「マセマティック放浪記」
1998年10月12日
八手の葉の意外な実像は?
この夏、仕事で上野に出向く機会があった。予定よりすこし早目に着いたので上野公園をぶらついていると、園内の片隅に八つ手の樹が生えているのに気がついた。なにげなく近づいて子葉の数をかぞえてみると、なんと九枚もあるではないか。
まさかそんな?……と思いながらべつの葉を調べてみるとやはり九枚の子葉がある。なお我が目を疑いながら手当たり次第に子葉の数をチェックしてみると、意外なことが判明してきた。ほとんどの葉は子葉が七枚か九枚で、それらの葉のなかに、成長途中のものらしい三枚あるいは五枚の子葉をもつものが一定割合で混じっている。驚いたことに八枚の子葉をもつ八つ手の葉など一枚も見当たらないのだ。
どうやら、八つ手の葉は、はじめ先端が三つに分かれたあと、外側の両子葉がそれぞれ二枚ずつに分かれて計五枚の子葉をもつ葉となり、さらにまた左右両端の子葉が二枚ずつに分かれて七枚の子葉をもつものへと成長するらしい。そして最後に七枚の子葉の両端がそれぞれ二分化し、九枚の子葉をもつ完全な「八つ手の葉」となるようなのだ。これでは「看板に偽りあり」もいいところで、八つ手の団扇がトレードマークの天狗様も真っ青の事態である。いや、案外、天狗様のほうはとっくにその事実をご存じで、よけいなことを騒ぎ立ててくれるなと、苦虫を噛み潰したような顔をしておられるのかもしれない。
七と九の平均値は八だから、この植物を「七手」でも「九手」でもなく「八つ手」と呼ぶようになったのは、便宜上やむをえないことかもしれない。我が国では古来「八」という数字が全方位を表す縁起のよい数だとされてきたことなども、そんな呼称が定着した理由の一つではあるのだろう。だが、「八つ手」という呼称がその植物の実像に正しく迫るための観察眼を曇らせ、観念上の虚像を本物の像だと錯覚させてしまうとなると、話は笑いごとではすまなくなってくる。
実を言うと、もともと理論とはこの「八つ手」という呼称のようなものである。ある一群の事柄の全体像を平均的にはよく表しているが、個々の事柄には必ずしもよく当てはまらない。換言すれば、理論というものは、個々の事柄のもつ極端に偏った特性を捨て、事柄全体にほどほどに当てはまる一般的な特徴や性質を「法則」としてまとめあげたものにほかならない。このようにして導かれた大小様々な理論は、相互に結びつき多重に積み重ねられてさらに大きな理論を構成していくことになる。したがって、理論が肥大化していくにつれて、見かけ上はどんなに立派でも現実とはどんどんかけ離れたものになっていくことが多い。そして、このような理論が盲信的あるは意図的に社会政策や生産活動に適用されるとき、目に見えない形で大きな不利益を被るのは我々一般市民なのである。
肥大化した理論に疑問を抱いたとき、その欺瞞を見抜く唯一の手段は、自らの目を信じて理論の原点へと立ち戻ることである。七枚か九の子葉をもつものしかない「八つ手」の実像を見すえて、その呼称の表と裏それぞれのもつ意味を深く考えてみることである。この一連のコラムでは、いろいろな角度から折々そんなことなども取り上げてみたい。
「マセマティック放浪記」
1998年10月21日
蝉の音出すスピーカー
八つ手の話を書いていて、寺垣武さんのことを想い出した。「日本のエジソン」という異名をもつ寺垣さんは、工業界では半ば伝説の人物と化した天才技術者だ。
理論というものは両刃の剣で、その限界や短所を見すえて用いれば未来を切り開く強力な武器にもなるが、見かけだけの正しさを鵜呑みにして振り回すと、発展を阻害し、一瞬にしてその命脈を断つ凶器となる。肥大化し現実から乖離した理論に疑問を抱いた技術者がとるべき道は、理論の原点に立ち戻って考えることである。
だが、それはけっして容易なことではない。数式でものものしく武装され、一見完璧に見える理論の根底に迫り、問題点を的確に究明するには、卓越した能力や一貫した理念にくわえて、人一倍の勇気と良心を必要とするからだ。それだけの能力と資質をもつ技術者はきわめてすくない。寺垣さんは、我が国ではまれなそんな技術者の一人である。オーディオシステムΣ5000の開発だけをみてもそのことがよくわかる。
寺垣さんは、ふとしたことから、専門外のオーディオの研究を始めて間もなく、アナログレコードに音響情報を刻み込むとき消費されるエネルギーに比べ、レコードから音を再生するときに要するエネルギーが小さすぎることに気がついた。そこで、最新のレーザー技術を用いて従来のアナログレコードに刻まれた複雑な溝の形状を精細に調べてみると、驚くほどに膨大な情報が隠されていることが判明した。それまでのプレイヤーは、再生に際して、アナログレコードがもつ音響情報のほんの一部しか読み取っていなかったことになる。
プレイヤー自体の微妙な震動や内部の定常波の反射が原音情報に変調をもたらしていることも問題だった。極力変調を抑えるためラバー類や油脂類を一切排除し、軸芯やアームに特殊な工夫を凝らして寺垣さんが完成させたΣ5000システムは、何十年も前のモノラル盤レコードでさえも現代のCDを凌ぐほどに良質で立体感のある音響情報を秘めそなえていることを実証してみせた。
そのいっぽうで、寺垣さんは驚異的な性能をもつスピーカーの開発にも成功した。わずかなエネルギーしか消費していない蝉の鳴き声が遠くまで響き渡る理由を追究したことが、新スピーカー開発のきっかけになったという。きれいに波長のそろった物質波は、低エネルギーのものであっても、いったん音波に変わると、やわらかく澄んだ響きとなって遠くまでよく通る。独創的な波動理論に基づいてバルサ材を素材に設計された薄型スピーカーは、たった3Wたらずの出力にもかかわらず、信じられないような音響と音色で大ホールを包み込み、何百人もの聴衆を感動させるという奇跡をも演じてみせた。
近くで聴いても遠くで聴いても、前後左右どの位置で聴いても音質に変わりがないこの全方位型スピーカーは、過去の常識を超越した逸品中の逸品だと言ってよいだろう。その音を聴いたオーディオ研究者や音楽家たちは、皆、異口同音に驚きの声をあげる。
寺垣さんは、CDをはじめとする最近のオーディオ技術は、芸術家に対する冒涜だとさえ語っている。収録された原音を忠実に再生するのではなく、技術者の感覚と判断で原音を変調したり加工したりして再生するからだという。
Σ5000はCDの再生においても他のシステムを寄せつけない。だが、CDの情報は、原音の連続情報を人為的に強制分割し、不連続なデジタル情報に変換入力される時点でかなりの変調が生じている。さらに情報再生の過程で人の耳に馴染みやすい音質への加工がおこなわれるため、原音とはかなり異質な音になってしまうのだという。
一八七七年にエジソンが蓄音機を発明してからCDが普及するまでの間にアナログレコードに蓄積された膨大な情報は、歴史的にみてもかけがえのない文化遺産であり、それらを時流の中に沈め捨て去ることは人類にとって大変な損失だと、寺垣さんは熱く語る。その美しく澄んだ瞳の輝きに、私は寺垣哲学の神髄をみる思いである。
「マセマティック放浪記」
1998年10月28日
ジョーと晩酌を交わした日々
東京多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーがこの十月二十日に死んだ。推定年齢四十一歳、チンパンジーとしてはたいへんな長寿だったらしい。
今年の八月にたまたま東京都立多摩動物公園の吉原耕一郎さんにお会いする機会があったが、その時に名ボス、ジョーのことも話題にのぼった。吉原さんといえば、ゴリラやチンパンジーの飼育を手掛けて三十余年、霊長類の研究者としても広く知られ、テレビなどでもおなじみの方である。
動物園の飼育係というと、餌をやったり檻の中を掃除したりするオジサンのことだと思われがちだが、実際には、吉原さんをはじめとして、有名な大学の大学院などで動物生態学や生物学などを修めた人が少なくない。飼育係とは俗な呼称で、実はれっきとした動物の専門研究者なのである。
吉原さんからチンパンジーの生態についてお話を伺ううちに、我々人間は文字通り「猿にも劣る存在」なのではないかという気分になってきた。自分が、霊長類ヒト科ヒト目ヒトではなく、霊長類サル科サル目ヒトに分類されてもおかしくないのではないかと思われてきたからたった。
チンパンジーと長年つきあっていると、チンパンジーも人間に似てきますが、人間もチンパンジーに似てくるんですよ。人間は異常なチンパンジーだし、チンパンジーは異常な人間なんですよ――そう言って笑う吉原さんのことばには妙に説得力があった。吉原さんの風貌や身振りがどことなくチンパンジーのそれに似て見えたことも、その一因だったかもしれない。
マスコミなどで、チンパンジーの知能は幼児並みだなどと報道されたりしているが、それは何の根拠もないことなのだという。確立されたチンパンジーの知能測定法があるわけではなく、どれもがいい加減な推測に過ぎないのだそうだ。長年にわたる自らの経験を通してみるかぎり、彼らの知能は想像以上に高いようだと、吉原さんは語る。
ニホンザルの社会は、ボスザルや上位のサルが弱者を支配し弱者の物を収奪する専制主義ないしは封建主義型社会だが、チンパンジー社会は管理型社会なのだという。チンパンジーのボスは会社の管理職みたいなもので、人望ならぬ「猿望」、なかでも、雌のチンパンジーたちからの信頼がなければ務まらないものらしい。主なボスの仕事が、外敵から群を守ることや、仲間内の争いごとの仲裁であることは言うまでもない。
チンパンジーが一対一で喧嘩をすることはすくないらしい。普通は、それぞれが仲間をつくり複数で争うからだ。ボスのチンパンジーは、そんな争いを遠くからさりげなく眺めているが、収拾がつかなくなるようだと、仲裁にはいる。
その判断と処理は的確で、強者と弱者の間にはいるときには、強者に顔と体を向け、背中で弱者をかばうという。ルール違反の加害者から被害者を守る場合も、加害者に顔と体を向け、被害者を背後におく。争いの当事者のどちらが悪いかを実によく見きわめており、裁定を誤ることは滅多にない。
だが、「猿も木から落ちる」の諺通り、さしものボスもたまには判断ミスをおかす。そんなときには想わぬ事態が起こるらしい。多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーが、あるとき、被害者と加害者の識別を誤った。裁きに納得のいかない真の被害者のチンパンジーのほうは、手足を激しくバタつかせながら鳴きわめいて抗議し、周囲の仲間たちに裁きの不当性を訴えかけた。すると、多くのチンパンジーがそれに同調し、有力な雌たちが結束してジョーに批判的な態度をとったり、ジョーのことを無視したりしはじめた。
すっかり自信を喪失したジョーは、ノイローゼ状態に陥って、毎日飼育場の片隅に座り込む事態となった。ピーンと天を突くべき象徴物もうなだれっぱなしの有り様とあって、雌たちからはますます馬鹿にされ、事実上ボス不在となった群は大混乱をきたしはじめた。
獣医と相談し、人間の場合と同様に精神安定剤を投与しようかという話にもなったが、それなりの問題もあるのでもうすこし検討しようということになった。その時、吉原さんにあることがひらめいた。人間なら、ストレスがたまると一杯やって憂さ晴らしをする。チンパンジーが人間に似ているというなら、ちょっと晩酌をやらせてみたらどうだろうというわけだった。
吉原さんはジョーを特別室に隔離すると、彼のために蜂蜜で割った特性のウィスキーを用意し、自らもグラスを手にしてどっかりと座り込んだ。かくして、多摩動物園の一隅で、人間とチンパンジー2人、いや1人と1猿の間で奇妙な酒宴が繰り広げられることになった。ベテランの飼育係と長年生活をともにしたチンパンジーは、普通に話す人間のことばを9割以上理解するという。むろん、飼育係のほうもチンパンジーの心が手にとるようによくわかる。吉原さんは、人間を相手にしたときとまったく同じ調子で話しかけた。もし事情を知らない者がその様子を見ていたら、思わず吹き出し呆れはてたに違いない。
吉 原:ジョー、おまえも大変だよな、まあ、一杯やって元気だせよ!
ジョー:オレナァ、モウ、ヤンナチャウヨ!、メスドモガ、ヨッテタカッテ、オレノコト、バカニスンダモンナァ……。
吉 原:おまえの気持ちもわかるけどよぉ、元気になってまた番張ってもらわんと俺も困るんよ。おまえらの群がいまのまんま混乱し続けたらよぉ、俺だって首になってオマンマの食い上げになるかもしれんのよ……頼むよ、なぁ!
ジョー:タツモンガタタント、モウドナイモナランヨ……ンデ、ホントニ、コレノムト、ビンビンニナルンカイ?
吉 原:いまばやりのバイアグラじゃねえからよぉ、飲んだからってすぐナニができるわけじゃないけどさぁ、気分がよくなってぐっすり眠れはするぜ……。
ジョー:フーン、オメーニモ、クローカケルヨナァ。ジャ、マァ、チョイトノンデミルカ、ドレドレ……。
吉 原:そうそう、もっといっきにグーッといきな!
ジョー:ウーン、コレ、ナカナカイケルワ……キブン、ヨウナッテキオッタシナァ!
ジョーが実際にそうしゃべったわけではないけれど、彼らはこれに似た心の会話を交わしたらしい。何時間かこうしてジョーに話しかけながら晩酌を続けていると、ジョーは気持ちよさそうに寝込んでしまった。そこで、吉原さんは、それから2カ月ばかり続けて、ジョーの晩酌の相手を務めてみた。その効果はなんとも絶大で、すっかりストレスのなくなったジョーの心身、いや心チンはたちまち元通りの力強さを取り戻し、その御威光のおかげで、チンパンジーの群は再び統率を得たのであった。
チンパンジーが精神的に落ち込んだとき対処療法として晩酌が効果的だという吉村さんのレポートは、ずいぶんと評判になり、テレビなどでも報道された。すると、それを聞いて共感した世のお父さんがたから、ジョーにウイスキーを贈りたいという申し出が折々舞い込んでくるようになった。
そんなとき、吉原さんは、最近うちのジョーは口が肥えましてジョニクロやレミーマルタンしか飲みませんのでどうかよろしく、と応答してきたらしい。冗談ともしらず、一瞬ことばに詰まるお父さんも少なくなかったという。
吉原さんのほうがストレスをためこんだとき、ジョーにSOSを求めたのかどうかは聞き漏らしたが、案外、ジョーのほうは、あいつを陰で励ましてやっているのは俺だと自負していたのかもしれない。実際、ジョーを失って、いまもっとも悲しんでいるのは、ほかならぬ吉原さんなのかもしれない。
「マセマティック放浪記」
1998年11月4日
母ジャーニーとの対話
あるとき、ジャーニーという母親チンパンジーの胸に抱えられた赤ちゃんの様子がおかしくなった。そのままでは命が危ないとうので、特別室に親子を移し治療をということになったのだが、ジャーニーは、ぐったりした赤ちゃんを強く抱きしめ離そうとしない。気長に説得するしかないと判断した飼育係の吉原さんは、近づくと毛を逆立て、恐ろしい形相で睨むジャーニーをやさしくなだめにかかった。
そのままじゃ赤ちゃん死んじゃうよ、可哀そうだろう、治してあげるから渡してごらん……と懸命に語りかけるうちに、ようやくジャーニーは赤ちゃんを両手で差し出した。しかし、それを受け取ろうとすると、すぐに歯をむきだして攻撃的な表情をみせる。なんとかしてもらいたいのだが、どうしても手渡せないのだ。直接の手渡しは危険だと判断した吉原さんは、強い口調で、「ジャーニー、それなら赤ちゃんを床に置きなさい。そして、部屋の奥に行きなさい」と命令した。
ジャーニーがようやく赤ちゃんを床におろし、奥のほうへとさがったので、吉原さんが赤ちゃんを抱き上げ扉のほうに近づこうとした。その瞬間、ジャーニーの黒い体が突進してきた。チンパンジーが本気になったら、人間の体を引き裂くことなどなんでもない。さすがの吉原さんも、もうだめだと観念したという。だが、ジャーニーがつかんだのは、檻の扉の格子だった。それは、部屋の外に出ず、自分の見ている前でなんとかしろという、ジャーニーの意志表示だったのだ。
再び吉原さんの説得がはじまり、ようやく諦めのついたジャーニーは、肩を落として部屋の奥に戻った。そして、そこにあった麻袋を頭からすっぽりかぶって床にうずくまった。それは、とても見てはおれないという母親としての辛い気持ちのアピールだった。
重い肺炎にかかった赤ちゃんは、獣医の手に渡ったときにはすでに死んでいた。吉原さんは言いようのない思いにかられながらジャーニーのところへと戻った。すぐに飛んできたジャーニーは、胸に赤ちゃんが抱かれていないのに気づくとギクリとしたように足をとめ、吉原さんの顔をじっと見つめた。
吉原さんがゆっくりと首を振りながら、「ジャーニー、赤ちゃん死んでたよ。赤ちゃんはもう返せないんだ……」と語りかけると、ジャーニーはいきなり土下座し、床に額をこすりつけるようにして何度も頭をさげはじめた。それでも駄目だとわかると、今度は両手を重ねて前に差し出し、お辞儀をしながら赤ちゃんを返してほしいと哀願した。
吉原さんは、ジャーニーの前にしゃがんで、何度も何度もジャーニーに事情をを説明した。吉原さんの目の奥を覗き込むよにしながら聞いていたジャーニーは、ようやく諦めたように部屋の奥へと歩きかけるものの、すぐに引き返してきてまた正座し、頭をさげるありさまだったらしい。最後はジャーニーもすべての事情を納得してくれ、死んだ子どもにナンシーという名前までつけてやったのだそうだが、それはもう、心と心の会話そのものであったという。
あるとき、檻の中に忘れてきたタオルを拾ってくるようにチンパンジーに命じた。そのチンパンジーが差し出しかけたタオルを檻の格子の間から受け取ろうとすると、その瞬間相手はわざとタオルを足元に落とし、からかうような目つきで吉原さんの顔を見た。なめられてはいけないので、強い口調でもう一度やりなおしを命じると、格子のすぐ近くまでタオルを持ってきて、あとは自分で拾えといわんばかりにまたもや床に落とした。やむなく、しゃがんでそれを拾いあげようとしたが、引っ張っても動かない。なんと、そのチンパンジーが、馬鹿力を秘めた足の指でタオルの端をしっかりと押さえていたのだという。
ゴリラやチンパンジーは、成長の過程で折々飼育係に力較べや知恵較べを挑んでくる。それを「試し」などと呼ぶらしいが、「試し」をしかけられた者は、時をおかずに自分のほうが上手だということを相手に誇示しなければならない。そうでないと、次から言うことをきかなくなるからだ。
実際には相手のほうが腕力がまさるから、本気になって格闘したらとてもかなわない。だから、人間のほうが弱いと悟られないように、耳の付近を押さえて瞬間的にこらしめるのがこつらしい。たまたまチンパンジーを厳しく叱っているのを目撃したお客が、あの飼育係は動物を虐待していると管理当局へ抗議してくることもしばしばだという。
吉原さんがパンジーとデージーというチンパンジー二頭を相手に決闘した話は面白い。デッキブラシを二本持ち込んで床の掃除をしていると、パンジーがその一本をつかみ上手に床をこすりはじめたが、そのうちブラシの長い柄のほうを吉原さんのほうに向けてじりじりと詰め寄ってきた。デージーのほうもパンジーを煽り立てながら、吉原さんの背後に回り襲いかかる気配を見せた。檻に入るときは二重扉を内側から施錠するので、助けを求めたくても、誰も中にははいれなかった。
七歳のチンパンジーといえば猛獣に近い。それが二頭で本気になって襲いかかってきたら、人間はひとたまりもない。ただ、成長の過程でいずれこんな日がやってくるだろうと思っていた吉原さんは、挑戦を受けてたつしかないと腹をすえた。そこでひるんだら取り返しがつかなくなることは目に見えていた。学生時代剣道部の猛者だった吉原さんは、デッキブラシを正眼に構え、デージーを背後に回らせないように牽制しながら壁際まで後退した。その様子を見て勢いづいたパンジーが前に出ようとした瞬間、吉原さんは強烈な面の一撃を見舞い、返すブラシを力一杯横に払って連続業の胴をきめた。
悲鳴をあげて逃げ出すパンジーを横目に、正眼に構えなおしたブラシをデージーのほうに向けると、こちらのほうはすっかり戦意喪失してパンジーの背後に隠れてしまった。それからというもの、二頭のチンパンジーは吉原さんにはまったく頭があがらなくなったという。
若い頃ゴリラの飼育にあたっていた吉原さんには苦い経験がある。あるとき檻から出ようとすると、一頭のゴリラが悪ふざけでもするかのように扉の前に立ちはだかった。その場で叱ればよかったのだが、他のことに気をとられていた吉原さんは、そのゴリラが扉の前から立ち退くのを待って外に出た。
動物園の檻の扉は二重になっていて、一つ目の扉を開け、内側から施錠したあと二つ目の扉の前に立つ。その際、檻の中にはいるべきかどうか心に迷いがあるときは、絶対に中にはいるなというのが鉄則であるという。翌日ゴリラ舎の第二扉の前に立った吉原さんは、中に入ればやられると直感した。それ以降、そのゴリラが死ぬまで、吉原さんは問題の檻の中にはいることはなかったという。
それほど細心に注意を払っていてさえも、危険な目に遭うことは避けられない。チンパンジーに指を噛まれ重傷を負ったことや、怒ったチンパンジーに体当たりを食らい馬乗りになられて命を落としそうになったこともあるという。
吉原さんの一連の話を聞いていると、「猿の惑星」というSFもまんざら絵空ごとではないという気がしてくるし、霊長類の飼育係は仕事に自信を失ってノイローゼになりやすいという話も、十分に納得できる思いがする。
「マセマティック放浪記」
1998年11月11日
猿だといってなめんなよ!
多摩動物公園の吉原さんのところには、動物学専攻の学生たちが飼育実習にやってくる。その理由は明らかではないが、そんな学生を一目見ただけで、チンパンジーには、こいつらは1週間もすればいなくなってしまうとわかるらしい。どいつもこいつもアホづらしてるけど、ちょっとの辛抱だから、まあ言う通りになってやるか――なんてわけで、実によくその命令をきくという。
ところが、おなじ初顔でも、これから五年も十年もつきあわねばならない新人飼育係がやってくると、頑として言うことをきかない。先が長いっていうのに、オメーみたいな新米になめられてたまるもんかい――ということであるらしい。
指話をおぼえたチンパンジーなどは、見慣れた相手には一定速度でサインを送るが、相手が新米の人間とみると、小馬鹿にしたようにゆっくりと指を動かしながらサインを出すという。オメーが相手じゃ、手加減してやんねぇとわかんねぇだろうからな!――とでも考えているのだろう。
吉原さんが長年育ててきたベティという雌のチンパンジーがいる。ある日のこと、いつものようにベティと呼ぶとプイと横を向かれてしまった。そんな風にチンパンジーにそっぽを向かれるのは初めてだったので、呆気にとられてもう一度ベティと声をかけると、くるっと背中を向け、両手で頭を抱え込むポーズをとった。むろん、呼びかけ無視の意志表示である。想わぬ事態にしばし戸惑いを覚えたものの、そこはベテランの吉原さん、すかさず、「ベティさん」と「さん」づけで呼びかけてみた。すると、一瞬振り向いて吉原さんの顔をチラッと見たあと、また知らんぷりをきめこんだ。
そこで、敬意を込め、何度も「さん」づけで話しかけるうちに、ようやく機嫌がなおったのだという。仲間たちのと関係もあって、成長するにつれチンパンジーにもプライドが芽生えてくるらしいのだ。そんな行動が人間のことばを解してのうえであることは言うまでもない。
チンパンジー社会には「先取り特権」のルールがある。餌などを見つけた場合、第一発見者に先取権があり、物欲し顔の仲間たちに取り巻かれたりはするが、他の者がそれを力づくで奪い取ることはないという。餌などを仲間うちで分配し合うのもチンパンジーの特徴の一つであるらしい。「猿にも劣る」ということばがあるが、こんな話を聞いていると、「人間にも劣る猿にだけはなるなよ」と、彼らが互いに戒め合っている光景すら浮かんでくる。
人間とは声帯の構造が異なるため、人語をしゃべらせるのは無理らしいが、記号を用いると200〜300もの単語を学ばせることができる。すると、彼らはそれらの記号を組み合わせて意志表示をするようになる。尻尾の長い通常の猿をじっと見ていたチンパンジーが、突然、「オマエ、キタナイ、サル」という、それまで誰も教えたことのない表現をして人間を驚かせたのは有名な話だが、この程度の造語能力は彼らには普通にそなわっているのだという。
想像以上の知能をもつチンパンジーだが、彼らの身体能力もまた凄い。吉原さんは、チンパンジーは猛獣だと断言する。その握力は三百キロに近く、相手が本気で力を込めたら人間の指の骨などたちまち折れてしまう。腕力もたいへんなもので、八十キロもある鉄板を空中に放り上げ、すばやくその下をくぐり抜けるという芸当など朝飯前なのだという。脚力も凄じく、足で物を押さえたり引っ張ったりする力は三百五十キロにも達し、垂直飛びにいたっては、三・五メートルから四メートルにも及ぶのだそうだ。また、成獣の場合、体重は軽く八十キロを超えるから、全力で体当たりされたり、横に力いっぱいはたかれたりしたら、並みの人間は一発で致命傷を負い、ダウンしてしまうという。
よく、三輪車や自転車に乗る芸達者なチンパンジーがいるが、ふだん遊んでいるときにそれらを与えても絶対に乗ることはないらしい。彼らにとって、それは苦行にも近いことのようで、放っておくと、その馬鹿力をもって三輪車や自転車をグニャグニャ、バラバラに分解してしまうという。
「マセマティック放浪記」
1998年11月18日
青房は緑、力士の足首は細い
先の場所の話であるが、大相撲の取り組みを国技館の土俵下、いわゆる「砂かぶり」で見物する機会を得た。しかも向正面と呼ばれ、NHKテレビに大きく映し出される席である。正式には維持員席と言い、本来は相撲協会や相撲部屋関係者しか立ち入れない場所なので、当然その席の切符は売られていない。たまたまツテがあってそんな上席に潜り込むことができた。
お茶屋さんの案内で通されたのは行司だまりのまうしろあたりで、話に聞いていた通り土俵上や控え席の力士の顔や審判員の姿も手にとるようによく見えた。小さめの座布団1枚分のスペースしかなく、飲み食いも一切できないが、特等席なのは間違いない。
正面席のほうを見上げると、なるほどテレビカメラがこちらのほうを狙っている。両手にVマークを出してはしゃげる歳でもないし、うっかりハナクソなんかをほじっているところをアップで全国中継されたりしたらたまったもんじゃないから、まずはおとなしく姿勢を正しての観戦とはなった。
中入り直後に行われる幕内力士や横綱の土俵入りは、近くでじかに見ると、迫力もあり美しくもあった。土俵上にずらっと並ぶ力士たちの化粧回しは、デザイン、色彩、織り柄とも多種多様で郷土色に富んでおり、想像以上に素晴らしかった。向正面席のため、横綱の土俵入りはうしろ側から眺めることになりはしたものの、鍛えぬかれた筋肉を太い純白のまわしでグイと引き締めた勇姿には、ほれぼれとするばかりであった。三横綱のうちでは曙の土俵入りが最も迫力があった。もともと金剛力士像そっくりの顔と巨体の持ち主だから当然ではあるが、パカーン、パカーンと鋭く乾いた響きで場内にこだますその柏手の音は圧巻だった。
相撲の取り組みも面白かったが、めったに座れない席に陣取ったせいか、妙なところばかりに目がいった。まず気になったのは、土俵の四隅を飾る青、赤、黒、白の四本の房の色だった。黒房はその通りの色だったが、赤房はいわゆるエンジ色、白房は純白ではなくすこしくすんだ光沢のある白だった。
意外なのは青房で、実際は「青」ではなく鮮やかな「緑」なのである。「あお」という日本語はもともとブルーからグリーンまでの幅広い色調を表す言葉だから間違いではないのだが、一瞬戸惑いを覚えてしまった。もっとも「みどりぶさ」や「りょくぶさ」では語呂が悪いことこのうえない。
土俵は意外なほどに小さく見えた。大型力士が2人も土俵上に上がると、もうそれだけで満杯な感じで、そんな状況のもとでよくあれだけの激しい動きができるものだと感心もした。粘土を固めて造った土俵は高さが大人の太もも付近まではあり、帰り際に手を触れてみるとその上面も側面も文字通りカチカチだった。並みの人間なら土俵上から転げ落ちただけで大けがすることだろう。
控え力士はそれぞれに自分のしこ名の入った大きな座布団を付き人に運んでもらってそれに座る。取り組みが終わるとその座布団を運び出し、次の力士の座布団と入れ替える。館内の隅々までよく通ると言われる呼び出しの声は、すぐそばで耳を傾けると深く澄んではいるものの、むしろ細々とした感じに聞こえた。長年鍛えた独特の呼吸法によって腹の底から絞り出すように発せられるその声は、以前述べた寺垣式スピーカーのだす音や蝉の鳴き声などと同質のものなのだろう。
物言いのつく一番があって、5人の審判員が土俵上で協議をはじめた。皆が白足袋に白い草履を重ねばきしている。面白いのは草履のほうで、大人が子どもの草履を爪先につっかけた感じで、足裏の半分ほどしかカバーされていない。問題の一番は結局行司差し違えとなったのだが、土俵を降りていくその行司の顔は相当にこわばっていた。差し違えはないほうがいいが、いっぽうで行司の権威とは何だろうという思いがしてこなくもなかった。どうせなら、土俵下の5人の審判員に紅白の旗を持たせ、柔道の試合のように勝負を判定させたらどうだろう。いささか滑稽で威厳がなくなることは避けられないが……。
それぞれの懸賞のぼりが相当に凝った織り模様になっているのは意外だった。あらかじめ協会に登録したスポンサー企業しか懸賞のぼりを出せないシステムらしく、たとえ大金であっても、部外者がいきなり懸賞金を出すというわけにはいかないようだ。スポンサー企業は年間に何本懸賞を出さねばならない、といったような決まりなどもあるのだろうか。
勝ち力士が懸賞金の入った祝儀袋を手にする様は、まるで小さなトランプのカードを1枚つまみあげたみたいな感じである。100万円くらい入った厚く大きな祝儀袋でないと並外れた力士の手にはマッチしないのかもしれない。
力士の足首がその巨体に較べて驚くほどに細いのも印象に残った。曙や武蔵丸、琴の若といった巨漢力士でもその点は同じだった。一流の投手の手首が意外なまでに細いのと同じような理由からなのだろう。
大番狂わせはなかったので座布団が飛ぶことはなかったが、もし枡席(ますせき)から土俵上まで座布団を飛ばすとすれば、その距離から考えて相当な技術がいる。だから、実際には土俵の四方を囲む数列ほどの維持員席あたりからも座布団が飛ぶのであろろうが、それも維持員の仕事の一つというわけなのだろうか。まあ、この日の私みたいに怪しげな維持員もいることだから、そんなことが起こったとしても、べつに不思議ではない。帰り際、お茶屋さんで大きな紙袋いっぱいのお土産を頂戴したが、それはインスタント維持員の私への一日分の報酬でもあったようだ。
「マセマティック放浪記」
1998年11月25日
ドナルド・キーン先生
先月、埼玉県草加市で催された、国文学者ドナルド・キーン先生の「奥の細道」についての講演会を拝聴した。私事になって恐縮だが、二年前、「佐分利谷の奇遇」という紀行作品で第二回奥の細道文学賞を頂戴したとき、尾形仂、大岡信の両先生らとともに同賞の選考委員を務めておられたのが、ほかならぬキーン先生である。
もうずいぶんと昔のことになるが、「MEETING WITH JAPAN(日本との出会い)」という先生の著書を拝読し、日本文学にたいする先生の思い入れと造詣の深さに感銘したことがあるだけに、どのようなお話をなさるのか楽しみであった。
旧日本海軍による真珠湾攻撃の直後、コロンビア大学の学生だった先生は、志願してカリフォルニアの米海軍日本語学校に入校、そこで猛烈な日本語の特訓をお受けになった。四・五カ月で全員が日本語の新聞を自由に読めるようになるほどに、きわめて厳しい実践的な日本語教育だったという。大戦が勃発するとすぐに、先々の戦局の展開や終戦後における日米間の諸問題の処理をにらんだ米国政府は、海軍にこの日本語学校を特設し、日本語と日本文化に通じた優秀な人材の育成にのりだしたのである。鬼畜米英を合言葉に、いっさいの英語の使用を禁止した日本とは大違いであった。
この米海軍日本語学校からは、のちに日本文化の優れた研究者、紹介者として世界的に名を馳せる知日派の若者が数多く巣立っていった。キーン先生のほか、川端康成や三島由起夫の翻訳者として名高いエドワード・サイデンステッカー、ハーバード大教授で駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー、戦後まもなく様々な事情から歌舞伎をはじめとする各種伝統芸能の存続が危ぶまれたとき、文字通り力の限りを尽くしてそれらを死守したフォビオン・バウワーズなどは、皆この日本語学校の出身である。
キスカ島、アッツ島などの激戦地で、米軍日本語通訳・翻訳官という特務につかれた先生の日本文化への関心は、その仕事を通して日々深まっていったらしい。終戦後、コロンビア、ハーバード、ケンブリッジの各大学で日本文学を専攻、一九五三年には京都大学に留学された。来日の時点ですでに、和歌の二条派と京極派の違いや、近松門左衛門がその浄瑠璃作品に導入した能の要素、松尾芭蕉の弟子十人の俳風の特徴や相違などについて論じることができたというからおそれいる。
谷崎潤一郎、太宰治、三島由起夫らをはじめとする多くの日本近代作家たちとも深い交流のあったキーン先生は、毎年六ヶ月はコロンビア大学で教鞭をとり、残り六ヶ月は日本にあって、日本文学の研究に没頭するという生活を今日まで続けておられる。古典から現代文学に至るまで、そのお仕事は幅広く、しかも奥深い。大蔵流の家元に弟子入りして狂言を学び、「青い目の太郎冠者」の異名をものにされたことからも、日本の伝統文化にたいする先生の思い入れの深さが伺い知れる。昭和三十年には大好きな芭蕉を偲んで、実際に奥の細道の旅を試みもなさったというから、先生は、日本人以上に日本人的な方であると言うほかない。
日本文化の素晴らしさは外国人にはわからないなどというのは、とんでもない誤解で、外国人だからこそその真価がわかることも多い。浮世絵の価値に気づいたのも、明治初期に排仏毀釈運動が起こったとき仏像の貴重さを見抜き、その保護を訴えたのもほかならぬ外国人たちだった。
松尾芭蕉の「奥の細道」は、現在の四百字詰めの原稿用紙に換算するとわずか三十五枚ほどの作品でる。意外なほどに短いその作品の完成に、なぜ芭蕉は五年もの歳月をかけたのだろう。そのあたりの問題について、自他の新説や新解釈を交えながらキーン先生がなさった講演は実に興味深いものだった。講演内容をすべて記載することはできないが、以下にその一端を紹介させてもらおうと思う。
「マセマティック放浪記」
1998年12月2日
「奥の細道」にもフィクションが?
一般には、「奥の細道」という作品は、芭蕉がその旅の実体験をほぼそのまま述べ記した紀行であると信じられている。だが、芭蕉の随行者だった曽良の随行記、いわゆる「曽良日記」の発見や、最近話題になった芭蕉真筆本の出現、さらにはそれらの資料をもとにした専門家たちの厳密な研究と考証によって、近年、意外な新事実が次々に明らかになってきているという。
さきに草加市で行われた講演で、ドナルド・キーン先生は、そのあたりのことについて興味深い話をしてくださった。学識豊かな先生のことゆえ、当然講演の内容は多岐にわたったが、「奥の細道にも実はフィクションの部分があった」というお話などは、私のような素人にとっては大変興味深いものだった。
「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的価値が落ちるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」とあらかじめお断わりになったうえで、先生は具体的にいくつかのフィクション部分を指摘された。
自らの作品を納得ゆくまで推考し、何度も手直しするというのは、芭蕉の常であったらしい。したがって、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないという。芭蕉は自然体のままでさらさらとあのような秀句を詠んだ、とばかり信じていた私などは、その話を聞いたあと、自分の無能さを棚にあげ、いささかほっとした気分になりもした。
山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、
閑さや岩にしみ入る蝉の声
は、完成に至るまでに少なくとも三回は手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったのだという。また、旅立ちに際し、見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、
行く春や鳥啼き魚の目は泪
にいたっては、奥の細道の旅を終えたのちに作り加えられたものであるというから驚きだ。
明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、
あらたふと青葉若葉の日の光
という句だそうで、曽良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉一行の日光来訪時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝いてなどはいなかったらしい。
また、「石の巻」の段には、
山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町についたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった。
という主旨の記述がある。ところが、実際には、当時の要港、石の巻周辺の道路はそれなりに整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだというし、泊まった家もほんとうは地元商家の立派な邸宅だったのだそうだ。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、やむをえなかったこととはいえ、彼自身は資産家と縁を結ぶことを誇りとは思わなかったうえに、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描く陸奥の情景とは違ったものであったからではないかと考えられるという。
荘厳に輝く中尊寺光堂に感動してで詠んだといわれる、
五月雨の降りのこしてや光堂
の句だが、曽良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは何もみることができなかったようである。だから、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂を、芭蕉は想像力を駆使し、心の眼で透視し、その心象風景を歴史的な名句として詠みあげたことになる。ただもう見事というほかはない。
芭蕉は現在の四百字詰め原稿用紙で三十五枚ほどの奥の細道を完成するのに五年もの歳月をかけたという。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体を、きわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうと、キーン先生は語っておられる。壮大な旅路での数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心のなかで一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、「奥の細道」という普遍性の高い作品へと結実したのだと、先生はおっしゃりたかったに違いない。実際、そうだからこそ、奥の細道は外国の人々にも愛読されるのであろう。
市民参加型の文化行政を進めている草加市の「奥の細道・芭蕉講演会」は先日のキーン先生の講演で第十一回目を数えるにいたった。草加市奥の細道まちづくり市民推進委員会によって「百代の夢(はくたいのゆめ)」という講演録も刊行されており、そのなかには、尾形仂、大岡信、有馬朗人、佐藤和夫などの諸先生をはじめとする十名ほどの方々の講演のほか、以前のドナルド・キーン先生の講演なども収録されている。装丁も芭蕉の精神をほうふつとさせるような、華美を排したシンプルなデザインになっており、約三百ページの書籍にしてはきわめて格安で好感がもてる。
なお、この本の末席に他に比べて格段に見劣りする場違いの講演が一つだけ含まれているので、その部分だけは迷わず無視なさったほうがよいだろう。その理由はご想像にお任せする。
余談になるが、なるべく労なくして奥の細道の追体験をしたいという、無精で欲張りな方々のために、とっておきの情報を提供しておこう。国道四七号線を鳴子から新庄方面に向かって走ると「尿前の関」跡に出る。芭蕉一行が役人にその身分を厳しく問われ、足止めを食らったところでる。関跡を右手に見ながら通過し、しばらくのぼると谷を横切る大きな橋にさしかかる。車を降りてその橋のたもとから谷筋沿いに細道を辿ると、ほどなく清流のほとばしる深い沢にいる。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、初夏の頃だと、どこからともなく澄んだ小鳥の声が聞こえてくる。
よほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えていった小深沢の六曲がりの古道にほかならない。当時のままの様相を留めているのは旧道のごくわずかな部分にすぎないが、行く手をさえぎる木立ちの枝々の下を左右にくねり縫う急傾斜の細道は、元禄時代の中山越え(奥羽山脈越え)の苦労と、当時の旅の雰囲気のほどを十分に偲ばせてくれる。二・三年ほど前、私も実際に歩いてみたが、芭蕉や曽良の話し声や足音がいまにも聞こえてきそうで、なんとも感慨深かった。往復で三・四十分程度しかかからないから、芭蕉通を自称する方々は一度訪ねてみるとよいだろう。
芭蕉一行はこの山道をのぼりつめたあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく出羽国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。そのときに詠まれのが、
蚤虱馬の尿する枕もと
という有名な一句である。キーン先生は、先の講演のなかで、この句は芭蕉の旅の精神の真髄を象徴するものだと賞賛しておられた。
天候の回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉たちは道なき道を分け進みながら山刀伐峠を越え、尾花沢の集落へと抜けていったのである。
「マセマティック放浪記」
1998年12月9日「二十数年ぶりの帰郷」〜1999年4月21日「さらば甑島、また逢う日まで」の紀行エッセーはこの南勢出版のホームページで「甑島再見紀行」として発売中です。
「マセマティック放浪記」
1999年4月28日、5月5日
黒鯛釣り紀行
続・黒鯛釣り紀行
黒鯛は信濃に棲む?
友人の米沢慧さんから、三河湾を抱える渥美半島突端の伊良湖岬沖に黒鯛釣りに行かないかと誘われる。米沢さんは、私が中年暴走族に仕立ててしまった評論家。老年暴走族に近いんじゃないかという口さがない連中もあったりする。米沢さんの大学時代からの親友で、私とも付き合いの長いジャーナリストの玉木明さんも同行するとのこと。この三人が一緒に出かけたら、ろくなことにならないことは目に見えている。
今回の鯛釣り旅行は、私のマニュアル・ワンボックスカーではなく米沢さんのオートマ乗用車で出かけることになった。四月二十一日水曜の午前七時にJR阿佐ヶ谷駅南口で待ち合わせ、直ちに出発。コース取りはいっさい私に任せるということになる。
練馬インターから関越自動車道に入り、群馬方面に向かって北上開始。藤岡で上信越自動車道に分岐し長野県北部を目指す。「山国信濃に黒鯛が棲んでるわけないだろ、おまえらアホとちゃうか?」」と笑われたら、「はいアホでんわな!――まあ、なるようになりまっしゃろ」と素直に自分らのいい加減さを認めるのみ。一切の責任はこの私に。出発時どんよりと曇っていた空は北に向かうにつれて徐々に晴れ上がり、やがて快晴に。行き当たりばったりの我々に協力的なお天道様も、かなり気まぐれな方ではあらしゃりまする。
野原や山肌を覆うやわらかな緑と、その中に点在する白い山桜のコントラストが実に素晴らしい。この季節ならではの美しさだ。緑と一口に言っても、何十種類もの緑がある。色調と彩度の異なる多様な緑の織りなす風景に三人ともひたすら感動。晩春から初夏にかけてのこの美しさに無感動な人が最近増えているとも聞くが、もったいない限り。どんな緑も同じ緑色にしか見えない色彩オンチのせいらしいのだが、なんともはや……。
怪異な岩峰の連なる天下の奇勝、妙義山が車窓左手に大きく迫る。かつて画家の須田剋太が、画境を極めるために単身この山深くに籠ったことはよく知られている。何年か前、若狭の農民画家渡辺淳さんを案内して、私もこの妙義山の岩峰周辺をうろつきまわった。妙義山から目を転じ前方を仰ぎやると、残雪を戴いた浅間山が雄大な姿を見せてはじめた。
長いトンネルの連続する山間部を抜け信州佐久平に入ると、風景は初春のそれに変貌した。「春まだ浅き信濃路の…」と歌の文句にもある風景だ。むろん、年配の方なら、島崎藤村の詩の一節「緑なすハコベは萌えず 若草も藉(し)くによしなし」を想い出すことだろう。車の進行につれて、左手に千曲川の流れが深々と刻んだ断崖と、その上部に広がる台地が見えてくる。小諸から北御牧村にかけての台地で、作家の水上勉先生在住の勘六庵のある下八重原もその一角に位置している。そういえば、最近、北御牧村でも新たなオウム騒動が起きてもいるようだ。
美しい山村風景
更埴で長野自動車道に入り麻績村(おみむら)方面へ向かう。伝説の姨捨山が前方に大きく姿を現す。姨捨山は冠着山とも呼ばれている。「なんで爺捨山がないのか、これは男女差別の証ではないか!」と世の賢女方から詰問されても私には返答のしようがない。日本のどこかには爺捨山もあるのだろうか。もしそんな山があるようなら、二・三十年後には我々三人もそのお山の厄介になるやもしれない。
姨捨山トンネルを抜けてすぐの麻績インターで高速道から一般道におりる。この麻績インターからすぐの坂井村保養所冠着荘は、美人の湯と呼ばれるよい泉質の温泉の湧く宿泊施設だ。この一帯に実際美人が多いかどうかは未確認。近くの田圃にはヒメボタルが多数生息しており、六月末から七月中旬にかけてのホタルの乱舞は見ごたえがある。聖高原駅前を過ぎて聖湖まで急な山道をのぼり、そこから聖高原へ。聖高原一帯の樹林はまだ冬の眠りから目覚めていない。
聖高原を越え、大岡村へ向かってしばらく下るといっきに展望が開けてくる。この地点からの北アルプス連峰の大パノラマは絶佳の一語に尽きる。地元以外の人にはほとんど知られていないが、お薦めの北アルプスビューポイント。大岡村は私が大好きな山村の一つで、早春から初夏にかけての自然の景観は抜群。折しも桜の花が満開だった。左手に北アルプス連峰を望みながら、大岡村のなかほどを横切るかたちで信州新町へと下る。
犀川を渡り、信州新町から小川村方面への山路に入る。このあたりも典型的な山村で、絵に描いたような昔ながらの山村風景が続く。峠道からの北アルプスの眺望はやはり素晴らしい。このドライブコースにすっかり感動した同行の二人からは、同時に、よくもまあ、こんなルートを知っているものだと呆れられる。鯛釣りのことなど、遠の昔に忘れてしまったような様子。伊良湖岬沖では黒鯛がケラケラ笑っていることだろう。
小川村から鬼無里村に抜ける山路の両側に広がる風景はさらに感動的。「美しい日本の山村」のお手本として、NHKテレビの朝の番組かなんかで紹介されてもおかしくない。日本昔話の世界にタイムスリップしたみたいだなどと話しながらどんどん道を登っていくと、小川村の売り物である北アルプス展望台に出た。槍、穂高方面から常念、鹿島槍、五竜、唐松、さらには白馬鑓、白馬にいたる北アルプス主峰が、眩いばかりの白く輝きを見せて我々の視界いっぱいに迫ってきた。
観光ガイドブックなどにはほとんど紹介されていないが、ここは北アルプスの撮影スポットとして写真家の間では昔から知られてきた場所だ。ドライブの好きな人はぜひ一度訪ねてみるとよい。私が初めて訪れた頃は一帯はまだ自然のままになっていて、いまのように立派な展望所は設けられていなかった。道路も細いダートだった。
かなりの標高のある小川村の北アルプス展望所から鬼無里村に下る。眼前に聳える岩だらけの険しい山は戸隠山、その右後方に見えるのは黒姫山。鬼無里からは左にルートをとり白馬村へと向かう。水芭蕉で有名な奥裾花峡入り口を過ぎ、峠のトンネルを抜けると、まだ一面雪に覆われた五竜、唐松、白馬鑓、白馬岳がすぐ目の前に大きく浮かび上がった。 昔は何度も登った山々だが、残雪の多いこの時期にもう一度登れといわれたらちょっと考えてしまう。
白馬から青木湖畔、大町、松川村と走り、穂高町の手前から安曇野の西端を縫う山麓線に入る。この道沿いには様々な美術館や工芸館などがあり、景観も風情も抜群。碌山美術館で知られる穂高町には、私の知人で風景カメラマンの上條光水さんが経営する蕎麦屋などもある。このお店の蕎麦は絶品中の絶品だが、遅めの昼食をすませたばかりだったので今回は通過。
現在私がその一代記を執筆中の石田達夫という八十余歳の怪老人宅の近くに差しかかるも、立ち寄らず先を急ぐ。以前、穴吹史士キャスターをこの謎の怪人物に引き合わせたことがある。波乱万丈かつ奇想天外なその人生模様については、乞う御期待とでもいったところ。脱稿前にもしかしたら天国へ……なんて軽口を叩いても、十三日の金曜日をこよなく愛するこのドラキュラ老人は平然としたものである。
これも最高の蕎麦を食べさせてくれる大梅蕎麦の前を通過。この店は午前十一時に開店し午後三時には閉店という殿様商法を貫いている。「大梅」という店名は「おお、ウメー」をもじったものとか……確かに蕎麦の味は「ウメー」と思わず呟きたくなるくらいに美味しいのだ。この蕎麦屋の調理場は窓が大きくとってあり見晴らしがいいのだが、反対側の客室のほうはまったく外の景色が見えない。この店の主人いわく、「お客は一時間もすれば帰ってしまうが、店で働く我々のほうは、何時間も何日もそして何年も同じ場所で仕事をしなくちゃならない。調理場のほうの見晴らしをよくするのはあたりまえだ 」とのこと。どこまで本音かはわからないが、なかなかの蕎麦哲学なのだ。
信濃から飛騨へ
やわらかな緑に包まれはじめた山麓線伝いに堀金村、梓川村、安曇村と走り抜け、奈川渡ダム、沢渡、上高地入口、そして、昨年開通した安房トンネルをくぐって岐阜県側の上宝村平湯に出る。急峻でカーブの多い安房峠を越えていた頃は、道が混雑していなくても上高地入口から平湯まで一時間ほどはかかったが、新トンネル経由だとたった五分。雨期や積雪期に通行止めになることもなくなったが、風景のほうは峠越えの道に較べてなんとも味気ない。
新平湯、栃尾温泉を経て蒲田川沿いの道を新穂高温泉に向かって走る。右手に焼岳、左手に笠ケ岳、そして前方に穂高連峰と、いずれの山々も全身に白銀の衣をまとって高く鋭く聳え立つ。槍ケ岳だけはちょうど雲に隠れていて見えないが、いつ見てもここからの眺めは絶景というほかない。雄大な景観を楽しみながら中尾温泉経由のルートで新穂高ロープーウエイの駅のところまで行ったあと、槍見橋付近まで引き返し、近くの駐車場に車を置いて橋の下の露天風呂に飛び込む。飛騨地方にやってくるたびに、私はこの露天風呂のお世話になっている。
きれいな単純線で湯加減も長湯にぴったり、しかも、自然の大岩に囲まれた広い湯舟の底は小さな玉砂利で出来ているから気持ちのよいことこの上ない。お湯は有り余るほど湧き出ていて、溢れた分はすぐ脇の蒲田川の清流に小滝をなしてどんどん流れ落ちている。周辺の眺めもいうことない。温泉宿に付属したエセ露天風呂ならわんさとあるが、自然美に恵まれ、湯量も豊富で、しかも誰でも無料ではいれる本物の露天風呂は、当世めっきり少なくなった。
さらに素晴らしいことに、この露天風呂は混浴だ。この時は、我々三人のほかには相当年齢の離れた一組の男女だけ。そのカップルはなんとも仲がよく、我々はアテられっぱなし。「どうだ、オメーら羨ましいだろうが」という中年男の得意げな心の呟きが聞こえてきそう。「よーしゃっ、そんじゃ、こっちも頑張るか……」と闘志だけは湧いてきても、この場でいますぐに対抗できるものでもない。
癪(しゃく)だからいう訳ではないけれど、そのカップルの女性のほうが四、五十代で男が十代か二十代の若者だったらもっと絵になったろう。逆のケースはこの時代ありふれている。ただ、何事も男女平等が叫ばれる時代だから、そう遠くないうちに事態は逆転するかもしれない。つい最近、浮気は仕事の活力源だとのたもうた検察畑のお偉いさんなんども、たまにはお忍びでこんなところに来てたのだろうかと、よけいなことまで考えた。
「不倫」という言葉は「人の道にはずれる」という意味らしいが、老いも若きも、お偉いさんも一般庶民も、男も女も自ら進んで婚外交際を楽しむことが普通になったこの時代、その行為を表すのに「不倫」などという旧態然とした表現を用いること自体問題なのかもしれない。攻めるも守るもフリンフリンになったいま、そろそろ「不倫」という言葉を「従倫」、すなわち、「人の道に従う」とかいったような意味合いの表現に改めたらどうだろう。
むろん、その場合、「不倫」の二文字は、きわめて厳格で品行方正なごく一部の人々のみに冠せられることになる。そうすれば、詰まらぬ騒動なども少しはなくなるのではないか……いや、やっぱりなくならないだろな、私を含めた愚かなこの国の民衆の精神レベルでは……。
そんな取り留めもないことを考えながら一時間近くも露天風呂につかっていると、さすがに全身がぐったりしてきた。すっかり日も暮れてきたことだし、そろそろ宿に入るかということになる。体を拭いて車に戻った我々は、露天風呂のある場所からそう遠くない栃尾荘という民宿に飛び込んだ。中年男どもの一日の行程としてば、放浪というより暴走に近い、いや、暴走そのものだ。軟弱化が叫ばれる当世のひ弱な若者連中には、こんな真似をする輩などそうそうはいないだろう。
出された山菜料理を平らげたあと、せめて宿泊料金の元だけはとらねばと貧乏人根性を丸出しにした我々は、先刻の長風呂でぐったりした体に鞭打って、また性懲りもなく宿の露天風呂に長々と浸り、疲れを癒した……んじゃなくて、疲れを溜め込んだ。
さすがに皆とろーんとしてきたので、ニュースステーションをちょっと見ただけですぐに寝入ったが、朝までぐっすり眠ったかというとそうでもない。ちゃんと、深夜三時には目を覚まし、日本のアンダー・ツゥエンティ・サッカーチームがウルグァイを二対一で撃破するのを見届けた。試合が終わったのが午前五時近く……翌日は七時起床、本番の黒鯛釣りはまだまだこれから……いったいこれからどうなるんだろうと呆れ果てながら、あらためて眠りに就く。
東洋のキリマンジャロ、木曽の御嶽山
翌朝は七時に起床、宿の露天風呂に飛び込んで眠気を覚ます。頭上に広がる青い空、今日も晴天。朝食をすませると直ちに出発。中部地方を半ば縦断するかたちで南下し、夕刻までには豊橋市の加藤幸正宅に着かねばならない。加藤さんは米沢さんの長男のお嫁さんの父君で、我々三人を黒鯛釣りに招待してくださった御当人。栃尾温泉近くの酒屋で、民宿の主人推奨の地酒「神代」をお土産に購入。
栃尾から新平湯を抜けいったん平湯に戻り、丹生川沿いに高山方面へ下る。白銀を戴き陽光にきらめく乗鞍連峰の大きな山容は圧巻。あちこちに咲く白いコブシの花も見事。乗鞍スカイライン入口を過ぎしばらく行くと、円空仏の収められた祠のある日面地区にさしかかる。ここの明郷とかいう蕎麦屋の蕎麦は美味かったなあと思いながら通過。文学談議の好きなあの女将は健在だろうか。
そこからしばらく下ると、高山方面に向かって右手に大きな飛騨の古民家を改装したお店が現れた。小八賀園である。このお店には、昨年秋、ある雑誌から依頼された飛騨紀行の取材の途中でふらっと立ち寄ったが、落ち着いたお店の雰囲気、出された焼き肉定食の飛騨牛のうまさと通常の二倍はあるその量、その他の新鮮な素材の素晴らしさとこまやかな心尽くし、そして何よりもその値段の安さに感激した。店主の林崎藤治郎さん御夫妻もとても素敵な方々だった。今回は先を急ぐのでここも通過。
高山に入る少し手前で左に折れて市街を迂回、国道四七号に出たあと久々野町まで南下、そこから飛騨川沿いに朝日村方面へ向かう。万石の集落を過ぎたあたりから、前方に雪冠を戴き高々と聳える御岳山の姿が見えはじめる。朝日村、高根村、開田村一帯から眺める御嶽山は実に美しく、「東洋のキリマンジャロ」と呼ぶにふさわしい。
ただ、一言断っておくと、私はキリマンジャロの勇姿を写真や映画の画像でしか見たことがないので、ほんとうにその名がふさわしいかどうかには責任がもてない。どなたかぜひ確認のほどを……。普通、御嶽山というと木曽路を連想するのだが、地形の関係で木曽路方面からは御嶽山の全貌を眺めることはできない。御嶽山ファンはぜひ朝日村、高根村、開田村へ。
秋神ダム、権現トンネルを抜けて高根ダム、そして野麦峠へ続く道との分岐点へ。野麦峠越えの道は積雪のためまだ閉鎖中。女工哀史にもあるように、高山方面から諏訪、岡谷一帯の紡績工場へ向かう十代の若い娘たちは、かつてこの道をたどり、標高一六七二メートルの野麦峠を越えて木曽路の藪原や奈良井に入った。そしてそこからさらに、千五百メートルの権兵衛峠を越えて伊那谷に入り、伊那から谷伝いに岡谷方面へと向かったと伝えられている。
長峰峠を越え高根村から開田村へ。開田村一帯は、馬高は低いが足が太く馬体のがっしりした木曽馬の産地として知られたところだが、いまでは純粋種はもうほとんど残っていないという。当時テレビ出演したとかいう純粋種の木曽馬を十数年前にこの近くで見たことはあるが、その後の情況はわからない。国道三六一号の木曽街道から分かれて御岳山麓の開田高原を縫う県道開田三岳福島線に入る。朝日村の万石あたりからは前方に大きく聳え立って見えた御岳山が、右手車窓のすぐそばに迫る。高度が上がったせいもあって、周辺の木立はまだ冬の眠りの中。その分、見通しはきく。車窓左手には木曽駒ケ岳を中心とする中央アルプスの美しい峰々が見えてくる。むろん、中腹から上はまだ雪に覆われている。
米沢さんに運転を代わってもらうため道路脇に車を寄せ、何気なく時間を見ようとしたがどこにも腕時計が見当たらない。トランクの中のバックやナップサックを隅々まで探してみたがやはり見つからない。宿を出るとき忘れ物はないかとあれほど確認したのに、肝心の時計を忘れてくるなんて、どうやら我が身にもボケがまわってきたらしい。知人のシチズン中央技術研究所長からプレゼントされた特製試作品のエコ・ドライブ型腕時計だが、いまさら栃尾温泉まで引き返すわけにもいかないので、どこかで宿に電話し、見つかったら自宅に送ってもらおうと思う。
ところがその時、何かに思い当たったような感じの米沢さんが、「これもしかしたら本田さんの……?」と言いながら腕時計をはずして差し出すではないか。そういえば、テーブルの上にあった米沢さんの時計と私の時計とは形や色がかなり似ていたなあと思いながら、その時計に見入ると何となく自分の物であるような、そうでないような……。その次の瞬間、時計の裏蓋をじっと見つめた米沢さんが、「あっ、これ、オレのじゃないや!」とストンキョウな声を上げる。米沢さんが自分の左腕を確認すると、なんとそこにはもう一個の腕時計が……。米沢さんは宿を出る前にうっかりして二個の腕時計を左手にはめたものらしい。米沢さんのスーパーボケ技に感謝、そしてまた感謝!
南木曽から馬籠宿へ
木曽福島と上松の中間にある元橋で国道十九号に合流し同国道を南下。高度が下がったせいで再び若緑の輝きが美しくなる。上松町、大桑村を経て南木曽町に入り、妻籠方面に分岐して妻籠宿脇を通過、緑の眩い馬籠峠を越えて島崎藤村の生誕地馬籠宿に向かう。青春時代馬籠から妻籠まで歩いたときには急峻な隘路しかなかったが、いまではバスも通れそうな立派な車道が通じている。さびれた感じの峠の茶屋前を通過しながら、車で通過する人がほとんどのいまはお客も激減したことだろうと想像する。
馬籠宿が近づくにつれ、前方に恵那山が大きな姿を現した。馬籠宿は石畳と階段の続く急坂の古道を両側からはさむ形で発達した集落からなっている。米沢さんも玉木さんも馬籠は初めてだというので、坂上側の集落入口で二人をおろし、私だけが車を運転して坂下側の駐車場にまわる。両側にこの地方特有の造りの老舗の立ち並ぶ急傾斜の路をのぼり、集落中央付近の島崎藤村記念館前で米沢、玉木両氏と合流。
藤村記念館は、藤村が生まれ育った馬籠の本陣跡に建てられている。本陣とは旅の途中の大名や貴人たちが逗留した宿場町の主家の屋敷で、各種文化情報や文物の集まる場所でもあった。藤村が文豪として大成していった背景には、幼児期木曽の豊かな自然の中で育ったということのほかに、当時としてはきわめて恵まれた文化的経済的基盤があったものと思われる。海外留学時の資料や諸々の作品の原稿や草稿など、その途方もない足跡には圧倒されるばかり。漱石や鴎外もそうだが、真のエリートとして国を背負い、強い義務感を抱きながら欧州に学び、帰朝して後輩の育成と文学界の発展に心身のすべてを捧げた明治の大文豪の気迫が時を超えて伝わってくる感じ。
藤村が愛したという東北学院時代の教え子佐藤輔子の写真と日記も展示されていたが、その知性美、達筆このうえない毛筆文字、簡潔ながらも的確かつ切れ味鋭い文体などは、さすが藤村が見初めた才女だけのことはある。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」と詠んだ相手のおゆうさんは、すでに妻籠の脇本陣の大黒屋にすでに嫁いでいたはずで、この頃にはもう藤村にとって遠い去の人となっていたのだろうか……まあ、そんなことは、よけいなことか。
面白かったのが、藤村の父、島崎正樹が若い頃の息子春樹、すなわち藤村に与えた戒めの一文。全体的には「盛り場や遊興の地への逗留を避け、山師や糸師、賭博師といった、一獲千金を夢見る詐欺師まがいの連中との交際を慎むように」といった内容の文書だが、その中に、「嫡子が生まれない場合をのぞき妾女は持たないように」との訓戒が記されている。ところが、そのすぐあとに、「ただし、このことはなかなか難しい問題なので、大体のところを記しておいた」という主旨の意味ありげな補足文がついているのだ。書いたあとで己のことを振り返り、ついつい付け足したのであろうが、人間島崎正樹の心の内が偲ばれ、にやりとさせられる。
展示館の一角には藤村が原稿執筆に使った机や座布団、火鉢などをはじめとする調度類を当時のままに配した部屋があったが、実に簡素なものだった。昔風の木机に背筋を伸ばして正座し原稿の筆を執った、在りし日の藤村の様子が偲ばれる。「そうだよなぁー、こうやって姿勢を正して真摯な気持ちで筆を執るんでなきゃ、良いものなんか絶対に書けないよなぁー」という米沢さんの感嘆とも溜め息ともつかない言葉が印象的。少なくとも我々三人はその時点でもの書きとして既に失格。
それにしても、ワープロやパソコンで原稿を書くのが当然のことになってしまった現代の作家たちは、先々、原稿を書くのに使ったワープロやパソコン、プリンター、フロッピーなどを自らの文学資料として残すのであろうか。これは作家の誰々先生のお使いになったパソコンとプリンター、それにフロッピーディスクです……なんてことになったら、誰も文学記念館などには行く気がしなくなるに違いない。現代作家の文学記念館のようなものが後世成り立つかどうかは疑問である。将来自分の記念館が建てられることを願う現代の大先生方は、ワープロなどには頼らず、せいぜい手書きの原稿でも残すように心がけておくがよかろう。中身はたいしたことなくても、手稿が残っているというだけで高く評価されることは……まあ、たぶんないだろうな。
木曽から三河地方へ
藤村記念館を出たあと、近くの蕎麦屋で昼食。なかなか美味しい蕎麦だった。信州名物の野沢菜入りお焼きを頬張りながら坂を下って駐車場へ。馬籠からいったん中津川市に出たあと、岩村方面へと続く道に入る。奥三河の山中を縫って豊川、豊橋方面へと南下しようという魂胆。またまた深い山岳地帯に分け入るも、樹々の緑の輝きは一段と艶やかさをます。一帯はすでに初夏の気配。岩村、上矢作、稲武、設楽、新城と、それぞれに趣のある村々や町々をつなぐ深い谷筋伝いの道をひたすら南へ。関東方面からの旅人で奥三河の山中を訪ねる人は少ないが、四月中旬から下旬にかけてのこの一帯の自然の美しさは推奨に値する。今回は立ち寄らなかったが、東方に南アルプス連峰を、さらに南方から西方にかけて奥三河の山並みを望む茶臼山周辺の景観はとくに素晴らしい。
新城から豊川を経て豊橋市の加藤幸正宅へ午後六時前に到着。加藤御夫妻に温かく迎えられる。明朝は三時起きなので、加藤宅に着いてすぐに釣りに出かける準備をすませる。心配なのは天候。我々の破天荒な事前行動に呆れ果てたお天道様がとうとうヘソを曲げたのか、見上げる空はなんとも怪しい雲行きに。天気予報でも、低気圧が近づいており、明日は海は荒れ模様とのこと。今朝だったら最高の条件だったのになあ、と加藤さん。その時刻、我々は岐阜の山奥、新穂高温泉峡の民宿の布団の中で黒鯛の釣れる夢を見ていたのだから仕方がない。
伊良湖沖の海中に黒鯛の祈祷者がいて、念力でお天道様と掛け合い低気圧を呼び寄せたのだろうか。釣るというよりは、相手が釣れてくれるのを待つといった程度の腕前の御一行様ともいえないことはないのに、なんとも御苦労様なことだ。
風呂にいれてもらい一段落したあと、奥様の手になる豪華な料理に舌鼓を打つ。地元で獲れた生きのよい魚の刺し身も美味かった。刺し身皿に次々と箸を伸ばしながら、黒鯛を釣る前にこれでは順序が逆じゃないかとも思ったが、美味しいものの誘惑には勝てるわけもない。食後は、加藤さんと米沢さんの初孫、滴(しずく)ちゃんの近況などを交えた話に花が咲く。リビングルームの飾り棚には滴ちゃんが誕生してほどなく、加藤さんが釣り上げ、東京練馬の米沢宅にお祝いとしてそのまま送られたという一メートルに近いお化け真鯛の写真もあった。
ヤマハで音楽インストラクターをやっていた加藤さんの上のお嬢さんが米沢さんの長男のお嫁さん。加藤さの次女、加藤訓子(かとうくにこ)さんは、桐朋音大を卒業後、パーカッション(打楽器)の有名な若手演奏者として世界を股にかけ活躍中。現在はロンドンに在住、ヨーロッパを中心に音楽研究と公演とに多忙とのこと。過日、東京お茶の水のカザルスホールでのコンサートを拝聴したが、音のでるものなら何でも、たとえば自らの身体さえも見事な楽器に変えてしまうその迫力と独創性に驚嘆したことがある。
天候は荒れ模様になり、明日は百パーセント雨天とのことだが、案内してくれる漁師はともかく出船してみよう言っているとのこと。午前三時起床なので、ともかく寝ようということになり、午後十時過ぎに就寝。
黒鯛はセイゴとコチに化けた!
翌朝は午前三時ぴったりに起床。直ちに加藤さんの車に乗り込み、小雨の中を四十キロほど離れた伊良湖岬へ向かって出発。伊良湖岬に着く頃には風も強まる。黒鯛釣りのポイントは伊良湖岬をまわって外海に出た遠州灘の沖。秋には真鯛の釣れる場所だが、この季節はそこが黒鯛の釣り場になる。
米沢さんと私とは過去何度か伊良湖沖の真鯛釣りや黒鯛釣りに招待されたことがある。伊良湖の鯛釣りは独特で、ウタセエビ、アカセエビといった三河湾、伊勢湾周辺で獲れる生きた小海老を餌にする。針先に掛けて海中に投じても海老が生きたままでいるようにするのがコツだが、これが結構難しい。釣り方は胴釣りで、錘をいったん海底に着床させたあと、二〜三メートル引き上げた状態で当たりを待つ。文字通り「海老で鯛を釣る」わけだ。ときには鯛のかわりに大きなハマチが釣れたりもする。以前の真鯛釣りの際には、私の竿にも六十センチほどのハマチが掛かった。
伊良湖岬に着くとすぐ長靴をはきカッパを着て迎えの船の到着を待つ。見おぼえのある船頭さんの操る小型漁船が着岸すると直ちに乗船。今日は外海の遠州灘は風浪が激しく黒鯛釣りは無理との船頭の言葉に従い、急遽釣り場と釣りの対象魚を変更。三河湾と伊勢湾を隔てる知多半島突端の沖合にある日間賀島周辺に向かう。「テメーがその気なら誰が釣ってやるもんか」と黒鯛に悔しまぎれの捨てぜりふを吐いて、狙いを出世魚のスズキのこどもセイゴに変更。新鮮なセイゴの刺し身は美味い、黒鯛よりも美味い!……と自らに言い聞かせる。
乗船して三十分ほどで日間賀島沖に到着。内海のため風浪はそう激しくないが、それでも結構船は揺れる。島育ちの私は船酔いには無縁だが、雨風はないほうがよいにきまっている。三時間ほど釣り続けたが釣果はまるでかんばしくない。船頭共々五人がかりでセイゴとコチ合わせてわずか四、五尾。私の隣で釣っている腕のいい船頭さんも小ぶりのセイゴ一尾を釣っただけ。
この日一番の大物を釣り上げたのは初めて参加の玉木明さん。五十センチほどはある大型のセイゴを一尾釣り上げた。「よかったね!」と声を掛けると、ご当人は、釣ったというより相手が勝手に掛かってくれた感じだと、なんとも憮然とした表情。
しかし、玉木さん以上に途方もない大物を引っ掛け糸を切ってしまったのはこの私。なにしろ地球を二尾も釣りそこねたのだから大変なものである。私が座った位置の海底はたまたま根掛かりしやすいところだったらしく、何度も根に引っ掛かり、二度も糸先が切れてしまった。
そうこうするうちに風雨がいちだんと激しさを増し、海面も大きく波立ちはじめた。もうこれ以上は無理だということになり、伊良湖岬へと引き返すことになる。シャワーのような雨に加えて、何度も潮水を頭からかぶりながら伊良湖岬着。黒鯛釣り騒動は「泰山鳴動して鼠一匹」の諺そのままの結果に終わる。気の毒がった船頭さんは、自分が前日釣って船倉に生かしてあったセイゴやコチを我々が釣ったものに合わせてプレゼントしてくれた。総数で十五尾ほど。
加藤宅に戻ったあとは、睡眠不足を補うべくもっぱら昼寝。それにしても豊橋まで昼寝に来るなんて考えてもみなかった。結局この日は加藤宅にもう一泊。翌日午前中に豊橋を発って東名高速道経由で東京に戻る。豊橋から東京まで大雨に降られっぱなし。家に戻ったあと、お土産にともらって持ち帰ったセイゴとコチをさばき、刺し身にして食す。美味かった……黒鯛の何倍も何十倍も!……だけど、喉元のどこかに釣り針の形に似た「?」マークが引っ掛かったような感じがしてならなかった。
「マセマティック放浪記」
1999年5月12日
ある沖縄の想い出(1)
那覇到着直後の椿事
沖縄でサミット会議が開催されることになった。プラス要因とマイナス要因の複雑に交錯する問題だから、万事が万事喜ばしいとはいえないかもしれないが、大局的にみれば沖縄にとって有意義なことには違いない。「万歳」という言葉の裏に秘められた歴史的な背景を遠い過去のものとして消し去るがごとく、サミット開催決定の知らせに「バンザイ」を三唱する地元誘致関係者の姿が、私にはとても印象的だった。
すでにマスコミ報道などでも指摘されていることだが、警備は大変なことだろう。本土から多数の警察官が応援のために派遣されることは間違いない。沖縄が開催地に選ばれたというニュースを聞いて私が真っ先に警備のことを思い浮かべたのは、沖縄にまつわる警備がらみの想い出があるからだ。
一九八七年の九月二十三日、沖縄で金環食が見られたことがあった。その金環食を取材するため、私はその前日に日航機で沖縄に飛んだのだが、羽田で搭乗手続きをするときからチェックは厳しく、手荷物の中身まで細かく調べられた。それほどに警備が厳重だった理由は、金環食観測に多くの人々が殺到したからではなく、たまたまその時に開かれていた沖縄国体に昭和天皇の名代として現皇太子の浩宮が出席していたからである。私が沖縄に渡ろうとした当日、浩宮は沖縄から東京に戻る予定になっていたのだ。
眼下に青く揺れ輝く珊瑚の海に吸い寄せられるようにジェット機は機首をさげ、午後二時過ぎ、那覇空港へと滑り込んだ。沖縄を舞台にした金環食のドラマを明日にひかえ、私の胸は弾んでいた。予約してあるレンタカーを借りようと、その会社の空港内事務所に足を運ぶと、数人の先客が、困惑気味の表情で係員の説明に聴き入っているところだった。
「大変申し訳ないのですが、国体にご出席の浩宮様がお帰りなるために交通規制が敷かれ、車を空港に持ち込むことができません。ただ、ここから十五分ほど歩いた地点までは車が入れますので、そこまでご案内致します。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
秋とはいっても九月の午後の沖縄の日差しは本土の真夏なみに強烈である。我々は手荷物をさげ汗だくになりながら、トランシーバー片手の女性係員の誘導にしたがった。ところが、ほどなく指定の地点に着くという時になって、係員のトランシーバーが急に鳴りだした。そして、みるみる彼女の顔が泣きだしそうな表情に変わっていった。
「なんとも申し訳ありません。こちらのほうもたったいま交通規制が敷かれたとのことです。ただもうお詫びするしかございませんが、もう一度空港事務所までお戻りいただけませんでしょうか。幸い構内に当社のワゴンが一台おりますので、その車で皆様を市内の私どもの営業所までご案内しようと存じます。空港を出るほうの道路は無規制ですので……」
自分の責任ではないにもかかわらず、必死になってそう詫びる彼女の姿は、見ていて可哀相なほどだった。
我々は再び空港の建物目指してぞろぞろと引き返しはじめた。炎天下、両手に重い荷物をさげながら往復三十分近くも歩くのは、たしかに疲れることではあった。こんなときはお互い様だから、私は老婦人が手荷物を運ぶのを手伝ってあげた。
我々が乗車し終えるとワゴン車はすぐに走りだした。那覇空港と那覇市街の間には立派な車道が通じている。全島にわたってというわけではないが、本格的な自動車道ができたのは本土よりも沖縄のほうが先だから驚くにはあたらない。むろん、戦後すぐに沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったせいたっだ。
車窓から反対側車線を見やると、なるほど、沿道には十メートルほどの間隔で警察官が警戒に立ち、その向こうに日の丸の小旗を手にした見送りの人々がずらりと並んでいる。大戦中の悲惨な歴史のゆえに日の丸に対して複雑な感情を抱く人々も少なくないと聞いていた沖縄にしては、日の丸の小旗をもつ人の数が想像以上に多かった。もしかしたら、それなりの背景や多少の演出などもあったのかもしれないが……。
車を運転していたのは、三十歳前後のどこにでもいそうな感じの男性だった。無事に空港を出た車は市街に向かって快調に走り続けていたが、一本の道が右手斜め前方から合流する変則T字路のところまでくると、速度を落として中央分離帯のほうに寄り、ゆっくりと反対車線方向へ回転しはじめた。
進行方向に対して車が四十五度ほど曲がったときだった。沿道に並ぶ警官の数人がとんでもないという形相で我々の車に駆け寄ってきた。そして、そのうちの一人が大きな身ぶりでただちに直進するように運転手に向かって指示をだした。
だが、次の瞬間、運転手は警察官のほうを睨むと、毅然としてこう言い放ったのだった。
「私の事業所はそこなんですよ。いったいあなたがたは直進してどこへ行けっていうんですか?」
運転手が指さす方向を見ると、なるほど、反対車線側の三十メートルほど後方にトヨタレンタカーの営業所の看板が見えている。彼はUターンしてその営業所に戻ろうとしたのだった。
「浩宮の一行がほどなくここを通過するので、こちらがわの車線は交通規制が敷かれています。直進してください」
二人ほどの警官が車の回転を妨げるようにして右手前方に立ちはだかった。しかし運転手は一歩も引かない。
「あなたがたも仕事なのかもしれないが、私だって仕事なんですよ。交通規制するならするで、 はじめから時間と場所をしっかり決めてくれているならまだいい。あなたがたのやり方は行き当たりばったりじゃないですか。過剰警備もいいとこだし……」
「気持ちはよくわかりますが、万一に備え本部から強い規制命令が出てるんです。一時直進して待機してください」
あとでわかったのだが、このときも多数の警察官が本土から警備の応援に派遣されていた。だが、何かあったとき表に立って直接に対応するのは地元の警察官の任務になっていたようである。東京あたりの警察官なら、この時点で公務執行妨害行為として車を強制排除し、運転手の身柄を拘束しかねないところだったが、そこは沖縄のこと、警察官もそれなりに慎重であった。
固唾をのんで事態の推移を見守っていると、運転手は一語一語に力を込めてさらに反論した。
「このお客さんがただって、もう一時間以上も予定が狂ってしまってるんですよ。しかも重い荷物を持ってあちこち振りまわされて……。本来なら空港からレンタカーに乗ってもらうところを、こうして我慢してもらってるんですよ。そういった一般の人々の迷惑はどうなるんですか?」
驚くべき光景が展開したのは次の瞬間だった。私は思わず我が目を疑った。なんと、婦人警官を含む二人の警察官が、すこし顔を紅潮させながらも、車中の我々一人ひとりに向かって鄭重に頭をさげはじめたのである。東京などでは絶対に考えられないことだった。
私は強い衝撃を覚えながら、「ここは沖縄なんだ!……人々が黙々として重い歴史を背負ってきた、守礼の国沖縄なんだ!」と心の中で叫んでいた。
私などは、この際直進もやむを得ないのじゃないかと思いかけたが、それでも運転手は頑として車を動かそうとしなかった。彼には彼なりの内なる思いがあったのかもしれない。その時とうとう、斜め前方の道路のほうに浩宮一行の車の列が現れた。警察官たちは慌てて歩道側の持ち場に引き下がり、我々の車だけが道路中央に取り残された。
浩宮一行の車の列は、何事もなかったかのように我々の車の脇を通り過ぎていった。車中の浩宮が至近距離から我々のほうに向かって軽く手を振りながら微笑みかけるというおまけまでついて……。さきほどからの騒動を宥め鎮めるかのように、その笑顔は自然で親しみに満ちていた。後部座席の老婦人などは、思わぬ体験にひたすら感激の様子だった。
一行が通過し交通規制が解除されたあとも、べつだん我々の車の運転手が追及されたり拘束されたりするようなことはなかった。トヨタレンタカーの事業所に着いた我々は、それぞれに車を借りて目的地へと向かって散った。スターレットを借りた私は、那覇市内をそのまま通過すると、その晩宿泊を予定していたヴィラ・オクマ・リゾートのある沖縄北西部の奥間ビーチに向かって西海岸沿いの五八号線を北上しはじめた。私は旅をするとき高級リゾートホテルに泊まることはほとんどないが、このときはJAL広報誌からの依頼原稿の取材ということもあったので、JAL傘下のリゾートホテルが何泊分か先方の手で予約されていた。
広いドライブウエイに沿って立ち並ぶお店や建物はすっかりアメリカナイズドされていて、まるでカリフォルニアあたりの海岸線を走っているかのようであった。浦添、宜野湾、北谷(ちゃたん)を過ぎ嘉手納に入ると、大きな円環路から四、五本の道路が別々の方向にのびる嘉手納ロータリーが現れた。その周辺は大きな建物が立ち並ぶ市街地になっている。どこにでもある駅前ロータリーなどは違い、機能性の高い大規模ロターリーで、アメリカ的な発想で造られたことは一見しただけで明白だった。
夕刻が近づいてきていたが、嘉手納を通りかかったついでに米軍基地を一目でも眺めておこうと思い、まず、基地の北側にまわってみた。なるほど、四千メートルはあるという大滑走路が二本、ますぐにのびている。遠くのほうには駐機場があって戦闘機や輸送機らしい機影が散見された。
突然に背後から轟音が響いてきたかと思うと、黒灰色のデルタ翼をもつ怪鳥のようなジェット機が頭越しに滑走路へと降りていった。その異様な機影はたしかになんとも言い難い不気味さを秘めている。しばらくすると、今度は巨大なアホウドリにも似た四発の大型機が北東方向へと飛び立っていった。私が基地周辺にいたのはせいぜい三十分くらいだったが、その間にも様々な軍用機が地面を揺るがすような響きをたてて離着陸を繰り返した。米軍の極東戦略にとってこの基地がどんなに重要な位置を占めているかは、それらの軍用機の動きを見るだけでも明らかだった。
いったいその基地の奥ではどんな指揮系統のもとに、日々どのような戦略が立案、遂行されていたのだろう。本土の横田基地などもそうだが、おそらくは地下深くに核攻撃にも耐えうる大シェルターがあって、その中枢部のオペレーション・センターにある超大型スクリーンには、極東全域の航空機や主要艦船の位置と動きがリアルタイムで表示されているに違いない。
再び国道筋に戻った私は、沖縄戦のときに米軍が真っ先に上陸したという読谷村を過ぎ、恩納村にさしかかった。ムーンビーチ、万座ビーチ、瀬良垣ビーチ、インブビーチと美しい海岸の続くこの一帯は沖縄随一のリゾート地で、当時、本土ではまず見かけることのなかった段状テラス構造の高級ホテルが立ち並んでいた。開業して間もない日航系の高級リゾートホテル、サンマリーナもその一角を占めていて、三晩目に私はそこに泊まることになっていた。折しもバブル経済の絶頂期とあって、沖縄にも大量の本土資本が流入し、観光開発に一段と拍車がかけられていたのである。
人工的ではあるが、なんとも蠱惑(こわく)に満ちた風景の中を進んでいくと万座ビーチが近づいてきた。左手にハワイかマイアミの高級リゾートホテルを彷彿とさせる豪華な造りの万座ビーチホテルも見えた。私は翌日の金環食をそのすぐ近くの万座毛で観察するつもりでいた。
サンセット・ロードという呼称を冠してもけっしてその名に恥じることのない恩納村西海岸の道をなおも走りながら、私は南海の美しさにひたすら酔いしれていた。だが、それにもかかわらず、あの運転手の姿とその言葉の裏に秘められた思いがどうしても気になってしかたがなかった。沖縄の幻想的な光景の背後に潜む歴史の陰影を学ばずにその風光のみを耽美することに、私は本能的な罪悪感を感じかけていた。
せっかくの旅だから素直に楽しんでしまえばよさそうなものだったが、どうしてもそれができなくなりはじめていたのだ。隣県の鹿児島で育ちながら、私はあまりにも沖縄のことを知らなさすぎた。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄関係の映画や戦争報道写真はそれなりに見たことがあったけれども、そこで見聞きしたものが単なる知識以上の意味を持つようなことはなかった。
私はいまもあの時の運転手に感謝している。あの衝撃的な一件がなければ、翌日の金環食を乾いた科学の目のみで追いかけ、本土のバブル資本によって演出された沖縄の表の美しさだけに見惚れ、南部の戦跡や戦史資料館などを別の惑星の出来事のように眺めただけで戻ってきたに違いないからだ。
奥間ビーチに向かう途中、軽食をとりに立ち寄ったお店で私の手を一冊の本に導いたのは、あの運転手の見えない力だったに違いない。B5版、およそ二五〇ページのそのハードカバー上製本は、店の片隅に四、五冊そっと積まれていた。「これが沖縄戦だ」というタイトルの本で、米軍サイドが撮影したモノクロの凄じい戦争報道写真と沖縄戦史の記述とを半々に織り交ぜた構成になっていた。地元の琉球新報社が刊行し那覇出版社が発売しているこの本の迫真の写真に目を惹かれて買ってはみたが、著者についてはまったく知見がなく、正直なところ郷土史家の一人くらいにしか思わなかった。
実際、その本の著者は、当時、沖縄以外ではほとんど知られていなかったし、私のほうも、写真を眺めて沖縄戦について一通りのことがわかれば十分だというくらいの期待しかしていなかった。
名護市を過ぎ本部半島の根元を横切って本島北部の大宜味村に入ると、道幅も狭まり、海岸線の景観も自然のままの感じに変わった。もしかしたら、まだ幼かった安室奈美恵がその近くで遊んでいたかもしれない。周辺の景色がどんどん人工的な装いを脱ぎ捨てていくなかで、そこだけが妙に明るく華やいだ感じの奥間ビーチに到着したのは、すでに太陽が西の海に沈んだあとのことだった。ヤンバルクイナが棲み、米軍の実弾演習場や特殊部隊訓練場もある山深い国頭村にあって、奥間ビーチ一帯だけはカリフォルニア海岸の飛び地のような奇妙な風情を湛えていた。
ビーチ裏手の大駐車場に車を置いた私は、とりあえず、ヴィラ・オクマ・リゾートにチェックインした。ホテル周辺は本土からやってきた若いOLたちであふれていた。若い男もいるにはいたが、圧倒的に女性客のほうが多かった。
「マセマティック放浪記」
1999年5月19日
ある沖縄の想い出(2)
ヴィラ・オクマの夜
私が通されたのはツイン仕様の洒落たコッテージで、一人で泊まるのはもったいないくらいだった。気をきかせてこんなコッテージを用意してくれたのだろうが、あいにく、このとき私は一人旅だった。誰かと一緒に来ればよかったかなとは思ってみたが、あとの祭りである。すぐに魔法を使って美女を出現させるなんて芸当ができれば苦労はないが、そうそううまくことが運ぶわけもなかった。
奥間ビーチ一帯はもともと米軍の保養施設だったところだけに、ホテル内もその周辺も完全なリゾートタイプの造りになっている。ヨット、カヤック、ウィンドサーフィン、水上スキー、ダイビングなど、あらゆるマリンスポーツを楽しむことができるうえ、夜間でも使用可能なトレーニングジム、プール、各種球技施設なども完備していた。ホテルの従業員を兼ねた各種競技や遊技のインストラクターなども多数いて、滞在客の指導や対応にあたっていたが、よく見ると彼らの多くは白人系の混血らしい若い男女で、しかもなかなかの美形揃いだった。
私はとりあえず浴室で汗を流し、レストランで夕食をすませた。そして、各種プレイング・ルームやディスコ、スポーツジムなどをひとわたりのぞきまわったあと、夜のビーチへと散歩にでた。広いビーチは波打ち際にいたるまで明るく照明が施され、いかにもリラックスした感じの男女が、三々五々、心地よい海風に全身をゆだねながらアバンチュールを楽しんでいた。ビーチのあちこちにはスタンドバーやティースポットもあって、軽食などもとれるようになっている。渚伝いにビーチの端のほうまで歩いていくと、大きな仕切り用ネットが現れ、そこから先には進めないようになっていた。その向こうにあるのは米軍専用のリゾートビーチらしかった。
しばし一帯を散策しながら南国の夜の潮騒に聞きほれたあと、浜辺の一隅にあるベンチに腰をおろした。そして何を想うでもなく遠くの漁火を眺めているうちに、たまたま隣り合わせになったチャーミングな女性と、どちらからともなく話し込むことになった。彼女は会社のグループ旅行でこのホテルに泊まっていたのだが、仲間が遊技に興じている間に独りでビーチに出てきているところだった。
翌日の金環食の話題にはじまり、沖縄についてのお互いの想い、さらには様々な旅や仕事の話などを、我々は二時間近くにわたって語り合った。沖縄の旅の夜風が心の緊張を解きほぐし、それまでに生きてきたそれぞれの時空の隔壁をいっきに消し去ってくれたこともあって、きわめて自然体のままに、私たちは偶然の出逢いの生みもたらした共有時空をしばしの間楽しんだ。
部屋に戻って翌日の金環食取材の準備を整えたあと、ベッドに横になった私は、奥間ビーチに来る途中で買い求めた戦史記録、「これが沖縄戦だ」に軽く目を通しはじめた。巻頭には手榴弾による集団自決直後の凄惨な現場写真や、隠れていた壕の中から現れた一人の少女が、ありあわせの木の枝に白い三角旗をつけ、おびえながら米軍のほうへと近づいてくる写真などが収められていた。後者は「白旗を掲げる少女」として米軍の沖縄戦記録フィルムにも登場する有名なシーンの写真だった。
この本で私がその写真を目にしてから何年かのち、比嘉富子さんという那覇在住の主婦が「あの白旗の少女は私です」と名乗り出て、朝日新聞などでも大きく報道された。比嘉さんは当時六歳で、首里が戦火に巻き込まれたため、兄、姉、弟とともに南へ逃げるうちに兄は銃弾を浴びて死亡、姉、弟ともはぐれて一人になってしまったのだった。ちょこちょこ動き回るため日本兵からも危険視され、お前が生きているとこちらが危ないと、何度も退避壕から追い出されたという。そうやって逃げ回る途中でたまたま飛び込んだ壕の中に、両手両足のない老人と目の不自由な老女の夫婦がいた。
「もう戦争は終わったから出てきなさい」という、投降を勧告する米軍の呼びかけがある日突然聞こえてきた。するとその老夫婦は、どうしても外に出たがらない比嘉さんをなだめすかし、老人の下着を切り裂いて作った白い三角旗を持たせて壕から送り出したのだそうだ。その後の老夫婦の消息は比嘉さんにもまったくわからないというが、その運命は想像に難くない。
迫真力と衝撃力とにみちた数枚の巻頭写真を見たあと、「米軍、慶良間を攻略」というタイトルの初章を軽い気持ちで読みはじめた私は、あっという間にその文中に引き込まれた。そして容易にはページを閉じることができなくなってしまった。沖縄戦についての正確かつ詳細な記述、日米どちら側にも公正な客観的叙述、極力感情を押さえたジャーナリズムの手本のような明快で的確な文章、驚異的なまでの調査力と情報収集能力、冷静な情報分析力、読む者の心をひきつけてやまない見事な構成力、さらには沖縄戦がなんであったかを如実に物語る三百枚近い戦争報道写真――このうえなく愚かで悲惨な戦史を描き著した本であるにもかかわらず、それは絶賛に値する一冊であった。
私は目を見開かされる思いでその本の半分ほどを一気に読み通した。そのまま最後まで読破してもよかったのだが、敢て残り半分を翌晩まで読まずにとっておくことにした。一晩で読み終えるのはもったいないような気がしてならなかったからである。
冷静な筆致で書かれたこの戦史の本文中には、むろん著者の影らしいものはまったく感じられなかったが、その人物がただ者ではないことだけは明らかだった。恐るべき筆力に感嘆した私は、昭和五十二年の初版刊行時に琉球大学名誉教授仲宗根政善が執筆した巻頭献辞文や著者自身の前書き、巻末の著者略歴などをあらためて細かく読み直し、その人となりのおよその輪郭をつかもうと努めてみた。
沖縄守備軍司令官牛島満が自決した昭和二十年六月二十三日(一説には自決は二十二日ともいう)の前日、日本軍司令部のあった摩文仁の丘一帯では日米両軍の最後の死闘が繰り広げられていた。沖縄師範鉄血勤皇隊に所属する二十歳前の一人の若者も、岩さえも燃え砕けるその熾烈な砲撃戦の直中で生死を賭して戦闘を続けていた。戦いに利なく、多くの仲間が戦死するなか、かろうじて凄惨の地を脱出したその若者は、三カ月にもわたる死の彷徨を続けたすえに奇跡的な生還を遂げる。
終戦後本土に渡り、早稲田大学に学んだ彼は一九五四年に渡米し、ニューヨークのシラキュース大学大学院を卒業、帰国後は東大新聞研究所で研究員として専門研究に従事する。その後、彼はさらにハワイ大学イースト・ウエスト・センター教授を経て、琉球大学法文学部社会学科教授に就任し、私が沖縄を訪ねた十二年前の時点ではまだ同大学で教鞭をとっていた。
自らの生は多くの人々の血であがなわれたものと深く悟ったこの人物は、米国留学から帰国したあとも沖縄戦の資料を求めて機会あるごとに渡米、ワシントンの米国国防総省で膨大な沖縄戦関係の写真資料を探しだし、その中から一千数百点の写真を選び出して日本に持ち帰った。さらに、米国立公文書館、米陸海軍、米海兵隊などが保管する沖縄関係資料や防衛庁戦史室保管資料、各種戦記類など内外の資料を可能なかきぎり収集して、沖縄戦の全貌を明らかにしようと試みた。その心中に悲壮なまでの使命感があっただろうことは推測に難くない。
入手した資料を体系的に整理した彼は、地元紙の琉球新報に「これが沖縄戦だ」というタイトルの連載記事を書き始める。そして、その記事にさらに加筆し、三百点近い未公開の写真と組み合わせて編集出版されたのが、たまたま私が手にすることになった一冊の本というわけだった。この本の特徴の一つは、収録されている写真のすべてが米軍側によって撮影されたものであり、しかもそれらはアメリカに現存する関係資料写真のごく一部に過ぎないということだった。日本側の記録写真がほとんど存在しないのは、沖縄守備軍がほぼ壊滅したことにもよるが、より大きな理由は、それほどまでに彼我の間に物量的な力の差があったということである。
同書を出版したあとも、その著者は毎年のようにアメリカと沖縄とを往復して沖縄関係の写真や機密文書を収集、著述内容の改訂を進めてきた。むろん、それは、前述の経歴からもわかるように、青春期、自ら戦火の直中にあって生き地獄を体験し、戦後の留学を経て日本人としては指折りのアメリカ通となり、語学堪能で米国人の知己も多いこの著者にしてはじめて可能なことであった。
大田昌秀――その人こそがこの本の執筆者にほかならない。この人物がのちに沖縄県知事になろうとは、その時の私には想像もつかないことであった。現在の出版情況はわからないが、おそらくいまも沖縄でならその著書を入手できるのではなかろうか。沖縄を訪ねる機会のある人や沖縄戦史に関心のある人にはぜひ一読をお勧めしたい。現在の沖縄の抱える問題の根源は、本書を一冊読むだけで明らかになると言ってもよい。いま一度あらためて紹介しておくと、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊、那覇出版社発売)がその貴重な戦史記録の書名である。
昭和二十年三月二十六日、沖縄守備軍の予想を裏切り慶良間諸島を攻略制覇した米軍は、その海域を基点にして沖縄本島上陸作戦を敢行した。慶良間諸島では七百人以上の住民がその時点ですでに集団自決していたのだ。米軍兵員は延べ五十四万八千人、艦船数千五百余隻、対する沖縄守備軍は地元から強制動員された十三歳から六十五歳までの男子と女子学生看護部隊を含む十一万人であったという。
当時のアメリカの著名な従軍記者が、「これは戦争の醜さの極致だ。それ以外にはこの戦いをうまく説明しようがない。その規模において、その範囲の広さにおいて、その激烈さにおいて……」と報じた激戦の幕は昭和二十年四月一日静かに切って落とされた。
「海三分、船七分」と日本側の監視員が打電したというほどに海面を埋め尽くした米軍団主力部隊は、読谷村の渡具知海岸に続々と無血上陸を果たす。のちに待ち受ける凄絶な戦いからは想像もつかないくらいに、その上陸風景は平穏なものであったという。沖縄守備軍が水際決戦を避けて全軍を沖縄南部に配し、首里高地一帯の地下にトーチカを構えて米軍の進攻を待ち伏せる作戦をとったからだった。
沖縄守備軍は南部に下がって陣地を構えるに先立ち、北(読谷)飛行場や中(嘉手納)飛行場を爆破し使用不能にする戦略をとった。学徒を大量に動員し、長い年月をかけて完成したばかりの飛行場であったが、上陸した米軍に補給や攻撃の基地として使用されるのを恐れたからである。
しかしながら、日本側参謀本部の思惑はあっけなく裏切られた。優秀なアメリカ工兵隊は、多数のブルドーザーとトラックを揚陸すると、わずか二、三日で両飛行場を修復、拡張整備して使用可能にしたばかりでなく、周辺一帯に車両用の広い道路をあっというまに建設した。
前述の本に収められている一枚の写真を目にしたとき、私は思わず我が目を疑った。米軍が上陸して数日と経たないうちに造られた嘉手納ロータリーと、その円環路を走る多数の米軍車両を撮影した航空写真があるのだが、なんとこの日通ってきたばかりの嘉手納ロータリーの形そのままだったからである。路面が舗装され、道路沿いには建物がびっしりと立ち並んでしまっているが、ロータリーの形や道幅は建造当時とほとんど変わりがない。
嘉手納ロータリーを走りながら、このロータリーはアメリカ的な発想のもとで造られたものだと感じはしたが、まさか米軍の沖縄上陸直後に建設されたものがそのまま残されていたなどとは夢にも想ってみなかった。戦時下の状況にあっても将来を見越して立てられた米軍の戦略構想に較べて、日本軍部のそれはなんと愚かで短絡的だったことだろう。
「マセマティック放浪記」
1999年5月26日
ある沖縄の想い出(3)
金環食のあとで
翌日は絶好の金環食日和だった。ホテルで朝食をすませた私は、すぐに、金環食帯の中心線の通る恩納村万座毛目指して五八号線を南下した。前日那覇から五八号線伝いに奥間にやってくる途中でも気づいていたが、道路沿いに点々とアイスクリームを売るスタンドがあって、年頃の若い女の子が強い日差しのなかでじっとお客を待っている。暑いから観光客にアイスクリームが売れるのは当然だと思って、はじめのうちはとくに気にもならなかったが、そんな光景を繰返し見かけるうちに、いったいそれで採算が合うのだろうかといささか心配になってきた。
いつやって来るかわからないお客を待って立っている女の子だって大変だろうと思ったが、その複雑な背景が私にはまだよく見えていなかった。沖縄国体と金環食とが重なって本土からの客も多かったその日の前後はともかくとしても、働き盛りの若い女性がこうもたくさん道端でアイスクリーム売りをやっているのは、よくよく考えてみると不自然なことである。むろん、「乳脂肪率が高く本土のものより美味しい沖縄のアイスクリームはよく売れるからだ」などという表面的な説明で片づけられるようなことではなかった。
つぶさに観察してみると、アイルクリームスタンドやお土産店の売り子には混血の男女の若者が多かった。すでに過去三、四十年にわたり軍属を主とした米国系の人々と地元住民との間で血の融合が起こり、現在もその状況が進行中である沖縄において、国籍や人種の異なる父母をもつ彼らが生き抜くことは容易でない。米軍基地関係企業をのぞくと経済基盤がきわめて弱く、雇用も不安定なこの地で、自らには何の責任もないにもかかわらず、ときにはあらぬ差別にも堪えて生きなければならない人々の苦悩を、本土の人間が理解するのはきわめて難しい。アイスクリームのスタンド一つにもそのような問題が秘められていたのだが、愚かな旅人の私がそのことに気づくにはいま少し時間が必要だった。
万座毛とは海蝕断崖上にある天然の広場のことだ。青々とした芝生の広がるこの広場からは、眼下に紺碧の万座の海が見下ろせる。小さな入り江をはさんで万座ビーチホテルの洒落た建物も見えていた。二五〇年ほど前、この地を視察した尚敬王が「万人を座らせるに足る」と称賛したのがその名の由来であるという。
万座毛一帯は金環食観測にやって来た報道関係者や一般客でいっぱいだった。NHKや朝日新聞社の腕章をつけた報道陣が慌ただしく取材準備をするかたわらでは、商売上手の業者によって日食メガネなるものが売られていた。小さな長方形の白い厚紙の中央に円形の穴をあけ、それに黒いフィルムをはった簡単な道具で、私も試しに一個買ってみたが、結構役に立ちそうだった。
万座毛の一角では沖縄古来の民族衣装に身を包んだ地元の人々が「うるう祭」というお祭りをやっており、金環食が始まるまでのひととき、観光客の目を楽しませてくれていた。直観的にそう感じただけではあるが、沖縄の伝統的な民族衣装姿はアイヌの人々の民族衣装姿ときわめて似通ったところがあるように思われた。最近のDNAの研究を通して、縄文時代の沖縄や南九州の先住民と同時代の東北、北海道の先住民との間には深いつながりがあったこともわかってきているが、そういったこともなにかしら関係しているのであろうか。
日食は午前十時頃から始まり、次第に太陽が欠けていって、十一時二十三分に金環食の状態になった。皆既日食とは違って太陽の周端はリング状に明るく輝いて見えるから、予想していた以上に眩しく、肉眼でじかに観察するのは困難だった。結局、持参のフィルターや試しに求めた日食メガネを通して観測するしかなかったが、予測されていた通りの見事な金環食を四分間ほどにわたって観測することができたので、その意味ではこの取材旅行は大成功だった。金環食が起こっている最中に周辺の様子をうかがってみたが、陽光は大きく翳りはしているものの晴天時の夕暮れよりはずっと明るい感じで、その点はいささか意外な気がした。
考えてみれば、皆既日食と異なり地上に降り注ぐ太陽光が完全に遮断されるわけではないから、美しいコロナを期待することも、天の岩戸伝説にあるように世界が一時の闇に沈むのを目にするのも、もともと無理な話ではあった。生涯において一度出逢うことができるかどうかという自然現象に、沖縄の万座毛という美しい場所でめぐり逢えたこと自体に感謝すべきであったのだった。
将来、宇宙船などで地球周辺の空間を自由に動くことができるようになれば、皆既日食や金環食の起こるスポットの追尾や選択も意のままになるから、観測の成否が天候に左右されることもなくなるに違いない。だが、千載一遇の機会に賭けるしかない現在においては、金環食を自分の眼ではっきりと見ることができただけでも恵まれていたと考えるべきだろう。
金環食の観測取材をを終えた私は、名護市まで北上し、本部半島の中央部を抜けて本部町渡久地港に出ることにした。地図で見ると、渡久地から本部半島突端にある沖縄海洋博記念公園までは一走りだった。本部半島中央の伊豆味一帯は沖縄随一のパイナップルの産地である。車が半島中央部の高原地帯に入ると、道の両側も前方も見渡すかぎりパイナップル畑になってきた。道路沿いの観光客向けの売店でとりたてのパイナップルを試食することができたが、その甘酸っぱい香りと味はさすがに本場ならではのものだった。
伊豆味地方には明治の頃からパイナップルはあったらしいが、もっぱら仏前の供物とされ、沖縄の人々はほとんど食べていなかったという。ところが、戦後の米軍の沖縄駐留にともなていっきに需要が高まり、米軍用に大量栽培されるようになった。それを契機にパイナップル作りが盛んになり、いまでは沖縄の観光資源の一つとなったのだった。
パイナップル地帯を過ぎ満名川沿いに渡久地の街並みに出、そこからすこし北上すると海洋博記念公園に到着した。博覧会ブームが続いていた一九七五年に、世界初と銘打って開催された海洋博の跡地を国営公園化したもので、国内では最大規模の敷地面積を有している。園内に熱帯植物園や水族館、沖縄館、海洋文化館、沖縄郷土村、アクアポリス、エメラルドビーチ、そしておきまりの大遊園地エキスポランドなどがあった。
ガイドブックに全施設を見学するには最低でも五時間は必要とか書かれていた大規模な園内施設を、せっかくやって来たのだからと一通りは見てまわったのだが、各施設の細かな様子などはほとんど記憶に残っていない。十二年ほど前のこととはいえ、歴史文化や科学技術、動植物の生態などについての展示はけっして嫌いではないし、もの憶えもそう悪いほうではないつもりなのだが、いったいどうしたことだろう。時のフィルターに耐えうるような発見や感動があまりなかったということなのだろうか。
わずかに記憶にとどまっているのは、十七世紀から十八世紀にかけての琉球諸島の古民家集落を再現した沖縄郷土村と、未来の海上都市モデル、アクアポリスの水中展望室から眺めた美しい海中の景観、そして、エメラルドグリーンの海の向こうに浮かぶ伊江島と瀬底島の島影だけだ。いや、それにもうひとつ、旅先でめったにお土産を買うことのない私が、園内の公営珊瑚細工店で赤珊瑚のペンダントを二個買い求めた記憶がある。
そのうちの一個は我が家の奥方の箪笥の底あたりで二度と日の目を見ることのない運命をたどっているのだろうと思うが、もう一個のほうを誰に進呈したものか私もはっきり憶えていない。なんとなく思いあたるふしもないでもないが、いまさら出てこられてもロクなことにはならないから、そちらのほうも眠っていてもらうにかぎる。
沖縄海洋博記念公園をあとにした私は本部半島の北側にまわり、西日に浮かぶ今帰仁(なきじん)城址を訪ねてみた。長い石段をのぼり、城の本丸のあった広場を抜けると古来のままの城壁を見渡せる展望台にでた。七百年以上も前に築かれた北山王朝のこの城は、首里城、中山城と並ぶ名城だったというが、現在は城郭だけが残っている。北山王朝は十四世紀に中山の首里軍によって攻め滅ぼされた。
独特の構造の城壁の下は断崖になっており、北方海上はるかに伊屋名島、伊平屋島とおぼしき島影が望まれた。かねてから訪ねる人はほとんどないらしく、城跡に立つのは私一人だけだった。一帯には夕日を浴びて鳴く無数の蝉の声が悲しげにこだまし、その不思議な蝉時雨(せみしぐれ)は、栄華の果てに滅び去ったいにしえの北山王朝一族の霊を、さらにはこの地につかの間の生を刻み、やがて去っていった多くの沖縄びとの魂を弔い鎮めているかのようだった。
私の心に深くしみいるそれらの蝉の声は九州南部のクマ蝉やアブラ蝉、ニイニイ蝉などのものとは明らかに違っていた。おそらく沖縄地方固有の蝉だったのだろう。実を言うと、蝉の声ばかりでなく、そられを乗せて吹き抜ける今帰仁の夕風のそのものに私の五感は未知の何かを知覚しはじめていた。「ここの風は違う。自分の知っている風とは違う」……一言でいえばそんな思いに襲われたのだった。
なおも続く蝉時雨を背に、静かに今帰仁城址を辞した私は、本部半島北部の集落を縫う道を走り抜け、羽地内海と呼ばれる美しい内海のそばに出ると、その周辺を見下ろせる嵐山展望台にのぼってみた。羽地内海は本部半島の北側付け根一帯とその少し沖にある屋我地島、奥武島によって大きく囲い込まれた天然の内海で、その中には地元の人々が小松島と呼ぶ多数の小島が点在している。
人けのない嵐山展望台に立って見下ろす羽地の海とそこに浮かぶ小島の群は、迫り来る夕闇のもとでひたすら静まり返り、気まぐれな旅人の旅愁をいやがうえにも掻き立てた。点々と民家の明かりの灯りはじめた対岸の屋我地島の西部と本部半島との間には細長い自然の水路が開けており、直接には見えなかったが、その水路の外洋よりの部分が運天港となっていた。
地理的に恵まれた運天港は、古来、沖縄近海を航行する船舶の格好の避難港になってきた。「運天」というその奇妙な地名の由来はなかなかに面白い。あくまでも伝説にすぎないが、保元の乱に敗れ流刑の地伊豆大島にあった源為朝は密かに大島を脱出、運を天に任せた航海の末にたどり着いたのがこの港だったのだという。その決死の航海にちなんで運天という地名がつけられたのだそうだ。
このときたまたま手にしていたガイドブックをめくって運天港の解説を拾い読みしていた私は、慶長十四年(一六〇九年)琉球を侵略した薩摩の軍勢が最初に上陸したのもこの港であることを知った。そして、自分の育った家にいささか関わる遠い昔のある人物についての記録を想い出したのはこのときだった。学生時代に一度それらしき記述を走り読みしたことはあったが、現代に生きる自分には直接関係なかったこともあって、私はそれにさして興味を覚えなかった。だから、そんな記録などすっかり忘れてしまっていた。
運天港につながる羽地内海を通りかかったのは偶然にすぎなかったのだが、蝉時雨の今帰仁城址でいつしかこの身に働きかけた宿世の糸は、否応なしに私の魂を四百年も前の世界に引き込もうとしていた。宿命論というものを私は信じない。いまでもすべては偶然だったと考えている。しかし、このときの沖縄の旅において、偶然として片付けるにはあまりにも多すぎる偶然が重なったのは事実だった。
突然のように降って湧いた複雑な想いを鎮めかねて、しばし私はその場に立ち尽くした。東京に戻って書斎の片隅にある歴史資料を詳しく読みなおしてみなければ、いまひとつ断定はできないという想いはあったが、多分そうなのだろうという予感を打ち消すことはできなかった。正直なところ、それが私の勘違いか記憶違いであればよいのだがとも考えた。
その晩再びヴィラ・オクマに戻った私は、思わぬ展開の末に生じた胸中の混乱をノートにメモしたあと、昨夜読み残した大田昌秀の著書「これが沖縄戦だ」の後半部を憑かれたように読み耽った。その書中には、信じ難いほどに残虐な数々の出来事が、読み手にその歴史的評価を委ねるがごとく淡々と語り綴られていた。感情の高ぶりを極力抑えてあるぶん、そこに収められた記述にはいっそうの真実味が感じられてならなかった。
時間的には話が前後するが、帰京したあと、私は薩摩藩に関する歴史資料と私の育った鹿児島県甑島についての歴史資料をあらためて精読してみた。その結果、やはり私のかすかな記憶は間違いではなかったことが判明した。その事実が間違いではないとわかった以上、私には遠い昔の沖縄の出来事を過去の話として眠らせておくわけにはいかなくなった。
「マセマティック放浪記」
1999年6月2日
ある沖縄の想い出(4)
琉球侵略と初代在番奉行
中国との地理的歴史的関係が深く、南海交易の要所だった琉球諸島は、経済的にも莫大な価値があり、生前、豊臣秀吉も琉球を支配することを夢見ていたという。関ケ原の戦いで豊臣方を破り、江戸幕府を樹立した徳川家康にとっても、琉球を支配下に置くことは願ってもないことであった。
ただ、当時、琉球王朝は中国(明)との結びつきが強くその庇護下にあったうえに、江戸の徳川幕府が自力で直接支配するには地理的にあまりにも遠すぎた。政権を樹立したばかりの江戸幕府には、琉球への侵攻は経済的にも物理的にも困難だったのである。またかりに直接の侵略が可能だとしても、守礼の国として知られる琉球を武力で支配すれば、琉球の人々からばかりでなく、国内外からも少なからぬ反感を買うだろうことは目に見えていた。
そのため、徳川幕府が選んだ方策は自らは労することなく琉球を間接支配することでああった。すなわち、薩摩島津藩に琉球を侵略支配させ、薩摩藩の手を介し、琉球の生み出す富や文化の粋を間接的に略取することを考えたのである。慶長十四年(一六〇九年)の薩摩藩による琉球侵略は、表面的には薩摩藩の単独行為に見えたけれども、黒幕はほかならぬ徳川幕府で、その支持と承認があってはじめて可能だったのだ。琉球支配後、薩摩藩が失政をおかせば直ちに改易し、幕府中枢に近い大名を送り込んで、外様大名島津の従来の所領のほか琉球諸島をも合わせて統治せんとする思惑も隠されていたに違いない。
関ケ原の戦いに豊臣方として出陣しながら、石田三成と用兵戦略をめぐって対立したあげく、戦いに利なしと判断した島津勢は、ついに一戦を交えることもなく東西両軍の戦闘が終わるのを見届ける。小早川の徳川方への寝返りと、勇猛果敢で知られた島津勢の不戦が豊臣方敗北の要因とも言われるが、もしかしたら、小早川にばかりでなく島津に対しても、老獪な家康からの秘密裏の工作などがあったのかも知れない。激闘のさなか中立をかたくなに守った島津の軍勢は、勝利を収めた徳川方の多数の軍勢の真っ直中を粛然として行軍踏破し、最小限の犠牲を払っただけで奇跡的に薩摩に帰還した。
徳川幕府成立後、外様大名に列せられた島津の表向きの禄高は加賀前田藩につぐ七十三万石であったが、シラス土壌が多く台風などによる被害の絶えない薩摩の米の生産力は低く、実質的には高々三十数万石に過ぎなかったし、米質もそう良くはなかったようである。土壌的に恵まれない薩摩の民人の暮らしは貧しく、士族階級といえどもその生活は苦しかった。のちに琉球経由で持ち込まれた甘藷(サツマイモ)はたまたまシラス土壌にも強い作物だったため、食料窮乏の際の救いとなったことはよく知られているところである。
わずかな失政があったり、幕府に対する知行高相応の儀礼や賦課、賦役などに不備不足が生じたりしたら改易必定だった外様の島津は、藩の維持防衛に必死であった。外様大名の参勤交代の制度が正式に定められるのは関ケ原の戦いから三十五年ほどのちのことであるが、徳川幕府成立当初から、江戸城への表敬参内や藩存続のための幕府有力筋への工作などには莫大な費用が必要だった。また、のちの薩摩藩による木曽川治水工事にみるような、藩の財政を圧迫する法外な賦課や賦役、理不尽な各種難題などが先々持ちかけられるだろうことは目に見えていた。
幕藩体制が確立し参勤交代が制度化されてからというものは、江戸屋敷の維持、諸々の祭事儀礼、各種賦課、参勤交代の行列などにおいて、実禄高をはるかに超える知行禄高相応の格式を要求されたため、途方も無い費用が必要となった。島津をはじめとする九州の諸大名は、参勤交代の際、川止めが多く莫大な逗留費のかかる東海道を避け、たいていは中山道を通ったようであるが、東海道を選んだ場合などは大井川ひとつ渡るにも大変な費用がかかったのである。
たとえば、禄高十万石の格式の大名は参勤交代の際に三百人ほどの行列を組むことを義務づけられていたが、この行列が大井川を渡るだけでも、現在の貨幣価値に換算して千五百万円ほどの費用を要したという。七十三万石の薩摩藩などは、従者の数は二千人近くにものぼり、しかも、鹿児島から江戸まで千数百キロもの旅をしなければならなかったから、そのための費用だけでも驚く程の額にのぼった。しかも参勤交代の旅に要する経費の大半は主要街道に沿う徳川親藩や譜代大名の収入となり、間接的に徳川幕府に還流してその財政を潤した。華麗な江戸文化や京都文化の繁栄はそういった経済構造に支えられていたのである。
そのいっぽう、外様大名の領民は重税や賦役に苦しみ、士分といえどもその多くは禄を極度に低く抑えられ、薩摩藩にみる郷士制ように、平時は農耕に従事しながら厳しい生活を送っていた。薩摩人の美徳ともされた「質実剛健」という言葉は、聞こえだけはよいものの、そんな気風が奨励された背景には、生活苦と戦うことを余儀なくされながらも気概だけは高くもつことを求められる領民の隠された姿があったのだ。
幕藩体制成立直後の薩摩藩が、領内の限りある歳入のみに頼って、先々予想される幕府の様々な要求や締めつけに対応していくことは困難だった。そんな薩摩にとって唯一の方策は、中国や東南アジアとの密貿易を含む南海交易を通して利益をあげることであり、その最大の目玉となるのが、ほかならぬ琉球諸島の支配であった。
薩摩藩による琉球侵略が行われたのは、徳川幕府と薩摩藩の利害に関する思惑がたまたま一致した結果にほかならない。一般的な歴史書などでは横暴いっぽうの薩摩藩が自藩の利益のためのみに琉球を侵略したように記述されているが、実際の黒幕は徳川幕府であり、薩摩藩が琉球支配によってあげた利益の大半を陰で吸い上げたのも幕府や幕閣筋であったことを忘れてはならない。
慶長十四年(一六〇九年)三月、総勢三千余の薩摩軍は百隻ほどの軍船に分乗、琉球侵攻のため薩摩半島先端の山川港をあとにした。樺山権左衛門久高を総大将とするこの薩摩軍の指揮官のなかに物頭(ものがしら)を務める一人の人物があった。物頭とは軍の鉄砲組、弓組を指揮する役職である。山川港からの出陣に際し薩摩の従軍将士に対しては、「一般の民人に狼藉をはたらくな、神社、仏閣、堂宇などを荒らすな、各種経文、文書などを大切にせよ」という三つの軍律が布告されていた。
しかしながら、ほとんど抵抗をうけることなく琉球一円を制圧した薩摩軍の将士たちは、この軍律を破って民人に狼藉をはたらき、文物を荒らしてはそれらを略奪した。「この役において将士すこぶる律令を犯す」(南聘紀考)、「家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら失せ果つ」(喜安日記)などと当時の状況を記した文書にも残されているように、薩摩軍の暴挙は目に余るものがあり、当然、琉球の民心には強い反島津の感情が湧き起こった。
ただ、そんな薩摩の将士のなかに、軍律を遵守し、琉球の人々の生命と生活の安全にに努め文物の保全に尽力しようとした一人の人物があった。それが先に述べた薩摩軍の物頭である。民心のなかに高まる反島津の感情を抑え、地元との宥和をはかる必要に迫られた薩摩は、慶長十四年九月に本土へ軍勢を引き上げたあとも、軍律を厳守し琉球の民心にも通じたその物頭を現地に留め、初代琉球在番奉行の任に当たらせる。言うなれば、彼は、沖縄占領後、同島の行政に携わった米軍の軍政司令官と同じ役職に任じられたわけだった。
いくら人徳があり軍律を守ったからといっても所詮徳川幕府や島津の命令の代行者に過ぎなかったわけだから、すくなからぬ損失やゆえなき圧政を琉球にもたらしただろうことは想像に難くない。侵略者の手先であるかぎり、琉球の民人にとって迷惑な存在だったことは疑う余地もないからだ。ただ、当時の幕府や薩摩藩の支配構造の許すかぎりにおいて、地元との宥和をはかるべくその人物なりには力を尽くしたようである。琉球侵攻から二年後の慶長十六年(一六一一年)に「掟十五ヶ条」という法度が薩摩から琉球王朝に申し渡されるまでの間、彼は首里にあって在番奉行を勤めあげた。
掟十五ヶ条は、琉球王朝が遵守すべき事柄を厳格に定めたもので、その最大の狙いは琉球王府の対外貿易権を統制し、主に対明貿易の利益を独占することであった。以後琉球は与論島以北の奄美諸島を薩摩に割取されたばかりでなく、完全な薩摩の植民地となり、様々なかたちで税の上納を強要された。ただ、明への進貢貿易の必要上、琉球王朝の明王朝との冊封関係(明に使節を派遣して貢ぎ物などの礼を尽くし、その見返りに明王朝から庇護をうけ、多大の利益を保証される関係)は容認されるいっぽで、明王朝に対しては薩摩と琉球王朝の関係は隠蔽されたままになった。要するに琉球は二重支配の状態におかれたわけである。
また、幕府に対しては徳川将軍の代替わりのときには慶賀使を、琉球国王の代替わりのときには謝恩使を江戸まで送ることが義務づけられた。これは江戸上りと呼ばれ、一六三四年から一八五〇年までの百年までの間に十八回もの使節団が派遣されている。幕府への莫大な貢ぎ物に加えて使節団の旅する距離が長大なだけに、その負担は大変なものであっただろうと想像される。徳川幕府は、薩摩藩を通じての間接的な利益吸収のみにとどまらず、折々直接的な利益に預かろうと企てるとともに、自らの権威を広く国内に知らしめるため琉球王朝を利用しようとしたのであった。
徳川の旗本の系譜を汲むというある人物が、かつて薩摩は琉球を侵略したと、いくつかのメディアで厳しいく断じているのを目にしたことがあるが、それはかなり一方的な見方だと言えないこともない。なぜなら、陰でその片棒をかついでいたのは旗本たちを召し抱える徳川幕府であり、琉球から収奪された富がめぐり流れて潤したのは、貧しい薩摩の領内ではなく、火事と喧嘩が売り物の江戸だったからである。
初代の琉球在番奉行といえば聞こえはよいが、要するに琉球傀儡王朝樹立のための体のいい手先となった問題の人物は、琉球侵攻の二年後に鹿児島に召喚される。そして、今度は、鎌倉時代以来の支配者小川一族が改易になったあとで、人心が乱れて治安が悪く、流人や異国船の出入が絶えなかったという島津の直轄領、甑島の初代移地頭に任命された。甑島とは、かつて私が育った東支那海に浮かぶ島である。歴史資料のなかの文書には、「甑島は鹿児島より遠いため、普通の者を派遣したのでは勝手なことをしかねず、とても信頼がおけない。そこで慎重に人選をした結果、先年、琉球で軍律を守り貢献のあったその人物を甑島に送ることにし、緊急に同島に移るように申し渡した」といった主旨の記載がある。
信頼が厚かったからとはいうものの、功労があった割には遠い島から島への移封であり、しかも当時の記録で見るかぎりその職務の重さに比してその禄高は驚くほどに低かった。彼には藩のそんな人事と条件をのまざるを得ない事情があったのかもしれないと思った私は、古い文献を調べその一族のルーツをすこしばかり探ってみた。
源頼朝とその側室との間に生まれた島津忠久は、文治二年(一一八六年)頼朝より薩摩、大隅、日向の三国の守護職に任ぜられるが、忠久自身は大番役を務めるために都にあった。そのため忠久は一人の直臣を所領に送り領内を治めさせた。派遣された直臣は忠久に代わってその三国を平定し領内の所々に城を築いたあと主君を迎えに上洛、忠久に従って再び領国へと下った。
島津忠久が薩摩の守護職に着くと、その直臣は忠久より、現在の鹿児島県国分市を中心とする大隅一帯の統治を任じられ、南北朝以降になるとその直臣代々の後裔は大隅国守護代として一帯を治めるようになった。大隅にいるにもかかわらず信濃守を名乗る当主が多かったその一族は、国分清水城を本拠地にしてその地を治め、大きな勢力をもつに至ったらしい。地理纂考によるとこの一族は諏訪大社の大宮司一族とも同族であったという。しかし、大隅の統治についた初代から十代目にあたる董親とその子の親兼は天文十七年(一五四九年)に主家に謀反、島津貴久の命をうけた伊集院久朗の軍に攻められて日向の庄内(現在の都城)へ逃走、それがもとで一族の主家や分家は離散衰退し、島津藩史の主流から姿を消す。
菫親、親兼父子が権力を傘に横暴な圧政を行い、それがもとで一族内部に対立が起こり、やがて主家の島津に対する謀反にまで発展したと藩史などには記されている。記録に残っているような事実も確かにあったようだが、島津一族の島津右馬忠将がそのあと大隅の地頭に任命されているところをみると、一族の内紛に乗じ、謀反という名目で追い落としが計られた可能性も高いし、なんらかのかたちで守護家島津一族の勢力争いに巻き込まれた可能性もなくはない。
没落衰退はしたものの、それでもなおこの一族の一部は国分の地に生きのび、五十年ほどのちになってその係累の中から現れたのが初代琉球在番奉行になった人物であった。彼は秀吉の朝鮮出兵の際、島津軍の一員として高麗に遠征、また、関ケ原の戦いのあと島津義弘を無事薩摩に帰還させるために大きく貢献し、義弘より藤島の太刀を拝領するとともに、五十石の知行を得た。むろん、前大隅守護代謀反の汚名のゆえに、残された同族の者たちにはかつての栄光や権威にすがることなど許されようはずもなかったろう。だから、ささやかでも家を守るには与えられた機会を最大限に活かし、命懸けで功をたてねばならなかったに違いない。その人物が琉球の文物の重要さを熟知し、抑圧される琉球の民衆の心を十分に解し得たのは、自らの置かれたそんな状況に加え、その一族に代々伝わる文物尊重の気風ないしは家風みたいなものがあったからかもしれない。
甑島の初代移地頭に任じられ、地頭としては驚くほど微禄としかいいようのない知行を得たその人物、本田親政は、補佐役で一族の本田八左衛門と共に甑島に渡る。そして彼らは、慶長年間に甑島に配流された大炊御門中将藤原頼国、松木少将宗隆の公家二人が最後に暮らした上甑島里村の屋敷に居し、その職務を全うした。本田親政のほうは寛永十五年甑島から鹿児島に戻り翌年に他界する。甑島に残ったほうの本田一族は、両公卿の墓を代々守るとともに、その遺児や子孫と血縁関係をもつにいたったようである。明治初期外相を務めた寺島宗則は、のちに甑島から鹿児島県阿久根市脇元に移った松木家の出身である。
両公卿の甑島での生活ぶりを偲ぶ文物や当時の事情を詳しく記した文献などはなにも残されていないので(おそらく藩命で没収されたものと思われる)明確なことは定かでないが、鎌倉時代薩摩に下る以前の本田一族のルーツとの関係が背景にあって、そのような縁が生まれたのかも知れない。
本部半島の嵐山展望台から羽地内海を見下ろし、運天港に上陸した薩摩の軍勢のことを想い浮かべたとき、突然に記憶の古層から甦ったのは、ほかならぬ本田親政という名前だったのだ。実を言うと、親政が鹿児島に戻ったあと甑島に残った本田一族は私の先祖であり、いまは草蒸し荒れ果てた屋敷跡になっているが、彼らが四百年近くも前に暮らしたのと同じその場所でこの私は育ったのだった。
遠い昔のこととはいえ、幕府や薩摩藩の代弁者となって尚寧王の琉球統治に干渉し、琉球の人々に多大の迷惑をかけた一族の末裔の一人がほかならぬこの身だということが判明し、私はなんとも遣る瀬無い複雑な心境になってしまった。沖縄にやって来るまでは、こんなかたちで否応なく己のルーツをたどらされ、あげくのはてに衝撃の事実を確認させられることになろうとなどは夢にも思っていなかった。一連の事態は、まことにもって天のいたずらとでもいうほかないものであった。
「マセマティック放浪記」
1999年6月9日
ある沖縄の想い出(5)
辺戸岬と祖国復帰闘争碑
沖縄三日目の朝は、いささか憂鬱な私の心を励まし力づけてくれるような晴天だった。遠い昔のことがどうであれ、こうして沖縄にやってきた以上、現代の沖縄の置かれた状況を自分なりに極力冷静に見すえ、己の無知と無責任さを省みる契機にするしかない……そう思い直した私は、とりあえずホテルをチェックウトするべく身支度を整えた。
フロントに向かう前にホテルの売店をのぞくと、前日の金環食の写真セットがもうお土産として売られていた。記念にワンセット買ってみたが、プロのカメラマンが撮った写真だけのことはあって、その出来栄えはなかなか見事なものだった。だが、それ以上に感心したのは、「機を見るに敏なり」という言葉を地でいくようなその抜け目のない商魂ぶりだった。万座毛で金環食を見る前に買った日食メガネもそうだったが、どうもそれらのアイディアは地元の人の発想ではなく、商才にたけた本土の誰かが考え出したもののように思われた。
奥間ビーチに別れを告げると、私は沖縄本島最北端の辺戸岬を目指して走り出した。右手には国頭山地の最高峰与那覇岳の西山麓が広がっている。与那覇岳は四九六メートルと標高こそ高くないが、その周辺、とくに東側山麓一帯は深い亜熱帯樹になっていて、天然記念物のノグチゲラやヤンバルクイナが生息していることで名高い。また、一〇四科三七八種におよぶ植物が繁茂しているともいわれ、天然保護区域にも指定されているところだ。海辺の村というよりは静かな山村といった感じの辺土名(へとな)の集落を過ぎ、西海岸沿いの道をどんどん北上していくとやがて宜名間(ぎなま)の集落にでた。沖縄本島の集落は北端に近いほど昔の姿を留めている。がっしりした感じの赤瓦の屋根がとても印象的だった。
明るい日差しを浴びながらもひたすら静まり返った宜名間の集落を過ぎると、ほどなく道路の左右に二十メートルほどの大岩の切り立つ場所にでた。まるでトンネルかゲートをくぐっている感じである。その近くの道路脇に「戻る道」と記された碑が立っていた。五、六十年ほど前までは、そこは岩の裂け目を掘り削った急勾配の狭く細い道になっていて、途中で反対方向からやってくる人と出合うとどちらかが道を譲って戻らなければならなかったことから、そのような名がつけられたらしい。
現在も車道の上の崖の間にその道の跡が一部残っていて、それを徒歩でのぼりつめたところに「茅打ちバンタ」と呼ばれる場所があった。眼下には高さ百メートルほどの断崖がほぼ垂直に切り立っている。この断崖上から束ねた茅を海面に向かって落とすと、風に吹き上げられてバラバラに飛び散ってしまうというのが、その変わった地名の由来であるという。断崖の真下で揺れる海の色はどこまでも青く、しかも底のほう深くまで透き通っていた。こころもち視線を上げて来し方を眺めやると、あの運天港を形づくる本部半島と屋我地島一帯の遠景が望まれた。
四百年前、百隻を超える薩摩の軍船団は、私の眼前に広がる海を横切って運天港に向かっていった。不安な思いに駆られながら、その異様な光景をこの茅打ちバンタの断崖上から眺めていた沖縄びともあったに違いない。最終的にその事実を確認したのは私が東京に戻ってからのことであったが、それらの軍船のどれかには、当人も予想だにせぬ成り行きから薩摩の琉球支配に一役買うはめになる人物が乗っていたわけだ。そして、それから四百年近く経たのち、奇しくも、その人物にゆかりの不肖な男がふらふらと沖縄を訪ね、いにしえの沖縄びとが軍船団を見下ろしていたはずの断崖に立って当時の情況を想像していたことになる。
展望台の周辺には蘇鉄が多数自生していた。赤土に近いこの地の土壌は多分に鉄分を含んでいるのだろう。群生するそれらの蘇鉄を眺めるうちに、私は自分が育った家の庭の一隅にも大きな蘇鉄が一本生えていたことを想い出した。年代もののその大蘇鉄が枯れてなくなるときには家も滅びるなどと伝えられていたものだ。身辺に様々な不幸があいつぎ、やがて天涯孤独の身になった私が東京に出て苦学しはじめた頃には、もともと荒れかけていた屋敷は、無人となってますます荒れ果て、その蘇鉄もいつの間にか枯れてしまった。
こんなことを書くと言い伝えがずばり当たったようにも見えてくるのだが、真相は多分そうではない。蘇鉄は鉄分を多量に摂取して生きる樹木なので、甑島のような本来の自生地でないところで蘇鉄の樹勢を保つには、根元に屑鉄や使い古した剃刀の刃などを常時埋めて鉄分を補給してやらねばならない。そのほか、こまかな手入れや台風などに対する備えなども必要となる。だから、何らかの事情でその世話をする家人がいなくなると、蘇鉄は徐々に弱りやがて立ち枯れてしまうのだ。人がいなくなるから蘇鉄が枯れるわけで、言い伝えとは因果関係が逆さまなのである。
あらためて周辺の蘇鉄を観察するうちに、もしかしら、私が育った家のあの蘇鉄は、この沖縄での任務を終え甑島に渡った例の人物たちが、沖縄での二年間を懐かしんで植えたものではなかったろうかという想いが脳裏をよぎったりもした。だが、手入れさえ怠らなければ蘇鉄が樹齢三、四百年にもわたって生きながらえることができるものなのかどうかは、植物の専門家でもないこの身にはよくわからなかった。
茅打ちバンタのある付近から沖縄本島最北端の辺戸岬までは車でほんの一走りだった。岬一帯は万座毛と同じようにウガンダ芝が密生していて、何千人もの人々が大集会でも開けそうな平地になっていた。そして、その平地を抜け岬の突端に続く小道の脇に一つの記念碑が建っていた。ほとんどの人は何の関心も示さず次々にその碑のそばを通り過ぎていったが、そんなものがわざわざこの地に建てられた経緯が、私は妙に気になってならなかった。そこで碑の前に佇んでざっと碑文に目を通してみることにした。
「祖国復帰闘争碑」と題されたその碑文は相当に長いもので、細かな文字が連綿と彫り刻まれており、刻字の一部は読み取るのに苦労するくらいに変形や変色をきたしていた。だが、碑文を読み進むうちに私はいつしか深い感動にいざなわれた。文体はいくぶん古いものの、それは読む者の胸に切々と迫る名文であった。そして、そこには、まぎれもなく戦後の沖縄びとの心の原点が刻まれていたのである。
こんな碑文があることなどこの辺戸岬にやってくるまで知らなかったし、その文章を沖縄関係の書籍やガイドブック、報道記事などで目にしたこともなかった。どうしてもその内容を記録しておきたいと思った私は、その碑の近くに腰をおろしてノートを開くと、その碑文の刻字を一文字一文字書き写しはじめた。かなり時間のかかる作業であったが、そんなことなどすこしも気にはならなかった。
私が碑文を書き写している間にも、たくさんの観光客が私の脇を通り過ぎて行ったが、ほとんどの人はその碑に何の関心も示さなかった。だが、碑の前で足を止める人がまったくなかったわけではない。一人の日本人青年に案内されてやってきた在日米軍の家族とおぼしき一行は、碑の前に立つてVサインを出したりしながら皆でにこやかに記念撮影を繰り返した。その何とも無邪気で平和な光景を目にしながら、もしこの人たちが碑文に記された内容を知ったとしたらどんな反応を示すのだろうかと、私は内心で半ば苦笑せざるを得なかった。
時代の潮流というものはすべての恩讐を風化させる。それは必ずしも人類の平和と友好にとって悪いことではないのだけれども、折々珍妙かつ喜劇的な光景を生み出したりもするものだ。そのとき目にした米軍家族一行の心から楽しそうな様子は、そのことを何よりもよく象徴するものであった。
もしかしたら一部に写し間違いなどがあるかも知れないが、せっかくの機会だから、以下にその全文を紹介しておこうと思う。その意味するところをどのように受け止めるかは人それぞれであろうけれども、我々本土の人間が沖縄の基地問題や来年開催される沖縄サミットの意義などを考えるとき、なにかしらの参考にはなるに違いない。
〈祖国復帰闘争碑〉
全国のそして世界の友人に贈る。
吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。
鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。
見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。今踏まれている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのでもない。
闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。
碑文の筆写をほぼ終えかけたときのこと、私はもう一つ忘れられない光景にでくわすことになってしまった。ノートを広げてメモをとる私の姿が気になったらしく、一人の青年がさりげなく近づいてきてすぐ脇に立った。そして、彼はまるでこちらの視線に誘われるかのように、その碑文に目を通し始めたのだった。彼は混血の青年で、地元の大学の学生ではないかと思われた。しばらくその碑文を読んでいたその青年の顔がみるみる複雑な表情に変わっていくのを、そばの私は見逃さなかった。
彼は半ば悲しげな、半ば怒りに満ちた様子で急にプイと石碑に背を向けると、来た道をそのまま引き返して行ってしまった。おそらく辺戸岬の突端に立って海を眺めるつもりで来たのだろうが、彼は岬に行くのを途中でやめてしまったのだ。その原因が碑文にあったことは明らかだった。彼の心中は察するにあまりあるものがあった。もし私の見かけたこの青年が沖縄駐留の米軍軍属と地元沖縄の女性との間に生まれたのであったとすれば、どんなにそれが沖縄の民衆の心を強く訴えかけたものだとしても、この碑文は彼にとって残酷なメス以外の何物でもなかったろう。
沖縄の地で混血として生まれてきた彼には何の責任もない。そして生まれてきた以上、彼は沖縄で、さらには日本国内で生き抜いていかなければならない。しかし、彼の力では如何ともし難い日米間の過去の歴史的背景が様々なかたちで彼を苦しめることになっていく。しかもこの沖縄には彼と同じような境遇の人々が相当数生活していて、その数は現在も一定割合で増加しつつあるはずだった。私が出逢った青年はそれなりに教育を受けている感じだったからまだよかったが、おそらく、十分な教育を受けられないままに苦しんでいる人々も多数あるに違いない。そんな人たちが沖縄で安定した仕事を探すのは容易なことではないだろうと思われた。
祖国復帰闘争碑の向こうにある平坦地を通り抜け、辺戸岬の突端に立つと、北方はるかに与論島の島影がうっすらと望まれた。眼下は隆起サンゴ礁特有の高さ二十メートルほどの絶壁になっていて、青潮が激しく打ち寄せ砕け散っていた。東支那海と太平洋を繋ぐ海峡をはさんで与論島までは二十二キロ、小舟でも二時間足らずの距離だったが、一九七二年に沖縄が日本に復帰するまでは、その間に目に見えない国境北緯二十七度線が引かれていた。
碑文にもあるように、祖国復帰を願う当時の沖縄の人々は年に一度この辺戸岬の広場に集まって大集会を開き、夜には巨大な篝火を焚いて、同様に篝火を焚く与論島の人々と呼応し合ったという。また、辺戸岬近くの宜真名の港からでた小舟の群れは北緯二十七度線を越え、、与論島からやってきた小舟の群れと合流し、互いに接舷し灯火を点して祖国復帰実現のための海上集会を催したのだった。
岬から車に戻る途中で喉を潤すために売店に立ち寄ったが、若い売り子の女性たちはやはり混血の人たちだった。これは私の思い過ごしだったかもしれないので、断定はできないが、南部や中部の沖縄観光の中心地からはずれて沖縄北部や北東部に向かうにつれて、白人系より黒人系の混血と思われる売り子が多くなっているのは少々気になった。やはり、そうならざるを得ない何らかの事情が隠されていたのだろうか。
辺戸岬をあとにした私は、沖縄本島でもっとも昔のままの姿を留めているといわれる東北部の海岸線や国頭山地の東側山麓一帯をめぐる道路を走って、中部の宜野座村、金武町方面に抜けることにした。辺戸岬からほどない「奥」といういう集落は、その名の通りに奥ゆかしく、とても静かな集落だった。燦々と降り注ぐけだるいばかりの陽光とは裏腹に、まるで遠い昔に時間が止まってしまったかのように静まり返る家々のたたずまいは、沖縄南部の市街地や中西部のリゾート地帯の様子から想像もできないものだった。
太く厚い筒状の真竹を縦半分に切り割ったような形の赤瓦を丹念に並べ、それらを分厚い漆喰で固めた低い屋根を持つ平屋と、その四方を囲うがっしりとした石垣などは、この地ならではの猛烈な台風にも耐え得ることを想定したものに違いない。長年の生活の知恵としてこのような造りの家々が生まれたのだろうが、周辺の自然や南国の太陽と実によく調和していて美しかった。いくつかの家々の屋根を飾る獅子形の守り神シーサーを仰ぎ見たり、あちこちに咲くブーゲンビリヤやハイビスカスの花を愛でながら、私はしばらく時を忘れて集落内を歩き回った。
奥集落から東寄りにしばらく走って沖縄本島北東端の海岸線に出ると、道は大きく南に向きを変えた。進行方向左手には太平洋が広がり、どこまでも続く無人の浜辺に向かって磯波が静かに、しかし絶え間なく打ち寄せている。いっぽうの右手山岳部の斜面一帯は、亜熱帯性の樹林で深々と覆われ、容易には人を寄せつけない気配だった。
本物の磯浜のみの持ち具えるある種の匂いを潮風の中に嗅ぎとった私は、伊江川近くの海岸で車を駐め、浜辺に降り立った。思った通り、そこにはまったく人手の加わっていない自然の磯浜だった。浜辺一面に無数の白い珊瑚の断片や珍しい貝殻が転がり、すこし沖の遠浅の部分は磯辺に沿って帯状に発達した大小の珊瑚礁群からなっていた。人工的に整備されたリゾート地の恩納海岸や奥間ビーチと違って荒々しく無愛想な感じではあったが、これはまさしく、幼い頃に私を育んでくれたのと同質の、本物の潮の香りと輝きをもつ海と浜辺に違いなかった。
日差しもほどよい強さだし、水も青々と澄みきっていて、水中の生物の息づかいがいまにも聞こえてきそうな感じである。これで泳がない手はないだろう。誰もいないのをよいことに、幼年時代を懐かしみ、生まれたままの姿、すなわち「フリチン」で飛び込んでみたいという想いも一瞬募ったが、己の歳を考えるとさすがにそれは気がひけた。そこで、いったん車に戻って持参の海パンにはきかえ、ゴーグルをはめて出直すと、喜々として無人の海中に飛び込んだ。
「泳げなければ人間でない」というよりは、「潜れなければ人間でない」と村の誰もが考える島育ちの私なので、荒磯での泳ぎや素潜りは得意である。ちょっと沖に出て海中を覗いてみると、予想に違わず大小の美しい珊瑚が群をなして発達していた。珊瑚礁の根元に潜り、藻や海草を掻き分けて貝を探し、人懐っこい色とりどりの魚たちと戯れるうちに、いつしか私はすべての憂いを忘れ去り、なんとも満ち足りた気分になった。調理具を携行していなかったので貝を採るのはやめたが、食べられそうな貝がいたるところに生息していた。
海からあがったあとで潮気を洗い流せる場所は近くにはなかったが、子どもの頃からこの手のことには慣れっこだったから、多少の身体のべとつきは気にならなかった。それどころか、他に人影のない沖縄の美しい海を独占して泳ぎ回るという望外な体験まで積むことができたので、海からあがっても気分は爽快そのものだった。
車に戻って一息ついた私は、次なる目的地、タナガーグムイを目指して再び走りだした。グムイとは川の淀みや滝壺のことである。タナガーグムイは安波川の支流、普久(フークー)川の上流にある秘境で、一帯の湿地や滝壺周辺には国の天然記念物に指定された珍種の植物が群生しているということだった。
「マセマティック放浪記」
1999年6月16日
ある沖縄の想い出(6)
新旧の沖縄の狭間にて
タナガーグムイに向って山間部を通過中、突然、バリバリバリバリという不気味な轟音がどこからともなく響いてきた。しかも、エンジン音をかき消すくらいに激しいその音は繰返し繰返し聞こえてきた。機関砲を連射している音のようにも、軍事用のヘリコプターが超低空で飛行している時の音のようにも思われた。おそらく沖縄駐留の米軍が、近くの山岳地帯でなんらかの軍事訓練でもやっていたのだろうが、豊かな自然と静かな環境の残る沖縄東北部にはなんとも不似合いな物音だった。
タナガーグムイの入り口は安波方面へと続くダートの山岳道路の右脇にあった。よく注意していないと見落としてしまいそうなほどにその場所は目立たなかった。車を近くのスペースに止めたあと、軽い気持ちでその入り口に立った私は、予想外の状況に思わず息を呑んだ。私の立つ地点から眼下の谷底に向かって、人間一人が降りるのにやっとなほどの隘路が四十五度ほどの急角度で一直線に落ち込んでいたからである。そして足元の鉄杭に一端を固定された太く長いいロープが一本、その隘路に沿って張られていた。どうやら、そのロープを伝って下に降りろということらしかった。こんなところを訪ねる物好きはめったにないとみえ、あたりはしんと静まり返り、人の気配はまったく感じられなかった。
私はロープにつかまり身体のバランスをとりながら、脆い砂岩質の岩と粘土質の赤土のむきだした急斜面を降り始めた。若い頃に山歩きや沢登りをずいぶんとやっていたから、その程度のことはたいして苦にならなかったが、もし雨が降っていたら赤土で身体中泥々になっていたことだろう。谷の底は割合平坦になっていて、沼地の水辺伝いに細道を少し歩くと、滝の注ぎこむ淀のそばにでた。あたりの岩盤は様々な形に侵食されていて、奇岩怪石と呼んでよいような岩々がいくつか立ち並んでいた。
流れる水はかなり鉄分を含んでいる感じで、淀の周辺の岩や緩やかな滝の川床の基盤はちょっと赤茶けた色をしていた。一帯はかなりの広さの湿地帯になっていて、初めて目にする様々な植物類が繁茂していたが、それら一つひとつの名称は門外漢の私にはよくわからなかった。リュウキュウアセビ、アオヤギソウ、コケタンポポ、ヤクシマスミレなどの珍種奇種も群生しているとのことだったが、花のシーズンを少しはずれていたこともあって、これがそうかなと思う程度で、十分には確認できなかった。
タナガーグムイに流れ込む川の上流側は鬱蒼とした亜熱帯樹林になっていた。滝から流れ落ちる水に手を入れているうちになんとなく奥に分け入ってみたい気分になって、ちょっとだけ前進しかけたが、そんな私の足を引き留めたのは前方に現れた一枚の黄色い警告板だった。髑髏のマークが描かれたその警告板には英語で「WARNING!」と大書され、その下にやはり英語で警告理由を記した一文が添えられていた。いつごろ建てられたものかは定かでなかったが、それは駐留米軍の衛生管理当局の手によるもので、水遊びや探検ごっこにやってくる人々に注意を促す内容だった。
詳しく目を通すまでは、一帯のあちこちに棲むハブなどに注意するよう促したものかと思っていたが、警告の内容はそうではなかった。それは、この付近には熱帯性の特殊な有害水生細菌が生息しているので、水遊びなどは慎むようにという内容の警告文だった。アメリカ人などは家族や仲間内でちょっとした冒険がらみのフィールドワークを楽しむことが多い。そういった人々向けの警告板なのだろうが、日本の当局によって建てられたものではなく、米軍の管理当局の手によって建てられたものであるということは、過去の沖縄の状況を無言のうちに物語るもので、なんとも興味深いかぎりだった。もしかしたら、かなり前に建てられたものがそのまま残っていたのかもしれないけでども……。
再びロープを頼りに急斜面をよじ登りタナガーグムイをあとにした私は、安波の集落へと下っていった。安波川のすぐ近くまで山の斜面が迫り、その山裾に段状をなして古い造りの民家が立ち並んでいる。現在はどうなっているのかわからないが、当時はほとんどが昔ながらの茅ぶき屋根の沖縄民家で、その風情豊かな光景を通して、遠い時代の沖縄の姿の一端を偲ぶことができた。車から降りて集落の細い小路を歩いてみると、隅々まで実によく手入れが行き届いていて、各々の家の門口付近には亜熱帯種の美しい花々が鮮やかな彩りを競うかのごとくに咲き誇っていた。集落一帯はどこも静まり返っていて、その不思議な静けさが心身の奥底までじわじわとしみとおってくる感じだった。
安波を出てしばらくすると、車は与那覇岳の東山腹に差しかかった。先にも述べたように、この与那覇岳の東側一帯はノグチゲラやヤンバルクイナが生息するので有名なところである。むろん、よほどの幸運に恵まれないかぎりそれらの珍鳥にはめぐりあえないとわかっていたので、とくに期待もしていなかったが、そんな鳥たちの棲む豊かな自然の中を走るのは気持ちのいいことだった。
与那覇岳の山麓を過ぎると、車道は複雑な山岳地形を避けるかように海岸線のほうに向かって下り始め、ほどなく海辺からそう遠くない平坦地に出た。大泊、大工泊、魚泊、宮城、川田と海岸に線沿う小集落を抜け、やがて車は平良湾に面する東村の中心集落平良に入った。そして、平良から宇出那覇のT字路に出て左折、しばらく道なりに南下していくと慶佐次の集落に着いた。この集落の位置する慶佐次川の河口にはヒルギ、すなわちマングローブの群落が形成されている。海水の塩分にも耐えるヒルギ林は南の島ならではのもので、その独特の枝ぶりや葉の形、根の張りかたなどを実際に目にしたのはその時が初めてだった。
慶佐次から有銘湾をめぐって再び山中に入り、しばらく走ると大浦湾沿いの集落に出た。眼前にひらけた湾をはさんで進行方向左手に大きくのびだして見えるのは辺野古岬のようだった。大浦湾から辺野古岬一帯は名護市に属しており、来年開催される沖縄サミットにおいてはこのあたりが中心会場になる予定で、現在開発整備が進められているという。また、普天間飛行場の代替として海上基地の建設地の候補にあがっているのも、名護市の東海岸にあたるこのあたりにほかならない。むろん、その時点においては、世の喧騒から隔離された美しく静かなその地が、やがて国際政治劇の渦中に巻き込まれることになるなど想いもよらぬことではあったのだ。
辺野古岬をめぐり、宜野座村を経て中部の金武町に入ると、周辺の雰囲気が一変した。いかにもアメリカ的な感じの建物が立ち並び、見るからに基地の町という独特の空気が漂っている。考えてみると、キャンプハンセンをはじめ、金武町内の七割が駐留米軍の軍用地となっているというから、街並み全体がどこかけばけばしい感じがするのはやむを得ないことだった。由緒ありげな町名につられて沖縄古来の静かな農村風景を期待するほうが無理というものではあった。
金武の街並みを通り過ぎ、舗装整備の行き届いた金武湾沿いの道に出ると、屋嘉ビーチを左手に見ながら石川市方面に向かっていっきに走り抜けた。左手海上はるかに浮かぶ島影は、翌日に訪ねるつもりでいた平安座島、宮城島、伊計島のもののようだった。東海岸の石川市と西海岸の恩納村仲泊の間は、沖縄本島がもっとも細くくびれている部分である。石川市に入った私は、東海岸沿いに南下する幹線路から西に分岐して仲泊に出ると、西海岸伝いに残波岬目指して走りだした。できることなら、残波岬で西の海に沈む美しい夕日を見たいと思ったからだった。
旅先にいるとすぐに夕日を追いかけたくなるというのは、私の困った習性の一つである。子どもの頃に身についてしまった厄介な習癖で、ほとんど「夕日中毒症」とでも呼んだほうがよい状態になっている。サン・テグジュペリの「星の王子様」の中に、一日何回も夕日が見られる小さな星の話が出てくるが、もしかしたら、サン・テグジュペリも私と同病だったのかもしれない。この厄介な病を抑えるには、誰か素敵な女性にでも旅先まで同行してもらい、日没の時刻が近づいたら「私と夕日とどっちが大切なのよ!」と強引に迫ってもらうくらいのことをするしかない。
朝日のほうはどうかといえば、まあ、けっして嫌いではないが、旅先で常に早起きしてそれを見るというまでのこだわりはない。そもそもフリーランス人間というものは、朝は弱いと相場が決まっている。北アルプスの山の頂で見るモルゲンロート(朝焼け)のような例外もあるにはあるが、美しさという点では、一般的には滅びの影を秘めた夕日のほうが素晴らしい。
余談になるが、日の丸というのは、「日出る国の天子云々…」の聖徳太子の言葉を待つまでもなく、エネルギッシュな朝日をイメージしたものに違いない。与党筋に日の丸大好き人間の先生方が多いのも、一歩間違うと「見よ東海の空明けて旭日高く昇るとき…」というアナクロニズムに通じかねないイメージへの思い入れがあってのことだろう。少しくらいは夕日の厳粛さをイメージした日の丸でもあれば、夕日派の私などももっと日章旗に好感を抱くことができるだろうにと思わぬこともない。もっとも、いま私がこの拙稿を書かせてもらっているこのホームページのオーナー会社も「夕日新聞」ではないから、話はなんともややこしい。
真栄田岬の付け根を横切り、与久田ビーチ沿いに走って、残波岬に辿り着いたのは日没時刻の少し前だった。残波岬の北側は数キロにわたって高さ百メートルほどの断崖になっていて、絶え間なく東支那海の荒波が打ち寄せている。岬の先端付近に立つと、東支那海が一望できた。西方海上の水平線上に雲が湧いていたために、残念ながら美しい夕日を眺めることはできなかったが、残波岬というその名称からも連想される通りの、落日にきらめく神秘的な夕波の輝きを想い浮かべることは容易であった。中国の淅江省はこの岬の西方はるかに位置している。中国大陸から見れば、日の昇る東方の海上に浮かぶ琉球諸島はまさに仙人の住む蓬莱(ほうらい)島そのものであったに違いない。
残波岬から西海岸線伝いに十キロたらず南下したあたりが、沖縄戦の際に米軍主力部隊が無血上陸を果たした読谷村の渡具知海岸だ。一九四五年四月一日午前八時、奇しくもエイプリルフールの当日に、「アイスバーグ作戦(氷山作戦)」と名づけられた米軍沖縄本島上陸作戦は敢行された。もしこの岬に立つ人があったとすれば、南西方向の海上一面を覆う米艦船群を遠望することができたであろう。米軍将兵の間で「これはもしかしたらマッカーサーの上陸か?」というジョークが飛び交かったほどに、日本軍の抵抗のまったくない静かな上陸風景だったというが、それは沖縄南部戦線における地獄絵図を裏に秘めた、文字通りの「嵐の前の静けさ」に過ぎなかった。
夕暮れの残波岬にしばし佇んだあと、私は五八号線まで引き返し、ムーンビーチの少し先にあるホテル・サンマリーナにチェックインした。本格的なリゾートホテルとして当時開業したばかりのサンマリーナの造りは、さすがに見事なものだった。広い一階のオープンスペースは音楽演奏用のステージと青い水を湛える人工池をそなえた屋内ガーデン風の造りになっていて、あちこちにロングチェアが配されていた。照明器具をはじめとする各種デコレーションも計算し尽されたもので、上部空間は建物の最上階に至る巨大な吹き抜け構造になっていた。さらに、各階には屋内回廊があって、それらの回廊から一階のオープンフロアを見下ろすことができるような工夫もされていた。エレベータの内部から吹き抜け空間全体を見渡せるようになっているのもなかなか味な感じだった。
鍵をもらって自室に入るとすぐ浴室に飛び込み、北東部海岸で泳いだときに身体についた潮気を洗い流した。あてがわれた部屋は立派なツイン仕様になっており、階段状に配された部屋付きのテラスからは、大小の屋外プールのある大庭園とその向こうに広がる海を見下ろすことができた。自ら好んでホテル・サンマリーナを選んだわけではなく、このホテルの取材も仕事のうちだったので泊まることになったのだったが、せっかっくのことなので野次馬精神を丸出しにしてあちこちを散策してみたりもした。
ホテル脇には、各種ヨットやマリンスポーツ用のボートのほか、サンセット・クルージングやムーンライト・クルージング用の船が発着できる専用マリーナが設けられていた。広大な屋外プールには、夜間照明のもとで思いおもいに泳ぎを楽しんでいるかなりの数の宿泊客の姿も見受けられた。また、ホテル敷地の外側に続く綺麗な珊瑚砂のビーチはサンマリーナの宿泊客専用で、夜間であっても、寄せる波の音に耳を傾け、サクサクと砂地を踏みしめながら散策を楽しむことができた。マリンスタッフと呼ばれるホテル専属のレジャー指導員は、男女ともヴィラ・オクマと同様になかなかの美形揃いで、そのほとんどはやはり白人系の混血のようだった。
私はダイニングルームでのんびり食事をとったり、ティルームでお茶を飲んだり、レジャールームをはしごしたり、プールで泳いだりしながら、宿泊客の様子をさりげなく観察してみた。若いOLや女子学生風のお客が圧倒的に多いのに比して、男性客はかなりの高齢者か外国人がほとんどだった。なかに何組か若い男女のカップルがいたが、面白いのは、どのケースも女の子のほうが主導権をとっていることだった。ホテルの洒落たダイニングルームで夕食をとるときも、若い男の子のほうがどこかおどおどした感じなのに対し、女の子のほうの身振る舞いは実に堂々としていた。かねがね私は各方面での女性の社会進出に肯定的な人間だが、このときばかりは、「日本の若い男どもよ、もうちょっとしっかりせんかい!」と尻を叩きたくなるような気分だった。
それにしても、働き盛りの日本人男性がまったくと言っていいほど見あたらないのは、考えてみると奇妙なことだった。ひとつには九月という時節柄もあったのだろうが、一番心身のレフレッシュを必要としているはずの人間が少なくOLが異様に多いということは、表面的には絶頂を誇る日本経済の底の浅さを物語るもののように思われてならなかった。リゾート地でのんびりと休養をとるのは要職にある男のすることではないという社会通念が崩れ、働き盛りの人間がもう少し余暇を楽しめるようにならなければ、日本人の生活が真の意味で豊かになったとは言えないと感じたわけである。だが、現実にはそうなる前にバブル経済は崩壊してしまった。どうせ崩壊する運命にあったのであれば、当時の企業戦士たちはもう少し余暇をとって人生をエンジョイすべきだったろう。あの頃なら、本人の選択次第で十分そのことが可能だったはずだから……。
「マセマティック放浪記」
1999年6月23日
ある沖縄の想い出(7)
沖縄は沖縄固有の物差しで
翌日は朝食をすませたあと、ホテル専用のビーチに出て一泳ぎした。純白の珊瑚砂も綺麗だし、エメラルドグリーンの海の色もなかなかのものだった。だが、私にはいまひとつ物足らなかった。前夜は気がつかなかったが、このビーチは大量の珊瑚砂を運んできて人工的に造ったものであることは明らかで、海底の構造が単調なうえに海中に生物の影がほとんど見当たらないのが、そのなによりの証だった。海に何を求めるかは人それぞれだから、純白の砂と青く透明な水のきらめくこのビーチが素敵だと思う人も多いことだろう。それはそれで結構なことであり、他人がそれに対してあれこれ言う筋合いのものではなかったが、ともかく、野蛮な育ちの私の感性にはいまひとつフィットしなかった。
ホテル・サンマリーナをチェックアウトした私は、五八号線をいまいちど北上し、部瀬名岬にある恩納海岸海中公園を訪ねてみた。当時のここの売り物は岬の沖一七〇メートルほどのところにある海中展望塔で、ラセン状の階段を降りると、水中展望室の窓から海底の様子が眺められるようになっていた。珊瑚の林と潮の動きに伴ってゆらめき動く海草、そしてそれらの間を泳ぎまわる色とりどりの熱帯魚の群れとそれなりに見ごたえはあった。私自身は子供の頃から海に潜ってこういう光景を幾度となく見てきたのでとくに驚きはしなかったが、水族館とは一味違う自然まかせの光景で、展望室に近づく魚類もそのときどきで異なるから、都会育ちの人などにはとても新鮮に感じられたことだろう。
せっかく海中公園にきたついでだからと思って観光用グラスボートに乗り一帯の海の中をのぞいてみたが、群生する珊瑚そのものは皆小振りなものばかりだった。近年の状況はわからないが、私が育った甑島でもかつてはそれより数段大きなテーブル状珊瑚の群生を見ることができた。もっとも、座間味諸島や宮古島、西表島などに行けば話はまた違ったことだろう。
この海中公園についていまも強烈に私の記憶に焼き付いているのは、それとは別の光景だった。私が乗船したグラスボートの舳先にはかなりの数の菓子パンが山積みしてあった。ボートに乗ったときから、それらはいったい何のために使うのだろうと思ってはいたが、いまひとつピンとはこなかった。ある地点にやってきたとき、ボートの舵をとっていた船頭が私を含む同乗の三人の客に向かって「そのパンをちぎって海面に投げてみてください」と声をかけた。
一瞬何ごとだろうと思ったが、その直後に起こった事態に私はあっけにとられて言葉を失った。ボートの周辺の海面にまかれたパン切れ目指して、大小無数の魚が殺到してきたからである。バチャバチャと水音をたてて跳ね回る魚でボートの周りは埋め尽くされた。
池の鯉ならともかく、海中に棲む天然魚がパン切れに向かって飢えたピラニアのごとくに群がる光景は、なんとも衝撃的なものだった。べつに魚がパンを食べて悪いということはないが、どうみても、その光景は、私が過去に見慣れた海の魚の生態とはまるで異質のものだった。あえて述べれば、アメリカ的とでも言うべきだったろうか……。
目の前で起こっていることが善いとか悪いとか言う気はまったくなかった。私が言葉に窮したのは、そんな魚たちの姿に戦後の沖縄の置かれている状況を重ね見たからである。終戦直後から現代に至るまで、沖縄では本土の日本人の想像をはるかに超える文化の融合が起こってきた。古来、沖縄は、沖縄独自の文化と、大陸文化や東南アジア文化さらには日本本土の文化との融合点であった。だが、終戦後にこの地で起こった一連の文化融合の流れは、融合の規模の大きさと融合のもととなった各々の文化の相対的な違いの程度において、過去の歴史の常識をはるかに超えるものであったのだ。沖縄の現状を肯定するにしろ否定するにしろ、我々本土の人間が己の物差しを振りかざして軽々しく云々できるようなことではないと、つくづく思わざるを得なかった。その象徴的な光景を目のあたりにしながら、沖縄はいまこの地で暮らす人々の総意の向かうところに進んで行くしかないと、心底私は感じたのだった。
奇しくも、海中公園のあるこの部瀬名岬一帯が来年開催予定の沖縄サミットのメイン会場に選ばれた。沖縄県当局と名護市が中心になって、現在関連施設の建設や周辺環境の開発整備をおこなっているところだそうだが、付近の状況はさらに一変することだろう。各国の首脳たちが沖縄にどのような印象をもっているかは知るよしもないが、明るく近代的に整備されたリゾート地としての一面ばかりでなく、人類史においてもまれな、重いおもい歴史を背負ったもう一面の沖縄の姿も十分に知ったうえでサミット会議に臨んでほしいものである。一回や二回のサミット会議で世界の重大懸案が解決されるほど甘いものではないことは即刻承知だが、沖縄のあの岬の一角において、もつれにもつれたこの世の矛盾の糸玉をほぐす糸口でも見つかれば、それはそれで喜ばしいことである。
ただ、沖縄でサミット会議を開けるようにしてやったし、それによって一時的に経済効果もあるのだから、その代償として米軍基地の存続には沖縄の住民もそれなりの協力をすべきだなどという本末転倒した考えをもつ国会議員などがいるとすれば、不見識もはなはだしい。本土の政治家や財界筋の要人には、戦後の沖縄経済は米軍基地がなければやってこれなかったなどと平気で主張する人も少なくないが、それは大変誤った一面的な見方である。
終戦後まもなく米軍の軍政下におかれ、極東から東南アジア一帯にかけての戦略基地として重要視されるようになったという特殊な歴史状況のゆえに、沖縄経済が米軍基地ならびにその関係施設の存続維持と密接な関係をもつようになったことは事実である。沖縄本島の市町村のなかには、経済的理由のゆえに米軍基地関係の誘致に積極的なところも少なくない。そういった市町村の現実的な財政苦や住民の生活状況を考えるとき、それらの自治体が基地関係施設の存続や誘致に肯定的であることを責めることはできないし、大田昌秀前沖縄知事が先の選挙で敗れたのもそのあたりの問題への対処の難しさがあったからだろう。
しかし、たとえ沖縄に現在のような米軍基地が存在しなかったとしても、沖縄は沖縄として存続し、戦後の荒廃から立ち上がってそれなりの発展を遂げていたに違いない。昔から沖縄には産業らしいものがあまりなかったから、米軍基地抜きでは戦後の沖縄経済は成り立たなかっただろうなどと、本土の人間が訳知り顔で語ったりするのは、沖縄の歴史文化に対する無知と冒涜以外のなにものでもない。世界のどんなに環境の厳しいところでも、どんなに貧しいところでもそこに住む人々は独自の文化と歴史を築きながらたくましく生き抜いてきた。それが人類史の常識である。
まして沖縄は、古来、南海交易の要衝として、幾たびかさまざまな苦難に面しながらも豊かな繁栄を続けてきたところである。そもそも、沖縄の文化と富とを収奪し、挙げ句の果てにそれらを破壊し尽くしたのはいったい誰だったというのだろう。また、戦後に再出発した日本本土の地方自治体のうち、自立した経済を営むことができたところがどれだけあったというのだろう。
部瀬名岬の海中公園をあとにした私は、五八号線をいっきに嘉手納ロータリーまで南下し、嘉手納基地の北側を抜けて東海岸側の具志川市に向かう道路に入った。途中までは沖縄にやってきた当日に一度通った道である。基地脇を過ぎしばらく行くと沖縄市知花にある東南植物園の近くに出た。どうしようかなと思ったが、せっかくのことなので、とりあえず立ち寄ってみることにした。沖縄随一の規模を誇るこの植物園には、珍しい熱帯植物や亜熱帯植物が園内のいたるところに生い茂っていたが、十年以上たったいまとなっては、椰子の木がやたらに生えていたなあというくらいの記憶しか残っていない。
ただ、園内の売店で飲んだ椰子の実のジュースの味だけはいまもはっきりと憶えている。椰子の実をまるごと一個買い、なかほどの核部の殻が見えるまで繊維質の厚い皮と剥ぎ取り、まるい殻の一部を切除してもらった。そして、ストローをつかって中のジュースを飲んだ。ご存知の方も多いと思うが、白く半透明の椰子の実のジュースは、色も味も市販のスポーツドリンクのポカリスエットによく似ている。ジュースの量は、椰子の実一個で缶ジュース二個分ほどはあった。もしかしたら、ポカリスエットの発案者は、椰子の実のジュースをヒントにしてその清涼飲料水をつくりだしたのかもしれない。殻の内側に薄い層をなしてついている白い油脂分も食べられるというので、お店の人のすすめに従い七味をかけて試食してみたが、結構いける味だった。
東南植物園のある沖縄市から隣の具志川市にかけての街路や街並みは、周辺に建ち並ぶすべての民家もふくめてなにもかもがアメリカ的だった。その驚くほどのアメリカ化の理由は、駐留米軍関係者やその家族が多数この一帯に住み着いていることもあるが、熾烈を極めた沖縄戦において、琉球古来の文化を留めていた南部の主要集落は徹底的に破壊し尽くされ、灰燼に帰してしまったとにもよるのだろう。戦後、米軍の主導によって生活環境の復興整備の行われた沖縄南部が古来の文化の影をほとんど喪失してしまったのは、その時点で残すべきものがほとんど失われてしまっていたからに違いない。
具志川市を抜けた私は、太平洋に向かって南東に大きく突き出た勝連半島を目指すことにした。この半島の北側は与那城村(よなぐすくむら)、南側は勝連町になっている。この半島の近辺にはホワイトビーチなどをはじめとする米軍専用のビーチが多い。半島のほぼ中央を貫く道路をしばらく走り北側の海岸線に出たところが与那城村の屋慶名港だった。港の背後の展望台にあがるとすばらしい景観が望まれた。眼前には藪地島、そのむこうには浜比嘉島、さらに、海面を二つに切り分けてはるかにのびる海中道路の先をたどると、平安座島、宮城島、伊計島の島影が浮かんで見えた。勝連半島にほとんど接する感じの藪地島はその名とは裏腹になかなか美しいたたずまいの島だったが、地元の人の話によるとハブが多いことで有名だとのことだった。
屋慶名と平安座島の間の浅瀬を埋めたてて造った四七〇〇メートルの海中道路は、実際に走ってみると、なんとも快適なドライブコースだった。もともとこの道路は石油コンビナートと石油備蓄基地のある平安座島と沖縄本島とをつなぐために設けられたものだそうだが、すでに観光道路としても一役買っている感じだった。現代の地図を見るかぎりでは平安座島と宮城島とは一つの島になっている。私もはじめは、一つの島に二つの名前がついているなんて何かの間違いではないかと思ったが、事情を知って納得した。かつては別々の島だったのだそうだが、石油基地を拡大する過程で二つの島の間も完全に埋めたてられて一体化し、地図では見分けられなくなったらしい。
景観のよさも抜群だったが、海中道路を走りはじめてすぐに気になったのは、Yナンバーの車が圧倒的に多いことだった。一瞬私は、誤って米軍専用の地域に紛れ込んでしまったのではないかと錯覚しかけたほどである。ほとんどのYナンバー車には男女のカップルが乗っていて、外国人男性と現地の若い女性という組み合わせが大半を占めているように思われた。たぶん米軍軍属たちのちょっとしたデイトコースにでもなっているのだろう。
左手の金武湾越しに沖縄本島東海岸線を遠望しながら宮城島の突端まで走り、狭い海峡に架かる橋を渡ると、そこが一番はずれの伊計島だった。島の南側には小集落があって、近くの港にはアーケードのような奇岩が立っていた。島の西側のほうにまわると美しいビーチが現れたが、そこが知る人ぞ知る伊計ビーチだった。私はビーチを左に見ながら行けるところまで行き、そこで車を駐めると、しばし青く輝く海を眺めながら休憩をとった。
あたり一帯には本部半島の今帰仁城址で耳にしたのと同じ蝉の声が響いていた。どんな姿形をしているのだろうと思って鳴き声のする樹木の枝を注意深く観察してみると、羽が透明で頭部が青い色をした、ツクツクボウシを二倍にしたほどの蝉が見つかった。やはり本土では見たことのない蝉だった。
伊計島から再び海中道路を通って勝連半島に戻ると、中城湾沿いの道を走って中城村(なかぐすくむら)方面へ向かって南下した。そして、中城城址に立ち寄った。十五世紀の中頃に建てられた山城だというが、壮大な城壁がいまもほとんど往時のままで残っており、その築城技術は高く評価されている。。伝えられているところによると、かのペリー提督もかつて琉球を訪れたとき、この城壁を見てその建築技術の高さを絶賛したらしい。ペリーはこの城の築城技術をフランス式だとみなしたのだそうだが、実際になんらかのかたちでフランスの築城思想の影響があったものなのか、それともたまたま似通ったものになったのかは、素人の私には判断がつかなかった。ただ、東南アジア方面から異国人がやってきて築城技術に影響を与えたということは、まったく考えられない話ではない。
城の東南側は高さ数十メートルの絶壁になっていて、青々と潮のうねる中城湾が眼下いっぱいに広がっていた。この城は首里王朝の忠臣護佐丸の居城だったというが、彼は政敵で勝連城主でもあった阿摩和利の妬みを買い、その讒言によって謀反の罪をきせられた。忠節を尽くした主君の尚泰久王に疑われるのは無念と、護佐丸は一族郎党とともに自害して果てたという。したがって、この城は悲劇の城の一つだと言ってよい。のちになって、謀反を企てたのは讒言をした阿摩和利のほうであったことが発覚、激戦の末に勝連軍は敗れ、阿摩和利は刺殺された。この史話は沖縄芝居にも取り入れられ、以来、地元ではもっとも人気のある演題になってきたのだそうである。
中城城址をあとにするころには日も暮れかかってきていたが、ついでなので大急ぎで国の重要文化財中村家を訪ねてみた。中村家は二百年以上の歴史をもつ沖縄最古の民家で、幸いにも戦火による焼失をまぬがれた。背後に魔除けのひんぶん(石の衝立様のもの)をもつ門をくぐって入った敷地内には、赤瓦葺きの母屋のほか、アシャギ、高倉、豚舎など、五棟ほどの建物が配されていた。正面の母屋の右手にあるアシャギには二男や三男が結婚するまで住む部屋があり、また、その一部は客間として使われることもあったらしい。母屋の左手にあるのは高倉と呼ばれる大きな倉庫で、ネズミや水害などによる被害を防ぐために床面を高い柱で支えた南方独特の構造になっていた。
中村家の建物全体の建築主材は木質が硬く耐久性のあるイヌマキで、建物本体はずいぶんと古いが、現在の赤瓦葺きの屋根だけは明治以降のものであるらしかった。中村家は村長も務めた豪農の家柄だったが、士族ではなかったために、明治になるまでは瓦葺きの屋根の家に住むことは許されていなかったからだという。夕刻のせいもあったが、中村家の周辺には各種の樹木が繁っていて、実に静かで落ち着いた感じだった。
中村家の庭ではたまたま沖縄伝承芸能の一つ「花風(はなふう)」の舞のテレビ撮影が行われているところだった。撮影関係者のほかには私しかいなかったのをよいことに、愛惜の思いを深く秘めたゆるやかなテンポのその踊りに見惚れていると、なんとも言えない気品を湛えた民俗衣装姿の舞踊家の方が撮影の合間に自分のほうから近づいてきて、花風の舞について簡単な説明をしてくれた。
この花風は、昔遊女が愛する人との別れに際して、永遠の祈りと深い惜別の情を込め密かに舞ったものだという。遊女は愛する人が旅立って行くのを表立って見送ることが許されなかったので、別れを前にこの特別な舞を披露し、相手にそっと自分の哀しみを伝えたのだった。現在伝承されている花風は、琉球王朝の踊を取り入れ、明治の初めにいまのかたちに完成されたとのことだった。無言の言葉を内に秘め、青紫に内張りした日傘の揺れに思いをたくす花風の舞に、時を忘れて私はいつまでも見入っていた。こんな舞で見送られたであろう昔日の沖縄人を、内心で羨ましく思っていたことは言うまでもない。
中城の中村家をあとにするころには夜の帳(とばり)が一帯を覆いはじめていた。私はアクセルを煽るように踏み込みながら与那原町まで南下すると、そこから那覇郊外の首里に通じる道路に入り、首里城跡の近くの沖縄グランドキャッスルホテルに午後七時頃チェックインした。丘の上にある高層のホテルの窓からは、那覇市の中心街方面の夜景を一望することができた。
ホテルの自室で一服したあと、私は那覇の繁華街国際通りに出て周辺を散策、伊勢エビとステーキを合わせ盛った料理を食べさせてくれるレストランを見つけるとすぐ中に入った。注文した料理は看板に偽りなくとても美味で、しかも本土に較べてはるかに安い料金だった。また、たまたま食事中に隣り合わせになった地元の若い女性は、私の沖縄訪問が初めてだと知ると、那覇市街や首里をはじめとする沖縄南部地域についての情報をいろいろと教えてくれた。笑顔の素敵な平良さんというその女性はボーイフレンドと待ち合わせ中だったが、彼が現れるまでの間、取材を兼ねた私の質問に親身になって答えてくれた。
夕食後あてどもなくぶらついた夜の国際通りは、その名に恥じず大変な賑わいぶりで、外国人の姿もずいぶんと見かけられた。そして、那覇市の人口からすると不釣り合なくらいに、付近のお店や市場は大規模なものが多く、商品も国際色豊かだった。本土とは違って、案内の看板も日本語のほか英語、中国語、韓国語と四カ国語で表記されており、まさに国際都市那覇の面目躍如というところだった。
「マセマティック放浪記」
1999年6月30日
ある沖縄の想い出(8)
首里城址守礼の門に立つ
翌朝は、ホテルを出るとすぐに首里城址を中心とする首里丘陵一帯を歩いてみた。首里を訪ねる観光客の誰もがするように、私もまた、まっさきに、いにしえの琉球王朝の象徴「守礼の門」の前に佇んだ。赤瓦を漆喰で固めた二層の屋根をもつ「守礼の門」は、琉球王朝最後の王統、尚氏によって四六〇年ほど前に建立された。沖縄独特の建築様式をそなえた本来の門は明治時代に国宝に指定され、大戦前までその偉容を誇ってきたが、先の沖縄戦で戦火にさらされ焼失した。現在の守礼の門は、文部省に保管されていた古い設計図をもとに、昭和三十三年に復元されたものである。
「守礼の邦」と大書された額が門の中央に高々と掲げられているのを目にしながら、私はなんとも空しい想いにとらわれていた。沖縄戦の最中に、なによりも守礼を重んじた琉球王朝ゆかりのこの地でかつて起こった出来事は、あまりにも「守礼」の教えとはかけ離れた蛮行愚行そのものだったからである。おなじ「しゅれい」でも、「守令」、すなわち、「軍務命令を盲目的に守ること」が最優先された結果、終戦直前、この地には文字通り阿鼻叫喚の一大生き地獄が出現した。
現在では首里城も復元公開されているようだが、当時はまだ、守礼の門のほかには首里城の正門だった歓会門と第四門の久慶門が復元されている程度だった。私はそれらの門をひとめぐりしてから、少し坂を西に下って、尚円王統歴代の墓陵、玉陵の前に出た。玉陵は琉球王朝中興の祖と言われ、中央集権を確立するいっぽう、海外貿易でも広く名を馳せた名君尚真王が、一五〇一年、父王尚円王の遺骨を改葬するにあたって建立した第二尚家の墓陵である。高さ二メートルにも及ぶ琉球石灰岩の石垣で囲まれた、広さ二四〇〇平方メートルにも及ぶこの壮麗な墳墓は、海洋民族として自由奔放に南海交易に活躍していた当時の沖縄人の豊かさと、建築技術の高さとを偲ばせた。
堅牢な石造りの家を想わせる三基の墓室の中央には洗骨前の遺骸を安置し、左側の墓室には国王と王妃、右側の墓室には王子及び王女の遺骨を納めるしきたりになっていたという。民俗学者の柳宗悦が、「ただ琉球最大の墓陵であるというのみならず、その幽玄さにおいて匹敵しうるものは世界においても稀であろう」とまで賞賛したこの玉陵も沖縄戦の際には猛烈な砲火にさらされ、大きな損傷を被った。幸いなことに、その後、復元修復作業が進み、近年ではほぼ原型を取り戻しつつあるようだ。
首里城址のあるこの丘陵一帯にかつて存していた古都首里は、京都、奈良に次ぐ文化財の宝庫だった。戦火に包まれる前の首里城内外には、国宝に指定された建造物だけでも二十二件が存在し、重要文化財にいたってはその数が知れぬほどであったという。米軍の進攻に備えた沖縄守備軍の主力部隊は、大本営の意向をうけ、米軍主力を一刻でも長く沖縄にとどめ極力抵抗を図るべく、首里丘陵ならびにそれに連なる丘陵地帯に布陣した。北方を見下ろす戦略上の要所をつないで防御線を張り、トーチカ(地下壕)を掘りめぐらして、読谷村方面に無血上陸した米軍が南下するのを迎え撃つ戦略をとったのである。
牛島満中将率いる沖縄守備軍司令部のおかれた首里丘陵周辺は、当然その防御線の最中枢部に位置していた。沖縄守備軍主力部隊は、膨大な量の国宝建造物や重要文化財群を地上の盾とし、布陣していたようなもので、なかでも守備軍司令部などは、首里城の地下の壕深くに置かれていた。まさか守備軍トーチカの上部やその近辺に貴重な文化遺産群があれば米軍は攻撃を控えるだろうなどと考えたわけでもないだろうが、ともかく、この迎撃戦略は沖縄の歴史と文化に不幸きわまりない災厄をもたらした。
京都や奈良、鎌倉などが空襲を免れたのは、それらの地域の文化財の重要性を熟知した欧米の研究者や米軍関係者がかなりいて、彼らが懸命にその保護を軍上層部に働きかけた結果であった。米軍側の記録によると、米軍沖縄方面司令部関係者にも、古都首里を中心とした一帯の文化遺産の貴重さを知り、その破壊と焼失に心を痛めた人物はそれなりにあったようである。だが、沖縄守備軍のとった首里丘陵における一大トーチカ作戦は、首里城をはじめとする文化遺産の救済を決定的に不可能にしてしまった。
沖縄戦の中でも日米主力部隊が正面から激突した首里攻防戦は苛烈をきわめ、事実上の勝敗を決める戦いとなった。そして、それに伴い、膨大な数の人命損失と貴重な文化財の破壊が起こったのだった。その破壊と殺戮の凄まじさは、一六〇九年の薩摩による琉球侵略などとは較べものにならない規模のものだった。日米両軍の戦闘が熾烈のきわみに達したとき、首里城周辺の主陣地に対しては、四〇分間に一万九〇〇〇発もの大型砲弾が撃ち込まれた。首里攻防戦全体を通してみると、首里市街や周辺の山野では一平方メートルあたり四、五発の砲弾が炸裂したことになる。
皮肉なことに、この時の米軍第二十四軍団砲兵指揮官は、後年、名軍政長官として知られるようになった、ジョセフ・シーツ少将であった。戦後軍政長官として沖縄に赴任すると、自らが破壊した沖縄を自らの手で再建復興するのだと宣言し、地元住民のために力のかぎりを尽くしたという。彼の軍政長官離任に際しては、沖縄の人々が留任運動を起こしたほどであったらしい。有能な職業軍人としての砲撃指揮の任務と、一個の人間としての人類の歴史文化に対する畏敬の念とのはざまにあって、おそらくこの人物も、戦中戦後の時代を通し、深い内面の苦しみを味わっていたに違いない。
一九四五年四月二十日前後に始まった首里攻防戦が五月二十九日の沖縄守備軍の南部撤退によって終わりを告げたとき、首里丘陵はいたるところで変形をきたし、美しい古都首里は、膨大な文化遺産ともども、隅々にいたるまで無残な瓦礫の山と化していた。「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊)の中に、破壊される直前に米軍が写した首里城周辺の航空写真と破壊され尽くした直後の同城の写真が掲載されているが、それらがほんとうに同じ場所を写したものかと我が目を疑うばかりである。
日本古来の伝統と文化を守ると称しながら、実は守るべき日本の伝統や文化について最も無縁であった人々によって導かれた戦争の、それは当然の帰結であった。また、それは国体護持という空疎なお題目は知っていても、日本文化の本質とその真の重要性を具体的にはほとんど学ぶことをしていなかった、我々自身の父母や祖父母を含む日本国民一人ひとりの愚かさの終着点でもあった。国やその政体は一時的に滅びても、民族やその本質的な文化は脈々と息づきながらえるものであり、また、そうであるべきだという「世界の歴史の常識」を日本人はまったく学んではいなかったのだ。厳しい言い方をするならば、日の丸をむやみやたらに振り回すことが歴史だと錯覚していただけのことである。
玉陵を見学し終えた私は、そのあと沖縄県立博物館を訪ねてみた。この博物館が現在のかたちになるまでには、さまざまな紆余曲折があったようである。終戦直後のこと、沖縄の文化財のすばらしさを知った米軍のハンナ少佐と彼の仲間の軍属は、瓦礫の山を掘り起こし、文化財の断片を収集した。そして、それらの収集品を恩納村に造った沖縄陳列館(のちに東恩納博物館と改称)に展示した。いっぽう、首里に住む一部の地元有志も自らの手で文化財の破片を拾い集め、それらをもとに沖縄郷土博物館(のちに首里博物館と改称)を開設した。そして、一九五三年にこれらの二つの施設が合併して琉球政府立博物館となり、一九六五年に尚王家屋敷跡を購入、米国より援助を受けてその地に新館が建てられた。
その間、博物館として全国的に琉球関連文化財の収集運動を展開、米国政府や米国在住の沖縄関係者にも協力を呼びかけ、戦乱の最中に滅び潰え去ったかにみえた琉球文化の面影を、一部分ではあるがかろうじて蘇らせることに成功した。一九七二年の沖縄日本復帰に伴い、名称も沖縄県立博物館と改称され、現在では収蔵品も二万点を超えるようになっているが、その礎は文化を深く愛する沖縄住民や心ある米軍有志たちの尽力によって築かれたものであったのだ。
博物館の展示室は、歴史、自然、美術工芸、民俗の四室と、大嶺薫コレクションコーナーの計五室に分かれており、それぞれの角度から沖縄を眺めることによりそのおよその全体像をつかむことができるようになっていた。さらに、日本本土の縄文、弥生、古墳時代などに相当する貝塚時代、城(グスク)が成立し統一国家が形成されていく時代、南海交易の拠点として発展し中国と冊封関係を結ぶようになる大交易時代、薩摩の植民地となって以降の江戸期の時代、そして明治から昭和にかけての時代と、各時代の沖縄像をそれなりに展望できるような工夫もされていた。
また、進貢貿易の様子や明との冊封関係、薩摩や江戸幕府との関係などを伝える諸文物、琉球の人々の生活を偲ぶことのできる各種民具などの民俗遺産もかなりの数展示されていた。それらは、戦火の中で失われたものに較べれば大海の一滴にも等しい残存文物ではあったが、「鉄の暴風」という言葉が示す通りの想像を絶する破壊の嵐のことを考えるならば、それだけのものが残っただけでも奇跡であったというべきだろう。
米軍の個々の戦闘部隊に配属されていた軍政要員たちは、上陸前に沖縄に関する全般的な情報を要約網羅した小冊子を配布されていたので、本島内の住民のおかれた厳しい状況についてはかなりの予備知識をもっていた。だが、上陸後に彼らの目に映った沖縄の実情は、想像していたよりもずっと悲惨なものであったらしい。そんな沖縄の実態をレポートするなかで、彼らのある者は、「軍政下の住民は誰もが恐怖におののいているが、そこには一つの不吉な予兆がはっきりと見てとれる。それは若い青年が一人もいないことだった。そしてまた、若い女性も異常なまでに数が少ないことだった」とも述べている。
米軍第六師団の通訳S・シルバーソン中尉などは、「自分が見た地元住民は、全員六歳以下もしくは六十歳以上だった」とさえ報告している。複数のそのような報告を総合的に分析していく過程で、米軍司令部は、地元の若い世代のすべてが守備軍の支援に動員されたことにはじめて気づいたのであった。
激戦の火ぶたが切って落とされるかなり前から、戦場となる一帯には、着の身着のままの姿であてどもなく逃げ惑う何千人もの地元住民があって、米軍軍政要員の手によって後方の住民収容所に次々と収容されていったという。戦闘開始に伴って当然その数は激増した。だが、生死にかかわるほどにひどい栄養失調にかかっていても、米軍に収容された人々はまだ恵まれたほうだった。負傷し戦場に放置された人々や、戦禍の中で親兄弟を失った幼児たちの多くは、米軍にすら発見されることなく次々に餓死したり、爆死したりしていった。戦場のいたるところで悲惨な幼児たちの姿が見られたという記録を米軍は残している。
質、量ともに圧倒的に勝る火器、艦船、航空機を擁する五四八〇〇〇人の米軍団に対する一一六四〇〇人の沖縄守備軍の兵力と備えは、あとから考えてみるとあまりにも貧弱に過ぎた。しかし、守備軍司令部は、開戦当初は自信満々であったらしい。そのことは八原高級参謀の発言に関する記録(「これが沖縄戦だ」より引用)にもうかがえる。
「敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ」
「第十軍司令官バックナー将軍が率いる主力の四個師団は、アッツ島以来繰り返されてきた日本軍の万歳突撃を予期しているだろうが、首里山上の守備軍首脳はまったくそんな突撃態勢をとる気配を見せない。ある者は談笑し、また他の者は煙草をふかしながら悠々と前線を眺めやっているが、それは何故かと反問したに違いない。日本軍は数ヶ月も前から首里北方地帯に堅陣を敷いて米上陸軍をここに誘い込み、一泡も二泡も吹かせる決意でその準備を整え待っていたからだ」
米軍の近代的物量戦略の凄さを知らぬ大本営や守備軍司令部のこういった甘い判断は、結局、独りよがりの自己満足に終わり、その結果、多くの沖縄住民をも悲惨な運命に導いていくことになるのだが、それはまた、世界の趨勢というものを合理的かつ客観的に見る目を持たなかった、また持とうともしなかった当時の日本国民一人ひとりの責任でもあったのかもしれない。ではどうすればよかったという話になると、すべては結果論に終ってしまうのだが、現代の我々が、せめて沖縄の悲惨な歴史に何かを学ぶことくらいのことは必要であろう。それも、単なるイデオロギーの糧としてではなく、左右の思想を問わない、合理的かつ冷静な視点に立った判断力と、できるかぎり透徹した歴史的想像力をもってである。
「マセマティック放浪記」
1999年7月7日
ある沖縄の想い出(9)
首里攻防戦再考
沖縄戦については、これまでにさまざまな報道がなされたり、各種の戦史本が出版されたりしてきているが、記憶を新たにする意味でもこの際もう一度、おおよその首里攻防戦の様子を振り返ってみることにしたい。以下の文章を書くにあたっては、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊)を中心とするいくつかの戦史資料を引用したり参照したりしたことをあらかじめお断りしておきたい。
首里攻防戦において最初の死闘が繰り広げられたのは、嘉数から西原にかけての丘陵地帯だった。普天間方面を見下ろす嘉数高地には沖縄守備軍がもっとも堅牢を誇る首里防衛陣地の一つがあった。首里本陣の前衛にあたる数嘉の陣地が陥落すれば首里城地下の守備軍司令部方面への進軍路が開けることは確実だった。四月二十日、米国第二十四軍団のホッジ少将は、軍団配下の第二十七師団司令官に対して、いかなる手段を講じ、いかなる犠牲を払っても、その日の日没時までに嘉数高地を占領するよう厳命した。
しかしながら、日本側守備軍の反撃は凄まじく、さしもの米軍精鋭部隊も腹這い状態のまま一日に四、五十メートル前進するのが精一杯の状態だったという。結局、米軍が目標地点に進攻し、嘉数高の完全制圧に成功したのは一カ月以上も後のことであった。「嘉数高地の戦闘ほど日本軍に苦しめられた戦いはなかった」と米軍戦史にも記録のある通り、物量に勝るアメリカ軍にとってもそれは極限の戦いであったらしい。
いっぽう、首里陣地正面、いうならば守備軍の心臓部を攻撃したのは第九十六師団だった。強力な火器をもって激しい攻撃を加えはしたものの、堅固なトーチカ深くに陣を構えて徹底抗戦を試みる守備軍精鋭部隊を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の日本軍守備兵を外に駆り出すには土を深く掘り起こすような容赦のない砲爆撃を加えるしかないと考えた。彼らはそれを「耕し戦法」と名づけていたらしい。ホッジ少将の命令一下、米軍は、陸、海、空の全軍をあげて一大総攻勢に転じ、通常の砲弾や爆弾のほか、当時としては新兵器であったナパーム弾やロケット砲などを守備軍陣地に雨霰と浴びせかけた。その空前絶後の猛爆によって与那原から首里にかけての一帯は一面焼け野原になり、すべての住居建物は跡形もなく崩壊した。
物量にものをいわせた攻撃と並行し、米軍は地下壕や洞穴陣地の守備軍に対し一つの奇策を実行した。守備軍の各地下壕の上部に夜陰にまぎれて練達の狙撃兵を送り込み、壕の入り口付近に陣取らせて壕内から姿を現す将兵を片っ端から狙い撃ちにしたのである。そして守備軍を壕内に封じこめたところで、戦車を地下陣地の入り口に誘導し、壕内に向かって猛然と火焔放射を浴びせかけたり、強力な爆雷やガス弾を大量に投入したりした。「馬乗り作戦」と呼ばれるこの奇襲戦法によって、難攻不落と思われていた守備軍のトーチカや洞穴陣地は次々に無力化され、その中で多くの将兵が戦うことなく犠牲になっていきはじめた。
沖縄守備軍の司令官は牛島満中将、参謀総長は長勇中将だったが、実質的に戦略を主導したのは高級参謀の八原博通大佐だったようである。彼は、米軍を至近距離に引き寄せ、短刀で闇討ちするにも似た「刺し違え戦法」をとることを考えた。米軍がある程度南進するまではさしたる反撃もせずそれを黙認し、機を見て守備軍地下壕内に隠してある約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ、一挙に相手の主力部隊を殲滅しようというわけだった。守備軍には砲術の大家として聞こえた和田孝助中将などもいて、砲兵隊の砲術技能は日本軍全体においても最高のレベルにあったという。だから、一斉砲撃開始の時期の判断さえ誤ることがなければ、大戦果をおさめるのは間違いないと信じられていたのである。
実際には、そんな司令部の予想をはるかに超える米軍の猛攻と巧妙な奇襲戦略のために、大反撃にでる前に主力部隊全体が壕内に封じこまれてしまいかねない状態になってきた。しかし、この時点までは、沖縄守備軍はまだかなりの戦力を維持していた。米軍の攻撃の矢面に立ち激戦に耐えていた藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力はすでに半減していたが、トーチカ内で温存されていた和田中将配下の第五砲兵隊のほか、後方地区に控える雨宮中将麾下の第二十四師団、独立混成第四十四旅団残存部隊、さらには大田少将率いる海軍部隊などの兵力はなお健在であった。
南部地区に控えるそれらの部隊を首里戦線に投入すれば、ある程度は米軍に反撃態勢をとることができると考えた司令部は、第二十四師団と独立混成第四十四旅団に北上を指示、それらの部隊は夜陰にまぎれて前線に進出した。こうして、首里本陣の沖縄守備軍司令部がその命運をかけた決戦の準備は整った。
しかしながら、この時点で守備軍司令部首脳の間には戦術上の問題で意見の対立が起こっていた。長参謀総長や若手参謀たちが、全軍をあげて総攻撃に出る機が熟したと判断し、総力をあげて反撃に転じるべきだと主張したのに対して、八原高級参謀は、増援部隊を第二防衛線に配備し、最後まで専守持久の戦法をとるべきだと主張して譲らず、容易には収拾がつかなかった。その間にもじわじわと進攻を続ける米軍は、砲爆撃の狙いを守備軍司令部近辺に集中しはじめ、地下陣地の坑道内まで煙硝が立ちこめる事態にまでたちいたった。当然、守備軍の壕内においては日に日に緊張の度合いが高まり、司令部には殺気立った空気が漂いだした。
壕内の将兵の間には、このまま持久戦を続け、一矢を報いることもなく敗北と死を待つのは耐えがたいという思いが募り、「攻撃は最大の防御なり」というかねてからの日本軍の教えにのっとって、この際一斉攻撃に転じるべきだ、という気運が高まった。そんな気運をうけて、司令部内の大勢は攻撃論者の急先鋒、長参謀長の主張を支持することで固まった。そして、最終的な幕僚会議における採決に基づき、牛島満司令官は、五月四日早朝を期して全軍を挙げ総反撃攻勢に転じることを決断した。
この決定を不服とした八原高級参謀は、そのときの心境を「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」と記録している。八原の危惧したとおり、無謀な反撃攻勢策はほどなく無残な敗退を招き、守備軍は再び地下壕に潜って持久戦に転ずることになっていった。
現実には持久戦術のほうも米軍にはほとんど通用しなかったので、八原の判断が正しかったとは言い難いし、いろいろな発言や行動記録を読み較べてみるかぎり、この人物の言動にはかなりの矛盾と自己弁護とも思われるある種の翳が感じられる。また、のちに彼のとった作戦が結果的には沖縄一般住民の大量死を引き起こすことになっていく。したがって、上官に対する八原の批判の正当さを全面的に信じるわけにはいかないが、彼の見解もそれなりには当たっていたのだろう。
総攻撃を前にした司令部壕内では、本職の料理人の手になる山海珍味のご馳走に洋酒まで交えた戦勝祈願の祝宴が開かれたという。盛装した若い女性が居並ぶ守備軍首脳の間を酌してまわり、酒の勢いもあって皆が「明日の総攻撃は必勝間違いなし!」と口にするなど、意気軒昂たるものがあったらしい。どこまで本気だったのかはわからないが、長参謀長などは、「天気予報では五月三日から四日にかけては雨だ。敵の戦車は泥にはまって動けず、飛行機は飛べないだろう。五日の端午の節句には戦勝祝賀会をやるぞ」と怪気炎をあげる有様だったという。もっとも、この酒宴の数日前、長参謀長は意見を異にしていた八原高級参謀に向かって「いっしょに死のう」と涙をみせつつ自分の主張に同意を求めたというから、内心では全軍玉砕もありうることを覚悟していたのかもしれない。
五月四日午前四時五十分、沖縄守備軍は総反撃を開始した。地下壕に温存されていた守備軍の四百門の主力砲がいっせいに火を吐き、砲声が首里丘陵に轟きわたるのに合わせて、九州本土の知覧や鹿屋から飛来した多数の神風特別攻隊機が海上の米艦船群に襲いかかった。戦術や兵器の優劣はともかく、死力を尽くしての守備軍の反撃ではあっただけに、一帯はたちまち修羅場と化した。
五月四日の午前五時前、米軍第二十四陸軍砲兵隊員は、首里防衛戦線上に位置する二つの集落付近から火の玉が高々と打ち上げられるのを目撃した。そして、次ぎの瞬間、守備軍陣地から米軍の陣地に向かって猛烈このうえない砲撃が始まった。その砲撃の凄まじさは、米兵がそれまでに一度も体験したことのないほどのものだったという。しかし、守備軍の反撃攻勢はあまり長くは続かなかった。米軍も即座に火器や航空機をを総動員して応戦を開始、午前八時頃までには前線全体で守備軍の攻撃をほぼ鎮圧した。
守備軍敗退の原因の一つは、味方の援護射撃を過信した主力兵団が攻撃開始とともに何の遮蔽物もない平地に無鉄砲に飛び出し、米軍の重砲火を浴びて退路を断たれ動けなくなってしまったことにあった。生存者の言葉を借りれば「まるで逃げ場を失ったカモを狙い撃ちするみだいに次々と撃ち倒されていった」のだという。たとえば、村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊などは、米軍の集中砲火のために進退ともに不可能になり、大半の隊員が戦車もとともなすすべもなく戦死した。また、総攻撃のために地下に温存してあった守備軍自慢の巨砲は、地上に姿を現し一斉に火を吹いたまではよかったが、それを待ち構えていた米軍艦載機の餌食となり、現実にはその威力をほとんど発揮することもなく、ことごとく破壊し尽くされてしまった。
みるべき戦果をあげることのできなかった地上軍の戦闘に対して、神風特別攻撃隊のほうは、五月四日までにのべ二二二八機を出撃させ、米艦船十七隻を撃沈もしくは大破させるという戦果をあげた。だが、当初こそ攻撃成功率は二割に近かったものの、米軍が神風特攻機に対する防御策を強化するにつれ、その成功率は減少の一途をたどり、ほどなく多数の若い命が、むなしく南海の藻屑と消えていく結果になった。
五月五日の午後六時、司令官牛島満中将は地下壕内の自室に八原博通高級参謀を呼び、「予は攻撃中止を決定した」と告げたという。総攻撃の失敗を認め、さらなる自陣の損害を食い止めるための決断だった。伝えられるところによると、司令官牛島は、それと同時に「残存兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人になるまで、沖縄の南の端に尺寸の土地の存するかぎり、あくまで持久戦をたたかい本土決戦の準備のために時をかせぎたい。今後は一切を貴官に任せるから、予の方針にしたがい思う存分にやってくれ」と告げたという。
牛島中将はのちに摩文仁高地の洞穴内で自決しているので、八原参謀が伝えるその言葉が牛島の真意であったかどうかはもはや確かめようがない。陸軍士官学校長を務め、人格者だったとも言われる牛島の言葉にしてはいささかの疑問が残る気もする。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に兵を引いて持久戦を展開、結果的に十万人を超える民間人犠牲者を出すことになった作戦の実質的な指揮官が八原だったことを思うと、どこかに責任逃れのにおいがしないでもない。
総攻撃が中止されたからといっても、戦いが終わったわけではなく、その後も日米双方には多数の犠牲者が続出した。とくに守備軍の犠牲者の大半は生え抜きの精鋭とうたわれた兵士であっただけに、もはや反撃攻勢は絶望的となった。総攻撃が失敗に終わったこともあって、最終的に累計すると守備軍は首里攻防戦全体を通じてその兵力の七十五パーセントを失ったと言われている。
沖縄戦当時の鈴木首相は戦後の回顧談の中で「沖縄の日本軍が敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機として具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して守備軍はそうしてくれなかった」と述べた。のちにそれを知った八原は、「いやしくも一国の首相が、沖縄戦にこんな期待を寄せていたとすれば、沖縄の実情をご存知なかったものと言わねばならぬ。沖縄戦においては、現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていたのだ。決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に決戦を強いて本気で戦勝を期待するのは本末転倒も甚だしい」と反論している。
八原は、大本営と現地守備軍との間には正反対に近い意志の乖離(かいり)があったことを指摘、その裏事情を明らかにしている。彼によると、沖縄戦の始まる前年あたり以降、上は参謀総長から下は参謀本部部員にいたるまで、一人として沖縄に直接視察に来たり、将兵を激励しに来たりした者はいなかったという。それどころか、沖縄方面の作戦について現地の作戦主任である八原自身とさえ親しく膝を交えて談合した大本営関係者は一人もいなかったらしい。しかもそのほんとうの理由は、那覇市の遊郭が全滅して享楽に耽ることができなくなったことや、南西諸島の海域に米軍の飛行機や潜水艦が多数出没しはじめ、身の危険を感じたからであったという。
八原はさらに、大本営の幕僚たちのこの無責任な態度は、米国の場合とはあまりにも対照的だったと述べている。米国などでは、大統領や首相が自ら前線に出かけて将兵と語り合い、国政方針と戦争現場の実態との調整をはかるのが常だったが、当時の日本政府や大本営首脳にはそんな配慮などまるで欠けていたという。結局、大本営は、自らが導いた沖縄作戦に見切りをつけて増援部隊を送ることをやめ、沖縄本島守備軍、南西諸島海軍部隊、さらには動員された多数の沖縄住民総力をあげての戦いをみすみす見殺しにしたのだった。
米軍第十軍司令官バックナー中将は、沖縄守備軍の総反撃が失敗に終わったのを見届けると、配下の全軍に五月十一日を期して総攻撃にうつるように命令した。いっぽうの守備軍は総攻撃に失敗したあと、すぐに持久戦態勢に戦略を切り替え、兵力の減少を考慮して戦線を首里周辺に縮小した。米軍が総攻撃に転じたこの日には、神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団めがけて猛然と決死の体当たり攻撃を敢行した。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが、一部の特攻機は米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与え、やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、他の特攻機がそのエンタープライズをも大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移されたという。
陸、海、空、海兵隊の連携作戦のもと全戦線にわたる総攻撃を開始した米軍に対し、守備軍も最後の死力をふりしぼって頑強に抵抗した。勢い、首里の守備軍本陣に対する砲撃は過去のそれをはるかに上回る激烈なものとなった。米軍主力部隊は昼夜の別なく戦車砲や機関砲、臼砲、ロケット砲を撃ちこみ、じわじわと首里本陣に肉迫していった。
米軍がシュガー・ローフと呼んだ小さな丘をめぐる攻防戦は、ひときわ凄まじいものであった。この丘が日米どちらにとっても戦術上の要所になっていたため、米第六海兵師団は一挙にその地を占拠しようと、多数の戦車を送り込んで攻め立てた。しかし、首里の西方に位置するこの丘陵地を失えば司令部陣地がたちまち危機に瀕することは目に見えていたので、守備軍も第六十二師団と独立混成第四十四旅団の一部部隊を配置し、同地を死守する構えにでた。
物量ではるかに勝る米軍は、攻防戦の開始とともに寸刻みの砲撃や爆撃を加えて日本軍の動きを封じ、戦車を盾に攻め進んだ。その猛攻を通常の戦法で防ぐことは不可能と判断した守備軍兵士たちは、爆雷を抱えたまま次々に洞穴陣地から飛び出し、攻め寄せる米軍の戦車や砲兵隊に向かって突入、捨て身の体当たり攻撃を敢行した。こうしてシュガー・ローフの丘を両軍で一日数回も取りつ取られつするという激闘が続き、戦いが始まってから六日後の五月十八日になってようやくその丘は米軍の手に落ちた。
勝つには勝ったが、あまりにも激烈な戦闘のため、米軍第六海兵師団は二六六二人もの死傷者と一二八九人もの戦闘疲労症患者、すなわち発狂者を出す結果となった。これらの精神異常者を治療するため、米軍は特別に専門の野戦病院を設立しなければならなかったという。むろん、守備軍側の死傷者は米軍の数倍にものぼったと推定される。
シュガー・ローフ制圧に目途をつけた第六海兵師団主力部隊は、その損傷にもめげず、次ぎに首里本陣北側に隣接する沢岻および大名の両高地の攻撃に取りかかった。いかなる犠牲を払っても同地を死守せよと牛島司令官から厳命を受けた現地守備軍は、力のかぎりを尽くしたが、臼砲や艦砲射撃の猛撃に支援された海兵隊の手によって沢岻高地がまず占拠された。第五海兵連隊の増援をうけた米第六海兵師団の猛攻に、大名陣地守備軍は果敢に立ち向かい、しばらくの間は米軍をまったく寄せつけなかったが、米軍の攻撃はいつにもまして執拗だった。通常砲弾はいうにおよばず、爆雷や火焔放射器からロケット砲、ナパーム弾にいたるまでのあらゆる火器が動員され、ついに大名高地一帯の守備軍陣地は陥落した。
天然の要塞石嶺高地の攻略にはさしもの米軍も手を焼いた。米軍のある中隊は総員二〇四人で石嶺高地に夜襲をかけたが、一五六人を失った。一二九人からなる別の攻撃隊は生存者が三〇人だけ、交替要員として派遣された五八人の小隊などは、わずかに三人が生還しただけだったという。それでも徐々に激戦を制し、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した米軍は、いよいよ司令部に直撃弾を浴びせはじめた。そして、風前の灯火とも言うべき状況に追い込まれた首里本陣の陥落はもはや時間の問題となっていた。
守備軍本陣は三っの強固な防衛線で守られていた。右翼には第二十四師団が陣を構え、中央には第六十二師団が陣を布いていた。また、司令部陣地の東北側には防衛線中もっとも堅固で難攻不落とみなされていた弁ヶ岳陣地があった。ところが、大方の予想に反し米軍が真っ先に攻略したのは、平地からそこだけ急に盛り上がった不落のはずの弁ヶ岳陣地だった。米軍がチョコレートドロップと呼んだ標高一六七メートルの弁ヶ岳陣地は、歴戦部隊の米七十七歩兵師団の猛攻撃に合い、あっというまに陥落してしまった。制空権を奪われていたため、米軍機による空中からの支援攻撃や、落下傘部隊の投入によってあっけなく壊滅させられたのだった。
五月二十一日、米軍はいよいよ首里市内に進軍しようとしていたが、この日沖縄はたまたまひどい豪雨に見舞われていたという。肉迫する米軍を前にしてもはや万策尽きた守備軍首脳部は、首里で玉砕する覚悟を固めつつあった。ところが、八原高級参謀だけは、首里を脱出して南部の喜屋武岬方面への撤退を画策していた。そのため彼は腹心の参謀長野英夫に密かに命じて、守備軍司令部のとるべき方策を考えさせた。暗黙のうちに八原の意向を汲んだ長野参謀は、次のような三案を提示したという。
一、守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠り、最後まで徹底抗戦する。
五月二十二日の朝、八原はそ知らぬ顔でこれらの三案を長野から長参謀総長に提出させた。八原の画策とは知らぬ長参謀総長はすぐに彼を呼び、その見解を求めた。そこで、すかさず八原は喜屋武方面への撤退案を推すいっぽう、同案について配下の各兵団指揮官の意見を尋ねてみることを勧めたのだった。
その夜の協議において、第六十二師団の上野貞臣参謀長は配下の将兵の大部分が首里戦線で戦死したうえ、首里洞窟陣内には後送困難な何千人もの重傷者がいるので、最後まで首里で戦うべきだという長参謀総長寄りの意見を述べた。それに対し、第二十四師団の木谷美雄参謀長と軍砲兵隊の砂野高級部員は、喜屋武方面への撤退案に賛成した。また、独立混成第四十四旅団の京僧参謀は、喜屋武地区ではなく、知念半島方面への撤退案を支持し、海軍を代表して会議に参加した中尾参謀はとくに意見を述べなかった。その結果、八原高級参謀の思惑通りにことは運び、牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを最終的に決断した。
五月二十七日夕刻から二十八日にかけて守備軍の南部撤退は開始された。折からの豪雨と夜陰とが守備軍司令部の撤退に大きく味方した。守備軍首脳陣は周到な撤退計画を練り、いくつかの小隊に分かれて南下した。第三小隊までは摩文仁方面へと直行したが、牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らを含むやはり五十人の第五小隊は、ひとまず津嘉山に立ち寄り、一時的にそこを戦闘司令部にすることにした。 守備軍司令部撤退と前後して、第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下、翌日の二十八日までには首里最前線に布陣していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も、津嘉山の戦闘司令部に合流するため撤退を開始した。
米軍が守備軍主力部隊の喜屋武方面撤退に気づいたのは、撤退開始後かなり時間がたってからだった。五月二十九日に米第一海兵隊が首里城址に突入したとき、首里要塞はすでにもぬけの殻になっていた。八原の策謀通り、南部での持久戦を狙った一大撤退作戦は米軍の目をも欺き、見事な成功を収めたのだった。しかし、この撤退作戦こそはまた、のちに続く凄惨な地獄絵図の序章でもあったのだ。もし、首里で守備軍が玉砕しておれば、正規軍人約九万六千のほとんどが戦死していたかもしれないが、十数万人にも及ぶ沖縄住民や現地動員防衛協力隊員の死は避けられていたかもしれない。沖縄南部戦線における真の悲劇はこの時点から始まったのだ。
五月末の軍団長会議には当時の島田叡沖縄知事も同席していた。その席で島田知事は、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と憤ったという。そのとき牛島司令官は、「第三十二軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて会議を締め括ったという。
「絶え間ない雨のカーテンの陰に隠れて、牛島はその兵力の大部分を率いて脱出することに成功した。そして首里城の真南十四キロ半、岩だらけの海岸を見下ろす絶壁の洞穴に新司令部を置いた。だがこの撤退は沖縄の住民にはとても高価なものについた。恐慌状態に陥った民間人の群れが軍のあとを追って南へ逃げ、砲爆撃で虐殺された。何千もの死体が、ぬかるみの道端に置き去りにされていた」
これは、ジョン・トーランドがこの沖縄守備軍の南部撤退について述べた一文である。まさに彼の指摘の通り、その作戦は、ひめゆり部隊の悲劇をはじめとする数々の大惨劇を引き起こしたのだった。
「マセマティック放浪記」
1999年7月14日
ある沖縄の想い出(10)
沖縄発祥の地とイラブー余談
沖縄戦の悲劇を遠く偲びながら首里丘陵をあとにした私は、本島東南端にある知念半島に向かって車を走らせた。知念半島沖合い一帯は、沖縄本島のなかではもっとも珊瑚礁の美しいところとして知られている。突端の知念岬には近代的な海洋レジャーセンターがあって、海中を展望できるグラスボートなども用意されていたが、時間の都合もあったのでそれには乗らず、明るく輝く青い海だけを眺めていた。南国の真昼の太陽にきらめき揺れる大海原には、あの忌まわしい戦争の影などどこにも感じられなかった。
知念岬を少し南にまわったあたりには斎場御嶽(せーふぁうたき)と呼ばれる聖地があった。その聖地につづく山道をしばらく上ると、ほどなく小さな広場に出た。その広場の右端は切り立った断崖になっていて、その断崖にもたれかかるようにして大きな岩が立っていた。沖縄創造の伝説よると、アマミキヨという創造神は、まず、この地の沖合いに浮かぶ久高島に降臨した。そして、そのあとこの斎場御嶽にわたってきたのだという。そのためこの地は、古来、沖縄本島第一の聖地とされ、琉球王朝歴代の国王も一年おきに必ず参拝に詣でるしきたりになっていたらしい。また、国王に次ぐ権力者であった聞大君(きこえのおおきみ)の即位式がおこなわれたのもこの聖地であったという。
東方の海上を見やると、なるほど、久高島のものと思われる島影が見えていた。話に聞くところでは、古事記にも登場し、沖縄発祥の地とされるこの小島では、十二年に一度イザイホーという古代から伝わる祭祀が催されるのだという。これは島の三十一歳から四十一歳までの女性がナンチュと呼ばれる巫女になるための洗礼行事で、島内の全女性が集まり、ノロという巫女最高位の女性がその祭祀全体を取り仕切る。
久高島におけるノロの権威は絶大で、かなりの私有地を与えられるほか、島唯一の特産品イラブー(エラブウナギ)の捕獲権も代々ノロに委ねられているのだそうだ。むろん、それは乱獲を防ぐための島民の知恵でもあったのだろう。
ちなみに述べておくと、イラブー(エラブウナギ)は、ウナギの三文字がついているからといって、すぐさま蒲焼に変身してくれるようなヤワな手合いではない。もちろん、ニューヨーク・ヤンキースで活躍中のあの方の親戚でもない。イラブーとは南の海に棲む毒蛇の一種なのだが、乾燥処理すると意外にも琉球王朝伝来の高級な食材と化す。当然、長期の保存も利く。海洋レジャーセンターの土産物屋に置かれているのを見てきたが、棒状のものとトグロを巻いた感じのものとの二種類があって、いずれも相当に高価なしろものだった。
久高島は全体が聖域であるだけに、島民はよそ者が多数訪れることを必ずしも好まないということだったが、時代の流れには抗しがたいとみえて、近年は民宿なども何軒かできているらしかった。美しい珊瑚の海に取り巻かれた周囲八キロの島内には、神話や伝説に彩られたスポットがいくつかあるとのことだったが、私は遠くからその島影を眺めるだけにとどめておくことにした。
余談になるが、いまや押しも押されもせぬ流行作家の乃南アサさんがまだ直木賞を受賞するずっと前のこと、沖縄土産だといって、私の住む府中まで、なんとも奇っ怪なシロモノを持参してきてくれたことがある。彼女は、「これを煮て食べると美味しいし、滋養強壮剤としての働きもあるそうですよ」と笑いながら、一メートルほどの細長い袋状の包みを差し出した。なんだろうと思いながら、私が怪訝な顔をすると、すかさず彼女は、平然とした顔で「久高島特産のウミヘビですよ、もともとは毒蛇だそうで…」と言ってのけた。
半信半疑でそっと包みを開いてみると、黒く細長い一本の棒のようなものが現れた。包みから引き出してみると、まさにカチカチに固まった黒いヘビの乾燥物である。おどろおどろしい三角の頭部には、ちゃんと目も口もついているではないか。黒緑色の光沢のある腹部や背中にあたるところを指先でそっと撫でてみると、ざらざらしたウロコ様の感触がした。気の弱い人なら悲鳴をあげて逃げ出しかねない迫力だった。
乃南さんは、これを十匹ほど束ねたものを手に携えて那覇空港から羽田行きの飛行機に乗り、羽田から中央線沿いの自宅に持ち帰ったらしいのだ。それらのなかの一匹を私のところへ届けてくれたときには包装してあったが、彼女が沖縄から持ち帰る際は、三角の頭部と尾部はほとんど剥き出し状態だったというから、周囲の人はさぞかし度胆を抜かれたことだろう。実際、飛行機や電車の同乗客のなかには呆れ顔で彼女のほうを見つめる人もあったらしい。繊細ななかにも豪放な一面を合わせもつ乃南さんらしい話なのだが、実は、これ、イラブーの乾物だったのだ。
家の者に「滋養もあって美味しいらしいから、尻尾のほうを少し切って食べてみるか」と誘いをかけてみたが、誰も返事をしてくれない。ならばと思った私は、もとの包装に収めたまま、しばらくお守り代わりに書斎の鴨居に飾っておいた。そして、来客があったときなどに取り出しては相手を驚かして楽しんでいた。ところが、そうこうするうちに乃南さんの直木賞受賞がきまったというニュースが飛び込んできた。そうなるともう食べるどころの騒ぎではない。一挙に「乃南海蛇神」に昇格したイラブー様は、いまや畏れ多き存在となって、我が家の客間に鎮座しておわすのである。
直木賞受賞の折、受賞作「凍える牙」に登場する狼犬にちなんで、背中に狼犬の足跡をプリントしたTシャツを特注した乃南さんは、そのうちの一枚を私にも贈ってくれた。「イラブー様」や「狼犬Tシャツ」に加えて、新刊が出るごとに贈呈してもらっている彼女の三十冊に近い初版本や折々頂戴する葉書などを大切に合わせ保管しておけば、何十年かのちには、「なんでも鑑定団」ものの逸品になることは間違いない。
さらに脇道にそれることになるが、ついでだから書いておくと、ずいぶん昔に個人的に知り合い、いまや私など足元にも及ばないくらいの活躍をするようになった女性は乃南さんのほかにも何人かある。のちに日本認で初めて認知科学会を組織し、いまやその分野の大御所になっている中京大学教授の三宅なほみさんと出会ったのは、彼女が研究成果を携えて米国留学から帰国し、東大大学院の佐伯胖研究室に一時的に通っていたときのことだった。コンピュータ教育の方法論や数学教育などに適したコンピュータ言語LOGOの活用法、教育用ソフト、コンピュータ通信一般などについて三冊ほど共著を出版したりしたが、その後の彼女の活躍は目を見張るものがある。
AI(人工知能)の世界、とくにインテリジェンス・アート・アンド・テクノロジイの研究分野で目下最先端の走る土佐尚子さんとの出会いもずいぶんと昔のことになる。ディスプレイの中の赤ちゃんが、人間の話しかけに応じて泣いたり笑ったり怒ったりしながら、次第に学習成長していく「ニューロベイビイ(インタラクティブ・キャラクター)」の研究開発者で名高い彼女にも、いろいろと愚にもつかないアドバイスをしたりした。今年三月、土佐さんからその後の研究業績を集約した学術論文集が送り届けられてきたが、ただ素晴らしいの一語に尽きた。学歴とは無縁のところからスタートし、文字通りの実力で階段を上り業績をあげた人だけに、いっそうの喝采を送り、今後の活躍を心から祈りたい。
NHKの「おはよう日本」の元キャスターで、大河ドラマのナレータとしてとしても知られる平野啓子さんと出会ったのは、彼女がまだ早稲田の学生のときだった。折につけていろいろ相談されるのをよいことに、私なりに励ましたり、柄にもない箴言を吐いたりして現在に至っているが、先年、彼女は、「鶴八鶴次郎」の語りで文部省芸術祭芸能部門の大賞に輝いた。語り芸術家として次々に新境地を開き、いまではその世界の第一人者となっている。NHK芸術劇場などでご存知の方も多かろうが、その迫力に満ちた語りは絶品と言ってよい。もはや貫禄十分で、NHKのキャスターになりたての頃のあのおどおどした姿はどこにもない。
薬師丸ひろ子主演の「ミセスシンデレラ」、キムタクと松たか子主演の「ラブジェネレーション」、深田恭子と金城武が熱演した「神様もうすこしだけ」、そして最近始まったばかりの木村佳乃主演の「パーフェクトラブ」と言えば、いずれも若者たちの間で大評判となったフジテレビ系トレンディドラマの大ヒット作である。深田恭子主演の「神様もうすこしだけ」などは、テレビドラマとしては放送史上最高の視聴率を稼いだりもした。これらのドラマのシナリオを書いたのは、いずれも現在売り出し中の浅野妙子さんである。浅野さんがまだ慶応大学大学院仏文科に在学中の頃からの付き合いだが、いまや彼女はトレンディドラマのライターとして花形的存在になっている。
決意を新たにした浅野さんがシナリオの勉強を始めた頃、ずいぶんと脇から煽ったり、時にはひどくけなしたりもしたものだが、苦節十年の末に彼女は見事開花した。一児の母として育児に精を出すかたわら筆を執る彼女の感性はますます冴え渡っていくようで、もはや私など及びもつかない。良家のお嬢様であったにもかかわらず変に行動力のある彼女は、余計なことばかり言う私がどんな所でどんな育ち方をしたのか気になったらしく、ある時私にはそ知らぬ顔をしてはるばる甑島を訪ね、我が家のご先祖様の墓参りまでしてきてしまった。
何日か前のこと、「AICにちょっとだけ昔のこと書かせてもらうよ」と電話したら、受話器の向こうで彼女はおかしそうに笑いながら、「その原稿ってお金になるんですか?」って尋ねてきた。不意打ちを喰らって、私が返事に窮したことは言うまでもない。いつもいつもマイナスのカードばかりを引いているこの身を案じての一言ではあったのだが……。
このほかにも、昔出会い、いまでは有能な編集者やフリーライター、あるいは翻訳家となって活躍中の女性はあるが、彼女たちには一つの共通点があるようだ。隠れた資質をそなえていたのはむろんだが、それ以上に重要なのは、その誰もが並外れた努力家であると同時に、けたはずれの集中力の持ち主でもあるということだ。不精で努力が嫌いな私などは、大いに見習わなければならないのだが、この生来の習性だけは如何ともなし難い。したがって、どんどん彼女たちに置いていかれることは当然の報いである。
女性の話ばかり書いたが、ささやかな過去の人生の中で煽り育てた男共もそれなりには存在しないわけではない。しかし、その連中の話のほうは、「いじめ」を兼ねた今後の原稿のネタとして、しばらくとっておくことにしようと思う。
イラブーの話が発端となっていささか余談が過ぎてしまったが、このへんで再び本題へと戻ることにしよう。
知念半島をあとにした私は、摩文仁の丘へと向かう途中で玉泉洞に立ち寄ってみた。玉泉洞は石灰岩質の隆起珊瑚礁が侵食されてできた鍾乳洞で、昭和四十二年、愛媛大学探検隊によって発見された。この鍾乳洞は全長五千メートルほどで、観光客に公開されている部分だけでも八百メートルはある。鍾乳石の総数は実に九十万本にものぼるという大規模な洞で、鍾乳石の種類の多さと洞内の景観の美しさでは国内屈指の存在と言われている。
軽い気持ちで洞内にはいったのだが、先の尖った硬質ガラスか水晶を思わせる無数の鍾乳石の輝きは、たしかに息を呑むような美しさだった。鍾乳洞の規模や全体的な荘厳さ、神秘性といった観点からすれば本土の秋芳洞や竜泉洞のほうがずっと上には違いないが、鍾乳石や石筍の造形の妙とそれらの繊細な美しさという点ではこの玉泉洞のほうが勝っているように感じられた。とくに、地底の密林、陽炎の国、白銀のホールなどと名づけられた特別なスポットの景観は圧巻だった。
それまでに本土の有名な鍾乳洞はほとんど訪ね歩いてきていたが、この玉泉洞の特有な雰囲気と洞内壁面全体の色合いは、私が過去に目にしたものとは明らかに異なるものだった。ひとつには、この鍾乳洞の鍾乳石が誕生したのが二十万年から四十万年前と、この種のものとしてはきわめて新しいものであることにもよったのだろう。
玉泉洞を出ると、すぐ隣合わせのところにある玉泉ハブ公園にも寄ってみた。猛毒をもつハブの特徴やその生態がよくわかるように工夫された展示館や大蛇展示場のほか、ハブ専門の研究所などが設けられていたが、どうやら観光客向けの最大の売り物は、コブラとその天敵マングースの闘いを見せるショーであるらしかった。ハブ対マングースではなく、あくまでコブラ対マングースであるところがミソである。
大きなニシキヘビなどが舞台に登場し、勇敢な女性観客の首の回りにそれが巻きつけられるといった前座ショーが繰り広げられたあと、問題のコブラ対マングースの決闘なるものが始まった。だが、それは、決闘とは名ばかりの、筋書きのきまった馴れ合いプロレスショーみたいなものだった。
コブラ:おいマングース、本気で噛みつくなよな。俺まだ死にたくねーからな!
マングース:おまえだって、このまえマジで噛みついたろうが。毒が回りかけたんだぞ!
コブラ:今日はあと三回もアホ面かいた観光客の前で戦わなきゃならねーからな。
マングース:じゃさぁ、噛んだふりするからよぉ、お前も噛まれたふりせーや。
コブラ:そんじゃ、俺、負けてばかりじゃん……。
マングース:わかったよ、三回に一回は俺が負けてやるからさぁ……。
まあ、そんな会話がコブラとマングースの間で交わされたかどうかは知らないが、毎回のようにコブラとマングースのどちらかが死ぬまで戦わせていたら、コブラやマングースが何匹いたって足りるわけがない。だから、決闘ショーのレフリー役を務める人間がほどほどのところで割ってはいってそこで終わりという寸法だった。冷静に考えて見れば、本物の死闘を期待するほうが虫がよすぎるというものだった。
玉泉洞とハブ公園の隣には、亜熱帯植物が鬱蒼と生い茂る自然公園があった。なんとなく近づきがたい感じのするところで、中を歩いてみたいという気分になったが、残念ながらそこに入ることはできなかった。実はその場所には数百年間も風雨にさらされた無数の白骨が山と積まれた古代の風葬の跡があって、以前は「死者の谷遺跡公園」として公開されていたらしい。しかし、観光地としてのイメージを損なうという地元関係者の意向もあって、近年は立ち入ることができなくなったとのことだった。たぶん、近くに沖縄戦最後の激戦地となった沖縄戦跡国定公園などがあることなども、そういった配慮がなされた背景となっているのだろう。
玉泉洞周辺を見学し終えた私は三三一号線に出て、いよいよ、沖縄戦終焉の地、摩文仁の丘へと向かうことにした。沖縄守備軍司令部が最後まで置かれていたところである。何気なく太陽陽を仰ぎやると、もうかなり西へと傾きかけていた。その太陽にせかされるように、私は車のアクセルを大きく踏み込んだ。
「マセマティック放浪記」
1999年7月21日
ある沖縄の想い出(11)
摩文仁ノ丘にて
夕刻だったせいもあってか、摩文仁ノ丘は何かを押し隠しでもするかのようにひっそりと静まり返っていた。この地があの地獄絵図の繰り広げられた場所と同じところであるとは信じられないほどに、あたりは森閑としていて、思わず身が引き締まる感じだった。大駐車場で車から降りた私は、まず平和祈念堂をめぐり、それから平和記念公園、平和記念資料館付近を経て、海抜九十メートルほどの摩文仁ノ丘の頂へと向かうことにした。
首里攻防戦で正規軍の七割を超える兵力を失い、沖縄本島南端の摩文仁から喜屋武岬にかけての一帯へと撤退を決めた守備軍は、強制的に動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を最後まで軍に同行させた。いっぽう、守備軍の南部撤退によって置き去りにされた老人や子供、婦女子らの間には、迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感が募り、彼らのほとんどが何の情報も統率もないままに守備軍のあとを追って南下するという事態になった。
正規軍と動員部隊と一般住民とが混沌とした状態で南部へと退くのを追撃した米軍は、全軍を挙げて容赦ない砲爆撃を敢行した。いっぽう、戦闘能力をほとんど失っていた正規軍は、自暴自棄に近い敗走状態の中で、多数の一般住民や動員部隊を巻き添えにしたばかりでなく、彼らを盾にさえするという異常な状況に追い込まれた。極限に近いパニック状態のなかで徐々に冷静な判断力を失い、やがて日本に未来はないと絶望するにいたった島民のなかには、自ら命を絶つ者も多数現れた。
戦史記録によれば、最終的な日本側の戦死者数は二四万四一三六名、その内訳は正規軍六万五九〇八名、地元で編成された防衛隊員二万八二二八名、動員された住民戦闘協力者五万五二六四名、一般住民九万四七五四名であったという。いっぽう、米国の公式資料には、沖縄戦における米軍の死者は一万二五二〇名で、うち陸軍が四六七五名、海兵隊が二九三八名、海軍が四九〇七名であったと記されている。すでに述べたように、日本側の死者の大部分は、首里攻防戦で日本軍が敗退し、八原高級参謀の提唱にしたがって南部への撤退作戦が決行されたあとに生じたものである。
多数の住民が身を犠牲にしてまで戦わなければならなかった理由について、八原高級参謀は、「日本本土が戦場となった場合、軍隊のみならず、老幼婦女子に至るまで打って一丸となり、皇土防衛に挺身すべきであることは、国民の抱懐する理想であり指導精神であり、わが指導者たちの強調してやまぬところであったからだ」と語り、さらに、「国家民族の興亡安危にかかわる来たるべき戦闘においては、およそ役立つ男子はことごとく軍旗の下に馳せ参ずべきだったからだ」とも述べている。
だが、いっぽうで、この同じ人物は、昭和二十年六月二十三日早朝、上官の牛島満守備軍司令官や長勇参謀総長が摩文仁断崖の洞窟内で自決し沖縄戦が終ったあとも生き残り、上官らが自決する直前の六月二十日に、砲兵隊高級部員の砂野中佐とつぎのような想いを語り合ったということを伝え残してもいるのである。その内容が前述の戦争指導理念とはあまりにもかけ離れたものであることに、私はただ驚きあきれ果てるばかりで、述べるべき言葉もない。
「沖縄敗るれば祖国もまた亡ぶ。日本の将来は見えすいているのに、中央の指導者たちはほんとうに文字通り滅亡の道を選ぶであろうか。もし降伏するならば、無力化したわが無数の将兵が未だ全死しない間に降伏して欲しい。否、わが指導者たちは、その本能から自己の地位、名誉、そして生命の一日でも存続するのを希望して、わが将兵の二万や三万を犠牲にしても意に介さないないのであろうか」
もはや不可能なことではあるが、この言葉の中の「わが無数の将兵が」という部分を「無数の沖縄住民が」に、また、「わが将兵の二万や三万を犠牲にしても」という部分を「沖縄住民の十万や十五万んを犠牲にしても」と置き換えたうえで、そのまま八原という人物に突き返したい思いがするのは、この私だけなのだろうか。
組織としての意思決定が正しくなかったと判明した場合、その責任の所在が曖昧になるようにあらかじめ意図された構造をもつのは、わが国の各種組織の最たる特徴だと言ってよい。日本古来の談合精神にルーツをもつこのような組織体のありかたは、当該組織が順調に機能しているときや組織が抱える問題が小さなときは都合がよいが、いったん大きな不祥事が起こったり、緊急に組織としての意思決定や明確な責任の所在が要求される事態が生じたりした時には、その欠陥を無惨なまでにさらけだす。
このような組織体には、名目上その組織の長を務める者を含めて、誰一人として自己責任のもとに迅速な事態の収拾をはかることのできる者が存在しないし、たとえ存在したとしても構造上そうすることが許されていないからだ。多大の迷惑を被った者やあとに残された者には何の救いにも慰めにもならない、「自決」、「自殺」、「辞職」といった、詰まるところは間接的な自己美化ともいえるおきまりの対応がなされ、結局すべてはうやむやにされてしまう。
首里から摩文仁周辺へと撤退してからの守備軍は、ただひたすら最後の瞬間を待つ無残な敗戦部隊以外のなにものでもなかった。残った守備軍は、南端の喜屋武岬と摩文仁ノ丘一帯の限られた地域に追い詰められ、米軍の砲火に一方的にさらされるだけの存在になった。客観的に判断すれば、全員玉砕は時間の問題だったが、そのような状態を冷静に見つめ投降をはかる者はほとんどいなかった。内心それが最善だと考えた指揮官がいたとしても、日本的組織のなかに染まりきったその身にとって、それを実行に移すのは別の大きな勇気を必要としたに違いない。戦場の露と消えた二十余万の人々の直接的な怨念や、それに対する残された人々のやり場のない怒りよりも、「国体」という名の実体の存在しない亡霊のほうが、我々日本人にとっては今も昔もずっと恐ろしいということだったのであろうかか。
追い詰められた守備軍がたてこもる喜屋武岬から摩文仁高地一帯の背後の海上は、大小無数の米艦船群によって黒々と覆い尽くされた。そして、それらの艦船群からは、昼夜の別なく、喜屋武岬や摩文仁高地の守備軍拠点に対して猛烈な砲爆撃が繰り返された。また、航空機による銃爆撃も激烈をきわめ、陸上からはM4戦車群とそれらを盾にした米地上軍が四方八方からジリジリと包囲網を狭めてきた。この頃になると守備将兵の死者は連日一千人を超え、戦傷者の数はそれをはるかに上回った。さらに、その戦闘のさなかを右往左往して逃げ惑い、なすすべもなく倒れていった無数の非戦闘員たちの有様は、地獄絵図さながらであったという。
あまり知られてはいないことだが、あちこちの洞内や壕に隠れる一般住民を救出するため、司令官バックナー中将の指令を受けた米軍は、カリフォルニアやハワイに住む沖縄出身の一世や二世のうち沖縄弁の得意な者を厳選し急遽前線に送り込んだ。そして、彼らにハンドスピーカーを渡し、洞内や壕内に潜む人々に向かって、安全を保障すから外に出てくるようにと呼びかけさせた。この説得工作によって命を救われた住民もそれなりの数にはのぼったが、残念なことに、期待されたほどの効果はあがらなかった。米軍の説得に応じることはスパイ行為や裏切り行為だとみなされ、背後から銃弾が飛ぶヒステリックな状況のなかでは、救命のために尽くされたあらゆる努力は無為に等しいものとなったのだった。沖縄女子師範の若い学生からなるひめゆり部隊の悲劇は、その象徴ともいうべき出来事だった。
バックナー中将は、六月十日付けで守備軍司令官牛島満中将宛に降伏勧告状を送っていた。「閣下の率いる軍隊は勇敢に戦い善戦しました。日本軍歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍からも等しく尊敬されるところであります」と述べ、守備軍が降伏することを丁重に勧告したこの書状は、どういう経緯のゆえかは不明だが、牛島司令官の手には届かなかったという。三度目の降伏勧告状が六月十七日になってやっと牛島司令官の手に届いたが、彼はそれを笑殺するに終わったと伝えられている。
牛島司令官自決の五日ほど前のこの時点で沖縄戦が終結していれば、戦死者数も五万人は少なくてすんだろうという見方もあるようだ。しかし、すでに守備軍の指揮系統や通信網が寸断崩壊し、各残存部隊の将兵も一般住民も極度のヒステリー状態の中で自己の判断に基づいて戦闘行動を続けなければならなかったことを思うと、結果はほとんど変わらなかっただろうと推察される。牛島司令官自決後も多くの将兵や住民が二、三ヶ月も死線をさ迷ったという事実も、そのことを裏付けていると言ってよい。要するに、すべては後の祭だったのだ。
沖縄守備軍首脳が再三にわたる米軍の降伏勧告を無視し続けたにもかかわらず、米軍は大量の降伏勧告ビラをまき、一定時刻がくると砲撃を中断して一般将兵や動員住民に投降を呼びかけた。米軍の記録によると、六月十八日頃には投降者が五十人ほどになり、翌十九日になると自発的に投降する兵士の数は四百人に及んだという。全体からすればわずかな割合ではあったが、米軍の努力はまったく無駄だったわけではなかったようである。
それにしても人間の運命というものは皮肉なものである。牛島守備軍司令官に降伏勧告状を送った米軍司令官バックナー中将は、六月十八日の午後一時頃、部下の最後の進撃状況を視察するため、第二海兵師団第八連隊の前線監視所に出向いた。この視察に出向くに先立って、彼は第六海兵師団第二十二連隊長ハロルド・H・ロバーツ大佐から、日本軍陣地からかなりの流弾が飛来するので前線の視察は見合すようにとの警告を受けていた。しかし、彼はその警告を押し切り、部下の激励をかねて前線に立った。
そして、その直後、守備軍側の狙撃兵の放った一発の銃弾がバックナー司令官の胸に命中、彼はその場で落命したのだった。しかも、バックナー中将に警告を発したロバーツ大佐のほうもそのおよそ一時間後に狙撃されて死亡するという二重の不運に襲われた。敗軍の将牛島司令官の自決死よりも早くバックナー米軍沖縄方面総司令官が死亡したという事実は、単なる運命の皮肉という問題を超えて、当時の日米両国の軍隊のもつ構造的な違いというものを強く感じさせてくれる。
摩文仁ノ丘大駐車場左手の沖縄平和記念堂には、沖縄の生んだ芸術家山田真山父子が二十一年の歳月をかけて完成した平和記念像がおさめられていた。大量の漆を捏ねてはりつける堆錦(ついきん)という沖縄独自の工法で造られたこの記念像は、高さ十六メートル、幅八メートルもあり、製作に費やされた漆の総量は三十五トンにも及んだという。山田真山は自費を投入して像の制作に取りかかったが、途中で費用が足りなくなり、国の補助を仰がなければならなくなった。
ところが、はじめ製作を意図した仏像の観音菩薩像のままでは特定宗教の象徴物への国費の投入を禁じる法律に触れるため、補助金を交付してもらうのは困難だということが判明した。そこで、急遽、台座の蓮の花を別の花にかえ、製作中の像が観音菩薩像ではなく、あくまで平和記念像であるということにし、補助金をもらうことができたというエピソードも残っている。父の山田真山は像が完成するのを目にすることなく他界したという。
沖縄平和記念堂から摩文仁ノ丘の頂へと向かう途中には広々とした平和記念公園があって、その左手の一角に平和記念資料館が建っていた。この資料館には沖縄戦の各激戦地から集められた様々な兵器や兵士の所持品二千点以上が展示されていた。容赦ない砲火のもとで戦場の屍と化した物言わぬ主たちにかわって、それら展示品の一つひとつは、戦争の悲惨さと酷さを切々と訴えかけているかのようだった。見る人それぞれの感じ方にもよるのであろうが、私には、古びた銃砲から鉄兜、飯盒、各種手記類にいたるまでの品々がそれぞれにある種の怨念を発しているようにさえ思われた。
平和記念資料館から少し行ったところにある平和広場の手前には島守の塔が建っていた。この慰霊塔は当時の沖縄県知事島田叡ら沖縄県庁職員三五一名の霊を合祀したものである。昭和二十年一月、爪と髪の毛を家族に残して戦地沖縄に知事として赴任した島田は、食料の確保と島民の安全のために奔走した。最後は守備軍と行動を共にしたが、六月十八日を境に彼は消息を絶ったという。摩文仁ノ丘のどこかで倒れたものと思われる。
平和広場一帯には、沖縄戦の戦死者の名前を刻んだ慰霊碑がずらりと立ち並んでいた。この戦場で戦死した兵士の出身地は、日本の全都道府県にわたっており、慰霊碑に刻まれた戦没者名は出身地ごとに整理配列されていた。慰霊碑に日本兵の名前ばかりでなく、戦死した米軍兵士の名前も刻まれているのはとても印象的だった。
平和広場の慰霊碑群の間を抜けて斜面を登りつめると、海抜八十九メートルの摩文仁ノ丘の頂上に出た。守備軍最後の司令部が置かれていた洞窟の真上にあるこの沖縄戦終結の地には黎明の塔が建っていた。激戦の跡とは信じられないほどに静まりかえた丘の上からは、沖縄南部を一望することができた。他に人影のないこの丘の頂きに一人佇み、最後の戦闘の状況を想像しながら海と夕空を眺めやっているうちに、どうやら私の身体はある種の霊気に包まれてしまったようだった。ぞくりとした感覚をともなうその不思議な気配に導かれるままに、私は丘の南側断崖を縫って海岸に続く急な細道を下りはじめた。鬱蒼とした亜熱帯樹林に覆われるその断崖のなかほどには、牛島満司令官と長勇参謀総長が自決した洞窟がいまもそのまま残っていて、いかにも暗く淋しい感じの小道はその洞窟のほうへと続いているのだった。
「マセマティック放浪記」
1999年7月28日
ある沖縄の想い出(12)
物言わぬ無数の魂に捧ぐ
「いくらその場の雰囲気に誘われてとはいっても、夕刻に一人でそんなところを訪ねるなんて物好きな!」と言われれば、たしかにそうかもしれない。だが、生来、私は野次馬根性の塊みたいな人間だし、子供の頃から人が嫌がるようなところを夜遅く歩くのも平気だった。それに、夕刻とはいってもまだあたりはかなり明るかった。だから、沖縄守備軍最後の司令部が置かれ、牛島司令官と長参謀総長が自決したというその洞窟をこの目で見てみたいという意識が潜在的に働いていたとしてもおかしくはない。
問題の洞窟は、摩文仁ノ丘の頂と崖下の海岸とのちょうど中間のところにあった。ぽっかりと開いた大きな洞口付近には、牛島満司令官と長勇参謀総長が昭和二十年六月二十三日未明にこの場所で自決したことを述べた一文と、牛島中将の辞世の句とを記した碑が立っていた。「陸軍大将牛島満」と表記されているところをみると、死後に「大将」への昇格がなされたのだろう。司令官や参謀総長は自決後も辞世の句などの書かれた碑などを立てて霊を弔ってもらい、残された遺族への年金交付額などにも関係する階級特進の配慮がなされたからよいようなものの、なんの見返りもないままに戦場の露と消え、遺骨さえも行方のわからなくなった無名戦士や一般島民の霊などは永遠に浮かばれないだろう。
洞内の入り口に近い部分の壁面や床面のあちこちが焼け黒ずんで炭化したような感じになっているのは、最後の戦闘の際に米軍から火焔放射器や爆雷による攻撃を受けた名なのかもしれない。暗い洞穴の奥にも入ってみたが、一見したところではそんなに奥行きのある感じではなかった。もっとも、洞口一帯は米軍の猛烈な爆撃によって崩壊変形したというから、当時はもっと深い洞になっていたのかもしれないし、洞内の闇に邪魔されなければ、かなり深くまで坑道が続いているのを確認できたのかもしれない。
目が徐々に洞内の暗さになれてくるにつれて、ぼんやりとではあるが洞窟壁面や床面の様子がわかるようにはなってきた。あちこちに白っぽい岩塊のかけらのようなものが見えるのは、隆起珊瑚礁の一部がそのまま残ったものか、さもなければそれらが石灰岩化したものであろうと推測された。場所が場所なだけに、まるで洞内のあちこちに人骨の断片が散らばっているかのような錯覚にとらわれたほどだった。
米軍が摩文仁ノ丘の頂へと進出し、守備軍司令部のあるこの洞窟へと迫ってくる段階になると、守備兵が洞窟近くの水場まで炊事に行くだけでも、五人中二人は銃撃を受けて死亡する状況になったという。炊事当番の兵士たちは、それでも何組かに分かれて命がけの炊事に出かけたが、それはまるで、ロシアンルーレット、すなわち、リボルバー銃による死のルーレットそのままの行為であった。もっとも、爆雷を抱えて敵陣へ突入させられた多数の学徒動員兵や下級兵士に較べれば彼らのほうがまだしもましだったかもしれない。肉弾特攻兵や特別斬り込み隊員は、「死のルーレットの恩恵」にすら浴することが許されなかったからである。
そんな切迫した状況のもとにあって、この洞窟内においては、八原高級参謀と砂野砲兵隊高級部員の間で、牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りが話し合われていたようである。その結果、二人が洞窟内で自決すると、珊瑚岩が固くて地中に埋めることができないし、米軍にも発見されやすいうえ、腐爛した遺体が洞中に残るのは不様だから、摩文仁の断崖上で自決してもらい、遺骸はそのまま断崖直下の海中に投じて水葬にしたほうがよいということになったらしい。
八原と砂野の両者は残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて布陣している米軍に一斉突撃を敢行させ、その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きを立てた。そして、六月二十二日夜半摩文仁ノ丘頂上を奪回、二十三日未明にそこで両将軍の自決が行われることになった。長さ三十センチ、幅十センチの二枚の板で作った二人の墓標も用意されたという。
しかし、勝利を目前にした米軍の反撃は凄まじく、摩文仁岳山頂の奪回は失敗した。そのため、牛島、長の二人は、やむなくしてこの洞窟入口付近で相次いで自決した。六月二十三日午前四時三十分のことだったと伝えられているが、正確な自決の日時、場所、方法などについては様々な説があり、現在でも真相は明らかになっていない。現場にいたごく一部の者にしかわからない相当複雑な事情があったのではないかと推察される。
一説によると、牛島満司令官は、自決の直前に「沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」と述べたというが、それが事実だとすれば、その言葉の背景にあった思いとは、いったいどんなものだったのだろう。その程度の申し開きで沖縄の人々の怨念が晴らされるものではいことは、牛島司令官自身がもっともよく自覚していたはずである。もしもそうでなかったとすれば、問題外と言うほかないが、ともかく、こうして悲惨を極めた沖縄戦は終結をみたのだった。
司令部のあった洞窟を出た私は、下へと続く急な隘路をたどって海岸へと降りてみることにした。細い道の両側に広がる斜面の深い藪や亜熱帯ジャングルの土中にはいまだに数知れぬ遺骨の断片が埋もれていて、現在でも土を掘り返すとそれらの一部が見つかるという話は聞いていたが、なるほど思わせる雰囲気があたり一帯に漂っている感じだった。崖下の海岸は直径二〜三メートルほどの大石や大小の岩々の立ち並ぶ荒磯になっていて、南に開けた海上からは強風に煽られるようにして激しく波が打ち寄せていた。
前方にはひときわ高く切り立つ断崖があって、その断崖に遮られるかたちで私の立つ荒磯は行き止まりになっていた。摩文仁ノ丘の南端にそびえる一連の断崖を、摩文仁沖一帯の海上に展開していた米艦の兵士たちは「自殺断崖」と呼んだという。米軍に追い詰められた多数の沖縄島民や敗残兵たちは、次々にこの摩文仁ノ丘の断崖上から海中や崖下の岩場に向かって身を投げた。目前に展開する理解を超えた凄惨な光景に、艦上の米兵たちは言葉を失い唯呆然とするばかりであったと伝えられている。
私はごつごつした大小の岩を伝い歩いて断崖の真下まで近づいてみた。断崖の海に面した部分やその向こう側の様子がどうなっているかはわからなかったが、私の立つ側の足元は角張った大小の岩だらけであった。垂直にそびえる断崖上からこの岩場に向かって飛び降りたらひとたまりもなかったろう。昭和二十年六月二十日前後には、この一帯の岩々は一面朱に染まっていたに違いない。足下の巨岩群が重なってつくる暗く深い隙間の底には、いまもなお無数の遺骨が人知れず眠り埋もれているような気がしてなかった。
遠い日の悲劇を偲びながら、頭上の断崖をじっと見上げていると、突然、私は、全身がある種の気配に包み込まれるような、異様きわまりない感覚に襲われた。身体の奥がぞくっと震え、鳥肌がたつような戦慄感とでも言い表わしたほうがよかったかもしれない。霊気を感じたという表現がもっとも相応しいのは、たぶん、こんな時だろう。私は、自分の心を落ち着けるために、子供の頃から諳(そら)んじている般若心経の一節を反射的に胸の奥で呟いた。
子供の頃に般若心経を憶えたのは、たわいもないことがきっかけだった。ラフカディオ・ハーンの「耳無し芳一」を読んでいるうちに、その身体に書かれたお経の文字が般若心経のものだったということを知った。野次馬精神に誘われるままに、仏壇の前にあった経本の一つを持ち出して調べてみると、たまたまそれが読ガナのふられた般若心経だったのである。意味もわからぬままにその経文を暗記したことは言うまでもない。この経文のもつ深い意味を学んだのはずっとのちのことになるが、そんな般若心経に意外なところでお世話になったというわけだった。
人間の心というものは厄介なものである。特殊な緊張状況や異様な雰囲気の中に置かれたりすると、五感が異常な興奮と混乱を来たし、その結果、平静を失った人の心は幻覚や幻聴の虜になる。ただ、たとえそれらが空なる存在であったとしても、当人にはまぎれもない実在に感じられるわけだから、話はけっして容易でない。
どう見ても私は信心深い人間ではないが、この世の現象界を構成する五蘊(ごうん)、すなわち、色(物質及び肉体)、受(感覚や知覚)、想(各種概念とその構成体)、行(記憶や意志)、識(純粋な意識)の五つの存在からなる集合体はみな空であり、実体がないと説き、究極的にはその教義そのものも空であるとする般若心経の教えは好きである。裏を返せば、信心深い人間でないからこそ、般若心経の教えが性に合っているのかもしれない。それに般若心経は短くて覚えやすいのがなによりもよい。人の心に異常な興奮や妄想が生じたときには、この心経はトランキライザーとしての効き目をもつ。
インド古来のそんな精神安定剤(?)のお蔭で再び冷静さを取り戻した私は、己の心が一瞬感じた幻を、気が向いたときなどに詠む我流の歌に托したあと、夕暮れの迫る摩文仁の断崖をあとにした。たぶん、この摩文仁ノ丘一帯で何かに憑かれたように死んでいった人々が見ていたものも、そして彼らが懸命に守ろうとしたものも、「国体」という仮面をかぶったある種の悪霊だったに違いないと思いつつ……。
忍び寄る霊気に詠う心萎え震えて立てり摩文仁の崖に
大駐車場に戻った私は、大急ぎで慰霊碑「ひめゆりの塔」の建つ地点へと車を走らせた。あたりは夕闇に包まれはじめていたので、ひめゆりの塔やひめゆり部隊の惨劇の場となった地下壕の周辺には人影は見あたらなかった。壕の中に立ち入ることはできなかったので、足元から三、四メートルの深さのところにある洞口を外から眺めおろしただけだったが、何度となく映画や小説の舞台にもなったところだけに、一人そこに立つ感慨はひとしおだった。
沖縄戦における悲劇的な集団死は島内のいたるところで起こっており、数のうえだけのことならひめゆり部隊のそれは死者数全体のごく一部にすぎない。しかし、未来ある若い女子学生の悲壮な集団死であっただけに当時の社会に与えた衝撃は大きく、その悲劇はのちの世まで連綿と語り継がれるところとなった。
従軍看護婦として陸軍病院の外科に配属された沖縄県立第一高女と沖縄女子師範の生徒たちは、ひめゆり部隊を構成し、五月下旬この摩文仁伊原の地下壕にやってきた。しかしながら、六月十八日までにこの壕の周辺は完全に米軍に制圧され、野戦病院は解散のやむなきに至った。ところが、不運にもその命令の伝達が十分に行なわれなかったために、壕内のひめゆり部隊看護婦たちは孤立したまま脱出不可能になったのだった。
状況を察知した米軍は、攻撃を仕掛ける前に何度も洞外に出てくるよう説得工作を試みたが、その説得が功を奏することはついになかった。当時十四、五歳の純真無垢な少女たちは、捕虜になると米兵に暴行され殺されるという守備軍の宣伝を真にうけ、最後まで壕の奥に立てこもりつづけたからである。
米軍によって最終的な攻撃が行われる直前に水汲みに壕外に出た三人と、米軍の攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人をのぞく、女子学生一八七名と教師十三名が非業の死を遂げた。伝えられるところによると、女学生たちは白衣を制服に着替え、校歌を歌いながら死んでいったのだという。
これまでと信じて散りし乙女らを同胞(とも)よ愚かと嗤(わら)いたもうな
深まる夕闇のなかで遠い日の惨劇の有様を想像しながら、彼女たちの霊にそんなささやかな鎮魂歌を献げた私は、静かにその場を立ち去った。
もうあたりは薄暗くなりかけていたが、ここまで来たついでなので、私は沖縄本島最南端の荒崎に近いところにある魂魄の塔を訪ねてみることにした。道が細く、かなりわかりにくいところではあったが、「魂魄の塔」のある場所には無事たどりつくことができた。その付近には魂魄の塔のほかに、北霊の塔、島根の塔、東京の塔などの慰霊碑も建てられていた。この一帯は摩文仁ノ丘と並んで沖縄戦最後の激戦地となったところである。戦後この地域に入植した島民たちは山野や畑地に散らばり放置されたままの遺骨を集めて合祀し、慰霊碑「魂魄の塔」を建てたのだった。集められた遺体の数は三万五千体にも及んだというから、いかに悲惨な戦いであったかが想像される。
魂魄の塔の隣には「北霊の塔」が建っていた。沖縄戦における戦死者の出身地は日本の全都道府県に及んだが、そのうちでもっとも多数を占めたのは北海道の出身者たちであった。一万四千名を超えるそれらの戦没者の霊を弔うために、戦後まもなく北海道の遺族たちの手によってこの塔は建てられた。「島根の塔」や「東京の塔」も同様の背景をもつ慰霊碑である。
宵闇の深まる喜屋武岬周辺を一通り巡り終えたあと、私は漁業で有名な糸満を抜けて首里のグランド・キャッスル・ホテルへと戻ることにした。糸満は良港に恵まれ、その地に住む人々の先祖たちは古来独特の漁法で生計を立ててきた。昔の糸満の漁夫たちは、サバニと呼ばれる長さ七〜八メートルの船に乗って東南アジアからインド洋にまで出かけたのだという。追いこみ漁や底曳き網、一本釣り、建て網など、糸満の漁夫たちの用いた様々な漁法は、日本国内の各地にも伝え広げられていった。糸満市内をゆっくりめぐり、南海交易や漁労関係の古い資料史跡に接したいという思いはあったが、糸満市街にさしかかったときにはすでに夜になっていたので、それだけは断念せざるを得なかった。
翌日は沖縄を離れる日にあたっていたが、この日の午前中、私は那覇の少し南にある豊見城の旧海軍司令部壕をた訪ねてみた。那覇市街やその沖合いの海を見渡す高台にあるこの地下壕内には、旧日本海軍最後の司令部が置かれていた。摩文仁の守備軍司令部陥落に十日ほど先立つ、昭和二十年六月十三日までに、大田実少将率いる約四千名の将兵はこの壕内で戦死を遂げた。地下三十メートルのところに掘られた司令部壕は、全長千五百メートルに及ぶ大規模なもので、海軍司令室、作戦室、幕僚室、信号室、将校室などが往時のように復元されていた。ひんやりとした空気の漂う壕内の壁面には当時のツルハシや鍬の跡が生々しく残り、その痕跡を仲立ちにして、最期の瞬間を前にした将兵たちの低いざわめきがいまにも耳元に響いてきそうだった。
旧海軍司令部のあった小禄半島には、約一万人の海軍部隊将兵が防衛要員として配されてはいたが、正規の海軍軍人はその三分の一程度に過ぎず、残りは現地召集の防衛隊員からなっていた。おまけに、正規軍人のうち地上戦の実地訓練を受けていたのはわずか三百名程度で、沖縄戦が始まるまで実戦経験は皆無だった。そのため、守備軍首脳は六月に入ってすぐに海軍部隊を南部へ後退させる予定でいたが、連絡の行き違いや両者の思惑の違いなどもあって、海軍部隊はそれより早い五月二十六日に砲台や機関銃座を爆破し南部へと撤退してしまった。
それを知った守備軍首脳は、対応に苦慮したあと、結局、大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう厳命した。すでに重火器類を破壊してしまっていたため、小禄へ戻った海軍部隊は使用不能の飛行機から機関銃だけを取り外し応戦するという苦肉の策をとったりもしたが、強力な火器で迫る米軍に抗することは土台無理な話だった。
六月五日になって守備軍首脳は大田海軍司令官に南部への撤退を促すが、すでにその時には海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲され、脱出は不可能な状況になっていた。大田司令官は同日、守備軍司令官に電信を送り、「海軍部隊はすでに完全包囲され撤退は不可能なため、小禄地区にで最後まで戦う」と通告した。
玉砕を覚悟した大田司令官は、翌日の晩、海軍次官宛に有名な訣別の電報を送った。「沖縄島ニ敵ガ攻略ヲ開始以来、陸海軍ハ防衛戦闘ニ専念シテ県民ニ関シテハホトンド顧ミル暇ナキナリ」という文に始まるその電文には、沖縄県民が戦火で家屋財産すべてを焼失したにもかかわらず、婦女子までが率先して守備軍に献身し、砲弾運搬作業のほか挺身斬り込み隊にまで参加を申し出る者もあったと書かれている。そして、電文の最後は「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていた。
米軍の記録によると、陸上の戦闘に不慣れなうえに重火器も失った非力な部隊であったにもかかわらず、海軍部隊は米軍の集中砲火をものともせず、最後まで頑強に抵抗した。業を煮やした第六海兵師団のシェファード少将は、配下の将兵に六月十一日午前七時三十分を期して総攻撃をかけるように厳命、戦車部隊を先頭に立てて大攻勢に出た。
その晩のこと、大田司令官は、摩文仁の牛島守備軍司令官に宛てて、「敵戦車群ハ、ワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と永訣の打電をした。実際にはそれから二十四時間ほどのちの六月十三日午前零時頃、大田少将以下の海軍部隊首脳は自刃して果てた。米第六海兵師団の兵士たちは、二日後の六月十五日、海軍司令部地下壕の通路の一隅で大田司令官と五人の参謀が座布団を敷いて自決しているのを発見した。いずれも喉を掻き切って、大の字になって死んでいたという。海軍部隊はこうしてほぼ全滅したが、米軍側もこの戦闘において千数百人に及ぶ死傷者をだし、その損害は甚大であったという。
大田海軍司令官の最期はよく知られるところだが、勝ち目のない悲惨な戦闘を続けることの無意味さを悟っていた軍人も一部にはいたようである。もはや全軍玉砕が確実になった六月十五日の午後、第八十九歩兵連隊長金山均大佐は、連隊司令部に部下の将兵を集めた。そして、上級師団首脳は翌朝を期して総攻撃の敢行を命じるつもりだが、百人足らずの兵士しか残っていない自分の連隊が組織的な戦闘を遂行することは不可能だから命令には従えないと断じ、ガソリンをかけて連隊旗を焼き連隊を解散した。そのあと彼は、部下の将兵に対し、いたずらに死ぬことのないように命じ、本土に帰還したいものはそうしてよいと述べ、自らは割腹自殺を遂げたという。その介錯をした連隊副官の佐藤大尉もその直後に拳銃で自決した。
最後まで無駄な戦いを続けることを命じたうえに、自らは生き残った上官もかなりの数いたという守備軍首脳部の有様に比べて、彼らの毅然たる姿はなんとも胸に迫るものがあると言わざるを得ない。
複雑な思いにひたりながら旧海軍壕をあとにした私は、午後の羽田行きの飛行機に乗るため、レンタカーを返却し那覇空港へと向かうことにした。トヨタレンタカーの営業所に車を返却すると、営業所の人が車で空港まで運んでくれるという。運転手している人は違ったが、なんと私が乗せられた車は、沖縄到着の日に乗ったあのワゴン車と同じものだった。この車に乗ったことがきっかけとなって、私は初めに述べたような貴重な体験を積むことができた。またそのお蔭で、この時の沖縄の旅は私にとって生涯忘れがたいものとなった。車に向かってお礼を述べるのも変な話だったが、もし車に言葉がわかるなら、心からそうしたい気分だった。
那覇空港で車を降りるとき、私は片手でそっとそのワゴンの車体を撫でた。かなり古びた車ではあったが、明るく輝く沖縄の午後の太陽の光のもとで、その白い車体は誇らしげに輝いているように見えた。
(沖縄の部 了)
「マセマティック放浪記」
1999年8月4日
純銀大杯版「藪の中」
芥川龍之介の作品の中に「藪の中」という短編がある。多襄丸という盗賊が、京の都から若狭へと向かう途中の若武者とその美貌の妻を襲う。盗賊の策略にはまり不意打ちを食らった若武者は杉の根元に縛りつけられ、その面前で女は犯される。そして、それからほどなく、若武者のほうは遺体となって発見される。やがて盗賊の多襄丸は捕らえられ、検非違使によって取り調べられることになるのだが、多襄丸と若武者の妻、さらに霊媒を通じて得られた若武者の霊による証言がそれぞれまるで違うのだ。
多襄丸は自分が若武者を切り殺したと認め、女は自分が夫を刺し殺したと告白し、最後に呼び出された若武者の霊は己の手で自害して果てたと語って、結局、真相は藪の中に隠されてしまう。人間それぞれの心の闇とそれゆえの思惑が、どう見ても一つしかないはずの真実を霧の中に包み込み、結局誰にもほんとうのことが判らなくなってしまうというこの話は、なんとも寓意に満ちていて興味深い。
抜群の語学力の持ち主だった芥川龍之介は、若い頃、ずいぶんと洋書を読み漁ったという。その彼がとりわけ愛好した海外作家の一人にアンブローズ・ビアスがいた。龍之介の作品はこのビアスにずいぶんと影響を受けているといわれている。ビアスは短編の神様といわれた米国人作家で、異界をテーマにした幻想的な作品を得意としたが、わが国では、むしろ、あの辛辣このうえない「悪魔の辞典」の筆者としてその名が高い。
そのビアスの著作中に「The Moonlit Road」という作品がある。「霊界の月影」とでもそのタイトルを意訳したくなるような短編で、一人息子とその両親が登場する。ある日、美貌の母親が自宅で何者かに絞殺され、大学在学中の息子は急遽父親に呼び戻される。母親の死の状況についての息子と父親、そして、霊媒によって呼び出された母親の霊魂の証言が相互に食い違う。むろん、龍之介の「藪の中」とは設定も物語の展開も異なるが、その作品を書くにあたって、ビアスの短編が龍之介にある種のヒントを与えたことはほぼ間違いないだろう。私はその道の専門家ではないので偉そうなことは言えないが、このほかにも両者の連関性を感じさせる作品はいくつか存在する。
龍之介が日本の古典に題材を求め、それらをデフォルメし、独自の哲学的作品へと昇華させていったことは広く知られているところだから、彼がアンブローズ・ビアスの著作から受けた様々な啓示をもとに一部の作品を書いたとしてもべつだん不思議はないだろう。
前置きが長くなってしまったが、べつにこの場をかりて芥川文学の話をしようと考えたわけではない。先日、朝日新聞インターネットキャスターの穴吹史士さんが、「純銀大杯の因縁」というタイトルで朝日社内テニス杯が制作されるまでの経緯を述べていた。その中に大銀杯制作の関係者として私の名前なども登場するのだが、私の知るのとはかなり異なる事実なども紹介されていたようなので、この際、その「藪の中」版を書いてみるのも面白いのではないかと思い立ったからである。このケースでは、「制作依頼人、元週刊朝日編集長穴吹史士の証言」、「制作者、本田成親の証言」、そして「制作指導者、故伊藤廣利芸大教授の証言」の三証言が問題となることは言うまでもない。
《制作依頼者、元週刊朝日編集長穴吹史士の証言》
「霊感商法じゃないの?」と、その純銀の大杯については、いわれた。社内のテニス仲間数人が、毎週休日に会社の屋上で子供の遊びのようなゲームを楽しんでいたころのことである。「芸大の偉い先生が優勝カップを作ってくれるらしい。みんなで、お金を出し合おう」という話になった。
きっかけは、いま「マセマティック放浪記」を書いている本田成親さんだった。本田さんは、東京芸術大学の学生に数学(必要あるのだろうか?)を教えていて、そこで鍛金の巨匠でもある伊藤廣利教授と昵懇になった。アトリエに通って、教授の仕事を見ているうち、自分も何か作ってみたくなり、銀の板の端くれをもらって、小さなさかづきをひねり出した。
そしてその「作品」を、自分は下戸なのに酒席に持ってきては、みんなに自慢していた。「なかなかの腕前ですね。こんどテニスの優勝カップでも作ってもらいましょうかね」と、私は通りいっぺんのお世辞を述べておいた。だが、世故に全くたけていない本田さんに、お世辞をいうのが、そもそも誤りだった。
次に本田さんから連絡があったときは、「例のもの、作ってます。こんどあなたも叩いてみませんか」という状況になっていた。製作にいたるまでには、もう少し複雑な事情もからんだが、要約すると、まあ以上のようになる。
本田さんに声を掛けられて、一日、私は伊藤教授のアトリエへ出かけた。私の家からは、関東地方の対極にあるのではないかと思われるほど遠い、埼玉県・入間の奥。米軍将校の元官舎が教授の仕事場だった。鍛金というのは、金属の平らな板を槌で叩いて延ばしたり曲げたりする造形の手法である。
金属というものは、叩けば延び、しかし延びるばかりで、絶対に縮まないということを実感的に知った。叩きすぎると、カーブがどんどん急になり、もう戻すことはできない。どうしても戻したければ、もういちど炉で溶かして、ただの平たい板にして、いちからやり直すほかない。私は申しわけ程度に叩いて、あとは本田さんが、伊藤教授の指導で、とんとん叩くのを、一日中見ていた。
本田さんがひと夏とんとん叩いて完成したカップは、巨大なものだった。口径が40センチばかり。深さは15センチくらい。リボンを結ぶための環がついている。凝っているのは底部で、くるりとひねると、別の小さな杯になる仕掛け。純銀の原価だけで数万円、それに特注の桐の箱に入っていた。工賃はタダだとしても、諸経費を入れると10万円はくだらなさそうな……。
テニスのメンバーも、これほど豪華なカップを想定していなかった。問題は財源である。数人で1万円ずつ出し合っても、少し不足する。ただちに純銀大杯シンジケートを組むことになった──「この純銀のカップは、芸大の偉い先生が制作に深く関わり(作ったとはいわない)、仮に値段をつけると、何百万円もする。それが1口1万円で、共同オーナーになれます」。ラケットを1回でも振ったことのありそうな人を次々勧誘、最終的には12人から出資を得た。
ゲームの後、冷たいビールをカップになみなみと注ぎ、最初の一口を飲むのが、優勝者の特権である。熱伝導率が高いので、キーンと音が聞こえるほど銀が冷たくなり、とってもおいしい。次のゲームまで、カップを自宅に保管できるのも優勝者の特権だが、「でかすぎて、置き場に困ると、妻からしかられた」と特権を放棄する者もいた。
問題は、忙しくてなかなかゲームに参加できず、カップの顔も見たことないという出資者がいたことである。「霊感商法うんぬん」の声が挙がったのも無理はない。底部組み込みの小杯の、外から見えないところではあるが、製作者として、本田さんと私の名が刻んであるのも疑惑を招いた。伊藤教授が気を利かせてくれたのだが、本田さんはともかく、私の場合、製作に携わったとは確かにいえなかった。
出資者はその後、海外に赴任したり、一層の激務についたり、退職したりで四散し、屋上のゲームも開かれなくなった。「霊感商法」の噂も、幸い立ち切れとなった。カップはいま、この世で最も深い愛情を抱いている本田さんに預けたままになっている。ときどき親戚の結婚式などに持ち込んで、自慢しているようだ。
伊藤廣利教授は、昨年暮れ、鍛金の仕事とは別の公務に多忙ななか、くも膜下出血で突然倒れ、亡くなられた。伊藤先生のお宅で、製作見物の合間にごちそうになった冷や麦の冷たさを思い出す。ご冥福をお祈りしたい。
《制作者、本田成親の証言》
1993年のことだが、私は当時週刊朝日の編集長だった穴吹史士さんの依頼を受け、「怪奇十三面章」というタイトルの連載コラムを執筆していた。悪魔の辞典風、手紙文風、現代歌物語風、科学エッセイ風、動物記風、私小説……と毎回ごとに文体を変えるというなんともアクロバティックな趣向のコラムだったが、凝りすぎたせいもあって編集者も読者もついに目を回し、死刑台の階段数と同じ十三回目の三十一文字風(短歌風)をもって連載は終了となった。そして、その打ち上げ慰労会が築地の朝日新聞社近くのお店でひそやかに行われた。出席者は、編集長の穴吹史士さんと副編集長の山本朋史さんに私の総勢三人だった。
下戸の身ゆえ、本来慰労されるべき自分のほうが慰労する側にまわる変則的な打ち上げ会になるだろうことは推測がついたので、私は二人を喜ばそうと思って制作したばかりの小さな純銀製オチョコを持参した。その燦然と輝く出来立ての銀盃は記念すべき私の初めての鍛金作品で、いまも手元に残っているが、実際にその盃にお酒を注いで飲んだのは、後にも先にも彼ら二人だけだった。
芸術的才能などまるでない私がその小さな盃を作るに至った経緯には、いまでも折々非常勤講師として講義に出向き、足し算や引き算(?)などを教えている上野の芸大が関係している。昔出向いていた大学を去り、フリーのもの書きになって暮らしていたある日のこと、芸大大学院美術教育研究室から講義の依頼が舞い込んできた。芸術などにはおよそ無縁のこの身にいったいなんでと戸惑いはしたが、純粋数学そのものを講義するのではなく、数学や論理学、コンピュータサイエンス、物理学など、数理科学一般の根底にある考え方をなるべくわかりやすく講義してほしいというのが先方の意向だった。院生の芸術的発想や論理的視点の啓発、先々の美術教育などになんらかのかたちで役に立ちさえすれば、講義の内容は問わないということだったので、結局、集中講義を条件にその依頼を受諾した。
昭和天皇の弟君、三笠宮親王なども客員教授として籍を置かれているその研究室に出向くことになった私は、数理科学の領域にとどまらず、身のほど知らずも承知のうえで、教育論、文学論、芸術論のジャンルにまで踏み込み、ここ十年余つたない講義を続けてきた。芸大生の名誉のために付け加えておくと、彼らにはけっして数学的才能がないわけではない。本質的、あるいは、潜在的能力という意味でなら、昔私が関わった大学の学生などよりも優れた人材がいるかもしれない。複雑なデザインや立体的造形表現に取り組む学生などは、無意識のうちに数学的思考を重ねているし、複雑な構造物の原理を直観的に見抜くには数学的才能が欠かせないからだ。
ところで、そんな私の愚にもつかない無責任講義を院生にまじって毎回欠かさず聴講してくださる教授があった。それが同じ研究室の教授で鍛金界の大御所、伊藤廣利教授だったのである。夜遅くまで大学に残り、折々惜しげもなく自腹を切って多くの学生と心の底から交歓し、幾多の人材を世に送り出したこの教授は、金工作家としても日本で三指にはいる大家であったばかりでなく、教育者としても大変にすぐれた人物であった。
そうこうするうちに、私は、埼玉県狭山市鵜の木にあった伊藤教授の工房見学に通うことになり、やがて教授に勧められて実際にに鍛金を教わることになった。絵画でも彫刻でも工芸でもそうだが、優れた作家の工房というものは様々な道具類が雑然と置かれていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。しかし、工房は芸術家が全身全霊をかけ、汗みどろ血みどろになって苦悶苦闘する格闘技のリングのようなものだから、それは当然のことである。伊藤教授の工房が鬼気迫る様相をそなえていたことは言うまでもない。
天皇即位の儀に用いられた御物などを含む数々の第一級芸術品の生み出された工房のど真ん中を占領し、工房主が長年愛用した工具をちゃっかり拝借したうえに、図々しくも鍛金界の大御所を小間使いのようにこき使いながら、手取り足取りしてもらって出来上がったのが問題の盃だったのだ。素材を純銀にしたのはそれが素人にも扱いやすいから、また、初作品を盃にしたのは、盃造りが鍛金の基本だからだった。多少は腕の上がった現在から考えると、なんとも心もとない作品だが、私にとってそれは想い出深い一品だった。
さて、打ち上げ会の席上、その銀の盃で一杯やり終えた穴吹編集長は、急に思い立ったかのように、「これを拡大した形でも構いませんから、朝日新聞社内テニス杯用との大銀杯を造ってもらえませんかねえ?」とのたもうた。駆け出しの三文ライター、いや、百円ライター(?)にとって、一流週刊誌の編集長の声は「神の声」以外の何物でもない。しかも、その大銀杯にはある著名人の名前を冠したいとか、それなりにかかると思われる材料費の調達法については名案があるとか、工賃のほうは私に無料奉仕してほしいとか、はじめから話は相当に具体的だったのである。
とんでもない打ち上げ会になったもんだと銀のオチョコを恨めしげに眺めながら帰宅した私は、とりあえず伊藤教授に電話して事の次第を打ち明けた。すると、教授は、多忙な身にもかかわらず、「私が手伝ってあげますから、技術修練のつもりでチャレンジしてみるとよいでしょう。素材はこちらで準備しますから、カップのおよそのデザインだけは考えてきてください」と、即座に救いの手を差し伸べてくれたのだった。私は、カップの底部の台をひねるとそれが取り外せ、外れた台座を裏返すと別の小銀杯(といっても普通の盃の数倍はある)に早変わりするという、かなり凝った斬新なデザインを考え出したうえで、狭山の工房を訪れた。幸い、伊藤教授からもそのデザインはなかなか面白いとお誉めの言葉を賜った。
厚い純銀の延べ板から大きな円盤や短冊状の銀版を切り取り、それをバーナーで加熱しては各種工具を用いて徐々に叩きのばして狙いの形に近づけていくという、気の遠くなるような作業を私は一夏中続ける羽目になった。経済的にはなんの足しにもならない作業ゆえ、家族からは白い目で見られていたが、それ以上に大変だったのは、長期にわたって仕事場を占領されたうえに、このうえなく手のかかる「不肖の弟子」を抱えてしまった伊藤教授だったろう。芸大の学生相手なら怒鳴り飛ばせばすむところをじっと我慢し、自分の仕事はそちのけで指導しなければならなかったわけだから、そのストレスたるや想像に余りある。
ある程度形が見えてきた段階で制作依頼者の穴吹さんを呼び、進展状況を見てもらおうということになった。駆け出しの社会部記者だった頃、給料のほとんどをつぎ込んで女流の能面師に弟子入りし、かなりの出来栄えの面を彫るまでに腕を上げた(と聞いているが、いまだ実物は見せてもらったことがない)穴吹さんなら、鍛金にも必ずや興味を示してくれるだろうと思ったからだった。工房に現れた穴吹さんは、想像以上に立派な大銀杯が出来あがりつつあるのを目にしてさすがに驚いたらしい。
せっかくだからという訳で、穴吹さんにたしか二十槌か三十槌ほど裏杯の部分を叩いてもらった記憶はある。それ以上続けてもらうと、せっかくの苦労が水の泡になってしまいかねなかったので、そこまでで我慢してもらうことにした。
現実には、大杯と小杯の接合部や特殊な形状の側環の制作、微妙かつ高度な技術を要する特殊な曲面部の打ち出しや最後の表面仕上げなど、どんなに懇切な指導をしてもらったところで、私の手には負えないところも多かった。そういったところをすべて伊藤教授に作ってもらったことは言うまでもない。だから、この大銀杯の制作貢献度を敢えて比率で表わすとすると、<伊藤廣利:本田成親:穴吹史士 = 50:49.99:0.01> くらいの割合になっている。実質的制作者は伊藤成親(?)という実在しない人物ということになるのだろうか……。ともかく、こうして、どこに出しても恥ずかしくない大純銀杯が誕生した。
私は、「不肖の弟子」の自分と「不精の孫弟子(?)」の穴吹さんの名を外から見えない小杯の裏に製作者名として並べて彫ってほしいと伊藤教授にお願いした。鏨(たがね)を使って出来あがった銀杯に銘を彫りこむなどの芸当が我々にできるはずもなかったからだ。私と穴吹さんが各々の名前を紙に書いて渡すと、伊藤教授は見事な鏨さばきでその筆跡通りに銘を刻み込んでくださった。
穴吹さんの要請もあって、完成当時この大銀杯には、ある人物の名を冠した○○杯という杯名を刻んだ銀板が貼ってあった。だが、いろいろと複雑な事情などがあって、その後、杯名銀板はきれいに剥がされ、いまではすっきりした元の形に戻っている。「これはなかなか立派な作品だから、どうでもよい人物の名を直接に彫り込んだりはしないほうがよい」との伊藤教授の忠告を穴吹さんに伝え、急遽銀板貼り付けに変更したのだが、いまとなってみると正解だったように思われてならない。
この大純銀杯の材料費は、特製桐箱なども入れて十余万円にのぼった。当時の伊藤教授の話では、工賃は通常少なくても材料費の二〜三倍はするそうだから、どう安く見積もっても四、五十万円はする。実際には、構造的にもきわめて珍しく、しかも、その銘こそ刻まれてはいないものの伊藤教授の手が五割もはいった作品だから、とてもそんな値段ではすまないだろう。
穴吹さんが書いているように、いまこの大銀杯は拙宅に一時保管されている。教え子の結婚式などのときに、なみなみと酒をついで新郎新婦の面前に飾られ、臨席者の目を驚かせたり楽しませたりしているが、本来の意図とは異なる目的に使われる銀杯のほうは、いささか面食らっているかもしれない。
このときの労働奉仕のお礼というわけでもないのだろうが、それからずっとのちになって、私は穴吹さんから手製の篆刻印象を二個頂戴した。穴吹さんは篆刻の特技をもっていて、常々交流のある人々に独特の味のある印象を彫って贈っている。現在私が愛用している「成親」という印章は、穴吹さんが大スランプで落ち込んでいたときに彫ったものなのだそうだが、何故かこれが当方のスランプ止めには抜群の効力を発揮するから驚きだ。もういっぽうのほうは、未公開のペンネーム用印章だが、こちらのほうもそろそろ活躍してもらうようにしなければと考えている。
なんとも残念なことに、伊藤廣利芸大教授は昨年十二月、通勤途中の電車においてくも膜下出血で倒れ、そのまま意識を回復することもなく他界された。過度な公務によるストレスが原因とも推察されるだけに、私はいまも唯々心残りでならない。「大学を退官したら郷里の四国に戻ってアトリエを構え、心底楽しみながら自然体で素材と向き合い、よい作品を造りたい。その日をいまは大いに心待ちにしているんです」という言葉は、教授の偽らぬ心境であったに違いない。
伊藤教授が急逝なさったとき、穴吹さんはたまたま大きな手術のために入院中だった。だから、私は穴吹さんには、退院が確定するまで伊藤教授の急な他界については一言も話さなかった。幸い、穴吹さんは元気で退院の運びとなったので、その時になってはじめて、伊藤教授の急逝を伝えたようなわけだった。
たとえ作りたいと思っても、このような大銀杯を作ることはもう不可能になってしまった。いまでは貴重このうえない存在となったその大銀杯は、伊藤教授の魂を秘めて、無言のまま私の部屋の一隅で何時くるかわからない出番をじっと待っている。
《制作指導者、故伊藤廣利芸大教授の証言:霊媒は本田成親が代行》
そうですねえ、本田さんが私の工房見学に現れたのはもう十年ほど前のことになりますかねえ。変に好奇心の強い人でしてね、要望を受けて工房見学に招いた私も、まさかあの人が実際に鍛金をやらせてくれと言い出すなんて思ってもいませんでした。あんなことになるくらいだったら、下手にあの人の講義を聴きにいくじゃなかったなあ。
仕方がないから、一番やさしい小さな銀の盃を作らせることにしたんですが、高価な銀をこちらが無償で提供し、さんざん手を煩わされたうえに、子供の粘土細工のような出来そこないの代物が誕生したわけで、いやはや参ってしまいましたよ。そのままでは、あんまり不恰好なので、私が少し手直しをしてあげたんですがね。もっとも、本田さん本人は初めての体験で大いに悦に入っていましたから、その点はよかったと思っていますよ。
でもあの銀の盃が打ち上げ会の席に登場したとは意外だったなあ。週刊朝日の穴吹さんもどういうつもりだったんですかね。まだ鍛金の「タ」の字も知らない本田さんの技術で大銀杯を作れなどと言い出すなんて……。いくらなんでも、本田さんだって相手の依頼が本気か冗談かくらいは区別がつくと思いますから、やはり、話ははじめから相当具体的だったんでしょう。本田さんがとても困っているようでしたから、ともかく手伝ってあげることにしましたよ。私もたまたま夏休みだったので、なんとか時間はとれたんです。
こんな形の大銀杯を作りたいと本田さんが差し出した見取り図を見て、私は内心、こんなものどう逆立ちしたって自力で作れるわけないだろうと思いましたよ。でも、あの斬新なアイディアだけは正直面白いなと感じました。伝統工芸が専門の私ですが、型破りの新しい発想というものはそれなりに大好きなんですよ。
大杯や小杯の受け皿の部分は本田さんが苦労して作りました。いくら銀が柔らかい素材だといっても、あのくらいの厚さになると切るのだって大変なんですし、まして、槌で叩いて徐々に曲面を作りだしていくなんてことは初心者にはけっして容易ではないんです。真夏なのに工房は冷房もきいていませんし、そのうえ火や劇薬類もずいぶんと使いますから、もう汗だくですね。大小の金槌や木槌を絶え間なく振るいつづけるだけでも、かねて使わないあちこちの筋肉を動かしますから、はじめのうち本田さんは身体のあちこちが痛かったんじゃないですか。その意味ではよく頑張りましたね。
正直に言って難しいところがずいぶんとありました。私もかなり苦労したほどですからね。本田さんが工房を使っているときは、どうしても気が散って私のほうも仕事になりませんから、どうせなら全面的に銀杯作りに協力して、一刻も早く物を完成させたほうがよいかと考えるようになりました。本田さんのペースに任せ、技術の向上を待っていたら、二年も三年もかかってしまったかもしれません。
ある人物の名前を冠した文字を銀杯の表側に直接に彫り込みたいという穴吹さんの要望を伝え聞いたとき、そんなことをしたらせっかくの作品の価値が下がるから、別の方法を考えたほうがよいと思いました。完成間際になると、私のほうにもそれなりの思い入れが生じてきていましたからね。結局、細長い純銀板にその人物直筆の文字を刻み、銀板の表面をいぶして、金属接着剤で本体の表面に貼りつけました。のちに、それを剥がすように依頼があったのでそうしたんですが、結果的にはよかったですね。
小杯と大杯裏の本田さんと穴吹さんの銘ですか、まあ、あれはあれでお愛嬌として結構なことじぁありませんか。本田さんがかなりの部分を作ったのは確かだし、穴吹さんはちょっと叩いただけだけど、最初に話を持ち出したのは彼だったわけで、どこまで本気だったかはともかく、その吹っかけがなければあの大銀杯は生まれなかったわけですから。半分ほどは私が手伝ったんですが、さすがに私の銘は入れられませんでした。私はプロですから、いい加減なことはできません。
あの大銀杯、いったいいくらくらいの価値があるかですって?……難しい質問ですねえ。私の目からみれば正直なところいろいろまずいところもありますが、構造とデザイン的にはきわめて珍しいものなので、全体的に評価すればそんなに悪いものではありません。もし売りに出すとすれば、買い手側の評価の問題もありますし、今後様々な状況が重なってプレミアがつくことも考えられますから、なんとも言えませんが、少なくとも、四十万や五十万円どまりということはないんじゃないでしょうか。ただ、制作者のお二人がお二人ですから、あの銘が逆効果となって、一挙に材料費以下の値段に暴落してしまう可能性はありますね。でも、私と本田さんが工賃を無料奉仕したわけだから、その意味では素材費だけですんだ穴吹さんがたは安い買い物をしたとは言えますね。
なにか言い残すことがあるかですって?……そろそろお盆だから一度くらいは墓参りに来るように本田さんと穴吹さんに伝えておいてください。あの大銀杯に上等のお酒を一本全部注いで、墓碑の上からかけてもらえると嬉しいんですがねえ。あっ、そろそろ霊界の工房に帰らなければならない時間です。ではこれで失礼しますね。
「マセマティック放浪記」
1999年8月11日
納涼怪異現象レポート
物事はなるべく冷静に見つめるように心がけているつもりだが、これまでに何度か不可思議な体験をしたことはある。記憶を辿りながら、二、三の体験談を紹介してみたい。
小学五、六年生の頃のこと、雑誌かなにかで、寺田寅彦という物理学者がネットをもって人魂を追いかけ、科学的にそのメカニズムの研究をしようとしたという話を読んだ。そしてその話の内容に刺激され、深夜、墓地周辺などをうろついて人魂のたぐいを捜し歩いたことがあった。その頃は九州の離島に住んでいたが、とても変な少年で、お墓や社寺などの境内を深夜独りで歩いたりしても怖いと感じることはほとんどなかった。
また、南国の島というの風土柄、夜遅く外をほっつき歩いてもとくに誰からもとがめられることがなかったのも、好奇心旺盛な少年にとっては好都合だった。それに、当時の田舎は闇夜の晩などほんとうに真っ暗で、明りがなければ歩けない状態だったから、人工のものではない発光体を追っかけるには条件的に絶好だったといってよい。
実際のところは、人魂のたぐいはそうそう容易に見られるようなものではない。そういったものをほんとうに目撃するには、それなりの努力と忍耐が必要である。火の玉、すなわち火球については、オレンジ色のものと黄色のものをそれぞれ一度ずつ見たことがあるが、冷静に観察すると、なかなかに綺麗なものである。残念なことに、どちらも相当に大きな球状をしていたうえに、高い松の樹上で半ば静止していたこともあって、とても昆虫採集用ネットで捕獲できるような状況ではなかった。
私の知る範囲での数々の目撃談を総合すると、どうやら、火球は樹木の枝などに静止した状態で光っているものと、浮遊しているものとに大別できるようである。無風の晩よりは、むしろ風の強い晴れた日の夜に出現する傾向もあるようだ。目撃者が火球に襲われたり、何らかの危害を被ったという話は聞いたことがない。その意味では、火球はなかなかに紳士的なようである。少なくとも人畜無害であることは間違いない。また、お墓との相関性はあまりないように思われる。個人的な体験からすると、最近一部の物理学者たちによって唱えられているプラズマ説や発光バクテリア説にはうなずけるものがある。
いっぽう、鬼火ないしは人魂と呼ばれるものは、降っていた雨が急に上がって天気が回復し、気温が高めになった晩などに土葬の墓地で見られることが多いので、有機質や土中の各種のバクテリアがかなり関わりをもっているのかも知れない。よく言われる人の遺体や動物の死体の燐が燃えるのだという説は、もっともらしいが、ひとつだけ大きな問題点がある。自然発火するのは有毒な黄燐だが、動物の体内にあるのは無毒な赤燐である。そして、赤燐は簡単には黄燐に変化しない。もし、死体の燐が燃えるという俗説に説得力をもたせるには、土中で赤燐が黄燐に変化するプロセスを明快に説明してやらねばならない。様々な酵素やバクテリア類の働きでそのようなことが起こる可能性がないとはいえないが、そのあたりのことは専門家にお伺いをたてるしかない。面白いことに、ほどよく距離をおいて眺めたほうが、それらしきものの存在を確認しやすい。至近距離まで近づくと、はっきりと見えなくなってしまうことが多い。ただ、いずれにしろ、それらが一種の科学的現象であることだけは間違いないように思われる。
次は大学生のときの体験談である。その頃、東京都江東区の木場の運河沿いの製鉄関係の会社の工場で夜警のアルバイトをしていたことがあった。最後の社員が退社すると、夜の工場長なんぞと自称してささやかな自己満足にひたり、相棒と共にタイムレコーダーを操作して翌朝九時くらいまでの分の巡回記録をあらかじめ捏造し、あとは仮眠室で横になって夢の世界で夜警をやるなんてこともしばしばだった。当時の旧式のタイムレコーダーは、ちょっとした機械的知識さえあれば時刻の調整を思いのままにおこなうことが可能だったからだ。
大型の鋼材を用途に応じて切断するのを主な業務としていたこの工場には、重く大きな鉄材や巨大な切断機がいたるところに配置されていた。こんなところに盗みにはいろうとする泥棒は大型トラックかなんかに乗って重装備で押し込んでくるしかないわけで、そんな連中をまともに相手にしていたら幾つ命があっても足りるはずがない。万一、そんな事態になったりしたら、当然、トンズラするのが一番利口な身の処し方だと思われたから、「寝警」は論理的には正しい選択ではあった。
金庫もあるにはあったけれど、一見しただけでたいした現金なんぞはいってないのは明かだったから、どんなにドジな泥チャンだってそんなところはまず狙いはしなかったろう。そもそも、その金庫に大金なんぞが納まっていたとすれば、悪知恵にたけた貧乏学生のアルバイト夜警などに管理を任せたりはしなかったろう。ついでに述べておくと、この時代の「寝警」の仲間がいまでは政府の高官や大企業の幹部になったりしているから、日本の社会が良くなる見込みはほとんどない。
さて、そんなことを続けていたある晩のこと、居残っていた一人の工員が、ひどく酔っていたことなどもあって、急な鉄製の階段を踏み外し、異様な物音とともに頭から転落、頚を折り程なく死亡するという悲惨な事故が発生した。何事かと驚いて現場に直行した我々は、ただならぬ事態と知ってすぐに救急車を呼んだが既に手遅れだった。
それから二・三日後の真夜中のこと、その階段の近くにある仮眠室のベッドで仮眠中に妙な気配を感じてふと目を覚ますと、なんと目の前の空中に亡くなったその人の顔が浮かんで見えるではないか! これは夢だ、夢に違いないと自らに言い聞かせようとしたが、自分の意識は冴えわたっていて、どうみても夢という感じではない。できるかぎり心を冷静にして、これは幻覚なんだ、先日のショックが大きかったので一種の心理的幻影を見ているんだ、落ちつけ落ちつけと自分自身に呟きかけた。そして、子供の頃面白半分でまる暗記した例の般若心経を心中で唱えて気持ちをしずめていると、しばらくして宙に浮かんだその顔は霧のように消え去っていった。幸いそのあとは特に何も起こらなかった。
私自身は、いまでも、あれは心因性の幻覚だったに相違ないと考えているが、それを幽霊だと解してしまえば、間違いなく幽霊は存在するということにもなろう。このような現象をどのように解釈するかについては、人それぞれの立場で意見が異なるのであろうが、たとえ幻覚であっても、あそこまではっきりと怪異な影をまのあたりにすると、幽霊の存在を固く信じる人がでてきても不思議ではないと思われてくる。
いまひとつ、こんな体験をしたこともあった。若い頃、私はよく独りで夜間登山などを楽しんでいた。ある晩秋の夜十一時過ぎ頃、埼玉県秩父の三峰口に最終電車で到着し、そのあとすぐ懐中電灯を片手に雲取山への登山道を辿りはじめたことがあった。その晩は三峰口からのコースをとって雲取山へと向かう登山者はほとんどなく、一組のアベックと五十過ぎの中年の男性と私の合計四人だけだった。歩き始めて程なく、若いアベックの男女はしばらく仮眠してから登るということで近くの小屋に入り、また、中年の男性のほうは大変ゆっくりしたペースだったので、結局、私だけが独りで先に夜道を急ぐことになった。
無人の白石小屋を過ぎ、標高千三・四百メートルの地点に差し掛かったときである。そこは、左側が急斜面、右側が深い樹林帯になっているところなのだが、不意にどこからともなく笑いをふくんだ若い女の甲高い声が断続的に聞こえて来た。誰か近くにいるのだろうかと思い、懐中電灯であたりを照らして見たが、人影らしいものはどこにも見あたらない。少し歩速をあげてみたが、前方に登山者がいる様子もなかったし、地形上その周辺はテントを張って野営できるような場所でもなかった。登山歴も長く足には相当に自信があったので、あとから女性の登山者が追いついてきたなどということはとても考えられなかったが、一応足を止めて待ってもみた。だが、やはり誰もやってくる気配はなかった。
そうしている間にも、その得体の知れぬ声だけは聞こえてきた。風の音や動物のたてる物音とは明らかに違っている。懸命に耳を澄ましてみるけれども、何を言ってるのかはわからないし、どちらから聞こえてくるのかもいまひとつはっきりしない。幻聴ということもあるかと思い、何度も何度も確かめてみるのだが、やはり人の声のように思われた。そこで、あらためて足を速め、半ば駆け登るようにして道を急いでみたのだがやはり誰も見あたらなかった。雲取小屋に着いてすぐ、小屋番の人に先に登ってきた人があったかどうか尋ねてもみたが、誰もいないとのことだった。結局、原因はわからず仕舞いだったが、それは実に奇妙な体験であった。
山での不思議な体験といえば、ほかにこんなこともあった。ある風の強い晴れた晩のこと、木曽の御岳山に登っている最中に、地獄谷の一帯が青白い燐光を発して不気味に輝いているのを見たことがある。これなどはある種の科学的現象に違いないとは思うのだが、その現象に説明をつけるとなると難しい。
よく放浪の旅などにでかけ、変な時刻に思わぬ場所を通ったりしたとき、たまにだが、一種の霊気とでも呼んでいいようなものに遭遇することがある。そんなときには例の般若心経などを唱えて心を落ちつけたりもするわけだが、だからといって意識的に幽霊の名所と噂されるようなところを訪ねても、それらしきものに対面できることは滅多にない。夜遅く月明かりを頼りに下北半島の恐山一帯などを歩いてみたりしたものだが、霊気といったようなものを感じることはとくになかったように記憶している。
怖いという意味でなら下手なお化けなどよりも人間の不可解な行動のほうがはるかに怖い。たまたま旅程が大幅に狂い、真夜中に四国二十四番札所、最御崎寺を訪ねることになってしまったときの体験は、いまでも忘れることができない。
もうずいぶん昔の話になるが、その晩、最御崎寺(ほつみさきじ)の裏手にある駐車場に着いたのは、午前一時過ぎだった。いわゆる丑の刻のことである。車を駐めてさりげなくあたりの様子を窺ってみたが、さすがに人影らしいものはまったく見あたらなかった。
望月を少し過ぎたばかりの月の夜のことだったが、南から北へと激しく動く風に煽られながら、夜空を急ぐ群雲によって、月影はほとんど覆い隠されていた。ただ、時折、雲の裂け目からこぼれ落ちる月の光には、妖しいまでに冴えた輝きが秘められていた。突然あたりが異様に明るなったかと思うと、すぐにまた闇が戻るという、そのいささか凄味を帯びた情景は、あとになって考えてみるとなんとも暗示的なものではあった。
五月も下旬にかかろうかという時節にくわえて、南国土佐のことでもあったから、夜風はむしろ心地よいくらいで、寒いという感じはまったくなかった。私の耳元を吹き抜けていく風に乗ってかすかな潮の香りと潮鳴りの響きとが伝わってくるのは、この最御崎寺が室戸岬のほぼ先端の高台に位置しているからだった。そもそも、「最御崎寺」とは、「岬の最先端にあるお寺」という意味なのである。
駐車場で一休みしたあと、私は最御崎寺の境内を散策してみることにした。子どもの頃からの習性で深夜に独り淋しい場所を歩きまわることに慣れている私には、恐怖感はまったくなかった。
最御崎寺の塀ぞいの道を山門側に向かって私がゆっくりと歩き始めたとくき、月影はちょうど大きく厚い黒雲の陰に隠れてしまっていた。夜間のことゆえ十分には確認できなかったけれども、一帯はアコウやタブ、蔦類などの黒々とした亜熱帯性樹林で覆われており、さすが黒潮洗う四国南端の岬だけのことあるという感じだった。
その直後のこと、突如、サーッと辺り一帯が明るくなったかと思うと、青白い月光が、左手前方に延びるのお寺の塀を不気味に照らしだした。そのほうに視線を送った次の瞬間、私は柄にもなく思わず身をこわばらせた。前方の塀ぞいに、髪を垂らした若い女の影のようなものがくっきりと浮かんで見えたからである。いささかたじろぎながらも、これは幻覚なんだ、幻覚なんだと、私は自らに言い聞かせた。夜間、淋しいところを一人で旅しているときなどにこの種の経験を何度かしたことのあるおかげで、ほとんどの場合は自分の錯覚や幻覚であることをわきまえていたからだった。
その黒い影だけはどう見てもうつむいた若い女性の姿に見えたのだが、心を落ち着け、すぐそばまで近づいてみると、やっぱりそれは月の光のいたずらであることが判明した。樹木の枝葉の微妙な陰影と青白い月光が織りなす偶然の幻影だったのだ。その幻影を生み出すもととなった樹木の前を通り抜けかかったときには、月影は再び雲に包まれ、辺りには闇が戻ったが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざを地でいくような事のなりゆきに、かえって意を強くした私は、手にした懐中電灯の光を誇らしげに揺らしながら最御崎寺の山門のほうへと急いだのだった。
私が最御崎寺の山門に立ったとき、時計の針はちょうど午前一時半を指すところだった。その山門は、門とはいってもべつに扉があるわけでもなく、いつでも自由に出入りできるようになっていた。お寺の周りは深い亜熱帯種の樹林で囲まれているうえに、月の光はまた厚い雲に閉ざされていたから、境内の闇は相当に深かった。境内を取り巻く樹木にさえぎられてか、風の動きはまったく感じられず、少々大袈裟な言い方をすれば、暗く淀んだ大気そのものが、じっと息をひそめて私の一挙一動を窺っているかのようだった。
緊張をほぐすために大きく息を吐きながら、お堂の前へと続く参道を七・八歩踏み進んだときのことである。前方の闇の中で、何か赤い小さなものがちらちらと揺れて動いているのに気づいた私は、反射的にその場に立ち止まった。そして、不意に目に飛び込んできたその奇妙なものの正体を見極めようと、全神経を研ぎ澄まして前方をじっと睨みすえた。
私の背筋を鋭く冷たい氷の針が突き抜けたのはその次の瞬間だった。首筋から爪先にかけて身震いするような戦慄が走ったかと思うと、私の身体の全神経は瞬時にして凍りついてしまった。それは、私が生まれて初めて味わう、本物の恐怖といってもよかった。文字通り全身が硬直し、いつもなら自らを冷静になだめ励ます言葉も心の奥で凍りついてしまう有様だった。
闇の奥に赤く揺れ浮かんで見えたものは、お堂のすぐ手前の石段の上あたりで不気味に揺らめく一本の蝋燭の炎だったのだ。そんな時刻に、いったい誰が何のために置いていったものなのだろう。むろん、あたりに人影はまったく見あたらなかった。でも、誰かが、何かしらの目的で少し前までそこにいて、その不自然な場所に一本の蝋燭を灯し置いたことだけはまぎれもない事実だった。私は、自分が何か得体の知れないものにじっと見つめられているような気がしてならなかった。私が近づく気配を察した誰かが、境内の闇の中に身を隠し、密かにこちらの様子を窺っていることだって十分にある得ることだった。
このときばかりは、さすがに、その場からすぐさま逃げだしたい気分だった。ただ、幸いというか、それでも、しばらくすると、わずかながらも正常な思考が働きはじめてきたので、私は大きく呼吸を整えながら、極力、自分の心が冷静になるようにと努めてみた。真似事程度の武術の心得があったのも、いざというときの備えとして多少は役立った。
その謎めいた蝋燭の炎はかすかに揺れながらも依然として不気味に燃え続けていた。どうみても、それは幻覚などではなかった。毒を食らわば皿までもというか、どうせなら、こちらからあの蝋燭のそばまで近づいてみようかと開き直った私は、眼前の蝋燭の炎に惹き寄せられるように、じわじわとお堂の前の石段へと近づいていった。
その蝋燭は石段のなかほどに立てられていた。少々の風には耐えられるようにとの意図からだろうか、それはかなり太めの蝋燭で、その燃え具合いから察すると、もう一時間近くは燃え続けていたのではなかろうかと思われた。なんとも不思議な話だが、私が境内にやってくる前に、誰かが、何かの目的でその蝋燭を立てたことだけは疑う余地のないことだった。
もしかしたら、闇の奥から、二つの目が私の一挙一動をじっと見つめ続けていたのかもしれないが、幸いそれ以上は何も変わったことは起こらなかった。境内から引き揚げるタイミングを測っていた私は、再び月影が雲間に現れ、周辺が明るくなったのを見届けると、なおも燃え続ける蝋燭をあとに残したまま最御崎寺の境内を立ち去った。
車に戻ったあとも蝋燭のことは気になったが、その奇妙な行為の主の正体も、その人物が意図するところも最後までわからなかった。当事者にすれば、そんな時刻に私のような人間が最御崎寺を訪れるなんて予想だにしていなかったろうし、たとえあの場のどこかに身を潜めていたとしても、こちらに危害を加えるつもりなど毛頭なかったのだろう。しかし、なんらかの怨念や執念に憑かれた人間の行為ほど不可解で怖いものはないと、その夜のことを振り返りながら、つくづく思う次第である。
もちろん、見方によっては、誰かの手の込んだ悪戯だったということもまったく考えられなくはない話ではあるのだけれども……。
「マセマティック放浪記」
1999年8月18日
故事「蛍雪の功」の真偽のほどは?
私がまだ南の島の小学校に通っていた頃の話である。小柄だが見るからに精悍そうな担任教師は、ここぞとばかりに、いちだんと語気を強めながら、その日の授業を締め括った。
「二宮金次郎は、貧乏でランプの油をば買いがならんかった。そいやっで、晩にゃ、蛍の光や雪明りばつこうて一生懸命勉強ばして偉うなったとや。蛍雪の功という言葉は、その……故事ちゅうか、そんな昔の有名なエピソードがもとになっちょる。小学生だからちゅうて、おまえらも甘えてばっかりおらんで、ちゃんと勉強せんにゃいかん。勉強なんちゅうもんは、その気になれば、どげんしてでもできるもんや!」
いまにして思えば、それは、古い中国の故事とずっとのちの二宮金次郎の伝説とをごちゃ混ぜにした、かなりいい加減な内容の訓話だった。だが、そんなことなど知るよしもない片田舎の小学生にしてみれば、その名調子の弁舌のもつ迫力と説得力はなかなかのものだった。
その晩のこと、即席ラーメンならぬ「即席金次郎」に早変わりした私は、呆れる家の者を尻目に、ガラスの小瓶を腰に下げ、片手に竹箒を携えて、近くの小川のほとりまで意気揚々と蛍狩りに出撃することになったのだった。人里から少し離れたところにあった川蜷の棲む幾筋もの清流は、知る人ぞ知る蛍の宝庫で、折しも時節も文月とあって、即席金次郎の目算には露ほどの狂いもなかった。当時の暮しむきはけっして楽ではなかったが、いくらなんでも薄暗い裸電球のひとつやふたつはあったから、蛍雪の功の故事にならう必要があったわけではけっしてない。そもそも素直にそんな教えに心酔し、苦労を惜しまず勉学を積んできたくらいなら、今頃もっと結構な身分になっていたはずで、こうして世をすねたような戯事なんかを綴ったりはしていないだろう。冗談みたいな話だが、それはひとえに、少年期特有の旺盛な好奇心のなせる業だったと言ってよい。
まるで、あの世の金次郎の執念が乗り移ったみたいな竹箒に追い回されたのでは、さしもの源氏蛍もたまったものではない。ほどなく、小瓶の中は、御用となった十数個の青白い光の粒でいっぱいになった。蛍にすれば迷惑千万な話で、物好きな小学生の心を煽りたてたくだんの教師がさぞかし恨しかったことだろう。
夜の小川のあちこちで一・二時間ほど大活劇を演じた私は、頃合いは良しとばかりに家に駆け戻り、さっそく実験にとりかっかた。昔はガラス瓶など珍しすぎて庶民の手には入らなかったろうとの想いから、和紙張りの古い小型の角行燈を持出してきて、空気穴を塞いだあと、その中に捕らえた蛍を放ってみた。
実験結果は予想に反してはなはだ不本意なものだった。あまりに不当な拘留ぶりに抵抗の意志をむきだしにした蛍どもは、人間様の浅知恵をあざ笑い茶化すがごとく、行燈の中をむやみやたらに這いまわり、支離滅裂で不規則な光の言葉をピーカピカ……こちらと思えばまたあちら、五条の橋の欄干で弁慶相手に名を馳せた牛若丸も目を回し卒倒しそうな忙しさ!…… 光度の弱さもあいまって、小さく細い活字など到底読めたものでなく、あえて読書を続けたら翌日の夜明けを待たずに錯乱し、寝込んでしまっていたことだろう。
くわえてまた、そのとき手にした本が本……四書五経などという高尚かつ深遠な書物にはほど遠い、江戸川乱歩の探偵小説「黄金仮面」だったから、蛍どもが攪乱戦術にでたというのもまんざらうなずけぬ訳ではない。世の崇高な目的のために犠牲を強いられるというのならまだしも、片田舎のハナたれ小僧が探偵小説を読むのに身を献げるなんて、とても我慢できないと、彼らはヘソを曲げたのだろう。
だが、話はまだ終わらない。そのとき、突然、即席金次郎は、その実験に重大な不備があることに気がついた。昔の書物の文字は、現代の活字に較べてずっと大きかったということをすっかり忘れていたのである。そこで、にわか金次郎は、すぐ仏壇の前に飛んで行き、古い木版刷りの観無量寿経と阿弥陀経和讃本を抱え込んで戻ってきた。また、そのいっぽうで、薄手の和紙で程良い小さな袋をつくり、「にっくきやつらよ、思い知ったか!」とばかりに蛍どもをその中に押し込んで、崇高な目的遂行のために有無を言わさず忍従を強要した。そして、その涙ぐましい努力と工夫の甲斐あって、経文のいかめしい文字がなんとか読めた……否、「見えた」のである!
これで一件無事落着、「蛍雪の功」の美談は必ずしも嘘ではなかったのだと私が納得したかというと、そうではない。幼いなりの思案の末に達した結論は、こともあろうに、蛍の故事が実話だとすれば、その人は伝説とは異なり相当な閑人だったに違いないというものだった。
蛍というものはか弱い昆虫で、狭い虫籠の中などでは捕えて数時間もしないうちに衰弱して光を失ってしまう。大切にして飼うにしても短命だし、だいいち、その手間隙だけでも容易なことではない。世の蛍が人間様の勝手な思惑にそれほど協力的であるわけはないから、夜水辺に出て相応の数の蛍狩りをするだけでも一・二時間は吹っ飛んでしまう。寸暇を惜んだ勤労勤学の人が、いくらなんでも毎晩川辺に出て、「蛍ヤーイ!」でもなかったろう。むろん、一度や二度なら十分にあり得た話だろうが、蛍の季節が短いことをも合わせ考えてみると、とても現実的な話だとは思われなかった。
南国ではめったに雪が降らないため、雪明かりのほうについては、残念ながら、具体的に確認することはできなかった。ただ、大人になってから、雪山で夜を過ごしたり、夕暮れ時に雪の深い地方を訪ね歩いたりした経験からすると、こちらのほうが、蛍よりはずっと現実味があるように思われる。雪は一度積もると容易には消えないからいつでも利用可能だし、雪明りというものには確かにそれなりのあかるさはあるからだ。ただ、雪明りは、蛍と違ってあくまで反射光であるから、焚火や近隣のランプの明り、月光など、なんらかの光源が必要になる。なんの光源もない真っ暗な場所で雪明りを利用して書物を読むことなどは、むろん出来るはずがない。
翌日、クラスメイトの何人かに事の次第を話したところ、そのうちのおせっかいな一人が、授業中いきなり、くだんの教師に向かって、
「先生、昨日の蛍雪の功の話のことやいもすばってか、ゆうべ、本田が、なんか、川でなまな(たくさん)蛍ば捕って……」と、やりだしたからたまらない。不意打ちを喰った教師のほうは、珍妙なうなり声を発し、怪奇面妖な形相を見せながら絶句した。想い出すたびに申し訳ないことをしたと、いまも、いたく反省はしているのだが……。
「蛍雪の功」の故事は中国の晋書中の車胤伝・孫康伝に見られるもので、かつての師には申し訳ないが、銅像に見るあの薪を背負った二宮金次郎がその逸話の主であるわけではない。もしかしたら、車胤伝や孫康伝を読んだ金次郎が、自らも蛍雪の功の故事にならおうとしたことはあったのかもしれない。また、彼が説いた勤労勤学の精神や刻苦勉励の教えそのものは、誰にとってもそれなりに大切なことである。だが、蛍雪の功の故事と二宮金次郎とは直接には関係ない。
蛍や雪にまつわる問題の故事は、いかに厳しい生活環境下でも勉学は可能だということを説くための象徴的なたとえ話だったと思われ、その意味では、実際に蛍の光や雪明りで読書がなされたか否かはさして重要なことではないだろう。だが、そんなたとえ話が、いつのまにやらある種のリアリティをもって勝手に歩きはじめ、現実離れした「お題目」となって、そこかしこで猛威をふるうとなると話は別である。このような事例は昔も今も少なくなく、そこに教条主義というものの怖さがあると言ってよい。愚かに見えるかもしれないが、実証的態度は、そんな教条主義的理論の限度を超えた横行を戒める力をもつし、それがもとで意外な発見や新たな状況の打開につながることも少なくない。
しかしながら、具体的な検証ばかりが極端に先行すると、外界の多様な事象の認識のしかたに統一性がなくなって収拾がつかなくなる。そんなとき、不安定かつ混沌とした状況に統一と調和をもたらし、社会のとるべき方向を示唆してくれるのが、理論であり理念であるものもまた事実だ。その意味では、実話かどうかに関わりなく、蛍雪の功のような、よくできた故事の存在もそれなりには必要となってくる。
ごくありふれた帰結になってしまうのだが、要するに二つのもは表裏一体で、両者の睦まじい二人三脚による助け合い的発展こそが望ましいということになる。片方だけの暴走は、結局のところ破滅につながるばかりである。
それにしても、労をいとわぬ昔の旺盛な探求心はいったい何処へ消え失せてしまったのだろう。蛍の季節や雪の季節がやってくるごとに、幼い日々のことを想い出しては、ともすると感性も好奇心も鈍りがちなこの身を引き締めてはいるが、なかなか思うにまかせないのが実情だ。もしかしたら、いまこそ、私には、あのときの担任教師の言葉みたいに、実証精神や探究心を強く奮い立たせてくれるような何かが必要なのかもしれない。
もっとも、昨今の与党議員先生がたの「学級崩壊や少年犯罪の増加などの問題解決のため、日の丸・君が代をはじめとする愛国心教育が必要である」といったような、日の丸、君が代の是非を云々する以前のお粗末きわまりない議論を耳にしたりすると、理論も検証もどうでもよくなり、唯々こんなレベルの先生がたが政治の舵取りをしている国に住んでいること自体恥ずかしい気がしてしまう。したり顔でこういった発言をなさる先生がたは、ほんとうにこの国を愛しておられるのであろうか。日本という国を愛しているつもりの一市民としてついつい反問もしたくなってくるというものだ。
手が悪いのは、基礎論理学や修辞学(レトリック)を一定レベル身につけたある種のプロの手にかかると、「犬は犬である」というトートロジイ(同語反復、主語と述語が同じ概念の命題)的できわめて自明な論理命題の証明より、「犬は猫である」という常識を逸脱した命題の証明(?)のほがもっともらしく聞こえることだろう。それらの証明プロセスを考えてみても、後者のほうがより興味深いに違いない。
ある論理命題を立証するとは、「人間がすでに持ち合わせている概念や基本命題のなかから、なるべくやさしく、誰でも自然かつ直観的に受け入れるこのとできるようなものを選び出し、それらを組み合わせて目的とするより高度な命題の正当性を説明する」ことである。だから、あまりにも自明な命題を証明することは実はたいへん難しい。「犬は猫である」ことを立証して見せることのほうが、状況によってははるかにやさしく、その論理の展開を目にする側にもずっと魅力的にうつるのだ。
なんなら実際にここでその証明の一端を披露してみてもよいのだが、ここは論理学のコーナーではないし、ちょっと深入りすると、原稿の量もたちまち本一冊分にもなってしまいかねないから、今日のところはこのへんで筆をおさめることにしたい。
「マセマティック放浪記」
1999年8月25日
子猫の開いた小窓から
生まれたばかりの樹々の緑が爽やかな風に眩しく光って搖れていた四月下旬のことである。ミーミーという産後間もない子猫の鳴き声らしいものがどこからか聞こえてくると、とつぜん家人が言い出した。まさか我家のノラあがりの雄猫チータローが飼い主に無断で性転換の手術を受けていたわけでもあるまいし、「そんな馬鹿な?」とはじめは半信半疑だったのだが、「ミーミー」がいつの間にか、「ミギャー!・フギャー!」の絶叫に変わる騒ぎに及んでは、さすがにその存在を認めないわけにはいかなくなった。
これはというので調べてみると、ことはすでに容易ならぬ事態へとたちいたってしまっていた。隣家の屋根伝いにやってきた雌のノラ猫が、我家の軒先の雨樋のつけねに生じたわずかな隙間から一階の天井と二階の床にはさまれた狭い空間に侵入し、どこかに子どもを産んでしまったものらしい。しかも、運悪く隣家の屋根の補修作業が始まったために親猫のアプローチ・ルートが断たれてしまい、生まれたての子猫だけが孤立無援の状態に置かれているらしかった。その証拠に、鳴き声はある時点をピークにして弱まっていっている。「ミギャー!・フギャー!」は子猫にすれば命を賭けた叫び声なのだった。
鳴き声のする場所がどうやら二階に通じる階段上部の裏側付近らしいと判明したのは、かなり時間がたってからのことである。場所が場所だけに他に救出手段はないと判断した私は、階段の垂直面に四角い穴を切り開けることにしたのだが、猫のいる正確な位置がつかめぬため、四段にわたって鋸をふるうはめになった。
中から現れたのはまだ眼に薄膜のかかった生後一週間ほどの三毛とキジトラの二匹の子猫で、三毛のほうは取り出したとたんに「ミギャー!」の連発をはじめたがキジトラのほうは体が冷えきってしまっていて、「ニーニー」とかすかな声で鳴くのがやっとのようだった。愛らしいその顔つきや尻尾のかたちをよく見るとチータローそっくりだ。家の猫が共犯者とあってはもはや責任は免れ得ない。ペットショップに子猫専用の哺乳瓶とミルクを買いに走るやら保温器具をさがすやら、たちまち家中が大騒ぎになった。四個の穴は板で塞いでみたものの、パッチワークの失敗作みたいで惨状もはなはだしい。そこで一計を案じ、手元にあった鳥獣戯画や源氏絵巻の絵葉書などを継ぎ板が隠れるように貼り付けると、思いのほか洒落た感じの階段ギャラリーができあがった。
すっかり衰弱していたニーニーのほうは必死の介抱もむなしく翌朝眠るようにして息を引き取ったが、三毛のミギャーは本能的に前足を交互に動かす搾乳ポーズをとりながらミルクをよく飲み、二日ほどすると毛艶もかなりよくなった。だが、生後三週間までの子猫には昼夜を問わぬ二時間おきの哺乳と微妙な体温の維持調整が不可欠で、排尿排便も自力ではままならず、通常は親猫が舌で局部に刺激を与えてやってはじめてそれが可能となる。
親猫にかわってそれらすべてを人間がやるなど並の覚悟では無理なのだが、悲しいかな、そのへんの事情に我々はまるでうとかった。ミギャーの必死の訴えと、よかれと思う我々の懸命の介護とは皮肉なまでのすれ違いを演じるところとなったのだった。突然ミルクを受けつけなくなった原因が体温調整の失敗による嗅覚機能の低下にあると気づくまえにミギャーは体力を消耗し、里親を頼みに知人宅の雌猫のもとに駆け込んだときには、もう自力で乳を吸う力もなくしてしまっていた。その雌猫の慈愛深い必死の介抱にもかかわらずミギャーはどんどん衰弱し、その場でついに息絶えた。
深い痛みにさいなまれつつも、私は久々に開いた小窓から感性をとぎすまして世界の奥底をのぞいていた。言葉と言葉が、そして意思と意思とがすれ違い、結局は失うことによってしか学ぶことのできないこの世の縮図を見つめていた。失ってはじめて小窓が開くんだよ・・・恋はもちろん、魚の味さえも知らずに逝ったミギャーの声が聞こえてくる思いだった。そのせいか、おりしも過ぎ行く選挙カーの連呼の声がいつもよりいっそう虚しく聞こえもした。
翌日、庭の片隅にあるニーニーの墓の横にミギャーの墓を並べてつくった。ところがその数日後、こともあろうに、我が子の墓を踏み越えてガールハントに出陣するチイタローの姿が目撃された。「花も嵐も踏み越えて……」どころか、これではまるで、「墓も子どもも踏み越えて、行くは男の生きる道……」ではないか! 私はしばしあっけにとられてその様子を眺めていた。かくしてまた、これら懲りない面々の手によって、「愛」と「哀」との歴史は明日も繰り返される。
「マセマティック放浪記」
1999年9月1日
奥の脇道放浪記(1)
良寛の心を訪ねて
絵・渡辺 淳
良寛の心を訪ねて――越後長岡から出雲崎へ
のんびりとした気分でワゴン車のハンドルを握り、早朝、東京府中を立った私は、一般国道をゆっくりと走り継いで群馬と新潟県境にある三国峠を越えた。より正確な言い方をすれば、三国トンネルを抜けた。「国境のトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という、かの文豪の言葉にあやかりたいところだったが、五月も末のこととあってさしもの深い雪も消え、付近は一面輝くような緑の若葉に覆い尽くされていた。
もっとも、雪はないといってもそれは国道周辺のことで、苗場山や谷川岳などの山々はまだたっぷりと残雪を戴き、陽光を浴びてまばゆく輝いていた。この冬、裏日本一帯は久々の豪雪に見舞われたから、例年に比べて初夏の訪れが二、三週間ほどは遅れている感じだった。
時間調整と休憩をかねて、苗場と湯沢のなかほどにある二居道路ステーションに立ち寄ると、すぐそばの急な岩肌の斜面からこんこんと清水が湧き出ているのが目にとまった。試しに一口飲んでみると、これが実にうまい。学生時代以来の山旅を通して名水と呼ばれるものはずいぶんと口にしてきたので、水の味だけは相応にわかるつもりだが、そんな私の経験からしてもここの清水はなかなかのものだった。関越自動車道、清水トンネル入り口手前の谷川岳パーキングエリアの湧き水も巷に名高いが、この水のうまさはそれ以上のものに思われた。
長旅に水は必需品である。私は、車から「六甲の水」と表示された空の二リットル用ペットボトル五本を取り出すと、それらに水を詰め込んだ。味とこくでは本物に少しも劣らない「偽六甲の水」の誕生である。あまりの冷たさにしびれる指先をこすり温めながら、「二百本ほどペットボトルがあればちょっとした商売ができるかもしれないな」などと妙な想像をしたりもした。
信濃川の支流、魚野川にそってのびる国道十七号を越後平野に向かってくだり、北陸本線の長岡駅に到着したのは午後一時半だった。一昔前、国中に名を馳せた辣腕政治家のお膝元だけのことはあって、駅ビルやその周辺の建物、道路などは十分に整備が行き届いている。駅近くの路上に車をとめた私は、雷鳥四十四号に乗って一時五十七分に長岡に到着するはずの旅の相棒を迎えるべく、中央改札口へと歩を進めた。パンパンにふくれた大きな皮袋を肩にして、青い丸つば帽子に青シャツ、ジーンズ姿の日焼けした人物が改札口にその大柄な姿を見せたのはそれから間もなくのことである。眼鏡の奥の大きな瞳が笑みをたたえてキラリと光った。長年にわたり水上文学作品の挿絵や装丁を担当してこられたことでも知られる著名な画家で、若狭大飯町川上在住の渡辺淳さんの登場だった。
若州一滴文庫で渡辺淳さんと劇的な出逢いをしてからもう八年近くたつ。その間に何度か、二人だけで気ままな旅をしようという話が持ち上がったりはした。これまでも二、三日の短い旅には、何度か一緒にでかけたことはあるのだが、一週間を超える長旅ともなると、双方の時間の調整をつけるのがなかなかに難しく、思い通りには計画を進めることができないでいた。そこで、今年こそは長年の夢を現実のものにしようと、新年早々に淳さんと電話で相談し、五月末から六月初旬の十日間ほどをあらかじめ旅のためにあけておこうということになったのだ。そして、いまようやく、二人の念願がかなおうとしているような訳だった。

