自動車道ができたのは本土よりも沖縄のほうが先だから驚くにはあたらない。むろん、戦後すぐに沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったせいたっだ。
 車窓から反対側車線を見やると、なるほど、沿道には十メートルほどの間隔で警察官が警戒に立ち、その向こうに日の丸の小旗を手にした見送りの人々がずらりと並んでいる。大戦中の悲惨な歴史のゆえに日の丸に対して複雑な感情を抱く人々も少なくないと聞いていた沖縄にしては、日の丸の小旗をもつ人の数が想像以上に多かった。もしかしたら、それなりの背景や多少の演出などもあったのかもしれないが……。
 車を運転していたのは、三十歳前後のどこにでもいそうな感じの男性だった。無事に空港を出た車は市街に向かって快調に走り続けていたが、一本の道が右手斜め前方から合流する変則T字路のところまでくると、速度を落として中央分離帯のほうに寄り、ゆっくりと反対車線方向へ回転しはじめた。
 進行方向に対して車が四十五度ほど曲がったときだった。沿道に並ぶ警官の数人がとんでもないという形相で我々の車に駆け寄ってきた。そして、そのうちの一人が大きな身ぶりでただちに直進するように運転手に向かって指示をだした。
 だが、次の瞬間、運転手は警察官のほうを睨むと、毅然としてこう言い放ったのだった。
 「私の事業所はそこなんですよ。いったいあなたがたは直進してどこへ行けっていうんですか?」
 運転手が指さす方向を見ると、なるほど、反対車線側の三十メートルほど後方にトヨタレンタカーの営業所の看板が見えている。彼はUターンしてその営業所に戻ろうとしたのだった。
 「浩宮の一行がほどなくここを通過するので、こちらがわの車線は交通規制が敷かれています。直進してください」
 二人ほどの警官が車の回転を妨げるようにして右手前方に立ちはだかった。しかし運転手は一歩も引かない。
 「あなたがたも仕事なのかもしれないが、私だって仕事なんですよ。交通規制するならするで、 はじめから時間と場所をしっかり決めてくれているならまだいい。あなたがたのやり方は行き当たりばったりじゃないですか。過剰警備もいいとこだし……」
 「気持ちはよくわかりますが、万一に備え本部から強い規制命令が出てるんです。一時直進して待機してください」
 あとでわかったのだが、このときも多数の警察官が本土から警備の応援に派遣されていた。だが、何かあったとき表に立って直接に対応するのは地元の警察官の任務になっていたようである。東京あたりの警察官なら、この時点で公務執行妨害行為として車を強制排除し、運転手の身柄を拘束しかねないところだったが、そこは沖縄のこと、警察官もそれなりに慎重であった。
 固唾をのんで事態の推移を見守っていると、運転手は一語一語に力を込めてさらに反論した。
 「このお客さんがただって、もう一時間以上も予定が狂ってしまってるんですよ。しかも重い荷物を持ってあちこち振りまわされて……。本来なら空港からレンタカーに乗ってもらうところを、こうして我慢してもらってるんですよ。そういった一般の人々の迷惑はどうなるんですか?」
 驚くべき光景が展開したのは次の瞬間だった。私は思わず我が目を疑った。なんと、婦人警官を含む二人の警察官が、すこし顔を紅潮させながらも、車中の我々一人ひとりに向かって鄭重に頭をさげはじめたのである。東京などでは絶対に考えられないことだった。
 私は強い衝撃を覚えながら、「ここは沖縄なんだ!……人々が黙々として重い歴史を背負ってきた、守礼の国沖縄なんだ!」と心の中で叫んでいた。
 私などは、この際直進もやむを得ないのじゃないかと思いかけたが、それでも運転手は頑として車を動かそうとしなかった。彼には彼なりの内なる思いがあったのかもしれない。その時とうとう、斜め前方の道路のほうに浩宮一行の車の列が現れた。警察官たちは慌てて歩道側の持ち場に引き下がり、我々の車だけが道路中央に取り残された。
 浩宮一行の車の列は、何事もなかったかのように我々の車の脇を通り過ぎていった。車中の浩宮が至近距離から我々のほうに向かって軽く手を振りながら微笑みかけるというおまけまでついて……。さきほどからの騒動を宥め鎮めるかのように、その笑顔は自然で親しみに満ちていた。後部座席の老婦人などは、思わぬ体験にひたすら感激の様子だった。
 一行が通過し交通規制が解除されたあとも、べつだん我々の車の運転手が追及されたり拘束されたりするようなことはなかった。トヨタレンタカーの事業所に着いた我々は、それぞれに車を借りて目的地へと向かって散った。スターレットを借りた私は、那覇市内をそのまま通過すると、その晩宿泊を予定していたヴィラ・オクマ・リゾートのある沖縄北西部の奥間ビーチに向かって西海岸沿いの五八号線を北上しはじめた。私は旅をするとき高級リゾートホテルに泊まることはほとんどないが、このときはJAL広報誌からの依頼原稿の取材ということもあったので、JAL傘下のリゾートホテルが何泊分か先方の手で予約されていた。
 広いドライブウエイに沿って立ち並ぶお店や建物はすっかりアメリカナイズドされていて、まるでカリフォルニアあたりの海岸線を走っているかのようであった。浦添、宜野湾、北谷(ちゃたん)を過ぎ嘉手納に入ると、大きな円環路から四、五本の道路が別々の方向にのびる嘉手納ロータリーが現れた。その周辺は大きな建物が立ち並ぶ市街地になっている。どこにでもある駅前ロータリーなどは違い、機能性の高い大規模ロターリーで、アメリカ的な発想で造られたことは一見しただけで明白だった。
 夕刻が近づいてきていたが、嘉手納を通りかかったついでに米軍基地を一目でも眺めておこうと思い、まず、基地の北側にまわってみた。なるほど、四千メートルはあるという大滑走路が二本、ますぐにのびている。遠くのほうには駐機場があって戦闘機や輸送機らしい機影が散見された。
 突然に背後から轟音が響いてきたかと思うと、黒灰色のデルタ翼をもつ怪鳥のようなジェット機が頭越しに滑走路へと降りていった。その異様な機影はたしかになんとも言い難い不気味さを秘めている。しばらくすると、今度は巨大なアホウドリにも似た四発の大型機が北東方向へと飛び立っていった。私が基地周辺にいたのはせいぜい三十分くらいだったが、その間にも様々な軍用機が地面を揺るがすような響きをたてて離着陸を繰り返した。米軍の極東戦略にとってこの基地がどんなに重要な位置を占めているかは、それらの軍用機の動きを見るだけでも明らかだった。
 いったいその基地の奥ではどんな指揮系統のもとに、日々どのような戦略が立案、遂行されていたのだろう。本土の横田基地などもそうだが、おそらくは地下深くに核攻撃にも耐えうる大シェルターがあって、その中枢部のオペレーション・センターにある超大型スクリーンには、極東全域の航空機や主要艦船の位置と動きがリアルタイムで表示されているに違いない。
 再び国道筋に戻った私は、沖縄戦のときに米軍が真っ先に上陸したという読谷村を過ぎ、恩納村にさしかかった。ムーンビーチ、万座ビーチ、瀬良垣ビーチ、インブビーチと美しい海岸の続くこの一帯は沖縄随一のリゾート地で、当時、本土ではまず見かけることのなかった段状テラス構造の高級ホテルが立ち並んでいた。開業して間もない日航系の高級リゾートホテル、サンマリーナもその一角を占めていて、三晩目に私はそこに泊まることになっていた。折しもバブル経済の絶頂期とあって、沖縄にも大量の本土資本が流入し、観光開発に一段と拍車がかけられていたのである。
 人工的ではあるが、なんとも蠱惑(こわく)に満ちた風景の中を進んでいくと万座ビーチが近づいてきた。左手にハワイかマイアミの高級リゾートホテルを彷彿とさせる豪華な造りの万座ビーチホテルも見えた。私は翌日の金環食をそのすぐ近くの万座毛で観察するつもりでいた。
 サンセット・ロードという呼称を冠してもけっしてその名に恥じることのない恩納村西海岸の道をなおも走りながら、私は南海の美しさにひたすら酔いしれていた。だが、それにもかかわらず、あの運転手の姿とその言葉の裏に秘められた思いがどうしても気になってしかたがなかった。沖縄の幻想的な光景の背後に潜む歴史の陰影を学ばずにその風光のみを耽美することに、私は本能的な罪悪感を感じかけていた。
 せっかくの旅だから素直に楽しんでしまえばよさそうなものだったが、どうしてもそれができなくなりはじめていたのだ。隣県の鹿児島で育ちながら、私はあまりにも沖縄のことを知らなさすぎた。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄関係の映画や戦争報道写真はそれなりに見たことがあったけれども、そこで見聞きしたものが単なる知識以上の意味を持つようなことはなかった。
 私はいまもあの時の運転手に感謝している。あの衝撃的な一件がなければ、翌日の金環食を乾いた科学の目のみで追いかけ、本土のバブル資本によって演出された沖縄の表の美しさだけに見惚れ、南部の戦跡や戦史資料館などを別の惑星の出来事のように眺めただけで戻ってきたに違いないからだ。
 奥間ビーチに向かう途中、軽食をとりに立ち寄ったお店で私の手を一冊の本に導いたのは、あの運転手の見えない力だったに違いない。B5版、およそ二五〇ページのそのハードカバー上製本は、店の片隅に四、五冊そっと積まれていた。「これが沖縄戦だ」というタイトルの本で、米軍サイドが撮影したモノクロの凄じい戦争報道写真と沖縄戦史の記述とを半々に織り交ぜた構成になっていた。地元の琉球新報社が刊行し那覇出版社が発売しているこの本の迫真の写真に目を惹かれて買ってはみたが、著者についてはまったく知見がなく、正直なところ郷土史家の一人くらいにしか思わなかった。
 実際、その本の著者は、当時、沖縄以外ではほとんど知られていなかったし、私のほうも、写真を眺めて沖縄戦について一通りのことがわかれば十分だというくらいの期待しかしていなかった。
 名護市を過ぎ本部半島の根元を横切って本島北部の大宜味村に入ると、道幅も狭まり、海岸線の景観も自然のままの感じに変わった。もしかしたら、まだ幼かった安室奈美恵がその近くで遊んでいたかもしれない。周辺の景色がどんどん人工的な装いを脱ぎ捨てていくなかで、そこだけが妙に明るく華やいだ感じの奥間ビーチに到着したのは、すでに太陽が西の海に沈んだあとのことだった。ヤンバルクイナが棲み、米軍の実弾演習場や特殊部隊訓練場もある山深い国頭村にあって、奥間ビーチ一帯だけはカリフォルニア海岸の飛び地のような奇妙な風情を湛えていた。
 ビーチ裏手の大駐車場に車を置いた私は、とりあえず、ヴィラ・オクマ・リゾートにチェックインした。ホテル周辺は本土からやってきた若いOLたちであふれていた。若い男もいるにはいたが、圧倒的に女性客のほうが多かった。