暑く感じるほどの日差しのなか、淳さんを駐めてあった車のところまで案内すると、すぐさま出発の準備にとりかかった。我々は、この旅をするにあったて、三つだけ大まかなガイドラインを設けておくことにした。第一は旅費をできるかぎり安上がりにすませること、第二はその時々の成り行きに任せて行く先やルートを選び定めること、そして第三ガイドラインは日常的な二十四時間単位の行動パターンを放棄してしまうことである。その日その日のおおよその旅の方向を決めるのは、とりあえず、運転手の私に一任されることになった。
出発してほどなく、まずは日本海沿いの道に出てみようかということになり、信濃川にかかる与板橋を渡って中之島町から与板町へと向かうことにした。雪融け水を満々と湛えた信濃川の雄姿とその迫力はさすがである。たちまち頭をもたげる道草癖を抑え切れなくなった我々は、与板橋を渡り終えるとすぐに河原へとくだる道を探し、橋の真下へと降りて車を駐めた。初夏の日差しを浴びて河原の草木が一斉に放つ緑の生気と、時間の雫を数限りなくあつめて流れる信濃川の水面の輝きには、唯々圧倒されるばかりである。さっそくスケッチをはじめた淳さんのかたわらで、私のほうは悠然と流れる大河に見惚れながら旅のメモでもとることにした。もしもこれが気ままな放浪の旅でなかったら、観光のポイントなどとはまるで無縁のこんな場所を訪れ、のんびりと想いにひたることなど絶対にないだろう。
さて、それはいいのだが、長岡を出発してまだ三十分も経たぬというのにこんな道草をしているとなると、いったい今日はどこまでいけるやら――。どんなところで寝るのも平気な我々二人のことゆえ、今夜はこの橋の下で野宿でもといったようなことになりかねなくもなかったが、いくらなんでもそれにはまだ日が高過ぎた。お日様にもうすこしはくらいは先へと叱咤された我々は、かつて良寛がいくたびも往来したという塩之入峠を越えて和島村に入り、たまたま目にとまった案内板に誘われるままに、隆泉寺木村家墓地内の良寛の墓を訪ねてみることにした。
良寛は、安永四年、十八歳で尼瀬光照寺にいり、二十二歳のときにたまたま来越した国仙和尚に随行して備中玉島円通寺に赴き、そこで修行を積むことになる。大愚良寛と称するようになったのはこの頃からのようである。三十八歳になって越後へ戻った良寛は、赤貧に甘んじながら出雲崎や国上山麓一帯を転々とし、一所不定、現代風にいうなら、「住所不定、無職」同然の生活を続け、五十近くになってようやく、国上山五合庵に定住した。そして、そのほぼ十年後には国上山麓の乙子祠脇の草庵に移り住み、六十九歳以降は、島崎村能登屋、木村元右エ門邸に寓居する。当時まだ三十歳の若さだった美貌の貞心尼がはじめて良寛を訪ねてきたのはその一年後、良寛七十歳のときのことであった。
長岡藩士の娘として生まれた彼女は、生みの親とは幼くして死別、成長してからも、その並みはずれた美貌と才気が逆に災いし、浮世の辛酸をなめつくすことになる。やがて、柏崎近くの浄土宗閻王寺に駆け込むかたちで尼となり、修行を積んで貞心尼と名乗るようになった。良寛を訪ねてきた当時、貞心尼は長岡在福島の閻魔堂に独りで住んでいたという。それからわずか四年足らず時間のなかでおこなわれた、良寛と貞心尼との心の絆の深め合いについては、既に広く世に語られている通りである。
良寛が貞心尼に別れを告げ、静かに天上界へと旅立っていったのは、天保二年(一八三一年)新春の夕刻のことであった。
いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき
(俗世の生死の境地を超えた仏門に帰依するこの身にもまた、避けがたい別れのあることのなんと悲しいことでございましょう)
という貞心尼の歌に対して良寛が返した
うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
という一句が、はからずも辞世の句となったという。聖俗両面をあわせもち、悟りの世界と煩悩苦の世界とのはざまを生涯自然体で生き抜いた人間良寛の散り際に、それはなんともふさわしい句であった。はらはらと散り行く紅葉に良寛自身の姿が重ね合わされていることは言うまでもない。
良寛と貞心尼との四年間近くにわたる心の交流の一部始終を述べ伝えた貞心尼の自筆稿本「はちすの露」は、「天保二年卯年 正月六日遷化 よはひ七十四 貞心」という一文で結ばれ、貞心尼の深い悼みを暗示でもするかのようにそこでぷっつりと終わっている。のちに貞心尼の墓碑に刻まれることになった彼女の辞世の歌
来るに似て帰るに似たり沖つ波立ち居は風の吹くに任せて
のイメージは、師、良寛の臨終をまえにした深い想いを通して生まれたものではないかと考える研究者もあるようだが、言われてみると、たしかにと頷(うなず)けるふしがある。
激しく吹き狂う風に翻弄され、寄せ来るでも引き去るでもなく逆巻き立ち騒ぐ沖の波を貞心尼自身の人生に見立てれば、この歌に秘められた想いは自然と見えてくる。寄せる波を紅葉の表に、また引きゆく波を紅葉の裏に、そして波を起こす風を紅葉を散らす風に対応させれば、両者の奥に流れている人生回想の本質は同じものだからだ。
良寛の墓は、いまや伝説ともなっている清貧そのものの生涯からはとても想像できないほどに立派なものであった。石碑の幅はゆうに一メートルを越え、高さのほうは台座も合わせると三メートル近くにも及ぶのではないかと思われた。私と渡辺さんとは思わず顔を見合わせながら、「当時の有力者達が良寛の徳を讃えて建てたんでしょうが、ちょっとやり過ぎみたいな気もしますね。あの世の良寛は顔をしかめていたかもしれませんね」と正直な印象を語り合った。
だが、あとになって調べてみると、そんな想いは、どうやら我々の不勉強と早とちりのせいでもあったようなのだ。新潟県柏崎の出身で、良寛の研究者として知られる北川省一著の本によれば、この墓碑は時の有力者達の手によって建てられたものではなく、生前に良寛を慕った越後の無名の人々の手で、良寛の没後二年経った天保四年に建立されたものなのだという。良寛の死を悲しんだ越後の人々は「石碑料志」と記した奉加帳を作って募金にかけまわり、資金を集めたうえで、寺泊の七つ石というところから花崗岩の巨石を運びこみ、この地方には類をみないような大墓碑を建てたのだそうである。厳しい身分制度の敷かれていた徳川幕府の治政下においは、墓の大きさにもおのずから制限があった。徳川幕府の政策を愚かと断じ、幕府の庇護下にあって権勢を貪る僧侶や文人たちを鋭く批判し続けた良寛は、権力者の立場からすれば、乞食坊主と唾棄すべき追放僧の身に過ぎなかった。だから、没後二年のうちにこれほど巨大な墓を築き、「良寛禅師墓」と大きく刻み込むなどということは、当時の身分制度に真っ向から挑戦する行為でもあったらしい。しかも、その碑の銘文は、苦悩多き生涯を生き抜いた良寛のかねてからの想いを象徴する歌や、人心から遊離した宗門に対する厳しい告発と訓戒の言葉を刻んだものだった。
良寛の死後、幕府や宗門からの指示を受けた出雲崎の代官所は、良寛の歌稿その他の手稿類の強制的な提出を命じたり、関係者の取り調べをおこなったりしたという。そして、追放僧良寛の巨大な「禅師墓」を取り壊そうともしたらしい。
しかし、良寛その人のあまりにもまっとうな精神と主張、さらにはなんとも的を射た碑文のゆえに、さすがの権力者達も墓碑に手をだすことはできなかった。権力者が無理に墓碑を取り壊しでもしていたら碑文そのままの蛮行となって、国中の民衆から笑いもにされ、たちまち権威を失墜したに相違ない。それにしても、墓碑を建てるに先立ち、権力者の手を巧妙に封じる仕掛けを案出した民衆の知恵は相当なものである。
良寛の墓から戻る途中、我々は一羽の雀の子が参道脇にうずくまっているのを発見した。ときおりチュンチュンと鳴き声をあげている。どうやら巣から落ちたか、いったん巣立ったもののうまく飛べずにその場に舞い降りたものらしい。遠巻きに様子を窺っていると、二羽の親雀がたまに飛んできては餌をやっている。猫に狙われでもしたらひとたまりもないので、心配しながらしばらくじっと見守っていたが、我々も旅の身ゆえ、一緒に連れていくわけにもゆかず、ここは親雀の知恵と愛情に任せるしかないと判断した。うしろ髪をひかれる想いでその場をあとにしたのだが、いつにあっても自然の摂理とは厳しいものである。だが、良寛が目にして自らの無力さに打ちのめされたという地獄絵図、すなわち当時の庶民の悲惨な現実は、そんなものとは較べものにならぬほとに救い難いものであったに違いない。
良寛の墓をあとにした我々は、次に、良寛の遺墨、遺品の類が数多く展示されている出雲崎の良寛記念館を訪れた。そして、筆を執っているときだけは現世の苦しみから解放され、文字を書いているのだということさえも忘れて無心に紙と戯れていたのではないかと思わせる、なんとも自由奔放な墨跡に、我々は心の底から感動した。美しく書こう、立派に仕上げよう、多くの人々の称賛をかおうなどという卑俗な意識を超越した良寛の姿がそこにははっきりと感じられるのであった。
ただ、だからと言って、私は良寛という人物が超然たる悟りの人だったとは思わない。浮き世という名の濁流のなかにあって自らも濁りの一因をなしているにもかわらず、それ自体の輝きはけっして濁り衰えることのない石英の砂粒にも似た存在であったように思われてならない。
良寛記念館のある高台を下りて日本海沿いの国道に出ると、太陽がかなり西に傾いて見えた。幸い落日までにはまだ少々時間がありそうである。夕陽を見るなら弥彦山あたりがいい。夕凪に静まりかえる日本海を左に見ながら、我々は寺泊方面へと走りだした。