「マセマティック放浪記」
1999年5月19日

ある沖縄の想い出(2)
ヴィラ・オクマの夜

 私が通されたのはツイン仕様の洒落たコッテージで、一人で泊まるのはもったいないくらいだった。気をきかせてこんなコッテージを用意してくれたのだろうが、あいにく、このとき私は一人旅だった。誰かと一緒に来ればよかったかなとは思ってみたが、あとの祭りである。すぐに魔法を使って美女を出現させるなんて芸当ができれば苦労はないが、そうそううまくことが運ぶわけもなかった。
 奥間ビーチ一帯はもともと米軍の保養施設だったところだけに、ホテル内もその周辺も完全なリゾートタイプの造りになっている。ヨット、カヤック、ウィンドサーフィン、水上スキー、ダイビングなど、あらゆるマリンスポーツを楽しむことができるうえ、夜間でも使用可能なトレーニングジム、プール、各種球技施設なども完備していた。ホテルの従業員を兼ねた各種競技や遊技のインストラクターなども多数いて、滞在客の指導や対応にあたっていたが、よく見ると彼らの多くは白人系の混血らしい若い男女で、しかもなかなかの美形揃いだった。
 私はとりあえず浴室で汗を流し、レストランで夕食をすませた。そして、各種プレイング・ルームやディスコ、スポーツジムなどをひとわたりのぞきまわったあと、夜のビーチへと散歩にでた。広いビーチは波打ち際にいたるまで明るく照明が施され、いかにもリラックスした感じの男女が、三々五々、心地よい海風に全身をゆだねながらアバンチュールを楽しんでいた。ビーチのあちこちにはスタンドバーやティースポットもあって、軽食などもとれるようになっている。渚伝いにビーチの端のほうまで歩いていくと、大きな仕切り用ネットが現れ、そこから先には進めないようになっていた。その向こうにあるのは米軍専用のリゾートビーチらしかった。
 しばし一帯を散策しながら南国の夜の潮騒に聞きほれたあと、浜辺の一隅にあるベンチに腰をおろした。そして何を想うでもなく遠くの漁火を眺めているうちに、たまたま隣り合わせになったチャーミングな女性と、どちらからともなく話し込むことになった。彼女は会社のグループ旅行でこのホテルに泊まっていたのだが、仲間が遊技に興じている間に独りでビーチに出てきているところだった。
 翌日の金環食の話題にはじまり、沖縄についてのお互いの想い、さらには様々な旅や仕事の話などを、我々は二時間近くにわたって語り合った。沖縄の旅の夜風が心の緊張を解きほぐし、それまでに生きてきたそれぞれの時空の隔壁をいっきに消し去ってくれたこともあって、きわめて自然体のままに、私たちは偶然の出逢いの生みもたらした共有時空をしばしの間楽しんだ。
 部屋に戻って翌日の金環食取材の準備を整えたあと、ベッドに横になった私は、奥間ビーチに来る途中で買い求めた戦史記録、「これが沖縄戦だ」に軽く目を通しはじめた。巻頭には手榴弾による集団自決直後の凄惨な現場写真や、隠れていた壕の中から現れた一人の少女が、ありあわせの木の枝に白い三角旗をつけ、おびえながら米軍のほうへと近づいてくる写真などが収められていた。後者は「白旗を掲げる少女」として米軍の沖縄戦記録フィルムにも登場する有名なシーンの写真だった。
 この本で私がその写真を目にしてから何年かのち、比嘉富子さんという那覇在住の主婦が「あの白旗の少女は私です」と名乗り出て、朝日新聞などでも大きく報道された。比嘉さんは当時六歳で、首里が戦火に巻き込まれたため、兄、姉、弟とともに南へ逃げるうちに兄は銃弾を浴びて死亡、姉、弟ともはぐれて一人になってしまったのだった。ちょこちょこ動き回るため日本兵からも危険視され、お前が生きているとこちらが危ないと、何度も退避壕から追い出されたという。そうやって逃げ回る途中でたまたま飛び込んだ壕の中に、両手両足のない老人と目の不自由な老女の夫婦がいた。
 「もう戦争は終わったから出てきなさい」という、投降を勧告する米軍の呼びかけがある日突然聞こえてきた。するとその老夫婦は、どうしても外に出たがらない比嘉さんをなだめすかし、老人の下着を切り裂いて作った白い三角旗を持たせて壕から送り出したのだそうだ。その後の老夫婦の消息は比嘉さんにもまったくわからないというが、その運命は想像に難くない。
 迫真力と衝撃力とにみちた数枚の巻頭写真を見たあと、「米軍、慶良間を攻略」というタイトルの初章を軽い気持ちで読みはじめた私は、あっという間にその文中に引き込まれた。そして容易にはページを閉じることができなくなってしまった。沖縄戦についての正確かつ詳細な記述、日米どちら側にも公正な客観的叙述、極力感情を押さえたジャーナリズムの手本のような明快で的確な文章、驚異的なまでの調査力と情報収集能力、冷静な情報分析力、読む者の心をひきつけてやまない見事な構成力、さらには沖縄戦がなんであったかを如実に物語る三百枚近い戦争報道写真――このうえなく愚かで悲惨な戦史を描き著した本であるにもかかわらず、それは絶賛に値する一冊であった。
 私は目を見開かされる思いでその本の半分ほどを一気に読み通した。そのまま最後まで読破してもよかったのだが、敢て残り半分を翌晩まで読まずにとっておくことにした。一晩で読み終えるのはもったいないような気がしてならなかったからである。
 冷静な筆致で書かれたこの戦史の本文中には、むろん著者の影らしいものはまったく感じられなかったが、その人物がただ者ではないことだけは明らかだった。恐るべき筆力に感嘆した私は、昭和五十二年の初版刊行時に琉球大学名誉教授仲宗根政善が執筆した巻頭献辞文や著者自身の前書き、巻末の著者略歴などをあらためて細かく読み直し、その人となりのおよその輪郭をつかもうと努めてみた。
 沖縄守備軍司令官牛島満が自決した昭和二十年六月二十三日(一説には自決は二十二日ともいう)の前日、日本軍司令部のあった摩文仁の丘一帯では日米両軍の最後の死闘が繰り広げられていた。沖縄師範鉄血勤皇隊に所属する二十歳前の一人の若者も、岩さえも燃え砕けるその熾烈な砲撃戦の直中で生死を賭して戦闘を続けていた。戦いに利なく、多くの仲間が戦死するなか、かろうじて凄惨の地を脱出したその若者は、三カ月にもわたる死の彷徨を続けたすえに奇跡的な生還を遂げる。
 終戦後本土に渡り、早稲田大学に学んだ彼は一九五四年に渡米し、ニューヨークのシラキュース大学大学院を卒業、帰国後は東大新聞研究所で研究員として専門研究に従事する。その後、彼はさらにハワイ大学イースト・ウエスト・センター教授を経て、琉球大学法文学部社会学科教授に就任し、私が沖縄を訪ねた十二年前の時点ではまだ同大学で教鞭をとっていた。
 自らの生は多くの人々の血であがなわれたものと深く悟ったこの人物は、米国留学から帰国したあとも沖縄戦の資料を求めて機会あるごとに渡米、ワシントンの米国国防総省で膨大な沖縄戦関係の写真資料を探しだし、その中から一千数百点の写真を選び出して日本に持ち帰った。さらに、米国立公文書館、米陸海軍、米海兵隊などが保管する沖縄関係資料や防衛庁戦史室保管資料、各種戦記類など内外の資料を可能なかきぎり収集して、沖縄戦の全貌を明らかにしようと試みた。その心中に悲壮なまでの使命感があっただろうことは推測に難くない。
 入手した資料を体系的に整理した彼は、地元紙の琉球新報に「これが沖縄戦だ」というタイトルの連載記事を書き始める。そして、その記事にさらに加筆し、三百点近い未公開の写真と組み合わせて編集出版されたのが、たまたま私が手にすることになった一冊の本というわけだった。この本の特徴の一つは、収録されている写真のすべてが米軍側によって撮影されたものであり、しかもそれらはアメリカに現存する関係資料写真のごく一部に過ぎないということだった。日本側の記録写真がほとんど存在しないのは、沖縄守備軍がほぼ壊滅したことにもよるが、より大きな理由は、それほどまでに彼我の間に物量的な力の差があったということである。
 同書を出版したあとも、その著者は毎年のようにアメリカと沖縄とを往復して沖縄関係の写真や機密文書を収集、著述内容の改訂を進めてきた。むろん、それは、前述の経歴からもわかるように、青春期、自ら戦火の直中にあって生き地獄を体験し、戦後の留学を経て日本人としては指折りのアメリカ通となり、語学堪能で米国人の知己も多いこの著者にしてはじめて可能なことであった。
 大田昌秀――その人こそがこの本の執筆者にほかならない。この人物がのちに沖縄県知事になろうとは、その時の私には想像もつかないことであった。現在の出版情況はわからないが、おそらくいまも沖縄でならその著書を入手できるのではなかろうか。沖縄を訪ねる機会のある人や沖縄戦史に関心のある人にはぜひ一読をお勧めしたい。現在の沖縄の抱える問題の根源は、本書を一冊読むだけで明らかになると言ってもよい。いま一度あらためて紹介しておくと、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊、那覇出版社発売)がその貴重な戦史記録の書名である。