「マセマティック放浪記」
1999年9月8日
奥の脇道放浪記(2)
夕陽の名所弥彦山
絵・渡辺 淳
夕陽の名所弥彦山――寺泊から新潟港へ
寺泊の町並みにさしかかったとき、私は、突然、このあたりの名物のひとつである鯛の浜焼きのことを思い出した。十分に塩をほどこした新鮮で大きな鯛をまるごと串刺しにし、焚き火や炭火でじっくりと焼きあげたもので、その姿かたちといい、味といい、文字通りの絶品である。夕食の準備らしいことはまだなにもしていなかったので、貧乏旅行中の身にはちょっと贅沢だが、一尾調達してみようということになった。
日没も間近な時刻とあってか観光客の姿はすっかり途絶え、国道沿いの土産物屋のほとんどはすでに店じまいを終えていた。一軒だけ見つけた店じまい寸前の海産物屋に飛び込み、鯛の浜焼きはないかとたずねると、ちょっとまえに片づけてしまったという。諦めきれずに店の隅をうろうろしながら、女店員の手でいまにも奥へと運び去られようとしている箱の一つをのぞきこむと、なんとそこにまぎれもない「鯛の浜焼き様」のお姿があるではないか!
どうしてもこの鯛を譲ってほしいと食い気まるだしの形相で懇願すると、相手はしばし戸惑いの表情を浮かべはしたものの、そのあとすぐに快く願いを聞き入れてくれたのだった。えたいの知れないこの二人の客は、ほっておいたらなにをしでかすかわからないと、胸のなかで思ったのかもしれない。それにしても、四十センチ近い立派な鯛の浜焼き一尾で八百円というのはなんとも安い買い物だった。もっとも、単品としては、今回の我々の旅を通じてもっとも高価な買い物ではあったのだが――。
鯛の浜焼き様をうやうやしく車中にご案内申し上げた我々は、それからほどなく、大河津分水路の河口付近にかかる野積橋に差しかかった。大河津分水路は信濃川本流から分岐する大規模な排水路で、良寛ゆかりの国上山の南西側を流れている。緑に包まれた小さな入り江状の河口は、折からの夕陽を背にして粛然と輝き、我々の旅愁をいやがうえにもかきたてた。淳さんがさっそくスケッチブックを取り出したことは言うまでもない。

淳さんのスケッチが一段落するのを待って、私はまた車のエンジンを始動させた。目指すは弥彦山スカイラインである。地図上で判断するかぎり、日没までには間違いなく弥彦山頂付近に到達できる。そこから日本海に沈む夕陽を眺めることができれば言うことはない。野積の集落近くで国道から分かれ、弥彦山スカイラインに入ると、みるみるうちに高度があがった。そして、山裾から中腹にかけての濃い緑の樹林帯を抜けると、いっきに展望がひらけてきた。実際に登ってみると、弥彦山は想像していた以上に険しく、しかも奥深い。眼下に広がる日本海に向かって、その斜面はかなりの急角度で落ち込んでいた。
スカイラインを登りつめたあたりの駐車場に車を置き、そこから十五分ほど坂道を登って、海抜六百三十八メートルの弥彦山頂上近くにある展望台に辿り着いたのは午後六時半頃だった。日本海のほうから、かすかに霧を含んだ涼風が吹き上げてきている。一汗かきながら急な道を登ってきた直後だけに、その風がなんとも心地よく思われた。
やわらかな芝草に覆われた展望台からの眺めは望外のものだった。正直なところ、弥彦山からの眺望がこれほど素晴らしいとは思っていなかった。夕陽に映えて鏡のようにしずまりかえる海の向こうには、まるでローラーで平らにならしでもしたかのような佐渡の島影が低く広がって見えた。たぶん、小木から赤泊にかけての佐渡南部の一帯だろう。かなり以前に佐渡を訪ねてみて、想像以上に山の多いところだという印象をもっていたので、海が荒れたらたちまち海中に没してしまいそうにも見えるその光景はちょっと意外だった。標高六百メートル余の山の上から見下ろしているせいなのだろう。
東側に大きく目を転じると、視界いっぱいに飛び込んできたのは、果てしなく広がる緑の沃野、越後平野だった。夕陽にところどころ水面が光って見えるのはもちろん信濃川、そして、その周辺に広がるのは三条か燕あたりの田園地帯だろう。中空にはすでに月齢十二・三日ほどの月が昇っていて、俺の出番にはちょっと早すぎたかなとでも言いたげに、申し訳程度の白い光を発していた。
佐渡の島影のほうへと大きく傾いた夕陽は、しだいに深い赤みを帯び、まるい輪郭をはっきりと浮かび上がらせながら、漂うように沈んでいく。眼下の海面のあちこちが白く煙っているのは、海霧のせいらしい。あたりの気温がぐーんとさがって、斜面沿いに吹き上げてくる風が肌寒く感じられるようになってきた。それでも、私と渡辺さんは、それぞれの想いにひたりながら、じっと夕陽を見つめていた。
展望台付近には、我々のほかに、男女三人からなるもう一組のグループがいて、夕陽を眺めながら野外パーティをやっているところだった。その人たちのほうをなにげなく見やっていると、突然、「よければ一緒にどうですか?」と声をかけられた。なんとなくうらぶれた格好の二人の男が、夕風に吹かれながら腹をすかした感じで立っているのを見かねて、心優しいその方々はさりげなく誘ってくださったに違いない。
そこは貧乏旅行の途上にある我々のこと、これぞまさに天の助けにほかならないというわけで、すぐさまその申し出を受け入れた。むろん表向きにはいったん遠慮はしたものの、内心では「やったぁ!」という感じである。三人の方々は、近くの三条市にお住まいの久保富彦御夫妻と、三条まで遊びにみえておられた久保夫人の妹さんだった。弥彦山の夕陽は素晴らしいので、いつもここに来ては、落日の舞いを肴に一杯おやりになるのだという。久保さんはもう一度コンロを取り出し手際よく点火すると、鴨鍋の素材のはいった大きな缶詰を切り開け、図々しい二人の珍客のために熱々の鍋汁を作ってくださった。そして、缶ビールにおつまみ、さらには、おにぎり、お新香にいたるまでを気前よくすすめてくださったのである。
こうなるともう、花より団子ならぬ、「夕陽より鴨鍋」、「夕焼けよりビール」である。思いもかけぬご馳走に感激しながら、二人で放浪の旅をするにいたった経緯などを説明したりしているうちに、呆れ顔の夕陽のほうは、「これ以上やっとれるかい!」とばかりに赤く気色ばみながら、さっさと佐渡の島影に沈んでしまった。我らが風流心もこの程度のものかと思わず赤面しかけたが、そんな場を救ってくれたのは、「今日は西の水平線近くに雲などがあって美しさもいまひとつなんですが、ほんとうなら、ここの夕陽はもっともっと綺麗なんですよ。まあ、それはそれとして、せっかくだから楽しくやりましょうや」という久保さんの一言だった。
西の空が黄昏色に染まり、やがて弥彦山一帯が夕闇に包まれるまで、我々は歓談しつづけた。久保さんは山が好きで、深田久弥の「日本百名山」に紹介されている山々のうち、すでに六十二峰を踏破なさったとのことであった。久保さんの話に耳を傾けながら、ふと東の空を見上げると、先刻まで白く淡い心もとなげな輝きを見せていた月が、ほれぼれするくらいに澄んだ光を放ちながら己の存在を誇示している。眼下はるかに点々と瞬き灯る色とりどりの民家の明かりは、越後平野の夜を彩る無数の宝石そのものだった。
別れ際に、我々は、大きな缶ビールのほか、いくらかのおつまみなども頂戴した。善意の人々の好意を貪るインチキ修行僧の托鉢みたいで、良寛様からは叱られそうな気もしたが、ともかく有り難いことではあった。旅の初日からこんな調子だと、野良犬や野良猫なみに、行く先々で人様に媚を売ってはそのおこぼれを頂戴する癖がついてしまいそうで、いささか気にはなる。だからといって、すこしは誇りをもって人間らしく振る舞うべきだと反省したかというと、そんなつもりはさらさらなかった。もっとも、そのあと第二、第三の久保さんが容易に見つかったかというと、それはまた別の話であった。
弥彦山をあとにした我々は、再び海沿いの国道に出て、新潟方面へと走り出した。見事に整備された国道で車の影もほとんどないとあって、おのずからスピードメーターの針は、右へ右へと歓喜のステップを踏むことになった。それでも、途中のコンビニで簡単な食材を買い込み、新潟市西部の関屋浜に着いた頃には、かなり遅い時刻になっていた。たまたま場所的にも都合がよかったので、いったん車を駐め、あらためて晩飯をしっかり食べなおそうということになった。
コンロで湯を沸かし、味噌汁その他のインスタント食品を調理したのだが、なんといっても、この晩の主役はクールボックスの中の「鯛の浜焼き様」だった。コンロの火で温めなおして食べたのだが、そのうまいこと、うまいこと!――二人で感激の言葉を連発しながら、崇め奉るようにして一尾の大鯛をあまさず貪り尽くしたようなわけだった。驚くほどに身もついていて、浜焼きだけでお腹がいっぱいになってしまったほどである。渡辺さんは、鯛を箸でつつくかたわら、先刻、弥彦山で頂戴してきた缶ビールをうまそうに飲みながら、もう極楽とでも言いたげな表情だった。まさかその缶ビールが、この放浪の旅路においてありつくことができた最後のビールになろうとは、さすがの渡辺さんも想像だにしておられなかったことだろう。
旅の経費を極力安くしようという出発前の了解事項もあって、半ば暗黙のうちに、時々コンビニで買い求める牛乳類のほかは、もっぱら、旅の先々で探しあてたうまい清水とそれを沸かしていれた緑茶や紅茶だけを飲もうということになったからである。弥彦山で出逢った久保さんのような方がその後も次々に現れていたら状況は違いもしたろうが、世の中そうそう甘くはなかった。アルコール飲料がなくても平気な私のほうはともかく、元「酩人」の渡辺さんにとっては、そんな成り行きは思わぬ誤算であったかもしれない。
ともかくも十分にお腹を満たした我々は、ほどなく関屋浜をあとにし、新潟市の中心部を抜けて、午後十一時半頃に信濃川河口の新潟港、新日本海フェリー発着埠頭に辿り着いた。埠頭にはたまたま小樽行きの新型フェリー「ニューしらゆり」が接岸しており、ほどなく出航しようとしているところだった。この最新設計の白い巨船は、国内最大のフェリーである。近くで目にするその巨大な船体の迫力は凄じい。
気まぐれな旅ゆえに、これから「ニューしらゆり」に乗っていきなり北海道へという手もなくはなかったが、小樽行きのフェリー埠頭にやってきたのはそのためではなかった。このフェリーをこれまで何度か利用し、周辺の状況に通じていた私は、願ってもない機会ゆえ、ぜひ渡辺さんに「ニューしらゆり」をお見せしたいと思ったのだった。
渡辺さんには息子さんが一人おられる。昔炭を焼いておられた頃、渡辺さんは、まだ幼かったこの息子さんを山奥の樹の幹にロープでつないでから仕事をなさっていたという。むろん、幼児虐待でもなんでもなく、危険な作業の多い炭焼き仕事と息子さんの身の安全とを両立させるための苦肉の策だった。
「息子も、あの体験にはよっぽど懲りたらしいんですわ。そのせいか、大きゅうなりよってからは、山での仕事は絶対に嫌や、海のほうがええゆうて、船乗りの仕事につきよったんですわ」と、渡辺さんは、昔話をしてくださったことがある。
実をいうと、その息子さんが、最近まで、この新造船ニューしらゆりの一等航海士をなさっていたのである。一等航海士と言えば、船長につぐ要職で、実質上、船の操縦と運行全般をとりしきるのがその職務である。いま、息子さんは、同じ新日本海フェリーの舞鶴ー小樽航路の船のほうで、やはり一等航海士を務めておられるが、船長となられるのは時間の問題に違いない。忙しい渡辺さんは、これまで、息子さんの乗っておられたニューしらゆりをご覧になったことはなかったし、この新潟港のフェリー埠頭においでになったことさえなかった。そんな事情をうすうす知っていた私は、胸の内では是非と思いながらも、気まぐれを装ってこの埠頭へと車を進み入れたような訳だった。
午後十一時五十分ちょうどに、夜の大気を震わせるような低く力強いエンジン音を轟かせながら、ニューしらゆりはゆっくりと岸壁を離れた。小樽までは十八時間ほどの航海である。船のブリッジの奥のほうにはかすかに人影らしいものが見えた。渡辺さんの息子さんもあのあたりに陣取って、航行の指揮をとっておられたのだろう。埠頭に立ってこれだけの巨船の出港風景を目にするのは久々だったが、いつ見ても言葉には尽くしがたいロマンと旅情が感じられ、心踊るばかりであった。
最後の太い繋留ロープがはずされ、自由の身となった大きく白い船体が、おのれの羅針盤とレーダーだけをたよりに大海へと向かって動き出したとき、渡辺さんの脳裏をよぎったのはいったいどのような想いだったのだろう。山奥の樹木の幹にロープで繋がれた幼い日の息子さんと、やがてそのロープを解き放ち、何ものにも拘束されることのない大海原へと旅立っていった息子さんの姿とが複雑に交錯していたのかもしれない。
ニューしらゆりの航海灯が遠ざかっていくのを見届けて車に戻ったときには、もう深夜一時に近くになっていた。結局、、今夜はこの埠頭の片隅で車中泊しようということになり、ワゴンのシートをフラットに倒して寝る準備にとりかかった。新日本海フェリーのビル内の洗面所は明朝まで使えない。我々は、高い岸壁の真下に寄せる波の音を聴きながら、とりあえず男の特権を活用した。就寝前の簡単な洗面をすませるには、ペットボトル一本分の水で十分だった。横になってほどなく、我々は淡い月光の差し込む車中で、深く心地よい眠りについた。