 昭和二十年三月二十六日、沖縄守備軍の予想を裏切り慶良間諸島を攻略制覇した米軍は、その海域を基点にして沖縄本島上陸作戦を敢行した。慶良間諸島では七百人以上の住民がその時点ですでに集団自決していたのだ。米軍兵員は延べ五十四万八千人、艦船数千五百余隻、対する沖縄守備軍は地元から強制動員された十三歳から六十五歳までの男子と女子学生看護部隊を含む十一万人であったという。
 当時のアメリカの著名な従軍記者が、「これは戦争の醜さの極致だ。それ以外にはこの戦いをうまく説明しようがない。その規模において、その範囲の広さにおいて、その激烈さにおいて……」と報じた激戦の幕は昭和二十年四月一日静かに切って落とされた。
 「海三分、船七分」と日本側の監視員が打電したというほどに海面を埋め尽くした米軍団主力部隊は、読谷村の渡具知海岸に続々と無血上陸を果たす。のちに待ち受ける凄絶な戦いからは想像もつかないくらいに、その上陸風景は平穏なものであったという。沖縄守備軍が水際決戦を避けて全軍を沖縄南部に配し、首里高地一帯の地下にトーチカを構えて米軍の進攻を待ち伏せる作戦をとったからだった。
 沖縄守備軍は南部に下がって陣地を構えるに先立ち、北(読谷)飛行場や中(嘉手納)飛行場を爆破し使用不能にする戦略をとった。学徒を大量に動員し、長い年月をかけて完成したばかりの飛行場であったが、上陸した米軍に補給や攻撃の基地として使用されるのを恐れたからである。
 しかしながら、日本側参謀本部の思惑はあっけなく裏切られた。優秀なアメリカ工兵隊は、多数のブルドーザーとトラックを揚陸すると、わずか二、三日で両飛行場を修復、拡張整備して使用可能にしたばかりでなく、周辺一帯に車両用の広い道路をあっというまに建設した。
 前述の本に収められている一枚の写真を目にしたとき、私は思わず我が目を疑った。米軍が上陸して数日と経たないうちに造られた嘉手納ロータリーと、その円環路を走る多数の米軍車両を撮影した航空写真があるのだが、なんとこの日通ってきたばかりの嘉手納ロータリーの形そのままだったからである。路面が舗装され、道路沿いには建物がびっしりと立ち並んでしまっているが、ロータリーの形や道幅は建造当時とほとんど変わりがない。
 嘉手納ロータリーを走りながら、このロータリーはアメリカ的な発想のもとで造られたものだと感じはしたが、まさか米軍の沖縄上陸直後に建設されたものがそのまま残されていたなどとは夢にも想ってみなかった。戦時下の状況にあっても将来を見越して立てられた米軍の戦略構想に較べて、日本軍部のそれはなんと愚かで短絡的だったことだろう。