「マセマティック放浪記」
1999年9月15日
奥の脇道放浪記(3)
朝日山系と金壷トンネル
絵・渡辺 淳
朝日山系と金壺トンネルの珍事――村上市から朝日村へ
翌朝は六時に起床した。空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっている。車中での簡単な朝食後直ちに新潟港をあとにした我々は、阿賀野川にかかる浜松橋を渡り、右折して国道七号に入ると、村上方面へと向かって走り出した。新潟の一般国道はどこも整備が行き届き、車線もゆったりしていて実に走りやすい。国道というよりは「酷道」とでも称したほうがいいような道路が全国各地にいまなお多数存在することを思うと、新潟はまさに道路天国である。
国道七号を快調に走って新潟北部の村上市に入った我々は、そこから、近くを流れる三面川伝いに朝日山系の谷奥へと分け入ることにした。標高一八七〇メートルの大朝日岳を主峰とする朝日山系には、まだ手つかずの自然がふんだんに残っている。主稜をかたちづたくる峰々の標高こそは低いものの、広大な朝日山系の山や谷はきわめて深くかつ険しい。冬は豪雪によって閉ざされ、夏場も道路事情などのため近づくのが容易でないとあって、訪れる人は多くない。有名な他の山岳地帯のようには山々が荒らされていないから、山好きな人々がこの山地に強く心を惹きつけられるのは、当然のことと言えるだろう。
この朝日山系の中央部西側一帯の山地を縫うようにして、新潟県朝日村から山形県朝日村へと一本の林道が通じている。朝日村と朝日村をつなぐという、なんともややこしい林道で、その名も朝日スーパー林道という。どちらかの村を夕日村と改名すれば、朝夕スーパー林道となってわかりやすくはなるのだが、夕日という言葉はただちに「落日」という負のイメージに結びつくから、村の名にはふさわしくないのだろう。ついでに述べておくと、この山系の東部には朝日町があるのだが、こうなるともう「朝日」の奪い合いである。東京築地の朝日新聞社がもしここに引っ越しでもしてきたら、それはもう見物だろう。
朝日スーパー林道を経て田麦俣へと抜けることができれば、途中で朝日山系の山々や谷々の景観を堪能できるし、また、のちのちの行程もずいぶんと楽になる。林道の最奥部はまだ残雪も深かろうから、相当な悪路を覚悟せねばならないだろう。でも、悪路を走るのはいつものことだから、そうと決まれば、あとはもうチャレンジするだけである。
三面川伝いの道に入ってまもなく、車は布部簗場(ぬのべやなば)へと到着した。雪融けの澄んだ水を川面いっぱいに湛(たた)えて流れる三面川の両岸の緑は、まだやわらかでみずみずしい。次第にくねり深まる水量豊かな三面川渓谷を東へ向かって遡り、あふれんばかりに水を抱きかかえた三面ダムに到着したのは、もう午前十一時半近くのことだった。初夏の明るい日差しを浴びて、ダムの上流一帯の山々の急峻な斜面が鮮やかなライトグリーンに輝いている。とくに景観のきわだったダムというわけではなかったけれども、人影のほとんどない静寂そのもののたたずまいは、我々の旅愁を誘い深めてくれるには十分だった。
三面ダムの入り口付近から始まる朝日スーパー林道は、ダムの右手山腹を切り進むようにして朝日山系の奥へとのびている。さあいよいよ林道に入るぞ、と勢い込みかけた途端、まるで出鼻をくじくかのように、左手にある道路情報表示板のつれない文字が目に飛び込んできだ。なんと、三面川の支流にある猿田川沿いのキャンプ場付近までは通れるが、それから先、山形県方面へは通行できないと記されている。この冬の豪雪のため朝日山系の各所で雪崩が多発し、その影響で林道が不通になっていて、その修復作業が行われているためらしい。
いったんはここから引き返すしかないと思いかけたのだが、気をとりなおして、まずは行けるところまで行こうということになった。車で旅をしていると、前方通行不能を知らせるこの手の表示板によくであうことがある。そんなとき、どうかと思いながらも実際に現地まで行ってみると、非常用の迂回路が設けられていたり、工事現場の作業員の特別な配慮があったりして、案外通れてしまうことも少なくない。せっかくここまで来たのだから、一か八か賭けてみようということになったのだった。

車は、激しくエンジンをうならせながら、左へ右へと大きくうねる急峻な隘路を懸命によじ登っていく。一応は舗装はされているので凹凸は少ないが、なかなかの道であることには変わりない。ときおり工事用のものとおぼしきダンプとであい、ぎりぎりにすれ違える地点までバックするという事態も起こった。だが、奥へ奥へと進むにつれ、目に見えて若返る樹々の緑の美しさは、そんな苦労を補ってあまりあるものだった。
垂直に切り立つ林道沿いの渓谷は刻々とその深さを増し、渓谷の両側に聳える山々は、黒ずんだ荒々しい岩肌をむきだしにして我々の目を圧倒しはじめた。そして、周辺を彩る緑の輝きはいっそうみずみずしさを際立たせていく。走ってみてはじめて実感するのだが、さすがにこの山系は奥深い。もうずいぶんと山間深くにに分け入った気がするのだが、地図で確かめてみると、まだまだずっと奥へとこの谷は続いている。
林道が大きく北へと転じる猿田川ダム脇を過ぎ、右手に猿田川の渓谷を見下ろしながらしばらく進むと、急に展望が開け、残雪をまだ全身にまとったままの朝日連峰の主稜が姿を現した。千八百メートル前後というその標高からは想像もできないほどに堂々としていて、なんともいえない存在感にあふれている。身体の大きさだけではその人間の存在の重さをはかれないのと同様に、標高や単なる山体の大きさだけではその山の奥深さをはかりしることはできない。我々はしばし車を停めてその雄姿にじっと見入った。
運がよければ山形方面へと抜けられるかもしれないという我々の甘い期待は、猿田川キャンプ場を少し過ぎたあたりまで進んだ時点であえなく吹き飛んだ。頑強な鉄製の車止めが行く手を冷たく阻んでいる。たとえ力ずくで車止めを突破しようにも、これではまったく歯がたたない。引き返すのはどうにもしゃくだが、やむを得ないようである。我々は、いったんその場に車を駐めると、すぐ脇を流れる猿田川畔におり、昼食をとりながら善後策を練ることにした。
来た道をそのまま村上まで引き返し、単純に国道を北上するというのは、「通ったことのある道や、車の多い国道は極力避ける」という、かねてからの我が旅のポリシイに相反する。そもそも、「奥の脇道を放浪する」という今回の旅の名目にそぐわない。転んでもただでは起きないのが我々の旅の精神とあらば、ここはなんとか打開策を講じねばなるまい。
地図を眺めながら思案するうちに、三面川本流と猿田川との分岐点まで戻ったあたりから山形県南部の小国町方面に向かって南下する林道があることに気がついた。かなり南に戻ることにはなるが、この面白そうな脇道を抜けて小国町、飯豊町と走り、飯豊から朝日山系の東側を迂回して朝日町、大江町方面へ北上すればよい。ちゃんと地図にも載っているくらいだから、通れないことはないだろう。思惑通りにことが運ぶかどうかはわからなかったが、ともかく、次善のルートはこうして決まった。
昼食をすませて河原から車へ戻る途中、我々は不思議なものを目撃した。ブナの巨木に何重にも巻きついた足の付け根ほどの太い藤が、力ずくでズタズタに寸断され、枯れ死んだ光景だった。ブナの幹のほうにも、藤が深く喰い入ったあとがネジの溝のようにはっきりと刻み残されている。それは、森の大蛇「藤」と森の巨人「ブナ」との、何百年にもわたる、静かな、しかし命をかけた凄絶な戦いの跡だったのだ。「結局、ブナが勝ったんや……」という渡辺さんのさりげない一言が、なによりもよくその状況を物語っていた。
たぶん、初めの頃は、成長のはやい藤がブナを圧倒していたのであろう。いったんは絞め殺されそうになったブナは、それに耐えながらも逞しく成長し、やがて、ひそかに蓄えたヘラクレズなみの力で、藤をずたずたに引きちぎってしまったに違いない。
我々は、車に戻るとすぐに問題の林道の分岐する地点まで引き返した。、その林道入口に立つと、またもや開閉式ゲートがあって行く手を阻んでいるではないか。ただ、通行止めだという表示はとくにない。渡辺さんと二人で試しにゲートの重い鉄製のバーを持ち上げてみると、きしみながらではあるがなんとか開いた。谷奥へと続く荒れたダートの細道には、かなりまえのタイヤの跡らしいものがまだかすかに残っている。安全の保証はしないが、通ろうという意志のある者は勝手に通れという意味だと、都合よく解釈した我々は、車を林道内に進入させると、再びゲートを閉じた。
林道右手は三面川本流の狭く切り立った谷である。路肩に十分な注意を払いながら走りだしてほどなく、前方に、巨大な岩峰をくりぬいて造った不気味なトンネルが現れた。その名も「金壺トンネル」とある。まるで昔の手掘りの洞門そのままの暗く細いトンネルで、むきだしの岩がごつごつと内壁全面にせりだしており、しかも、車が一台やっと通れるかどうかという狭さである。トンネルのずっと奥のほうは文字通りの真っ暗闇、ライトに浮かぶ手前の路面も地肌むきだしで凹凸がひどく、湧水とそれによってできた水溜りらしいものがあちこちに見えている。一時代前、未整備だった南アルプス白鳳渓谷の林道などでこの手のトンネルにいくつか遭遇したことはあったが、近年では珍しいうえ、凄みにおいてもそれらにまさるともおとらぬ代物だった。
無謀でなる我々も、さすがに一瞬躊躇しかけたが、いかに恐ろしげに見えてもトンネルは所詮トンネル――人間が造ったものであるかぎり向こう側に必ずや出口があるはずだと確信して、ままよとばかりにその闇の中へと突入した。
トンネル内の路面はあちこちがえぐれていて、想像していた以上に凹凸がひどかった。また、えらくぬかる場所がところどころあるうえに、深く落ち窪んだ穴には湧水が溜ってその状態が読み取れない。おかげで、徐行しているにもかかわらず、車体は激しく上下し、ちょっとでも油断油断すると、天井や左右の壁から突き出た無数の岩角にひっかかりそうになる。ふんだんに水分を含んだ黒い玄武岩質の岩壁はヘッドライトの光を吸収してしまうため、暗くて先がよく見えない。おまけに、このトンネル内の路面全体は上下左右にかなり起伏したりカーブしたりして、視界の悪さに拍車をかけている。
百メートルほど進んだところでふと悪い予感を覚えはしたが、いまさら引き返すわけにもいかない。ここはひたすら突進あるのみだ。助手席の淳さんも、胸中の不安を押し殺すように黙って前方を見つめたままだった。異常な圧迫感と閉塞感に襲われながらも、我々は奥へ奥へと進んでいった。天井の岩盤の隙から降りかかる湧水がフロントガラスを激しく叩く。ワイパーで視界の確保をはかろうとすると、次の水しぶきが襲ってくる。予想外の事態の連続とあって、三、四百米奥へと進んだころには、ほんとうにこのトンネルは向こう側へと通じているのだろうかという疑念が、胸の奥に渦巻きはじめた。
悪い予感が現実のものとなったのはその直後だった。ヘッドライトに切り分けられた前方の闇を、次の瞬間、我々は愕然として見やったのだった。なんと、トンネルはその先で行き止まりになっていたのである。どうやら、落盤か何かの事情で不通になって久しいらしい。進退きわまったとはまさにこのことである。Uターンはまったく不可能だから、このままバックするしかないが、前進するのだって容易ではなかったというのに、この悪条件のなかで、バックして無傷のままでトンネルの入り口まで戻るなんて神業に近い。
「まったく今日はついていないなあ、いったいなんでこんなことに?」――心中でそうぼやきながら、気持ちを落ち着けようとしていたら、皮肉とでもいうか、突然、あることを想い出した。朝起きてからずっと何か忘れているような気はしていたが、実を言うと五月三十一日のこの日は結婚記念日だったのだ。しかも、結婚当時既に他界していた私と家内それぞれの祖父たちの命日にもあたっている。もう遠い昔の話だが、結婚式当日は仏滅だったというおまけまでついていた。
「もしかしたら、こりゃ、カミさんとご先祖様の祟りかな?……いまごろ、わが家じゃ、カミさんが、ご先祖様の位牌にお線香でもあげながら恨み言を呟いていたりして……そんならまあ、こっちも負けずに呪い返してみるとするか」――などと、半ば冗談めいた想いをめぐらせながら、バック運転でトンネル脱出という神業への挑戦にとりかかった。
リヤウィンドウは跳ね上げた泥と天井から滴る湧水のために曇ってしまい、ワイパーを動かしても部分的にしか視界がきかない。しかも、バックライトの光は暗いから、ぼーっとしか周囲が見えない。そのうえ上半身をうしろにひねった無理な姿勢での片手運転ときているから、たとえ路面が平坦であっても、車幅ぎりぎりに迫る岩壁に車体を擦らず切り抜けるのは難しい。ましてや、この難路面ときたら、えぐれて凹凸がひどく、あちこちぬかるうえに、微妙にカーブしながら出口まで三・四百米も続いていいる。
尺取り虫のようなペースで一進一退を繰り返しながらではあったが、最小限の擦り傷を被った程度でなんとか脱出できたのは、不幸中の幸いだったといってよい。もし車が四輪駆動車でなかったら、後部動輪が深く路面に食い込み空回りして動けなくなっていたに相違ない。悪戦苦闘の末にかろうじて地獄の闇から脱出し、バック運転のままでゲート前に辿り着いたきには、二人ともに精も魂も尽き果てる寸前だった。
自分たちの無謀な侵入は棚にあげ、あのゲートこそ絶対に開かないようにしておくべきだなどという愚痴をもらしながら、やむなく村上まで引き返えしにかかった我々だっが、途中でまた脇道病の発作がむらむらと湧きおこった。懲りないご主人様方の気まぐれな命令のゆえに、かわいそうな車はまたもや間道に突入するはめになったのだった。

「マセマティック放浪記」
1999年9月22日
奥の脇道放浪記(4)
月山と最上川
絵・渡辺 淳
月山と最上川に魅せられて――越後路から庄内平野へ
地図を詳しく調べてみると、農道ないしは生活道路とおもわれるかなり細い道が、山麓や山間部を縫うようにして山北町方面へとつづいているではないか。朝日スーパー林道のスケールにはおよぶべくもないが、それなりには面白そうな道である。脇道狂の我々には、むろん、もってこいのコースだったから、それを見逃す手はなかった。
布部から中野、黒田、関口、北大平と、小集落をつなぐ高原の道の両側には、牧歌的という言葉がぴったりの風景が広がっていた。車窓をつぎつぎに走り去る緑のいのちの一枚いちまいの輝きが実に美しい。なんでもない小川の水の流れまでが異様なまでに澄みきって見えるのも気のせいばかりではないだろう。北大平を経て川沿いに高根の集落にはいるころには、谷がまたかなり深くなった。
高根から山北町方面へ抜けるには、北へのびる林道伝いに、天蓋山と鰈山の鞍部を越えなければならない。すくなくとも標高五・六百メートルの山越えになることは間違いない。谷筋の道に別れを告げた我々は、急斜面をほぼまっすぐにのぼる林道に入った。その道は途中の天蓋牧場付近までは舗装されていたこともあって、ぐんぐんと高度はあがり、展望がいっきにひらけて、遠くの山並みが美しい一幅の水墨画のように浮かび上がった。こんなところまでわざわざやってくる旅人などまずいないだろうが、それにしても、我々だけで眺めるにはもったいないくらいの景観である。
ところが、そんな快適なドライブもつかのま、またもや、前方左手にぎょっとする立て看板があらわれた。大きな字でこれみよがしに、「このさき工事中につきと車両通行止め」としるされているではないか。結局は村上市街までもどらなければならないというのだろうか………。いったんは諦めに近い気分になりかかったのだが、もしかしたらと気を取り直して、とにかく工事現場まで行ってみることにした。
作業現場は天蓋山牧場からすこし奥に進んだあたりで、かなり大規模な道路拡張工事がおこなわれているところだった。工事現場の手前のほうで仕事中の若い作業員に、おそるおそる、通してはもらえないだろうかと尋ねると、奥のほうにいる責任者にきいてほしいという返事である。どうせ駄目だろうなと観念しながら、車を停めてしばらくためらっていると、作業責任者らしい男がこちらのほうに向かって大きく手招きするのが見えた。どうやら、通してやるということらしいかった。
五月三十一日の祟りもここにきてようやくおさまってきたというわけだ。おまえにはもっと祟ってやりたいが、同乗の渡辺さんを巻き添えにするのは申し訳ないから、このへんで勘弁してやろうということになったのだろうか。勝手にそう納得した私は、ともかくもほっとしたおもいで問題の工事現場を通り抜けた。だが、どうやらその読みは甘かったらしい。ずっとのちになって明らかになるのだが、目に見えない祟りの魔の手は淳さんにもとりついていたらしいのだ。
工事現場を過ぎてほどなく、林道は車一台がやっと通れるほどに細く狭いダートとなった。岩肌のむきでた凹凸のひどい道が峠へとつづいている。「乙女峠」というその名を「意地悪婆さん峠」とでもあらためたほうがよさそうな悪路の峠路をのぼりつめると、東方はるかに、なお冠雪を戴く朝日連峰の山々が望まれた。そのたたずまいはなんとも神々しいばかりである。通行止めをくらって引き返した朝日スーパー林道の走る谷筋は、深く黒ぐろとした切れ込みを見せて南北にのび、一部は霧の下に沈んでいる。幻の怪魚タキタロウで名高い秘境大鳥池を懐深くに抱え込む朝日山系の広大さを、我々はあらためて実感させられるおもいだった。
山北町方面へ向けて林道は下りとなったが、狭い路面は相変わらず凹凸が激しく、ところどころひどくぬかった。車もほとんど通ることがないとみえ、道の両側から樹の枝が路上を覆うようにのびだしているところもある。車ごとそれらを押し分けるようにして進みながら、かなり時間をかけて大毎の集落にでた。大毎で再び国道七号に合流し勝本にでてからは、素直に海岸沿いの国道を北上し、山形県に入ってほどないところにある温海温泉へと向かうことにした。岩崎あたりから東の山間部へ分け入る脇道があるのはわかっていたが、あえてその道は選ばなかった。昨夜は風呂にはいれなかったので、今夜くらいは温泉で旅の汗を流そうとかということになったからである。
山形県に入り、鼠ヶ関の海岸付近にさしかかったときには、夕闇が迫り小雨が降りはじめていた。かの松尾芭蕉は、随行の曽良とともに、いまから約三百年前の元禄二年(一六八九年)の旧暦六月二十七日に、温海から村上方面へ向かってこの鼠ヶ関を通過した。彼らが出羽から越後を経て越中へと北陸道沿いに旅したこの時期は、現在の暦では、七月下旬から八月中旬にかけての猛暑の頃に相当している。
奥の細道の越後路の部分に、「鼠ヶ関を越えるといよいよ越後の地で、気分を一新してさらに歩き続け、越中の国の市振の関についた。この間は九日ほどを要したが、猛暑や悪天候のなかをおしての苦労多い旅だったので、気分が悪く憂鬱で、すっかり体調を崩してしまった。だから、道中のことは書かないで終わってしまった」という意味のことがしるされている。よほど大変だったらしいのだが、その間に吟じたのが「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句だったというのだから、おそれいる。
酒田から親不知の難所でしられた越中市振までの旅をわずか数行の文章でかたづけてしまった背景について、実際は体調がひどく悪かったわけではなく、その時代随一の文人が特筆するに値するような名所旧跡がなかったから簡単にすませたのだとか、芭蕉という人物を理解できる人が越後にはすくなく、なにかと不快な思いをしたから省略したのだという憶説もあるらしいが、ずいぶんと越後の人々には失礼な物言いのようにおもえてならない。実際に旅してみると、越後路は変化に富んでいて美しいし、また、今と昔の違いがあるとはいえ、越後の人々の人情はこまやかそのもので、文化に対する造詣も深いからである。
芭蕉ほどの漂泊の精神の持ち主なら、たとえ名所旧跡として伝わるところがすくなかったとしても、そのぶん、かえって先入観なしに未知の越後路の旅を楽しめたはずである。奥の細道のなかにこそ収められてはいないが、「罪なきも流されたきや佐渡ヶ島」という一句などは、そんな芭蕉の精神をなによりもよく物語っている。また、陸奥への旅立ちに際してその心境を述べた、「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という一文もそのことをはっきりと裏づけている。そもそも、自分を理解してくれる人がいないというだけで気分を害して、その地方の旅の記録をはしょってしまうような人物に、あのような崇高な輝きをもつ一連の紀行文を綴ることができたとはおもわれない。やはり、相当に体調が悪かったか、他にそれなりの事情があったのだろう。
ちなみに、芭蕉一行が通ったとおもわれる鼠ヶ関から市振海岸までの道程の距離数を現在の道路地図をもとに概算してみると、ちょうど三百キロメートルほどになる。芭蕉はその間九日ほどかかったとしるしているが、曽良日記などをもとに詳しく調べてみると、実際には十四日を要している。ただ、村上で二泊、直江津で二泊、高田で三泊しているようだから、越後路の旅そのものに要した日数は十日である。芭蕉の記録と一日のずれはあるが、十日で三百キロを踏破したとすれば、一日平均三十キロを歩いたことになる。平均時速四キロで一日に実質八時間近く歩くというこの旅のペースは、異常なまでの高温多湿にくわえて十四日のうちで九日が雨天だったという事実を考慮すると、なかなかのものである。途中四日の休養は、やはり芭蕉の身体の不調を暗示していると考えてよいだろう。
芭蕉一行よりも二ヶ月近く早い緑も爽やかなこの時節に、文明の利器を操って、彼らとは逆に陸奥へと向かって北上する身には当時の旅の苦労などわかろうはずもなかったが、鼠ヶ関を通過しながら、遠い昔の芭蕉と曽良の炎天下の道行きにそんな想像をめぐらせた我々だった。
鼠ヶ関をすこし過ぎたところで車を停めた我々は、夕潮の騒ぐ近くの磯辺に降り立って晩飯の味噌汁の具の調達を試みた。岩を伝い歩きながら水中をのぞき込むと、「若布(ワカメ)」と称するにはいささか年増な感じではあったが、十分食べられそうな「もとワカメ?」がゆらゆらと揺れている。期待通りのことの運びにニンマリした我々は、ほどよい量そのワカメを採取して車に戻った。
ほどなく激しくなった雨のなかを走り抜け、国道からすこし奥まったところにある温海温泉街に着いたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。我々は、給油に立ち寄ったスタンドで紹介された共同浴場を探し当てると、なにはともあれ、一風呂浴びることにした。温海温泉街のなかほどにあるこざっぱりした共同浴場には番台がなく、かわりに、一人二百円ずつの協力金を備え付けの箱に入れてほしい旨の貼り紙がしてあった。ふたりあわせて四百円の協力金を投入し弱塩泉の温泉につかると、旅の疲れと緊張がいっきにほぐれるおもいだった。入浴料がわりの協力金が何千円何万円にも値しているかのように感じられ、なんとも満たされた気分だった。
ところが、浴室を出て身体を拭き衣服を着ているあいだに、あることに気がついた。次々に浴場にやってくる入浴者の誰もが二百円の協力金を払う様子がないのである。どうやら、近隣の人々は皆、非協力的(?)にこの共同浴場を利用しているらしい。すでに十分な協力をしてしまった我々は、お互い顔を見合わせながら、ちょっと複雑な気分になった。さきほど払った四百円の協力金が、だんだんと落としてしまった何千円何万円ものお金にも相当するようにおもわれてきたから、人間なんてなんとも勝手なものである。

ともかくも旅の汗を流しおえてさっぱりした我々は、国道筋にはもどらず、温海川に沿って谷をのぼり、温海川ダムサイトの駐車場に車をとめた。時刻はもう八時半をまわっていた。
火をおこし大急ぎで調理して食べた晩飯がわりの冷凍鍋焼きうどんは期待以上にうまかった。そして、鼠ヶ関の磯辺で拾ってきた年増ワカメを具にしてつくったワカメ汁も実にいい味だった。だが、このワカメ汁がなまじいい味だったことが、翌日の珍事につながろうとは想像もつかないことだった。
食事をすませ食器をかたづけ終えたあと、明るいランプを灯して、渡辺さんは一日のスケッチの整理に、私のほうは旅のメモのまとめにとりかかった。一段落つけ、車の窓のカーテンをひいて眠りについたのは十一時半頃だったようにおもう。
翌朝は夜半の雨がうそのような晴天となった。簡単に朝食をおえた我々は、すぐに、楠木峠を通る山寄りのルートをとって鶴岡方面へと走りだした。庄内平野に入るとほどなく、前方には残雪をまとい輝く鳥海山の姿が現れ、車窓右手には、やはり残雪の冠を戴いた月山の大きくのびやかな山影が視界いっぱいに広がった。なんとも雄大な風景である。渡辺さんが急いでスケッチブックを開く気配を察知した私は、それに呼応するかように車の速度を落とし、徐行運転の態勢に入った。
全体的に落ち着いた雰囲気の鶴岡市街を抜け、余目方面に向かう広域農道にはいると、一面に田園風景が広がった。米どころ庄内平野は田植えが終わったばかりで、まだ若い緑の稲が涼風に揺れて美しい。前後から我々をはさむようにして大きく迫る鳥海山と月山の姿は圧巻というほかない。爽快な気分でしばらくアクセルを踏み続けると、そこだけ小高くなった最上川の堤にでた。むろん、我々は車から降りて、それぞれに名高い川と平野と二つの山とが織りなすその景観をこころゆくまで楽しむことにした。そして、憑かれたようにスケッチの筆をとる渡辺さんのかたわらで、私のほうは、雪融け水を満々と湛える最上川の水面に見入りながら、久々にささやかな歌を詠み呟いた。
かなしみの雪をばいまは温かく包み融かして最上川ゆく
実をいうと、いまから十七・八年ほど前の八月末の夕方のこと、私はこの対岸の堤沿いの道を、やはり最上川の水面を眺めながら独りあてどもなく旅していた。大きく真っ赤な夕陽がちょうど西の地平線へと落ちていくところで、西の空とそれを映しだす最上川の川面全体がごうごうと音をたてて燃えさかるような感じだった。その凄じいばかりの夕映えは、この世の隅々で生きる人々の無数の悲しみや苦しみが流れあつまってできた煩悩の大河が、いま浄化の海に還るのをまえにして、天地を深紅に染める巨大な火柱となって燃え盛る光景をも連想させた。
天地(あめつち)にたゆたいめぐる悲しみの流れ燃え立つ夕最上川
この歌はそのときに詠んだものだが、それはそれでうつろい揺れる当時の私の心のうちを反映し象徴していたようにおもう。それにくらべると、この旅で出逢った最上川の姿は、なんとも温かく穏やかなものに感じられた。
再び車に戻り、最上川にかかる庄内橋を渡って余目町から松山町にはいるとすぐに、「眺海の森」と記された案内板が目にとまった。眺望絶佳とうたわれている。一瞬、「鳥海の森」の誤記ではないかとおもったが、どうやらそうでもないらし耳にしたことのない地名なので、そのうたい文句にちょっと首をかしげかけたが、ともかく、だまされたつもりで訪ねてみようではないかということになった。


「マセマティック放浪記」
1999年9月29日
奥の脇道放浪記(5)
偽羅漢への懲罰と祟り
絵・渡辺 淳
偽羅漢への懲罰と祟り?――眺海の森から鳥海山へ
道路標識に導かれるままに松山町の集落の背後にある小山をいっきに登りつめると、急に視界がひらけ、ゆるやかな起伏の広がる高みにでた。森というよりは緑の芝生とお花畑に覆われた公園といった感じだったが、そこがほかならぬ眺海の森だった。十分に整備の行き届いた敷地内の小高いところを選んで、いくつか展望台が設けられている。車から降りてそれらの展望台のひとつに立った我々は、その雄大な景観に思わず息を呑んだ。眺望絶佳といううたい文句にだまされたつもりで訪ねてみた眺海の森だったが、その看板に偽りはなかった。

眼下に広がる庄内平野のただなかを大きくうねり流れる最上川の川面は、やわらかな日差しを浴びて、すずやかに輝いて見えた。そして、最上川の河口があると思われる方角に目をやると、「眺海」という言葉にたがわず、青霞む日本海の海面が遠望できた。まだお昼前とあって太陽は空高くに位置してはいたが、ここから西に沈む夕陽を眺めたらさぞかし綺麗なことだろう。庄内平野の奥まる方へと目を転じると、白く輝く月山連峰が、そして、 そのすこし右手には、昨日越えそこなった朝日山系の山並みが遠く連なって見えた。
だが、圧巻と形容してもあまりあるのは、眺海の森の北側の展望だった。あの白銀の冠を戴く鳥海山の雄大な山影がいまにも手の届きそうなところに迫って見えていた。どうやら眺海の森の「眺海」という二文字には、暗に「鳥海山を眺める」の意味をも含ませてあるらしい。それにしても、こんな素晴らしい展望台があることにこれまで気づかずにいたなんて、なんとも信じられないか思いだった。
眺海の森からの大自然の眺望を存分に楽しんだあと、我々は広大な敷地の一角にある森林学習展示館を見学したが、この展示館の展示物には、しらずしらずのうちに見学者の興味をかきたてる斬新な工夫がいろいろとなされていて、とても感心してしまった。この地を訪ねる機会のある方、とくにお子様連れの方々には、ちょっとだけでものぞいて見ることをおすすめしたい。展示館を出たあと、駐車場の近くにある外山ロッジに立ち寄り、牛丼とソバを組み合わせた八百円のセットメニューを注文し昼食にしたが、なかなかの味だった。もっとも、これは、二人で長岡を出発して以来はじめての外食だったから、そのぶん、よりいっそう美味しく感じられたのかもしれない。
眺海の森をあとにする直前になって、私は、敷地中央近くの展望台通路の脇に「三太郎の日記」などの作品でしられる阿部次郎の記念碑がたてられているのに気がついた。どうやら、阿部次郎はこの松山町の出身で、鳥海山や月山、最上川などを日々眺めながら育ったらしい。私が高校生だった頃には、小林秀雄、亀井勝一郎らの文章と並んで阿部次郎の文章もよく教科書などにとりあげられていたもので、当然、大学入試にもその文はしばしば出題された。だから、三太郎の日記を読もうと試みたことが何度かあったが、高校生の身にはきわめて難解な思弁性の強い文章だったので、いつも頭がくらくらしてきて、結局、完読はできずにおわってしまった苦い想い出がある。
阿部次郎自らの姿を投影した三太郎なる人物は、作中のあちこちで自身のことを痴者と嘲っていたものだが、もともとささやかな能力しか持ち合わせない私などは、その痴者の吐いた膨大な言葉の一端さえも満足には理解できずに頭を抱え込んでいたようなわけだった。それにしても、あの相当に屈曲の多い内省的な文章を書いた阿部次郎が、この雄大な自然の中で幼少期を送ったという事実は、私にすればずいぶんと意外なことのように思われた。
眺海の森に別れを告げた我々は、国道三四五号伝いに平田町、八幡町を経て、広大な鳥海山の南東山麓に位置する遊佐(ゆざ)町に入った。ガイドブックにこそ紹介されていないが、五月から六月にかけての遊佐町の田園風景は実に素晴らしい。田園風景とは、まさにこのような景観のことを言うに違いない。私はこれまでにも二、三度、緑の輝く時節に遊佐を訪れ、農道の片隅に車を駐めてカーステレオから流れ出るベートーベンの六番「田園」に心ゆくまで聴き入ったことがあるのだが、ある意味でそれは最高の贅沢だったといってよい。もっとも、このときは、遊佐の町に入ってほどなく、渡辺さんも私も急に眠気をもよおしてきたため、田圃の畦道に車を寄せ、鳥海山を眺めながら一時間ほど昼寝することにした。

ひと眠りしたあと、再び吹浦方面に向かって走りだした我々は、ほどなく月光川という美しい名の川を渡った。たぶん、満々と水を湛えたこの静かな川の水面には、満月の晩など、月の光が幻想的な輝きを見せながら映えわたるのであろう。その晩の月はちょうど満月にあたっていたから、月が東の空に昇るまでこの地に留まってその名の由来を確かめてみたい気分ではあったが、まだ午後三時前だったので、とりあえずは心の中で月見をしながら旅路を急ぐことにした。
空は晴れわたっていたにもかかわらず、吹浦が近づくにつれ、目に見えて風が強まってきた。水田の青々とした稲の苗が激しく波打っている。地図を見ての私の推測だが、日本海から吹き寄せる気流が高く大きく聳える鳥海山にぶつかり、それを回避するかたちでこの吹浦一帯を通過するせいなのかもしれない。地形上このあたりが風の通り道になっているとすれば、吹浦というその地名も納得できるというものだ。吹浦の集落で国道七号に合流してほどなく、鳥海ブルーラインの山形県側入り口にある駐車場に到着した我々は、すぐ近くの荒磯にある十六羅漢岩を訪ねてみることにした。十六羅漢岩は、鳥海山の山裾が日本海に大きくせりだした、吹浦の集落の北はずれの地点に位置している。
松尾芭蕉の一行は、酒田から海沿いにこの吹浦さらには有耶無耶の関を抜け、いまは秋田県に属する象潟まで北上し、そこを奥の細道の旅の北限の地として再び酒田方面に南下した。余談になるが、平成八年十一月二十五日、「奥の細道」の芭蕉直筆本が関西で発見確認されたというニュースが全国に流された。実は、同年の三月末に私がささやかな紀行作品で奥の細道文学賞を受賞した際、主催者側のはからいで、選考委員の大岡信、尾形仂の両先生がたと歓談しながら会食をする機会に恵まれた。
その席上、大岡先生が、尾形先生にむかって奥の細道の真筆が発見されたという話が内々に伝わっているが、本物なのかという問いかけをなされ、それに対して、尾形先生は、いま専門家が確認中だが、ほぼ間違いないのではないかとお答えになっていた。そして、現在は民間人の手にあるものなので、公的なところが買い取るとなると、途方もない金額が必要になるだろう……奥の細道ならぬ文字通りの「億」の細道だという洒落を飛ばされたりもしておられた。それから八ヶ月をかけて慎重な検討がなされたあと、ようやく公に直筆本だとの確認発表がなされたわけだが、未熟な作品で芭蕉ゆかりの文学賞を受賞した同じ年にたまたま奥の細道の真筆が発見されるという望外なめぐりあわせに、いまも私は不思議な感慨を覚えている。
巨大な十六羅漢岩は、日本海の荒波の寄せる磯辺に、なんとなく鶏冠を想わせるたたずまいで聳えていた。岩の正面にまわると、なるほど、釈迦如来に普賢、文殊の両菩薩とおもわれる中央の三像を両側からはさむようにして、十六体の羅漢像がずらりと岩に彫りこまれている。参詣者を見下ろすように並んではいるが、どこか愛嬌があるその表情には親しみがもてた。つい茶目っ気を起こした我々は、お釈迦様とおもわれる大きな彫像の前まで交互によじ登り、そこで座禅まがいのポーズをつけて写真を撮りあった。十六羅漢岩を十七羅漢岩に変えてしまおうという魂胆だったが、私が渡辺さんの姿をレンズでとらえ、シャッターを切ろうとした瞬間、修業不足の偽羅漢どもめがといわんばかりに、岩のお釈迦様が一瞬ニヤリとなさったような気がしたのは、私の思い過ごしだったのであろうか……。
羅漢岩のある岩場の周辺の海中には質のよさそうなワカメがはえていた。昨夜食べたワカメ汁は想った以上に美味かったから今夜もまたワカメ汁をつくろうということになり、再び我々はワカメ採りを始めたのだった。激しく潮の寄せ引きする浅瀬に浮かぶ小岩を伝い歩きながら、水中に腕を突っ込んでワカメを採るのだが、足場の岩にはぬるぬるとしたアオサが一面に生えていて注意しないと滑ってしまう。海育ちの私は、幼い頃からこの手の岩場を歩くのには馴れていたが、すこし離れたところにいる渡辺さんの様子を横目でちらりとうかがうと、どうもその足取りは危なっかしい。長年山仕事で鍛えた渡辺さんは健脚には違いないが、磯の歩き方にはまたそれなりのコツがあるからだ。
ちょっと離れたところにある岩に飛び移ろうとしている渡辺さんを見て、思わず危ないですよと声をかけようとしたのだが、次の瞬間、魔がさしたとでもいうか、まったく別の思いが私の脳裏をよぎったのだった。我々が東北地方を放浪すると知ったある編集者から、旅から戻ったあと、その放浪記を書いてもらえないだろうかという打診を受けていた。人間の心とは、なんとも厄介かつ意地悪なものである。正直に告白しておくと、その編集者の顔を思い浮かべながら、もしもここで渡辺さんが海にはまるような珍事でもあれば傑作な放浪記が書けるのになあと、私は心の中で思ったのだった。
いつしか渡辺さんにもとりついていたらしい五月三十一日の祟り(?)と、ふとどきな偽羅漢に対する十六羅漢岩のお釈迦様からの懲らしめと、魔の手にそそのかされたとしか言いようのない私の思念の働きとの三重攻撃にあったのでは、いくらなんでも耐えられようはずがない。その二、三秒後のこと、はずみをつけて向かいの岩に渡ろうとした渡辺さんは、アオサの面にものの見事に足をとられ、もんどりうって冷たい海中に転落した。浅瀬だったから命に別状はなかったものの、これが岩場の先端のもっと深いところだったら、渡辺さんを助けるため私も即座に飛び込まねばならなかったろう。
お釈迦様にすればそれこそが本望であらせれたのかもしれないが、もしこの身のほど知らずの連中に溺死でもされ、間違っていますぐに天上界にでもやってこられたらとても面倒などみきれないと、途中で思い直されたものらしい。そうでなければ、隣の普賢、文殊の両菩薩様が、「お釈迦様、お釈迦様、お腹立ちでしょうが今日のところはこの程度で……」となだめてくださったのであろう。
全身ずぶ濡れの渡辺さんと大急ぎで車に戻り、ヒーターを入れて車内を温め、まずはその着替えを手伝った。幸い、駐車場の一角に水場があったので体を拭いたり、潮に濡れた衣服を水洗いすることはできた。水場で渡辺さんが衣類の潮抜きをなさっている間に私はもう一度岩場に降りて、いますこしワカメと亀の手を採取した。その名の通りどこか亀の手に似たところのあるこの異形の貝は、波の激しい磯辺の岩のすき間に群生しているが、綺麗な海水でさっとゆでて食べるとその姿形からは想像もつかないほどに美味い。むろん、採った亀の手をゆでるために海水をペットボトル詰め込むことも忘れはしなかった。
十六羅漢岩そばの駐車場をあとにし、鳥海ブルーラインに入ったのは午後五時半頃だった。ぐんぐんと高度が上がるにつれ、道路の両側にまだ厚いままの残雪の層が現れた。この冬、いかに雪が多かったかが偲ばれる。よく見ると残雪層の下部のあちこちから柔らかそうな蕗の薹が芽をだしていた。あんな瑞々しい色のものなら間違いなく美味いからと勇んで車から降りた渡辺さんは、先刻の名誉挽回とばかりに、すぐさまたくさんの蕗の薹を採取して戻ってきた。ワカメ採りではちょっとばかりしくじったが、ここは山育ちの渡辺さんの腕の見せどころに違いない。ともかく、こうして、その夜の食事の用意は万全となった……はずであった。
三十分ほど走って着いた鳥海山中腹の大平台に立つと、遊佐から酒田方面へとのびる広大な平野が、おりからの夕陽を浴びて赤緑に映え輝いて見えた。また、はるかに、月山や朝日山系の白い峰々を望むこともできた。大平台からの眺望を満喫したあと、鉾立を経て秋田県側の象潟方面へとくだる途中で、太陽は日本海を紅く染めながら水平線の向こうへと沈んでいった。夕闇の迫る日本海のただなかに、ひとつぽつんと平たく浮かぶ飛島の島影が私にはなんとも印象的に思われた。ブルーラインの秋田側ゲートを出て象潟の町に近づく頃には、黄昏の中にほの白く浮かぶ鳥海山の左肩に満月がのぼってきた。その月は、まわりを氷のかけらで固められているみたいにぼーっとにじんだ色の光を放ち、ほどなく深い眠りにつこうとする鳥海山の稜線を神秘的な彩りに演出して見せてくれた。
国道七号に合流したあと、我々は奥の細道の旅路における北限の地、象潟をいっきに通過した。芭蕉の時代、美しい入り江に数々の小島が浮かび、松島と並び称せられる景勝地であった象潟は、文化元年(一八〇四年)の大地震で水底が隆起して干上がってしまい、いまでは松をいただく小丘のみが点在するだけになっている。
潮に濡れた渡辺さんの身体を洗い流すためもあって、象潟から北にすこし行ったところにある金浦温泉のホテルに立ち寄り、入浴だけをさせてもらった。そして、そのあと、我々は西目町付近の海岸近くに車を駐め、遅い晩飯の支度に取りかかった。ちょっと奇妙な取り合わせであったが、ナメコ豆腐とワカメ入りの味噌汁をつくっていると、渡辺さんが、これを一緒に入れると美味いよと言いながら、煮立った鍋汁の中に先刻採ってきた蕗の薹を次々に勢いよく放り込んだ。内心、大丈夫かなと思ったのだが、蕗の薹の調理にあまり詳しくない私は、渡辺さんの言葉と経験を信じるしかなかった。
さぞかし珍味であろうとおもわれる味噌汁を一口味わおうとした渡辺さんの顔は奇妙にゆがんだ。「本田さん、こらあかんわ、ごめん!」……というのが、その直後に渡辺さんの発した言葉だった。いったい何事かと、私もおそるおそるその味噌汁を口にしてみると、なんと味噌汁の味がまるでしない。かわりに、明らかに蕗の薹の強いアクのせいだとおもわれる、ちょっと苦味ばしった異様な感覚が口いっぱいに広がった。ナメコも豆腐もワカメも、さらには味噌汁そのものもみんな同じ味がするではないか。あまりの珍味に私のほうはすぐさまギブアップしてしまった。
「こんな柔らかそうな蕗の薹に出逢うたのははじめてのことなんで、アク抜きせーへんでも、これならすぐに食えるとおもたんだがなぁ……。もしかしたら、これも、お釈迦様の祟りかもしれんなぁ」と言いながらも、渡辺さんは責任を感じてか、なおも果敢に鍋汁に挑んでおられる。私のほうは、口なおしのためにもとボトルに詰めてきた海水を取り出し、急いで亀の手の調理に取りかかった。幸いというか、亀の手のほうはいつもの通り美味そのものだった。
なんともしまらない晩飯騒動が終わったときには、時刻はすでに午前零時半近くになっていた。我々は、それからほどなく、天空の明るい望月に見守られながら、深いふかい眠りについた。

「マセマティック放浪記」
1999年10月6日
奥の脇道放浪記(6)
乳頭温泉郷と月下の田沢湖
絵・渡辺 淳
乳頭温泉郷と月下の田沢湖――角館の武家屋敷から田沢湖へ
翌朝は七時半に起床し、カップラーメンと茹卵で簡単に食事をすませたあと、田沢湖方面に向かって出発した。本庄から内陸にはいり、大曲、中仙北、角館を経て田沢湖へ抜けるというのがこの日のおおまかな予定ルートだった。本庄から国道一〇五号沿いに北上、大内町を経て大曲方面へと東進する頃には、それまで時折振り返っては眺めていた鳥海山の大きな山影もはるか後方に遠ざかり、やがて我々の視界から消え去っていった。
角館に着いたのは午前十一時頃だった。角館は武家屋敷がいまだに当時の面影をとどめている場所として名高い。せっかくだからちょっと立ち寄っていこうかということになり、表町下丁近くの駐車場で車を降りた。周辺の町域全体が風致保存地区に指定され、街並みや建物の隅々にいたるまできめこまやかな配慮が行き渡っているせいだろう、何気なく歩いていても、まだ時間の流れのゆるやかだった藩政時代に戻ったような錯覚におそわれる。石黒家、青柳家、河原田家、小野田家といった武家屋敷が街路に沿って並んでおり、それらの古い門構えの屋敷からは、大小の刀を腰に差した丁髷姿の侍がいまにも飛び出してきそうな雰囲気だった。

我々は、現存する角館の武家屋敷のなかでもっとも昔のままの面影を留めているという石黒家を訪ねてみた。堅固な構えの門を入ると、正面に二層の大きな寄せ棟屋造りの母屋が現れた。見事な造りの母屋からは、斜め後方にのびるかたちで、ずっと奥の大きな土蔵のほうまで建物がつづいている。母屋の土間に靴を脱ぎ、廊下にあがって時間の眠る広大な庭を眺めると、なんとも落ち着いた気分になった。洗練された石組み、庭苔、巨大な古木をはじめとする心憎いばかりの庭木の配置など、地方の武家屋敷にしてはなんとも贅を尽くした造りである。
母屋を支える柱の一本いっぽんも、また、床の間をはじめとする室内の要所の造作も風雅を極めたものになっていて、実に素晴らしい。最後に足を運んだ大きな土蔵のなかには、石黒家に代々伝わる数々の調度品や武具類が展示されていたが、いずれ劣らぬ貴重な品々ばかりで、往時の角館武家の優雅で豊かな生活ぶりと交流の広さが偲ばれた。石黒家は佐竹北家の財政を預かる納戸役や勘定役を務めていたらしい。
もともと角館の武士たちは藩主の家臣であった佐竹氏の家臣、すなわち、陪臣であった。直臣ではなく、直臣の家臣という、当時としてはけっして高いとはいえない身分のゆえに、禄高もせいぜい百石程度に抑えられていたという。下級武士としてのその禄高からすれば窮乏生活を余儀なくされてもおかしくない彼らが、どうしてこのように立派な屋敷を構え、それほどに豊かな生活を営むことができたのであろうか。
角館の武士たちは幕末近くになると、地の利を活かして、絹製品、菅笠、樺細工、樹皮加工などの殖産と技術の研鑚に積極的に取り組み、それによって、彼らの禄高からは想像もつかないような屋敷家屋を維持できるほどの財力を得たのであった。いまでは全国各地の土産物店で目にする桜の樹皮を張った茶筒や細工類なども、昔はこの角館の特産品で、莫大な収益源になったのだという。いろいろと知恵をしぼったあげくに、彼らは、小型にして軽量で、しかも値の張る特産品を考案し、それらを広く流通させた結果として多大な利益を手にしたのである。むろん、地理的条件にともなう土地の安さや建築資材の入手のしやすさなども、壮麗な武家屋敷構築を可能にした一因だったのではあろう。
一通り武家屋敷群や資料館などを見学したあと、うどんの老舗「稲庭」で昼食をすませた我々は、車に戻り、国道四六号を田沢湖方面に向けて走り出した。すると、角館市街を抜けてほどなく、「抱き返り渓谷方面へ」と記された案内標識が目に飛び込んできた。男心を妖しく誘うその呼称に一目惚れした我々は、一も二もなく標識の指す方角へと車を乗り入れることにした。それからほどなく渓谷入り口に着いたのだが、駐車場が混雑しているうえに、渓谷の奥に入るにはそこからさらに谷沿いに歩かねばならないらしい。渓谷を遡るといくつか滝があるということだったが、見たところ、景観に格別な特徴のある渓谷でもなさそうだったし、こう人が多くては、たとえ谷奥から妖艶な美女が現れても、ひそかに逢う瀬を楽しむわけにもいかない。たちまち夢破れた我々は、「抱き返し渓谷」ならもっと意味深になるのになどど囁きあいながら、そそくさとその場から退散したのだが、国道へと戻る途中、たまたまあの有名な劇場「わらび座」を目にすることができたのは、ちょっとした収穫だった。
田沢湖町が近づくにつれ、頂上部の稜線が平な秋田駒ヶ岳の姿が大きく眼前に迫ってきた。急に一風呂浴びたくなった我々は、田沢湖畔を訪ねるのはあとまわしにし、まずは、駒ヶ岳とそれに連なる山々の懐深くに抱かれた乳頭温泉郷へと向かうことにした。田沢高原への道に入ると、高度はぐんぐんあがり、いっきに展望が開けてきた。二人して思わず驚嘆の声をあげたのは、田沢国民休暇村の駐車場まで登ったときだった。明るい陽射しをいっぱいに浴びて、駒ヶ岳をはじめとする前方の山並み全体が、夢かとまがうばかりに艶やかな輝きを発していたからである。「やわらかな」という形容詞がこれほどまでに似合う緑に私はついぞ出逢ったことがなかった。渡辺さんがすぐさまスケッチブックを取り出したことは言うまでもない。

国民休暇村を過ぎるとすぐに車は深いブナ林の中にいり、それを待っていたかのように、道のほうもくねくねとした細く急な坂道となった。ハンドルを左右にさばきながら道路脇にちらちら目をやると、あちこちにかなりの数の水芭蕉が群生しているのが見える。どうやら花を開いてまだ間もないらしい。ブナ林を抜けて乳頭温泉郷の最奥にある黒湯の駐車場に着いたのは、午後四時前くらいだったろうか。駐車場のなかの小高くなったところから谷向こうの山筋を眺めやると、乳首のぴーんと張った若い女性の乳房そっくりの山影が目にとまった。それが、乳頭温泉郷という名称のもとともなった乳頭山の頂であることは明らかだった。
黒湯温泉は乳頭山から流れ出る先達川と湯森山からから流れる黒湯沢が合流する谷合にに位置している。延宝二年(一六七四年)頃にはすでに秋田藩主佐竹本家の湯治場として知られていたというだけのことはあって、どっしりとした造りの黒い茅葺き屋根の建物が、内に秘めたその歴史の重みをすぐさま我々に語りかけてきた。すぐそばの沢のいたるところからはこんこんと温泉が湧き出ており、一帯には湯気と硫黄の煙がもうもうと立ちのぼっている。一人五百円の入浴料を払ってはいった露天風呂は白濁した酸性の硫黄泉で、湯加減もほどよく、たちまち肌がつややかになる感じだった。秘湯と呼ばれるだけのことはあって湯舟から眺める沢の景観は実に素晴らしく、渡辺さんなどは、湯舟にインスタントカメラを持ち込んでしきりに周辺の景色を写しておられたほどだった。いまは一面に新緑が映えわたっているが、秋にはその若葉の一枚いちまいが見事な紅葉に変わることだろう。また、すぐ近くには黒湯という呼称のもとになったとおもわれる、黒っぽく透きとおった色の単純硫化水素泉の浴室もあって、我々の身体を奥底から温め、知らず知らずのうちに張り詰めていた全身の筋肉をやわらかくほぐしてくれた。
黒湯で身体を洗い清めたあと、我々は沢沿いの道を徒歩で五分ほどくだったところにある孫六の湯を訪ね、温泉のハシゴをすることにした。雪融け水がほとばしる先達川を見下ろしながら橋を渡ると、なんともひなびた温泉宿が現れた。むろん、孫六の湯である。乳頭温泉郷のなかで湯治場としての風情をもっとも残しているというこの温泉は、「山の薬湯」などとも呼ばれているらしい。泉質の異なる四つの浴場と露天風呂があって、なかでもラジウム含有泉は特に薬効があるらしかった。水音の激しい渓流のすぐ脇にある露天風呂はすこしぬるめだったが、天然の岩を組んでできた湯舟から眺める清流の美しさや、やさしくあたりを包むブナ、トチなどの緑の息吹に感嘆するうちに、身体もほかほかと温まってきた。
露天風呂のすぐ隣の木造りの小屋の中にある石の湯は、大きな一枚岩をくりぬいた浴槽に澄んだ深緑色の単純泉が満々と湛えられていて、湯加減もほどよく、これまた実にいい雰囲気だった。我々のほかには入浴客はおらず、貸し切り状態だったから、もう言うことはなにもなかった。帰りぎわ、孫六の湯の宿泊所脇に湧いている清水を口にしてみると、冷たくコクがあってとてもうまかった。そこで、いったん車に戻ったあと、空のペットボトル五本を携えてもう一度引き返し、ミネラルをふんだんに含んだその水をいっぱいに詰め込んだ。孫六の湯を訪ねる機会のおありの方には、ぜひともこの水を試飲なさってみるようにおすすめしておきたい。
黒湯、孫六の湯をあとにした我々は、いったん国民休暇村のあるところまで戻り、そこから、妙乃湯、大釜温泉を経て蟹場温泉へとつづく道へとわけいった。これら三つの温泉はいずれも先達川沿いにあって、黒湯、孫六の湯の下流側に位置している。妙乃湯のところで先達川を渡ったが、若緑のブナ林を深く刻むその美しい渓谷には、ちょっと言葉では言い尽くせないような懐かしさが感じられた。渓谷美を背景にした露天風呂が売り物の妙乃湯、そして原始的な景観と九八度の源泉をもつ大露天風呂で名高い大釜温泉を過ぎてしばらく進むと、道が行き止まりになった。前方に目をやると、新しい造りの宿が見えている。そこが蟹場温泉だった。どうやら、付近の沢に蟹がたくさん棲息していることにその名は由来するらしい。昔は自炊の湯治場だったというこの温泉は、やはり、原生林に囲まれた露天風呂で知られているが、時代の流れを反映してか、いまでは乳頭温泉郷のなかでもっとも立派な温泉宿になっている。また温泉のハシゴをという思いもあったが、夕暮れも迫ってきたし、まんいち湯あたりでもしたら困るので、蟹場、大釜、妙乃湯の三つの温泉については、とりあえず宿の雰囲気だけを外から眺めてすまそうということになった。
再び大釜温泉、妙乃湯の前を過ぎ、田沢国民休暇村を経て、「秘湯・鶴の湯温泉入口」としるされた案内板の前まで来たときにはもう五時半を回っていた。いったんは通り過ぎようと思ったのだが、こまったことに、看板の「秘湯」という強調文字が我々の心を捉えて放さない。「秘薬」という文句につられてついつい怪しげな薬を買ってしまうときと同じ心理状態で、案内板の指すその林道へとはいってしまった。だが、先達川へと下り、川を渡って対岸沿いに鶴の湯方面へとつづくこの林道には意外なほどに味があった。まずなによりも、この林道から振り向き仰ぐ秋田駒ヶ岳の姿が素晴らしかった。純白の冠雪が静まりかえった森の樹々の緑とうまく調和して、美しいなかにも厳かな雰囲気を醸し出している。先達川沿いの道路脇の深い木立に囲まれた湿地に人目を忍ぶように群生する水芭蕉にも、この地ならではの風情と奥ゆかしさが感じられた。
鶴の湯に着いたのは夕方六時頃だった。訪れるお客が結構多いとみえて、広い駐車場には大型バスを含めてかなりの数の車がとまっていた。観光パンフレットで調べてみると、この鶴の湯は乳頭温泉郷のなかでは最古で、秋田藩主佐竹義隆公以来、代々の藩主の湯治場として知られた温泉だと書かれている。開湯以来三百五十年というその歴史を裏付けるかのように、由緒ある宿だとすぐにわかる立派な長屋風の建物が二棟、中央の広い通路を挟むようにして並んで見えた。ここまで来たら入浴せずに帰る手はない。当然もうひと風呂浴びようということになった。
だが、車を降りて、左右それぞれの柱に「本陣鶴乃湯」、「秘湯鶴乃湯」と記された看板の掛かる古風な木造りの門をくぐろうとすると、日帰りの入浴客は午後五時までしか受け付けないという注意書きが目にとまった。がっかりしていったんは車に戻りかけたのだが、人間だめだと言われるとよけいに気にはなってくる。いささか未練がましい思いにかられながら門前で様子をうかがっていると、たまたま宿の関係者らしい中年の男性がお客を送って駐車場に現れた。なるべくならそういった手段に頼りたくはなかったのだが、このチャンスを活かすには非常手段もやむをえないと、即座に私は決心した。そして、その男の人がひとりになるのを待ってから、旅の途中、急に鶴の湯の取材を思い立ってふらっとやってきたのだが、入浴受け付け時間は五時までということなのでとても残念だと話しかけてみた。
その相手が鶴の湯の支配人、佐藤和志さんだったのは天の祐けと言うほかない。佐藤さんは、どこか薄よごれて怪しげな格好をした我々をとくに訝る様子もなく、すぐに入浴できるよう便宜をはかってくださった。しかも、入浴料はいらないとおっしゃる。なんだか申し訳なくなってはきたが、ここはお言葉に甘えて、昔のお殿様と同じ気分にひたらせていただくことにした。佐藤さんによると、五時で日帰り入浴客の受け付けを締め切るのは、泊まり客の方々にゆっくり温泉にはいっていただくための配慮や、日没後に多い不審者に対する対策上のことなのだという。
門からまっすぐに奥へとつづく道の左手には、かつては藩の警護の侍が詰めていたという本陣が往時の姿をいまも留めて建っている。それは、三百年以上の風雪に耐えつづけたという見事な茅葺きの長屋だった。右手の建物はそれにくらべればずっと新しい造りだったが、やはり一部に白壁を配した木造の長屋だった。両長屋にはさまれた通路の突き当たりには快い水音をたてて流れる湯の沢の清流があって、その清流にかかる橋を渡ってすぐのところに古風な木造の浴棟と大露天風呂が配されていた。我々はまず、本陣の建物の最奥にある管理事務所に立ち寄って佐藤さんに鶴の湯の歴史の概略をうかがい、そのあとすぐに湯につからせてもらうことにした。
浴棟は黒湯、白湯、中の湯の三棟に分かれており、各棟の湯はそれぞれに泉質が異なっていた。泉質分析表によると、澄んではいるが黒っぽい色の黒湯は、身体が芯から温まるナトリウム塩化物・炭酸水素泉、乳白色の白湯は、肌がすべすべしてくる感じの含硫黄・ナトリウム・カルシウム塩化物・炭酸水素泉、そして眼病や神経系統の病気に卓効があるという中の湯は、含重曹・食塩硫化水素泉だということだった。すでに夕食時にかかっていたせいか、かなりの数の泊まり客があると思われるにもかかわらず浴場には他に人影はなかった。照明を抑えた浴棟内にはほどよく湯気がたちこめ、なんともいい雰囲気である。我々はまず黒湯につかり、それぞれに一日を振り返りながら身体を温めた。なるほど、時を待たずに体中がほかほかしてきて、たちまちに疲れがとれる感じである。
しばらくして、こんどは、すぐ隣にある白湯にはいってみた。適度に硫黄分を含んだ白くやわらかな湯は、「肌にやさしい」という表現がぴったりで、皮膚感触が抜群だった。まだ交通の便がきわめて悪かった時代に、大名たちがこんな奥地まではるばる湯治にやってきたというのも、なるほどとうなずける感じだった。温泉のハシゴでさすがにすこし疲れがでたのか、渡辺さんはもうちょっとだけ黒湯につかりなおして湯からあがるということだったので、私のほうは、さきにひとり浴棟をでて、鶴の湯の看板ともいうべき大露天風呂にチャレンジすることにした。
ジャンル別全国温泉百選露天風呂の部で第一位に選ばれたというだけのことはあって、巨大な牛乳岩風呂かとまがうばかりに白くやわらかなその湯は、想像以上に入り心地がよかった。ガイドブックの鶴の湯の紹介記事に偽りはなく、みるみる肌が生き返ってくるような感じである。私は、熱くもぬるくもない長湯向きの湯加減に満足しながら、洒落た石組みの浴槽の奥でじっと目をつむり、半ば眠るようにしてお湯に身をゆだねつづけた。
しばらくすると、突然あたりが騒がしくなり人の動きが頻繁になってきた。急に明るいライトが二・三基灯され、それを待っていたかのように、タオルで胸から下を覆ったテレビタレント風の若い娘が湯舟の端に現れた。ディレクターらしい人物を中心に、ビデオカメラや集音マイクをもった数人の男女がなにか打ち合わせをしているところをみると、どうやらなにかの撮影が始まるらしい。そうこうするうちに見物人らしい人影も増え、さらにもう何人か、やはり下半身だけをタオルで隠した女性たちが姿を見せた。
私のほうは完全に湯からあがるタイミングを逸してしまった。脱いだ衣類とタオルを置いた露天風呂脇の簡易棚はライトアップされてしまっている。多くの若い女性を含む人々の視線のまえに、ライトアップされた中年男のストリップ姿をさらすなど、洒落にもならない。いくら湯加減がいいとは言っても、さすがにのぼせ気味になってはきていたが、ここはじっと我慢するしかないと、首だけを湯から出して湯舟の中に座り込んだ。わたしの姿に気がついたディレクターは、一瞬、「よけいな奴がいるわい」と言わんばかりの表情を見せたが、ほどなく女の子たちも浴槽につかり、結局そのまま撮影が始まった。どうやら、九州地方のテレビ局の温泉探訪番組の撮影らしかった。
いつのまにか露天風呂の周辺はかなりの人だかりになっしまった。綺麗な女の子たちとの混浴という望外のお膳立てとあって、昔のお殿様気分にひたるには格好の展開と言えなくもなかったが、ここまで人目にさらされるとなると、そうそう喜んでばかりもおれなかった。私は、なるべくカメラから遠く人目につきにくい露天風呂の隅へと湯の中を這うように移動し、ひたすら祈るような気持ちで撮影が一段落するのを待った。のぼせすぎて湯の中で気を失うか、我慢しきれなくなってお湯から飛び出し、番外のストリップショウを演じるかの決断を迫られる前に撮影がいったん休止されたのは幸いだったというほかない。いっぽう、そんなこととはつゆ知らぬ渡辺さんのほうは、ひとり車のそばに立ったまま、湯冷めを気になさりつつ、じりじりする思いで私の帰りを待っておられたらしい。思わぬ展開に大名気分も吹っ飛んだ鶴の湯の探訪は、このようにして幕となった。
乳頭温泉郷での露天風呂のハシゴに思いのほか時間を費やしてしまったため、国道筋にでたときにはすっかり夜も更けていた。田沢湖畔に向かう道筋のどこかで晩飯の食材を求めるつもりでいたのだが、困ったことに開いているお店がどこにも見つからない。仕方がないので、もう一度角館方面へと引き返し、ようやく見つけたホカホカ弁当屋に飛び込んで弁当を注文、晩飯にかえた。
田沢湖畔にでたのは真夜中近くのことだった。湖岸沿いの道を右回りに走りながら、我々は車を駐めて眠るのにふさわしい場所を探しにかかった。折りから十六夜の月が南天高くに昇っていたため、田沢湖の湖面や対岸の山並みが澄んだ光のなかにくっきりと浮かび輝いて見えた。実を言うとこの田沢湖にはちょっとした想い出があった。いまから十二年ほど前の一九八四年の八月十八日のこと、私は日本一の水深を誇るこの湖の単独横断遊泳に挑戦した。四二三・四メートルというその桁外れの深さと、摩周湖につぐという透明度に魅せられての、物好きとしか言いようのない試みだった。もしかしたら湖畔一帯の遊泳は禁止されていたのかもしれないが、私は人目を忍んで行動し、湖心からかなり偏ったところにある最深部近くの岩場から水中に入った。
田沢湖は旧火口に水が溜ってできたカルデラ湖である。透明度そのものは極めて高いのだが、湖岸から数メートルと離れないところから、湖の壁面はほとんど垂直に近い角度で落ち込み、底無しの青黒い水中へと消えている。湖岸から数十メートルも離れると、暗く青い色の水のほかにはもう何も見えなかった。四百メートルを超える水深から考えてみれば当然のことなのだが、水中眼鏡ごしに見るその光景にはちょっとした凄みがあった。魚影らしきものはほとんど見あたらなかったように記憶している。
横断遊泳自体は快適そのものだった。真夏のこととあって湖面の水温は思いのほか高く、冷たさはまったく感じなかった。湖岸を離れてほどなく、たまたま近くを通りかかった遊覧船の乗客が私の姿に気がついて、なにやら大声で騒ぎたてているのが聞こえたが、それ以外にとくに支障になるようなことはなにもなく、最深部を横切っての湖面横断遊泳は無事成功をおさめたのだった。
田沢湖に棲む龍の化身、辰子姫の像の立つ浮木神社付近を過ぎ、湖畔を四分の三周して北岸の御座の石神社近くの駐車場に着いた我々は、翌朝までそこで眠ることにした。あたりはしーんと静まり返り、他に人影はまったく見当たらない。車を降りて湖畔にでると、そこで我々を待っていたのは、いまにも竜が立ち現れそうなくらいに美しく神秘的な光景だった。
湖の南側にあたる対岸の山並みの上にかかった月は、湖面を明るく、しかし、どこまでもやさしく静かに照らし出していた。そして、滑らかに磨き上げた巨大な銅鏡を想わせる湖面には、外輪の山々の影が逆さになってくっきりと映り、ほんものの山々と相呼応して虚実一体の見事な対称図を構成していた。時折上空を流れる淡い色の雲のために月の光は刻々と微妙な色合いの変化を見せていたが、それがまた、湖面とそれに接する澄んだ大気に言いようのない彩りを生みもたらし、我々の目を釘付けにした。水中に浮かび漂う月影は、まるで我々二人の魂を湖底深くにいざない去ろうとしているかのようでもあった。
深夜の幻想的な田沢湖に時を忘れて見入るうちに、私は突然ハーモニカを吹いてみたくなった。こんな気分になったのは久々のことである。急いで車のサイドボードからハーモニカを取り出し湖畔に戻ると、湖中に少し突き出た船着き場の先端に陣取り、青い山脈を手始めに、荒城の月、月の砂漠、北上夜曲と、次々に懐かしい昔日の歌曲をメドレーで奏でてみた。いつもよりハーモニカの音色が澄んで聞こえたのも、気のせいばかりではなかったのかもしれない。田沢湖のかもしだす幻夢の世界に酔いしれたあと、我々は車に戻り、明日の旅路にそなえて眠りについた。もう丑の刻に近かったと思う。
私はまったく気づかなかったのだが、そのとき、渡辺さんは、月光に浮かぶ田沢湖を背にハーモニカを吹く私の姿をスケッチにおさめておられたらしい。後日、自由国民社から私の作品集「星闇の旅路」が刊行されることになり、その装画を渡辺さんにお頼いすることになった。そして、いろいろと検討された結果、表紙絵となって登場することになったのは、なんとその晩の田沢湖の情景だったのである。渡辺さんの心のこもった絵というだけあってそれは実に素晴らしく、どこにも文句のつけようなどなかったが、それでもなお、私にはいまひとつだけ気がかりなところがあった。その絵の左下端にあって、せっかくの田沢湖の月夜の風景をだいなしにしてしまっている怪しげな風体の人物は、いったいどこの誰だったのであろうか……。

「マセマティック放浪記」
1999年10月13日
奥の脇道放浪記(7)
長湯の怪記録達成
絵・渡辺 淳
長湯の怪記録達成――義母の故郷阿仁町から黄金崎不老不死温泉へ
翌朝は七時に起きるとただちに御座の石をあとにし、朝日に青く輝く田沢湖をほぼ一周してから湖の五キロほど西側を走る国道一〇五号線にでた。そして、道路沿いのお店で買い込んだサンドイッチをパクつきながら、高柴森と大仏岳の鞍部を越えて阿仁町へと入った。深い谷筋をおおう樹々の緑の瑞々しい比立内の集落に差しかかったとき、私は、不意に、義母が少女時代を過ごしたのはたしかこの阿仁町のどこかで、いまも親戚筋の方が住んでいるとかいう話を耳にしたことを想い出した。渡辺さんに何気なくその話をすると、是非ともそこを訪ねてみようとおっしゃる。義母の旧姓は櫻田といったので、その姓を手掛かりにすればとは思ったが、櫻田という家がそこらじゅうにあったりしたら話にならない。そこで、急遽、近くの公衆電話から伊豆の伊東に住む義母に電話をかけてみた。すると、当時、義母が住んでいたところは阿仁町の荒瀬という集落で、いまはもう櫻田家の者は誰もいないが、親戚の佐々木茂治宅を訪ねてみれば、きっと歓迎してもらえるだろうとのことだった。
集落からはすこし離れたところにある秋田内陸縦貫鉄道の荒瀬駅前に車を駐めた我々は、無人のホームにのぼって「荒瀬」という駅名表示板をバックに写真を撮った。集落の入り口近くにある簡易郵便局で尋ねると、佐々木宅の場所はすぐにわかった。集落のほぼ中ほどに位置する高床造りの立派な家がどうやらそうであるらしい。なんの前ぶれもなしに一面識もない男二人が訪ねたりしたら、先方もさぞかしびっくりすることだろうとは思ったが、ここはもう成り行きにまかせるしかないという感じだった。

佐々木家の玄関のチャイムを押し、来意を告げると、すぐに我々は奥へと通された。義母の従兄弟筋にあたるという老御夫妻はとても穏やかな方々で、突然の訪問だったにもかかわらず、我々はとても温かく迎え入れられた。自己紹介や今回の旅の動機などに始まる歓談がひとしきりはずんだところで、我々は義母たちがかつて住んでいたという家へと案内された。小さく簡素な平屋造りではあったが、その家は数十年の風雪に耐え抜き、いまはささやかな雑貨店になっていた。佐々木御夫妻の話を通して少女時代の義母の姿を想像しながら、しげしげとその古い建物に見入っているあいだに、渡辺さんは手早く周辺のスケッチをしてくださった。渡辺さんの心のこもったそのスケッチを後日プレゼントされた義母などは、感動で胸を詰まらせ、絶句する有り様だった。

先を急がねばならないこともあって、名残を惜しみながらもほどなく佐々木家を辞した我々は、かつては銀山でも知られた阿仁合の集落を抜け、阿仁川沿いに森吉町米内沢にでた。そして、米内沢で国道一〇五号に別れを告げ、阿仁川に沿う県道三号線を走って合川町を通過、阿仁川が米代川本流に合流する小繋付近で国道七号に入った。国道七号を東能代まで爆走したあとは、米代川を渡って峰浜村へと続く広域農道を北上し、水沢付近で国道一〇一号に合流した。峰浜村周辺の広大で緑の豊かな農業地帯を走っていると、心が潤い、体内に活力が甦ってくるような気分だった。
日本海を左手に見ながら国道一〇一号を進み、秋田県側の八森町を経て青森県岩崎村にはいる頃になると、空が急に暗くなり、強い西風が吹き始めた。かなりの数の家々の密集する集落をいくつか通り過ぎたが、まるで広域停電下の地帯を夕暮れ時に走っているような感じである。曇天下のこととはいっても、まだ午後二時くらいであることを思うと、異様な暗さというほかない。大きめの商店の前を通りかかったとき、何度か中をのぞいてみたのだが、どの店も明かりがついていないか、ついていても申し訳程度に明かり灯っているだけで、なんとも薄暗い。なんらかの理由で、皆が申し合わせ節電でもしているのだろうかと考えたりもしたが、どうやらそうでもないらしい。たぶん、この地方特有の気象の関係もあって、年間を通じて昼でも暗い日が多く、人々がすっかりそれに慣れてしまっているせいなのだろう。そういえば、かつて津軽半島の西海岸を竜飛岬に向かって旅したときも、これとよく似た、暗く淋しい風景がどこまでも続いていたように思う。ただ、あえて付け加えておくと、この憂いを含んだ独特の暗さの奥には、明らかに偉大なものを生み出す力が秘められているのだ。
車はやがて陸奥黒崎の集落に差しかかった。低く垂れ込めた黒雲に覆われて山影こそ見えなかったが、この地の東側一帯に位置する山系は、広大なブナの原生林を有するあの白神山地である。その自然が世界自然遺産に指定され、一躍脚光を浴びることになった白神山地は、日本海から絶え間なく吹き寄せる多湿で冷涼な大気のおかげで、貴重な天然ブナ林を時間を超えて守り育むことができたのであろう。極言すれば、気流、海流、地形の三者が相関しあって生み出すこの暗さこそが、白神山地の豊かな自然と、この地方に特有な文化の育ての親なのでる。
予定では陸奥岩崎の集落付近で国道に別れを告げ、白神山地の北部を東西に走る弘西林道にはいるつもりでいたのだが、せっかくだから、国道をもう少し先まで行って、黄金崎の不老不死温泉を訪ねてみようということになった。陸奥岩崎の集落の北側では、日本海に向かって陸地がコブ状に迫り出している。その半島の北寄りの突端に位置するのが黄金崎で、そこの磯辺には旅好きな者の間では有名な露天風呂がある。
激しい西風に煽られ、暗い海面から霧状の冷気の吹き上がる舮作(へなし)岬の岩場を経て黄金崎の不老不死温泉に着いたのは午後三時半頃だった。かなり大きな温泉ホテルが二軒ほどあったが、我々はそれには目もくれず、それらのホテルの裏手にある磯辺の駐車場に車を駐めた。鉛色の空と海の接するあたりから絶え間なく湧き寄せる湿った大気は、あくまでも冷たくそして重たかった。
お目当ての不老不死温泉の露天風呂は、波頭を白く逆巻かせながら高波の寄せる荒磯のただなかに位置していた。わずかに霧雨を含んだ強く冷たい風に身を震わせながら、磯辺の岩伝いに露天風呂に近づくと、学生風の若者が一人で入浴しているところだった。湯加減を尋ねると、ちょっとぬるめなので、今日のこの寒さだと、ゆっくり身体を温めてからでるようにしないと風邪をひいてしまいそうだという返事か戻ってきた。不老不死温泉にはいったおかげで命が縮まったというのでは洒落にもならないが、ここで入浴を臆したりしたら、それこそ露天風呂通の名が泣いてしまう。意を決した我々は、素早く衣服を脱ぎ、雨に濡れないようにそれらを湯舟のまわりの岩のすきまに押し込むと、大急ぎでお湯の中へと飛び込んだ。
泉質は、細かな粒子の赤土を溶かしたような色の含鉄性塩泉で、かすかに鉄錆のようなにおいがし、なめるとかなりしょっぱかった。冷風のために身体が冷えていたこともあって、はいってすぐにはぬるいという感じはしなかったが、先客の言葉通り、長湯向きの温泉には違いなく、しばらくつかっていると、すぐにはでたくないという気分になってきた。この露天風呂から眺める落陽の美しさは有名で、それこそ海面が黄金色に映えるのだが、この日はとても夕陽のみられるような状況ではなかった。
海側を見やると湯舟のすぐそばまで激しく波が打ち寄せてきていて、野趣に富むことこのうえない。海面がぐっと盛り上がり、ひときわ大きな波が迫ってきたときなどは、湯舟ごと海水につかってしまうのではないかとさえ思われた。先客の若者が湯からあがって二人きりになったあと、我々はすっかりいい気分になって一時間ほど湯舟を占領しつづけた。もっとも、湯からでたら寒そうだから、でるにでられなくなってしまったというのがむしろ本音ではあった。
かなり離れたところにあるホテルの窓から、ときおりこちらの様子をうかがっていた泊まり客には、我々二人の入浴姿がよほど気持ち良さそうに映ったらしい。しばらくすると、一組のアベックと、若い女性を含む男女の一団がやってきた。そして、それまでとはまるでうってかわった賑やかな混浴状態となった。湯舟のなかで皆の話が大いに弾んだこともあって、それからまた一時間ほど我々は湯につかりつづけた。普通ならとっくにのぼせているところだが、このときにかぎっては、そんな感じはまったくなかった。

だが、ほどなく事態は一変した。一段と風が強まり、雨足が激しくなったかとおもうと、耳をつんざくような雷鳴とともに、青く不気味な稲妻が海のほうから迫ってきた。いい気な人間どものヘソを有り難く頂戴してしまおうというのが、雷様の魂胆であったらしい。激しい雷光と雷鳴におそれをなした入浴客のほとんどは、皆大慌てで露天風呂から飛び出し、抱えた衣類で裸身を隠すようにして引き揚げていった。そんな騒動の中で、えい、ままよ、こんなヘソでもよいならば喜んで差し上げましょうと開き直ったのは、むろん、我々二人である。激しく寄せる風浪にくわえて、雷神様の特別出演というおまけまでついた露天風呂なんて、そうそう体験できるものではない。すっかり腹をきめ、どっかりと湯舟の底に尻をすえたら、これがまた、なんともいい気分なのである。かくしてまた我々二人は、それから一時間ほど、黄金崎の名物露天風呂を独占することになった。なんと三時間も続けて温泉の中につかりっぱなしだったことになる。
雷様のお怒りをしりめに記録的長風呂を楽しんでいる最中に、なにげなく湯舟の端から半分身を乗り出した途端、私は奇妙なものとはちあわせになった。目の前に、恨めしそうな顔をしたろくろ首のようなものがヌーッとばかりに現れたのである。思わず声をあげそうになったが、よくよく我が目を凝らして見てみると、なんと、それは一羽の大白鳥の姿だった。寄せ来る夕潮に足をひたしながら、湯舟の石組みのすぐそばにたたずみ、こちらのほうに首先を伸ばして、なにやら語りかけるような目つきで我々のほうをじっと見ている。その表情はどこかもの悲しそうでもあった。
なんで今頃こんなところに白鳥がいるのだろうと怪訝に思いながら、そのしぐさをつぶさに観察してみると、どうやら左の翼のなかほどを傷めているらしいことがわかってきた。仲間と北方へ戻る途中、なんらかの事故にあって翼を傷め、飛べなくなってこの黄金崎の地に緊急避難してきたものらしい。多少人馴れしているところをみると、近くに住む誰かが、時々餌をやっているのであろう。湯舟のすぐ周辺をゆっくりと移動しながら水中の餌をついばみ、時折、立ち止まっては、毛づくろいをし、思い出したように羽をはばたいてみたりしている。温泉に入れてやって羽が治るものなら、すぐにもそうしてやりたい気持ちだったが、こればっかりは我々の手ではどうにもならない。胸の内のやるせない思いを押し殺しながら、渡辺さんと私はじっとその様子を見つめるばかりだった。
白鳥が岩陰のほうに遠ざかり、その姿が見えなくなると、我々は無言のまま再び湯の中深くに身を沈めた。湯の中に入って三時間が過ぎようとしていた。いくら外が寒く、雷雨のおまけがついたからといっても、湯につかりっぱなしで三時間はあんまりである。しかし、そのあんまりなことを、我々はとうとうやってのけたのだった。雷がじょじょに遠のき、激しい雨足がおさまっていなければ、四時間の記録への挑戦となっていたかもしれない。さいわいというか、雷鳴も雨もいったんやんだので、我々は大急ぎで岩穴から引っ張りだした衣服をすばやく身につけ、ようやく車へと戻ったようなわけだった。温泉に含まれる塩分と鉄分のせいで肌がべとつく感じだったが、人間の塩漬けができたのでないだけ、まだましというものだった。
車の運転席に戻り、エンジンをかけながらもう一度波打ちぎわのほうを見やると、さきほどの大白鳥のさびしそうなうしろ姿が目に飛び込んできた。来るはずもない仲間を待ちつづけてでもいるのだろうか、遠い沖のほうを見つめながら一羽ぽつんとたたずむその姿は、ただただ哀れを誘うばかりであった。激しく吹き寄せる冷たい潮風には、白鳥の本能をかきたてる何かが秘められているのであろう。思い出したかのように羽ばたき、そしてまた、諦めきれない様子で遠い空にじっと見入る姿に、我々は、あらためて自然界の掟の厳しさを痛感させられるばかりだった。
黄金崎の露天風呂をあとにした我々は、いったん岩崎の集落にもどり食料を補給したあと、黄金崎と隣り合う舮作岬の椿山温泉を訪ねることにした。岩崎村直営のこの宿泊保養施設に行って温泉のハシゴをし、先刻の露天風呂で身体中についた塩分を洗い流してしまおうというわけだった。切り立った断崖の上に位置する椿山温泉の大展望風呂は、天井が開閉式になった近代的な造りになっていて、眼下に広がる海の景観もなかなかのものだったが、入浴者は我々二人だけというなんとも閑散とした状況だった。この施設はかなり大きく、造りそのものも近代的でとても立派なものなのだが、思惑とは違い、いまひとつ経営がうまくいっていない感じである。おそらくは、かつての全国的な村おこしブームに乗って建造され、世界自然遺産にも指定された白神山地のブナの原生林を見学にやってくる観光客を当て込んでいたのであろうが、結果的にはかなり計算がはずれてしまったということなのだろう。入浴後、係の人にそのへんのことをさりげなく尋ねてみると、こちらの想像通りかなりの赤字なのだそうで、公営施設だからいいようなものの、これが民間の施設ならとっくに閉鎖されているだろうということだった。
結局、この日の夜は、椿山温泉からそう遠くないところにある道の駅で車を駐めて車中泊をすることになった。小雨の降るなかで晩飯をつくって食べたのだが、お腹がすいていたこともあって、とても美味しく感じられた。十一時頃には無事就寝となったのだが、黄金崎の白鳥は今頃どうしているのだろうと考えたりしはじめると、どうしても目が冴えてきて、なかなかに寝つくことができなかった。
「マセマティック放浪記」
1999年10月20日
奥の脇道放浪記(8)
白神山地と湖畔の幻夢
絵・渡辺 淳
翌朝は比較的遅めの午前九時半に出発した。昨日と違って天気もよかったが、こころなしか、光は淡い感じがした。陸奥岩崎の集落から白神山地の北部を走る弘西林道を経て西目屋に抜けようと思ったが、林道入り口近くに、深い残雪と道路崩壊のためなお通行不能との警告表示がなされていた。例のごとくまた現場まで突っ込んで、わずかな可能性にかけてみる手もなくはなかったが、過去に二、三度この林道を走ったことのある私は、状態がよいときでさえ大変な悪路であることを知っていたので、即座にに撤退を決意した。
あとは、五能線の走る海沿いに北上し、深浦、大瀬戸と経て鰺ケ沢方面へと抜けるしかない。私は国道筋に車を戻すと、グイとアクセルを踏み込んだ。穏やかに晴れた空のもとであるにもかかわらず、車窓左手に広がる日本海が、どことなく陰りを帯びた青い色に輝いて見えるのは、午前の太陽が右手の陸地側から射し込んできているせいなのであろうか、それとも、単に心理的な問題なのであろうか……。
千畳敷の岩場で知られる大戸瀬崎をまわってしばらく走りと、斜め前方に鬼面を想わせる山容の、ひときわ大きな山が見えてきた。津軽の名山、「岩鬼山」である。岩鬼とはよくいったもので、その頂上部にある三つほどの岩峰がうまく組み合わさって、恐ろしげな鬼の顔に見えるのである。津軽の名山、「岩鬼山」と書いたが、そんな山があったかなと首をひねられるむきも多かろう。実はこの山、眺める方向や眺める距離によって姿形が異なって見えることもあって、別の名で呼ばれることも少なくない。いや、そのほうが一般には通りがいい。津軽富士として名高い「岩木山」といえば、どなたでも、「そうか!」と納得なさるはずである。岩木山の「木」と岩鬼山の「鬼」とは音読みが同じで「き」あることを思うと、岩鬼山という呼び名のほうが本来の名称だったのではなかろうか。
ついでに述べておくと、岩木山は、北東側の五所川原あたりや南側の弘西林道方面から眺めると、秀麗なコニーデ型の山に見える。東側の弘前あたりからだと、西側からの眺望と同様に恐ろしげな形に見えるが、同じ東側でも黒石あたりより東の一帯から望むと、遠目になるせいで、やはりコニーデ型の独立峰に見える。
ほどなく、鰺ケ沢町赤石の集落に入った我々は、そこから、白神山系二ッ森山一帯を源流とする赤石川伝いに赤石林道を遡り、弘西林道に突き当たる赤石橋から東に進路をとって、西目屋に抜けることにした。せめて弘西林道の東半分くらいは走破して、初夏の白神山地の自然の息吹の一端くらいは味わいたいものだと考えたからにほかならない。

途中の熊ノ湯温泉付近までは鋪装された快適な道路が続いていたが、それから奥に進むにつれて、林道はゴツゴツした岩のむきだす、段差だらけの悪路となった。道幅も狭まったうえに、急角度の傾斜をなして左右に激しくうねっているから始末が悪い。エンジンは拷問に悶える囚人のような音をたて、ハンドルがバイブレータのように絶え間なく振動するので、手先の感覚がなくなってしまいそうだった。おまけに、断続的にガーンという衝撃をともなって車が宙に跳ね飛ぶために、浮き上がった身体がシートに激しく叩きつけられたりして、いまにも内蔵がとびだしてしまいそうな感じだった。
こんなひどい道を走るのははじめてのことだとおっしゃる渡辺さんを横目に、それでも私はハンドルを握りつづけた。さいわいというか、私のほうは、これに類する道を何度となく走ったことがあるし、以前は目指す弘西林道そのものが、これよりもっとひどい悪路だった記憶があるから、すこしもひるむことはなかった。むろん、過去にそんな体験の蓄積がなかったら、途中で臆して退散してしまっていたかもしれない。
道はひどかったが、赤石渓谷沿いの緑の美しさは格別で、それがなによりの救いとなった。世界自然遺産に指定されたブナの原生林のある白神山地中心部からはずいぶんはずれているにもかかわらず、見事なブナの林が道の両側に広がっている。そして、弘西林道との出合い地点が近づくにつれて、渓谷は深まり、樹相も密になってきた。目指す赤石橋に到着したのは、昼前だったように思う。
弘西林道の赤石橋付近は、以前と違って道が拡張整備されており、現在も道路拡張工事が続行されている様子だった。たぶん、弘西林道全体を整備し、観光で訪れる車の通行の便宜をはかろうということなのだろう。赤石橋の近くに臨時に設置された警告表示板に目をやると、道路崩壊と修復工事中のため、西目屋方面にも岩崎村方面にも通行不能だと記されていた。世界自然遺産にも指定された白神山地最大のブナ原生林が広がる追良瀬川や笹内川の源流域に行くには、赤石橋から西に向かって二つほど大きな山越えをしなければならない。現在どの程度整備されているのかはわからなかったが、過去の記憶からすると、赤石林道以上の凄まじい悪路であった。その道が崩壊して工事中とあればよほどのことなのだろう。可能なら追良瀬川流域まで入り込みたいと思っていたのだが、結局、それは断念せさるを得なかった。
赤石林道は、弘西林道とクロスしたあと、さらに秋田県境に近い赤石川源流域までのびており、この一帯のブナの原生林をはじめとする自然も素晴らしい。西目屋方面から弘西林道経由で私がはじめてこの地を訪ねたときには、この赤石川源流域にも車ではいることができた。だが、現在はその方面への入り口も厳重な鉄ゲートで閉ざされていて、車では赤石橋から先に進むことはできないから、それ以上は徒歩に頼るしかない。世界自然遺産に指定されたあと、自然環境の悪化を恐れて地元の林業関係の車をも締め出すことになったのだろうが、それは適切な処置だったといってよい。
もともと、この白神山地をはさむ青森側と秋田側のあいだには生活道路の含みをももったスーパー林道の建設が行われる予定であった。青森県の西目屋と秋田県の藤里町あたりとを直接につなぐことによって、両県の経済や文化の交流を活発にし、地域のの活性化をはかろうということだったらしい。地理的にみてそれなりの説得力をもつ開発計画ではあったので、当時の秋田県知事をはじめ地元には支持者が多く、一時は建設が強行されようとした。だが、心ある人々のあいだから、貴重な自然環境が破壊されるという強い反対の声があがり、二転三転したあと、ようやく道路の建設が中止になった経緯がある。この一帯が世界遺産に指定されたのは、それからしばらくしてからのことであった。
車を降りた我々は、新しく架けなおされたばかりの赤石橋のうえに立ち、深い緑に包まれた赤石渓谷周辺の景観を眺めやった。当初の思いと違って、壮大なブナ林を渡辺さんに見せてあげられなかったのは残念だが、状況が状況だっただけに、ここまで来られただけでもよしとするしかなかった。
なんとか西目屋方面に抜ける手だてはないものかと、もういちどつぶさに警告表示板の注意書きを読むと、ここから四・五キロ東へいった四兵衛森山付近から先が通行不能になっているという。どうあっても、もう一度赤石の集落に戻り、鰺ケ沢へとでるしかないようである。渋々ながら、我々は再び赤石林道を戻りはじめた。来るときには素通りしてきたが、赤石橋から三十分ほど下ったところに休憩所らしい施設があったので、その前に車を駐めて昼食をとることにした。すぐそばの沢には水場があって、冷たい清水が流れている。まずは喉を潤し、顔を洗い、そして、ペットボトルにその水を詰め込んだ。大気は澄み、気温もほどよく、若緑の木立を吹き抜ける風も爽やかで、当然のように食欲も進んだ。
昼食後、我々以外にはまったく人気のないログハウス風の休憩施設をのぞいてみると、驚いたことに、これがなんとも立派な造りの建物だった。ごく最近建てられたばかりらしく、なにもかもが真新しい。もしかしたら、一般の来訪者では、我々二人が最初なのではないかとさえ思われた。中はしっかりした二階建ての構造になっているうえに、燃料や食料その他の物資を保存するための広い地下室まであり、水道、トイレ、炊事用台所が完備、さらには、数十人は楽に寝泊まりできるほどのスペースをもつ暖房設備つき洋間、新品の畳敷きの部屋、上空や周辺の景色を眺めることができる洒落た天窓と、至れり尽くせりなのである。しかも、常時無料で開放されていて、誰もが自由に利用できるようになっているらしい。
明らかに厳冬期の利用をも想定したとおもわれる、そのしっかりした造りから察すると、冬季に白神山地に分け入る人々のための無人避難小屋の役割をも担っているのだろう。これが夕方のことならば、すぐにもこの施設に泊まることにしたに違いない。そうでなくても、一晩ここに泊まっていきたい気分だったのだから……。板彫りにして入り口に掲げられているこの施設の名にあらためて目をやると、「白神さん家(しらかみさんち)」となっているではないか。誰か考えたのかは知らないが、なんとも洒落た名前である。もちろん、「白神山地」にも掛けてあるのだろうが、その名称の発案者のウイットには、唯々脱帽するばかりだった。
「白神さん家」をあとにし、三十分ほど赤石林道をくだると、「くろくまの滝」見学路入り口に着いた。ついでだから滝を見ていこうということになり、車を降りて、深いブナ林に覆われた渓谷沿いの林道を二十分ほど奥のほうへと分け入った。ブナの巨木の間を縫い、残雪に半ば埋もれた巨大な倒木をいくつか踏み越えて進むと、落差八十五メートルもあるという水量豊かな滝の前に出た。激しい水煙が立ち昇り、折からの風に乗ってあたり一面に霧雨となって降り注いでいる。どうして「くろくまの滝」という名がつけられたのかはわからないが、滝壺の周辺によく熊でも出没し、水浴びでもするのであろうか。名称の由来は気になったけれども、このあたりの熊たちと挨拶を交わす予定はとくになかったので、我々は、耳をつんざくような轟音のなかで四、五分間その壮観な滝に見とれたあと、車へと戻った。
赤石林道を引き返し、再び赤石の集落を抜けて鰺ヶ沢の中心街にでたあとは、岩木山の西から南山麓を巻いて弘前市に至るルートをとった。左右にゆるやかなカーブを描きながら快適なドライブウェイが続いている。高度が上がるにつれて周辺の地形が高原状に変わり、いっきに展望が開けてきた。大きく傾いた西陽に輝き映える若葉は、またとない心の清涼剤だ。赤味の増した陽光に染まる岩木山頂の巨大な岩峰は、旅人に睨をきかす赤鬼の顔そのままである。

弘前に近づくにつれて、岩木山麓を縫う道の両側いっぱいによく手入れの行き届いたリンゴ畑が広がりはじめた。さすがはリンゴの本場だけのことはある。リンゴの熟す季節にはまだ何ヶ月もあるが、我々は赤い実のたわわになる光景を想像しながら農園沿いの道を走り抜け、弘前市街に入った。そして、市街の中心部をいっきに通過すると、黒石方面へとハンドルを切った。夕陽を背に車は一路東へと疾走し続けた。
黒石市に入る頃には、真っ赤に燃える太陽が岩木山の右肩に落ちかかった。西の空は一面荘厳な赤紅色に染まっている。我々は車を停めてしばしその凄じい大気の炎上に見入っていた。やがて太陽が稜線の向こうに沈むと、黄昏の空を背にして、岩木山のシルエットが幻想的な色合いを帯びて浮び上がった。さすがは津軽富士である。
助手席に坐るのが、渡辺さんではなく、誰か素敵な女性だったらもっといいのになあ、などというよからぬ思いが一瞬脳裏をよぎったが、そんなことなどつゆ知らぬ渡辺さんは、西空を見つめたままである。いや、もしかしたら渡辺さんは渡辺さんで、運転席にいるのが私でなかったらと、考えていたのかもしれない。
黒石市を抜け十和田湖へと向かう途中で一風呂浴びたくなった我々は、いったん脇道に入り、進行方向左手の山奥深くに眠る青荷温泉を訪ねてみることにした。エンジンを唸らせながらぐんぐんと急峻な山道を登り、山ひだのいちだんと深く入りくんだところにある青荷温泉に辿り着いたときには、あたりはかなり暗くなっていた。お目当ての青荷温泉の雰囲気は、想像通り秘湯の名に恥じないものだった。だが、残念なことに、日帰り客は夕方五時までで、それ以降はお断りとの注意書きが入口の脇に立てられていた。鶴の湯でのような幸運をもう一度とも思いかけたが、世の中そうそううまくはずがない。深山の湯に未練はあったが、いろいろと状況を検討した結果、ここはいさぎよく撤退しようということになった。再び国道に戻る途中の山岳路から遠望する岩木山は神秘的な輝きの微光にふちどられ、その姿は一幅の絵巻きそのものだった。

十和田湖北西側の展望台に着いたときには既に午後九時を過ぎていた。ヘッドライトを消し車から降りて深い闇の中へと一歩踏み出すと、頭上遥かな天空から無数の星の光がシャワーとなって降りかかってきた。久々に目にする感動的な星空である。
再び車に戻った我々は十和田湖西岸をまわって湖岸南端の和井内に移動し、そこの駐車場で一夜を明かすことにした。この地には、度重なる失敗の末に、十和田湖でのヒメマスの養殖に成功した和井内貞之の偉業を讃える碑が建っている。
遅い晩飯の仕度をし、それを食べ終える頃になって、ようやく東の空からお月様が姿を現した。そして月が昇るにつれて、うっすらと霧のかかった十和田湖の湖面が淡い輝きを発しはじめ、どこか不思議なその光が私の記憶の地層深くをほのやかに照し出した。
そういえば、あの晩も美しく静かな月夜だった。まだずいぶんと若かった私は、とある女性とともに訪ねたこの湖畔に佇んで、見えない未来を見えるふりをして見つめていた。そして、時の流れたいま、未来の何たるかをそれなりに悟った私は、淡い光を発して湖面に漂う夜霧の奥に、いささかの傷みを秘めておぼろに浮ぶ遠い過去を見つめている。若き日の未来の想像図といま見る過去の回想図とは、表裏一体となって、不思議な感動を私の胸にもたらした。「翔ぶということは痛いということなのね」という返事に窮するような言葉を残した、その髪の長い人物の端麗な面影を、私は懐しく想い起こした。
翌朝は午前七時半に和井内を出発、休屋に立ち寄って湖畔に立つ高村光太郎作の「乙女の像」を訪ねてみた。どういういきさつでこの彫像にそのような呼称がつけられたのかは知るよしもなかったが、ふくよかでどっしりと大地に根を下したような体つきのそれら二体の女性の裸形は、むしろ「母像」、あるいは「おばさんの像」とでも呼んだほうがよい感じがした。むろん彫像としては大変優れたものなのだろうが、いくらなんでも「乙女」はないだろうなというのが率直な想いだった。もっとも、それは、芸術的な眼をもたない私の偏見だったのかもしれない。気になって、後日、光太郎の晩年の作品を調べてみると、次のような詩が目にとまった。
十和田湖の裸像に与ふ 高村光太郎
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のやうに立っている
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくずれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙って立ってろ
この詩を読むかぎりでは、「乙女の像」という題名に直接つながる言葉はどこにも出てこない。また高村光太郎論などを読むと、光太郎がこの像を製作するとき実際にイメージしたのは無垢な乙女の姿ではなく、かつて苦楽を共にした女としての智恵子だったとも述べられている。美術の研究を専門とするある知人の言によれば、「裸婦群像」というのが本来の作品名ではなかろうかということだった。その真相のほどはともかくとして、「乙女」であることに自信のなくなった女性があれば、十和田湖畔を訪ねてこの像を仰ぐがよい。かならずや「乙女」としての自信を取り戻すことができることだろう。
休屋をあとにすると、瞰湖台展望所、子の口を経て、十和田湖北岸にそびえたつ御鼻辺山へ向って車を走らせた。子の口を過ぎしばらくすると道は急峻になり、エンジンが激しい唸りをたてはじめた。高度が上がるにつれ、薄緑色に煙るようなブナ林が現われた。やわらかな新芽を吹き出したばかりのブナの樹々の根元一帯はまだ深い残雪に覆われ、地肌はまったく見えない。車を停めて高さを競うブナの大木を眺めながら、ふと根元の雪面に視線を落とすと、野生の小動物の足跡とおぼしきものが、点々と林の奥へと続いていた。
十和田湖随一の景観を誇る御鼻辺山展望台周辺には、我々のほかに人影はなかった。崩落の危険があるというので展望台は立ち入り禁止になっていたが、ちょっとだけお許しくださいと警告を無視して展望台に立つと、美しく静かな湖面が目下の視界いっぱいに広がった。はじめてこの御鼻辺山の頂きに足跡を刻んだ古代の山人の気分になったような思いだった。

「マセマティック放浪記」
1999年10月27日
奥の脇道放浪記(9)
遠き日の幻影の中で
絵・渡辺 淳
遠き日の幻影の中で――八甲田山から下北半島へ
御鼻辺山からの十和田湖の眺めを満喫したあと、我々は奥入瀬渓谷の最奥にあたる子の口まで戻り、奥入瀬川に沿って下ることにした。紅葉で名高い奥入瀬だが、清洌な渓流を包み守るようにして息吹く新緑も紅葉におとらず美しい。緑の魔術に体内の細胞の一つひとつが蘇る思いにひたりながら、十和田温泉郷まで渓谷を下り、そこから八甲田連峰方面に向う道に入った。途中、主道から右手に分れる道を上ると、八甲田連峰を一望のもとに見渡せる高原にでた。まだ午前九時半、晴れた朝のやわらかな太陽に明るく輝く広大な風景を渡辺さんがスケッチする間、私のほうは牛や馬、山羊などがのんびりと若草を喰む姿を眺めていた。あたり一面を濃い黄色に埋め尽すタンポポの花も見ごたえがあった。

主道へと再び合流し、谷地、猿倉を経て八甲田連峰の奥深くを縫う谷筋の道に入ると、残雪の量が急激に増えてきた。六月初めというのにこのあたりはなお冬の終わりから早春にかけての様相を呈している。両側の斜面遥かに続く深い林もまだ厚さ二・三メートルの雪に覆われ、白い眠りから覚めていない。この残雪の多さからするとさきの冬は特別な豪雪だったのだろう。版画にもなっている渡辺さんの絵、「冬の光景」を脳裏に想い浮かべながら、アクセルを踏み続けるうち、車は傘松峠を越え、ほどなく八甲田の名湯、酸ヶ湯温泉に到着した。
酸ヶ湯は長い歴史を秘めた陸奥の古湯で、八甲田山を訪ねる誰もが必ずといってよいほど立ち寄る宿でもある。私自身この温泉の白く滑らかなお湯でこれまで何度旅の疲れを癒したことだろう。むろん、いつも貧乏旅行だから、お湯には入るが宿に泊まったことはない。以前は全体が古く大きな萱葺きの屋根をもつ造りになっていたが、現在は改築されて新しい建物に変わっている。ただ、幸いなことに、青森ヒバで造られた古い浴槽がいくつも並ぶ大浴場は健在で、昔ながらの風情をなおもとどめていた。
とても肌によい弱酸性の硫黄泉のこの温泉を目の前にして、一風呂浴びずに通過するなどという手はない。我々は入浴料を払うとタオル片手に湯気の立ち昇る大浴場へと滑り込んだ。まだ午前十時過ぎだったこともあって、入浴者は少なかった。あり余る湯をふんだんに活かした打たせ湯、寝湯、そして湧きたての湯を満々とたたえた木造りの浴槽が心身を温め安らわせてくれたことは言うまでもない。
宿の食堂で簡単な昼食をすませ酸ヶ湯をあとにした我々は、青森駅にちょっとだけ立ち寄ってから野辺地へと出、そこから下北半島を北上することにした。三内丸山の縄文遺跡を訪ねたいという思いはあったが、下北半島の突端大間崎で夕陽を見ようということになったので、時間の関係上、先を急いだわけだった。
陸奥湾を左手にして一直線に北にのびる国道を快走しながら、私はまた、ずいぶん昔のことを想い出した。当時、この陸奥湾産のホタテにはある種の毒素が含まれているという事実が大々的に報道され、その売れ行きが大きく落ち込んでいた。ひねくれものの私はこの街道沿いのお店をはじめとする下北一帯の何軒かのお店に立ち寄っては、ホタテの刺身やホタテ鍋を驚くほど安い値段でたらふく食べまくった。とても美味しかったことだけがいまも記憶の片隅に残っている。その頃のホタテに毒素が含まれていたのは事実だったが、科学的に考えると、人体に影響が現れるのは、そのホタテを毎日毎日何年にもわたって食べ続けた場合である。一日や二日どんなに大喰いしたってそれが原因で自分の体がおかしくなるなんて考えられなかったし、そんなものより遥かに有害な食品を日常生活の中で相当量摂取していることがわかっていたから、私は少しも臆しなかった。


陸奥市街を抜け、恐山霊場方面へと向う道に入ると、ほどなく道路の両側は暗く深い林に覆われ、いかにもものものしい雰囲気に包まれてきた。そこだけ平地の広がる恐山霊場前の駐車場に着いた時には時計の針はもう午後四時半をまわっていた。青い水を湛えたカルデラ湖、宇曽利山湖の北側に恐山霊場は位置している。恐山を訪ねるのももう何度目かだが、昨夜十和田湖で懐かしく顧みた、いまは遠い幻影の世界の主と共に私が初めてここを訪ねたのは、月の綺麗な秋の夜だった。脇野沢から仏ヶ浦をへて大間崎を巡り、大畑からこの恐山に着いたときには、あたりはすっかり暗くなり、 東の空から満月を少し過ぎた月が昇ってきたところだった。むろん、入山受付時刻はとうに過ぎていて、山門付近には他に人影はなかった。だが当時は今と違って霊場内と駐車場を隔てる柵は形ばかりのもので、その気になれば何処からでも簡単に柵間を通り抜けることができた。まだ赤味の残る淡い月明りと光の衰えかけた懐中電燈を頼りに、私は躊躇うことなく霊場内へと足を踏み入れた。端麗な容姿にもかかわらず学生時代「カミソリ」という異名をもらっていたその気丈な女性も、むろん、迷わず私のあとについてきた。
死者の魂があつまり漂うという恐山霊場を夜男女二人だけで歩くなどということは、気違い沙汰だと思われても仕方がない。だが、ネットをもって人魂を追いかけたという寺田寅彦のエッセイに触発され、少年時代、似たような体験を求めて、お寺や神社の裏手、村はずれの墓地などを夜中に歩きまわったことのある私は、それを別段怖いことだとは思わなかった。気丈とはいってもさすがに彼女のほうは緊張を隠せない様子だったが、それでも遅れずについてきた。
赤茶けてごつごつした岩場が高低をなして大きくうねるように広がり、鼻をつく硫黄の煙が四方に漂い、さらには地中のあちこちから熱湯が吹き出している恐山霊場は、昼間訪ねてみても実に荒涼とした感じがする。まして、人の気配の途絶えた夜とあっては、淡い月光に浮かぶその異妖な光景に想像を絶する凄みがあるのは当然のことだった。月が高く昇るにつれて月光は明るさを増し、その中に浮かぶように立ち並ぶ賽の河原の無数の石積みは、それぞれに深く秘める悲しい物語を旅人の我々に切々と訴えかけてくるかのようであった。
黒ぐろとした影を落として地蔵菩薩の立つ岩山の陰を縫う細道を抜け、宇曽利山湖の湖畔に降り立つと、静まりかえった湖面には大きな人魂を想わせる月影が漂うように映って見えた。湖にそって広く長くのびる石英質の白砂の浜辺に二列の足跡を刻みながらゆっくりと歩いていると、突然サーッと風が起こり、それに合わせるようにして、カサカサ、カラカラという奇妙な音がどこからともなく聞こえてきた。彼女が反射的に私の左腕にしがみつく。さすがに私も一瞬背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
気を落ち着けながら不思議な音のするほうへと近づいてみると、砂地の上に立てられた何本もの短い棒状の先端で何かがカラカラと音をたてながら回っている。懐中電燈で照らし出して見ると、なんとそれらは、霊場を訪なう人々が、いまは亡き縁者の霊への鎮魂の祈りを込めて湖畔に立てた風車だった。数知れぬ風車が一斉に回りだしたときに起こる波打ちざわめくような響きは、地の底から涌き上がってくる死者たちの悲哀こもごもの呟きのようにも感じられた。幸いなことに、このなんともけしからぬ霊場徘徊にもかかわらず、その後も我々にはとくに不吉なことは何も起こらなかった。あまりの図々しさに、恐山一帯に漂う霊魂も呆れはて、遠巻きにして眺めでもしていたのであろうか。
胸の奥でそんな遠い日の出来事を想い起こしながら、私は渡辺さんと一緒に恐山霊場の門をくぐった。正しくは恐山菩提寺といい、九世紀頃に慈覚大師円仁によって開基された霊場で、本尊は延命地蔵菩薩である。さすがに今回は受付でちゃんと入山料金も払ったうえでのことだった。霊場で研修や修業をつむ人々のための宿泊施設の脇を通っていると、簡素な造りの「古滝の湯」という温泉棟があるのに気がついた。古びた引戸を開けて中をのぞくと人気はまったくない。長方形の大きな湯舟からはもうもうと湯煙りが立っている。我々は思わず顔を見合せた。恐山霊場で湧き出ていることは知っていたが、こんなところにおあつらえむきの温泉棟があるなんて想像もしていなかった。これを見過ごす手はないとばかりに、すぐさま我々はその中にはいってみた。
だが、そこで困ったことに気がついた。まさか場内で一風呂浴びることになろうなどとは考えてもいなかったから二人ともタオルなどもっていない。仕方がないから下着で体を拭くかなどと話していると、脱衣場の片隅に誰かが置き忘れたらしい古い日本タオルの切れ端が残っているのが目にとまった。薄汚れた色になってパサパサに乾いた、幅十センチ、長さ三十センチ足らずの文字通りのタオルの切れ端だったが、それでもタオルはタオルである。これぞ天の祐けと喜んだ我々は、そのタオルの切れ端を綺麗に洗いなおし、かわりばんこで使うことにした。心理的な高揚感のあと押しもあってか、温泉の湯加減も温質も素晴しく快適なものに思われた。
温泉を楽しんだ代償として、いきおい霊場巡りは予定に反して駆け足状態になった。閉門時刻が近いうえに、これから落日を眺めるために大間崎まで行かねばならない。とりあえず大急ぎで宇曽利山湖畔まで行ったあと、なんのための恐山詣かわからぬ有様のまま車に駆け戻り、五時半ぴったりに大畑方面に向って猛スピードで走りだした。「恐山心と見ゆる湖を囲める峰も蓮華なりけり」と詠んだ歌人大町桂月の静かに澄んだ精神などこのときの我々二人にはまるで無縁のものだった。
舗装はされているが左右にくねる山道をタイヤをきしませながら走り抜け大畑に出ると、そこから津軽海峡沿いの道を西に向って爆走することになった。西へと傾く太陽とのカー・チェイスは、サロベツ原野へと続く天塩川沿いの国道で経験して以来のことだった。ほぼ七時くらいと思われる大間崎の日没時刻に間に合うかどうかぎりぎりのところだったので、私は思いきりアクセルを踏み込んだ。
自分で言うのもなんだが、いざというときの私の車の運転技術には知人たちの間でもそれなりの定評がある。以前ちょっとした事情があって信州中房温泉の急峻で狭くカーブの激しい山道を猛スピードで走り下った折、渡辺さんも私の運転テクニックのほどは体験済みだった。そのせいもあってのことだろう、助手席の渡辺さんは平然としたものだった。もっとも、そうはいっても四輪駆動のディーゼルエンジンワゴン車は、もともと高速運転を想定して設計された車ではない。だから、高速走行中の車体のバランスや、走行能力からいっても、一般道では最高でも瞬間的に時速百二十キロくらいを出すのが限度ではあった。
それでも、津軽海峡をはさんで薄霞む北海道の島影を右手に望みながら、西へ西へと早足に逃げる太陽を追いかけるスリルはなかなかのものだった。ハンドルを左右に切り、アクセルを煽り立てながら、スピードメーターの針を頼りに大間崎到着時刻を算定すると、やはり日没時刻ぎりぎりである。大間崎がかなり近づいた頃、行手の路地から二台の乗用車が現れ、我々の車の前方をやはり猛スピードで走りだした。どうやら、それらの車も夕陽を追って岬方面へと向っているらしい。三台の車は轟音をたてて夕陽の街道を疾走した。
どこかうらぶれた感じの大間崎には午後七時ぴったりに到着した。本州最北端の地であることを示す大きな碑の向うに初夏の太陽が幾筋もの赤い雲の帯を残して沈んでいくところだった。太陽とのカーチェイスに勝ったという満足感と、それに伴う快い疲労感に身を委ねながら、我々はしばし沈黙して落日の軌跡に見入っていた。津軽海峡をはさむ北西の方角には、函館山の特徴的な山影がくっきりと浮かび聳えて見えた。

渡辺さんがスケッチをする間、私はまた、その鋭い知性のゆえに「カミソリ」という異名をもつくだんの女性との遠い日の旅のことを想い出していた。すらりと伸びた肢体をこころもち傾げながら、長い髪を陸奥の秋風に揺らせて立つ美しいその姿は、すぐにも強く抱きしめたいという激しい衝動を若い私の胸中に生みもたらしてなお余りあるものだった。あのときは、大間崎から大畑を経て恐山に向うという、今回のコースとは逆のコースをとった。だからその前日の夕刻は陸奥湾沿いの道を陸奥市から、下北半島西南端に位置する脇野沢を目指して走っていた。季節も、若緑の瑞々しく輝く初夏ではなく、晩秋近くのことだった。
哀しいほどに赤い太陽が西空に姿を隠すと、津軽半島側一帯の夕空は神々しいばかりの黄昏色に包まれた。金色に澄んだ紫と緑を溶かし込んだようなその空を仰ぎながら、我々は二人だけの時を刻む時計の針を止めた。行手に確たるものは何もなかった。いや、もとより何もないことは二人とも承知だったし、だからこそその一刻一刻がどこまでも切なく、震えるほどに美しいこともわかっていた。
評論家好みの言葉を借りれば、それは対幻想の生みをもたらす一つの幻影だったということになるのだろうが、人生という旅路を通して人間が心の奥にためこむ宝石とはもともとそんな幻が凝縮されたものに違いない。現実という名のもうひとつの幻想が崇めたてる「財力」や「地位権力」などによっては得ることのできない宝石だってやはりこの世には存在する。対幻想が生み出す宝石と、現実という名の常識幻想がもたらしてくれる宝石とは少なくとも等価とは言えるだろう。車外で絵筆をとる渡辺さんの後ろ姿を遠い眼で見やりながら、私は内心そんな想いに駆られていた。
渡辺さんがスケッチを終え車に戻るのを待って我々は大間崎を出発した。もう午後七時半頃になっていた。大間からは脇野沢方面には南下せず、再び大畑まで戻り、陸奥市街を抜けて三三八号線に入った。下北半島の東岸をいっきに南下しようという訳である。この道路は、陸奥・小川原総合開発事業と原発の廃棄物処理問題で全国的にその名を知られるようになった六ヶ所村を突き抜けて三沢方面にのびている。すっかり暗くなってしまったので、周辺の景色は闇に包まれてしまったが、ときおり左手に黒々と広がる太平洋と洋上を航行中の船舶の航海灯らしいものが見えた。六ヶ所村が近づく頃にはお腹もすいてきたので、我々は道路脇のスペースに車を駐め、コンビニで買い求めた食材をもとに簡単な夕食をすませた。
六ヶ所村一帯にはもっとも大きな小川原湖をはじめとして大小の湖沼がいくつもある。太平洋と川で直接つながるものは、現在ではすっかり近代的に整備され、陸奥小川原港として地元の総合開発事業を支えている。原発廃棄物処理施設の建造もその事業の一環なのだ。いかにも新興の工業地帯らしい建造物の間を縫って国道三三八号は南へとのびている。無数の照明に彩られる夜の工業地帯というものは、醜悪な部分が闇の奥に隠されてしまうせいか、見方によっては妙に美しい。再び南下をはじめた我々は、社会の負の部分をすべて明るさの奥へと押し隠してしまう現代日本の象徴のような光景の中を、複雑な想いを胸に抱きながらいっきに走り抜けた。
三沢基地の東部を過ぎ、八戸市の北に位置する百石町付近まで南下を続けたが、そこでひどい睡魔に襲われたため、国道脇のパーキングエリアに駐車、翌朝まで眠ることにした。早朝から休みなく動きまわったせいで疲れがピークに達していたのだろう、我々は崩れ落ちるようにして深い眠りに陥った。
「マセマティック放浪記」
1999年11月3日
奥の脇道放浪記(10)
名勝をめぐり伝承を想う
絵・渡辺 淳
名勝をめぐり伝承を想う――陸中海岸から平泉中尊寺へ
長岡を出発して八日目にあたる翌朝は午前七時に起床、朝食をすませると直ちに出発した。朝日に輝き浮かぶ八甲田連山の遠景が実に素晴らしい。景色に見とれながら八戸方面へと南下するうちに道路の渋滞がひどくなってきた。そのままだと通勤ラッシュに巻き込まれ動けなくなってしまいそうだったので、八戸市街を迂回して久慈市へと向かい、久慈から小袖海岸方面に進路をとった。
太平洋の荒波を直にうける小袖海岸一帯には大小様々な奇岩が立ち連なっていて、壮観なことこのうえない。岩々を刻むようにして打ち寄せる白浪のむこうには、青潮がゆるやかなうねりを見せながら澄んだ輝きを放っている。兜岩と呼ばれるひときわ大きな奇岩の付近で車を停め、潮の干いた磯辺の水際をのぞくと、ワカメやコンブがいたるところに打ち寄せられているではないか。我々はすぐにビニール袋を取り出して荒磯に降り立つと、大量のワカメやコンブを採取した。見るからに瑞々しくやわらかで実にうまそうである。今夜の味噌汁の具はこれでOKというわけだった。


普代の集落から黒崎方面へとルートをとると、陸中海岸国立公園の一角をなす長大な断崖地帯の上部へと出た。真青に輝く海面から垂直に切り立つ黒崎や北山崎の断崖には、見る者の魂を激しく下方へと引き込むような迫力がある。絶壁のあちこちの岩角や狭い岩棚にすがりつくようにして生息する岩松、シロバナシャクナゲ、さらにはその他種々の灌木類の緑が陽光に映え、サングラスをかけた目にも眩ゆい。巨大な岩屏風の足元を削る青潮の白い牙だけが、この魔性の海の隠しもつ本性をさりげなく語り示しているようだった。
じっと下方を見つめるうちに、この絶壁の上から空中に身を投げ出し、海面に叩きつけられるまでの数秒間の飛翔を楽しむのも悪くないなという思いがしてきた。ここなら、海中に没したあとも水中深くに巻き込まれ、いずれは魚の餌となって二度と人目に触れることもないだろう。実際、過去において突然姿を消した人の中には、いまもこの水底に眠る者が数多くいるに違いない。東に広がる太平洋の彼方から満月が昇る秋の夜などにこの断崖の上に立てば、遠い昔の死霊達が哀しげに訴えかける在りし日の物語が聞けるのではないかという感じさえした。
午前十一時に北山崎を出発、中生代白亜期化石断層で知られる田野畑から内陸を縫う道に入り、岩泉町へと向うことになった。有名な鍾乳洞「龍泉洞」を訪ねるためである。日本では最古の地層の残る岩手県の北上山地一帯は、古生代末期や中生代の化石の産地として名高い。なかでも岩泉町近辺の山々は全体が石灰岩からなっており、その関係で周辺には大小の鍾乳洞が数多く存在している。もう少し北にある安家洞と並んで龍泉洞はその代表格の洞窟なのだ。
龍泉洞には正午前に着いた。この鍾乳洞はアイヌ語で「霧のかかる峰」を意味する宇霊羅(ウレイラ)山の体内深くに葉脈状にのび広がっている。好天のために外は肌が焼けつくほどの暑さだったから、龍泉洞の中から湧き出る清水はなんとも冷たく爽やかに感じられた。洞内は身震いを覚えるほどに肌寒く、外の暑さがうそのようだった。以前は洞内の通路は細く狭く岩角がごつごつしていてずいぶんと歩きにくかったが、現在では板張りの平な歩道に変わりすっかり歩きやすくなっている。奇異な形をした無数の鍾乳石や石筍、石柱などを眺めながら我々は奥へ奥へと進んで行った。歩道の右手や下側を濃紺色の澄んだ水がひそひそと何事かを囁き合うような響きをたてて流れていく。太古から絶えることなく続いてきたこの水の囁きが石灰岩質の厚い地層を徐々に溶かし、不思議な造形物の立ち並ぶこの巨大な洞穴を生み出したわけである。
龍泉洞最大の奇観はその最奥部に眠る大きな地底湖である。第一、第二、第三と三つの地底湖が公開されているが、なかでも深さ九八メートルの第三地底湖は、神秘的なコバルトブルーの水を満々とたたえて、我々の心を無言の言葉で威圧した。水中に何基かのライトが設置されているため、底のほうまではっきりと透き通って見える。背筋がぞくりとするようなす凄みのある色だった。龍泉洞という呼称の由来はよくわからないが、この地底湖のさらに奥に続く洞窟のどこかに龍が潜んでいたとしても不思議ではない。実際、第三地底湖深く潜りさらに奥に進むと深さ百二十メートルの第四地底湖があるという。その透明度は世界でも有数といわれるが、現在はまだ一般には公開されていない。これまでに知られている最奥部まででも二千五百メートルはあり、千変万化の相貌を秘めた洞窟そのものの全容は奥行き五千メートル以上に達するだろうと推定されている。
第三地底湖からの帰りのルートは、何度も何度もジグザグに折れる急峻な階段の上り道となった。相当に足腰にこたえる上りである。洞内を上へ上へと進むと、先刻の地底湖が足元はるか下方に青々と輝いて見えた。
龍泉洞を出た我々は、龍泉洞新洞のほうも訪ねてみることにした。一九六七年に発見されたこの新洞は、龍泉洞本洞入口の向い側にある鍾乳洞で、現在は科学館をも兼ねている。世界でも珍しい自然洞穴科学館というわけで、鍾乳洞の生成プロセスが実物を事例にして詳細に解説されていた。また、洞穴学、地学、生物学、考古学等の貴重な資料や標本なども陳列公開してあった。洞内から発見された多数の土器や石器類が展示されているところをみると、古代人が昔から中に住みついていたことは明かで、その意味ではこの新洞は「再発見された」と言ったほうが的確な表現なのかもしれない。
龍泉洞前のお店で昼食をすませたあと、我々は海沿いに走る国道四五号線に出て南下、田老町のすこし手前の真崎海岸への道に入り、大きく海に突き出した真崎に立って、眼下に広がる荒磯と太平洋の景観を楽しんだ。
真崎からすこし南に下ったところに国民宿舎三王閣がある。この国民宿舎には以前に一度泊まったことがあったが、「三王閣」という名称のもととなった奇勝「三王岩」はまだ目にしたことがなかった。むろん、見逃すわけにはいかないということで、車から降りた我々は林を抜ける細い道を下り、三王岩展望台へと出た。眼前に現われたのは、罪人を裁く冥界の王たちとまちがうばかりの巨大な三つの岩だった。海中から威丈高にそそり立つ巨岩の中でもひときわ大きなものは、地獄の覇者閻魔大王を想わせた。
折角だから水辺まで降りてこの奇景を楽しもうということになったのだが、道が崩落して危険だから展望台の柵を越えて進むことは禁ずるという警告板が立っている。一瞬顔を見合わせた我々だが、冥土の王たちの招きには抗し難く、すぐに柵を越えて急な細道を下りはじめた。あの世の王たちのお墨付きがあるのだから怖いものはない。急峻な岩道の崩落個所もなんなく通過し、三王岩の足元近くに降り立つと、心地よい潮の香りが鼻をついた。
折からの干潮で一番手前の大岩の広い基底部が水中から露出しているため、磯辺から小さな岩伝いにその巨岩の根元のところまで容易に渡ることができた。あらためて下から見上げると、実に見事な形をした岩である。岩の根元に沿って歩きながら海中をのぞくと、ワカメやホンダワラの林が絶え間なく寄せては引く潮の流れに合わせてゆらゆらと搖れ動いているのが見えた。これだけ海草が繁っていたら、魚貝類もたくさん生息していることだろう。海中を眺めているうちに、ちょっと潜ってみたいという気分になったが、まだ水が冷たそうなうえに、水中眼鏡と海水パンツを車の中に残してきたこともあって、さすがにそれは思いとどまった。
下りとは別のルートをとって急斜面を這い上り車に戻った我々は、田老の町を左手に見ながらいっきに走り抜け、宮古方面へと南下した。次ぎなる目的地は、言わずと知れた陸中海岸随一の名勝「浄土ヶ浜」である。国道から分かれるゆるやかな道を下り浄土ヶ浜駐車場に到着したのは、午後三時四十五分頃だった。
駐車場から林の中を抜けるとすぐ海辺に出た。右手に海を見ながら小さな岬をまわると、斜めから差し込む陽射しをうけて白々と輝く岩々が見えてきた。海上に連なり並び立つ大小の岩々は、ひとつひとつが合掌して瞑黙する仏像か羅漢像のように見える。そして、それらの奇岩群に囲まれるようにして小さな入江があり、その入江の奥に真白な玉石を敷き詰めたような美しい浜辺があった。むろん、浄土ヶ浜である。
この一帯の海岸や沖のほうに並ぶ小島は、すべて純白に輝く石英粗面岩でできている。伝承によると、いまから三百年ほど前に宮古にいた霊鏡和尚という人がここを訪ね、「さながら浄土のようだ」と賛嘆したことから浄土ヶ浜と呼ばれるようになったという。西陽に美しく映える天然の岩仏の群れに心の中で手を合わせながら、石英粗面岩の白い玉石からなる浜辺に大の字になって寝るのは、言葉には尽くし難い快感だった。