「マセマティック放浪記」
1999年5月26日

ある沖縄の想い出(3)
金環食のあとで

 翌日は絶好の金環食日和だった。ホテルで朝食をすませた私は、すぐに、金環食帯の中心線の通る恩納村万座毛目指して五八号線を南下した。前日那覇から五八号線伝いに奥間にやってくる途中でも気づいていたが、道路沿いに点々とアイスクリームを売るスタンドがあって、年頃の若い女の子が強い日差しのなかでじっとお客を待っている。暑いから観光客にアイスクリームが売れるのは当然だと思って、はじめのうちはとくに気にもならなかったが、そんな光景を繰返し見かけるうちに、いったいそれで採算が合うのだろうかといささか心配になってきた。
 いつやって来るかわからないお客を待って立っている女の子だって大変だろうと思ったが、その複雑な背景が私にはまだよく見えていなかった。沖縄国体と金環食とが重なって本土からの客も多かったその日の前後はともかくとしても、働き盛りの若い女性がこうもたくさん道端でアイスクリーム売りをやっているのは、よくよく考えてみると不自然なことである。むろん、「乳脂肪率が高く本土のものより美味しい沖縄のアイスクリームはよく売れるからだ」などという表面的な説明で片づけられるようなことではなかった。
 つぶさに観察してみると、アイルクリームスタンドやお土産店の売り子には混血の男女の若者が多かった。すでに過去三、四十年にわたり軍属を主とした米国系の人々と地元住民との間で血の融合が起こり、現在もその状況が進行中である沖縄において、国籍や人種の異なる父母をもつ彼らが生き抜くことは容易でない。米軍基地関係企業をのぞくと経済基盤がきわめて弱く、雇用も不安定なこの地で、自らには何の責任もないにもかかわらず、ときにはあらぬ差別にも堪えて生きなければならない人々の苦悩を、本土の人間が理解するのはきわめて難しい。アイスクリームのスタンド一つにもそのような問題が秘められていたのだが、愚かな旅人の私がそのことに気づくにはいま少し時間が必要だった。
 万座毛とは海蝕断崖上にある天然の広場のことだ。青々とした芝生の広がるこの広場からは、眼下に紺碧の万座の海が見下ろせる。小さな入り江をはさんで万座ビーチホテルの洒落た建物も見えていた。二五〇年ほど前、この地を視察した尚敬王が「万人を座らせるに足る」と称賛したのがその名の由来であるという。
 万座毛一帯は金環食観測にやって来た報道関係者や一般客でいっぱいだった。NHKや朝日新聞社の腕章をつけた報道陣が慌ただしく取材準備をするかたわらでは、商売上手の業者によって日食メガネなるものが売られていた。小さな長方形の白い厚紙の中央に円形の穴をあけ、それに黒いフィルムをはった簡単な道具で、私も試しに一個買ってみたが、結構役に立ちそうだった。
 万座毛の一角では沖縄古来の民族衣装に身を包んだ地元の人々が「うるう祭」というお祭りをやっており、金環食が始まるまでのひととき、観光客の目を楽しませてくれていた。直観的にそう感じただけではあるが、沖縄の伝統的な民族衣装姿はアイヌの人々の民族衣装姿ときわめて似通ったところがあるように思われた。最近のDNAの研究を通して、縄文時代の沖縄や南九州の先住民と同時代の東北、北海道の先住民との間には深いつながりがあったこともわかってきているが、そういったこともなにかしら関係しているのであろうか。
 日食は午前十時頃から始まり、次第に太陽が欠けていって、十一時二十三分に金環食の状態になった。皆既日食とは違って太陽の周端はリング状に明るく輝いて見えるから、予想していた以上に眩しく、肉眼でじかに観察するのは困難だった。結局、持参のフィルターや試しに求めた日食メガネを通して観測するしかなかったが、予測されていた通りの見事な金環食を四分間ほどにわたって観測することができたので、その意味ではこの取材旅行は大成功だった。金環食が起こっている最中に周辺の様子をうかがってみたが、陽光は大きく翳りはしているものの晴天時の夕暮れよりはずっと明るい感じで、その点はいささか意外な気がした。
 考えてみれば、皆既日食と異なり地上に降り注ぐ太陽光が完全に遮断されるわけではないから、美しいコロナを期待することも、天の岩戸伝説にあるように世界が一時の闇に沈むのを目にするのも、もともと無理な話ではあった。生涯において一度出逢うことができるかどうかという自然現象に、沖縄の万座毛という美しい場所でめぐり逢えたこと自体に感謝すべきであったのだった。
 将来、宇宙船などで地球周辺の空間を自由に動くことができるようになれば、皆既日食や金環食の起こるスポットの追尾や選択も意のままになるから、観測の成否が天候に左右されることもなくなるに違いない。だが、千載一遇の機会に賭けるしかない現在においては、金環食を自分の眼ではっきりと見ることができただけでも恵まれていたと考えるべきだろう。
 金環食の観測取材をを終えた私は、名護市まで北上し、本部半島の中央部を抜けて本部町渡久地港に出ることにした。地図で見ると、渡久地から本部半島突端にある沖縄海洋博記念公園までは一走りだった。本部半島中央の伊豆味一帯は沖縄随一のパイナップルの産地である。車が半島中央部の高原地帯に入ると、道の両側も前方も見渡すかぎりパイナップル畑になってきた。道路沿いの観光客向けの売店でとりたてのパイナップルを試食することができたが、その甘酸っぱい香りと味はさすがに本場ならではのものだった。
 伊豆味地方には明治の頃からパイナップルはあったらしいが、もっぱら仏前の供物とされ、沖縄の人々はほとんど食べていなかったという。ところが、戦後の米軍の沖縄駐留にともなていっきに需要が高まり、米軍用に大量栽培されるようになった。それを契機にパイナップル作りが盛んになり、いまでは沖縄の観光資源の一つとなったのだった。
 パイナップル地帯を過ぎ満名川沿いに渡久地の街並みに出、そこからすこし北上すると海洋博記念公園に到着した。博覧会ブームが続いていた一九七五年に、世界初と銘打って開催された海洋博の跡地を国営公園化したもので、国内では最大規模の敷地面積を有している。園内に熱帯植物園や水族館、沖縄館、海洋文化館、沖縄郷土村、アクアポリス、エメラルドビーチ、そしておきまりの大遊園地エキスポランドなどがあった。
 ガイドブックに全施設を見学するには最低でも五時間は必要とか書かれていた大規模な園内施設を、せっかくやって来たのだからと一通りは見てまわったのだが、各施設の細かな様子などはほとんど記憶に残っていない。十二年ほど前のこととはいえ、歴史文化や科学技術、動植物の生態などについての展示はけっして嫌いではないし、もの憶えもそう悪いほうではないつもりなのだが、いったいどうしたことだろう。時のフィルターに耐えうるような発見や感動があまりなかったということなのだろうか。
 わずかに記憶にとどまっているのは、十七世紀から十八世紀にかけての琉球諸島の古民家集落を再現した沖縄郷土村と、未来の海上都市モデル、アクアポリスの水中展望室から眺めた美しい海中の景観、そして、エメラルドグリーンの海の向こうに浮かぶ伊江島と瀬底島の島影だけだ。いや、それにもうひとつ、旅先でめったにお土産を買うことのない私が、園内の公営珊瑚細工店で赤珊瑚のペンダントを二個買い求めた記憶がある。
 そのうちの一個は我が家の奥方の箪笥の底あたりで二度と日の目を見ることのない運命をたどっているのだろうと思うが、もう一個のほうを誰に進呈したものか私もはっきり憶えていない。なんとなく思いあたるふしもないでもないが、いまさら出てこられてもロクなことにはならないから、そちらのほうも眠っていてもらうにかぎる。
 沖縄海洋博記念公園をあとにした私は本部半島の北側にまわり、西日に浮かぶ今帰仁(なきじん)城址を訪ねてみた。長い石段をのぼり、城の本丸のあった広場を抜けると古来のままの城壁を見渡せる展望台にでた。七百年以上も前に築かれた北山王朝のこの城は、首里城、中山城と並ぶ名城だったというが、現在は城郭だけが残っている。北山王朝は十四世紀に中山の首里軍によって攻め滅ぼされた。
 独特の構造の城壁の下は断崖になっており、北方海上はるかに伊屋名島、伊平屋島とおぼしき島影が望まれた。かねてから訪ねる人はほとんどないらしく、城跡に立つのは私一人だけだった。一帯には夕日を浴びて鳴く無数の蝉の声が悲しげにこだまし、その不思議な蝉時雨(せみしぐれ)は、栄華の果てに滅び去ったいにしえの北山王朝一族の霊を、さらにはこの地につかの間の生を刻み、やがて去っていった多くの沖縄びとの魂を弔い鎮めているかのようだった。
 私の心に深くしみいるそれらの蝉の声は九州南部のクマ蝉やアブラ蝉、ニイニイ蝉などのものとは明らかに違っていた。おそらく沖縄地方固有の蝉だったのだろう。実を言うと、蝉の声ばかりでなく、そられを乗せて吹き抜ける今帰仁の夕風のそのものに私の五感は未知の何かを知覚しはじめていた。「ここの風は違う。自分の知っている風とは違う」……一言でいえばそんな思いに襲われたのだった。
 なおも続く蝉時雨を背に、静かに今帰仁城址を辞した私は、本部半島北部の集落を縫う道を走り抜け、羽地内海と呼ばれる美しい内海のそばに出ると、その周辺を見下ろせる嵐山展望台にのぼってみた。羽地内海は本部半島の北側付け根一帯とその少し沖にある屋我地島、奥武島によって大きく囲い込まれた天然の内海で、その中には地元の人々が小松島と呼ぶ多数の小島が点在している。
 人けのない嵐山展望台に立って見下ろす羽地の海とそこに浮かぶ小島の群は、迫り来る夕闇のもとでひたすら静まり返り、気まぐれな旅人の旅愁をいやがうえにも掻き立てた。点々と民家の明かりの灯りはじめた対岸の屋我地島の西部と本部半島との間には細長い自然の水路が開けており、直接には見えなかったが、その水路の外洋よりの部分が運天港となっていた。
 地理的に恵まれた運天港は、古来、沖縄近海を航行する船舶の格好の避難港になってきた。「運天」というその奇妙な地名の由来はなかなかに面白い。あくまでも伝説にすぎないが、保元の乱に敗れ流刑の地伊豆大島にあった源為朝は密かに大島を脱出、運を天に任せた航海の末にたどり着いたのがこの港だったのだという。その決死の航海にちなんで運天という地名がつけられたのだそうだ。
 このときたまたま手にしていたガイドブックをめくって運天港の解説を拾い読みしていた私は、慶長十四年(一六〇九年)琉球を侵略した薩摩の軍勢が最初に上陸したのもこの港であることを知った。そして、自分の育った家にいささか関わる遠い昔のある人物についての記録を想い出したのはこのときだった。学生時代に一度それらしき記述を走り読みしたことはあったが、現代に生きる自分には直接関係なかったこともあって、私はそれにさして興味を覚えなかった。だから、そんな記録などすっかり忘れてしまっていた。
 運天港につながる羽地内海を通りかかったのは偶然にすぎなかったのだが、蝉時雨の今帰仁城址でいつしかこの身に働きかけた宿世の糸は、否応なしに私の魂を四百年も前の世界に引き込もうとしていた。宿命論というものを私は信じない。いまでもすべては偶然だったと考えている。しかし、このときの沖縄の旅において、偶然として片付けるにはあまりにも多すぎる偶然が重なったのは事実だった。
 突然のように降って湧いた複雑な想いを鎮めかねて、しばし私はその場に立ち尽くした。東京に戻って書斎の片隅にある歴史資料を詳しく読みなおしてみなければ、いまひとつ断定はできないという想いはあったが、多分そうなのだろうという予感を打ち消すことはできなかった。正直なところ、それが私の勘違いか記憶違いであればよいのだがとも考えた。
 その晩再びヴィラ・オクマに戻った私は、思わぬ展開の末に生じた胸中の混乱をノートにメモしたあと、昨夜読み残した大田昌秀の著書「これが沖縄戦だ」の後半部を憑かれたように読み耽った。その書中には、信じ難いほどに残虐な数々の出来事が、読み手にその歴史的評価を委ねるがごとく淡々と語り綴られていた。感情の高ぶりを極力抑えてあるぶん、そこに収められた記述にはいっそうの真実味が感じられてならなかった。
 時間的には話が前後するが、帰京したあと、私は薩摩藩に関する歴史資料と私の育った鹿児島県甑島についての歴史資料をあらためて精読してみた。その結果、やはり私のかすかな記憶は間違いではなかったことが判明した。その事実が間違いではないとわかった以上、私には遠い昔の沖縄の出来事を過去の話として眠らせておくわけにはいかなくなった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月2日