午後五時頃浄土ヶ浜をたち、宮古から国道一〇六号を盛岡方面へ向かって走った我々は、川井村の上川井で国道三四〇号線へと左折した。車は深い林の中の峠道をぐんぐんとのぼりつめ、やがて、早池峰山の東側に位置する標高七百メートルの立丸峠に到着した。夕暮特有の深く沈み込むような色を帯びて眼下に広がるのは、伝説と民話の沃野、遠野である。
迫る夕闇と競い合うかのように、我々は遠野への道を駆け下った。遠野盆地北東部の田園地帯に入ると、いかにも伝説に彩られた歴史とロマンの郷らしい雰囲気が漂いはじめた。道路の両側に点々と立ち並ぶ古い家々のたたずまいそのものが、時間を孕んだひとつの物語だといってよい。ぽつりぽつりと灯りはじめた遠くの民家の明かりを眺めていると、柳田国男がこの地を訪れた時代へとタイムスリップしたかのような幻覚に襲われた。

時間が許せばこの遠野で一夜を明かしたい気分だったが、あとに続くの行程上の都合もあったので、今回は食料の補給をしただけで遠野の町を通過することにした。遠野盆地をじっと見下ろすように稜線を広げる早池峰山が黄金色の残照に浮かぶ有様は、数々の民話の生まれた背景を我々に納得させてあまりあるものだった。この早池峰山をこよなく愛し、自作の詩の中に早池峰の大自然を詠い込んだ高村光太郎は、戦後まもなくその山麓の村に移り住んだ。戦争礼賛の詩を書いて多くの若い命を戦場へと駆り立てた己の過去への悔悛と、智恵子を狂死へと追い込んだ過酷な運命への抗し難さのゆえの隠遁でもあったという。
山中で修験者に近い生活を送っていた光太郎の山小屋のあった山口というところの近くを過ぎ、北上川の支流猿ヶ石川沿いに北上市方面に向う頃には、すっかり夜も更けてきた。 北上市で国道四号線に合流、水沢市を過ぎる頃になると、さすがにお腹がすいてきた。国道脇のパーキングエリアに駐車し、遅めの晩飯を作って食べたが、陸中海岸で採ってきたばかりのワカメやコンブのお陰で、安上りの割には結構うまい食事だった。晩飯を終え、手際よく炊飯具を片付けると、再び国道四号線を平泉方面に向って走り出した。
すいた夜の国道をかなりの速度で爆走し、平泉中尊寺の駐車場に着いたのは午後十一時頃だった。夜間は自由に利用可能な広い駐車場には、他に車の影はなかった。車を降りた我々は懐中電燈を手に中尊時の参道のほうへと歩きはじめたのだが、そんな姿を誰かが見ていたら、その時と場所をわきまえない野次馬根性に呆れかえったかもしれない。
中尊寺の参道はかなり長い上り坂になっている。夏などに急ぎ足でこの坂道を登ったりすると、息切れがし、汗びっしょりになるほどである。参道の両側には杉の巨木がうっそうと立ち並び昼でも暗いくらいだから、周辺を覆う深夜の闇の濃さはいまさら強調するまでもない。過去に何度も足を運んだ中尊寺だが、深夜ここを訪ねるのは私も初めてである。他に人気のあろうはずもなかったが、逆に、人影の途絶えた深夜だからこその風情や発見があるのではないかという期待はあった。
懐中電燈で足元の闇を切り分けながらゆっくりと歩くうちに眼のほうもかなり暗さになれてきた、肌に触れる夜の空気が思いのほか心地よい。かなり坂道をのぼりつめたところで何気なくうしろを振り返えると、杉木立ちの向うの空が明るくなっている。意外に思って足をとめ、しばらくそのほうを眺めやっていると、下弦の月に近い半月が姿を現わした。そう言えば、中尊寺参道の坂道は「月見坂」という異称をもち、ほぼ真東に向って傾斜している。これまで月見坂というその呼称の意味を深く考えたことはなかったが、しだいに高さと輝きを増す美しい半月を眺めているうちに、なるほどという思いが湧いてきた。空気が澄んでいるせいか、月光は想像していた以上に明るかった。半月でこの光の強さだから、これが満月だったらさぞかし綺麗なことだろう。
想わぬ月光の助けのおかげで参道一帯はずいぶんと明るくなった。もう懐中電燈はほとんどいらない。昼間なら義経が最後の戦いを行なった衣川古戦場が遠望できる高台に立ったが、さすがに衣川の川面を確認することはできなかった。義経の怨霊が立ち現われて、過ぎし日の無念の情を切々と語りかけてくれれば、それにこしたことはなかったが、残念なことにそれらしい気配は全くなかった。この二人を相手に下手に昔物語でもしたら、ねじ曲げられて何を書かれるかわからない、そうなったら悲哀とロマンに満ちた我が歴史伝説もだいなしだと、義経の霊が敬遠でもしたのだろう。
むろん、時間が時間だったから、伽藍や僧堂内には立ち入ることはできなかったが、それでも我々はたっぷりと時間をかけて、広大な境内の隅々を歩きまわった。月光でほどよく磨きやわらげられた中尊寺全山の霊気が、じわじわと体内にしみこんでくる感じで、なにやら心身の汚れが一掃されていくような思いだった。むろん、国宝の金色堂のそばにも足を運んだが、全体を覆堂ですっぽり包み保護されているその荘厳なお堂本体が見えるわけはなかった。それでも我々は、月光の中に燦然と輝き浮かぶいにしえの金色堂の姿を想像しながら、しばしその前に佇んでいた。
真夜中の中尊寺詣を終えた我々は、車に戻ると、深夜の国道四号線を一ノ関、築館と南下した。そして、築館から花山村方面に向う国道に入り、佐野原で池月、鳴子方面へと分岐する国道四五七号線へと車を乗り入れた。中尊寺を散策中に東の空から昇ってきた半月はさらに高度と輝きを増し、周辺の野山を明るく照らし出している。このまま夜明けまで走り続けようかとも思ったが、鳴子まであと一息という大清水付近に着く頃にはさすがにすこし疲れてきた。時計を見ると午前二時を過ぎている。明朝早く鳴子で温泉にはいるにはこのあたりで野宿したほうがよかろうということになり、道端に車を駐めて眠ることにした。月の光だけが嘯々と降り注ぐ静かな静かな夜だった。

「マセマティック放浪記」
1999年11月10日
奥の脇道放浪記(11)
芭蕉も踏んだ小径に立つ
絵・渡辺 淳
芭蕉も踏んだ小径に立つ――鳴子温泉から蕎麦どころ村山へ
翌朝は七時半起床、あり合わせの食材で簡単に朝食をすませると、直ちに鳴子方面に向って出発した。昨日はかなりの強行軍でとうとう風呂に入ることができなかったので、今日はまず鳴子で一風呂浴びてから行動するつもりだった。鳴子の中心街に入るすこし手前で、この時間から入浴させてくれる温泉はないかと地元の人に尋ねてみると、近くに田中温泉というところがあると教えてくれた。早速訪ねてみると、ひなびたと言うよりはなんとも古ぼけた温泉宿だった。入口の受付けには人影が見当らないので、横手の方にまわり大声で来意を告げると、ようやく主らしい中年の男が現れた。とりあえず一人二百円の入浴料を払って中へ入った我々の目に飛び込んできたのは、往時の繁栄を偲ばせる昔風の板張りの広い回廊と、その奥に位置するとても大きな一時代前の造りの浴場だった。
浴場は直径二十メートル近くはあろうと思われる円形をしており、満々と湯をたたえた浅目の大きな浴槽が二つ、孤状に配置されていた。いっぽうのお湯は深緑の澄んだ色をしており、もういっぽうの湯は不透明な黄白色をしていたが、どちらのお湯も適温で肌にやわらかく、無理なく体が温まる感じで、実に快適だった。泉質は重曹泉とのことで、湯治効果は抜群だという。
二人だけで浴槽を占領しながらつぶさに大浴場全体を眺めまわしているうちに、いまでは壁面が黒っぽくくすみ、タイルのあちこちが無残に剥げ落ちて壁絵の図柄も不鮮明になってしまっているが、もともとは時代の先端を行く素晴らしい造りの浴場だったことがわかってきた。そのことを何よりもよく物語っているのは、この浴場の中心部の特殊な造りだった。円形の浴場の中央に正八角形の総ガラス張り抜け風の明るい区画があって、その中へ通じるやはりガラス張りのドアがついている。ドアを開けて内側をのぞいてみると、下部は八角形の酒落た浴槽になっており、上部はやはり八角形の無ガラスの天窓になっていて、明るい朝の光が射し込んできていた。いまでこそその白い八角形の浴槽は湯を絶たれて放置されたままになっているが、往時は斬新な着想によるその造りのゆえに、大変評判になったに違いない。時を経て古びてしまってはいるが、壁面に張られたタイルは極めて上質のもので、部分的に残る染色タイルの色艶やデザインからすると、そこに描かれていた図柄はきわめて格調の高いものだったろうと推測された。
我々は、この「夢の跡」とでも言うべき田中温泉がとても気にいった。建物が古びようが朽ち果てようが、肌にやわらかなこの泉質が昔と変わるわけではない。湯から上がって脱衣場で服を着ているときに入浴にやってきた古老の話だと、湯治用としてはいまでも鳴子随一の泉質なのだという。ただ、時代と共に、もうすこし先の近代的な鳴子温泉街が盛え、そのあおりで田中温泉はすたれてしまったらしい。現在では、地元の人々と、たまに訪れる事情通の一部の日参湯治客だけが安い料金で利用しているだけらしいが、なんとももったいないかぎりである。
風呂からあがったあと、館内の老朽化した広い階段をのぼり、人気のまったくない二階の窓からこの宿の裏手のほうを眺めた我々は思わず息を呑んだ。荒れ果ててしまってはいるが広大な敷地がはるか奥のほうまで続き、回廊造り風の建物群が古びた軒を連ねている。その規模からいって、昔は鳴子でも一・二を争う大旅館だったに違いない。長年放置され、その間の風雪によってひどく傷んだ無人の建物群を見つめながら、あらためて栄枯盛衰のならいを想うばかりであった。
午前九時半頃に田中温泉を出発、大きなホテルの立ち並ぶ現在の鳴子温泉中心街をいっきに通過し、しばらく急坂を登っていくと、奥の細道にも登場する「尿前の関」跡付近に到着した。陸奥から出羽へと越える難路の途中にあるこの関所で、芭蕉一行は思いもかけず足止めを喰うことになった。当時はほとんど通行する者のいなかった文字通りの細道を敢えて越える理由と、その身分のほどを役人に厳しく問われたからである。
芭蕉と曽良がこのあたりを通ったのは旧暦の五月半ば頃、現在の歴では六月末から七月初め頃に相当している。東北地方も梅雨期に入り、湿度も気温も相当に高くなっていたはずで、徒歩による旅路の難儀は想像以上のものだったろう。

尿前の関跡から国道四七号をしばらくのぼったところに谷を横切る大きな橋がかかっている。その橋のたもとから谷筋に入る細い道を辿ると、すぐに清流のほとばしる深い沢に入った。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、どこからともなく澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてくる。いまではよほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは、芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えて行った小深沢の六曲がりの古道にほかならなかった。渡辺さんと私とは一歩一歩足元を踏み固めるようにして、左右にくねる急傾斜の細道を登った。踏み跡らしいものは全くなく、それでなくても人ひとり通るのがやっとの狭い道に、行手をさえぎるようにして木の枝が伸び出している。それでも、芭蕉や曽良がこの小径を踏み辿ったのかと思うと感慨はひとしおだった。当時のままの様相を留めているのは旧道のうちのごくわずかな部分にすぎないけれども、元禄時代の頃の中山越え、すなわち奥羽山脈越えの苦労とその雰囲気のほどが偲ばれたのは大きな収穫だった。
奥の細道によると、芭蕉一行はこの山道をのぼりつめ出羽の国との境に至ったあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。その時に詠まれたのが、
蛋虱馬の尿する枕元
という有名な一句である。天候回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉一行は道なき道を分け進むようにして山刀伐(なたぎり)峠を越え、尾花沢の集落へと抜けている。
再び車へと戻った我々は、芭蕉一行には申し訳ないような速度で山形県へと続く峠路を越えると、尾花沢方面へと向かってハンドルを切った。尾花沢を過ぎ大石田町の田沢というところにさしかかると、月山の雄大な眺望が行手の視界いっぱいに広がってきた。庄内平野の鶴岡あたりからとはちょうど逆の方向から月山を眺めていることになる。この一連の旅を通して、はからずも月山の美しい山容を両側から望むことができたというわけだ。
大石田からは、葉山の裾野を縫う道に入った。葉山は月山連峰の東端に位置する山で、古くから修験道の霊山としても知られている。若緑に輝く野中をしばらく走ると、最上川にかかる三ヶ瀬橋にさしかかった。この橋の下一帯は深く切り立った渓谷になっており、川瀬が荒々しく露出していて流水が速く、昔は最上川水運の三難所のひとつだった。米沢藩で産出される紅花などの物資は最上川伝いに舟によって日本海に面する河口の酒田まで運ばれたが、濁流の渦巻く増水期などにこの難所を無事通過することは大変だったらしい。さらにまた、酒田方面から必要物資を積んで米沢方面へと最上川を遡行する場合は、多数の人力を要する曳き舟作業によって急流に立ち向かい荒瀬を乗り切らなければならなかった。
三ヶ瀬橋のたもとに車を駐め、川中を見下したが、想いのほか水かさは少なかった。いまでは上流地一帯に多数のダムが建設され、水量がコントロールされるようになっているからだろう。また、芭蕉が「五月雨をあつめてはやし最上川」と詠んだ時期は新暦の七月のことで、まだ一ヶ月ほどさきの梅雨期の最中にあたっている。五月雨とは、むろん、梅雨のことである。梅雨の頃になれば、いまでも増水して激しく流れ下る最上川の姿が見られるのかもしれない。
三ヶ瀬橋からしばらく行くと村山市の白鳥という集落にさしかかった。実を言うと私はこのあたりの地理には相当詳しかった。この集落に、現在は神奈川の相模原で歯科医院を営んでいる昔からの知人の実家があって、その人に連れられ、過去何度もこの地を訪ねたからである。
鹿児島市内で高校生活を送っていた頃、苦学生だった私は地元のある歯科医院でアルバイトをしていた。たまたまそこへ新任の勤務医として赴任してきたのが、私より十二才年長の小野富男さんだった。年齢差こそ大きかったが、気が若くて飾り気がなく、しかも旅好きな小野さんとは不思議なほどに気が合った。人一倍の努力と苦学の末に歯科医としての道を切り開いた小野さんの励ましは、深い人生経験に裏付けられた実感が込ってもいただけに、頼もしくもあり、有難くもあった。私が高校二年生のとき、小野さんは勤務先の医院の看護婦さんと結婚なさったのだが、そのとき前代未聞の珍事が起った。仲人を務めた歯科医院長の奥さんの配慮もあってのことだったが、ひとまわりも歳下の高校二年の私が、なんと新郎の歯科医の「友人代表」として祝辞を述べさせられるという、信じられない事態に直面するはめになった。
本土の南端鹿児島での結婚式だったために、小野さんの親族、知人、友人などのほとんどが参席なされないという事情はあったが、それでも何十人かの出席者があっての挙式だった。そんな状況の中で、坊主頭に学生服姿の高校生が友人代表として祝辞を述べたわけだから、ほとんどの参席者は目を白黒させて驚き呆れはてたに違いない。まだビデオなど普及していない時代のことだから、幸いスピーチ録画は残っていないが、もしもそんなものが残っていたら頭底直視はできないことだろう。日本広しといえども、高校二年生の分際で、十二歳年上のれっきとした歯科医の結婚式で友人代表としてお祝いのスピーチをしたなどというのは、この私くらいのものではなかろうか。
私が大学進学のため上京してほどなく、小野さんのほうは北海道サロマ湖近くの町において歯科医院を開業され、その後、神奈川県相模原市に移って現在はそこで歯科医院を営んでおられる。小野さんが相模原に移ってからは、故郷の山形に帰省されるときなどよくお誘いをうけ、度々この地に同行し、白鳥のお宅に泊めていただいた。その度ごとにこの周辺をずいぶんと歩き回っているから、一帯の地理に私はよく通じていたのである。
懐しい小野家の屋敷を右手方向に見ながら白鳥の集落を過ぎると、我々はそこから少し南に下った大久保というところを目指して走り続けた。大石田町の次年午と村山市の大久保との間には、民宿を含む十四・五軒のそば屋が存在している。この街道が「最上川三難所そば街道」という別称をもつのもそのためである。西にそびえる一四六一メートルの葉山の懐に抱かれる地形の関係で、東や南から直射日光が当たるいっぽう、冷気が入り込み霧もかかりやすい。この特殊な気象条件は、そばの栽培に好適で、信州と同様にどの農家も自家用のそばを栽培してきた。古くは紅花の大産地であり、当時は紅花の後作にそばが作付けされていたという。
伝統と気象条件に支えられたそば粉の質は最良だし、味を競うそれぞれのお店にはそれなりの秘伝があるから、出されるそばはなかなかうまい。だが、なんといっても、このあたりで一番の老舗は大久保にある「あらきそば」である。大正八年創業の「あらきそば」の三代目にあたる当主の芦野又三さんは、一帯のそば屋を中心に近年結成された「最上川三難所そば街道振興会」の会長を務め、地域の振興に貢献しておられる。小野さんに同行してこの地を訪れるたびに、「あらきそば」に連れていかれた私は、いつもその太く腰のあるそばに感動を覚えさえしながら舌鼓を打ったものだった。初めてあらきそばを訪ねたのは、もう二十数年前のことだったように思う。この日我々が大久保を目指したのは、むろん、その「あらきそば」を訪ねるためだった。
縁とは不思議なものである。長岡を出てから日本海沿いに北上しているときに、渡辺さんとの会話の中で、東北に来るなら是非立ち寄ってほしいといってきている老舗のそば屋があるのだがという話がでた。そこの若主人が、作家の水上勉先生主宰の若州一滴文庫会員で、渡辺さんの絵の熱烈なファンでもあるという。おまけに、一滴文庫の会員誌に渡辺さんの挿絵入りで連載していた私のエッセイをも愛読してくださっているというのだ。よくよく話を聞いてみると、山形県の村上市にある「あらきそば」というお店だというのではないか。それはまた奇縁だといことになり、その時点で「あらきそば詣」がきまったのだった。前日、下北半島から先方に電話を入れ、この日の昼頃までには到着するむね伝えてはあったので、あらきそばの方々も我々が着くのを、いまかいまかと待っていてくださったようであった。

あらきそばに到着したのは午後一時頃だった。その風情豊かな萱葺き屋根の大きな建物は以前と少しも変わらない。「あらきそば」としるされた控えめな看板が一枚だけさりげなく掛っているだけというのも実にいい。外から眺めたら昔風の造りの由緒ある古い民家にしか見えない。渡辺さんは、車から降りるとすぐにお店の建物の全景をスケッチしはじめた。私のほうはその間、お店の周辺をさりげなくうろつきながら、初夏の陽光に輝き躍動する風物の妙を楽しんだ。渡辺さんがいまにもスケッチを終えそうになったとき、お店のほうから感じのいい男の人がちょっとはにかむような笑みを浮かべて我々のほうへと近づいてきた。そして、渡辺さんに向かって静かな口調で話しかけた。それが若主人の芦野光さんだった。我々はすぐに玄関に通され、当主の芦野又三御夫妻、光さんの奥様、真弓さんらによって手厚く迎え入れられた。
黒光りのする年期物の頑丈な建具で造られた広い畳敷きの空間には、人の心を自然となごませてくれる不思議な温かさがあった。天然木で出来た細長い食台が何脚も並び、古い上質の木肌ならではの艶やかな輝きを放っている。奥のほうの座布団にどっかりと陣取った我々の相手をしてくださる芦野老御夫妻、若御夫妻の飾り気のないお人柄と、耳にやわらかな山形弁の美しいリズムとが、このうえない宝物のように思われてならなかった。渡辺さんは芦野家の方々との談話の合間に手ばやく店内の様子をスケッチし、先刻の建物全景のスケッチともども、芦野家にプレゼントなさっていた。
あらきそばは知る人ぞ知る山形の老舗だから、食通の高名な文人や芸能人などをはじめとし、はるばるこのお店の味と風情を求めて訪ねる人はあとを断たない。一昔前に一世を風靡したNHKの名アナウンサー宮田輝、慶応大学教授で食通として知られた池田弥三郎、作家の村上元三なども、あらきそばの熱烈なファンだったらしい。以前はそういった人々の書や色紙が床の間や壁に掛けられていたが、いまは別の書や色紙に変わっていた。さりげなくお店の四方を見渡しながら、そのうち渡辺さんのスケッチも時間と歴史の溶け込んだこの壁面の一隅を飾ることになるのではないかと、内心で私は思ったのだった。
年期ものの木製の長箱型器「片木盆」に丁寧に並べ盛られた太目のそばは、香り、歯ざわり、腰の強さ、どれをとっても文字通りの絶品だった。しかも、その一人前の分量を思うと、信じられないほどに良心的な値段だった。私は何度もこのお店に来ているからよくわかるのだが、普通盛りと昔盛りとがあって、普通盛りでも一般のそば屋の一倍半ほどの量はある。昔盛りのほうは普通盛りの二倍も量があるのだから、調子に乗ってうかつに注文したりすると、途中で胃袋のほうがギブアップの悲鳴をあげてしまうことになりかねない。
もっともこの日だけは芦野家のご好意に甘え、あらきそば秘伝の味を堪能させていただくことになった。そばもうまかったが、産地直送の鰊を砂糖と味噌だけで一日かけて煮込んだ特製の身欠き鰊、上質の黒ごまのタレつきのそばがきの味も思わずうなりたくなるほど素晴らしかった。続いて出された採れたての山菜類のおひたしや笹包み御飯も掛値なしに美味しかった。
だが、困ったことに芦野家御家族の真心の込った接待に甘んじ、次々に出される御馳走に箸をつけるうちに、我々の体内では想わぬ変化が起こりはじめた。長岡で渡辺さんと合流し旅を始めてからの九日間というもの、粗食に徹してここまでやってきたわけだから、それなりのリズムに慣れてきていた胃袋のほうも、こんな大量の御馳走がいっきに崩れ込んでくるなんて予想だにしていない。あっというまにぱんぱんに膨れあがり、それでもなお詰め込まれてくる御馳走に対応しきれなくなった胃袋が、とうとうSOSの悲鳴を発しはじめたのだった。最後は、渡辺さんも私も必死になって御馳走と格闘する事態となり、もうちょっとで一歩も動けなくなりそうだった。
芦野家から頂戴した沢山のお土産を車に積み込んだ我々は、心から別れを惜しみながら、午後六時半頃、山形県南部から福島県北部方面を目指して走り出した。後日談になるが、東京に戻ってから書いたお礼状の中で、私は「あらきそば」という屋号の由来について尋ねてみた。前述した小野さんから、あらきそばの「あらき」はどうやら剣豪荒木又右衛門にちなんだものらしいという話を聞いたことがあったからである。当主の芦野又三さんから頂戴したお手紙によると、先々代の御当主が講談の荒木又右衛門の熱狂なファンであられ、そのため屋号が「あらき」になったのだとのことだった。小野さんの話は事実だったのである。
食べ過ぎの報いはてきめんだった。あらきそばを出発し、河北町、寒河江を経て天童に出た頃のことである。限界いっぱいに膨張していた胃袋が車の振動でさらに刺激をこうむってさらに膨れ上がったせいだろうか、重苦しさがピークに達した。助手席の渡辺さんも明らかに同じ症状を呈している。「本田さん、胃散があるから飲まへんか?」という渡辺さんの苦し気な誘いに、私のほうも一も二もなく同意した。国道十三号線脇のパーキングエリアに車を駐めた我々は、あらきそばの皆さんには申し訳なく思いながらも、胃散を一服ずつ飲んでから車の後部席でしばらく横になり、胃袋の発する緊急異常信号が鎮静するのをじっと待った。二人とも、もう二・三 日はなんにも食べなくてもよいのではないかという思いだった。
胃やすめついでに二時間ほど仮眠をとったあと再び走行態勢に入った我々は、すっかり暗くなった国道を速度をはやめて南下した。山形市、南陽市を経て米沢に出、米沢からは白布温泉方面へと向う道に入った。もうずいぶん昔のことになるが、白布温泉の国民宿舎にはちょとした想い出がある。ある晩秋の夕刻に猪苗代湖付近から急に電話を入れ、男一人だが今晩泊めてもらえないかと尋ねてみた。こういう場合は断わられることが多く、とくに、観光シーズン最盛期や、逆にシーズンオフで、お客がほとんどないときなどはなかなか泊めてもらえない。秋の紅葉シーズンは遠に終わり、ほどなく初冬にかかろうかという客足の途絶えがちな時期だったから、体よく断わられるだろうと予想していた。ところが、電話の向こうの老いた声の主は、「はいわかりました。御到着をお待ち申し上げております。今晩のお泊まりはお客様お一人ですので、お客様をお泊めする部屋の明かりだけをつけ、他の部屋は消灯してお待ち申し上げております。夜間のことで当館がおわかりづらかろうと存じますので、それを目印にして御来館ください」という、なんとも粋な応えを返してきたのである。
それなりの規模の宿泊施設がたった一人の突然のフリー客を泊めるとなると、それに要する人件費や光熱費、管理費などで赤字になってしまいかねない。それを承知で泊めてくれるというのである。思わぬはからいに感激するいっぽうで、なんだか申し訳ない気持ちさえするような有様だった。
桧原湖から吾妻山の西肩を越える吾妻スカイバレーを越えて白布温泉に着いたのは夜八時半頃だった。二階中央の部屋の明りだけがついた三階建ての大きな建物があったので、それが目指す国民宿舎だということはすぐにわかった。迎えてくださったのは、とても感じのいい老齢の管理人御夫妻で、すぐに出された心のこもった料理も美味しかったし、広い浴場を一人で占領しての入浴も快適このうえなく、思わぬ幸運に私は感激のしどおしであった。もう二十年近くも前のことなので、あの御夫妻にお会いすることは叶わないが、旅をしているときなどいまでも懐かしくその一夜のことを想い起こす。
白布温泉街を通りかかったのは十一時前後だったので、さすがにどこかで一風呂というわけにもいかなかった。昔に較べるとずっと明るく近代的になったホテルや宿泊施設群を横目に見ながら白布の温泉街を走り抜けると、ほどなく道は急坂になった。深夜のスカイバレーを越えて桧原湖側へ出ようという算段である。こんな時刻にこの深い山越えの道を通る車はほとんどないだろうから、有料道路とはいっても、料金徴収ゲートに係員はいないに違いない。そうすれば、そのぶん、交通費も安上がりですむ。アクセルを踏み込むとぐんぐん車の高度はあがり、艶やかなビロード地に大小無数の宝石を散りばめたような夜空が、視界の上方いっぱいに広がりはじめた。時折車を停めて天空の星々を仰ぎながら山形と福島の県境の峠を越え、通行フリーになっていた料金徴収ゲートを抜け、桧原湖ぞいの道に出たときは午前零時をまわっていた。
とりあえず桧原湖畔のオートキャンプ場へと続くダートの細い道をゆっくり走っていると、突然ライトの中に飛び跳ねるように動きまわる小動物の姿が浮かび上がった。よくみると、無邪気にじゃれあう三匹の子狐だった。子犬の動きそっくりで、なんとも可愛らしい。車を停め、ライトをつけたままにして、我々は内なる命が弾け転がるような子狐たちの動きをじっと見つめ続けた。思わず漏れた「メンコイのう!」という助手席の渡辺さん呟きが、その情景のすべてを物語っている感じだった。子狐たちが道路脇の繁みの中へ姿を隠すのを待って湖畔に出た。そして、そこに車を駐め眠りに就いたのは午前一時近くだった。
「マセマティック放浪記」
1999年11月17日
奥の脇道放浪記(12)
甦る大雪の日の光景
絵・渡辺 淳
甦る大雪の日の光景――会津から越後長岡へ
翌朝は六時半に目覚めると、朝食をとらずにそのまま桧原湖畔をあとにした。十日間にわたる渡辺さんとの旅の最終日とあって、どうしても午後三時半頃までには越後長岡駅に着かねばならない。長岡まではまだかなりの行程なので、早立ちしたようなわけだった。磐梯山が澄んだ湖面に影を落とす五色沼に立つと、この一帯に遊んだ懐かしい日々のことが想い起こされた。朝日に浮かぶ磐梯山のはるかな頂きには、昔日の自分の影がいまも亡霊のように立っていて、じっとこちらを見下しているような気がしてならなかった。また、五色沼の青い湖面には青春の日々に漕いだボートの水尾がいまもかすかな跡を残しており、また沼々の周辺を縫う小道の片隅には、かつての憂いを深く刻んだ足跡が隠されているような想いがした。


尽きることのない回想を振り払うようにして五色沼をあとにすると、私はいっきにアクセルを踏み込み、猪苗代湖畔へ向けてハンドルを切った。そして、猪苗代湖畔沿いの道を湖面を左手に見ながらしばらく走り、会津若松へとルートをとった。時間が十分にあれば、飯盛山をはじめとする旧跡をゆっくり巡ってもみたかったが、この日の行程の都合上そうしている余裕はなかったので、飯盛山の麓を迂回しただけで、会津若松市内を通過した。会津田島まで南下し、田島から桧枝岐に向かおうというのが、当面私が想定したコースだった。
会津若松と会津田島の間にある芦ノ牧温泉付近にさしかかる頃になると、さすがにお腹が空いてきた。昨夕あらきそばを出発したときは、もう二・三日は何も食べなくてもいいような気分だったのに、今日はもうこの調子だから呆れ果てたものである。芦ノ牧温泉街入口に近い土産物屋の駐車上に急いで車を駐めた我々は、あらきそばで頂戴してきた身欠き鰊と笹包み御飯で朝食をとった。しっかりと煮込まれた鰊とほどよく歯応えのある御飯をじっくりと味わい噛みしめると、芦野家の方々の真心がじわじわと浸み出してくる感じだった。そばに砂糖をまぶし、カラッと揚げたカリントウ風のものも、不思議な風味があってとても美味しかった。
朝食を終えると、我々はまた阿賀野川の支流大川に沿う国道を南下しはじめた。そして、小野という集落にさしかかったところで西へと分岐する道に入った。緑鮮やかな谷伝いにしばらく走ると、南からのびてきている旧街道に合流した。その地点で北に折れ、すこし進むと、そこが昔ながらの宿場町の面影をいまもとどめる大内宿だった。大内宿は、木曽路の妻籠宿や馬籠宿、奈良井宿などと並んで民俗史上重要な文化遺産を数多く残す集落として知られている。車を集落入り口の駐車場に置き一息つくと、さっそく古い町並みを見学することにした。
日光東照宮の門前町今市から北にのびる会津西街道は、山王峠を越えて会津田島に入り、田島から会津若松方面へと続いている。田島から会津へ向かう旧街道は、現在の国道とは違い、深く険しい谷と急流の連なる大川筋を避け、大川の西側山間部を縫って会津高田方面へと通じていた。その途中の、小野岳と烏帽子岳という標高千メートルを超える二つの山々に挟まれた谷筋の平地に、大内宿は位置している。集落の中央を走る旧街道は、ゆるやかな坂をなして北の方角へと上っている。道幅はかなり広く、道の両端には快い響きをたてて水の流れる用水路が設けられていた。
まだ朝早い時刻だったこともあって観光客の姿もまばらで、町並み全体は静かな感じだったが、街道の両側には大きな萱葺き屋根をもつ会津特有の構えの古い家々が立ち並び、往時の繁栄のほどを十分に偲ばせてくれた。歴史資料館や文化財指定の民家などもあり、十分に時間をかけて見学したいところではあったが、越後長岡に午後四時には着かなければならないとあって、どうしても急ぎ足で行動しなければならなかった。昔風の店構えのお土産屋や食物屋の前を揺れる心を抑えながら通り過ぎ、ともかくも集落の最奥部まで歩を進めた。付近に古いお寺などもあるようだったが、そこを訪ねたりするのはまたの機会にということになった。むろん、再訪の機会がいつめぐってくるかは知るよしもないことではあったけれども……。
大内宿を過ぎると、旧街道は歩いて登るしかない細く狭い山道になっている。道は小野岳の北にある六石岳と前述の烏帽子岳との鞍部を越えて会津高田方面へと続いているが、現在ではその山路を辿る人はめったにいない。我々は山道に入る手前で引き返し、往時の旅人の姿を遠く偲びながら駐車場へと戻っていった。
大内宿からは旧街道伝いに南下し、中山峠を越えて富栄の小集落を通過、林戸で再び国道に合流するルートをとった。林戸から会津田島までは車で十分ほど、距離にして十二・三キロだった。
会津田島に入り、市街を南郷村方面へ抜けようとしていると、前方に道路情報の表示板があらわれた。なんと国道二五二号、国道三五二号とも残雪と雪崩のため通行不能とあるではないか。私としては、田島から南郷村を経て三五二号線伝いに桧枝岐に出、そこから尾瀬燧ヶ岳の北山麓を通って奥只見の銀山湖に抜けるつもりだった。途中の雄大な景観は抜群だし、銀山湖から小出に至れば、長岡まではひと走りである。ただこの道は山岳部の豪雪地帯を超えるルートなので、下手をすると残雪で通れない可能性もあるとは思っていた。だから、その場合は、南郷村から只見町に出て国道二五二号にはいり、田子倉ダムの北側を通って小出に抜けるつもりだった。国道二五二号は会津と新潟をつなぐ山岳道路だが、かつて田中角栄が力を入れたというだけのことはあって、広くしっかりとした造りの完全舗装道路である。まさかその道路までがこの時期通行不能であるなんて考えてもみなかった。さきの冬はよほどの豪雪だったのだろう。交通情報には時々実際の状況とはずれたものもあるので、当局に確認の電話を入れてみたが、やはりどちらの国道も通行不能だということだった。
残されたルートはただひとつ、ずいぶん遠回りにはなるが、もう一度北上して国道四九号に入り、阿賀野川沿いに走って新潟方面に出るしかない。長岡に四時前に着けるかどうかぎりぎりのところだが、とにかくチャレンジしてみるしかない。急遽、田島から北西にのびる県道に車を乗り入れ、相当にカーブの多い小道を越えてまず昭和村へと出た。途中の景観はそれなりに変化に豊んではいたが、それをゆっくり楽しんでいる心のゆとりはなかった。昭和村の手前で会津高田へと続く国道四〇一号へと右折、二・三キロ走ったところで博士山の西山麓を北に縫う県道に入った。
この県道を下って行くと、ほどなく五畳敷温泉に出た。西山温泉とも呼ばれ、昔からひなびた温泉宿が数軒あるところである。この温泉を初めて訪ねたのは二十数年前で、たしか前述した歯科医の小野さんと一緒だった。その時は逆方向の柳津から五畳敷へと向かったのだが、当時は未舗装の狭く凹凸のひどい道で、結構大変だった記憶がある。この五畳敷の温泉宿の特徴は、数軒の宿それぞれの泉質がまったく異なっていることで、料金さえ払えば他の宿でも入浴できたから、浴衣に下駄ばき姿で温泉めぐりをしたものだった。どの宿の温泉にも昔ながらの素朴な風情と人情が残っており、とても満ち足りたひと時を送った想い出があるが、車から見るかぎりではもうすっかり近代化されている感じだった。
只見線の滝谷の駅をすこし過ぎたところで二五二号線に合流、柳津の方面へとハンドルを切ったところで、私の脳裏にいまひとつ懐かしい記憶が甦った。やはり二十年以上昔のことで、そのときも小野さんと一緒だったが、一月の初めにここよりさらに奥にある玉梨温泉へと出かけたことがある。郡山を過ぎて会津若松に向う頃から、猛吹雪になった。東北一帯が二・三十年に一度という大雪に見舞われた年のことである。フロントウィンドーにはワイパーの処理能力を超えた雪が降り積もり、窮余の策としてウィンドー・ウォッシャーを使うと、低温のため、たちまちワイパーそのものが凍りつき用をなさなくなってしまう有様だった。ちょっと走っては車を停め、フロントウィンドーの雪や氷を払い落としまた走るという作業を繰り返すうちに、こんどはアクセルやクラッチ、ブレーキの調子が悪くなった。何度も車に出はいりするうちに、靴の裏に付着した大量の雪が落ちてアクセルやクラッチ、ブレーキのまわりに凍りつき、おまけに靴裏の雪までが氷結してしまったのである。そのため、アクセル、クラッチ、ブレーキの動きが悪くなったうえに、踏んでも靴裏がつるつるに滑るため、思うがままに運転ができなくなってしまったのだった。古い車のため、ヒーターの利きが悪かったのも一因だったが、最大の原因は異常な降雪と苛烈な寒気だった。
それでも会津若松まではまだよかった。路面を覆う深い新雪に加えて、新雪下の路面そのものはガチガチに凍結していたから、柳津にさしかかる頃になるとチェーンもほとんど利かなくなった。地元のタクシーなども何台か道端で動けなくなっていた。スコップをふるって行く手の雪を排除したり、滑り止めの砂を撒いたりしながら、亀のような速度で一進一退を続けた。国道二五二号から分岐して玉梨温泉、さらには昭和村へと通じる道はいまではすっかり拡幅整備され、舗装道路になっているが、当時は急坂の悪路だった。この道を上りはじめる頃になると、まるで車ごと氷上をスケートしているみたいに、右へ左へとスリップを繰り返し、幾度となく車体が進行方向と四五度の角度をなして停まる有様だった。正直なところ身に危険を覚え引き返そうかとも思ったが、そうしたくてもUターンができない。だからといってその場で動けなくなってしまったら、事態はいっそう悲惨である。最後の蛮勇をふるい起こし、ほうほうの体で宿に辿り着いたときには、時刻は夜の十一時を過ぎていた。その頃たった一軒しかなかった温泉宿の御主人から、「よくもまあ、こんな悪天候の中をお出でになられましたねえ。地元の者でもこの雪じゃ誰も動いたりしませんよ。てっきりお泊りはないものと思っておりました」と大いに呆れられもした。雪路にも強い現在の四駆のワゴン車でもどうかと思うくらいなのに、よくもまあ、あの旧式の老朽車で無謀なことをやったものである。
小降りにはなったが、雪は翌日もやまなかった。もしかしたらという予感通り、その後起こった雪崩と想像をはるかに超えた積雪のために道路は完全に不通となった。そして、道路が再び開通するまでの間、我々は玉梨温泉付近に閉じ込められるはめになってしまった。仕方がないので、翌日は近くの小集落を散策し時間を潰すことになったが、想いもかけぬ光景にめぐりあったのはその時だった。
屋根に積った厚さ一メートル以上の雪を大きな木製の雪ベラを巧みに使っておろしている老人に話しかけると、冬の厳しさと戦う雪国の苦労を、ユーモアを交えながらも切々と語ってくれた。屋根に上って雪おろしを体験してもよいというので、茶目気を起こしてちょっとだけ手伝わせてもらったが、三・四十センチの厚さずつ何層かに分けて表層部から徐々に雪を降ろす作業は、想像以上に熟練と体力を要する仕事だった。十分ほども雪おろしを続けていると身体中が汗ばみ、足腰が重たくなってきた。迅速に事を運ぼうと、屋根の軒先寄りの雪をいっきに取り除いたりすると、屋根の上方部の厚い圧雪層が急に動き滑りだして作業者もろとも地上に崩落しかねない。雪おろし作業中に屋根から落ちたり、雪に圧し潰されたりして負傷者や死者がでるのはそのためである。老人の話によると、雪おろしには鉄製のスコップなどよりも、昔ながらの木の雪ベラのほうがずっと効率的で屋根も傷めずにすむということだった。
雪おろしも印象深かったが、そのあとでたまたま目にした光景は衝撃的でさえあった。その小集落の一隅に共同墓地があって、そこで埋葬の儀式が行われていたのである。一帯は深さ四・五メートルはあろうかという雪に一面覆われてしまっていて、墓地そのものは我々の目にはまったく見えなかった。線香や数珠を手にした人々に守られるようにしてお棺と思われるものが近くまで運ばれてきていたから葬儀には間違いなかった。どうするのだろうと不思議に思ってもっと近づいてみると、なんと、雪面の一角が一辺五・六メートルの正方形に仕切られ、そこだけが深く堀り下げられているではないか。そして、暗く四角いその穴の底に向って梯子が掛けられているのだった。
穴の底がどうなっているのか部外者の我々は知るよしもなかったが、土葬なのは明らかだったから、お棺を埋めることができるように穴の底の冷たい地面はさらに深く掘り下げられていたに違いない。無雪期であっても土葬の場合にはかなり深く地面を掘り下げなければならない。想像しただけでもその作業は容易ではなさそうだった。埋葬の参列者の一人にそっと尋ねてみると、亡くなったのは九十才をすこし超えた老婆だとのことだった。その人の言葉をそのまま信じるとすれば、その老婆は生まれてから亡くなるまでずっとその地を離れたことがなかったという。現在では考えられない話だが、当時の山村や漁村にはまだそのような人々がわずかだが存在していたのである。
私と小野さんとは、そこに釘付けになったまま、中で老婆の眠るお棺が梯子伝いに穴の底深くにおろされる様子を見つめていた。半年は深い雪に閉ざされる豪雪地帯山村の小集落に生まれ、ささやかな喜びや楽しみはあったろうが、多分その何十倍何百倍もの苦しみと悲しみに耐えて生き、そして生涯誕生の地をひとたびも離れることなく永遠の眠りについた老婆が、いま厚いあつい雪の下の暗く冷たい土の底へと還っていく……それは、生きるということの意味を根底から考えなおさせられる壮絶きわまりない光景であった。奇妙な偶然の取り合わせでその老婆が地中へと戻る瞬間に立ち合うことになった我々は、一度さえもその姿を拝することのなかった柩の中の人生の先達に向って御苦労様と手を合わせたような次第だった。
翌々日の午前中になってようやく道路が通行できるようになった。帰り仕度をすませ、いざ車を動かそうとしてみたが、連日の寒気であちこちが凍結したらしく、エンジンは微動だにしない。あちこち叩いたり揺ったりしてからチョークを絞り込みスターターを回してみたが、すぐに止ってしまってどうにもならない。ガソリンだけを大量に吸い込んみプラグが濡れてしまったこともあって、事態は悪化するばかりだった。万事休すかと諦めかけたが、最後の非常手段をと思い立ち、宿に戻って大きなヤカン一杯の熱湯をもらってくると、それをエンジンに思いきり浴びせかけた。そして湯煙の途絶えぬうちにエンジンをかけると、頼りなげながらもなんとか動きだした。エンストしないように注意しながらエンジン全体の温度が上がるのを待って、ようやく我々は玉梨温泉をあとにしたようなわけだった。
柳津を過ぎしばらく走ったところで国道二五二号線は国道四九号線と合流した。合流地点で左折、四九号線伝いに新潟方面に向って西進しはじめたが、かなり車が混んでいて思うようには進めない。やはり小出、長岡方面に直接通じる二つの国道が通行止めになっている影響だろう。長岡駅午後四時五分発の雷鳥四四号に渡辺さんを乗せるには遅くとも三時五〇分くらいには駅前に到着しなければならないが、この調子だと間に合うかどうかわからない。渡辺さんには黙っていたが、私は内心少なからず焦っていた。先を急ぐそんな私の気持ちのゆえか、四九号と並行して西にのびる阿賀の流れまでが妙にのんびりとしているように思われた。阿賀野川両岸の若緑は鮮やかだったが、残念なことにそれをゆっくりと眺めている暇はない。はじめの予定では長岡に着くまでにどこかで温泉にはいるつもりだったが、とてもそれどころではなくなった。渡辺さんとの旅の終りを間近にして、なにやら「現実」あるいは「日常生活」という名の魔物がしばしの眠りから醒めて再び蠢きだした感じだったが、このままずっと旅を続けるのでないかぎり、それはどうにも仕方のないことだった。
津川町に着いたところであらためて長岡方面への最短ルートを検討しなおし、国道四九号線に別れを告げて阿賀野川にかかる橋を渡った。そして五泉、村松を抜け、さらに加茂市、三条市を経て国道八号線に出た。国道八号に出たら、あとは長岡までひと走りだった。
渡辺さんとのこの旅の出発地点長岡駅に到着したのは午後三時三十分で、結果的には当初の予定時刻にぴったり間に合った。走行距離数二八八九キロメートル、九泊十日にわたる旅はこうして無事終了した。九泊すべて車中泊という徹底ぶりだった。幸い天候には恵まれ、青森県岩崎村黄金崎周辺での半日だけが全行程中で唯一の雨天だった。
旅の全行程に要した費用は、食費、車の燃料費、有料道路料金、各種施設利用料金のすべてを含めて五万五千三百円、一日一人当たりになおすと二七六五円であった。総費用のうちで意外に大きな割合を占めたのは一日平均一人当たり七・八百円にのぼる各地での温泉入浴料だったから、温泉のハシゴをもうすこし慎んでいたら、もっと安上がりの旅になったことだろう。いまどき信じられないと思われる方もお有りだろうが、この集計値に間違いはない。若い者ならともかく、よい歳をした大人がよくもまあ馬鹿げた真似をと絶句なさるむきも少なくなかろうが、そのような声に対しては、「はいおっしゃる通りアホなんです」と自らの愚かさを素直に認めるほかはない。
午後四時五分長岡発の雷鳥四四号で若狭への帰途につく渡辺淳さんを私は一人ホームで見送った。列車が遠ざかるのを見届けてから駅前に駐めてある車に戻った途端に、空がみるみる暗くなり稲妻まじりの大粒の雨が降りだした。まるで天空の雷様が、我々の旅が終わるのをしびれをきらして待ちこがれていた感じである。どうやら、梅雨前線が長岡市周辺まで北上してきたものらしい。激しい雨の中を突いて新潟群馬両県境の三国峠付近にさしかかると、二、三メートル先も見えないほどの濃霧となった。フォグランプをつけ徐行運転でカーブの連続する峠道を越えたが、猿ヶ京温泉付近までは濃い霧は晴れなかった。ラジオに耳を傾けると新潟南部から関東地方一帯は完全に梅雨入りしたと報じていた。途中で仮眠をとったり、旅の余韻にひたったりしながら、のんびりと一般国道を走り、六月八日の午後十一時五十分頃に東京府中の自宅に帰り着いた。府中から長岡までの往復距離五九六キロメートルを加えると、全走行距離数は三四八五キロメートルに達していた。