ある沖縄の想い出(4)
琉球侵略と初代在番奉行

 中国との地理的歴史的関係が深く、南海交易の要所だった琉球諸島は、経済的にも莫大な価値があり、生前、豊臣秀吉も琉球を支配することを夢見ていたという。関ケ原の戦いで豊臣方を破り、江戸幕府を樹立した徳川家康にとっても、琉球を支配下に置くことは願ってもないことであった。
 ただ、当時、琉球王朝は中国(明)との結びつきが強くその庇護下にあったうえに、江戸の徳川幕府が自力で直接支配するには地理的にあまりにも遠すぎた。政権を樹立したばかりの江戸幕府には、琉球への侵攻は経済的にも物理的にも困難だったのである。またかりに直接の侵略が可能だとしても、守礼の国として知られる琉球を武力で支配すれば、琉球の人々からばかりでなく、国内外からも少なからぬ反感を買うだろうことは目に見えていた。
 そのため、徳川幕府が選んだ方策は自らは労することなく琉球を間接支配することでああった。すなわち、薩摩島津藩に琉球を侵略支配させ、薩摩藩の手を介し、琉球の生み出す富や文化の粋を間接的に略取することを考えたのである。慶長十四年(一六〇九年)の薩摩藩による琉球侵略は、表面的には薩摩藩の単独行為に見えたけれども、黒幕はほかならぬ徳川幕府で、その支持と承認があってはじめて可能だったのだ。琉球支配後、薩摩藩が失政をおかせば直ちに改易し、幕府中枢に近い大名を送り込んで、外様大名島津の従来の所領のほか琉球諸島をも合わせて統治せんとする思惑も隠されていたに違いない。
 関ケ原の戦いに豊臣方として出陣しながら、石田三成と用兵戦略をめぐって対立したあげく、戦いに利なしと判断した島津勢は、ついに一戦を交えることもなく東西両軍の戦闘が終わるのを見届ける。小早川の徳川方への寝返りと、勇猛果敢で知られた島津勢の不戦が豊臣方敗北の要因とも言われるが、もしかしたら、小早川にばかりでなく島津に対しても、老獪な家康からの秘密裏の工作などがあったのかも知れない。激闘のさなか中立をかたくなに守った島津の軍勢は、勝利を収めた徳川方の多数の軍勢の真っ直中を粛然として行軍踏破し、最小限の犠牲を払っただけで奇跡的に薩摩に帰還した。
 徳川幕府成立後、外様大名に列せられた島津の表向きの禄高は加賀前田藩につぐ七十三万石であったが、シラス土壌が多く台風などによる被害の絶えない薩摩の米の生産力は低く、実質的には高々三十数万石に過ぎなかったし、米質もそう良くはなかったようである。土壌的に恵まれない薩摩の民人の暮らしは貧しく、士族階級といえどもその生活は苦しかった。のちに琉球経由で持ち込まれた甘藷(サツマイモ)はたまたまシラス土壌にも強い作物だったため、食料窮乏の際の救いとなったことはよく知られているところである。
 わずかな失政があったり、幕府に対する知行高相応の儀礼や賦課、賦役などに不備不足が生じたりしたら改易必定だった外様の島津は、藩の維持防衛に必死であった。外様大名の参勤交代の制度が正式に定められるのは関ケ原の戦いから三十五年ほどのちのことであるが、徳川幕府成立当初から、江戸城への表敬参内や藩存続のための幕府有力筋への工作などには莫大な費用が必要だった。また、のちの薩摩藩による木曽川治水工事にみるような、藩の財政を圧迫する法外な賦課や賦役、理不尽な各種難題などが先々持ちかけられるだろうことは目に見えていた。
 幕藩体制が確立し参勤交代が制度化されてからというものは、江戸屋敷の維持、諸々の祭事儀礼、各種賦課、参勤交代の行列などにおいて、実禄高をはるかに超える知行禄高相応の格式を要求されたため、途方も無い費用が必要となった。島津をはじめとする九州の諸大名は、参勤交代の際、川止めが多く莫大な逗留費のかかる東海道を避け、たいていは中山道を通ったようであるが、東海道を選んだ場合などは大井川ひとつ渡るにも大変な費用がかかったのである。
 たとえば、禄高十万石の格式の大名は参勤交代の際に三百人ほどの行列を組むことを義務づけられていたが、この行列が大井川を渡るだけでも、現在の貨幣価値に換算して千五百万円ほどの費用を要したという。七十三万石の薩摩藩などは、従者の数は二千人近くにものぼり、しかも、鹿児島から江戸まで千数百キロもの旅をしなければならなかったから、そのための費用だけでも驚く程の額にのぼった。しかも参勤交代の旅に要する経費の大半は主要街道に沿う徳川親藩や譜代大名の収入となり、間接的に徳川幕府に還流してその財政を潤した。華麗な江戸文化や京都文化の繁栄はそういった経済構造に支えられていたのである。
 そのいっぽう、外様大名の領民は重税や賦役に苦しみ、士分といえどもその多くは禄を極度に低く抑えられ、薩摩藩にみる郷士制ように、平時は農耕に従事しながら厳しい生活を送っていた。薩摩人の美徳ともされた「質実剛健」という言葉は、聞こえだけはよいものの、そんな気風が奨励された背景には、生活苦と戦うことを余儀なくされながらも気概だけは高くもつことを求められる領民の隠された姿があったのだ。
 幕藩体制成立直後の薩摩藩が、領内の限りある歳入のみに頼って、先々予想される幕府の様々な要求や締めつけに対応していくことは困難だった。そんな薩摩にとって唯一の方策は、中国や東南アジアとの密貿易を含む南海交易を通して利益をあげることであり、その最大の目玉となるのが、ほかならぬ琉球諸島の支配であった。
 薩摩藩による琉球侵略が行われたのは、徳川幕府と薩摩藩の利害に関する思惑がたまたま一致した結果にほかならない。一般的な歴史書などでは横暴いっぽうの薩摩藩が自藩の利益のためのみに琉球を侵略したように記述されているが、実際の黒幕は徳川幕府であり、薩摩藩が琉球支配によってあげた利益の大半を陰で吸い上げたのも幕府や幕閣筋であったことを忘れてはならない。
 慶長十四年(一六〇九年)三月、総勢三千余の薩摩軍は百隻ほどの軍船に分乗、琉球侵攻のため薩摩半島先端の山川港をあとにした。樺山権左衛門久高を総大将とするこの薩摩軍の指揮官のなかに物頭(ものがしら)を務める一人の人物があった。物頭とは軍の鉄砲組、弓組を指揮する役職である。山川港からの出陣に際し薩摩の従軍将士に対しては、「一般の民人に狼藉をはたらくな、神社、仏閣、堂宇などを荒らすな、各種経文、文書などを大切にせよ」という三つの軍律が布告されていた。
 しかしながら、ほとんど抵抗をうけることなく琉球一円を制圧した薩摩軍の将士たちは、この軍律を破って民人に狼藉をはたらき、文物を荒らしてはそれらを略奪した。「この役において将士すこぶる律令を犯す」(南聘紀考)、「家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら失せ果つ」(喜安日記)などと当時の状況を記した文書にも残されているように、薩摩軍の暴挙は目に余るものがあり、当然、琉球の民心には強い反島津の感情が湧き起こった。
 ただ、そんな薩摩の将士のなかに、軍律を遵守し、琉球の人々の生命と生活の安全にに努め文物の保全に尽力しようとした一人の人物があった。それが先に述べた薩摩軍の物頭である。民心のなかに高まる反島津の感情を抑え、地元との宥和をはかる必要に迫られた薩摩は、慶長十四年九月に本土へ軍勢を引き上げたあとも、軍律を厳守し琉球の民心にも通じたその物頭を現地に留め、初代琉球在番奉行の任に当たらせる。言うなれば、彼は、沖縄占領後、同島の行政に携わった米軍の軍政司令官と同じ役職に任じられたわけだった。
 いくら人徳があり軍律を守ったからといっても所詮徳川幕府や島津の命令の代行者に過ぎなかったわけだから、すくなからぬ損失やゆえなき圧政を琉球にもたらしただろうことは想像に難くない。侵略者の手先であるかぎり、琉球の民人にとって迷惑な存在だったことは疑う余地もないからだ。ただ、当時の幕府や薩摩藩の支配構造の許すかぎりにおいて、地元との宥和をはかるべくその人物なりには力を尽くしたようである。琉球侵攻から二年後の慶長十六年(一六一一年)に「掟十五ヶ条」という法度が薩摩から琉球王朝に申し渡されるまでの間、彼は首里にあって在番奉行を勤めあげた。
 掟十五ヶ条は、琉球王朝が遵守すべき事柄を厳格に定めたもので、その最大の狙いは琉球王府の対外貿易権を統制し、主に対明貿易の利益を独占することであった。以後琉球は与論島以北の奄美諸島を薩摩に割取されたばかりでなく、完全な薩摩の植民地となり、様々なかたちで税の上納を強要された。ただ、明への進貢貿易の必要上、琉球王朝の明王朝との冊封関係(明に使節を派遣して貢ぎ物などの礼を尽くし、その見返りに明王朝から庇護をうけ、多大の利益を保証される関係)は容認されるいっぽで、明王朝に対しては薩摩と琉球王朝の関係は隠蔽されたままになった。要するに琉球は二重支配の状態におかれたわけである。
 また、幕府に対しては徳川将軍の代替わりのときには慶賀使を、琉球国王の代替わりのときには謝恩使を江戸まで送ることが義務づけられた。これは江戸上りと呼ばれ、一六三四年から一八五〇年までの百年までの間に十八回もの使節団が派遣されている。幕府への莫大な貢ぎ物に加えて使節団の旅する距離が長大なだけに、その負担は大変なものであっただろうと想像される。徳川幕府は、薩摩藩を通じての間接的な利益吸収のみにとどまらず、折々直接的な利益に預かろうと企てるとともに、自らの権威を広く国内に知らしめるため琉球王朝を利用しようとしたのであった。
 徳川の旗本の系譜を汲むというある人物が、かつて薩摩は琉球を侵略したと、いくつかのメディアで厳しいく断じているのを目にしたことがあるが、それはかなり一方的な見方だと言えないこともない。なぜなら、陰でその片棒をかついでいたのは旗本たちを召し抱える徳川幕府であり、琉球から収奪された富がめぐり流れて潤したのは、貧しい薩摩の領内ではなく、火事と喧嘩が売り物の江戸だったからである。
 初代の琉球在番奉行といえば聞こえはよいが、要するに琉球傀儡王朝樹立のための体のいい手先となった問題の人物は、琉球侵攻の二年後に鹿児島に召喚される。そして、今度は、鎌倉時代以来の支配者小川一族が改易になったあとで、人心が乱れて治安が悪く、流人や異国船の出入が絶えなかったという島津の直轄領、甑島の初代移地頭に任命された。甑島とは、かつて私が育った東支那海に浮かぶ島である。歴史資料のなかの文書には、「甑島は鹿児島より遠いため、普通の者を派遣したのでは勝手なことをしかねず、とても信頼がおけない。そこで慎重に人選をした結果、先年、琉球で軍律を守り貢献のあったその人物を甑島に送ることにし、緊急に同島に移るように申し渡した」といった主旨の記載がある。
 信頼が厚かったからとはいうものの、功労があった割には遠い島から島への移封であり、しかも当時の記録で見るかぎりその職務の重さに比してその禄高は驚くほどに低かった。彼には藩のそんな人事と条件をのまざるを得ない事情があったのかもしれないと思った私は、古い文献を調べその一族のルーツをすこしばかり探ってみた。
 源頼朝とその側室との間に生まれた島津忠久は、文治二年(一一八六年)頼朝より薩摩、大隅、日向の三国の守護職に任ぜられるが、忠久自身は大番役を務めるために都にあった。そのため忠久は一人の直臣を所領に送り領内を治めさせた。派遣された直臣は忠久に代わってその三国を平定し領内の所々に城を築いたあと主君を迎えに上洛、忠久に従って再び領国へと下った。
 島津忠久が薩摩の守護職に着くと、その直臣は忠久より、現在の鹿児島県国分市を中心とする大隅一帯の統治を任じられ、南北朝以降になるとその直臣代々の後裔は大隅国守護代として一帯を治めるようになった。大隅にいるにもかかわらず信濃守を名乗る当主が多かったその一族は、国分清水城を本拠地にしてその地を治め、大きな勢力をもつに至ったらしい。地理纂考によるとこの一族は諏訪大社の大宮司一族とも同族であったという。しかし、大隅の統治についた初代から十代目にあたる董親とその子の親兼は天文十七年(一五四九年)に主家に謀反、島津貴久の命をうけた伊集院久朗の軍に攻められて日向の庄内(現在の都城)へ逃走、それがもとで一族の主家や分家は離散衰退し、島津藩史の主流から姿を消す。
 菫親、親兼父子が権力を傘に横暴な圧政を行い、それがもとで一族内部に対立が起こり、やがて主家の島津に対する謀反にまで発展したと藩史などには記されている。記録に残っているような事実も確かにあったようだが、島津一族の島津右馬忠将がそのあと大隅の地頭に任命されているところをみると、一族の内紛に乗じ、謀反という名目で追い落としが計られた可能性も高いし、なんらかのかたちで守護家島津一族の勢力争いに巻き込まれた可能性もなくはない。
 没落衰退はしたものの、それでもなおこの一族の一部は国分の地に生きのび、五十年ほどのちになってその係累の中から現れたのが初代琉球在番奉行になった人物であった。彼は秀吉の朝鮮出兵の際、島津軍の一員として高麗に遠征、また、関ケ原の戦いのあと島津義弘を無事薩摩に帰還させるために大きく貢献し、義弘より藤島の太刀を拝領するとともに、五十石の知行を得た。むろん、前大隅守護代謀反の汚名のゆえに、残された同族の者たちにはかつての栄光や権威にすがることなど許されようはずもなかったろう。だから、ささやかでも家を守るには与えられた機会を最大限に活かし、命懸けで功をたてねばならなかったに違いない。その人物が琉球の文物の重要さを熟知し、抑圧される琉球の民衆の心を十分に解し得たのは、自らの置かれたそんな状況に加え、その一族に代々伝わる文物尊重の気風ないしは家風みたいなものがあったからかもしれない。
 甑島の初代移地頭に任じられ、地頭としては驚くほど微禄としかいいようのない知行を得たその人物、本田親政は、補佐役で一族の本田八左衛門と共に甑島に渡る。そして彼らは、慶長年間に甑島に配流された大炊御門中将藤原頼国、松木少将宗隆の公家二人が最後に暮らした上甑島里村の屋敷に居し、その職務を全うした。本田親政のほうは寛永十五年甑島から鹿児島に戻り翌年に他界する。甑島に残ったほうの本田一族は、両公卿の墓を代々守るとともに、その遺児や子孫と血縁関係をもつにいたったようである。明治初期外相を務めた寺島宗則は、のちに甑島から鹿児島県阿久根市脇元に移った松木家の出身である。
 両公卿の甑島での生活ぶりを偲ぶ文物や当時の事情を詳しく記した文献などはなにも残されていないので(おそらく藩命で没収されたものと思われる)明確なことは定かでないが、鎌倉時代薩摩に下る以前の本田一族のルーツとの関係が背景にあって、そのような縁が生まれたのかも知れない。