(了)
「マセマティック放浪記」
1999年11月24日
日記の効用
皆さんは日記というものをどのようにお考えだろうか。近頃、私は、日記というものの持つ意味をいま一度見直しているところである。人間の記憶とは相当にいい加減なもので、自分の人生の中で起こったかなり衝撃的な出来事であっても、二・三年もするとその大半を忘れ去ってしまうのが普通である。まして二十年も三十年も前のこととなると、ほとんどが深い時の霧の奥に包み込まれてしまっていて、想い出そうとしても滅多なことでは蘇ってきてくれない。そんなとき、ほんの一・二行の、場合によってはわずか一単語のメモのようなものでも残っていれば、それが連想のキーとなってその当時の出来事を糸を手繰り寄せるようにして想い出すことができるものだ。
もともと日記などというものは、いつか他人に公開しようなどどいう不純な意図でもないかぎり、自分だけにわかる短い記録程度にしておいたほうが長続きもする。また、そうしておけば、万一他人に見られた場合でもそう慌てることもないし、後のちになってからは、かえってそのほうが役に立つような気もしてならない。一週間に一度程度でもよいから、ちょっと時間をつくって、ほんの一言だけ、あとになってからその時の事などを想い出すことの出来るような自分向けのキーワードを記しておくだけで十分だと思う。長々と名文を綴る必要もないし、生の事実を赤裸々に書き残しておく必要もない。
たとえば、「○月○日、雪、歩く、送る、寒い!」といったなんの変哲もない短いメモでも、当人が読めば、それを通してすっかり忘れていたその日のドラマティックな出来事が蘇ってくるということは十分にありうることだからだ。
どんなに波乱万丈の人生を送った人でも、いつか過去をを振り返る歳にいたったとき、来し方の道が白い霧の中に沈んでしまっていて、もはや、かすかな記憶としてさえ昔日の出来事を想い起こすことができないとすれば、やはりそれは悲しいことに違いない。
私は学生の頃から一冊で三年使える博文館の当用日記帳を愛用してきた。この歳になって空白も多い青春期の日記をめくってみると、自分にしかわからないごく短いメモを通して、その背後に隠されている数々の出来事や当時の様々な世相などが次々と脳裏に蘇ってくる。しかもその多くは、相当に重大な出来事だったにもかかわらず、すっかり忘れてしまっていたことばかりなのだ。自分では決して記憶力の悪いほうではないと思っているし、また、まだ重度の痴呆症にかかるような歳でもないのだが、それでもこの有様なのである。
正確な言い回しは忘れてまったが、「日記のない人生なんて、人生をドブに捨てるようなものだ」というような意味の言葉を残した偉人があった。これまであまり気にもとめずにきたその人物の言葉の背景が、今にしてようやく理解できるようになってきた感じである。秋という愁い深い季節のせいなのか、それとも、やはりそれなりに歳をとってきたせいなのかはわからないが・・・。
若い時代に使いふるした予定表やメモ用の手帳、ビジネス手帳などは、そのときにはたいしたものに感じられなくても、捨てないでそのままとっておくと、ある時期が来たとき、それらは掛替えのない心の財産に変わるのではないかとも思う。それらは十分に日記の代用となりうるし、あらためて日記をなどと大仰に構えなくても、その程度のことなら誰にでも容易に出来ることなのだから・・・。
もっとも、いくら記憶を蘇らせるためのキーが残っていたとしても、それらのキーを活用する余力さえも残っていないほどに自分の頭のほうがボケてしまったら、これはもう話にならない。もしもそのような事態になってしまった場合には、記憶を呼び戻すためのキーがとんでもない妄想を生み出すきっかけになったりする可能性だってある。そうしてみると、歳をとってから日記の効用にあずかるためには、どうやら一定レベルの頭脳の働きだけは維持しておく必要がありそうだ。
広島在住の村上昭さんという方がおられる。アコーディオン演奏のコンクールで全日本チャンピオンにもなったことのあるアコーディオンの名手で、広島周辺にはその演奏に魅せられたファンも少なくない。むろん、私も村上さんの奏でる絶妙なアコーディオンの音色の虜になった一人で、昔からこの方とはずいぶんと懇意にさせていただいている。
実は、村上さんは、以前、「老人性痴呆症を考える会」の会長さんなども務めていたことがおありで、痴呆症のことについてはたいへんお詳しい。すでに他界されたご両親が晩年極度の老人性痴呆症になられ、村上さん自身、かつて大変なご苦労をなさったことがおありという。そのため、村上さん御夫妻は、その時の経験を活かし、親身になって痴呆症の老人を抱える家族の方々の相談にのったり、的確なアドバイスをしたりして現在に至っておられる。
この村上さんによると、将来、老人性痴呆症にならないようにするには、四十代からその予防に努める必要があるという。いろいろある予防策のなかで統計的にみて重要な対策の一つは、とにかく指を動かすように心がけることであるらしい。それも、できるかぎりすべての指を動かすようにしたほうがよいという。指の運動は脳を強く刺激し、結果的に脳機能の低下や痴呆症への進行が抑えられるというのである。その点、音楽家などは、職業上必然的にすべての指を使うため、老人性痴呆症になる割合は低いようだ。
ただ、困ったことに、私などは指を動かして弾く楽器に無縁である。ハーモニカならそれなりに吹くが、音にバイブレーションをきかせるとき以外は、指の運動にはあまり関係ない。舌と唇、それに肺の運動が脳の刺激に有効だというのなら文句はないのだが、そんな話は聞いていない。うーん、どうしたものだろうと考えているうちに、そういえば、パソコンのキーボードならずいぶん昔から叩いているなあと気がついた。キーボードの操作には当然指を使う。パソコンの操作にともなう五本の指の運動は相当なものである。
パソコンなら懐かしい8ビットのアップルマシン以来の常連で、一時期、数理科学関係の教育ソフトの開発に携わっていたこともある。通信歴も長く、十年以上も前にニフティサーブなどのパソコン通信システムが登場して以来の通信マニアで、初期の頃はSTRANGERなどというふざけたハンドルネームでパソコン通信に入り浸っていた。その成果(?)をもとに、まだインターネットの普及していない数年ほどまえ「電子ネットワールド: パソコン通信の光と影」(新曜社)という、パソコン通信の人間模様とその問題点を描いた本をハンドルネームで書いたりしたほどだった。だから、指先の運動量だけは現在に至るまでにかなりのものになっている。それが少しでも先々の痴呆症予防に役立っているとすれば、こんなありがたい話はない。
いまやパソコンやワープロが全盛の時代……どこかのソフトハウスが、いろいろな便利な検索機能や文化・生活関連のデータのついた使いやすい当用日記専用のソフトでも開発してくれ、ディスク一枚、あるいはメモリーカード一枚だけで一生分の日記をカバーできるようになれば言うことない。もちろん、いまでも、システム手帳やデータ・ベースその他のソフト類を活用すれば、それに近いことができないわけではないけれど、自分で日記専用の優れたソフトに仕上げようとするとまだまだ結構面倒なことが多いようだ。過ぎし日の記憶を手繰り寄せるためのキーとなる日記と、一定の脳の老化防止のための指の運動をともなうキーボード操作……考えてみると、これはなかなかうまい話なのかもしれない。
AICの読者の皆さん、適度の指の運動を維持していくために、今後とも懲りずによろしく私たちにお付き合いくださいますように……。えっ?……AICはマウスだけで読めるからあまり指の運動にはならないですって?……でもまあ、人差し指の運動くらいにはなるでしょうから、何もしないよりはそれでもずっと増しですよ!
「マセマティック放浪記」
1999年12月1日
まだあった懐かしい情景
山陰回りのルートをとって九州に向かう途中、遅い昼食をとるために宍道湖南岸の道の駅、「ふれあいパーク」にあるレストランLAGO(ラーゴ)に立ち寄った。西日に映える広く静かな宍道湖の湖面が窓越しに望まれ、なかなかに風情のある落ち着いた雰囲気のお店である。すぐ近くの湖面では、水鳥の群れが餌を漁ったり羽を休めたりしているところだった。
「殿様もうまいと誉めた鯛めし!」とかいうキャッチフレーズに釣られ、ふーんと思いながらその鯛めしを注文したのだが、一膳が千円ちょうどというその値段から考えて、称賛したのは殿様なんかじゃなく、せいぜい貧乏侍かなにかだったんじゃないかと、勝手な想像を馳せたりしていた。そんな私の目の前に運ばれてきたのは、結構見栄えのする鯛めしセットだった。白、薄茶、黄色の三種類のそぼろとネギその他の薬味をたっぷり盛った大皿に、急須型の土瓶、炊き立てのご飯の入った小型の丸櫃、そして、空のお茶碗が一個ついている。どうやら、白と薄茶のそぼろは鯛そぼろ、黄色のそぼろは卵そぼろ、そして、土瓶の中身はじっくり火にかけて作った鯛のダシ汁であるらしかった。
この種の鯛めしを食べるのは初めてだったので、一瞬、どういう風にして口に運べば一番うまいのかと戸惑ったが、すぐに、お茶漬けの要領で味わえばよいのだろうと思いなおした。そこで、まずはお茶碗にホカホカのご飯を盛って三色のそぼろをふんだんに振りかけ、土瓶のダシ汁をたっぷり注ぎこんだ。それから、そっと箸をつけてみると、実にこれがうまい!……殿様が感激したのももっともだと、すぐに納得してしまった。十分に振りかけても余りそうなくらいにそぼろの量も多く、満悦しながらご飯を食べ尽くしたあと、土瓶に残ったダシ汁のほうもきれいに飲み干してしまった。景色も恵まれていて鯛めしもうまいし、お店の雰囲気もなかなかのものだから、車で付近を旅する方には是非立ち寄ってみることをお勧めしたい。
宍道湖畔をあとにして大田をすぎ、浜田市街に着く頃には、ちょっと沈んだ紅の輝きを見せながら太陽も西の地平線の彼方に姿を隠していった。海沿いの益田市を抜け、川伝いにかなり内陸に入ったところにある津和野にさしかかる頃には、あたりは深い宵闇に包まれた。長年の持病、「脇道病」の発作が起こりはじめたのはこの時である。この持病がいったん鎌首をもちあげたとなると、自分の意思ではもうどうにもコントロールが利かない。
地図で調べてみると、津和野から、むつみ村、福栄村、川上村を経て萩市まで細々とした県道が続いている。奥まった山間の集落を繋いで延びる山道のようなので、萩に抜けるまでには相当時間がかかりそうだったが、脇道病の発作につきものの「旅の嗅覚」に導かれるままにその細道に車を乗り入れた。ちょっと走ると、案の定、道幅は極端に狭くなり、右に左にくねくねと蛇行しはじめた。いくつもの深い谷や峠路を縫い繋ぐ感じの山道で、ダートの部分や補修工事中の部分も少なくない。ある種のノスタルジーをさえ覚えながら走るうちに、闇が一段と濃くなり、天空の星々がヤスリで磨いたような鋭い輝きを放ちはじめた。郷愁を誘われるのも当然で、これこそは、昔懐かしい本物の「闇夜の風景」にほかならなかった。
他に車の通る気配などまったくないのをよいことに、私は道端に車を駐め、時刻表示盤を含むすべてのライト類を消してみた。昔ながらのこのような深い闇の中では、時刻を示すグリーンの光でさえも明るく感じられる。久々にこんな体験をすると、自分をはじめとする現代人がいかに光に鈍感になってしまっているかを痛感せざるをえない。足元をはじめとして一帯は漆黒の闇に支配されており、二、三歩車外に踏み出すと、そばに駐めてあるはずの車さえも見えなくなった。天を仰ぐと、無数のサファイヤかブルージルコンを連想させる大小の光の粒が、それぞれの存在を主張するかのように輝いていた。夜空が明るくなったため最近ではほとんど見ることのできなくなった銀河の流れも見事だった。
不思議なもので、しばらくすると星明りに目が慣れてきて、闇の中でもそれなりに視界がきくようになってきた。長らく眠っていた私の五感が、このときとばかりに目覚め蠢(うごめ)きはじめたためだろうか。幼少の頃には当たり前だった光景ではあるが、私は何十年ぶりかで昔の恋人に出逢いでもしたかのような気持ちになった。しかも、昔の恋人は歳月を重ねるとその容姿も変貌してしまうが、この星空と地上の闇の織りなす夜の姿には昔のままの瑞々しさが留められていて、なんとも嬉しいかぎりだった。
再び車に戻ってしばらく走ると、谷間にそって民家の点在するところに出た。闇の中のあちこちに、文字通りぽつんぽつんと、ほのやかな人家の明かりが浮かんでいる。「まるで日本昔話の世界に迷い込んだみたいだよなあ……」という想いが、一瞬私の脳裏をよぎっていった。都会の夜の過剰なまでにギラギラとした明るさが遠の昔に捨て去った「灯火の暖かさ」と「人の温もり」が、そこにははっきりと感じられたからである。再度車を駐めた私は、谷の向こうに灯る淡い色の明かりの一つひとつをしげしげと眺めやりながら、ほのかな光の洩れてくるその家々に住む人々の姿などを想い浮かべた。冬場などは雪も深いことだろうから生活は厳しいに相違ない。物質的な意味での豊かさなら、都会には及ぶべくもない。でも、人々の心はきっと暖かいに違いない。そんなことを考えながらなにげなく見上げた夜空を、明るく輝く流星が一条の尾を曳いて北の方角へと流れ去っていった。
この地方においては、かなりの数の家々が立ち並ぶ集落でも、道路沿いの街灯は百メートルか二百メートルおきに立っている程度にすぎない。だが、実際に確かめてみると、それでも結構明るく、夜道を歩くのにそれほど不便だという感じはしない。夜こんなところを旅してみると、現代の都会の明るさのほうがどんなに異常であるかがよくわかる。「暗いことは悪そのものである」と言わんばかりに過剰な照明の溢れる大都会に住む人々は、たまにはこういう地方を訪ね、少しくらいは己の感覚の異常さを反省してみる必要があるかもしれない。国内の電力供給の三割以上を占めるようになった原子力発電所の危険性が、敦賀や東海村での事故をきっかけに大問題となっている昨今にあってはなおさらである。
萩市に出て夜の中心街や萩港周辺をめぐったあとは、国道一九一号から意図的にはずれ、山陰線と絡み合うようにして海岸沿いを縫い伝う萩・三隅線に突入した。まだ萩市のはずれの集落を通り過ぎないうちから、家並みの間をかするようにしてすり抜ける一車線ぎりぎりの道になったので、それなりには覚悟していたが、これがまた、やたらカーブの多い予想以上に細く狭い道だった。もちろん、夜も更けた時刻に好きこのんでそんなところを通る酔狂な車など他にあろうはずもなかった。
しかし、嬉しいことに、この道は夜の世界のドラマに満ちみちたなんとも素敵な道でもあった。右手に日本海を見下ろす断崖上を走っているせいで、点々と詩情豊かに輝き浮かぶ漁り火や、海側に大きく開けた美しい星空を一望することができた。ひときわ大きく海に突き出た岬近くのスペースに車を駐め、懐中電灯を頼りに崖伝いの細く急な漁道をくだると、静かに波の寄せる磯場に出た。すぐそばに貝殻の小片が無数に集まってできた小さな浜辺などもあって、歩を運ぶにつれてサクサクという乾いた音が一帯に快く響きわたった。しばし後ろ手をついて磯辺に腰をおろした私は、夜のしじまに体内の穢(けが)れを清めてもらいながら、じっと潮騒に聞き入っていた。
再び車に戻ってしばらく進んでいくと、私のワゴン車がぎりぎり通れるかどうかというほどに道幅は狭まり、しかもその道は照葉樹とおぼしき樹木の密生する深い林の中へとはいっていった。脱輪しないように細心の注意を払いながら、とあるカーブを大きく曲がった瞬間、ずんぐりした体型の黒褐色をした動物が何匹かヘッドライトの中に浮かび上がった。相手のほうも、不意を突かれたせいか、おろおろしてその場に立ち尽くしたままである。車をより近づけてみると、それは四、五匹のタヌキの群れだった。ようやく事態を察知したらしいタヌキどもは、車のすぐ右手脇の急斜面を大慌てでわれさきによじ登り、茂みの中に姿を消していったが、仲間の上に無理やりのっかったり、転げ落ちる奴がいたりして、その様子は実にユーモラスだった。
三隅町の集落へ向かって山道を下っていると、黄色い花らしいものを無数につけた何本かの樹木が目にとまった。不思議に思って車から降り、近づいて懐中電灯で照らしてみると、なんとそれらは黄色い花などではなく、昔懐かしい丸い小さな蜜柑の実だったのだ。どうやら古くから日本にある島蜜柑の一種のようである。栽培している農家の人には申し訳ないとは思ったが、二、三個無断で頂戴し薄めの皮を剥いて試食してみると、素朴だがどこか上品な甘酸っぱい味が口一杯に広がった。手に移り残ったその香りも実にさわやかなものだった。
そこからしばらく下ったところでは、道路脇の藪の中に野生の柿の木が生えているのを見つけた。蜜柑をすこし大きくしたくらいの小さな柿の実がかなりの数なっているではないか。懐中電灯でよく照らして調べてみると、もうほどよく熟れていて、鳥などについばまれた跡があるものもかなりあった。手近なものを一個とって食べてみると結構うまかったので、さらに五、六個ほどもぎとってから三隅の集落へと降りて行った。三隅町の集落に入ってほどなくその道は広い国道に合流したので、深夜の脇道探訪のほうはそこでひとまず終わりにすることにした。
「マセマティック放浪記」
1999年12月8日
あの可憐な少女はいま
たまたま西武池袋線大泉学園付近にいく機会があったので、懐かしさにかられて石神井公園を訪ねてみた。まだ修学中の身だったころ以来のことである。母の従兄弟の子で、私より一つ歳上の大学生が、当時、石神公園のすぐそばのアパートに住んでいた。かなりの遠縁だが、肉親縁の薄かった私には、それでも付き合いのある数少ない縁者の一人だった。歳も近いうえに、お互い勉強は大嫌いだが好奇心だけはやたら旺盛という共通点などもあって、とてもウマが合った。
学生時代は何かにつけて彼のアパートに押しかけ、昼夜を問わず将棋の「迷人戦」を繰り広げた。空を見上げて「ジェット機待った!」と叫ぶに等しい「待った!」などもある泥仕合に疲れ果てると、気分転換を兼ねて石神井公園に出かけてボート漕いだり、散策をしたりしたものだ。細長い形をした石神井池の真中を競艇よろしく力に任せて漕ぎまくり、ほかのボートにぶつかりそうになって顰蹙(ひんしゅく)をかったこともある。池の水路が二手に分かれ極端に幅が狭くなったところに架かる太鼓橋の下を猛スピードでくぐり抜けようとして橋桁に接触、転覆しそうになったことなどもあった。
週末や休日などには若いアベックや家族連れが多く、ボート屋は結構繁盛していたようだったが、ウィークデイなどは静かなもので、釣り人の姿などもほとんど見られなかった。そんな静かな日に石神井池の湖面を独占するのはなんとも気持ちのよいものだった。当時、石神井池の南側は鬱蒼とした林になっていて、夕暮れ時や月夜の晩などに湖畔を散策すると、東京にしては珍しいくらいに風情が感じられたものである。
また、石神井池のさらに奥には三宝寺池という大量の湧水に恵まれた池があって、この池一帯の植物群は「三宝寺池沼沢植物群落」として当時から天然記念物の指定をうけていた。ミツワガシワやシャクジイタヌキモなど珍しい植物が群生していたためらしい。ほぼ円形をした三宝寺池の周辺は東側をのぞいて急斜面になっており、昼でも暗いほどに種々の大木が密生していたように記憶している。湖畔をめぐる細い歩道もススキその他の深く繁った草木に覆われ、昼間でも時折ザリガニ獲りや小魚獲りにくる子供の姿が見られる程度で、ほとんど人影はなかった。だから、ちょっとした探検家気どりで池の一帯をめぐり歩くことができた。秋の満月の頃など、この三宝池の西側湖畔や、ちょっと池に突き出た弁天社の右裏手に立って東の空から昇る月を眺めるのはなんとも気分のいいものだった。宵風にかすかに揺れるススキの穂の向こうに浮かぶ月影は花札の絵柄を連想させたし、湖面に美しく揺れ映える月光は、都会の光景とは思われないほどに幻想的だった。
そんな想い出深い石神井公園近くのアパートに、時々、わが迷人戦の相棒を誘いにくる一人の可憐な少女があった。「和田のお兄ちゃあーん、一緒に野球しようよぉー!」と二つの「よ」音に独特の抑揚と強調の響きの込もった声で、彼女はいつも元気よく誘いかけてきた。少女は当時まだ小学五、六年生だったが、髪を長く垂らしたその美しく伸びやかな姿態には、天性の気品と育ちのよさとでもいうべきものが感じられた。ちょっとはにかむような微笑みと可愛らしいエクボが印象的なこの美少女は、子供ながらに知的な輝きと心の強さを秘めており、ゆくゆくは素敵な女性に成長していくに違いないとも思われた。
和田のお兄ちゃん、すなわち、わがヘボ将棋の相棒は、「ふみちゃん、ふみちゃん」といって、いつもその少女を可愛がり、よい遊び相手になっていた。彼は、私と同じ鹿児島県の甑島の育ちとあって子供遊びの知恵には長けていたし、子供の相手をするのがとても得意だったから、かなり歳が離れていたにもかかわらず、ふみちゃんにはずいぶんと気にいられていたようである。もしかしたら、あの頃、同い年くらいの遊び友達が近所におらず、ふみちゃんはふみちゃんでちょっぴり淋しい思いをしていたのかもしれない。
あのときから長い歳月が流れ去った。久々に訪ねた石神井公園周辺は全体的すっかり整備が行き届き、昔とはかなり様子が変わっていた。ボート乗り場はいまもあったが、以前の木製の手漕ぎボートは影を潜め、かわりに屋根つき足漕ぎ式のボートがほとんどになっていて、いくらか残っている手漕ぎボートも合成樹脂製のものに変わっていた。しかも、休業中なのか、それらのボートはすべて岸辺付近に繋ぎ留められ、石神井池の湖面を漕ぎわたるボートの影は皆無だった。楽しむ場所が限られていた昔の恋人たちと違って、いまどきのヤングカップルは、こんなところでそうそうボートに乗ったりはしないのだろう。
公園の東端に駐車場もでき、湖畔をめぐる歩道は拡幅され、ずいぶんと歩きやすくなっていた。石神井湖の南岸一帯には、昔日の武蔵野の面影を偲ばせるブナ、ナラ、クヌギ、トチなどの広葉樹の大木がいまもなおかなりの数残っていて、とてもいい雰囲気の樹林帯を形成していた。北岸に並び生える柳の大木もにもなんとも言えない風情があった。秋の足早な太陽が西の空に大きく傾く夕刻のことだったので、それらの樹々の黄葉が美しく夕陽に映え、時折吹き抜ける風に揺すられて、頭上から木の葉のシャワーとなってはらはらと落ちてきた。湖畔のあちこちに生える外来の針葉樹メタセコイアの紅葉も鮮やかだった。それらのメタセコイアが昔から石神井池周辺にあったかどうかについてははっきりした記憶はない。もしかしたら、比較的近年になって移植されたものなのかもしれない。
湖面にはカモやオシドリをはじめとするたくさんの水鳥の姿が見かけられた。晩秋という時節のせいもあったのかもしれないが、水鳥の数は以前よりもかなり多い感じだった。鳥たちの餌となる池の中の小魚や植物がそうそう増えた様子はないから、もしかしたら池を散策する人たちが餌を与えているのかもしれない。湖畔のあちこちには釣り糸を垂れる老人たちの姿が見かけられた。いまは何が釣れるのだろう思いながら足を止めてさりげなくその様子を眺めてみると、魚を釣るというよりは、時間を餌にして、静かな余生とそれに伴う深い想いを釣っているという感じである。ウィークデイにもかかわらず池の周りをのんびりと散策する人々はかなりの数にのぼっていたが、高齢者の占める割合がきわめて高いのは、現代の日本社会を象徴していることのように思われた。私が学生だった頃にはこんなことはなかったから、これは、まぎれもなく、高齢化社会の到来と高齢者層の一定レベルの生活の安定にともなう現象なのだろう。
個人主義の浸透したヨーロッパなどでは、昔から、老人や老女が三々五々公園などで老後の時間を過ごす姿が見うけられたものである。その身なりや振舞いからしてそれなに豊かな階層に属すると思われる老人たちが、どこか淋しい影を秘めて公園のベンチに腰掛け遠くを見つめている姿を目にすると、日本的な家族制度も捨てたものではないのかなと考えたりもしたものだが、どうやら日本も欧米と同じような状況になってきたらしい。世代間の分離と核家族化がますます進むこの時代にあっては、老齢期を迎えた人は皆、病気でもないかぎりは独りで時を過ごしていくすべを身につけていかなければならないのだろう。
そんな状況を象徴するかのようにベンチに座る一人の老人の姿があった。その老人ははずした眼鏡を無造作にベンチの脇に置き、葉を黄色に染めて夕陽に浮かぶ対岸の柳の並木を眺めていた。斜めから射し込む木漏れ日がほのやかに照らし出すその背中には、言葉には尽くし難い淋しさが漂っているようであった。私はその老人のまうしろ五、六メートルのところに佇んで、その人の胸の内に想いを重ねてみた。気のせいではあったかもしれないが、私には老人の心の呟きの一つひとつが聞こえてくるように感じられてならなかった。
しばらくして再び歩き出した私は、細長い池の半ばあたりにある二つの石造りの太鼓橋を渡って遠い日の自分の足跡をたどったあと、石神井公園の最奥にある三宝寺池へと歩を運んだ。昔と違って三宝寺池の周囲には立派な木道が配備され、以前の野趣が失せたかわりに、そのぶん歩きやすくはなっていた。あちこちに風景を描く画家たちのイーゼルが立ち並び、群をなして餌を漁る水鳥たちの姿をカメラに収める人々の姿もずいぶんと見うけられた。こんこんと清水の涌き出る三宝寺池を三方から取り巻く急斜面の樹林帯は、幸い昔のままに保存されていたので、三宝寺池そのものの風情はいまもなお健在だった。
バードウオッチングのスポットでもある一帯には各種の野鳥の声が絶え間なく響き渡り、何を食べて生きているのはわからないが、まるまると太った毛艶のいい野良猫たちが、付近の藪の中や木道の周辺を我がもの顔に徘徊していた。一見しただけでは判らなかったが、最近になって建てられたらしい案内板の解説よると、近年、三宝池の自然湧水量が減少してきており、その自然環境を維持するために人為的にかなりの水が補給されているらしい。古来、石神井川の源泉になっていた三宝寺池の湧水も時代の流れには抗い難く、その神通力を失いかけてきたというわけなのだろうか。
三宝寺池の一角からこころもち湖中に突き出た弁天社の脇には湖面全体を一望できる無人休憩所なども設けられ、散策者がしばし足を休めるための絶好のスポットとなっていた。まだ月の昇る時刻には間があったため、そこで月見を楽しむことはできなかったが、時節と月齢、そして月の出の時刻を十分に見計らってこの休憩所にやってくれば、現在でも湖面に映える美しい月影が眺められることだろう。
石神井公園を一渡りめぐり終えたあと、湖畔からそう遠くないところにある懐かしい「迷人戦の跡(?)」を訪ねてみたことは言うまでもない。遠い記憶を頼りに将棋の相棒が住んでいたアパートのあった場所を探してみたが、当時畑だったところには洒落た造りの家々が立ち並び、昔のアパートの跡を偲ばせるものなど何一つなくなってしまっていた。たしかあのパートの大家は山浦さんとかいったなあと想い出しながら、そんな名の表札が掛かっている家を探してみたが、うまく見つけることはできなかった。ただ、地形的にみてそこだったに違いないという地点に辿り着くことはできた。
迫りくる夕闇のなかに独り佇んで深い感慨にひたるうちに、私は、「和田のお兄ちゃん」を誘いにきたあの可憐な少女の面影を昨日のことのように想い起こした。当時、すぐこの近くに、高名な一人の作家が住んでいた。実を言うと、その少女はその作家のお嬢さんだったのだ。それからずいぶんと経ってからのこと、かつてのあの可憐な少女が若く美しい女性へと変貌を遂げ、テレビや週刊誌に登場している姿を目にしたときの私の驚きは大変なものだった。そして、そのときから今日まで、さらにまた長い時間が過ぎ去った。
実を言うと、石神井公園の近くに住んでいた高名な作家とは「火宅の人」で知られる檀一雄さん、そして、その可憐な少女とは、女優の檀ふみさんその人にほかならない。たまにしか一緒に遊んだ記憶のない私のほうはともかく、「ふみちゃん、ふみちゃん」といつも笑顔で話しかけていた和田のお兄ちゃんのほうなら、檀さんも記憶の片隅くらいには留めておられるかもしれない。文学青年の真似事みたいなこともやっていたわが迷人戦の相棒のほうは、たしか一度か二度、檀さんのお宅に伺い、檀一雄さんの手料理を御馳走になったこともあるはずである。
日が沈み、すっかり暗くなった夜道を一歩一歩踏みしめるようにして石神井公園駅のほうへと向かいながら、私は檀ふみさんの女優としての今後の御活躍を心から祈る次第だった。
「マセマティック放浪記」
1999年12月15日
魂の琴線を操る異才!
五月の風のように優しくやわらかく全身を包み込む弦の囁きがホールに響きわたりはじめた瞬間、歳柄にもなく私は激しい胸の高鳴りを覚えた。ステージに立つその小柄なヴァイオリニストの奏で出す玄妙な音の一つひとつには、あるときは明るく、またあるときは淡く輝きうつろう不思議な光彩が感じられた。やわらかくて深く澄みきった、それでいて聴衆の魂を激しく揺すぶるその音色は、心の奥底にいま一つの類稀なるヴァイオリンの名器を秘めている者でなければ絶対に奏で出せないものであった。去る十一月二十七日、東京千代田区紀尾井ホールで催された川畠成道ヴァイオリンリサイタルでのことである。
実際にその演奏を耳にするまでは、正直なところこれほどのものだとは想像もしていなかった。たいして音楽の世界のことなどわからない私だが、貧乏学生の頃から、三食をインスタントラーメンですませるなどして貯めたお金で演奏会にだけはよく出かけた。ヴァイオリンのコンサートにもずいぶんと通ったが、ソリストの奏でるヴァイオリンの音色にこれほどまでに感動したのは、若い時代にアイザック・スターンの演奏を聴いて以来のことである。
最初の曲目、モーツアルトのケッフェル三七九番、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、ト長調の演奏が半ばにさしかかるころには、まるで魔法にでもかかったかのように、私の五感のすべてが、弱冠二十八歳のそのヴァイオリニストの操る見えない糸に引き寄せられる感じになった。ホールの聴衆のほとんどが私と同じような気分になっていたに違いない。全体的にも素晴らしい演奏だったが、とくに高音域の弦の響きは絶妙このうえなく、高音にはいくらかはつきものの硬質な響きがまったくと言っていいほど感じられなかった。高い音にもかかわらず、聴く者の体内深くまで、やわらかく、心地よくしみ込んでくるのである。
二曲目はベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ七番ハ短調「アレキサンダー」だったが、その第四楽章に入ってほどなく、弦が切れるというハプニングが起こった。幼少期の薬害に端を発した熱病が原因で川畠成道さんはほとんど目が見えない。だから、一瞬どうなることか思ったが、少しも動じず、静かな口調で聴衆に弦が切れた旨を伝えると、ピアノ奏者のドミニク・ハーレンに導かれていったん舞台裏にさがった。そして、そして、弦を張り換えたヴァイオリンをもって再び舞台に立つと、何事もなかったかのように、鮮やかな弦さばきと圧倒的な迫力をもって第四楽章を弾き終えた。
休憩を交えたあと、ヴィエニャフスキーの「伝説曲、 作品十七」、エルンストの第六番「夏の名残のバラ」と演奏が進み、川畠さんが最終曲目のラヴェルの「ツィガーヌ」を弾き終えたあとも、ホール全体が感動の溜め息とも称賛の呟きともつかぬ深い余韻に包まれ、席を立つ人はほとんど見あたらなかった。アンコールに応えて川畠さんは四曲ほど小曲を弾いたのだが、サラサーテのツィゴイネルワイゼンは、そのなかでも絶品と呼ぶにふさわしい演奏であった。昔からずいぶんと聴きなれた曲であるにもかかわらず、その哀調を深く湛えた響きに思わず目頭が熱くなったほどだった。
演奏も素晴らしかったが、いまひとつ感心させられたのは、演奏会のパンフレットにある曲目解説の文章である。それぞれの演奏曲目には川畠さん自筆の解説文がついていた。あとで確認したところによると、川畠さんは、演奏会があるごとに、演奏曲目の解説文を自分で書くのだという。何度も演奏したこのとある曲でも、毎回新たに解説文を書き直すらしい。しかも、その文章がなかなか見事なものなのである。たとえば、先日のコンサートの第二曲目、ベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ七番「アレキサンダー」には次ぎのような解説がついていた。
「ベート―ヴェンの曲には、風にゆれる一本の野の草がいのちの輝きを必死で吸い上げて生き続けていくような、強い意識的な力を感じます。人生を真剣に見つめ、心の深いところを掘り下げて考えさせられる思いになり、不思議なことに悲しいことも苦しいことも純粋に昇華してしまい、心の世界を広く豊かにしてくれるような気さえしてくるのです。アレキサンダー一世に献げられたソナタのうち、この七番は、ベートーヴェンの曲恋しさに、時々弾いてみたくなるような曲の一つです。」
川畠成道さんのことは、先月、朝日新聞の「ひと」欄でも紹介された。来年一月の半ば頃には、黒柳徹子さんの「徹子の部屋(テレビ朝日)」にも登場するということなので、音楽に関心のある方はご覧になるとよいだろう。川畠さんに強く心惹かれた私は、知人の仲介もあって、終演後に楽屋を訪ね、短い時間だったが川畠さん、ならびにそのお父様の正夫さんと初めてお話する機会を得た。父子ともども実に謙虚な方々である。後日あらためてお父様のほうからは鄭重な電話を賜り、折をみて一度ゆっくり成道さんと歓談する機会をつくっていただけることにもなった。
川畠成道さんが異才のヴァイオリニストとして世界にその一歩を踏み出すまでには、想像を絶するような苦悩と悲哀の日々があったようである。あるラジオ放送局のイタビューの中で、川畠さんはユーモアをさえ交えながら淡々とその間の事情を語っているが、その話は実に感銘深いし、またその語りにおける成道さんの日本語の響きはとても美しい。一語一語が修練を積んだ心の奥の弦を通して発せられるためだろう。
八歳だった川畠さんは、祖父母とのアメリカ旅行中に風邪をひき市販の風邪薬を服用した。ところが十分と経たぬうちに高熱とともに全身に水泡が発生、ほどなく身体中の皮膚も爪も無残に剥がれる状態になった。救急に担ぎ込まれた現地の病院では、生存の確率は五パーセント、かりに一命をとりとめたとしても通常の健康体は保証できないと宣告されもした。幸い最悪の事態だけは免れたが、川畠さんはその不運な出来事が原因で視力を失ってしまった。日本に戻った幼い川畠さんを前にして、御両親の正雄さんと麗子さんとは一時期悲嘆に明け暮れる毎日だったという。
息子の将来を考え、最初は将棋指しにでもということになったのだそうだが、近くに適当な将棋の師が見つからなかったためその話は実現しなかった。お父さんの正雄さんは現在も芸大などで学生の指導をしておられるヴァイオリンの先生、奥様のほうも音楽家という川畠さん一家だったが、音楽で生きていくことの厳しさを共に痛感しておられたため、それまで成道さんを長男とする三人のお子さんにヴァイオリンを教えることはなかったという。
ただ、状況が状況なので、試しにと、正夫さん御夫妻は十歳になった成道さんに初めてヴァイオリンを持たせてみた。ヴァイオリンの名手といわれる人々のほとんどは三、四歳で練習を始めているというから、相当遅いスタートだったわけである。正雄さんも必死だったがようだが、成道さんのほうもそれによく応えた。もともと眠っていた才能が目を覚まし、徐々に開花しはじめたのだろう。成道さんは一年半もしないうちにツィゴイネルワイゼンをマスターし、ほどなく技量的にも父親の正雄さんを抜き去ってしまった。
かすかに視力が残っていた当初は、大きな模造紙に五線譜を拡大して描いたものを一曲ごとに百枚近くも用意し、それで曲を憶えていたが、ほどなく視力が衰えまったく楽譜が読めなくなってしまった。それ以降はピアノなどで弾かれるメロディを聴きながら、楽譜の音譜や各種記号を読んでもらい暗譜するようになったという。いまでは、その驚異的な集中力と記憶力をもって、一週間もあれば新しいコンチェルトを完全に暗譜できるそうである。
十三歳のとき巨匠アイザック・スターンの前でヴァイオリンを弾き、スターンが驚きの声をあげて激賞するほどの才能を示した川畠少年は、それを契機に本格的にヴァイオリン奏者への道を歩むことを決意する。成道さんの将来についての御両親の苦悩と迷いが吹っ切れたのもこの時であったらしい。成長した成道さんはやがて桐朋学園高校を経て桐朋学園大学音楽部に進学、我が国のヴァイオリンの第一人者江藤俊哉に師事、一九九四年に同大学を卒業後、ロンドンにある英国王立音楽院(Royal Academy of Music)の大学院に留学した。四年後の一九九七年にはいくつもの栄誉ある賞を受賞し、英国王立音楽院大学院を首席で卒業、百八十年近くに及ぶ同音楽院の歴史上二人目のスペシャル・アーティスト・ステイタスの称号を授与された。二十五年に一度だけ開催される王立音楽院記念コンサートにおいては、ソリストとして演奏するという栄誉にも輝いた。
現在、川畠さんはイギリスを本拠地にしてフランス、ドイツ、オーストラリアなどのヨーロッパ各地で精力的に公演を行い、ソリストとして大活躍中である。一九九八年三月には東京のサントリーホールでの日本フィルとの共演を通して日本デビューを果たし、同年の十一月に紀尾井ホールで催されたソロリサイタルのほうも今年のリサイタルと同様に大好評を博した。まもなく、ビクターから川畠成道ファーストアルバム「歌の翼に」のCDが発売されることにもなっている。
「英国では、単に楽譜に忠実な演奏をするだけではなく、何を表現したいかを聴衆に伝える大切さを学びました」と語る川畠さんは、シャーロックホームズの熱烈なファンでもある。八歳のときの米国での闘病中に読んでもらったホームズものがきっかけとなり、ホームズ作品は全巻読破(聴破)したのだそうだ。
「シャーロックホームズの舞台となったベーカー街221番地は王立音楽院のすぐ近くでしたので、ホームズのヴァイオリンの腕を確かめに何度も自ら訪ねてみました。ドアをノックするのですが、いつも不在で、残念ながらいまだにホームズとの対面を果たしていません」とさりげない口調で語る川畠さんのジョークは、これまた見事な英国仕込みのようである。
視覚障害のゆえに特別扱いされることの嫌いな川畠さんは、多くの人々とごく普通に交流し、音楽以外のことについても広く学び、すこしでも人間として成長していくことを望んでいるという。そうすることによって、自らの奏でる音楽がいっそう深みと凄みを増していくことを十分に自覚してのことなのだろう。小説やエッセイから科学書、哲学書にいたるまで、ジャンルを問わずにボランティアが吹き込んでくれたテープの助けを借りて読書を楽しんでもいるそうだから、その知識と思索の深さは相当なものに違いない。それでいて、毎日八時間から十時間のヴァイオリンの練習は欠かしたことがないというから、ただもう敬服するばかりである。
「自分がヴァイオリンの演奏を通して表現したいと思ったことが聴衆のほうにもうまく伝わった、という確信を得られた時がもっとも幸せな瞬間です」と川畠さんは語る。たとえば、天上から聞こえ響いてくるような音を奏でたいと思って舞台に立ったとき、聴衆にも実際そのように聞こえたとすれば、それは何物にも勝る喜びであるという。言葉で言うのは易しいが、それを実際に実現するとなると、けっして容易なことではないだろう。
ドイツのシュツッツガルトに演奏旅行に出かけ、帰りの電車に乗り遅れた川畠さんは、次の電車を待つ間に、駅近くの路上で一人のジプシーのヴァイオリン奏者が奏でるツィゴイネルワイゼンをたまたま耳にした。言葉に尽し難いほどに深く哀しいそのヴァイオリンの音色に込められたジプシーの心に深く胸を打たれた川畠さんは、それまでの自分のツィゴイネルワイゼンの演奏に足りないものが何だったかを悟り、その曲に対する考え方とそれに立ち向かう態度を根底からあらためたという。あの思わず目頭が熱くなり、胸が詰まるようなツィゴイネルアイゼンの響きは、そんな謙虚な努力を通して生み出されたものなのだ。
いま二十八歳の青年ヴァイオリニストは、円熟期に入るであろう十年後、二十年後にはいったいどのような演奏を聴かせてくれるのであろう。なんとも楽しみな才能の持ち主が現れたものである。私のような音楽の素人が言うのもなんだが、一人でも多くの人々に日本の生んだ若き異才のヴァイオリン演奏を聴いていただきたいものである。
「マセマティック放浪記」
1999年12月22日
月と夕陽の生月島へ
南九州に向かう途中、ちょっと寄り道して唐津の町を訪ねたのは、豊穣を祝う有名な秋祭「唐津くんち」が終わって三日ほどしてからだった。無数の飾り提灯の揺れるなか、古式豊かな装束に身を固めた曳子たちによって宵の市中を勇壮に曳き回される十四基の曳山も、すでに曳山展示場のガラス張りの収納庫に収まり、一年間の静かな眠りについていた。重さ二〜四トンもある曳山は間近で見るとさすがに大きい。各種の獅子、武将の兜、鯛や鯱、飛龍、鳳凰、宝船、さらには亀と浦島太郎を形どったものなど、曳山の形や飾りにもその時々の工芸職人が腕によりをかけた趣向のかぎりが尽くされていて実に面白い。
曳山展示場を出たあと、三保の松原、気比の松原と並び称される唐津の虹の松原を歩いてみた。玄海灘に面するこの松原は、樹林帯の長さと幅、松ノ木の密生度、樹形と樹齢の多様さなど、どれをとっても実に見事なものである。松の樹林帯の中を縫いくぐって白砂の浜辺に出ると、ゆったりとした玄界灘の海原が青く輝き揺らめいて見えた。荒波でなる玄海灘もこの日にかぎってはずいぶんと穏やかな感じだった。渚のすこし離れたところで遊ぶ一組の子供連れの家族のほかには人影らしいものは見あたらない。何とも言えない開放感にひたりながら、白砂に深く足跡を刻み込むようにして浜辺を歩き回ると、サクサクという快いことこのうえない乾いた音がした。
浜辺で雲一つない青空と西のはてへと急ぐ秋の太陽を眺めているうちに、今日の夕陽はさぞか し綺麗だろうなという想いが脳裏をよぎった。そして、次ぎの瞬間には、もうその想いは西海に沈む夕陽を見たいという強い衝動に変わっていた。私は急いで虹の松原をあとにすると、唐津市街をいっきに駆け抜け、伊万里市方面へとハンドルを切った。三十分ほどで陶磁器で名高い伊万里市街に出ると、そこから松浦市を経て平戸大橋へと続く海岸沿いの国道に入った。右手に広がる伊万里湾から松浦湾にかけての景観はなかなか見ごたえがあったが、西方の海に沈む夕陽を拝むには、地形的にみて旧オランダ商館跡のある平戸島まで行かなければならない。それも平戸島の西側まで回り込まなければ駄目な感じだった。時間的にはぎりぎりと思われたから、移り変わる風景を車窓越しにのんびりと眺めている暇はなかった。
松浦市街を過ぎ平戸大橋がかなり近づいてきた頃だったろうか、「夕陽の生月島まであと二十一キロ」という案内板の文字が突然目に飛び込んできた。なに?……生月島?……きづきじま、せいげつじま、しょうげつじま……何と読むのかは知らないが、そもそも、そんな島どこにあったけ?……国内の地理にはそれなりに精通しているつもりの私だったが、不覚にも「生月島」という地名を目にするのは初めてだった。気になって地図で調べてみると、なんと、平戸島の北西肩に寄り添うようにして南北に細長くのびる小さな島があるではないか。平戸島との間には生月大橋という橋も架かっているらしく、どうやらそこまで車で行けそうなのである。九州本土の最西端にあって北側の大海に突き出すようにのびる小島で、その西方には海が広がるばかりだから、この島の西海岸一帯からは確かに美しい夕陽が見られるに違いない。ちょっと地図を眺めただけでは平戸島の一部にしか見えない島なので、これまでその存在に気がつかなかったのも無理ないことではあった。
九州本土と平戸島を繋ぐ平戸大橋にさしかかるころには、太陽は大きく西方に傾き、平戸島の中央背稜をなす山並みの蔭に隠れていこうとしているところだった。眼下はるかに広がる平戸の瀬戸の海面は淡いピンクの輝きを湛え、夕凪の瀬戸をゆく一つひとつの船影が不思議なまでに深い旅愁を囁きかけた。西陽を追いかけるのが当面の目的だったので平戸の街並みを走り抜け、生月島目指してアクセルを踏み込んではみたが、平戸島は想像以上に大きくて山深かった。生月島方面への道路そのものはしっかり舗装されてはいたが、道幅もそう広くなく、カーブも起伏もずいぶん多いとあって、スピードはあまり出せない。日没までに生月島付近まで行き着くのはとても無理かなと思いはじめたとき、ご丁寧にも前方にトロトロと走る何台かの地元の農作業車が現れた。状況的に見て追い抜きは不可能と悟った私は、その段階で夕陽の追尾をギブアップした。
海をはさんで遠くに浮かぶ度島か的場大島と思われる島影が、美しい赤紫に染まっている。西空の水平線近くにおいて、落日が赤く燃え盛っているのだろう。一種の脱力感とともに、これ以上行っても無駄かなという思いが湧き上がってきたが、どうせここまで来たんだから「行き着くところまで行ってみるか!」と、いま一度気をとりなおした。そして、生月島は「いきつきしま」とも読めるからなどと、自嘲気味に変な語呂合せを試みたりもした。あとになって判ったことだが、なんと、生月島の読み方は、皮肉にもこの語呂合わせの読みが正解だったのだ。生月島に渡ってから目にした島名の由来を読んだかぎりでは、「生月」という名は「行き着く」という言葉とは直接には関係なさそうであったけれども……。
それにしてもこの世の中、どこに何があるのかは実際に行ってみなければ判らないものである。もしもこの地点で引き返していたら、あの望外ともいうべき一連の発見と感動はなかったに違いない。歴史的にも民俗学的にも貴重な資料がそんな小さな島の一隅に残されているなどとは、その道の専門家でない私には予想もつかないことであった。
生月大橋の平戸島側渡橋口に着くといっきに西側の展望が開けてきた。西の空に目をやると、なんと既に沈んだものと諦めていた太陽がまだ水平線ぎりぎりのところに残っているではないか。水平線近くに霞か靄のようなものがたなびいているため、太陽は揺らめくようなオレンジ色の輝きではなく、暗くくすんだ深紅色をしていたが、ともかくも西海の落日であることには違いなかった。通行料金料を払うとき、一瞬、片道百円の平戸大橋に較べて片道六百円という生月大橋の通行料は高過ぎるなあと思ったが、落日に見惚れながらの渡橋だったのでそちらに気をとられ、その時にはそれ以上深くは考えてみなかった。
ただ、あとになってから、生月島に住む人々が生活道路の一環としてこの橋を利用する場合も同じ料金を徴収されていると聞き、往復千二百円というのはちょっと高いよなとあらためて感じはした。建設されてからまだ八年ほどしか経っていないとのことなので、架橋に要した巨費を償還するまでは、それくらいの通行料を徴収し続けなければならないのかもしれない。また、かつてはこの大橋の架橋実現は生月島の人々の悲願だったのだろうから、架橋後の一定の負担はやむをえないとされてもいるのだろう。それなりの事情はわからないではないが、なかなかに大変なことではある。
生月大橋を渡ってほどなく、赤霞む太陽は水平線の彼方に姿を隠した。その様子を見届けた私は、生月島の西海岸を縫ってほぼ南北にのびる道路を経由し、最北端の大バエ崎灯台に向かってみることにした。生月島はなんとなく鍵の形に似ている。鍵の柄の端に相当する島の南端部を西に向かってしばらく道なりに進むうちに、「サンセットウエイ」と呼ばれている南北路の南端部に出た。途中、「島の館」という郷土館らしい建物の近くを通ったが、その時はたいして気にも留めなかった。
青潮の絶え間なく寄せる荒磯を眼下に見下ろすサンセットウエイは、その名に恥じぬ快適なドライブウエイだった。この地形とこの道路の具合からすれば、車で走りながら、どこからでも西海に沈む美しい夕陽をこころゆくまで眺めることができるに違いない。既に夕陽こそ沈んでしまっていたが、西方はるかな東支那海の水平線上に広がる空は、一面赤紫の黄昏色に染まり、ちょうど水平線に接するようにして、茜色に輝く一条の薄雲が細く長くたなびいているのが見えた。他には通行車両もまったくなく、雄大な自然を独占しながら遠い想いに耽るにはなんとも絶好な場所ではあった。
私が育った甑島の場合と同じように、この島から望む夕陽は、すこし風のある快晴の冬の日が最も美しいに違いない。九州の西方海上には対馬海流が流れている。沖縄方面から東支那海を北上し、対馬海峡を抜けて日本海に入るこの暖流からは、夏はむろん、冬においても絶え間なしに大量の水蒸気が上空に向かって立ち昇っている。したがって、無風の日には、たとえ快晴であったとしても、その上空には薄雲や、そうでなくても霞や靄が発生しやすい。太陽が高度を低め、やがて水平線に近づく日没時には、陽光がそれらの薄雲や霞、靄の層を透過して人の目に届くことになるから、夕陽が暗くくすんだ深紅色に見えることはすくなくないのだ。
のんびりと車を走らせ、生月島の最北端、大バエ崎に着いたときにはもう午後七時を過ぎていた。駐車場に車を置き、秋の夜とは思えないほど心地よい大気に身を委ねながら、宵闇に包まれた展望台への細道をたどっていくと、ほどなく灯台のある場所に出た。灯台とはいっても、小さな光がかすかに明滅するだけのごくささやかなものである。ほぼ三六〇度の展望がきく地形であるのにくわえ月齢が新月に近い闇夜だったので、素晴らしい星空が見られるものと思っていたのだが、その期待は見事に外れるところとなった。なんと、その夜空は驚くほどに明るかったからである。星はそれなりの数見えるには見えたが、五、六等級の星々や銀河の流れまでが煌き揺れ輝く満天の星空にはほど遠いものだった。
原因は海上のいたるところで煌々と燃え盛る無数の漁り火だった。時期的にみてほとんどはイカ釣り船のものだろう。それはそれで美し光景ではあったけれども、少年の頃に見て育ったどこか哀しく淋しげな漁り火とはまるで風情を異にするものであった。強力な発電機を積んだ昨今の漁船の漁り火はパチンコ屋の照明並に強烈そのものだからである。後日のことであるが、地元出身の詩人のエッセイを読んでいるうちに、この大バエ崎一帯では光柱現象呼ばれる珍しい発光現象が時折見られるらしいことを知った。冷え込みの厳しい晴れた冬の晩などに、オーロラ状の光のカーテンにも似た縦長の光の帯が何個も空中に輝き漂うのだという。一種の蜃気楼現象なのだそうで、不知火とおなじく、特殊な反射と屈折現象によって、海上の漁り火が大気に投影されたものであるらしい。
しばし漁り火の輝く四方の海面を眺めるうちに、星空はともかく、ここで眺める満月のほうはさぞかし綺麗なことだろうなという想いがしてきた。夕刻に東の海から昇り朝方に西の海へと沈んでいく満月にも、日没後に西南の空に浮かび、やがて西の水平線へと落ちていく三日月にも、言葉では表し難い趣があるに違いない。もしかしたら、生月島という島名も月の夜の眺めが素晴らしいことと関係があるのではないか、などと勝手な想像をしたりもした。ただ、そのことを身をもって確かめるには、月の夜を見計らって再度この島を訪ねてみる必要がありそうだった。
大バエ崎灯台をあとにしかけた時にはもう午後八時を過ぎていた。例のごとく車中泊にしようかとも思ったが、風呂に入りたい気もしてきたので、その時間からでも泊めてくれる宿屋がどこかにないものか探してみようと思い立った。そこで、生月島に渡ってすぐに手に入れておいた島内の旅館案内ガイドマップをもとに、めぼしいところに次々と電話をかけてみた。こんな時には当世流行の携帯電話というものはなんともありがたい。
実をいうと、いろいろな理由もあって、ごく最近まで私は携帯電話の使用を意識的に控えてきた。だが、状況的にファックス原稿などではすませることのできない連載執筆などを手がけるようになってから、とうとう携帯電話を持たざるをえなくなった。人里離れた山中や離島などの旅先にありながら、ノートパソコンで打った原稿データを編集部送ったり、原稿内容に関する連絡をしたりするには、携帯電話に頼るしかなくなったからである。当然、私の携帯電話の主要用途は執筆原稿データの送受信だから、必要時以外は電源を切ってあることも多く、発信者番号のほうも通常は「不通知」にセットしたままである。
時間が時間だったのですべて断られるものと覚悟していたが、館浦地区の戸田屋という旅館が夕食抜きでなら泊めてくれるということだったので、そこにお世話になることにした。戸田屋に電話を入れた際、島の店仕舞いは早いのでもう食堂はどこも閉まっているかもしれないとも言われたので、いざとなったら非常用に積んである菓子パンでもかじって夕食にかえるつもりだった。だが、幸いにも大バエ灯台から館浦地区に向かう途中で一軒だけ終業直前の寿司屋を見つけることができたので、そこに飛び込み無事夕食をすませることはできた。
戸田屋は生月島では古い旅館らしく、出迎えてくださった館主御夫妻はとても感じのいい方々だった。御主人の言葉によれば、この生月島は月の綺麗な満月の日などを選んで訪れると最高だとのことだった。やはり、私が大バエ灯台で想像した通り、この島の月の美しさは格別のようである。生月島という地名は「いきつきしま」と読むのだということも、戸田屋旅館のおかみさんから教わった。むろん、この島に来る途中でのふざけた語呂合わせの読みがたまたま正解だったことに、思わず私が苦笑したのは言うまでもない。
「マセマティック放浪記」
1999年12月29日
生月島の古式捕鯨
翌日生月島を離れる前に、ちょっとだけ生月町の博物館「島の館」に立ち寄っていこうかと思い立った。せっかく生月島までやってきたのだから、その歴史と民俗について多少とも知っておきたいと考えたからである。あいにくの雨模様とあって、西海国立公園の景観を楽しむにはいまひとつの状況だということもあった。しかし、そんな軽い気持ちで訪ねた島の館は、なかなかに見ごたえのある博物館だった。
古式捕鯨法のいまに伝わる土地といえば和歌山県の太地が名高い。そちらのほうは私も過去に一、二度訪ね、その地方の伝統的な鯨漁の展示資料を目にしたことがある。だが、九州育ちであるにもかかわらず、西海一帯から玄界灘にかけての古式捕鯨についてはほとんど知識を持っていなかった。昔は東支那海から日本海にかけてたくさんの鯨が生息していて、一部地域の漁民たちがそれを捕っていたというくらいのことは聞いていたが、その詳細についてとくに強い関心を抱くようなこともなかった。だから、そんな昔の鯨捕りの様子をつぶさに伝える貴重な資料にこの島でめぐりあえるとは考えてもいなかったのだ。
島の館に入館してすぐ目にとまったのは、かつて「勇魚(いさな)漁」とも呼ばれていた伝統的な鯨漁法についての素晴らしい展示資料だった。勇魚とはもちろん鯨のことである。たちまちその興味深い展示物の虜になってしまった私は、時の経つのも忘れて個々の資料を一つひとつ食い入るように見てまわった。また、詳細な解説文を一語一語確認するように読んでもみた。
かつて日本海一帯に多数生息してた鯨の群は、冬になると対馬海峡、または玄海灘から壱岐水道周辺を経て東支那海方面へと南下し、夏になると逆コースをたどって東支那海から日本海方面へと北上した。餌を求めながら、東支那海と日本海との間を季節に応じて行き来していたわけである。前者は「上り鯨」、後者は「下り鯨」と呼ばれていた。
玄海灘から壱岐水道を経て五島列島周辺へ抜けるかその逆ルートをとる鯨の群は、その海域にある島々と九州本土との地理的関係などもあって、一定の狭い水路を通らざるをえない。必然的に鯨の回遊ルートと回遊水域は大きく制限されることになるから、その一帯は絶好の捕鯨場となる。なかでも生月島と平戸島ならびにその近隣諸島の周辺水域は、五島列島周辺と並ぶ鯨の回遊路の要衝にあたっていた。だから、江戸時代、生月島が鯨漁の中心地の一つになったのは自然のなちゆきだったのだ。
紀州の太地あたりで鯨捕りをやっていた突き組が十七世紀初頭にはるばる西海一帯にまで進出してきたのが契機となって、この周辺に突き捕り式捕鯨が広まっていったらしい。やがて、益富家という一族は、生月島をはじめとする西海各地に鯨捕りと解体処理、さらには鯨肉や鯨油その他の鯨製品販売を一手に営む「鯨組」を組織し、莫大な利益を上げた。平戸藩の財政にも多大の貢献があったことは言うまでもない。五島や壱岐などに進出した鯨組の捕獲分も合わせてのことではあるが、益富家の記録に残っているだけでも百四十年間で鯨捕獲数約二万頭、総収益は三百万両を超えたという。年平均一四〇頭の捕獲高、貨幣に換算すると二万両余の収益があったことになる。
江戸時代の画家で西遊日記の著者でもある司馬江漢などは、はるばる生月島を訪ねて長期にわたって逗留、自らが見聞した当時の捕鯨の様子や島の風俗などを克明に描写した。それら大量の絵図や記録文は現在も残っており、その貴重な絵図原本の一部や拡大摸写図などが館内にはふんだんに展示されている。それらの資料をじっと眺めるうちに、まるで自分自身が当時の鯨漁に立ち会っているような錯覚に陥る有様だった。
鯨組は驚くほど高度に組織化された分業体制を敷いており、組頭の益富家を頂点にして、実際に鯨を捕る「沖場」と、捕った鯨を解体処理して販売したり捕鯨装備を補給調達したりする「納屋場」とに大別されていた。そして、沖場組織も納屋場組織もさらに細かく、二次、三次の下部組織に分けられていた。たとえば、沖場は見張り組や漁組に、また納屋場は勘定部門、解体加工組、油屋や魚肉屋などの各種店舗組織、さらには鍛冶屋や網屋などの捕鯨用諸道具の製作補給組織などに分かれているという具合だった。その全体の構成と運営形態は現代企業顔負けのものである。
実際の突き捕り捕鯨の様相は壮絶なものであったらしい。沖場の見張り組の管轄する「山見」という山上の見張り小屋の番人が鯨の群を発見すると、旗幟や狼煙などで群の位置や鯨の種類、頭数などを漁組に知らせる。食事中も海面から目を離してはいけない山見小屋での見張りの仕事は想像以上に大変だったらしい。早朝から日没まで、尻から泡が吹くほどに同じ場所に座ったままじっと同じ海域を見つめていなければならないし、夜になって宿場に戻ってもも、翌日の仕事に差し支えるから酒はつつしみ夜更かしは避けねばならない。茫漠とした海原を一日中見ていると目が疲れてちらついてくるから、山見小屋の海に面した羽目板のうちの一枚だけをはずし、そこから海面を見る工夫などもされていた。
山見小屋の見張りから知らせを受けた漁組は十隻ほどの船団を組んで鯨の群の回遊路に先回りし、めぼしい鯨を船団で取り囲んだ。船団の個々の船にはそれぞれの持ち場と役割が与えられており、勢子たちは経験を積んだ頭の指揮のもと組織的かつ機能的に行動したという。まず、大きめの和船を二隻横木で繋いだ持双船という一種の双胴船と何隻かの勢子船が鯨のうしろにつけ、曳き綱のついた鉄製の「萬銛(よろずもり)」という太い銛を鯨の背中に打ち込む。銛を打ち込まれた鯨は船を引っ張ったまま、必死に泳いだり潜ったりしながら逃げ惑う。かつて実際に使われた萬銛も展示されていたが、太い鉄製銛の胴部はほぼ直角に大きく曲がっており、どんなに大きな力が加わったかを如実に物語っていた。
次ぎに、鯨がかなり弱ってきたところを見計らって、鯨の両脇を囲む勢子船から、昔の薙刀(なぎなた)を一回り大きくしたような形の「羽指し剣」が何本も打ち込まれる。鯨の背中に上方から突き立つことを狙って放物線を描くように投げられたという羽指し剣の柄の端には、やはり丈夫な曳き綱がついていた。萬銛と違ってこの羽指し剣には掛かりがついていない。その訳は、鯨の背中に刺さった剣を曳き綱を引っ張って回収し、その剣を再度打ち込むためだった。上方から背中に突き刺さった剣が横方向に働く綱の力で引き抜かれるごとに鯨の身体は深々と切り刻まれる。四方から羽指し剣の容赦ない攻撃を繰り返しうけるうちに、勇魚の異名をもつさしもの鯨も全身に深手を負いその泳力を失ってくる。
そこを見計らって、刃刺(はさし)という屈強で泳ぎや潜りが達者な男どもが大型包丁のようなものをくわえて命懸けで鯨に近づき、鯨の背や頭によじ登って急所を突き刺す。最後は鯨のいちばんの急所、鼻(呼吸孔)を切ってとどめを刺したという。この勇猛かつ壮絶な鯨漁においては、激しく揺れ動く手漕ぎの和船で必死に暴れ狂う鯨に近づき、無数の鋭利な刃物で獲物に立ち向かうだけに、当然、負傷者や死者も多数出た。大変な危険をともなう仕事だけに、実際に鯨を捕る漁組の組員には一種の能力主義が敷かれており、腕のよい刃刺や船頭、舵手などは国内各地からスカウトされ、応分の待遇が与えられてもいたようだ。同じ組の刃刺でも、能力と業績次第で四番船から三番船へ、あるいは二番船から一番船へといったように格上げされるようになっていた。能力を競うシステムになっていたわけである。
一六七七年、紀州太地の太地角右衛門頼治が網捕り式捕鯨を考案すると、それから十年たらずでその捕鯨法が西海一帯にも広まり、それまでの単純な突き捕り式に比べて捕鯨効率と安全性は飛躍的に高まった。網捕り式捕鯨は突き捕り式捕鯨の改良型ともいうべき捕鯨法で、大きな網で文字通り鯨を生け捕るわけではない。鯨の進行方向に鯨の頭部がすっぽりとはいるような円錐型に近い芋網を仕掛け、それによって鯨の動きを封じておいてから、従来と同じやり方で突き捕るのである。網で頭部を押さえられた鯨はパニックを起こし方向感覚を失ってしまうえに、大きな網とそれに連なる何艘もの船を引きずることになるから、思うようには動きがとれなくなり、深く潜ることもできなくなる。それを突き捕り方式で狙うわけだ。刃刺たちは網を手掛かり足掛かりにしてより容易に鯨に近づき、その背中によじ登ることができるようにもなった。
初期の頃には、陸地沿いをゆっくりと回遊するために突き捕りに適したセミクジラが多く捕られたらしい。セミクジラには、もともと「背美鯨」または「勢美鯨」という字が当てられていたことを、私はここの資料で初めて知った。蝉のような小型な鯨、あるいはどことなく蝉に似た形をしている鯨という意味でセミクジラと呼ぶのかと思っていたが、どうやら、「泳ぐときの背中のラインが美しい鯨」あるいは「泳ぐ姿が威勢よく美しい鯨」といった意味を込めてつけられた名前らしいのだ。
捕りすぎたために背美鯨が減ってくると、こんどは沖をよりはやい速度で泳ぐ座頭鯨や長須鯨などの大型鯨が狙われるようになった。網捕り式捕鯨はそれらの大型鯨を捕るのにも大いに威力を発揮したらしい。ただ、肉質や鯨油は背美鯨が一番とされていたようで、当時「本魚」とも呼ばれた背美鯨は、一頭で座頭鯨や長須鯨二頭分の価値があったのだそうだ。座頭鯨などには、もともとは「雑頭鯨」、すなわち、「勘定には入らない、どうでもいい鯨」とでもいったような意味の呼称が与えられていたともいう。
ときにだが、いまの時代から考えるとかなり酷い捕獲方法が行われることもあった。親子連れで泳いでいる鯨の子鯨をまず捕らえる。子鯨を傷つけると母鯨はそこから離れない。父鯨はその場を離れていくけれども、母鯨のほうはいったん遠ざかってもまたその場に戻ってくるのだという。子鯨を案じてその周りを回遊し最後まで離れないその母鯨を次ぎに狙い捕獲してしまう。鯨の母性愛を利用したこの捕鯨法などは、現代の社会通念からすると残酷で非情このうえないものであった。
ただ、こういった過去の問題の善悪を考える場合には、単純に現代の尺度を持ち込んでその是非を判断してはならない。過去の事象に想像をめぐらす時には、できるかぎり視点を過去の時空に移し、たとえ限界はあってもその時代に身を置いたつもりで現在の時空を逆円錐状に展望する必要がある。現代のように豊富な食糧と食材に恵まれず、油脂資源も容易には手に入らなかった当時の人々にとっては、鯨は必要不可欠な生存の糧であった。
また、捕鯨技術も装備も現代の技術や装備とくらべるときわめて原始的であった。船は手漕ぎの櫓船で速度も遅く、小さくて安定性も悪いから、潮の流れが不安定だったり天候が荒れ模様だったりして波が高いと、操船自体も容易でなかった。まして、そんな状況のなかで仕留めようとした鯨に暴れられたら、底の浅い和船などはひとたまりもなかっただろうと思われる。遊泳速度のはやい鯨を追いかけることは至難の業でもあったろう。のちに我が国にも伝来した近代的な捕鯨銃の銛とは異なり、当時の銛や剣の威力には限界があったから、短時間で鯨を仕留めることは不可能でもあったに違いない。
そんな限られた状況のもとで確実に鯨を仕留めるには、現代の観点からすれば残酷とも思える捕鯨法に頼ることもやむを得なかったのだ。考えようによっては、キャッチャーボートと捕鯨銃を用いて紀伊や西海の古式捕鯨とは比較にならぬほどの数の鯨をとりまくった近代捕鯨のほうが、はるかに残酷だったかもしれない。誤って射ち殺された親子連れの鯨も、我々が想像する以上に数多くあったことだろう。
こんなことを書くと、「そんな鯨の捕り方をした日本人はやはり残酷だった」などと勘違いする、歴史的想像力に欠けた外国人も現れるかもしれない。だが、生月島の捕鯨がもっとも盛んだった江戸時代、太平洋や日本海一帯でもっとも多くの鯨を捕っていたのはアメリカである。すでに捕鯨銃をはじめとする近代装備をそなえていたこれらの国々の捕鯨船は、日本近海に次々と現れ、紀伊や西海の捕鯨とは桁違いの数の鯨を捕りまくっていた。しかも、捕った鯨の肉はむろん、皮や骨、髭や尻尾にいたるまでを無駄なく使い切った日本人の場合と違って、アメリカなどの捕鯨は、各種の鯨油やコルセットの材料になる一部の軟骨を採取することだけが目的であった。
そもそも、ペリーが浦賀に現れ日本各地の開港を徳川幕府に迫った背景には、日本近海にまでやってくる自国捕鯨船にとって、水や食糧の補給港、さらには台風などによる災害時の緊急避難港がどうしても必要だという事情もあった。また、そこまで時代を遡らなくても、私が子供の頃まではアメリカは世界有数の捕鯨国で、大量の白長須鯨や抹香鯨を捕っていた。捕鯨オリンピックと称して各国がまだ鯨の捕獲頭数を競っていた時代のことで、小学校の図書室の図鑑か年鑑で調べたアメリカの白長須鯨の捕獲頭数に目を見張ったことを私はいまもはっきりと憶えている。国際的な鯨の保護運動の高まりは結構なことだとは思うのだが、異常なまでに鯨保護が叫ばれ、鯨を捕る国民は非道な国民のように喧伝されるようになったのは、科学技術の進歩と食糧事情の好転で鯨を捕獲する必要のなくなった戦後のある時期からのことなのだ。
将来、技術の革新にともなう食文化や食糧事情の一大変化が起こり、人類が牛肉を食する必要がなくなる日がくるとすれば、世界各国における肉食牛の飼育は下火となり、肉牛の生息数は激減することだろう。もしもそのような状況になったなら、牛の愛護運動が世界各地で起こるかもしれない。そして、その時にまだ牛肉を食べている国民や民族があったとすれば、そこの人々は非人間的だと激しい非難を被ることになるに違いない。そんな時代が到来したとき、現在ステーキをもっとも食べている国民の子孫たちは、自分たちの先祖のことなどけろりと忘れ、牛食人種(?)非難の先鋒に立つのだろうか。人間とはいつの時代もとことん勝手なものなのである。
古式捕鯨に携わった当時の紀伊や西海の漁民たちにしても、実際には、それなりに残酷で非情な鯨捕りにまったく心の痛みを感じていなかったわけではない。いや、むしろ、彼らは現代の我々以上に人間というものの非情さ、残酷さ、矛盾の多さに気づき、それらを直視していたふしがある。生月島の話ではないが、鯨の位牌とか鯨の墓とかいったようなものが国内各地に散在するのも、そういった背景があったからなのだろう。生月島益富家の鯨組の場合には、刃刺が鯨に最後の留めを刺すと、すぐに鯨を囲む船の者全員が立ち上がり、息絶えた鯨に向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」の念仏を三度繰り返し唱えるしきたりになっていたという。
仕留めた鯨は、前述した持双船の横木の中央にその頭部を固定されたまま捕鯨納屋場の岸に運ばれ、解体加工を専門とする職人によって手際よく処理された。生月島をはじめとする西海各地の解体処理作業は極度に合理化されていて、一箇所の作業場で大型鯨を一日に四、五頭も処理することができたという。当時、土佐などでは小さい鯨一頭を解体するのにも一日を要したとのことだから、益富家傘下の鯨組がいかに機能的な組織集団だったかが推測されよう。
直接に鯨とは関係ないが、一階の展示室の一隅には、生月鯨太左エ門という江戸時代の巨漢力士の等身大の像が立っていた。「鯨」の一字をそのしこ名に持つ生月島出身の力士の身長はなんと二メートル二十七センチで、体重は百六十九キロ、手のひらは三十二センチ、足のサイズは三十七センチもあったという。我が国の歴史上例のないほどの大男で、鯨の名に恥じなかったわけである。
島の館の古式捕鯨資料に圧倒され、深い思いに惹き込まれてしまった私だったが、なんと二階の奥の展示室にはいまひとつ想いもかけぬ貴重な歴史資料が陳列されていたのである。その展示室に足を踏み入れた私は再びその場に釘づけになってしまったのだった。
「マセマティック放浪記」
2000年1月5日
生月島と隠れキリシタン
キリスト教日本布教の祖フランシスコ・ザビエルが一五四九年に鹿児島に上陸してから、はや四百五十年の歳月が流れ去った。昨年鹿児島ではザビエル来日四百五十年記念祭なども催されたようである。キリシタン追放令が下されて以降はキリスト教徒をきわめて厳格に取り締まった旧島津藩のお膝元鹿児島で、ザビエル記念祭が大々的に催され、内外から多くの参加者や招待者を集めたということは、奇妙な歴史のめぐりあわせとでも言うほかない。そのフランシスコ・ザビエルの入邦を契機として、九州西北部をはじめとする国内各地にキリスト教が急速に広まっていったことは、十六世紀半ばから十七世紀初頭にかけての我が国の歴史に見る通りである。
鹿児島上陸後、再びポルトガル船に乗船、入来、大村を経て海路西海地方に来航したザビエルが、一五五〇年に平戸島に入ると、その翌年には早くも同島に日本初の教会が建立された。そして、それを待っていたかのようにフロイスやフェルナンデスをはじめとするイエズス会の宣教師たちが次々に来島、西海地方一帯におけるキリスト教の布教熱は加速度的に高まっていった。一五七一年になって長崎が開港されると来日する宣教師たちの数はさらに増大し、それから十年ほどのちには浦上にあの有名な天主堂が建立されるまでになった。また、一五八二年、九州のキリシタン大名らはローマに天正遣欧使節団を送り、キリスト教に好意的だった織田信長は宣教師たちと進んで接見、彼らと交流を深めるなど、キリスト教の国内布教の勢いには一時期目を見張るべきものがあった。
しかし、一五八七年になって秀吉がキリシタン追放令を発令してキリスト教の布教を禁じ、それから十年ほどのち、フランシスコ会の宣教師六人、日本人イエズズ会修道士三人、さらに彼らをかくまった日本人信者十七人、合わせて二十六人のキリスト教徒が長崎西坂の丘で殉教するに及んで、キリスト教に対する取り締まりは格段に厳しさを増していった。そして、一六一三年に家康が禁教令を公布し、ウイリアム・アダムスこと三浦安針が平戸で他界した一六二〇年頃になると、幕府によるキリスト教弾圧の厳しさはその頂点に達した。一六二二年(元和八年)には、宣教師や信者五十六名が長崎立山で火刑や斬首に処されるという元和の大殉教が起こっている。
遠く海を隔てた異国の地へ新たな宗教を布教するということは、そこに住む異教徒たちに対し命懸けで思想の戦いを挑むことにほかならない。その宗教が本質的なもの、すなわち、その時代の規範や制度のゆえに苦悩する人々の心をそれらの規範や制度を超越した次元で救済しようとするものであればあるほど、宗教を広める側とそれを異質なものとして排除しようとする側との戦いは熾烈になる。いまではどんなに穏健で普遍的に見える宗教の場合であっても、その原初形態は異質かつ過激で、反社会的、反権力的なものであったと考えてよい。まして、布教の先陣をたくされた「神の戦士」たちの背後に、それを個々の戦士たちが意識していたか否かにかかわらず、異国の征服をたくらむ権力者の姿が見え隠れし、迎え撃つ側もその対応に窮して脅威を感じ怯えを抱くようになっていったとすれば、事態が平穏におさまろうはずもなかったろう。
十六世紀末から十七世紀初頭にかけてという時代を考えると、当時の我が国の為政者たちが、キリスト教に対する当初の寛容さを捨て、厳しい取締りへと転じていかざるをえなかった背景もある程度は理解できなくもない。長年ドイツのゲッティンゲン大学で日欧比較文化史の研究を続けた松原久子は、その著書の中で、独自の視点に基づく次ぎのような興味深い見解を述べている。当時の宣教師たちが国王や教会本部へ送った生々しいレポートや記録をヨーロッパ各地の図書館から発掘収集し、それらを分析したうえでの鋭い指摘だけに、読んでいて深く考えさせられるものがある。
《もしもこれが逆の立場であったならば、今日のヨーロッパの歴史には何と述べられていることだろうか。たとえば十六世紀末、シシリー島の港あたりにひょっこりと一団の仏僧が姿を見せて上陸し、その地方の住民に仏陀の教えを説き、キリスト教は邪教であるから教会を焼き払わなければならないと煽動し、仏教寺院を建てて領主を改宗させ、その援助で港を造ってはその一帯を領有し、十字架やマリア像さらには聖人像を叩き割って焚いた火で精進料理を作って舌鼓を打ち、仏僧の配下にある貿易船が毎年来航してヨーロッパにない物を持参し、人々は競ってそれを買い、船が去るときにはイタリアの貧しい村々で安く買い集めた少年少女を鎖に繋いで乗せ、奴隷として運んで行ったとしたならばである》
(松原久子著、「WEG ZU JAPAN」より)
キリシタン問題に関する諸議論の是非はともかくとして、キリスト教の教義に心のよりどころを求める当時の敬虔な信者たちは、取締りが厳しくなるにつれ、世に言う「隠れキリシタン」としてその信仰を隠し守っていくしかなくなった。そして、明治になって信教の自由が認められるまでの間、子孫代々密かに教義を伝承しつつその信仰を固く守り貫いたのが、ほかならぬこの生月島と平戸島西海岸の根獅子周辺の人々だったのだ。
古式捕鯨関係の展示物を見終え、二階に上がって一番奥の展示室へと進んでいった私は、そこで望外ともいうべき隠れキリシタン関係の展示資料にめぐりあうことになったのである。この島の歴史民俗的な背景からすればそれは当然のことではあったのだが、まるで予備知識のなかった私には、それら展示物の一つひとつが大きな魅惑を秘めた宝物のように思われてならなかった。
生月島と平戸島の根獅子地区では一部の役人をも含めた当時の住民全員がキリスト教の信者になっていたという。生月には宣教師ルイス・アルメイダなども来島し、キリシタン弾圧が始まる前には六百人を収容できる教会などもあって、すでにラテン語の聖歌が歌われていたらしい。実際、そのくらいの信仰の深まりがなければ、幕府の厳格な取締りにもひるむことなく、隠れキリシタンと化して信仰を貫き通すことはできなかったに違いない。隠れキリシタンとなった島の人々は、仏教や神道を隠れ蓑にし、以後、信教の自由が保証されるようになるまでの二百五十年余にわたってその信仰を密かに守り続けていったのだ。
展示室の最奥には隠れキリシタンの秘密教会の役割を果たしていたツモト(お宿)家の部屋の復原資料があって、実際に中に入って当時の雰囲気を体感することができるようになっていた。解説によると、生月壱部の岳の下ツモトでの「上り様」行事におけるナオライ(祝祭あるは宴会を意味する)の場面を再現したものだという。実際には、当時のツモトの状況も諸儀式の様式も地区によってかなり違い、ツモト家も世襲になっているところと何年かごとの持ち回りになっているところとがあったようだ。
土間からあがってすぐの左手には昔風の大きな箱火鉢が置かれた板敷きの控えの間があり、右手には同じく板敷きの仏間があった。仏間には菩薩像を配した仏壇を中心にして左手にお大師様を祀る棚檀が、右手にはお札様という一種の神棚が並べ設けられている。いかにも「この家では日本古来の神仏をこのうえなく大切に祀っていますよ」と言いたげな仏壇と神棚の配列なのだが、閼伽瓶(水を供える瓶)のデザインや配置のしかたひとつにもどことなく不自然な雰囲気が漂っているように感じられてならなかった。もしかしたら、そういう目で見ている私の気のせいだったのかもしれないけれども……。
板戸でしっかりと仕切られた仏間の奥には納戸(物置部屋)があって、実はそこが隠れキリシタンの本尊、すなわち「御前様(マリア像または聖者像)」を祀る秘密の間になっていた。床の間には和風のタッチで描いた幼いキリストを抱く聖母マリア像の掛け軸がさげられ、その下には聖水の瓶や各種のメダリオン、もともとはカトリックの苦行の際に使われていた鞭の一種を模した、縄製のオテンペンシャという聖具なども置かれている。ちなみに述べておくと、オテンペシャは魔除けやお払いのために用いられる隠れキリシタンの世界独特の聖具であった。オテンペンシャという言葉の語源は、ポルトガル語で「悔悛」を意味する「pentencia」であったという。それならば、「オ」の字をあとでつけ足した尊敬の接頭語とみなし、「テン」と「ペン」を入れ替え「オペンテンシャ」と呼ぶのが正しいのではないかとも思ったが、いくつかの資料を確認してみてもやはりオテンペンシャになっていた。
床の間の前に置かれた広い膳の上のお盆には供物用の皿や椀類が並べられていたが、それらのデザインや絵柄はやはり異国風の感じのするものだった。資料室には日本古来の観音像を巧みにデフォルメし、幼いキリストを抱くマリアのイメージを重ねた各種のマリア観音像が展示されていたが、各地域のツモトの納戸部屋などにはそれらマリア観音像なども秘蔵されていたようだ。いざというときに備えて、小さなマリア観音像や十字架、貴重なメダリオンなどが納戸の柱や壁に埋め込まれたり塗り込められたりすることもあったらしい。
納戸とは、民家の奥深いところにあって一家の衣類や調度品などをしまっておく、窓のない暗い物置部屋のことで、一般客はもちろん、家族の者もめったには出入りしない場所である。この納戸に聖母マリアの像やその聖画などが秘蔵されたことから、それらは「納戸神様」という風変わりな呼称で呼ばれてもいたようだ。納戸神様としては、聖像や聖画、マリア観音像などのほか、聖職者たちが殉教した聖地の中江ノ島から採取した聖水、前述のオテンペンシャ、白い紙を切りぬいて作った小さな十字形のおまぶり(お守り)、袂(たもと)神(原型のロザリオ)、サンジュアン様(メダリオンの一種)なども用いられた。
壁で仕切られた納戸部屋の左隣は広い座敷部屋になっていて、その座敷ではナオライの儀をはじめとるす様々な秘儀や行事が催された。親父様と呼ばれるツモトの当主が全体の儀式を仕切り、オラショという祈祷文が唱和されたという。オラショは相当に長いものだそうで、跡を継ぐ若い者が長老からオラショを口伝で教わるときなどは、完全に憶えるまで大変な苦労をしたものらしい。座敷部屋や納戸部屋では、オラショの録音テープがが流されていたが、語意を聴き取るのは不可能に近いその早口の唱和は、抑揚もリズムも浄土真宗の仏説阿弥陀経や観無量寿経の読経の響きにそっくりだった。これはあくまで私の推測だが、たまたま部外の誰かに聴かれたとしても仏教の読経と区別がつかないように、意図的にそんな工夫がなされていたのかもしれない。
「ナオライ」の儀や「お産待ち(クリスマス・イヴの儀式のこと)」、「お誕生日(キリストの生誕日)」の行事のときには、座敷の間と壁を隔てた納戸の御前様にオラショを唱えて祈りを献げたあと、祝いの酒や肴が出されたが、行事中に誰かが納戸に入り御前様に参拝することはまったくなかったらしい。日常的にも御前様を祀る納戸に出入りすることは極力避けられ、出入りができるのもツモト当主の親父様だけに限られていた。それほどに徹底した秘密保持の態勢を敷かなければ信仰の継承維持は不可能だったということなのだろう。
展示室にはかつての宣教師たちが残した華麗な司祭服や聖書類、十字架類などの関係資料も多数陳列されていたが、そんな中にあって私がひときわ心を惹かれたのは有名な踏絵の実物であった。踏絵というのは銅板だけで出来ているものと思っていたが、展示されている実際の踏絵は、和琴を小さくしたようなかたちの、丸みのあるがっしりとした木の台の中央にはめ込まれていた。その台にのぼった者が足裏全体で踏絵本体を強く踏みつけられるように工夫するいっぽうで、その様子を役人が容易に確認できるようにも配慮してあったわけだ。黒ずんですっかり摩滅したその踏絵の木部は、隠れキリシタンであったか否かにかかわらず、その踏絵を踏まされた者の数が如何に多かったかを物語っていた。
黒ずんで摩滅した部分には、どうしても聖像浮き彫りにした銅板踏絵本体を踏めずに処刑された敬虔な信者たちの足跡の名残も秘められているに相違ない。そう思うとなんとも不思議な気がしてならなかった。やがてキリスト教の指導者たちのほうも、信徒たちに踏絵を踏んでも神の慈悲には変わりがないし、真に信仰を守るためならばむしろ進んで踏絵を踏んでも構わないという指示を出したため、踏絵によるキリシタン探しは実効力を失い、次第に形骸化していった。そして、日米修交通商条約が締結された一八五八年に至って、全面的に踏絵は廃止された。
いまひとつ、私が目を奪われた展示物は「魔鏡」と呼ばれる特殊な銅鏡だった。魔鏡というものがこの世に存在するということは耳にしていたが、その実物を目にするのは初めてだった。裏に観音菩薩像の浮き彫りを持ち、表側は通常の銅鏡と同じように滑らかに磨き上げられた鏡面になっているこの鏡に光を当て、その反射光を白い壁や紙に投射すると、なんと、円形の光像の中に十字架に掛けられたキリストの姿とおぼしきものが浮かび上がるのだ。観音菩薩ではなくてキリストやマリアの像が浮かび上がるところがミソである。何時の時代に誰が考え出した技術なのかは知るよしもないが、なんとも見事な技法だというほかない。生月島で噂の魔鏡に遭遇できるなんて望外のそのまた望外のことだったから、反射光の中に浮かび上がる不思議な聖像を眺めながら、私はすっかり嬉しくなった。
魔鏡の秘密は観音像の浮き彫りをもつ裏面と表の鏡面との間にある見えない中空部にあるらしい。外からはわからないが、二枚の円形銅板を巧みに貼り合わせて作った中空部、すなわち鏡面のほんとうの裏側には微妙な凹凸がつけられ、また特殊な細工などが施されている。そして、それらの凹凸や細工が表の鏡面に及ぼす影響のために反射光に明度のむらが生じ、その明暗の光の縞が全体的に組み合わさって聖像の文様となるらしいのだ。なんとも驚くべき高等テクニックなのである。
なかには、その解説を読んでいくうちに思わず吹き出したくるような展示物もあった。いかにも古そうな十字架の中央にマリア観音像らしきものの浮き彫りを施した「キリシタン遺物の偽物」がそれである。そのいわくありげな珍品は、西海地方一帯のキリシタン史跡を訪れる外国人観光客を狙って終戦後の一時期に作られた、商魂まるだしの偽十字架だったからである。裏を知らなければ日本人でも騙されてしまいそうな代物だから、それと知らずにお土産代わりに買っていった外国人も多かったに違いない。
一六四三年に当時の最後の司祭マンショ小西神父が殉教すると、西海地方のキリスト教信者たちは隠れキリシタンとなって各地に潜伏、諸聖具と諸儀式の含み持つ本来の意味や精神を正しく伝承する宣教師のいないままに、その信仰は孤立化し土着化していった。ただ、たとえ風土の影響を受け土着化したとはいっても、正規の司祭による指導のまったくないままに、その後二百五十年余にもわたってその信仰が受け継ぎ守り抜かれたということは驚異というしかないだろう。集落の全戸が揃って隠れキリシタンとなっていたことも、生月や根獅子の人々が信仰を固守し続けることができた大きな理由ではあろうが、それだけでは説明がつかない気がしないでもない。
私には、広大な海と漁村という背景が隠れキリシタンの信仰の存続に一役買っていたように思われてならない。私も九州の島育ちだからよくわかるのだが、海を相手にして生きる漁民というものは一般に言葉少なく口が固い。それでいて物事の本質を冷静に見抜く力を持ち、いざというときの決断力と行動力にも秀でている。
いまと違って手漕ぎの和船しかない時代には、いったん海に出たら、漁民たちはお互い力を合わせ固い結束を守りながら、的確な判断のもと命懸けで仕事を進めなければならなかったろう。独りで沖に出たら出たで、いつ何が起こるか判らない危険な状況と隣り合わせのなかで、自らの心に語り問いかけ自らの力と判断を信じながら、黙々と漁労にいそしまなければならなかった。女たちは女たちで、たとえ海に出ることがない者であっても、海がどういうところかは十分にわきまえていて、生活をともにする海の男たちの身に何かが起こったときの覚悟だけはできていたはずである。
要するに、古来、海というものは、個々の人間の根性を据えその人間を自立させると同時に、人々の心の絆を想像以上に太く強くするものなのだ。五島を含めた西海各地の隠れキリシタン集落にみる人々の結束の固さには、海に生きる者のそんな気質が大きく作用していたように感じられてならない。
隠れキリシタンとなった人々が如何に固く口を閉ざしそれぞれの秘儀を守り通したかは、海を挟んでわずかな距離しか離れていない生月と根獅子においてさえ、それぞれの信仰様式がかなり異なったものになっていった事実からも窺い知ることができよう。生月島では、「ここから天国はそう遠くはない」という有名な言葉を残して殉教した聖ジョアン次郎右衛門らが処刑された沖合いの中江ノ島という小島を、いっぽうの根獅子は大量の殉教者を出したという根獅子ヶ浜をその聖地にしている。隠れキリシタン組織の形態も礼拝行事もオラショもそれぞれの地域で独自の様式へと変化していったようである。生月島では、隠れキリシタンの中に死人がでた場合には、仏教僧が来ないうちに、遺体を前にして「もどし方」というミサの変形ともいうべき特別な儀式が行なわれ、オラショが唱えられたともいう。
明治になって信教の自由が認められると、平戸の紐差教会のペルー神父らはすぐさま再布教のために生月や根獅子を訪れ、人々の祀る納戸神様とキリスト教とは同一のものであることを懸命に説いた。しかし、二世紀半もの歳月を経て土着化した隠れキリシタン独自の信仰様式とキリスト教本来の信仰様式との開きはあまりにも大きく、キリスト教の再布教は、十六世紀当時の初布教などよりもはるかに困難をきわめたという。
思いもかけぬ発見に心底喜びを覚えながら島の館をあとにした私は、再び生月大橋を渡って平戸島側に戻り、西海岸の根獅子ヶ浜の近くにある平戸切支丹資料館をも訪ねてみた。それは入母屋造り平屋のこじんまりした資料館で、入館者は私一人だけだった。こちらのほうにも島の館の展示室に劣らず、なかなかに興味深い隠れ切支丹関係の資料が陳列されていた。珍しい隠れキリシタン祭具や見るからに芸術性の高い何体ものマリア観音像もあった。司祭服姿の聖職者の古い木像、大きな十字架を背負った見事な造りのキリスト木像、さらには実際に用いられた禁教令の高札やメダリオンなど、いずれの展示物にも深く心を打つものが感じられた。
ただ、見学を終え同資料館をあとにしようとしたときのこと、一つだけ呆気にとられるような代物を目にしてしまった。資料館の片隅で売られているお土産品の中に、なんと一個千円の値段のついた踏絵のレプリカが並べられていたのである。どこかの国の首相や大臣連中の顔を浮き彫りにした踏絵なら一枚くらい買ってきて、ストレス解消用に我が家の玄関先あたりに置いてみるのもよいかとは思ったが、さすがに本物の踏絵のレプリカではとてもそうする気にはなれなかった。もちろん、純粋に歴史資料としてそのレプリカを買っていく人も多いのだろうし、資料館側もそういった人々へのサービスのつもりで用意したものに違いないのだろうが、私の感性にはちょと合わないお土産品ではあった。
「マセマティック放浪記」
2000年1月12日
百合焼酎から世紀初年問題へ
元旦早々に、720ml瓶六本の焼酎原酒「風に吹かれて」が、製造元の鹿児島県里村の塩田酒造から送られてきた。以前にこの欄で絶品だと紹介したことのある甑島産の本格焼酎「百合」の原酒で、40度ほどの度数がある。ごくかぎられた焼酎通の人々の間では「百合」をも凌ぐ名品として愛好されている原酒だが、毎年12月に500本だけが出荷される特別限定商品なので容易には手に入らない。私はまったくの下戸だが、どうしても「風に吹かれて」を飲んでみたいという焼酎狂が周囲に何人かいるので、昨年11月初め塩田酒造の当主、塩田将史さんに直接頼んでおいたのだ。国内各地の酒屋さんから「風に吹かれて」の予約注文があいつぎ、私がお願いしたときには、もう残りがわずか六本しかない有様だった。文字通りの滑り込みセーフだったわけである。
この原酒は、720ml瓶一本2000円と生産コストを無視した価格でもあるため、当然大量には出荷できない。それでも、生産主の塩田さんは、出荷価格を高く設定するつもりもないし、それがお客に渡るとき何倍もの高値につりあがることを望んでもいない。あまりに高い値段で売る酒屋があることがわかると、以後そのお店には「風に吹かれて」の出荷をやめてしまうのだそうだ。高く売れば一時的に収益はあがるが、便乗利益を目論んだまがい物の商品が必ず登場してくる。品質の悪い製品が出回れば、せっかく近年大きく持ち直してきた「焼酎」にたいするイメージがまたダウンしてしまう。それは焼酎業界にとって自殺行為に等しいことなのだという。「風に吹かれて」を損得抜きで出荷する理由は、ほんとうの焼酎というものはこんなに素晴らしい味のものなのだということをアピールするためなのだそうだ。
昨秋、講演のために甑島を訪れたJTB「旅」編集長の楓千里さんも、塩田酒造を案内され、本格焼酎「百合」の味を堪能なさったらしい。その時、楓さんのほうから、「百合」や「風に吹かれて」をもっと広く世に紹介するための提案もあったのだそうだが、生産と品質の維持管理のほうがとても追いつかないということで話は保留になったという。
ごくシンプルなデザインの紙箱を1個取り出し、どんなものかと蓋を開けてみると、輝くような色の透明な液体が栓元までいっぱいに詰まった小瓶が現れた。小さな白い和紙製のラベルには「本格焼酎 百合 原酒・風に吹かれて」と表示されている。そして、ラベルの下のほうには「NO 1」という製造番号が記入してあった。1月1日に「NO 1」とは縁起がいいなと思いながら、最初の製品などにはやはり「NO 1」を付記するのが普通で、「NO 0」のように零の番号をふるようなことはないよなと、何気なく考えた。そして、そうこうするうちに、私の脳裏に、「そうか、今年はまだ20世紀で、来年の紀元2001年からが21世紀だといわれるのは、もしかしたらそのあたりの問題と深い関係があるんじゃないかな」という思いが湧き上がってきた。
二十一世紀のはじまりが紀元2000年からなのか、それとも紀元2001年からなのかという問題は、紀元2001年からだということで一応は決着したようであるけれども、なんとなくすっきりしない思いの人も少なくないだろう。かく言う私もその一人にほかならない。紀元2001年からが二十一世紀だと納得顔でいる人も、そう断定する理由を求められると、結局は「そう決まってるからそうなんだ!」と言いだす始末で、あやふやなことこのうえない。
「風に吹かれて」の「NO 1」という製造番号に触発され、再度この問題の根源に想いをめぐらすうちに、どうやら、零という数が誕生し世界中に普及するまでの歴史的背景や、零という数字の秘め持つ特別な抽象性、さらには十進数の桁の繰り上げ表記法などがこの問題の不明瞭さの原因であるらしいということがわかってきた。
この問題をより明快にするには、まず、紀元年号なるものはいつの時代、誰によって考え出されたものかを明らかにしておく必要があるかもしれない。幸いとでもいうべきか、その時たまたま、私は、紀元年号の起源とその発案者についての簡単な記述がある百科辞典の中にあったことを想い出した。
もう八年ほど前のことになるが、私は新曜社という出版社から「超辞苑」という風変わりな百科辞典を翻訳出版したことがある。原著はイギリスで刊行された「THE ULTIMATE IRRELEVANT ENCYCLOPAEDIA」という本で、本来のタイトルには、「究極の的はずれ百科辞典」、あるいは、「まるで無価値な雑学百科辞典」という意味が込められている。要するに、一筋縄ではいかない記事内容のびっしり詰まった「八方破れのずっこけ大辞典」というわけだったから、最初、邦訳書には、「悪魔の辞典」の向こうを張って「天使の辞典」というタイトルをつけようかと考えた。しかし、我が国には「広辞苑」という偉大な辞典があることを想い起こし、最終的にはそれをもじって「超辞苑」というタイトルにした。「常識を超えた辞典」という意味を含みにしたことは言うまでもない。
この辞典の中の「アウグストゥス・カエサル(BC 63 〜 AD 14)」の項には次ぎのような興味深い記述がなされている。
《紀元前8年のこと、アウグストゥス・カエサルは自分の名をもつ月がないことに落胆し、現在の8月に相当する月をAugustus(Augustの語源)という呼び名に改めさせた。また、自分の名をつけた月が伯父のジュリアス(JuliusすなわちJulyの語源)の名をもつ月よりも1日だけ短いことに気づいた彼は、2月を1日だけ少なくし、その分を8月に付け加えてしまったのだった。
言うまでもないが、このような一連の出来事が起こった年代がのちに「紀元8年」と呼ばれるようになるだろうなどとは、当時の人々には想像もつかないことだった。実際、紀元700年頃に至って聖者ビードがキリストの誕生を基準にして年譜をつけるという絶妙なアイディアを思いつくまで、誰もが、何年にどんな出来事が起こったかを的確に知るすべなど持ち合わせていなかったのである》
昔から欧米などで広く人々の笑いを誘ってきた絶妙なジョークのなかに、「発掘されたその壷には、BC 100年という制作年代の刻印がなされていた」とか、「貴重なその本の最後には、AD 100年にこれを著す、という記述があった」とかいったようなものがある。そんなジョークが人々をニヤリとさせることからもわかるように、紀元年号が案出されたのはなんと紀元700年頃、すなわち、いまから1300年ほど前のことなのだ。
紀元年号が考案されたおよその年代が判明したら、次ぎに確認しなければならないのは、零という数の起源と由来、さらにはその概念が一般の人々の間に定着していくまでの歴史的な背景である。こちらのほうを調べるには、数学者の吉田洋一が1939年に著した「零の発見」(岩波新書)という願ってもない名著があった。私などが生まれるずっと以前に刊行されたこの著作は、数学史や数学の根源的問題にまで触れた一般読者向きの啓蒙書であるが、いまあらためて読んでみても少しも古びた感じがしない。多少難しいところもないではないけれど、中高生の頃にこの本を読んで啓発され、やがて数学の研究者になった人も少なくはないはずだ。受験勉強をするうちに数学が嫌いになったり、数学はそれなりに得意でも、その目指すところや数学の世界の展望がまるで見えないという中高生には是非この本を薦めてみたい。
さて、いまでは小学生でも知っている零という数字だが、この数字が世界中に広まりその実用性が認められるようになるまでには相当の時間が必要だったらしい。この本に述べられているところによると、零が発見されたのがインドであることに間違いはないが、その発見がいつの時代、誰によってなされたのかは不明だという。ただ、多くの研究者は、六世紀頃のインドではすでに、零の概念を用いた、現在の記数法に近い位取り記数法がおこなわれていたのではないかと推測しているようだ。
「1」という具体性のある数に比べて、「0」という実体のない抽象的な数のほうは、昔の人々にとってその意味と機能を明瞭に認識することは難しかった。幾何学的な分野ではきわめて高度な研究が進められていた古代のエジプト、ギリシャ、ローマなどにおいても、代数学的な分野の研究はほとんど進んでいなかった。詳しい説明は省くが、「0」という数がまだ知られていなかったことが大きな理由だったろうと考えられている。もしも「0」という数がなかったとすれば、十進法を用いる場合でも、たとえば、1、2、3、4、5、6、7、8、9、T(10を表わす記号)、11、12…………19、2T(20)、21、22…………89、9T(90)、91、92、93、94、95、96、97、98、99、H(100を表わす記号)、H1(101)、H2(102)、…………HT(110)、…………9H(900)、…………9H9T(990)、991、992、993、…………998、999、M(1000を表わす記号)………のように、十、百、千と桁が上がるごとに新たな記号を付け加えていかなければならない。
億や兆単位の数にもなると、をこの記数法でそれらの数を表記するだけでも大変なことだから、この記数法で加減乗除の計算などをやろうと思ったら、天才的な頭脳をもってしても容易なことではないだろう。まして、高度な代数方程式を解くなどということは、ほとんど不可能だったに違いない。ヨーロッパなどで近代科学の基礎が築かれ、科学文明が発達したのは、零の概念をもつインド記数法が伝来したおかげだと言っても過言ではない。
ところで、いま述べたことからわかるように、「0」という便宜性の高い抽象的な数の認知されている世界ならば、数の始まりを「0」にして、0、1、2、3、4、5、………98、99、100、とカウントすることが普通になる。しかし、「0」という数がない世界の場合だと、数の始まりを「1」にして、1、2、3、4、5、…………97、98、99、H(100)、とカウントするのが自然のなりゆきというものだろう。
いま少し話をわかりやすくするために、数直線をイメージしてもらうことにしよう。そして、零という数が認知されている世界の場合には、「1」というときは0から1までの間の線分を表わし、「2」というと1から2までの線分を表わすと約束されているとする。このルールに従うと、「100」という数は99から100までの間の線分を表わすことになる。
いっぽう、零という数が認知されていない世界の場合には、「1」というと1から2までの線分を、また「2」というと2から3までの線分を表わすもの約束されているとしてみよう。このルールにのっとるとすれば、H(100)という数はH(100)からH1(101)までの間の線分を表わすことになる。もうおわかりだろうが、二十世紀を1901年初めから2001年の初め(2000年の終わり)までとするという一世紀の年数のカウント法は、この零という数が認知されていない世界のケースに相当しているのである。
「零の発見」の記述によれば、零の概念をもつインド記数法がイスラム世界を経てヨーロッパに伝わり、実用的なものとして商人をはじめとする一般の人々の間で用いられるようになったのは、十字軍遠征の時代と重なる十二世紀の頃になってからだという。それ以前にも知識としてインド記数法がヨーロッパの一部の知識人に伝わっていた可能性はあるらしいが、異教徒の奇異な考え方としてほとんど無視されていたのが実状のようである。
十二世紀後半に商人の子として生まれた数学者フィボナッチが、イタリアで十三世紀初頭に書物を著し、インド記数法とそれを用いた商業用算術を体系的に紹介したのが契機となって、ようやくヨーロッパに零の概念が普及定着することになったのだそうだ。
紀元年号が発案されたのが紀元700年頃だったとすれば、当時のヨーロッパには零の概念などむろん伝わっていなかったことになる。そうだとすれば、たとえば七世紀を701年初めから800年終わりまでと考えるのは必然の成り行きだったということになろう。現代の我々は中学生にもなると「0」という数を基点とした数直線の概念を教わるから、紀元0年を基準にして「BC 100年」とか「AD 100年」とかいった年号表現を容易に受け入れることができるけれども、零の概念をもたなかった時代の人々は、どうしても「1」を基点にせざるをえなかったと推察される。二十一世紀が2001年初めからとされるのは、そんなカウント法の名残であると考えることもできるのではなかろうか。
以上のことは、あくまでも私がたまたま想像してみた個人的な見解であって、その考えれを正しいと保証してくれるような歴史的根拠などはとくにない。「風に吹かれて」の製造番号「NO 1」が発端となってあれこれと気ままに想いをめぐらすうちに、私の紀元2000年の元日はいつのまにか終わってしまった。なんとも厄介な2000年問題(?)に遭遇したものである。
「マセマティック放浪記」
2000年1月19日
山井教雄さんのアニメに仰天!
山井教雄さんのアニメコラムを何気なく眺めているうちに、待てよ、この女性の絵、以前にどっかで見たことがあるなあ……と思わずマウスをもつ手を止めた。一時代前の身なりと髪型をした一婦人がワープロを操作し、「HAPPY NEW YEAR 1900」と赤い文字を打ち出す、実によくできたアニメーションなのだが、もともとはエッ