 本部半島の嵐山展望台から羽地内海を見下ろし、運天港に上陸した薩摩の軍勢のことを想い浮かべたとき、突然に記憶の古層から甦ったのは、ほかならぬ本田親政という名前だったのだ。実を言うと、親政が鹿児島に戻ったあと甑島に残った本田一族は私の先祖であり、いまは草蒸し荒れ果てた屋敷跡になっているが、彼らが四百年近くも前に暮らしたのと同じその場所でこの私は育ったのだった。
 遠い昔のこととはいえ、幕府や薩摩藩の代弁者となって尚寧王の琉球統治に干渉し、琉球の人々に多大の迷惑をかけた一族の末裔の一人がほかならぬこの身だということが判明し、私はなんとも遣る瀬無い複雑な心境になってしまった。沖縄にやって来るまでは、こんなかたちで否応なく己のルーツをたどらされ、あげくのはてに衝撃の事実を確認させられることになろうとなどは夢にも思っていなかった。一連の事態は、まことにもって天のいたずらとでもいうほかないものであった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月9日

ある沖縄の想い出(5)
辺戸岬と祖国復帰闘争碑

 沖縄三日目の朝は、いささか憂鬱な私の心を励まし力づけてくれるような晴天だった。遠い昔のことがどうであれ、こうして沖縄にやってきた以上、現代の沖縄の置かれた状況を自分なりに極力冷静に見すえ、己の無知と無責任さを省みる契機にするしかない……そう思い直した私は、とりあえずホテルをチェックウトするべく身支度を整えた。
 フロントに向かう前にホテルの売店をのぞくと、前日の金環食の写真セットがもうお土産として売られていた。記念にワンセット買ってみたが、プロのカメラマンが撮った写真だけのことはあって、その出来栄えはなかなか見事なものだった。だが、それ以上に感心したのは、「機を見るに敏なり」という言葉を地でいくようなその抜け目のない商魂ぶりだった。万座毛で金環食を見る前に買った日食メガネもそうだったが、どうもそれらのアイディアは地元の人の発想ではなく、商才にたけた本土の誰かが考え出したもののように思われた。
 奥間ビーチに別れを告げると、私は沖縄本島最北端の辺戸岬を目指して走り出した。右手には国頭山地の最高峰与那覇岳の西山麓が広がっている。与那覇岳は四九六メートルと標高こそ高くないが、その周辺、とくに東側山麓一帯は深い亜熱帯樹になっていて、天然記念物のノグチゲラやヤンバルクイナが生息していることで名高い。また、一〇四科三七八種におよぶ植物が繁茂しているともいわれ、天然保護区域にも指定されているところだ。海辺の村というよりは静かな山村といった感じの辺土名(へとな)の集落を過ぎ、西海岸沿いの道をどんどん北上していくとやがて宜名間(ぎなま)の集落にでた。沖縄本島の集落は北端に近いほど昔の姿を留めている。がっしりした感じの赤瓦の屋根がとても印象的だった。
 明るい日差しを浴びながらもひたすら静まり返った宜名間の集落を過ぎると、ほどなく道路の左右に二十メートルほどの大岩の切り立つ場所にでた。まるでトンネルかゲートをくぐっている感じである。その近くの道路脇に「戻る道」と記された碑が立っていた。五、六十年ほど前までは、そこは岩の裂け目を掘り削った急勾配の狭く細い道になっていて、途中で反対方向からやってくる人と出合うとどちらかが道を譲って戻らなければならなかったことから、そのような名がつけられたらしい。
 現在も車道の上の崖の間にその道の跡が一部残っていて、それを徒歩でのぼりつめたところに「茅打ちバンタ」と呼ばれる場所があった。眼下には高さ百メートルほどの断崖がほぼ垂直に切り立っている。この断崖上から束ねた茅を海面に向かって落とすと、風に吹き上げられてバラバラに飛び散ってしまうというのが、その変わった地名の由来であるという。断崖の真下で揺れる海の色はどこまでも青く、しかも底のほう深くまで透き通っていた。こころもち視線を上げて来し方を眺めやると、あの運天港を形づくる本部半島と屋我地島一帯の遠景が望まれた。
 四百年前、百隻を超える薩摩の軍船団は、私の眼前に広がる海を横切って運天港に向かっていった。不安な思いに駆られながら、その異様な光景をこの茅打ちバンタの断崖上から眺めていた沖縄びともあったに違いない。最終的にその事実を確認したのは私が東京に戻ってからのことであったが、それらの軍船のどれかには、当人も予想だにせぬ成り行きから薩摩の琉球支配に一役買うはめになる人物が乗っていたわけだ。そして、それから四百年近く経たのち、奇しくも、その人物にゆかりの不肖な男がふらふらと沖縄を訪ね、いにしえの沖縄びとが軍船団を見下ろしていたはずの断崖に立って当時の情況を想像していたことになる。
 展望台の周辺には蘇鉄が多数自生していた。赤土に近いこの地の土壌は多分に鉄分を含んでいるのだろう。群生するそれらの蘇鉄を眺めるうちに、私は自分が育った家の庭の一隅にも大きな蘇鉄が一本生えていたことを想い出した。年代もののその大蘇鉄が枯れてなくなるときには家も滅びるなどと伝えられていたものだ。身辺に様々な不幸があいつぎ、やがて天涯孤独の身になった私が東京に出て苦学しはじめた頃には、もともと荒れかけていた屋敷は、無人となってますます荒れ果て、その蘇鉄もいつの間にか枯れてしまった。
 こんなことを書くと言い伝えがずばり当たったようにも見えてくるのだが、真相は多分そうではない。蘇鉄は鉄分を多量に摂取して生きる樹木なので、甑島のような本来の自生地でないところで蘇鉄の樹勢を保つには、根元に屑鉄や使い古した剃刀の刃などを常時埋めて鉄分を補給してやらねばならない。そのほか、こまかな手入れや台風などに対する備えなども必要となる。だから、何らかの事情でその世話をする家人がいなくなると、蘇鉄は徐々に弱りやがて立ち枯れてしまうのだ。人がいなくなるから蘇鉄が枯れるわけで、言い伝えとは因果関係が逆さまなのである。
 あらためて周辺の蘇鉄を観察するうちに、もしかしら、私が育った家のあの蘇鉄は、この沖縄での任務を終え甑島に渡った例の人物たちが、沖縄での二年間を懐かしんで植えたものではなかったろうかという想いが脳裏をよぎったりもした。だが、手入れさえ怠らなければ蘇鉄が樹齢三、四百年にもわたって生きながらえることができるものなのかどうかは、植物の専門家でもないこの身にはよくわからなかった。
 茅打ちバンタのある付近から沖縄本島最北端の辺戸岬までは車でほんの一走りだった。岬一帯は万座毛と同じようにウガンダ芝が密生していて、何千人もの人々が大集会でも開けそうな平地になっていた。そして、その平地を抜け岬の突端に続く小道の脇に一つの記念碑が建っていた。ほとんどの人は何の関心も示さず次々にその碑のそばを通り過ぎていったが、そんなものがわざわざこの地に建てられた経緯が、私は妙に気になってならなかった。そこで碑の前に佇んでざっと碑文に目を通してみることにした。
 「祖国復帰闘争碑」と題されたその碑文は相当に長いもので、細かな文字が連綿と彫り刻まれており、刻字の一部は読み取るのに苦労するくらいに変形や変色をきたしていた。だが、碑文を読み進むうちに私はいつしか深い感動にいざなわれた。文体はいくぶん古いものの、それは読む者の胸に切々と迫る名文であった。そして、そこには、まぎれもなく戦後の沖縄びとの心の原点が刻まれていたのである。
 こんな碑文があることなどこの辺戸岬にやってくるまで知らなかったし、その文章を沖縄関係の書籍やガイドブック、報道記事などで目にしたこともなかった。どうしてもその内容を記録しておきたいと思った私は、その碑の近くに腰をおろしてノートを開くと、その碑文の刻字を一文字一文字書き写しはじめた。かなり時間のかかる作業であったが、そんなことなどすこしも気にはならなかった。
 私が碑文を書き写している間にも、たくさんの観光客が私の脇を通り過ぎて行ったが、ほとんどの人はその碑に何の関心も示さなかった。だが、碑の前で足を止める人がまったくなかったわけではない。一人の日本人青年に案内されてやってきた在日米軍の家族とおぼしき一行は、碑の前に立つてVサインを出したりしながら皆でにこやかに記念撮影を繰り返した。その何とも無邪気で平和な光景を目にしながら、もしこの人たちが碑文に記された内容を知ったとしたらどんな反応を示すのだろうかと、私は内心で半ば苦笑せざるを得なかった。
 時代の潮流というものはすべての恩讐を風化させる。それは必ずしも人類の平和と友好にとって悪いことではないのだけれども、折々珍妙かつ喜劇的な光景を生み出したりもするものだ。そのとき目にした米軍家族一行の心から楽しそうな様子は、そのことを何よりもよく象徴するものであった。
 もしかしたら一部に写し間違いなどがあるかも知れないが、せっかくの機会だから、以下にその全文を紹介しておこうと思う。その意味するところをどのように受け止めるかは人それぞれであろうけれども、我々本土の人間が沖縄の基地問題や来年開催される沖縄サミットの意義などを考えるとき、なにかしらの参考にはなるに違いない。

         〈祖国復帰闘争碑〉
       全国のそして世界の友人に贈る。
 吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。
 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。
 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。
 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。今踏まれている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのでもない。
 闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。

 碑文の筆写をほぼ終えかけたときのこと、私はもう一つ忘れられない光景にでくわすことになってしまった。ノートを広げてメモをとる私の姿が気になったらしく、一人の青年がさりげなく近づいてきてすぐ脇に立った。そして、彼はまるでこちらの視線に誘われるかのように、その碑文に目を通し始めたのだった。彼は混血の青年で、地元の大学の学生ではないかと思われた。しばらくその碑文を読んでいたその青年の顔がみるみる複雑な表情に変わっていくのを、そばの私は見逃さなかった。
 彼は半ば悲しげな、半ば怒りに満ちた様子で急にプイと石碑に背を向けると、来た道をそのまま引き返して行ってしまった。おそらく辺戸岬の突端に立って海を眺めるつもりで来たのだろうが、彼は岬に行くのを途中でやめてしまったのだ。その原因が碑文にあったことは明らかだった。彼の心中は察するにあまりあるものがあった。もし私の見かけたこの青年が沖縄駐留の米軍軍属と地元沖縄の女性との間に生まれたのであったとすれば、どんなにそれが沖縄の民衆の心を強く訴えかけたものだとしても、この碑文は彼にとって残酷なメス以外の何物でもなかったろう。
 沖縄の地で混血として生まれてきた彼には何の責任もない。そして生まれてきた以上、彼は沖縄で、さらには日本国内で生き抜いていかなければならない。しかし、彼の力では如何ともし難い日米間の過去の歴史的背景が様々なかたちで彼を苦しめることになっていく。しかもこの沖縄には彼と同じような境遇の人々が相当数生活していて、その数は現在も一定割合で増加しつつあるはずだった。私が出逢った青年はそれなりに教育を受けている感じだったからまだよかったが、おそらく、十分な教育を受けられないままに苦しんでいる人々も多数あるに違いない。そんな人たちが沖縄で安定した仕事を探すのは容易なことではないだろうと思われた。
 祖国復帰闘争碑の向こうにある平坦地を通り抜け、辺戸岬の突端に立つと、北方はるかに与論島の島影がうっすらと望まれた。眼下は隆起サンゴ礁特有の高さ二十メートルほどの絶壁になっていて、青潮が激しく打ち寄せ砕け散っていた。東支那海と太平洋を繋ぐ海峡をはさんで与論島までは二十二キロ、小舟でも二時間足らずの距離だったが、一九七二年に沖縄が日本に復帰するまでは、その間に目に見えない国境北緯二十七度線が引かれていた。
 碑文にもあるように、祖国復帰を願う当時の沖縄の人々は年に一度この辺戸岬の広場に集まって大集会を開き、夜には巨大な篝火を焚いて、同様に篝火を焚く与論島の人々と呼応し合ったという。また、辺戸岬近くの宜真名の港からでた小舟の群れは北緯二十七度線を越え、、与論島からやってきた小舟の群れと合流し、互いに接舷し灯火を点して祖国復帰実現のための海上集会を催したのだった。
 岬から車に戻る途中で喉を潤すために売店に立ち寄ったが、若い売り子の女性たちはやはり混血の人たちだった。これは私の思い過ごしだったかもしれないので、断定はできないが、南部や中部の沖縄観光の中心地からはずれて沖縄北部や北東部に向かうにつれて、白人系より黒人系の混血と思われる売り子が多くなっているのは少々気になった。やはり、そうならざるを得ない何らかの事情が隠されていたのだろうか。
 
 辺戸岬をあとにした私は、沖縄本島でもっとも昔のままの姿を留めているといわれる東北部の海岸線や国頭山地の東側山麓一帯をめぐる道路を走って、中部の宜野座村、金武町方面に抜けることにした。辺戸岬からほどない「奥」といういう集落は、その名の通りに奥ゆかしく、とても静かな集落だった。燦々と降り注ぐけだるいばかりの陽光とは裏腹に、まるで遠い昔に時間が止まってしまったかのように静まり返る家々のたたずまいは、沖縄南部の市街地や中西部のリゾート地帯の様子から想像もできないものだった。
 太く厚い筒状の真竹を縦半分に切り割ったような形の赤瓦を丹念に並べ、それらを分厚い漆喰で固めた低い屋根を持つ平屋と、その四方を囲うがっしりとした石垣などは、この地ならではの猛烈な台風にも耐え得ることを想定したものに違いない。長年の生活の知恵としてこのような造りの家々が生まれたのだろうが、周辺の自然や南国の太陽と実によく調和していて美しかった。いくつかの家々の屋根を飾る獅子形の守り神シーサーを仰ぎ見たり、あちこちに咲くブーゲンビリヤやハイビスカスの花を愛でながら、私はしばらく時を忘れて集落内を歩き回った。
 奥集落から東寄りにしばらく走って沖縄本島北東端の海岸線に出ると、道は大きく南に向きを変えた。進行方向左手には太平洋が広がり、どこまでも続く無人の浜辺に向かって磯波が静かに、しかし絶え間なく打ち寄せている。いっぽうの右手山岳部の斜面一帯は、亜熱帯性の樹林で深々と覆われ、容易には人を寄せつけない気配だった。
 本物の磯浜のみの持ち具えるある種の匂いを潮風の中に嗅ぎとった私は、伊江川近くの海岸で車を駐め、浜辺に降り立った。思った通り、そこにはまったく人手の加わっていない自然の磯浜だった。浜辺一面に無数の白い珊瑚の断片や珍しい貝殻が転がり、すこし沖の遠浅の部分は磯辺に沿って帯状に発達した大小の珊瑚礁群からなっていた。人工的に整備されたリゾート地の恩納海岸や奥間ビーチと違って荒々しく無愛想な感じではあったが、これはまさしく、幼い頃に私を育んでくれたのと同質の、本物の潮の香りと輝きをもつ海と浜辺に違いなかった。
 日差しもほどよい強さだし、水も青々と澄みきっていて、水中の生物の息づかいがいまにも聞こえてきそうな感じである。これで泳がない手はないだろう。誰もいないのをよいことに、幼年時代を懐かしみ、生まれたままの姿、すなわち「フリチン」で飛び込んでみたいという想いも一瞬募ったが、己の歳を考えるとさすがにそれは気がひけた。そこで、いったん車に戻って持参の海パンにはきかえ、ゴーグルをはめて出直すと、喜々として無人の海中に飛び込んだ。
 「泳げなければ人間でない」というよりは、「潜れなければ人間でない」と村の誰もが考える島育ちの私なので、荒磯での泳ぎや素潜りは得意である。ちょっと沖に出て海中を覗いてみると、予想に違わず大小の美しい珊瑚が群をなして発達していた。珊瑚礁の根元に潜り、藻や海草を掻き分けて貝を探し、人懐っこい色とりどりの魚たちと戯れるうちに、いつしか私はすべての憂いを忘れ去り、なんとも満ち足りた気分になった。調理具を携行していなかったので貝を採るのはやめたが、食べられそうな貝がいたるところに生息していた。
 海からあがったあとで潮気を洗い流せる場所は近くにはなかったが、子どもの頃からこの手のことには慣れっこだったから、多少の身体のべとつきは気にならなかった。それどころか、他に人影のない沖縄の美しい海を独占して泳ぎ回るという望外な体験まで積むことができたので、海からあがっても気分は爽快そのものだった。
 車に戻って一息ついた私は、次なる目的地、タナガーグムイを目指して再び走りだした。グムイとは川の淀みや滝壺のことである。タナガーグムイは安波川の支流、普久(フークー)川の上流にある秘境で、一帯の湿地や滝壺周辺には国の天然記念物に指定された珍種の植物が群生しているということだった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月16日

ある沖縄の想い出(6)
新旧の沖縄の狭間にて

 タナガーグムイに向って山間部を通過中、突然、バリバリバリバリという不気味な轟音がどこからともなく響いてきた。しかも、エンジン音をかき消すくらいに激しいその音は繰返し繰返し聞こえてきた。機関砲を連射している音のようにも、軍事用のヘリコプターが超低空で飛行している時の音のようにも思われた。おそらく沖縄駐留の米軍が、近くの山岳地帯でなんらかの軍事訓練でもやっていたのだろうが、豊かな自然と静かな環境の残る沖縄東北部にはなんとも不似合いな物音だった。
 タナガーグムイの入り口は安波方面へと続くダートの山岳道路の右脇にあった。よく注意していないと見落としてしまいそうなほどにその場所は目立たなかった。車を近くのスペースに止めたあと、軽い気持ちでその入り口に立った私は、予想外の状況に思わず息を呑んだ。私の立つ地点から眼下の谷底に向かって、人間一人が降りるのにやっとなほどの隘路が四十五度ほどの急角度で一直線に落ち込んでいたからである。そして足元の鉄杭に一端を固定された太く長いいロープが一本、その隘路に沿って張られていた。どうやら、そのロープを伝って下に降りろということらしかった。こんなところを訪ねる物好きはめったにないとみえ、あたりはしんと静まり返り、人の気配はまったく感じられなかった。
 私はロープにつかまり身体のバランスをとりながら、脆い砂岩質の岩と粘土質の赤土のむきだした急斜面を降り始めた。若い頃に山歩きや沢登りをずいぶんとやっていたから、その程度のことはたいして苦にならなかったが、もし雨が降っていたら赤土で身体中泥々になっていたことだろう。谷の底は割合平坦になっていて、沼地の水辺伝いに細道を少し歩くと、滝の注ぎこむ淀のそばにでた。あたりの岩盤は様々な形に侵食されていて、奇岩怪石と呼んでよいような岩々がいくつか立ち並んでいた。
 流れる水はかなり鉄分を含んでいる感じで、淀の周辺の岩や緩やかな滝の川床の基盤はちょっと赤茶けた色をしていた。一帯はかなりの広さの湿地帯になっていて、初めて目にする様々な植物類が繁茂していたが、それら一つひとつの名称は門外漢の私にはよくわからなかった。リュウキュウアセビ、アオヤギソウ、コケタンポポ、ヤクシマスミレなどの珍種奇種も群生しているとのことだったが、花のシーズンを少しはずれていたこともあって、これがそうかなと思う程度で、十分には確認できなかった。
 タナガーグムイに流れ込む川の上流側は鬱蒼とした亜熱帯樹林になっていた。滝から流れ落ちる水に手を入れているうちになんとなく奥に分け入ってみたい気分になって、ちょっとだけ前進しかけたが、そんな私の足を引き留めたのは前方に現れた一枚の黄色い警告板だった。髑髏のマークが描かれたその警告板には英語で「WARNING!」と大書され、その下にやはり英語で警告理由を記した一文が添えられていた。いつごろ建てられたものかは定かでなかったが、それは駐留米軍の衛生管理当局の手によるもので、水遊びや探検ごっこにやってくる人々に注意を促す内容だった。
 詳しく目を通すまでは、一帯のあちこちに棲むハブなどに注意するよう促したものかと思っていたが、警告の内容はそうではなかった。それは、この付近には熱帯性の特殊な有害水生細菌が生息しているので、水遊びなどは慎むようにという内容の警告文だった。アメリカ人などは家族や仲間内でちょっとした冒険がらみのフィールドワークを楽しむことが多い。そういった人々向けの警告板なのだろうが、日本の当局によって建てられたものではなく、米軍の管理当局の手によって建てられたものであるということは、過去の沖縄の状況を無言のうちに物語るもので、なんとも興味深いかぎりだった。もしかしたら、かなり前に建てられたものがそのまま残っていたのかもしれないけでども……。
 再びロープを頼りに急斜面をよじ登りタナガーグムイをあとにした私は、安波の集落へと下っていった。安波川のすぐ近くまで山の斜面が迫り、その山裾に段状をなして古い造りの民家が立ち並んでいる。現在はどうなっているのかわからないが、当時はほとんどが昔ながらの茅ぶき屋根の沖縄民家で、その風情豊かな光景を通して、遠い時代の沖縄の姿の一端を偲ぶことができた。車から降りて集落の細い小路を歩いてみると、隅々まで実によく手入れが行き届いていて、各々の家の門口付近には亜熱帯種の美しい花々が鮮やかな彩りを競うかのごとくに咲き誇っていた。集落一帯はどこも静まり返っていて、その不思議な静けさが心身の奥底までじわじわとしみとおってくる感じだった。
 安波を出てしばらくすると、車は与那覇岳の東山腹に差しかかった。先にも述べたように、この与那覇岳の東側一帯はノグチゲラやヤンバルクイナが生息するので有名なところである。むろん、よほどの幸運に恵まれないかぎりそれらの珍鳥にはめぐりあえないとわかっていたので、とくに期待もしていなかったが、そんな鳥たちの棲む豊かな自然の中を走るのは気持ちのいいことだった。
 与那覇岳の山麓を過ぎると、車道は複雑な山岳地形を避けるかように海岸線のほうに向かって下り始め、ほどなく海辺からそう遠くない平坦地に出た。大泊、大工泊、魚泊、宮城、川田と海岸に線沿う小集落を抜け、やがて車は平良湾に面する東村の中心集落平良に入った。そして、平良から宇出那覇のT字路に出て左折、しばらく道なりに南下していくと慶佐次の集落に着いた。この集落の位置する慶佐次川の河口にはヒルギ、すなわちマングローブの群落が形成されている。海水の塩分にも耐えるヒルギ林は南の島ならではのもので、その独特の枝ぶりや葉の形、根の張りかたなどを実際に目にしたのはその時が初めてだった。
 慶佐次から有銘湾をめぐって再び山中に入り、しばらく走ると大浦湾沿いの集落に出た。眼前にひらけた湾をはさんで進行方向左手に大きくのびだして見えるのは辺野古岬のようだった。大浦湾から辺野古岬一帯は名護市に属しており、来年開催される沖縄サミットにおいてはこのあたりが中心会場になる予定で、現在開発整備が進められているという。また、普天間飛行場の代替として海上基地の建設地の候補にあがっているのも、名護市の東海岸にあたるこのあたりにほかならない。むろん、その時点においては、世の喧騒から隔離された美しく静かなその地が、やがて国際政治劇の渦中に巻き込まれることになるなど想いもよらぬことではあったのだ。
 辺野古岬をめぐり、宜野座村を経て中部の金武町に入ると、周辺の雰囲気が一変した。いかにもアメリカ的な感じの建物が立ち並び、見るからに基地の町という独特の空気が漂っている。考えてみると、キャンプハンセンをはじめ、金武町内の七割が駐留米軍の軍用地となっているというから、街並み全体がどこかけばけばしい感じがするのはやむを得ないことだった。由緒ありげな町名につられて沖縄古来の静かな農村風景を期待するほうが無理というものではあった。
 金武の街並みを通り過ぎ、舗装整備の行き届いた金武湾沿いの道に出ると、屋嘉ビーチを左手に見ながら石川市方面に向かっていっきに走り抜けた。左手海上はるかに浮かぶ島影は、翌日に訪ねるつもりでいた平安座島、宮城島、伊計島のもののようだった。東海岸の石川市と西海岸の恩納村仲泊の間は、沖縄本島がもっとも細くくびれている部分である。石川市に入った私は、東海岸沿いに南下する幹線路から西に分岐して仲泊に出ると、西海岸伝いに残波岬目指して走りだした。できることなら、残波岬で西の海に沈む美しい夕日を見たいと思ったからだった。
 旅先にいるとすぐに夕日を追いかけたくなるというのは、私の困った習性の一つである。子どもの頃に身についてしまった厄介な習癖で、ほとんど「夕日中毒症」とでも呼んだほうがよい状態になっている。サン・テグジュペリの「星の王子様」の中に、一日何回も夕日が見られる小さな星の話が出てくるが、もしかしたら、サン・テグジュペリも私と同病だったのかもしれない。この厄介な病を抑えるには、誰か素敵な女性にでも旅先まで同行してもらい、日没の時刻が近づいたら「私と夕日とどっちが大切なのよ!」と強引に迫ってもらうくらいのことをするしかない。
 朝日のほうはどうかといえば、まあ、けっして嫌いではないが、旅先で常に早起きしてそれを見るというまでのこだわりはない。そもそもフリーランス人間というものは、朝は弱いと相場が決まっている。北アルプスの山の頂で見るモルゲンロート(朝焼け)のような例外もあるにはあるが、美しさという点では、一般的には滅びの影を秘めた夕日のほうが素晴らしい。
 余談になるが、日の丸というのは、「日出る国の天子云々…」の聖徳太子の言葉を待つまでもなく、エネルギッシュな朝日をイメージしたものに違いない。与党筋に日の丸大好き人間の先生方が多いのも、一歩間違うと「見よ東海の空明けて旭日高く昇るとき…」というアナクロニズムに通じかねないイメージへの思い入れがあってのことだろう。少しくらいは夕日の厳粛さをイメージした日の丸でもあれば、夕日派の私などももっと